七崎(ならさき)は
「七つの岬」に由来するとされます。
「岬」は海や川や湖を連想させます。
地元の士族でもあった
とある旧家の方の伝えでは
かつて浅水川が相当に蛇行しており
「七つの岬」のように見えるその光景が
七崎の地名の由来だとも言われます。
七崎の「七」は
具体的な数とは限らず
多数を意味し
かつ聖数としての意味がある
とも考えられますし
仏教的な意味が込められているとすれば
七宝(しっぽう)からきた七
とも考えられそうです。
空海の『声字実相義』の
考え方を応用すれば
na-ra-sa-kiの音に分解して
各音(梵字)の字義という
観点から検討することも可能です。
この方法で
na-ra-sa-kiを解読すると
この響きの中に
「南無観自在菩薩(観音菩薩)」
という意味が含まれるのが
とても絶妙に思います。
na字は「帰命」(南無)につながり
sa字とka字(kiの母字)は
「観自在菩薩(観音菩薩)」につながります。
「ならさき」ではなく
「ならじゃき」と
読むこともあったので
na-ra-ja-kiで解読すると
ja字は「鉤召」の意に通じ
さらに当山本尊「愛染明王」
にも通じるものと
捉えることも出来ます。
旧観音堂の地を
七崎山または観音山
と読んでいたとされますが
これら山号(お山の名前)は
字義釈によって捉えると
通底したものといえます。
七崎山は
旧観音堂の寺号・徳楽寺の
山号として使用されていたと
考えられてきましたが
当山の本堂建替に伴う
古文書や史料や仏像や仏具の
総整理の際に
この通説を揺るがす発見がありました。
それが次の版木です。
「七嵜山 普賢院」刻字の御影板木(年代不詳)
※「嵜」は「崎」の異体字。
※七崎山の山号は、徳楽寺(七崎観音堂の寺号)の山号であると考えられていたが、普賢院にも用いられていたことを示すとても貴重な史料。


「七崎山徳楽寺」
「七崎山普賢院」という
組み合わせの存在が判明したことは
これまでの通説を
場合によってはくつがえす程の
大きな意味を持ちます。
徳楽寺の院号が
普賢院だったとすれば
七崎山普賢院徳楽寺が
正式名称だった可能性もあります。
本坊宝珠盛岡山永福寺自坊・宝照山普賢院と
七崎観音別当・七崎山普賢院の
二つの院号を
併用していた可能性もあります。
これらの説は
先に紹介した版木の存在が
明らかになったゆえに
浮上したものです。
七崎山普賢院徳楽寺の名が
文字として残る史料はないので
検証することは難しく
可能性を示すに留まりますが
後者の説については
七崎(嵜)山普賢院と刻された
“観音版木”があり
近世文書に七崎観音の別当が
普賢院との記述があることから
新説として提示出来るものと考えます。
そんな新説については
また後日触れるとして
前回も扱った史料について
再びみてまいりましょう。
前回は
時代の要請による
旧観音堂の神社化について
里人・社人の伝えについて
『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])に
採録された箇所を参考に
考察を行いました。
同史料では
「七崎神社としての縁起」について
「全く後人の偽作なれとも」として
以下の2説を述べていました。
- 祭神はイザナミノミコト。むかし火事があり、縁起など焼失して無いため、詳細については分からない。
- 祭神イザナミノミコトの勧請について、天災で縁起を失っているため、詳細を知るのは難しいと前置きをし、藤原諸江卿が当地に勧請したという説を示す。四条中納言であった諸江卿は、勅令により白銀に居住しており、承和元年(834)1月7日の夢でイザナミノミコトの神告を受け、当地に勧請された。
藤原諸江という人物は
明治以後になると
七崎神社の縁起において
キーパーソンとなりますが
一方で
明治以前の文書や木札には
少なくとも当山が所蔵するものや
確認出来る文書(過去帳や表白など)には
いっさい見られないのです。
藤原諸江を祖とする
古い家々が
旧修験家など他
当地にはあります。
旧修験家の方が還俗し
神職となったのちの
旧観音堂の神社化の推進と
藤原諸江卿の「伝説」や
系譜観念が
相関しているのかもしれません。
藤原氏の方が
諸事情により
京より当地方に
おいでになった
という類の話は当地や近隣で
よく見らますが
個人名がどうというより
藤原氏であることに
深掘りポイントがあると
個人的には考えてきました。
藤原氏の
氏寺は興福寺
氏神は春日大明神。
そして春日大明神と同体とされる
難陀龍王(なんだりゅうおう)という
諸龍王を司る「龍神」と
その難陀龍王を脇侍とする
十一面観音(長谷寺式)。
その十一面観音は
アマテラスと同体とされる
雨宝童子も脇侍としており
長谷寺は古くから
観音信仰の中心地のひとつで
藤原氏にも庇護を受け
もともとは興福寺の末寺でした。
長谷寺の十一面観音信仰は
歴史があるもので
「長谷信仰」は
元祖観音霊場であり
屈指の古刹からなる
西国三十三観音霊場の発祥と
関わります。
当山創建当初の本尊も
十一面観音とされます。
余談が長くなりましたが
藤原氏と観音信仰には
深いつながりがある点を
明示しておきたかったのです。
それと
京の方にルーツを持つ方が
当地に来たことは
歴史的にある話だと思いますし
修験者などの宗教者が
当地に居を構えたことも
実際にあったと思います。
諸江卿について付言すると
先に示した1と2の
イザナミノミコト勧請について
2の報告には
杉の植樹の伝説には
触れられていません。
当山では
開基開山上人の行海大和尚が
旧観音堂の地に
七つ星になぞらえて杉を植えた
との伝えがあるのですが
別説として
藤原諸江卿が杉を植えた
という伝えもあります。
これらについても
前回触れた坂上田村麿将軍の説と同様
同じエピソードの主人公が
“仏教的人物”から
藤原諸江卿に代替されているようにも
思われるのです。
藤原諸江卿を祖神とする
旧修験家の方々が
古来より大切にされてきた
祈りの地を
当時の状況下において
求められた形態にて
受け継いだことの決意の現れ
としての縁起改変
のようにも感じられます。
さらには
幕末における
新政権の政策構想として
国学者の立場から
奉呈された史料中にて
記紀神話の神々と
皇系につらなる方々や
国家に功績のあった方々を
国家的に祭祀するよう
主張するものがあり
藤原氏は「皇系につらなる方々」
となります。
この構想にそった形で
明治元年以降に
神社創建があいついだことと
旧観音堂の神社化と
藤原諸江譚への縁起改変は
軌を同じくした可能性もあるでしょう。
以上見てきたような
改変パターンによる縁起の整理で
時代的背景もあって
全国的に強要された神仏分離と
当地における旧観音堂の神社化を
乗り越え
“破壊”を伴う様な状況ではなく
可能な限り歴史や伝統を温存しつつ
明治スタイルに適応させた形に
着地させることが出来た
と言えようかと思います。
明治以後
大正・昭和20年までの間は
教育においても
古事記など日本神話に基づいた理解は
必須のことであり
それが公的祭祀を裏付けるものであり
国としての思想的基盤とも
いえるものでした。
明治における
旧観音堂の神社化や
それに伴う縁起改変は
明治だけの話ではなく
その後に向けた“国づくり”
としての文脈で捉えると
見えてくるものがあると感じます。
