南祖法師尊像の来た道を探る 是川福善寺の虚空蔵菩薩像

江戸時代中期に活躍された

津要玄梁(しんようげんりょう)

という禅僧がいらっしゃいます。

 

当山には十和田湖伝説の

南祖坊(なんそのぼう)の御像である

南祖法師尊像(なんそほっしそんぞう)が

観音堂にお祀りされますが

この御像は津要和尚が

手がけられたものではないかと

拙僧(副住職)は考えております。

 

その可能性に

初めて気がついたのは

白銀の清水観音(糠部第6番札所)

について調べていた時でした。

 

こちらの清水観音堂は

かつて当山が別当をつとめたお堂で

本尊の十一面観音像は

津要(しんよう)和尚が

作仏されたものです。

 

この十一面観音の写真が

滝尻善英氏の著作に

掲載されており

その御尊容に

当山に祀られる南祖法師尊像の

御尊容と類似する点が

多く見られたため

南祖法師尊像は

津要仏(津要が作仏された仏像の意)

ではないかと考えるように至ったのです。

 

それ以来

津要仏について

個人的に調査をしております。

 

【これまでの“仏像調査”の記事】

https://fugenin643.com/blog/ふらりと港町へ仏像調査/

https://fugenin643.com/blog/8044/

 

津要(しんよう)和尚は

延宝8年(1680)に

八戸市港町で生まれます。

 

松館大慈寺

盛岡の青龍山 祇陀寺(ぎだじ)

二戸浄法寺の天台寺で

修行された後に

階上町寺下を拠点にして

布教活動をされたそうです。

 

津要和尚は晩年

右手が不自由になり

彫刻等を左手でなされております。

 

色々と踏まえると

当山に祀られる南祖法師尊像は

津要和尚が右手を不自由にされた後に

彫られた御像である可能性が

高いように思います。

 

天聖寺8世の

則誉守西(そくよしゅさい)上人の

『奥州南部糠部順礼次第』(寛保3年(1743))

では第6番札所である清水観音について

内御堂二正観音安置

と記されており

現在祀られる十一面観音ではなく

正(聖)観音が

祀られていたことが分かります。

 

この正(聖)観音像は

盗まれたそうです。

 

そこで津要和尚が

十一面観音を造立し

観音堂を再興したのだそうです。

 

則誉守西上人の「順礼」が行われた

寛保3年(1743)は

津要和尚が亡くなられる2年前で

まさに晩年にあたります。

 

ですので

十一面観音像は

津要和尚晩年の御像といえます。

 

滝尻善英氏の著作に掲載される

この十一面観音像の写真は

拝見する限り

当山の南祖法師尊像の尊容と

通じているように思います。

 

また

津要和尚の御像について

調べていくと

津要仏に見られる独特の特徴が

南祖法師尊像にも見られますし

さらにそれらが左手で

彫られたものだとすると

かなり説得力を持つような

特徴を指摘することが出来ます。

 

前置きが長くなりましたが

津要仏である

虚空蔵菩薩像が祀られる

是川の福善寺を訪ねました。

 

福善寺は当山と同宗であり

いつも大変お世話になっている

御寺院様です。

 

ご住職にご案内頂き

仏像を拝見させて頂きました。

 

▼津要御作・虚空蔵菩薩(福善寺)

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津要和尚御作の御像のお顔は

鼻や眼

鼻と眉のラインのとり方が

とても特徴的です。

 

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写真では分かりにくいですが

津要和尚独特の彫目(ほりめ)が

全体に見られます。

 

彫刻されている文字ですが

中央には

南無能満諸願虚空蔵菩薩

その右方に階上山

それとは対に青龍寺

と刻まれております。

 

彫目について

これだけでは

分かりにくいと思いますので

すこし前に伺わせて頂いた

港町の十王院にお祀りされる

地蔵菩薩立像の写真を

以下に添付いたします▼

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独特の彫目が

ある程度分かると思います。

 

こういった彫目が

福善寺に祀られる

虚空蔵菩薩像にも見られました。

 

比較対象として紹介させて頂いた

十王院の津要仏・地蔵菩薩立像の

全体像はこちらです

(高さは2メートル近くあります)▼

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当山に祀られる

南祖法師尊像がコチラです▼

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背面に見られる

彫目が分かるでしょうか?

 

津要仏に見られる特徴である

彫目が全身に見られます。

 

彫目がやや大きいのは

左手で彫られたものだと考えると

納得出来るように思います。

 

顔に見られる特徴も

津要仏の特徴を

指摘出来るかと思います。

 

今回は

津要和尚の

仏像に見られる特徴から

南祖法師尊像の来た道の

可能性について検討してみました。

 

他の視点からの検討も

有意義かと思いますので

また改めて投稿させて頂きます。

青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)⑥

青森県田子町の

釜渕家出身である高僧

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

は生没年代の詳細は不明ですが

1657年頃に生まれ

元文4年(1739)82歳頃に

入寂したとされます。

 

学秀は千体仏の作仏を

三度成し遂げられており

それらの時期は以下のように

第1期〜3期という形で

表現されているようです。

 


 

第1期 地蔵菩薩

(1600年代末〜1700年代初頭)

(学秀 50歳頃)

飢饉物故者供養のため

 

第2期 観音菩薩

(正徳2年(1712)頃〜)

(学秀 60歳頃〜)

九戸戦争戦没者のため

 

第3期 観音菩薩

(享保7年(1722)〜元文4年(1739))

(学秀 70歳頃〜入寂)

生まれである釜渕家一族の供養のため

 


 

話があちこち飛ぶかと思いますが

仏道における「三千」という数字や

「千」という数字について

触れてみたいと思います。

 

三世三千仏(さんぜさんぜんぶつ)

という言葉があります。

 

三世という言葉は

掘り下げられて様々な意味があり

さらには三毒(さんどく)といった

仏道の根本的なキーワードと絡め

説かれることが多いのですが

ここでは基本的な意味として

過去・現在・未来のことと

捉えて頂いて結構です。

 

三世三千仏とは

それぞれに千仏が

いらっしゃるという

意味だとお考え下さい。

 

ここでいう千とは

個数の数字ではなく

象徴的意味を帯びた聖数です。

 

この三千仏に祈りを捧げる法要を

仏名会(ぶつみょうえ)といい

日本では光仁天皇代の

宝亀5年(774)12月に

初めて行われております。

 

意図してのことか否かを

知るすべはありませんが

結果として

学秀の後半生におけるお歩みは

三世三千仏への尊い祈りを

作仏を以て遂げられたとも

捉えられるかと思います。

 

学秀は禅僧でもあるので

その観点から考えてみると

禅宗でもよく用いられる

陀羅尼(だらに、梵語のお経のこと)に

大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)

または大悲咒(だいひしゅ)

と通称される“お経”があります。

 

大悲心陀羅尼あるいは大悲咒は

千手観音の陀羅尼でもあります。

 

日本最古の観音霊場である

西国(さいごく)三十三観音霊場

のうち千手観音が本尊である

札所は33所のうち

実に15所(十一面千手1ケ寺も含む)

にのぼります。

 

西国三十三観音霊場の

札所本尊としては

如意輪観音が6ケ寺

十一面観音が6ケ寺

聖観音が3ケ寺

准胝観音が1ケ寺

不空羂索観音が1ケ寺

馬頭観音が1ケ寺です。

 

開創1300年とされる

西国三十三観音霊場において

千手観音を本尊とする札所が

最も多いことからも

古くから信仰されてきた

観音菩薩であることが

分かるかと思います。

 

日本最古の三十三観音霊場である

西国霊場の起源は

当山の本山である長谷寺を

開山された徳道(とくどう)上人が

関わっております。

 

養老2年(718)に

徳道(とくどう)上人が

病床において見られた夢で

閻魔大王より三十三の宝印を授かります。

 

そして衆生救済のために

観音霊場を作るよう

閻魔大王に告げられたため

宝印を納める三十三所を定められ

西国三十三観音霊場が開創された

と伝えられます。

 

しかし

徳道上人の時代には

機運が熟さなかったようで

授かった三十三の宝印を

現在の兵庫県にある

中山寺に納めることになります。

 

中山寺は真言宗中山寺派の本山で

聖徳太子創建とされ

勝鬘夫人(しょうまんぶにん)の

お姿をうつして造ったと伝えられる

十一面観音を本尊とします。

 

中山寺は西国第一番札所です。

 

徳道上人が

中山寺に三十三の宝印を納め

それから約270年経った後に

花山法皇により

西国三十三観音霊場は

復興されたとされます。

 

花山法皇は

播磨(現在の兵庫県)にある

書寫山(しょしゃざん)の

性空(しょうくう)上人とご縁がある方です。

 

書寫山というと

“最古の十和田湖伝説”が収録されている

『三国伝記』(さんごくでんき)では

難蔵(南祖坊(なんそのぼう)のこと)は

書寫山の法華持経者とされます。

 

南祖坊は十和田湖伝説に登場する僧侶で

当山にて修行したと伝えられ

全国練行の末に十和田湖に入定し

青龍大権現という龍神として

十和田湖の主になったと伝えられます。

 

西国三十三観音霊場に続いて

坂東(ばんどう)三十三観音

秩父三十三観音(のち三十四観音)の

霊場が成立しますが

それに続いて成立した地方的札所が

糠部三十三観音だそうです。

 

糠部三十三観音霊場は

永正9年(1512)9月に

観光上人により創始されました。

 

観光上人の札番(札所の番号)は

現行のものとは異なりまして

現在の札番は

八戸市の天聖寺(てんしょうじ)第8世

則誉守西(そくよしゅさい)上人が

寛保3年(1743)に定められたものです。

 

当山の七崎観音は第15番札所で

田子の釜渕観音は第27番札所になります。

 

この27番札所の釜渕観音堂にて

学秀は出身である釜渕家のご供養のため

最後の千体仏を完成させました。

 

西国三十三観音霊場のルーツである

当山の本山である奈良県桜井市の

長谷寺の創建は

朱鳥元(686)年に

修行法師の道明上人が

銅板法華説相図(ほっけせっそうず)

を安置して祀られ開創されます。

 

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この法華説草図には

法華経

見宝塔品(けんほうとうぼん)

の場面が描かれております。

 

平泉の中尊寺金堂は

この見宝塔品に基づいて

建立されたといわれます。

 

補足になりますが

江戸時代初期までは

中尊寺には真言寺院も構えられており

永福寺住職が中尊寺から

迎えられたこともあります。

 

見宝塔品について

以下の引用文を参考に

大意を見てみましょう。

 


 

釈迦牟尼(しゃかむに)が

霊鷲山(りょうじゅせん)で

大比丘尼衆一万二千

菩薩八万のために

法華経を説かれると

会座(えざ)に地中より

高さ五百由旬

縦横二百由旬の七宝塔が

湧出(ゆうしゅつ)し

空中に住在するところあり

時に宝塔中より

多宝仏(たほうぶつ)が大音声を発し

釈尊説くところの法華経を讃嘆し

それが真実なることを証する。

 

やがて釈尊

扉をひらいて

二仏宝塔中に

併座されるといふのが

この経文の大旨である。

 

(安田與重郎、昭和40年

『大和長谷寺』(淡交社)p.11。)

 


 

このような象徴的場面が

法華説相図には

施されております。

 

またこの法華説相図は

金銅千体仏とも

金銅釈迦仏一千体ともいわれ

「千体仏」が施されております。

 

他にも「千」や「三千」に

関連して述べられることは

沢山あるかと思いますが

様々な意味合いや伝統がある

ということが少しでも

伝えることは出来たでしょうか。

 

こういった観点から

学秀千体仏に

アプローチすることは

有意義なことと思われます。

 

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彼岸と南祖坊

春彼岸(はるひがん)を

迎えようとしております。

 

当山は

十和田湖南祖坊(なんそのぼう)伝説

ゆかりの寺院ですが

春と秋の彼岸の時季に

南祖坊が来臨するという

いわれがございます。

 

江戸期になると

当山本坊の盛岡永福寺は

盛岡に建立されますが

盛岡においても

彼岸に南祖坊が来臨するという

慣習は引き継がれていたことが

近世の史料から

読み取ることが出来ます。

 

※関連記事↓

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相⑨/

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相⑩/

 

行事や儀式というものは

そこに通わされている「意味合い」や

「物語」ともいえるような筋書きが

現在において「体現」「再現」される

とても大切なものといえます。

 

当山は古い歴史のみならず

様々な伝承に彩られた古刹なので

それらを後世に伝える意味においても

様々な「意味合い」「物語」に

触れて頂けるよう

つとめることが必要だと

最近は感じております。

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古代の祈りの痕跡とお寺の起源

錫杖(しゃくじょう)状鉄製品

といわれる遺物が

当地の上七崎での

遺跡調査(平成6年(1994)実施)で

発掘されております。

 

八戸市の

遺跡台帳番号03268

上七崎遺跡

『新編八戸市史』によると

平安以前のものとされますが

出土遺物は概ね

10世紀後半のものとしております。

 

錫杖(しゃくじょう)は

現在でも修法や儀式で用いられる

法具(ほうぐ)です。

 

同資料によれば

宗教儀礼等に用いられていたと

考えられる錫杖状鉄製品は

北東北を中心に

発見されていたものの

用途は不明だったようで

上七崎遺跡出土の錫杖状鉄製品が

完存品で発見されたことにより

現在用いられている錫杖のように

用いることで音が発せられることが

初めて明らかになったそうです。

 

9世紀頃〜10世紀には

七崎の地において法具が

用いられ祈りが捧げられていた

ことを伝えているといえるでしょう。

 

また当地の滝谷(たきや)地区の

蛇ケ沢(じゃがさわ)遺跡では

9世紀後半から10世紀初頭の

竪穴式住居跡3棟が見つかっており

そこでカマドにまつわる

宗教儀礼があったものと

想定されているそうです。

 

また同遺跡では

鋤(すき)・鍬(くわ)先が

3枚重なった状態で納められており

「当時貴重品であったと思われる

鉄製品をどのような理由で

納めたのか

この集落を考える上で

注目される事例」だそうです。

 

※遺跡関係の記述は

全て『新編八戸市史 』の

考古学資料編と地誌編を

参考にしております。

 

それぞれの遺跡は

古代の祈りの痕跡を伝えます。

 

当山は

開創は圓鏡上人

(延暦弘仁年間(8C下旬〜9C初頭))

開基(開山)は行海上人

(承安元年(1171))

中興開山は快傅上人

(享保年間(1716〜1736))

とされまして

ルーツは平安初期にさかのぼります。

 

当地の住所にも残る

「永福寺」という寺号は

甲州南部郷より遷座され

三戸沖田面に建立された

新羅堂の供養を

鎌倉の二階堂永福寺の僧侶

宥玄(ゆうげん)が勤めたことに

由来するとされます。

 

鎌倉では

永福寺を「ようふくじ」と

読んでおります。

 

鎌倉時代の歴史書(とされる)

『吾妻鑑』(あずまかがみ)

宝治2年(1248)2月5日条には

文治5年(1189)12月9日

永福寺事始あり

とあります。

 

ついでですが

鎌倉は中世において

密教の一大拠点でした。

 

さらに

鎌倉ついででいえば

鎌倉の長谷寺は

当山本山である

奈良の長谷寺と

深く関わるお寺です。

 

鶴岡八幡宮寺

勝長寿院

二階堂永福寺

の三学山は鎌倉の密教を

考える上で重要な寺院といえます。

 

二階堂永福寺は

平泉の大長寿院を模して

建立されたとされますが

現在は廃寺となっております。

 

諸説ありますが

“鎌倉三学山”の1つである

二階堂永福寺の僧侶である

宥玄が新羅堂供養を勤めた

「供養料」として

沖田面村に一宇お堂が建立され

宥玄をそのお堂の住職として

永福寺と号したそうです。

 

また

三戸沖田面村と五戸七崎村を賜ったと

近世の史料は伝えております。

 

この近世の史料とは

『たけたからくり』(文政6年(1823))

という文書でして

幅広く貴重な情報を今に伝えるものです。

 

同史料では

七崎(ならさき)に古くから

観音堂があったことにも

触れております。

 

また観音堂は

宗旨も不定で寺号もなく

こちらの「住職」ともなった

宥玄が永福寺の

僧侶であったことから

「時の人挙げて」永福寺と

呼ぶようになったとも

記されております。

 

史料の伝える時期を踏まえると

この二階堂永福寺・宥玄の時期は

行海上人開基の少し後となります。

 

この行海上人は

現在の七崎神社の地に

七つ星(北斗七星または七曜)

の形になぞらえて

杉を植えたとされます。

 

現在の七崎神社にそびえる

3本の大杉(樹齢800〜1000年)は

その時のものだといわれ

行海上人の時代の頃と重なります。

 

当地には

時の天皇の怒りに触れ

平安初期に

当地へおいでになられた

藤原諸江(もろえ)卿が

9本の杉を植えたとの伝説もあり

現在の七崎神社の地の

大杉はその時のものという

いわれもあります。

 

当地に見られる

久保杉(くぼすぎ)という名字は

「9本の杉」から来ており

藤原氏の流れをひいていると

伝えられております。

 

郷土史研究などでは永福寺は

「七崎から三戸に移った」と

よく説明されますが

「移った」という表現は

当てはまらないように思いますし

かなり違和感を覚えます。

 

古い時代の有力寺社は

所領を当地以外にも

持つ場合が多く見られるので

そういったことも

踏まえる必要があるかと思います。

 

永福寺は

「永福寺」という寺号が

用いられる以前に遡及して

その縁起が編まれてゆきます。

 

「永福寺縁起」として

総本山長谷寺とゆかりのある

坂上田村麻呂将軍が

十一面観音を本尊として

奥州「田村の里」七崎に

お寺を建立したという

縁起も伝えられております。

 

『長谷寺験記』(はせでらげんき)

(建保7年(1219)頃までに成立)

という鎌倉期の霊験記の

田村将軍が奥州一国に

十一面観音を本尊として

6ケ所にお寺を建立した話が

同書上巻第5話に収録されており

これが田村将軍創建伝説の

根拠となっているかもしれません。

 

今回とりあげた

『たけたからくり』は

文政6年(1823)に書かれた

近世の史料なので

当時の盛岡における

永福寺縁起がどのように

語られていたのかが

垣間見られるものですし

七崎の地が観音様と

強く結び付けられて

意識されていたであろうことが

よく伝わってまいります。

 

当山開基の行海上人は廻国僧で

当地の大蛇を改心させたことで

地域の住民から

当地に留まるよう

懇願されたため

草庵が結ばれ

普賢院が開基されたと

伝えられます。

 

十和田湖伝説の

南祖坊(なんそのぼう)は

行海上人の弟子であるとも

伝えられております。

 

当山開基の時代を

さらにさかのぼり

弘仁初期頃(810頃)

圓鏡上人により

当山は開創されたとされます。

 

「弘仁初期頃」となっているのは

拙僧(副住職)の見解では

『先師過去帳』に

当山開創 圓鏡上人が

弘仁7年(817)5月15日に御遷化

されていることに

由来していると思います。

 

弘仁年間は810〜824年なので

『先師過去帳』に記される

開創上人の没年を踏まえて

「弘仁初期頃」としているのだと

考えられます。

 

開創や開基の時代には

当地において

「祈り」が捧げられていた

可能性が高いことを伝える

上七崎遺跡と蛇ケ沢遺跡。

 

他の遺跡でいえば

夏間木地区の遺跡は

浅水川流域の数少ない

奈良時代の集落であることが

確認されておりますし

喉平(のどひら)遺跡には

縄文時代後期の小規模集落が

あったと見られており

当地にはその時代には

集落があったことが伺えますし

祭祀に用いられたと見られる

土偶も出土しております。

 

当山草創期に思いをはせるにあたり

当地の各遺跡が伝えることに

耳をしっかりと傾けたいと思います。

 

【関連記事】

▼南祖坊伝説の諸相⑤

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相⑤%E3%80%80長谷寺と南祖坊%E3%80%80その参/

 

▼錫杖状鉄製品

(『新編八戸市史 地誌編』p.576。)

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青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)⑤

青森県田子町の

釜渕家出身である高僧

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

は出生年の詳細は不明ですが

1657年頃に生まれ

元文4年(1739)82歳頃に

入寂したとされます。

 

名久井の名刹・法光寺に入門し

その後の足取りは不明ですが

宝永4年(1707)には

九戸の長興寺7世として

奉職していたことが

分かっております。

 

1657年に生まれたと仮定すると

宝永4年(1707)には

学秀は御年50歳ということになります。

 

法光寺入門後

50歳に至るまで

どのように過ごされたかについて

郷土史研究をされている方の

一説では永平寺に

行っていたのではないかと

いわれてきたようです。

 

たまたま見ていた

『新編八戸市史』(近世資料編Ⅲ)

所収の翻刻資料

「松館大慈寺歴代住職の書上」

(原本は天明8年(1788)の史料)

では学秀について

前総持

当寺六世奇峯学秀大和尚

元文四己未二月七日

と記されておりました。

 

「前総持」の部分は

住職になる以前に

(曹洞宗)本山である

横浜市鶴見の

総持寺(そうじじ)に

登嶺していたことを示すものです。

 

もう一方の本山である永平寺に

登嶺していたのであれば

「前永平」と記されます。

 

ということなので

学秀は総持寺へ

行っていたことになります。

 

総持寺に行っていたことは

間違いないようですが

当時の僧侶の修行や研鑽の動向や

学秀が彫られた仏像の

ラインナップを踏まえつつ

想像力を膨らませて

学秀の“足跡”を思い描いてみると

方々の学山で学ばれたり

霊場霊跡に赴かれたりしたと

考えても良いと思われます。

 

当時の僧侶の動向を探る一例として

当山の本山である

奈良県桜井市の長谷寺を

とりあげてみると長谷寺は

学山 豊山(がくさん ぶざん)といわれ

今で言う所の「宗派」の垣根を超えて

非常に多くの僧侶が学ばれた

“大学”のような御山でした。

 

そういった学山を

各所訪ねて研鑽を積むことが

明治時代になるまでは

“違和感のないこと”だったのです。

 

参考までにですが

学秀と同時代を生き

作仏も多くされた

港町の若松屋出身の僧侶である

津要玄梁(しんようげんりょう)は

松館大慈寺

盛岡の青龍山 祇陀寺(ぎだじ)

二戸浄法寺の天台寺で

修行された後に

階上町寺下を拠点にして

布教活動をされていらっしゃいます。

 

寺下の五重塔跡近くの

津要和尚墓誌には

延享ニ年(1745)乙丑

前永平(永平寺に登嶺していたの意)

祇陀先住(祇陀寺の僧侶であったの意)

石橋玄梁大和尚禅師

大閏十二月二十五日

と記されております。

 

学秀仏のラインナップを見てみると

聖観音(しょうかんのん)

十一面観音(じゅういちめんかんのん)

千手観音(せんじゅかんのん)

地蔵菩薩(じぞうぼさつ)

弥勒菩薩(みろくぼさつ)

勢至菩薩(せいしぼさつ)

五智如来(ごちにょらい)

大日如来(だいにちにょらい)

薬師如来(やくしにょらい)

阿弥陀如来(あみだにょらい)

釈迦如来(しゃかにょらい)

不動明王(ふどうみょうおう)

韋駄天(いだてん)

牛頭天王(ごずてんのう)

閻魔大王(えんまだいおう)

大黒天(だいこくてん)

恵比寿天(えびすてん)

十王(じゅうおう)

達磨大師(だるまだいし)

と実に幅広い尊格の

仏像と御像が

作仏されております。

 

尊格それぞれは

本質的には通じておりますが

各尊の司るみ教えやお諭しに

個性もあります。

 

尊格は主に

如来(にょらい)

明王(みょうおう)

菩薩(ぼさつ)

天(てん)

に分けられます。

 

これらは個別に

独立しているのでは

ありません。

 

例えば

弘法大師空海が請来した

曼荼羅を現図曼荼羅

といますが

曼荼羅中央に描かれる

大日如来という尊格について

見てみましょう。

 

現図曼荼羅は

金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)

胎蔵曼荼羅(たいぞうまんだら)

の一対になっており

金剛界は智慧

胎蔵界は慈悲

であるとも言われます。

 

学秀最古の仏像として

葛巻の宝積寺のために彫った

五智如来(ごちにょらい)

と称されている仏像が

八戸市の上野に

お祀りされております。

 

現在は1体ですが

もともとは5体であったと

考えられているそうです。

 

この五智如来とは

一般的に金剛界五仏といわれる

金剛界曼荼羅中央の

五尊を指します。

 

阿閦如来(あしゅくにょらい)

宝生如来(ほうしょうにょらい)

阿弥陀如来(あみだにょらい)

不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)

大日如来(だいにちにょらい)

の五仏を五智如来といいます。

 

五智(ごち)とは

五つの智慧のことで

先の金剛界五仏それぞれは

大円鏡智(だいえんきょうち)

平等性智(びょうどうしょうち)

妙観察智(みょうかんざっち)

成所作智(じょうそさち)

法界体性智(ほうかいたいしょうち)

の尊格です。

 

正確には五智のうち

前4つを四智(しち)

その総体を法界体性智といい

四智と法界体性智を合わせて

五智(ごち)といいます。

 

現在各流派の御詠歌(ごえいか)で

用いられている鈴(れい)の仕様は

もともとは

金剛流(こんごうりゅう)という

高野山の流派のものでして

この鈴(れい)の頭

(鈴頂(れいちょう))を

五智如来といいます。

 

▼御詠歌の鈴(れい)

IMG_8761

▼五智如来(ごちにょらい)

IMG_8760

 

鈴頂の五智如来は

蓮台(れんだい)の上に

五鈷(ごこ)という

五つの爪が載せられた形

となっており

これは先の金剛界五仏の

象徴でもあります。

 

蓮台の前に取り付けられている

梵字はバンという字で

(金剛界)大日如来を

表す種字(しゅじ)です。

 

金剛界五仏は

全ての尊格“各グループ”である

五部(ごぶ)を“代表”しており

金剛部(こんごうぶ)

宝生部(ほうしょうぶ)

蓮華部(れんげぶ)

羯磨部(かつまぶ)

仏部(ぶつぶ)

と各部のことをいいます。

 

これら五部の総体

(つまり全ての尊格の代表)

とされるのが大日如来です。

 

その大日如来の

教化(きょうけ)のお姿の1つが

不動明王とされます。

 

専門用語では

教令輪身(きょうりょうりんじん)

といいます。

 

要するに“本質的に”

大日如来と不動明王は

“同体”なのです。

 

以上のような諸尊の関係も

含めて「曼荼羅思想」と

ここでは言わせて頂くと

かつて曼荼羅思想は

僧侶や修験者

あるいは一般的に

現在より膾炙(かいしゃ)された

ものだったようです。

 

曼荼羅の考え方は

各尊格や仏像を捉える上で

必要不可欠な視点です。

 

学秀仏のラインナップを

ざっと見渡しても

「曼荼羅思想」に

大いに通じていると

いうことが出来るかと思います。

 

学秀は千体仏の作仏を

三度成し遂げた方です。

 

三度の作仏は大きく分けて

第1期〜3期という形で

表現されているそうです。


 

第1期 地蔵菩薩

(1600年代末〜1700年代初頭)

(学秀 50歳頃)

 

第2期 観音菩薩

(正徳2年(1712)頃〜)

(学秀 60歳頃〜)

 

第3期 観音菩薩

(享保7年(1722)〜元文4年(1739))

(学秀 70歳頃〜入寂)

 


第1期の千体仏は

飢饉で亡くなられた多くの方の

ご供養のために。

 

第2期の千体は

九戸の乱の戦没者供養のために。

 

第3期の千体は

隠居後に故郷である田子において

出身である釜渕家一族の供養のために。

 

単純計算してみると

観音菩薩を二千体以上

次いで地蔵菩薩を千体以上

作仏していることになります。

 

これらの仏像含め

学秀は三千数百体は作仏しただろうと

いわれているようです。

 

仏道において

「三千」という数は

伝統的な意味のあるもので

このことと関連付けて

学秀の三千仏を考察してみることは

有意義なことかと思います。

 

次回はこの点について

触れてみたいと思います。

 

▼五智如来が祀られるお堂(八戸市上野)

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▼金剛界曼荼羅

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▼胎蔵曼荼羅

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稀代の古刹 七崎観音⑪

当地はかつて

七崎(ならさき)と

呼ばれておりました。

 

この七崎には

かつて当山の前身である

永福寺がありました。

 

当山は永福寺時代より

七崎観音の別当でもあります。

 

「永福寺」と一言でいっても

その実態は中々複雑かつ複合的でして

現在の当山ような形態とは異なります。

 

昭和期の永福寺住職である

熊谷精海(せいかい)師は

永福寺は江戸時代になり

本坊が盛岡に構えられ

42世住職・清珊(せいさん)の代に

七崎永福寺は普賢院になった

とお話されていたそうで

その伝を当山では踏まえております。

 

今回は

「永福寺」というお寺の名前である

寺号(じごう)について

見ていきたいと思います。

 

当地の住所にも残る

「永福寺」という寺号は

甲州南部郷より遷座され

三戸沖田面に建立された

新羅堂の供養を

鎌倉の二階堂永福寺の僧侶

宥玄(ゆうげん)が勤めたことに

由来するとされます。

 

鎌倉では

永福寺を「ようふくじ」と

読んでおります。

 

鎌倉時代の歴史書(とされる)

『吾妻鑑』(あずまかがみ)

宝治2年(1248)2月5日条には

文治5年(1189)12月9日

永福寺事始あり

とあります。

 

鎌倉といえば長谷寺を

連想される方が多いと思いますし

東北においてですと

長谷寺と聞くと

鎌倉を連想される方は

とても多いかと思います。

 

奈良と鎌倉の長谷寺は

“姉妹”と言わることがある程

切っても切れぬ

深いご縁で結ばれたお寺です。

 

鎌倉の永福寺に触れる前に

長谷寺について

触れさせて頂きます。

 

奈良の長谷寺は正式には

豊山 神楽院 長谷寺といい

朱鳥元(686)年に

修行法師である道明上人が

銅板法華説相図(ほっけせっそうず)

を安置して祀られ

開創されました。

 

その後約40年後に

徳道上人が主導されて

十一面観音像

神亀6年(729)に完成し

行基(ぎょうき)を導師として

天平5年(733)に開眼されます。

 

この徳道上人が

長谷寺を開山されました。

 

さて

鎌倉との関係ですが

この十一面観音が

2つの長谷寺をつなぐ

キーポイントになります。

 

奈良の長谷寺の十一面観音像を

彫ったものと同じクスノキ

(十一面観音像との説もあります)

を海に解き放ち

流れついた地に

衆生済度の願いを託して

十一面観音を本尊としたお寺を

造立しようとしたそうです。

 

海に解き放たれた

クスノキ(あるいは十一面観音像)が

流れ着いた先が鎌倉で

そこに長谷寺が建立され

行基により開眼された

というのが奈良と鎌倉の

2つの長谷寺をつなぐ伝説です。

 

鎌倉に話を移しまして

鎌倉の永福寺は源頼朝が

奥州での戦没者供養も兼ね

平泉の大長寿院(二階大堂)を模して

建立されたとされますが

現在は廃寺となっております。

 

『たけたからくり』(文政6年(1823))

によると鎌倉の永福寺の僧侶である

宥玄が新羅堂供養を勤めた

「供養料」として

沖田面村に一宇お堂が建立され

宥玄をそのお堂の住職として

永福寺と号したそうです。

 

また宥玄は

三戸沖田面村と

五戸七崎村を賜ったと

記されております。

 

同史料では

七崎(ならさき)には

往古より観音堂があり

宗旨も不定で寺号もなく

こちらの「住職」ともなった

宥玄が永福寺の

僧侶であったことから

「時の人挙げて」永福寺と

呼ぶようになったとも

記されております。

 

この『たけたからくり』は

江戸後期(文政6年(1823))の

史料なので

その当時において

永福寺縁起がどのように

整えられ編まれていたのかが

よく伺えるように思います。

 

史料の伝える時期を踏まえると

この二階堂永福寺・宥玄の時期は

行海上人開基の少し後となります。

 

郷土史研究などでは永福寺は

「七崎から三戸に移った」と

よく説明されますが

『たけたからくり』や

当山の過去帳を踏まえると

「移った」という表現は

当てはまらないように思います。

 

また

同史料でいうところの

観音堂はおそらく七崎観音の

ことを指していると思いますが

永福寺縁起が七崎観音と

強く結び付けられていることも

伺えるかと思います。

 

それだけ

七崎観音は重要な

尊格であったということを

意味するといえます。

 

今見てきたように永福寺は

「永福寺」という寺号が

用いられる以前に遡及して

その由緒や縁起が

編まれていくことになります。

 

「永福寺縁起」として

総本山長谷寺とゆかりのある

坂上田村麻呂将軍が

十一面観音を本尊として

七崎にお寺を建立したという

縁起も伝えられております。

 

この縁起は

『長谷寺験記』(はせでらげんき)

(建保7年(1219)頃までに成立)

という鎌倉期の霊験記の

上巻第5話として収録される

田村将軍が奥州一国に

十一面観音を本尊として

6ケ所にお寺を建立した話が

根拠となっていると考えられます。

 

永福寺の縁起や創建伝説は

なかなか豊富でして

七崎観音は

実際には聖観音(しょうかんのん)

という観音様なのですが

「七崎観音は田村将軍の十一面観音」

との縁起もあったりします。

 

念のために触れると

縁起といわれるものは

歴史とは似て非なるもので

様々な意味合いがあることを

しっかりと踏まえて

紐解くべきものです。

 

当山開基の行海上人は廻国僧で

当地の大蛇を改心させたことで

地域の住民から当地に留まるよう

懇願されたため草庵が結ばれ

普賢院を開基したと伝えられます。

 

行海上人は

現在の七崎神社の地に

七つ星(北斗七星)になぞらえ

杉を植えた上人でもあります。

 

十和田湖伝説の

南祖坊(なんそのぼう)は

行海上人の弟子であるとも

伝えられております。

 

当山開基の時代を

さらにさかのぼり

弘仁初期頃(810頃)

圓鏡上人により

当山は開創されたとされます。

 

「弘仁初期頃」というのは

『先師過去帳』に

当山開創 圓鏡上人が

弘仁7年(817)5月15日に御遷化

されていることに由来します。

 

こういった

“永福寺以前”の由緒も

永福寺の由緒として編入され

七崎は永福寺発祥の地となり

とても重要な意味を帯びたわけです。

 

永福寺は江戸時代前期に

平泉の中尊寺から住職が

おいでになられたことがあります。

 

中尊寺は今でこそ天台宗ですが

昔は真言寺院も多くあり

今とは異なる“宗派感覚”や

“宗派交流”があったのです。

 

そういったことも踏まえると

これまで以上にスケールの大きな

歴史が七崎の地を起点としながら

お伝えできるように感じます。

 

当地や周辺の遺跡からも

この地域には縄文時代から

集落があったことや

何かしらの儀礼に用いられたであろう

9世紀〜10世紀頃の古い

祭具(錫杖(しゃくじょう)状鉄製品)が

発掘されております。

 

平泉や鎌倉とも絡めることが出来ますし

古い信仰の歴史を持つ諸観音

地域の諸伝承

十和田湖南祖坊伝説

さらには大日坊との関係や

会津斗南藩(となみはん)のこと

などなど後世に伝えるべきことは

とても多いように感じております。

 

それらの探求を続けることや

後世に託すために形にすることに

情熱を以て取り組みたいとの思いを

常々持っております。

 

 

稀代の古刹と銘打ち

七崎観音を主役として

当山の歴史について

これまで触れてまいりました。

 

当ブログは拙僧(副住職)の

「研究メモ」も兼ねて

投稿することがあるので

読みにくい部分が多かったかと思いますが

少しでもお伝え出来たものが

あったのであれば幸いです。

 

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【観音堂内陣内殿】

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手前の大きな浄鏡の右側の

観音菩薩立像は

とても古い仏像です。

 

反対側の端正なお姿をした観音菩薩立像は

地元の篤信者である中村元吉氏より

ご奉納頂いたものです。

 

中央奥の厨子(ずし)は

三重になっており

七崎観音(聖観音)が

お祀りされております。

 


【七崎観音(聖観音)】

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第29代藩主

南部重信公により

貞享4年(1687)4月に

奉納されたものです。

 

身の丈約20センチの

金銅仏(こんどうぶつ)で

とても美しいお姿の御仏像です。

 

ご奉納された当時は

御前立(おまえだち)

としてお祀りされていたそうです。

青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)④

現在の青森県田子町の

釜渕家出身の高僧

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

は千体仏作仏を三度成満し

その他にも数百体の仏像を

彫られたとされます。

 

その多くは喪失してしまい

現在確認されている

学秀仏(がくしゅうぶつ)は80体程

だそうです。

 

当山には学秀御作の

千手観音がお祀りされていることが

判明したことを受け

当山関連の歴史を踏まえながら

当ブログにて

学秀との関係について

投稿を重ねております。

 

前回は

学秀仏の千手観音が

祀られていたであろう

千手観音堂について触れ

さらに学秀仏が

当山に請来されることになった

キーパーソンが

当山中興開山である

快傅上人だと拙僧(副住職)は

推測していることを

お伝えいたしました。

 

この点について

今回はもう少し深めて

記させて頂きます。

 

快傅上人は

「当山寺屋敷共」に

新たに建立された方です。

 

当山所蔵の

享保18年(1733)と記された

棟札表中央には

再建立當寺屋敷共

新今慶建立

當寺長久安全如意

快傅末々之住寺共

萬民愛敬云々…

記されます。

 

またこの棟札にはその際

観音山(七崎山)に

杉を2000本余植えたと

記されますので

その前後で当地の雰囲気は

かなり厳かになったと思います。

 

七崎山とは

当山が別当をつとめた

旧観音堂があった

現在の七崎神社の地を指します。

 

さらに現在の当山の地にも

様々な木々を植えたようで

杉のほかにも

松、ヒバ、ツキ、エノミ

クリ、サイガチ、クルミ

ナシ、モモ、カキなどが

植えられたと記されます。

 

享保年間(1716〜1736)の

快傅上人による当山中興と

学秀活躍期は重なっております。

 

快傅上人が中興にあたり

学秀千手観音を

請来されたと推察することは

無理のないことと思われます。

 

少し視点を変えて

この時代を考えるに

貞享元年(1684 )には

弘法大師850年御遠忌(ごおんき)

というとても重要な法要が

各本山はじめ各地で厳修されております。

 

これより程なくして

貞享4年(1687)4月に

第29第藩主・南部重信公は

聖観音像を七崎観音堂に

奉納されております。

 

これが現在の

七崎観音です。

 

また元禄3年(1690)12月には

覚鑁(かくばん、1095〜1143)上人が

東山天皇より興教大師(こうぎょうだいし)

の諡号(しごう)を賜っております。

 

▼興教大師 覚鑁

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これは

覚鑁上人がご入滅されて

537年目のことでした。

 

(新義)真言宗において

興教大師覚鑁上人は

弘法大師空海上人と共に

両祖大師(りょうそだいし)とされる

とても尊い方です。

 

元禄5年(1692)は

興教大師550年御遠忌

にあたっております。

 

もう少しこのことについて

掘り下げさせて頂きます。

 

この時期の新義真言宗は

「宗派の繁栄」と表現される程に

格式が高くなり隆盛しております。

 

新義真言宗では

権僧正(ごんそうじょう)という

僧階(そうかい、僧侶の位)が

極官で小池坊(奈良の長谷寺本坊)と

京都の智積院(ちしゃくいん)の

両能化だけが権僧正でした。

 

それが元禄4年(1691)6月18日に

小池坊13世能化・卓玄(たくげん)が

智積院・信盛と

護持院・隆光とともに

正僧正(しょうそうじょう)という

それまでの極官よりも

高い僧階に任じられております。

 

この当時の徳川将軍・綱吉公は

「小池坊も智積院も

権現様(家康公)が取立た

寺院であるから

両能化とも正僧正にしよう」と

述べられたそうです。

 

この卓玄僧正は

八戸藩祈願所である

自在山 豊山寺(じざいさん ぶざんじ)

の(長谷寺式)十一面観音像を

貞享5年(1688)に

開眼(かいげん)されております。

 

この十一面観音は

豊山寺の廃寺に伴い

その末寺である

是川の福善寺に移されました。

 

またまた余談ですが

この豊山寺という寺院は

根城にあった八戸東善寺の後身で

再興にあたって

自在山 豊山寺と改められ

“豊山寺初代”として

花巻の愛宕山八幡寺より

惠廣上人が招かれております。

 

この八幡寺というお寺は

現在の花巻神社の地にあった

小池坊(長谷寺)の末寺ですが

永福寺支配のお寺でもありました。

 

とにかく

新義真言宗がそれまでに増して

“勢いづいていった”時代が

当山中興や学秀の時代でもあります。

 

当山と学秀の関係を考える

背景としてこういった事情は

外すことは出来ないことです。

 

他にも重要な背景は様々ですが

江戸期の南部藩領では

飢饉とよばれるもの以外にも

凶作が頻発していることは

踏まえなければならないことです。

 

ある資料によれば

江戸時代だけで

76回もの凶作が

発生しております。

 

おそらくはその時代の七崎も

度重なる凶作が引き金となり

かなり疲弊していたと思います。

 

時代が時代ゆえ

当山も快傅上人がいらっしゃった頃は

荒廃していたと思われます。

 

そのような中

中興されるにあたり

“現在の救済仏”である千手観音を

学秀和尚に作仏頂いたというのが

拙僧(副住職)の推測です。

 

田子は修験の

大法院(だいほういん)が

強い影響力を持っていたようなので

修験関連で千手観音に

触れみたいと思います。

 

現在の「修験本宗」の

総本山である奈良県吉野の

金峯山寺(きんぷせんじ)では

三体の蔵王権現(ざおうごんげん)が

本尊としてお祀りされ

それぞれが過去・現在・未来の

三世(さんぜ)の尊格とされます。

 

そしてそれぞれの

本地仏(ほんじぶつ)は

過去:釈迦如来

現在:千手観音

未来:弥勒菩薩(みろくぼさつ)

とされており

この“対応関係”は

当山中興にあたり請来された

学秀千手観音に託された願いを

紐解く上で

参考になるように思います。

 

禅宗で大切にされる陀羅尼で

大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)

という“尊いお経”があります。

 

この陀羅尼は

千手千眼観自在菩薩円満無礙大悲心陀羅尼

ともいいまして

千手観音の陀羅尼でもあります。

 

大悲心陀羅尼の意味を

踏まえることもまた

学秀千手観音に託さた願いを

紐解く上で

参考になろうかと思います。

 

かなり専門的な話題ばかりに

なってしまいましたが

当ブログは

「研究ノート」としても

投稿させて頂いておりますので

何卒ご容赦下さいませ。

 

【関連記事】

▼稀代の古刹 七崎観音④

https://fugenin643.com/blog/稀代の古刹七崎観音四/

 

▼稀代の古刹 七崎観音⑤

https://fugenin643.com/blog/稀代の古刹七崎観音五/

 

▼吉野金峯山寺について

https://fugenin643.com/blog/吉野金峯山寺/

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青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)③

『御領分社堂』という

宝暦13年(1763)の書物は

宝暦9年(1759)の幕府の御触(おふれ)

により開始された

藩領の社堂の調査を

まとめたものです。

 

七崎(豊崎の古称)について

同書に以下のように

記載されております。

 


寺院持社堂 五戸御代官所七崎

一 観音堂 四間四面萱葺(かやぶき)

古来縁起不相知

萬治元年(1658)重直公御再興被遊

貞享四年(1687)重信公御再興被遊候

何(いずれ)も棟札(むなふだ)有

 

一 大日堂

一 不動堂

一 愛染堂

一 大黒天社

一 毘沙門堂

一 薬師堂

一 虚空蔵堂

一 天神社

一 明神社

一 稲荷社

一 白山社

右十一社堂は観音堂御造営之節

依御立願何も御再興被遊候

小社之事故棟札も無之

只今大破社地斗に罷成候

一 月山堂 壱間四面板ふき

 

一 観音堂 右ニ同

右両社共に観音堂御造営之節

重直公御再興也

 

善行院(ぜんぎょういん)

当圓坊(とうえんぼう)

覚圓坊(かくえんぼう)

覚善坊(かくぜんぼう)

右四人之修験は本山派にて

拙寺(永福寺)知行所所附之者共御座候

古来より拙寺(永福寺)拝地之内

三石宛(ずつ)遣置

掃除法楽為致置候


 

現・田子町出身の奇峯学秀

(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

御作の千手観音が

当山観音堂にお祀りされていることが

つい先日判明いたしました。

 

学秀は

出生年代は不明ですが

元文4年(1739)に82歳頃に

入滅したとされます。

 

ですので

『御領分社堂』が伝えるのは

学秀が入滅して約20年後の

主なお堂の様子であるといえます。

 

先の引用箇所で

赤字にした箇所

学秀と関わると思われます。

 

当山で所蔵する棟札の

内容を踏まえると

この「観音堂」は

千手千眼(せんじゅせんげん)観音堂

(以下、千手観音堂)です。

 

現在の本堂を文化8年(1811)に

再建した当時の

当山先師である覚宥師の名が記される

千手観音堂再建の

棟札があることから

千手観音堂が以前から

あったことが分かるのです。

 

また当山には

散逸してはおりますが

千手観音の作法の次第である

千手観音法(せんじゅかんのんぼう)

が残されております。

 

先の引用文では

冒頭にもう1つ観音堂が

記されておりますが

これは現在の七崎神社の地にあった

寺号を七崎山徳楽寺とする観音堂で

現在の当山本堂にある

観音堂内殿中央に祀られる

七崎観音(聖観音)を

本尊としておりました。

 

観音堂ついででいえば

現在の八戸市白銀にある

清水観音(糠部第6番札所)も

当山が別当をつとめておりました。

 

さて千手観音堂に

話を戻しますが

重直公が観音堂を再興した際に

千手観音堂も再興されている

ということは

千手観音堂はさらに以前から

建立されていたことを意味します。

 

このお堂に学秀仏の

千手観音も請来されて

もとから祀られていた

千手観音と合祀された可能性は

大いにあると思います。

 

ここでもうお一方

当山と学秀を紐解く上で

キーパーソンとなる(と思われる)

当山先師・快傅(かいでん)上人

について触れたいと思います。

 

当山は

開創が圓鏡上人

(弘仁8年(817)5月15日入滅)

開山(開基)が行海上人

(承安元年(1171)5月に開山)

そして中興開山が快傅上人です。

 

快傅上人は

主に享保年間(1716〜1736)に

当山を中興された先師で

寛保元年(1741)11月2日に

御遷化されております。

 

過去帳によると

快傅上人は遠野の

ご出身だそうです。

 

脱線になりますが

遠野といえば

根城南部氏が移った地ですが

それに伴って祈願所である

師建山 東善寺(しけんざん とうぜんじ)

が八戸市根城から

本坊が寛永4年(1627)に

移された地でもあります。

 

東禅寺の山号である

師建山(しけんざん)は

南部師行公に由来し

行公が立された」

ことを意味します。

 

東善寺という寺号もまた

南部氏の「東氏」に由来するそうです。

 

遠野に本坊が移った後も

八戸根城の旧地は

八戸東禅寺として存続し

延宝年間(1673〜1681)に

自在山 豊山寺(じざいさん ぶざんじ)

として再興されます。

 

八戸東善寺が自在山豊山寺に

改称されたのは

延宝3年(1675)です。

 

豊山寺は延宝8年(1680)に

八戸城(現在の三八城公園)へ

移されました。

 

現在は廃寺となりましたが

この東禅寺(豊山寺)も

永福寺の傘下寺院でした。

 

豊山寺は八戸藩の内五ケ寺に

列ねられており

末寺には

是川の八鳩山 福善寺

田面木の延命山 善照院

楊柳山 永久寺(現在は廃寺)

豊山寺支配として

小田山 徳城寺(現・小田八幡宮)

霊現山 新源寺(現・斗賀霊(涼)現堂)

という本末関係がありました。

 

これら関係寺院についても

当山と学秀との関係を

考察する上で

重要な意味を持つと思われます。

 

快傅上人の出身地が遠野であることから

脱線として関連事項を

長々と記してしまいましたが

後々触れるべきことなので

これで良しとさせて頂きます。

 

快傅上人の当山中興と

学秀仏が当山に祀られたことは

深く関わっているのではないかと

拙僧(副住職)は推測しております。

 

このことについて

次回述べさせて頂きます。

 

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急遽の護摩に思う

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当山本堂は

本尊が祀られる内陣の隣に

観音堂が設えられております。

 

現在当山において

本尊の御宝前では

正月や彼岸やお盆の法要はじめ

重要な各種法会(ほうえ)や

ご供養が執り行われる一方で

観音堂では

御祈願を主とした法会や

札所巡礼のお参りが

なされております。

 

明治時代になるまでは

観音堂は現在の七崎神社の地に

建立されており

徳楽寺という寺号が

用いられていたのですが

神仏分離の処置を受け

旧観音堂(徳楽寺)は廃寺となり

七崎神社に改められ

七崎観音などの仏像は

当山本堂へ遷座されました。

 

先にお伝えした

本尊御宝前での修法と

観音堂での修法の

“意味合い”が異なるのは

本堂と観音堂の“性格の違い”と

いっても良いでしょう。

 

かつての本堂

(本堂のある境内地)は

「根本中堂」「根本道場」であり

得度(出家)した僧侶が

師匠(阿闍梨)より伝授を受けたり

講伝を受けたり

修行をするお堂でもあるので

一般参詣者が気軽かつ自由に

出入りをしたり

お参りが出来る場所

というわけではありませんでした。

 

今でもそうですが

出家僧でしか出仕できなかったり

様々な条件を満たさなければ

臨むことが許されない

法会や行事は多々あります。

 

本堂は“出家僧向けのお堂”と

いうことが出来るかもしれません。

 

補足ですが

本堂という言葉は

「根」の略であるとか

」の略であるという

いわれがございます。

 

ただ単に仏像が祀られているお堂が

本堂ということではありません。

 

専門性が高いかもしれませんが

本堂という言葉には

きちんとした意味があります。

 

本堂が主に出家僧の行事等が

催されていた道場である一方で

七崎の観音堂は

“稀代の古刹”と謳われる程に

藩よりの信仰が篤く

一般参詣者もすこぶる多く

お仕えしていた修験者・山伏も存在し

様々な祭事が行われておりました。

 

現在の当山における

本尊御宝前と観音堂における

法会等の主旨の違いは

かつての本堂と観音堂の

性格の違いの名残といえます。

 

この辺のことは

専門的に通じていなければ

中々分かりにくい所かもしれませんが

きちんと踏まえるべきことと思われます。

 

さて

ここまでは前置きでして

本日午前中に有縁の方より

護摩祈祷のお願いをされました。

 

お話によると

毎月28日(不動明王縁日)に

護摩をお願いしている御寺院様が

諸事情により護摩を休会する

ことになったようで

当山に問い合わせられたそうです。

 

拙僧(副住職)も

午後であれば都合がついたので

不動明王の護摩を

修法させて頂きました。

 

導師一人での護摩なので

数名で厳修する

厳かさとは趣が異なりますが

粛々とした護摩も心地よいものです。

 

普段の御祈願では

お願いされない限り

護摩を修法することは

ありませんでしたが

これを機に

毎月護摩を修法したり

定期的に修法するのも

良いかもしれないと感じた

お不動様の御縁日となりました。

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青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)②

当山観音堂に

奇峯学秀(きほうがくしゅう)御作の

千手観音像が祀られていることが

先日確認されました。

 

ご確認頂いたのは

ごのへ郷土館館長の木村明彦館長と

奇峯学秀の末裔でもある釜渕嘉内氏の

お二人です。

 

2月22日に地元紙の

デーリー東北と東奥日報の各記者と

先のお二人に当山へおいで頂き

取材して頂いた際に

木村館長が奇峯学秀についての

資料を作成して下さいました。

 

奇峯学秀は田子町の

釜渕家出身の高僧で

名久井の法光寺に入門し

後に九戸の長興寺

八戸の大慈寺の住職を

務めた方です。

 

出生年代は不明ですが

元文4年(1739)に名久井の

顧養庵(こようあん)にて

82歳頃で入滅されたそうです。

 

行年が82歳として

没年の1732年から82を引くと

1657となります。

 

1657年は明暦3年です。

 

明暦前後の年号は明暦含め

承応(1652〜1655)

明暦(1655〜1658)

万治(1658〜1661)ですので

この辺りの生まれとなるようです。

 

この時期の

当山の歴史と学秀出生を

重ねてみると

当山では観音堂と末社十二宮が

再興されております。

 

落雷により観音堂が

焼失してしまったため

28代藩主・南部重直公により

御再興頂いております。

 

この観音堂は

現在の七崎神社の地に

建立されていたもので

七崎山 徳楽寺という

寺号が用いられておりましたが

明治になって廃寺となりました。

 

学秀の出生と同時期の

観音堂と末社十二宮の

再興棟札には

承応3年(1654)2月に事始

明暦元年(1655)9月に遷宮畢

と記されております。

 

当山の前身である永福寺は

南部盛岡藩が盛岡に

居城するにあたり

不来方城(盛岡城)の

鬼門の位置に

本坊が構えられます。

 

寛永2年(1625)12月には

27代藩主・南部利直公により

永福寺自坊でもある普賢院は

祈願所とされております。

 

寺院の本末関係や

藩領における統制が

整えられる中で

南部藩の祈願所である

七崎永福寺を“正式な形”で

(自坊という形ではありますが)

普賢院が引き継いだことになります。

 

当山を祈願所と定めた

南部利直公は十和田湖伝説に

登場する南祖坊(なんそのぼう)の

生まれ替わりであるとの

いわれがある藩主です。

 

南祖坊は

当山2世の月法律師に

弟子入りしたとされます。

 

また学秀が住職を務めた

大慈寺は最初

八戸の松館に建立されますが

利直公が開基されたお寺です。

 

この利直公も

学秀と同じく田子の出身です。

 

こういったことも

当山と学秀を結びつける

重要な要素といえるでしょう。

 

高僧・奇峯学秀の生きた時代を

当山の歴史や

仏道的視点を踏まえながら

「青森の円空 奇峯学秀」

と銘打ち何回か投稿したいと思います。

 

なぜ当山に学秀仏がお祀りされたのか

ということをテーマの1つとして

拙僧(副住職)なりの考察を交えつつ

試論として記してみたいと思います。

 

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