青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)⑤

青森県田子町の

釜渕家出身である高僧

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

は出生年の詳細は不明ですが

1657年頃に生まれ

元文4年(1739)82歳頃に

入寂したとされます。

 

名久井の名刹・法光寺に入門し

その後の足取りは不明ですが

宝永4年(1707)には

九戸の長興寺7世として

奉職していたことが

分かっております。

 

1657年に生まれたと仮定すると

宝永4年(1707)には

学秀は御年50歳ということになります。

 

法光寺入門後

50歳に至るまで

どのように過ごされたかについて

郷土史研究をされている方の

一説では永平寺に

行っていたのではないかと

いわれてきたようです。

 

たまたま見ていた

『新編八戸市史』(近世資料編Ⅲ)

所収の翻刻資料

「松館大慈寺歴代住職の書上」

(原本は天明8年(1788)の史料)

では学秀について

前総持

当寺六世奇峯学秀大和尚

元文四己未二月七日

と記されておりました。

 

「前総持」の部分は

住職になる以前に

(曹洞宗)本山である

横浜市鶴見の

総持寺(そうじじ)に

登嶺していたことを示すものです。

 

もう一方の本山である永平寺に

登嶺していたのであれば

「前永平」と記されます。

 

ということなので

学秀は総持寺へ

行っていたことになります。

 

総持寺に行っていたことは

間違いないようですが

当時の僧侶の修行や研鑽の動向や

学秀が彫られた仏像の

ラインナップを踏まえつつ

想像力を膨らませて

学秀の“足跡”を思い描いてみると

方々の学山で学ばれたり

霊場霊跡に赴かれたりしたと

考えても良いと思われます。

 

当時の僧侶の動向を探る一例として

当山の本山である

奈良県桜井市の長谷寺を

とりあげてみると長谷寺は

学山 豊山(がくさん ぶざん)といわれ

今で言う所の「宗派」の垣根を超えて

非常に多くの僧侶が学ばれた

“大学”のような御山でした。

 

そういった学山を

各所訪ねて研鑽を積むことが

明治時代になるまでは

“違和感のないこと”だったのです。

 

参考までにですが

学秀と同時代を生き

作仏も多くされた

港町の若松屋出身の僧侶である

津要玄梁(しんようげんりょう)は

松館大慈寺

盛岡の青龍山 祇陀寺(ぎだじ)

二戸浄法寺の天台寺で

修行された後に

階上町寺下を拠点にして

布教活動をされていらっしゃいます。

 

寺下の五重塔跡近くの

津要和尚墓誌には

延享ニ年(1745)乙丑

前永平(永平寺に登嶺していたの意)

祇陀先住(祇陀寺の僧侶であったの意)

石橋玄梁大和尚禅師

大閏十二月二十五日

と記されております。

 

学秀仏のラインナップを見てみると

聖観音(しょうかんのん)

十一面観音(じゅういちめんかんのん)

千手観音(せんじゅかんのん)

地蔵菩薩(じぞうぼさつ)

弥勒菩薩(みろくぼさつ)

勢至菩薩(せいしぼさつ)

五智如来(ごちにょらい)

大日如来(だいにちにょらい)

薬師如来(やくしにょらい)

阿弥陀如来(あみだにょらい)

釈迦如来(しゃかにょらい)

不動明王(ふどうみょうおう)

韋駄天(いだてん)

牛頭天王(ごずてんのう)

閻魔大王(えんまだいおう)

大黒天(だいこくてん)

恵比寿天(えびすてん)

十王(じゅうおう)

達磨大師(だるまだいし)

と実に幅広い尊格の

仏像と御像が

作仏されております。

 

尊格それぞれは

本質的には通じておりますが

各尊の司るみ教えやお諭しに

個性もあります。

 

尊格は主に

如来(にょらい)

明王(みょうおう)

菩薩(ぼさつ)

天(てん)

に分けられます。

 

これらは個別に

独立しているのでは

ありません。

 

例えば

弘法大師空海が請来した

曼荼羅を現図曼荼羅

といますが

曼荼羅中央に描かれる

大日如来という尊格について

見てみましょう。

 

現図曼荼羅は

金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)

胎蔵曼荼羅(たいぞうまんだら)

の一対になっており

金剛界は智慧

胎蔵界は慈悲

であるとも言われます。

 

学秀最古の仏像として

葛巻の宝積寺のために彫った

五智如来(ごちにょらい)

と称されている仏像が

八戸市の上野に

お祀りされております。

 

現在は1体ですが

もともとは5体であったと

考えられているそうです。

 

この五智如来とは

一般的に金剛界五仏といわれる

金剛界曼荼羅中央の

五尊を指します。

 

阿閦如来(あしゅくにょらい)

宝生如来(ほうしょうにょらい)

阿弥陀如来(あみだにょらい)

不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)

大日如来(だいにちにょらい)

の五仏を五智如来といいます。

 

五智(ごち)とは

五つの智慧のことで

先の金剛界五仏それぞれは

大円鏡智(だいえんきょうち)

平等性智(びょうどうしょうち)

妙観察智(みょうかんざっち)

成所作智(じょうそさち)

法界体性智(ほうかいたいしょうち)

の尊格です。

 

正確には五智のうち

前4つを四智(しち)

その総体を法界体性智といい

四智と法界体性智を合わせて

五智(ごち)といいます。

 

現在各流派の御詠歌(ごえいか)で

用いられている鈴(れい)の仕様は

もともとは

金剛流(こんごうりゅう)という

高野山の流派のものでして

この鈴(れい)の頭

(鈴頂(れいちょう))を

五智如来といいます。

 

▼御詠歌の鈴(れい)

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▼五智如来(ごちにょらい)

IMG_8760

 

鈴頂の五智如来は

蓮台(れんだい)の上に

五鈷(ごこ)という

五つの爪が載せられた形

となっており

これは先の金剛界五仏の

象徴でもあります。

 

蓮台の前に取り付けられている

梵字はバンという字で

(金剛界)大日如来を

表す種字(しゅじ)です。

 

金剛界五仏は

全ての尊格“各グループ”である

五部(ごぶ)を“代表”しており

金剛部(こんごうぶ)

宝生部(ほうしょうぶ)

蓮華部(れんげぶ)

羯磨部(かつまぶ)

仏部(ぶつぶ)

と各部のことをいいます。

 

これら五部の総体

(つまり全ての尊格の代表)

とされるのが大日如来です。

 

その大日如来の

教化(きょうけ)のお姿の1つが

不動明王とされます。

 

専門用語では

教令輪身(きょうりょうりんじん)

といいます。

 

要するに“本質的に”

大日如来と不動明王は

“同体”なのです。

 

以上のような諸尊の関係も

含めて「曼荼羅思想」と

ここでは言わせて頂くと

かつて曼荼羅思想は

僧侶や修験者

あるいは一般的に

現在より膾炙(かいしゃ)された

ものだったようです。

 

曼荼羅の考え方は

各尊格や仏像を捉える上で

必要不可欠な視点です。

 

学秀仏のラインナップを

ざっと見渡しても

「曼荼羅思想」に

大いに通じていると

いうことが出来るかと思います。

 

学秀は千体仏の作仏を

三度成し遂げた方です。

 

三度の作仏は大きく分けて

第1期〜3期という形で

表現されているそうです。


 

第1期 地蔵菩薩

(1600年代末〜1700年代初頭)

(学秀 50歳頃)

 

第2期 観音菩薩

(正徳2年(1712)頃〜)

(学秀 60歳頃〜)

 

第3期 観音菩薩

(享保7年(1722)〜元文4年(1739))

(学秀 70歳頃〜入寂)

 


第1期の千体仏は

飢饉で亡くなられた多くの方の

ご供養のために。

 

第2期の千体は

九戸の乱の戦没者供養のために。

 

第3期の千体は

隠居後に故郷である田子において

出身である釜渕家一族の供養のために。

 

単純計算してみると

観音菩薩を二千体以上

次いで地蔵菩薩を千体以上

作仏していることになります。

 

これらの仏像含め

学秀は三千数百体は作仏しただろうと

いわれているようです。

 

仏道において

「三千」という数は

伝統的な意味のあるもので

このことと関連付けて

学秀の三千仏を考察してみることは

有意義なことかと思います。

 

次回はこの点について

触れてみたいと思います。

 

▼五智如来が祀られるお堂(八戸市上野)

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▼金剛界曼荼羅

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▼胎蔵曼荼羅

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