サハリン追悼慰霊供養の旅へ行ってまいりました

8/26〜29の日程で

拙僧(副住職)は

追悼慰霊供養の墓参(ぼさん)団の

一員として

サハリン(旧・樺太)へ

行ってまいりました。

 

参加者21名のうち

拙僧(副住職)含め僧侶は4名でした。

浦臼の樺戸山 金剛寺(高野山真言宗)

ご住職・米田弘明大僧正

(写真左から2番目の方)

 

恵庭の金比羅山 弘隆寺(高野山真言宗)

ご住職・秋山有洋僧正

(写真右から2番目の方)

 

旭川の成田山 大聖寺(真言宗豊山派)

ご住職・伊藤聖健僧正

(写真一番左側の方)

 

以上3名のご住職と

お勤めをご一緒させて頂きました。

 

今回は拙僧(副住職)と同じく

現代教化研究所の研究員である

伊藤聖健僧正にお声がけ頂き

参加させて頂いた次第です。

 

米田大僧正は平成3年から

この墓参(ぼさん)を

サハリン各地で重ねられて

いらっしゃいます。

 

秋山僧正と伊藤僧正は

それぞれの先代住職の代より

米田大僧正と共に

墓参(ぼさん)をされておいでです。

 

サハリンは

終戦後に旧ソ連軍の侵攻により

5000とも6000ともいわれる方が

亡くなったんだそうです。

 

多くの方は

遺骨収集がされていないそうです。

 

日本人墓地や慰霊碑が

サハリン各地にあるのですが

誰にも手を合わせられることもない所や

全く手入れがされておらず

雑木林に埋もれてしまい

“忘れ去られ”ようとしている所も

多いと聞きました。

 

今回の墓参追悼慰霊供養の旅では

ユジノサハリンスク(旧・豊原)

ホルムスク(旧・真岡)

コルサノフ(旧・大泊)へ

赴かせて頂きました。

 

これまでサハリンのことを

多くは知りませんでした。

 

沢山のことを

考えさせられた4日間でした。

 

今回の参加者の多くは

樺太出身の方や

ご両親が樺太出身であるなど

樺太とご縁のある方でした。

 

当時のことを知る皆様のお話しは

とても生々しく

臨場感すら覚えるようなものばかり。

 

本当に貴重な体験でしたし

大切なことを教えて頂いたように感じます。

 

 

▼熊笹峠のトーチカにて

※トーチカは防空壕や見張り台の

ようなもののことをいうそうです。

 

▼ホルムスク(旧・真岡)にて

 

▼コルサノフ(旧・大泊)日本人墓地にて

 

▼ユジノサハリンスク(旧・豊原)にて

 

▼サハリン州郷土博物館(旧・樺太庁博物館)

【参加者募集中】9/25寺子屋ワークショップ『写経カフェ』

9/25

午前10時より

寺子屋ワークショップ

写経カフェ

が開催されます。

 

▼『写経カフェ』の様子(2019/7/25)

https://www.youtube.com/watch?v=C5bojEpebbM

 

寺子屋ワークショップで

お納め頂く御浄財の一部は

アーユス仏教国際協力ネットワーク

への寄付を通じて

国際協力活動に活用されます。

 

寺子屋ワークショップに

ご参加頂き精進頂くことが

そのまま国際協力活動に重なります。

 

参加者を募集しておりますので

ご参加される方は

お気軽にお問い合わせ下さいませ。

 

※担当者が不在の場合が多いので

ご連絡は下記アドレスへ

メール頂けると助かります。

fugenin643@gmail.com

 

日程:令和元年9月25日

時間:午前10時〜正午頃

会費:1500円

会場:普賢院ふれあい豊山館

定員:24名

 

津軽の名所 髙山稲荷

津軽に鎮座する

髙山稲荷(たかやまいなり)。

 

案内板によると

鎌倉時代から室町時代にかけて

このあたりを統治していた

豪族の安倍安東(藤)氏の創建と

伝えられるそうです。

 

また同案内によると

こちらの稲荷社は

播磨国赤穂藩主

浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)

の江戸城中での刃傷事件による

藩取りつぶしの際

赤穂城内に祀っていた

稲荷大神の御霊代を

藩士の寺坂三五郎が奉戴し

流浪の果て津軽の弘前城下に寓し

その後鰺ヶ沢に移り住み「赤穂屋」と号し

醸造業を営み栄えたそうです。

 

その子孫が渡島に移住するにあたり

この髙山の霊地に祀れとのお告げにより

遷し祀ったと伝えられるようです。

 

稲荷信仰は

全国的に隆盛したもので

当山にも江戸期の稲荷大明神が

境内に祀られますし

堂内にも御像が祀られ

大切にされております。

 

髙山稲荷の境内はとても広く

社殿などもとても立派で

篤く敬われていることが

伝わってまいりました。

 

せっかくなので

拙僧(副住職)も同行した家族とともに

心願成就を願い宮司さんに

ご祈祷して頂きました。

 

ねぶたと田村将軍伝説

青森のねぶたは全国的に有名です。

 

ねぶたの起源には諸説ありますが

坂上田村麿将軍の伝説が

伝えられております。

 

毎年優れた団体を表彰する

「ねぶた大賞」という栄えある賞がありますが

少し前までこの賞は

「田村麿賞」という賞名でした。

 

青森駅のすぐそばにある

ワ・ラッセには

受賞した6台のねぶたが

展示されております。

 

ねぶた大賞を受賞したねぶたをはじめ

美しく迫力満点のねぶたは圧巻です。

 

是非多くの方に

ご覧頂きたいです。

 

ねぶたついでに

もう少しだけ田村将軍について

触れさせて頂きたいと思います。

 

田村将軍の伝説は

青森県内各所に見られますが

当山にも田村将軍創建伝説が

伝わっております。

 

当山の創建伝説というのは

田村将軍が奥州六観音の一つとして

七崎に十一面観音を祀ったというものです。

 

当山の現在の本尊は愛染明王ですが

かつては十一面観音を

本尊としております。

 

少し脱線しますが

いつの頃のものかは不明ですが

当山が所蔵する古い版木(はんぎ)で

観音菩薩のお姿と

七崎山 普賢院」の字が彫られている

ものがあります。

 

七崎山は観音山とも呼ばれており

当地周辺を指しますし

現在の七崎神社の地にあった

旧観音堂(寺号・徳楽寺)の

山号としても用いられていました。

 

普賢院においても七崎山の山号が

用いられることがあったということを

版木は伝えております。

 

全てというわけではありませんが

田村将軍伝説は

十一面観音と関わりが深いものが

多く伝えられます。

 

当山に伝わる

田村将軍創建伝説も

十一面観音との関係で

語られております。

 

ここでいう田村将軍は

“歴史上の人物”の枠組みを超えた

“神仏に連なるもの”(権者)といえます。

 

こういった視点は

伝説と向き合う際に

必要だと思います。

 

熊野権現と十和田湖の十湾寺

青森市油川の熊野社と

十和田湖十湾寺(とうわんじ)について

先日ブログでとりあげましたが

今回はその十湾寺について

もう少しだけ触れたいと思います。

 

中道等氏の

『十和田村史』(上巻)

(青森県上北郡十和田村役場、昭和30年)

にはかつて十和田湖にあった

熊野山 十湾寺について触れらた

史料が紹介されておりますが

それを記した僧侶が

当山先師の廣宥(こうゆう)大和尚です。

 

十湾寺は史料によっては

十涯寺とも十瀧寺とも記されます。

 

当山は鎌倉期から江戸初期にかけ

永福寺の寺号が用いられておりましたが

盛岡に永福寺の本坊が

建立されて以後は

本坊永福寺に対し

旧地である七崎(現在の豊崎)の

永福寺を自坊 普賢院とし

同じく旧地である三戸の永福寺を

自坊 嶺松院(れいしょういん)としました。

 

当山と同じく自坊であった嶺松院は

寛文年間(1661〜1673)に焼失したと

『新撰陸奥国誌』には記されます。

 

廣宥大和尚が

本坊永福寺45世住職を担うわけですが

史料を見てみると

本坊永福寺44世良光大和尚が

元禄12年(1699)に下総の観福寺へ

行かれることになり

永福寺住職を辞められた後

45世の廣宥大和尚が就任される間

如常

堯意

堯誉

以伝

という方々が「住職」を

されております。

 

南部藩における冠寺であった

本坊盛岡永福寺の

正式な住職になるためには

様々な条件が必要だったことと

このことは関係しております。

 

廣宥大和尚は

法明院住持をつとめられ

後に当山本坊盛岡永福寺45世も

つとめられた方で

当山先師過去帳にも

当山歴代先師墓の墓誌にも

その名を連ねられていらっしゃいます。

 

法明院は永福寺末寺ですが

江戸後期に本末関係をめぐり

“いざこざ”があった

寺院でもあります。

 

さて

余談が過ぎてしまいましたが

以下に中道氏の書き下し文の

一部を引用いたします。

(カタカナ表記をひらがなに改めました)

 


陸奥南部糠部郡の奥瀬村に

十和田と号する沼あり

 

奇代の霊沼にして

塵俗を離る数百里

城下を去ること数千里

 

峩々(がが)たる高山は峰を並べ

黄々たる灌木は枝を連ね

萋萋(せいせい)たる

葛藟(かつるい)は道を塞ぐ

 

既にして

虫類禽獣たりといえども

輙(たやす)く上ることを得ず

 

清々たるの池に臨みて之を見れば

洪々たる海水は崎を敲(たた)き

潺緩(せんかん)たる波浪は砂を洗ふ

 

譬えば魍魎鬼神たりといえども

謾(みだ)りに池の辺(ほとり)に

近づく能わず

 

誠に和漢无雙(むそう)の霊沼なり

 

是の沼の来由を尋ねしむるに昔

人王七代の帝 孝霊天皇の

治世七十六年壬子の暦(とし)の六月

湧き出たりと云々

 

此沼の主に八郎太郎と云う大竜あり

 

諸(もろもろ)の眷属八竜王

前後左右を囲繞(いぎょう)し

渇仰(かつごう)して常に之を

守護すること歳久しかりき

 

其後

人王五十一代平城天皇の御宇

大同二年丁亥の年八月

南宗比丘(なんそびく)

新たに霊夢を蒙り

彼の八竜を追出して

則ち池の主とはなりぬ

 

斯の時

悉く隣里郷党奔(はし)り集まりて

七堂伽藍を建立し

熊野三所権現を勧請し奉りて

熊野山十涯寺と号したり


 

ここには僧侶ならではの

言い回しが見られます。

 

十湾寺についてのみならず

十和田湖伝説の“ダイジェスト”を

どのように捉えていたのかを

窺い知ることが出来るように思います。

 

▼自籠岩より見た十和田湖(西湖)

歴史ロマン〜国道4号線の魅力〜

8/23は拙僧(副住職)長女の

幼稚園の遠足で

岩手県立児童館いわて子どもの森

行ってまいりました。

 

いわて子どもの森は

奥中山高原にある

とても素晴らしい施設です。

 

朝8時半に大型バス2台で

五戸の江渡(えと)幼稚園を出発しました。

 

幼稚園の遠足なので

立ち寄ることは出来ませんでしたが

国道4号線で南下する道中には

多くの史跡や見所があります。

 

自身で運転している時は

外の景色をじっくり

観察することは出来ませんが

今回は娘の隣に座りながら

スマホの地図を片手に

じっくりと景色を堪能出来ました。

 

サハリンへ行ってまいります

8月26日から29日まで

拙僧(副住職)はサハリン(旧樺太)へ

行ってまいります。

 

サハリンは北海道の

さらに北に位置する

巨大な島です。

 

旭川の成田山大聖寺ご住職で

拙僧(副住職)と同じ

現代教化研究所の研究員でもある

伊藤聖健師にお声がけ頂き

第53回サハリン平和の翼へ一僧侶として

参加させて頂くことになりました。

 

参加者名簿を見ると今回の旅団は21名で

そのうち僧侶は拙僧(副住職)含め4名です。

 

多くは北海道の方で

旧樺太で出生された方など

旧樺太とゆかりのある方のようです。

 

拙僧(副住職)にお声がけ下さった

伊藤聖健師も先代住職である

ご尊父様が旧樺太出身です。

 

慰霊追悼の式典の他

郷土博物館やロシア正教会にも

立ち寄る予定となっております。

 

拙僧(副住職)はサハリンについて

ほとんど知らないので

下調べをしてみましたが

とてもデリケートな問題もあり

色々と考えさせられます。

 

自身の役目を果たしつつも

多くを学び多くを感じてきたいと思います。

 

大発見かもしれません〜早稲田観音と普賢院聖観音〜

滝尻善英氏の

『奥州南部糠部三十三カ所霊場めぐり』

(デーリー東北社、平成15年)に

掲載される第23番札所・早稲田観音の

十一面観音像の写真。

 

下から見上げるなアングルで

全体像が写真に納められ

仏像の特徴が捉えられています。

 

こちらがその写真です。

 

調べ物をしていて

それとなしに早稲田観音の

お姿を確認しようと思い

前掲の書籍を見たところ

早稲田十一面観音と

当山の聖観音(しょうかんのん)が

とても似ていることに気が付きました。

 

今話題にあがっている

当山の聖観音は観音堂内陣内殿の

七崎観音の脇仏として

向かって右側に祀られる観音像です。

 

古くから当山に祀られているようですが

その詳細は不明でした。

 

当山では本堂建替を控えており

来年春までには現在の本堂を

解体しなければならないため

本年の七崎観音御開帳の際に

内殿の観音像を細かく観察して

その特徴を確認しております。

 

そういった経緯があっての

今回の「気づき」です。

 

早稲田観音は

当山ととても関わりのある観音様で

かつて早稲田観音の別当を勤めていた

嶺松院(れいしょういん)は当山同様

江戸期に盛岡永福寺を本坊とする

関連寺院でした(現在は廃寺)。

 

普賢院と嶺松院は

いずれも永福寺の旧地ということで

自坊という形で庇護されました。

 

そういった歴史的関係性が

大いにある2所なので

同じ仏師が作仏された仏像が

祀られていたとしても

何ら不思議はありません。

 

それでは実際に

2体の観音像の類似点を

見ていきたいと思います。

 


【蓮台】

▼早稲田観音

▼普賢院聖観音

蓮台後方の“魚のヒレ”のようなものが

左右に施されており

これは早稲田観音の写真でも

この特徴的な部分が

当山同様左右両方に

施されていることが

はっきりと分かります。

 

また蓮台下の敷茄子(しきなす)と

呼ばれる箇所の作りや

その下にある蓮台もまた

作風がとても似ています。

 

【仏頭と上半身】

▼早稲田観音

▼普賢院聖観音

共通する点として

大きな耳たぶ

左手の形

左手に持たれている蓮の作風

装身具がない如来形

などが挙げられます。


 

前掲書より

以下を引用させて頂きます。

 

万治2年(1659)の

棟札(むなふだ)によると

二十年程前の寛永17年(1640)3月

門前の焚き火が飛び火して焼失し

宥鏡(ゆうきょう)法印の代に再興し

ご本尊の観音像も修復したと

記されています。(前掲書、p.92。)

 

寛永17年(1640)に

早稲田観音は火災に見舞われたことが

棟札に記されているとありますが

別の史料では

寛文年間(1661〜1673)にも

嶺松院が火災に見舞われていることが

記されております。

 

余談ですが

この宥鏡という方は

当山の先師でもありますが

その晩年の延宝8年(1680)に

本坊・盛岡永福寺も大火災に

見舞われております。

 

前掲書にも記されておりますが

早稲田観音の観音像は

棟札に記される万治2年(1659)

以前からある仏像ということになります。

 

当山の聖観音像もまた

同時期のものであれば

少なくとも三百数十年

当山にお祀りされていたことになります。

 

“真実”は

早稲田観音と当山の聖観音のみ知るわけですが

新たな仮説として

決して無理のないものかと思います。

 

さて

こういったことはどなたに

相談や問い合わせすれば

良いのでしょうか?

お盆のおすそわけ〜おてらおやつクラブの発送作業〜

毎年1月23日と8月23日は

子安様(こやすさま)という行事が

当山本堂にて行われます。

 

地元の永福寺町内会が

各班もちまわりで

毎年行われております。

 

子安様は

子安地蔵菩薩というお地蔵様で

当地ではとても大切にされております。

 

この子安様の行事の良き日に

おてらおやつクラブの発送作業をしました。

 

おてらおやつクラブは

お寺にあがった「おそなえ」を

「おさがり」として

「おすそわけ」する活動です。

 

▼おてらおやつクラブについて

https://otera-oyatsu.club

 

今回はお盆の期間中に

位牌堂へのお参りや

ご法事の際に捧げられた

「おそなえ」を「おさがり」として

箱詰めさせて頂きました。

 

お供物には

数々の“おもい”が託され

「おそなえ」されます。

 

その“おもい”が更に廻らされ

「おすそわけ」を必要としている所で

お役立て頂けることを願い

今月も発送させて頂きました。

 

青森市油川の熊野社と十和田湖十湾寺

享保年間の『津軽一統志』は

外ヶ浜(青森市)油川の

熊野十二所権現社に

永禄2年(1559)の再興の棟札があり

その裏書には

十湾寺(とうわんじ)南蔵坊

於いて勧請(かんじょう)

と記されていると伝えております。

 

この十湾寺は永福寺の別院で

熊野山の山号を用いていたとされます。

 

史料によっては

十涯寺や十瀧寺とも記されます。

 

永禄2年の棟札に見られる

南蔵坊というのは

十湾寺に所属する坊と見られます。

 

当山付近にも

南宗坊という地名があり

かつて当山に所属する坊が

あったと言われております。

 

南蔵坊も南宗坊も

十和田湖伝説の南祖坊(なんそのぼう)に

連なるものと考えて

差し支えないかと思います。

 

十和田湖伝説に関係なくとも

「南蔵」や「南宗」の文言は

寺院に用いられることがあるのですが

今回見ているものについては

関係性が十分にあるものなので

南祖坊伝説の「ナンソ」が

踏まえられていると捉えて良いと思います。

 

南祖坊伝説において

熊野信仰は重要な要素の一つといえます。

 

現存するか否かは分かりませんが

『津軽一統志』が伝える永禄2年の棟札は

十湾寺の名が見られる

とても貴重なものといえます。

 

十湾寺については

またの機会に

こちらで紹介させて頂きます。

 

▼油川の熊野宮

▼油川の熊野神社(十三森熊野宮)