合葬墓の基礎工事が始まりました

長く検討を重ねてきた合葬墓の

基礎工事が本日より始まりました。

 

「ふるさとパノラマ」の動画中

合葬墓の工事の様子についても

触れているので

ご覧いただき

ご確認いただければ幸いです。

 

本堂建替との兼ね合いもあり

合葬墓建立に

かなり時間がかかっていました。

 

合葬墓建立に向け

大きく前進でき

安心しております。

 

昨今お墓に関連する

ご相談が急増しています。

 

少しでも

お心に寄り添えるようにとの

強い思いから

合葬墓建立を発願して

これまで検討を

重ねてまいりました。

 

ご供養の

新たな選択肢として

ひとりでも多くの方に

ご安心いただけるよう

内容もつめていきたいと思います。

 

 

▼墓地整備についてはコチラ

三戸大神宮を訪ねました

南部町、田子町の当山関連地を

回っていたときに

たまたま立ち寄った三戸大神宮。

 

境内は掃き清められており

すがすがしい気持ちで

お参りさせていただきました。

 

こちらは会津斗南藩

ゆかりの地でもあります。

 

当山にも

斗南藩縁故者の墓石が16基あり

そのようなことから

足を運ばせていただきました。

 

すると

こちらの祖霊社がある所が

明治に廃寺となった

当山有縁の正智院というお寺の

跡地であることを知りました。

 

当山先師の中には

正智院住職を歴任された方が

いらっしゃいます。

 

当山先師には

正智院以外にも

現在は廃寺となっている

お寺の住職をつとめた方が

何人も見られるのですが

これは貴重な歴史を

今に伝えているように思います。

 

三戸大神宮ですが

突然の訪問にも関わらず

宮司さんが丁寧にご案内下さいました。

 

趣向を凝らした

取り組みをされていらっしゃり

地域の皆様に

親しまれている神社ということが

伝わってまいりました。

 

早稲田観音〜三戸永福寺と七崎永福寺(普賢院)〜

普賢院の住所は

「永福寺(えいふくじ)」

となっていますが

これはかつての寺院名が

永福寺であったことを

今に伝えています。

 

当山は鎌倉〜江戸時代初期に

永福寺という寺号(お寺の名前)が

主に用いられていました。

 

寺号ついでにいえば

本堂建替に伴う

所蔵物の整理・調査の中で

古い聖観音御影版木の山号寺号が

「七崎山普賢院」となっている

ものを発見しました。

 

これまで

「七崎山」という山号は

当山が長く別当を担っていた

旧観音堂の寺号「徳楽寺」

と“セット”のものとして

当然のように捉えられてきました。

 

「七崎山普賢院」と

刻される版木の発見は

その“定説”を再考する余地が

大いにあることを示すといえます。

 

確認ですが

旧観音堂は明治まで

現在の七崎神社の地にありましたが

明治になって廃寺となり

跡地は七崎神社に改められました。

 

棟札等を踏まえるに

徳楽寺という寺号は

15世紀半ば頃〜後半に

用いられ始めたと推定しています。

 

江戸時代になり

檀家制度が成立し

お寺の本末関係も

“行政的に”明確にすることが

幕府により企図されます。

 

本末関係が確認され

本寺が最も権威があると

されたものの

史料を見る限り

本寺に「絶対的権力」が

あったわけではないようで

末寺の方が経済的に

豊かになっていった

というケースは

珍しくありません。

 

東北地方は

飢饉が頻発した歴史があり

いくら藩の手厚い支援を

受けていたからといって

本寺が盤石な体制を敷いていた

わけではないようです。

 

話が大分脇道にそれましたが

「お寺の運営・経営」という側面が

歴史に大いに関わっている

ということをお伝えしたいのです。

 

普賢院が鎌倉〜江戸初期に

用いていた永福寺という寺号は

鎌倉二階堂にあった永福寺(ようふくじ)

という大寺院に由来します。

 

鎌倉の永福寺(ようふくじ)は

源頼朝が奥州戦乱の戦没者供養のため

平泉の大長寿院二階大堂を模して

鎌倉に建立した大寺院です。

 

その鎌倉永福寺の僧・宥玄が

南部氏より恩賞として

三戸沖田面(現南部町)に

永福寺が建立されます。

 

それに加え

七崎も与えられ

当山も所管することに

なったとされます。

 

永福寺の僧侶が入ったことから

当山も次第に永福寺と

呼ばれるようになったと

伝えられます。

 

永福寺は

江戸初期になると

本坊が盛岡に建てられ

七崎永福寺(普賢院)と

三戸永福寺(嶺松院)は

自坊と位置づけられます。

 

これまで

指摘されてきませんでしたが

この点については

永福寺の“運営・経営的側面”も

大きく関係していると思われます。

 

お寺とひとことでいっても

菩提所と祈願所という

違いをはじめとして

細かな違いがあるのですが

それらを踏まえてみると

いろいろなことが

浮かび上がってまいります。

 

これ以上記すと

ボリュームが凄いことになるので

この辺にしておきます。

 

七崎永福寺(普賢院)

三戸永福寺(嶺松院)

盛岡永福寺

という3つの永福寺。

 

七崎永福寺を残し

明治になり

他の永福寺は廃寺となりました。

 

盛岡永福寺については

昭和17年(1942)3月に

再興許可がおり

新たなスタートが切られました。

 

糠部三十三観音第23番札所の

早稲田観音は

今はなき三戸永福寺(嶺松院)の

歴史をとどめる札所といえます。

 

早稲田観音について

動画で紹介していますので

ご覧いただき

当山とのご縁も

深めていただければ幸いです。

 

田子町の釜淵観音

糠部三十三観音第27番札所の

釜淵観音は

青森円空と称される

奇峰学秀(きほう がくしゅう)

ゆかりの札所です。

 

学秀和尚は江戸中期の高僧で

生涯に三千数百体もの仏像を

作仏されました。

 

学秀和尚が作った仏像は

学秀仏(がくしゅうぶつ)と

呼ばれており

当山にも千手観音が

お祀りされています。

 

当山には

学秀仏と思われる仏像が

他にもお祀りされています。

 

学秀和尚は

千体仏の作仏を3回行っており

釜淵観音堂は

3度目の千体仏作仏を

成し遂げた地でもあります。

 

釜淵観音についての動画を

アップしたので

ご覧いただき

ご縁をお深め下さいませ。

 

本堂解体から地鎮式のダイジェスト

先の5月19日に本堂建替に向け

地鎮式(じちんしき)が行われ

本格的に建設工事が

始まろうとしています。

 

本堂建替に伴う諸儀式のうち

最初に行われる地鎮式は

一番準備が大変なものだと

個人的には感じていましたが

無事に終えることが出来ました。

 

一般住宅の地鎮式は

お願いされれば

仏式でお勤めしていたのですが

本堂建設の地鎮式は

初めての経験でしたし

どのような作法でお勤めするのか

調べるのも大変でした。

 

平成29年に本堂建替事業が

本格化してすぐに

諸儀式について各種次第にあたり

準備を進めていたのですが

地鎮式についてが

一番難しいように感じました。

 

これまでも

建替事業の様子については

動画をアップしてきましたが

地鎮式までのダイジェスト版を

ひとつの区切りとして準備したので

ご覧になって下さいませ。

 

田植えの時季のふるさとパノラマ

多くの田んぼに水が引かれ

田植えのピークを迎えている

豊崎町の光景を

お寺の上空から撮影しました。

 

この時季のふるさとの景色は

とてもきれいだと感じます。

 

ふるさとパノラマとは

脈絡のない話になりますが

本日境内に合葬墓の基礎工事用の

鉄板が敷かれました。

 

本堂の基礎工事に入る前に

墓地に建立される合葬墓の

基礎工事が間もなく始まります。

 

その工事が終わると

来月末頃より本堂の基礎工事が

始まることになっています。

 

工事中は色々と

ご不便おかけすることも

あると思いますが

ご理解ご協力の程

よろしくお願いいたします。

 

運動会とバッティングしながらの写経カフェ

22日に予定されていた

子どもたちの運動会は

雨で順延されました。

 

この約2年

法務などに追われ

子ども達の行事には

ほぼ参加出来ませんでした。

 

22日の日程を

何とか確保して

運動会での勇姿を

見たかったのですが

天候のため今回も行事に

参加出来ませんでした。

 

順延された本日

何とか天候には守られ

運動会は開催されましたが

当山では写経カフェでした。

 

運動会の準備もしながら

写経カフェの準備も行ったため

妻はとても大変だったようですが

おかげさまで

今回も無事に和やかに

写経カフェが行われました。

 

その様子を編集して

アップしたので

ご覧いただけると幸いです。

 

南祖法師和讃を作らせていただきました

普賢院は十和田湖伝説の

南祖法師(なんそほっし)が

修行したとされるお寺です。

 

南祖法師は

南祖坊(なんそのぼう)と通称され

広く親しまれてきた伝説の僧侶で

当山第2世・月法律師(がっぽうりっし)

の弟子であり

十和田湖の龍神・青龍権現に

なったとされます。

 

令和3年は

廻国僧の行海上人により

承安元年(1171に当山が

開基中興されて850年という

節目でもあります。

 

昨日もお伝えしたように

開基中興850年記念として

普賢院和讃と

南祖法師和讃を

作らせていただきました。

 

拙僧(副住職)は

豊山流(ぶざんりゅう)御詠歌の

詠秀(えいしゅう)という

公職につく身でもあり

御詠歌をとても大切にしております。

 

自身が出来ることの一つとして

御詠歌(和讃)を

この歴史的節目に

記念事業として納めようと

数年前に発願しまして

何とか形にすることが出来ました。

 

お寺の歴史や

お寺の伝承・伝説を

後世に託す一助になればと思います。

 

▼南祖法師和讃

 

▼普賢院和讃はコチラ

念願だったお寺のご詠歌(和讃)が出来ました

令和3年は

当山が開基中興され850年という

歴史的な節目にあたります。

 

この機会に

かねてより念願していた

当山のご詠歌(和讃)を

納めさせていただきました。

 

この度

当山に納めさせていただいたのは

普賢院和讃と南祖法師和讃です。

 

普賢院和讃の奉詠動画を

用意したので

聞いていただけると幸いです。

 

6/3写仏ワークショップを南部会館で担当します

ご縁がありまして

南部会館にて

写仏ワークショップを

担当いたします。

 

今回の

“出張・寺子屋ワークショップ”

をご一緒しませんか?

 

当山で開催している

寺子屋ワークショップ同様に

参加費の一部は

アーユス仏教国際協力ネットワーク

への寄付を通じ

国際協力活動に役立てられます。

 

今回は南部会館の使用料や

主催のデーリー東北に

お手伝いいただく関係で

会費は2500円となっております。

 

お寺から

プロジェクターやスクリーンを

持参しまして

それらを駆使して

ワークショップのひとときを

ご一緒させていただこうと思います。

 

参加される方は

お申し込みが必要となります。

 

ご参加ご希望の方は

下記連絡先にご連絡

下さいますようお願いいたします。

 

写経ワークショップin南部会館

  • 日程 2021/6/3(木)10:00〜12:00(※受付9:30〜)
  • 会費 2500円
  • 定員 15名程度
  • 持ち物 使い慣れた筆記用具(筆、鉛筆など)をお持ち下さい。(※お寺からも筆と墨は持参します)
  • 会場 南部会館(八戸市内丸3丁目3-6、電話0178-43-9202、メール info@nabukaikan.com)
  • 予約・お問い合わせ 南部会館(八戸市内丸3丁目3-6、電話0178-43-9202、メール info@nabukaikan.com)