合葬墓のご相談が増えています

昨年夏に墓地周辺のオンコの木を

バッサリ選定したので

視界が開けたため

春には桜が見えるようになりました。

 

昨年より

住職家の墓地の整理に伴い

墓地整備を進めておりまして

心地よくお参り出来るような

環境にしていきたいと思います。

 

仏壇じまい

墓じまい

お堂じまい等々

ご相談の多い昨今です。

 

当山ベースで

言えることは

実行するか否かは別として

こういった類は

早いうちから相談したり

どういった内容かを確認するなど

しておいた方が良いと考えています。

 

合葬墓や永代供養は

各所によって内容や方針が異なります。

 

ご相談は随時受付しているので

お気軽にお問い合わせください。

 

▼普賢院の合葬墓について

https://mytera.jp/tera/fugenin55/ohaka/#tera_tab_block

 

大師像の来歴考〜もしかしたらなお話〜

 

先日

祈りつがせていただくこととなり

当山薬師堂(会館1階)に

ご安置された弘法大師像(以下、大師像)。

 

大師像以外にも

引き取ることとなったものや

お焚き上げをお願いされた

掛け軸や仏具もあり

その中に

昭和初期の写真がありました。

 

写真が入れられた木額の裏には

昭和六年(1931)四月二十一日

に奉納と墨書きされていました。

 

21日は

弘法大師のご縁日です。

 

当山での写真ではないので

写真を掲載できませんが

堂内の祭壇最上段中央に

逗子に納められた大師像が安置され

その祭壇前に

4名の方が正座して

撮影されたものです。

 

4名は2名女性・2名男性で

女性はいずれも着物姿で

そのうち1名は

紋付の黒い着物に

輪袈裟を着用されており

右手には中啓を立て持ち

左手には念珠を掛けて

片手合掌をされています。

 

男性は軽装で薄着ですし

女性のもう一方の方は

かなりお若い方で

薄手の着物に見えます。

 

供えられている花や野菜の

内容も踏まえるに

暖かな季節であることは

間違いありません。

 

写真そのものの裏には

「18.7」印字されています。

 

おそらく

1918年(大正7)7月

ということだと思います。

 

市内のとあるご自宅敷地内に

建立されていたお堂に

祀られていた大師像ですが

もともとは剣吉

つまり名久井の方に

あったものだそうです。

 

写真額の裏書などから

そのご自宅近隣の方が

額を奉納されているので

写真は名久井から

遷座されてからのものと

考えられます。

 

額の奉納は

昭和6年(1931)4月21日ですが

写真撮影がされたのが

1918年(大正7)7月とすると

遷座されてから

100年以上経過していることになります。

 

それ以前は名久井の方にあり

諸経緯あって

とあるお宅に

迎えられることになったわけです。

 

当山に大師像を託されたお宅によれば

その地に遷座される以前の歴史は不明で

大師像自体がどれ位古いものかは

全く分からないとのことでした。

 

そもそも

これだけ立派な大師像ですから

もともとお寺に

祀られていたと想像することは

違和感ないことと思います。

 

もともとは

名久井方面のお寺に

祀られていた大師像である

と大胆に仮定してみると

実に不思議なご縁が感じられる

ストーリーが浮かび上がります。

 

剣吉という地区に隣接する

諏訪平という地域には

明治に入って廃寺となった

当山の関係寺院

嶺松院(れいしょういん)がありました。

 

嶺松院が廃寺となり

同院が別当として管理していた

早稲田観音堂は現存しています。

 

嶺松院の檀家だったと思われる家の方が

当山の過去帳に記載されることから

嶺松院廃寺後は

当山で弔われたようです。

 

当山先師の中には

嶺松院住職も務めた方もいらっしゃいます。

 

嶺松院も普賢院と同様

本坊・盛岡宝珠山永福寺の

自坊であった寺院で

嶺松院は「三戸永福寺」

普賢院は「七崎永福寺」

という具合に

とても関わりが深いのです。

 

大師像はもともと

お寺に祀られていたのでは

という仮説を立てたとき

嶺松院(または関連するお堂)に

祀られていたという可能性を

指摘出来るのように思います。

 

先に触れた

嶺松院の元檀家と思われる家の

お弔いの記録は

明治20年代まで確認出来ます。

 

嶺松院廃寺後も

何らかの形で

仏像等が引き継がれており

その中の大師像が

八戸の方に遷座されて

さらに当山に至ったという仮説は

全くないとはいえないように思います。

 

あくまでも仮説ですが

もしそうだとすれば

三戸永福寺・嶺松院から

七崎永福寺・普賢院へと

渡り来られた大師像ということになり

まさに不思議なご縁により

お迎えされたことになります。

 

あくまでも一仮説です。

 

どのような経緯にせよ

宗祖の尊像ゆえ

謹んで守らせていただきます。

 

紐解き七崎観音⑬

前回触れた様に

「七崎山普賢院」と刻された

観音版木の“発見”により

七崎山普賢院徳楽寺が徳楽寺の

正式名称かもしれないことと

七崎観音別当・七崎山普賢院の号を

本坊永福寺自坊・宝照山普賢院の号と

併用していたかもしれないことを

新たな説として提示することが出来ました。

 

特に後者は

史料の記載内容を踏まえるに

可能性は高いと思われます。

 

当山観音堂に主尊として祀られる

聖観音は七崎観音と通称され

この呼び名は

「七崎(地名)+観音(尊格名)」

という構成となっています。

 

普賢院住職は歴代

七崎観音別当という

お役を受け継いでいるので

この七崎観音という

名称を手がかりに

仏道のみおしえに

触れていただけるような

紐解き方をご紹介できればと

かねてより考えていました。

 

地名としての七崎を

仏道的な解読方法で

アプローチすることは

普段あまりなじみがないであろう

文化に触れていただく

機会にもなると思うのです。

 

ということで

前回は七に関する用語に触れたり

na-ra-sa(ja)-kiの音による

字義釈を紹介してみました。

 

明治を迎えて

必要に迫られた

旧観音堂の神社化に関しても

当時の状況下において

旧来の慣習を極力温存しつつ

明治スタイルに適応した形に

落ち着かせるため

縁起の改変作業が行われたであろう

ことについても述べました。

 

また幕末における新政権の政策構想として

国学者の立場より奉呈された史料中にて

記紀神話の神々と

皇系につらなる方々や

国家に功績のあった方々を

国家的に祭祀するよう主張するものがあり

藤原氏は「皇系につらなる方々」でした。

 

この構想にそった形で

明治元年以降に

神社創建があいついぐわけですが

旧観音堂の神社化と藤原諸江譚への縁起改変は

軌を同じくした可能性もあることも

前回言及しました。

 

国づくりにおいて明治政府は

「日本神話」を必要としました。

 

近代化と王政復古という

論理上どこか

不思議な組み合わせな方針が

とても特徴的といえます。

 

「日本神話」を核とした

国づくりの徹底は

諸経緯を経ることになり

国家神道を国教化することは

ありませんでしたが

国家神道は宗教ではなく祭祀であるされ

各地の神社は「祭祀の場」となり

神社化推進は政治的意図によるものでした。

 

そういう時代背景において

旧来からの縁起を

“時代的なもの”に

改変せざるを得なかったわけです。

 

こういった経緯に

触れることすらも

憚られることもあったと思いますが

当地では旧来のことについても

忘れられることなく

むしろ留めようとしていたようにも

感じられるのです。

 

そう感じるのは

大正期に記念刊行された

旧修験家・小泉家の神官による

『神社誌』の記述において

旧観音堂時代のことが明記され

さらに

後世において改変が必要な場合は

改変するようにアドバイスしているとも

取れる記述が見られます。

 

そこに当地の“イズム”を

読み取ることが

出来るように思います。

 

明治に入って程なくの

『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])に

次のような報告があります。

 

当社は何の頃の草創にか

究て古代の御正体を祭りたり

旧より正観音と称し

観音堂と呼なして

近郷に陰れなき古刹なり

 

数丈なる杉樹

地疆に森立して空に聳ひ

青苔地に布て如何さま

物ふりたる所なり

 

去は里人の崇仰も大方ならす

 

四時の祭会は元より

南部旧藩尊敬も他の比にあらす

常に参詣も絶えす

廟堂の構界区の装置まて

昔を忍ふ種となる所なり

 

同書における七崎の報告では

当時の「新縁起」について

垣間見られる記述があり

その件については

以前触れているので

そちらもお読みいただければと思います。

 

「数丈なる杉樹」は

天にそびえる大きな杉の木々を指し

それらが「森立」し

青苔が広がる“苔むす”地であり

その空間は

物ふりたる所であると

報告者は記述しています。

 

この記述には

当地において旧来より

大切にされていた空間に対する

讃嘆の思い

「もののあはれ」の思いが

込められていると思います。

 

「物」は様々な意味があり

古事記・日本書紀でも

需要な語と言えると思いますが

「霊性」つまり「たま」

とも置き換えられます。

 

ものふりたる所

たまふりたる所とも

言い換えが出来ます。

 

そして旧七崎観音堂は

近郷に隠(陰)れなき古刹であり

並大抵ではなく(大方ならす)

信仰されてきたと評されており

南部藩領においても

比類ない程に常時参詣されていたと

往時について記載されています。

 

神社化が進められても

廟堂の構えや境内の作りが

往時(かつての様子)を

偲ばせるような場所だとも

記載されております。

 

「廟堂の構え」に関してですが

史料の記述に基づいて解釈するに

観音堂であったお堂の

仏像・仏具・荘厳具などが

撤去・搬出されて

同堂が廟堂として使用されています。

 

幕末の安政10年(1863)に

七崎観音堂は修繕されており

お堂自体はしっかりしていたため

そのまま使用したと思われます。

 

こういった神社化への対応においても

出来る限りにおいて

旧来からの慣習や祈りを温存して

行政的神仏分離の求めに応じたことが

想像されるのです。

 

以上のような内容にも触れながら

また七崎観音について

紐解いていきたいと思います。

 

つづく

弘法大師像をお迎えしました

市内のとあるお宅のお堂で

長きに渡り丁重に

祈り守られてきた弘法大師像。

 

そのお堂の整理にあたり

堂内仏像の引き受けの相談があり

当山にて祈り継がせて

いただくことにいたしました。

 

お堂に伺わせていただき

そのお宅の皆様のご参列のもと

遷座にあたる読経をして

搬出作業を行いました。

 

想定以上に大きな弘法大師像でして

とても立派な厨子で

お祀りされていました。

 

色々な経緯があって

祀られるようになったそうで

剣吉の方に祀られていたものが

こちらに移ってきたようです。

 

詳細は不明ですが

どうやら古い弘法大師像っぽいです。

 

尊顔は玉眼となっており

本格的なお像です。

 

本日お伺いしたお堂は

とても丁寧に祈りが捧げられてきたことが

伝わってくる空間でした。

 

様々な祈りが込められてきたものなので

きちんと祈り継がせて

いただきたいと思います。

 

▼お迎えした弘法大師像

新たなリズム

新学期を迎えて

新しい日々に臨んでいる

子ども達の様子に

刺激をもらっています。

 

新生活にも

徐々に慣れてきたようで

いきいき前向きに

励んでいるように見えます。

 

まだ1ヶ月も経っていませんが

これからが楽しみです。

 

今とこれからを考える終活カフェ

本日は

春の終活カフェでした。

 

これまで通りの慣習の維持の

難易度が高まるなか

これからのことを

考えることは

後の安心につながります。

 

これからのことを考える

何かしらのきっかけに

なればとの思いで

開催を重ねています。

 

短い時間でしたが

あれこれと共有できた

時間となりました。

 

紐解き七崎観音⑫

七崎(ならさき)は

「七つの岬」に由来するとされます。

 

「岬」は海や川や湖を連想させます。

 

地元の士族でもあった

とある旧家の方の伝えでは

かつて浅水川が相当に蛇行しており

「七つの岬」のように見えるその光景が

七崎の地名の由来だとも言われます。

 

七崎の「七」は

具体的な数とは限らず

多数を意味し

かつ聖数としての意味がある

とも考えられますし

仏教的な意味が込められているとすれば

七宝(しっぽう)からきた七

とも考えられそうです。

 

空海の『声字実相義』の

考え方を応用すれば

na-ra-sa-kiの音に分解して

各音(梵字)の字義という

観点から検討することも可能です。

 

この方法で

na-ra-sa-kiを解読すると

この響きの中に

「南無観自在菩薩(観音菩薩)」

という意味が含まれるのが

とても絶妙に思います。

 

na字は「帰命」(南無)につながり

sa字とka字(kiの母字)は

「観自在菩薩(観音菩薩)」につながります。

 

「ならさき」ではなく

「ならじゃき」と

読むこともあったので

na-ra-ja-kiで解読すると

ja字は「鉤召」の意に通じ

さらに当山本尊「愛染明王」

にも通じるものと

捉えることも出来ます。

 

旧観音堂の地を

七崎山または観音山

と読んでいたとされますが

これら山号(お山の名前)は

字義釈によって捉えると

通底したものといえます。

 

七崎山は

旧観音堂の寺号・徳楽寺の

山号として使用されていたと

考えられてきましたが

当山の本堂建替に伴う

古文書や史料や仏像や仏具の

総整理の際に

この通説を揺るがす発見がありました。

 

それが次の版木です。

 

七嵜山 普賢院」刻字の御影板木(年代不詳)

※「嵜」は「崎」の異体字。

※七崎山の山号は、徳楽寺(七崎観音堂の寺号)の山号であると考えられていたが、普賢院にも用いられていたことを示すとても貴重な史料。

 

「七崎山徳楽寺」

「七崎山普賢院」という

組み合わせの存在が判明したことは

これまでの通説を

場合によってはくつがえす程の

大きな意味を持ちます。

 

徳楽寺の院号が

普賢院だったとすれば

七崎山普賢院徳楽寺が

正式名称だった可能性もあります。

 

本坊宝珠盛岡山永福寺自坊・宝照山普賢院と

七崎観音別当・七崎山普賢院の

二つの院号を

併用していた可能性もあります。

 

これらの説は

先に紹介した版木の存在が

明らかになったゆえに

浮上したものです。

 

七崎山普賢院徳楽寺の名が

文字として残る史料はないので

検証することは難しく

可能性を示すに留まりますが

後者の説については

七崎(嵜)山普賢院と刻された

“観音版木”があり

近世文書に七崎観音の別当が

普賢院との記述があることから

新説として提示出来るものと考えます。

 

そんな新説については

また後日触れるとして

前回も扱った史料について

再びみてまいりましょう。

 

前回は

時代の要請による

旧観音堂の神社化について

里人・社人の伝えについて

『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])に

採録された箇所を参考に

考察を行いました。

 

同史料では

「七崎神社としての縁起」について

「全く後人の偽作なれとも」として

以下の2説を述べていました。

 

  1. 祭神はイザナミノミコト。むかし火事があり、縁起など焼失して無いため、詳細については分からない。
  2. 祭神イザナミノミコトの勧請について、天災で縁起を失っているため、詳細を知るのは難しいと前置きをし、藤原諸江卿が当地に勧請したという説を示す。四条中納言であった諸江卿は、勅令により白銀に居住しており、承和元年(834)1月7日の夢でイザナミノミコトの神告を受け、当地に勧請された。

 

藤原諸江という人物は

明治以後になると

七崎神社の縁起において

キーパーソンとなりますが

一方で

明治以前の文書や木札には

少なくとも当山が所蔵するものや

確認出来る文書(過去帳や表白など)には

いっさい見られないのです。

 

藤原諸江を祖とする

古い家々が

旧修験家など他

当地にはあります。

 

旧修験家の方が還俗し

神職となったのちの

旧観音堂の神社化の推進と

藤原諸江卿の「伝説」や

系譜観念が

相関しているのかもしれません。

 

藤原氏の方が

諸事情により

京より当地方に

おいでになった

という類の話は当地や近隣で

よく見らますが

個人名がどうというより

藤原氏であることに

深掘りポイントがあると

個人的には考えてきました。

 

藤原氏の

氏寺は興福寺

氏神は春日大明神。

 

そして春日大明神と同体とされる

難陀龍王(なんだりゅうおう)という

諸龍王を司る「龍神」と

その難陀龍王を脇侍とする

十一面観音(長谷寺式)。

 

その十一面観音は

アマテラスと同体とされる

雨宝童子も脇侍としており

長谷寺は古くから

観音信仰の中心地のひとつで

藤原氏にも庇護を受け

もともとは興福寺の末寺でした。

 

長谷寺の十一面観音信仰は

歴史があるもので

「長谷信仰」は

元祖観音霊場であり

屈指の古刹からなる

西国三十三観音霊場の発祥と

関わります。

 

当山創建当初の本尊も

十一面観音とされます。

 

余談が長くなりましたが

藤原氏と観音信仰には

深いつながりがある点を

明示しておきたかったのです。

 

それと

京の方にルーツを持つ方が

当地に来たことは

歴史的にある話だと思いますし

修験者などの宗教者が

当地に居を構えたことも

実際にあったと思います。

 

諸江卿について付言すると

先に示した1と2の

イザナミノミコト勧請について

2の報告には

杉の植樹の伝説には

触れられていません。

 

当山では

開基開山上人の行海大和尚が

旧観音堂の地に

七つ星になぞらえて杉を植えた

との伝えがあるのですが

別説として

藤原諸江卿が杉を植えた

という伝えもあります。

 

これらについても

前回触れた坂上田村麿将軍の説と同様

同じエピソードの主人公が

“仏教的人物”から

藤原諸江卿に代替されているようにも

思われるのです。

 

藤原諸江卿を祖神とする

旧修験家の方々が

古来より大切にされてきた

祈りの地を

当時の状況下において

求められた形態にて

受け継いだことの決意の現れ

としての縁起改変

のようにも感じられます。

 

さらには

幕末における

新政権の政策構想として

国学者の立場から

奉呈された史料中にて

記紀神話の神々と

皇系につらなる方々や

国家に功績のあった方々を

国家的に祭祀するよう

主張するものがあり

藤原氏は「皇系につらなる方々」

となります。

 

この構想にそった形で

明治元年以降に

神社創建があいついだことと

旧観音堂の神社化と

藤原諸江譚への縁起改変は

軌を同じくした可能性もあるでしょう。

 

以上見てきたような

改変パターンによる縁起の整理で

時代的背景もあって

全国的に強要された神仏分離と

当地における旧観音堂の神社化を

乗り越え

“破壊”を伴う様な状況ではなく

可能な限り歴史や伝統を温存しつつ

明治スタイルに適応させた形に

着地させることが出来た

と言えようかと思います。

 

明治以後

大正・昭和20年までの間は

教育においても

古事記など日本神話に基づいた理解は

必須のことであり

それが公的祭祀を裏付けるものであり

国としての思想的基盤とも

いえるものでした。

 

明治における

旧観音堂の神社化や

それに伴う縁起改変は

明治だけの話ではなく

その後に向けた“国づくり”

としての文脈で捉えると

見えてくるものがあると感じます。

 

春の終活カフェのご案内【再掲】

春の終活カフェのご案内再掲です。

 

4月17日(木)午後1時から

ふれあい豊山館で開催します。

 

参加費は無料です。

 

午後1時から住職が

昨今の葬送事情

の演題でお話します。

 

合葬墓や永代供養についても

お話しますので

これからのご供養についてや

これからのお葬式について

何かしら考えてみたい方や

興味をお持ちの方は

ぜひご一緒ください。

 

午後1時から1時間程

住職がお話しまして

休憩をはさんで

弟子・中野太陽さんにも

少しお話いただきます(20分程)。

 

皆様のご参加

お待ちしております。

 

松山の古刹にて

愛媛県松山市別府町の

飯岡山浄明院に

行ってまいりました。

 

こちらの森脇宥海師には

当山のおこもり法要に

毎年おいでいただいてます。

 

拙僧泰峻とは

修行・修学を共にさせていただいた

法友でもあります。

 

牡丹祭り法要と

会館・納骨堂落慶法要に

出仕してまいりました。

 

同院では

神仏習合形式により

牡丹祭り法要が開催されており

落慶法要についても

関係社の宮司さんも出仕されました。

 

また今回は巫女さん達の舞も奉納され

とても良い祈りの時間でした。

 

明治時代以降も

維持されてきた地域もありますが

復興されたものも含め

最近は神仏習合の法要が

各地で見られるようになった印象があります。

 

 

とても良い祈りの時間でした。

 

今年も沢山の刺激をもらいつつ

参集された諸寺院の住職方との

ご縁も深められた

本年の牡丹祭りとなりました。

 

 

▼新築された会館・納骨堂

心地よい老子の響き

毎月一回のペースで

有志による古典勉強会が

開催されています。

 

少し前までは『論語』でしたが

最近は『老子』に

耳を傾けております。

 

講師の先生の講義録(CD)を聴きながら

ときおり素読して

最後にその場の皆さんで

その日に感じたことや近況報告といった

流れで開催が重ねられています。

 

講演録は

一般向け(おもに企業向け)の内容なので

とても分かりやすく

大変勉強になっています。

 

「耳」による学びは

とても良いものです。

 

現代的感覚では

「書籍は黙読するもの」

と主に捉えられていると思いますが

これはあくまで最近のことのようで

音読を伴っていた時代の方が

長かったそうです。

 

音読・素読を行うときに

私たちの感覚器官の働きは

黙読を行うときのそれ以上に

身体性を伴うものなので

健康にも効きそうな感じがします。

 

なじみのある黙読には

黙読の素晴らしさがあることを

(たぶん)私たちは知っているので

それとあわせて

音読・素読を実践してみるのは

心身を潤す一助になるように思います。