江戸時代中期に活躍された
津要玄梁(しんようげんりょう)
という禅僧がいらっしゃいます。
当山には十和田湖伝説の
南祖坊(なんそのぼう)の御像である
南祖法師尊像(なんそほっしそんぞう)が
観音堂にお祀りされますが
この御像は津要和尚が
手がけられたものではないかと
拙僧(副住職)は考えております。
その可能性に
初めて気がついたのは
白銀の清水観音(糠部第6番札所)
について調べていた時でした。
こちらの清水観音堂は
かつて当山が別当をつとめたお堂で
本尊の十一面観音像は
津要(しんよう)和尚が
作仏されたものです。
この十一面観音の写真が
滝尻善英氏の著作に
掲載されており
その御尊容に
当山に祀られる南祖法師尊像の
御尊容と類似する点が
多く見られたため
南祖法師尊像は
津要仏(津要が作仏された仏像の意)
ではないかと考えるように至ったのです。
それ以来
津要仏について
個人的に調査をしております。
【これまでの“仏像調査”の記事】
https://fugenin643.com/blog/ふらりと港町へ仏像調査/
https://fugenin643.com/blog/8044/
津要(しんよう)和尚は
延宝8年(1680)に
八戸市港町で生まれます。
松館大慈寺
盛岡の青龍山 祇陀寺(ぎだじ)
二戸浄法寺の天台寺で
修行された後に
階上町寺下を拠点にして
布教活動をされたそうです。
津要和尚は晩年
右手が不自由になり
彫刻等を左手でなされております。
色々と踏まえると
当山に祀られる南祖法師尊像は
津要和尚が右手を不自由にされた後に
彫られた御像である可能性が
高いように思います。
天聖寺8世の
則誉守西(そくよしゅさい)上人の
『奥州南部糠部順礼次第』(寛保3年(1743))
では第6番札所である清水観音について
内御堂二正観音安置
と記されており
現在祀られる十一面観音ではなく
正(聖)観音が
祀られていたことが分かります。
この正(聖)観音像は
盗まれたそうです。
そこで津要和尚が
十一面観音を造立し
観音堂を再興したのだそうです。
則誉守西上人の「順礼」が行われた
寛保3年(1743)は
津要和尚が亡くなられる2年前で
まさに晩年にあたります。
ですので
十一面観音像は
津要和尚晩年の御像といえます。
滝尻善英氏の著作に掲載される
この十一面観音像の写真は
拝見する限り
当山の南祖法師尊像の尊容と
通じているように思います。
また
津要和尚の御像について
調べていくと
津要仏に見られる独特の特徴が
南祖法師尊像にも見られますし
さらにそれらが左手で
彫られたものだとすると
かなり説得力を持つような
特徴を指摘することが出来ます。
前置きが長くなりましたが
津要仏である
虚空蔵菩薩像が祀られる
是川の福善寺を訪ねました。
福善寺は当山と同宗であり
いつも大変お世話になっている
御寺院様です。
ご住職にご案内頂き
仏像を拝見させて頂きました。
▼津要御作・虚空蔵菩薩(福善寺)
津要和尚御作の御像のお顔は
鼻や眼
鼻と眉のラインのとり方が
とても特徴的です。
写真では分かりにくいですが
津要和尚独特の彫目(ほりめ)が
全体に見られます。
彫刻されている文字ですが
中央には
南無能満諸願虚空蔵菩薩
その右方に階上山
それとは対に青龍寺
と刻まれております。
彫目について
これだけでは
分かりにくいと思いますので
すこし前に伺わせて頂いた
港町の十王院にお祀りされる
地蔵菩薩立像の写真を
以下に添付いたします▼
独特の彫目が
ある程度分かると思います。
こういった彫目が
福善寺に祀られる
虚空蔵菩薩像にも見られました。
比較対象として紹介させて頂いた
十王院の津要仏・地蔵菩薩立像の
全体像はこちらです
(高さは2メートル近くあります)▼
当山に祀られる
南祖法師尊像がコチラです▼
背面に見られる
彫目が分かるでしょうか?
津要仏に見られる特徴である
彫目が全身に見られます。
彫目がやや大きいのは
左手で彫られたものだと考えると
納得出来るように思います。
顔に見られる特徴も
津要仏の特徴を
指摘出来るかと思います。
今回は
津要和尚の
仏像に見られる特徴から
南祖法師尊像の来た道の
可能性について検討してみました。
他の視点からの検討も
有意義かと思いますので
また改めて投稿させて頂きます。