一役割を果たすべく

当山には

多くの仏像のみならず

多くの荘厳や奉納品が

設えられております。

 

それらには

沢山の物語があります。

 

本堂建替を

控えていることもあり

本腰を入れて

当山にまつわる歴史や

当山の仏像や荘厳類等の

調査研究を進めておりますが

とても多くのことを

改めて学ばせて頂き

気づかせて頂いております。

 

またそれに伴って

新たな「発見」も続いております。

 

元号が改まり

いよいよ幕を開ける

新時代以降において

諸事お伝え出来るようにすることは

地域における

お寺の重要な役目だと感じます。

 

その役目を果たせるよう

研鑽に励み続けたいと

思っております。

 

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八甲田を遠くにのぞむ

気象条件にもよりますが

当地からは雪をまとった

八甲田山が見えます。

 

個人的には

洞(ほら)近辺か

豊崎橋からの眺めが好きです。

 

写真だと分かりにくいのですが

とても美しい景観です

(写真は豊崎橋からの眺め)。

 

当山は真東を向いて

建てられているので

ちょうど背に八甲田山を負うような

位置になっております。

 

場所にもよりますが

当地からは

名久井岳や階上岳も

眺めることが出来ますし

はるか東方には海が広がります。

 

 

当地は

調べるば調べるほど

とても興味深い立地になっていると

感じさせられております。

 

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青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)⑦

現在の青森県田子町の

釜渕家出身の高僧

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

は1657年頃に生まれ

元文4年(1739)82歳頃に

入寂したとされます。

 

学秀は千体仏作仏を三度成満し

その他にも数百体の仏像を

彫られたとされます。

 

三度に渡る千体仏作仏は

以下のようになります。

 


 

第1期 地蔵菩薩

(1600年代末〜1700年代初頭)

(学秀 50歳頃)

飢饉物故者供養のため

 

第2期 観音菩薩

(正徳2年(1712)頃〜)

(学秀 60歳頃〜)

九戸戦争戦没者のため

 

第3期 観音菩薩

(享保7年(1722)〜元文4年(1739))

(学秀 70歳頃〜入寂)

生まれである釜渕家一族の供養のため

 


 

本年2月に学秀御作の

千手観音が確認されたご縁で

当山の歴史や

仏道の視点を交えつつ

高僧学秀について

紐解かせて頂いております。

 

学秀御作の千手観音は

当山の千手観音堂に

祀られていたと考えられます。

 

また享保年間の

当山中興開山の時期に

請来された可能性があります。

 

さらに

確認され報告されている所の

学秀仏のラインナップから

曼荼羅の話に飛んだり

長谷寺の話に飛んだり

観音霊場の話に飛んだりと

振り返ってみると

様々に触れてまいりましたが

今回は当山に祀られる

学秀御作の千手観音像を

じっくり観察して

述べられることを

述べさせて頂きます。

 


【正面】

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正面には4手あり

一組は胸の前で合掌をし

もう一組はおへその辺りで

定印(じょういん)という

印を組んでおり

宝鉢(ほうはつ)をのせております。

 

合掌と定印が

正面にて組まれているお姿は

千手観音の一般的なお姿といえます。

 


【頭頂】

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多面(顔が複数あること)であることが

よく分かると思います。

 

本面(メインの顔)の上にあたる

頭部は三段になっており

確認出来る範囲で

一段目が11面

二段目が7面

三段目が3面です。

 

欠けた面もあるかもしれませんし

数え損ねている面も

あるかもしれませんが

本面をあわせて二十二面

となっております。

 

三段目は3面のうち

中央のお顔が大きくなっており

これは化仏(けぶつ)である

阿弥陀如来だと思われます。

 


【側面】

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左右側面には2列に複数の穴があり

これは千手観音の手が差し込まれていた

ほぞ穴だと思われます。

 

こういった細工は

他の学秀仏には見られないので

少し細かく検討しつつ

眺めてみたいと思います。

 

よく見ると

一列の穴の数はそれぞれ9つ

あるように見えます。

 

仮に1列9つの穴があるとして

左右2列ずつなので

合計36個の穴があり

両側面には合わせて

36手があったと考えられます。

 

それに正面の4手を加えると

合計40手の仏像ということになります。

 

とすると

これは手の数に

意味が通わされて作られたという

可能性が出てまいります。

 

補足ですが

千手観音の「千」とは

「はかりしれない慈悲」を

意味します。

 

千手観音の「化身」として

四十観音(しじゅうかんのん)

という“観音群”があり

千手観音の40手に応じた

お姿で描かれます。

 

四十観音は

『千光眼秘密法経』という

経典に説かれます。

 

専門的な話ですが

「五部五法(ごぶごほう)

それぞれに各8手があり

40の真言法になる」と

されております。

 

細かな説明は省きますが

五部五法というのは

①仏部(ぶつぶ)

息災法(そくさいほう)

②金剛部(こんごうぶ)

調伏法(ちょうぶくほう)

③宝部(ほうぶ)

増益法(そうやくほう)

④蓮華部(れんげぶ)

敬愛法(けいあいほう)

⑤羯磨部(かつまぶ)

鉤召法(こうしょうほう)

の「部」と「法」を指します。

 

それぞれに8手があるということは

「4組の手」があることになります。

 

言葉を替えると

五部五法それぞれに

4尊格(仏の意)がそなわっている

ことを意味しております。

 

かなり専門的な話になるので

これ以上の言及はさけますが

これは金剛界曼荼羅

そのものを意味しております。

 

ほぞ穴を多数こしらえて

多手を差し込む形の

学秀の作仏は

現時点では他に見られません。

 

「40手の意味」が

踏まえられての

お姿であるとすれば

当山を中興された

快傅上人がその旨お伝えし

作仏して頂いたのではないか

という推測が出来るように思います。

 


【背面】

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背面には

衣紋線が見られます。

 

これは背面は

学秀仏全般に見られる特徴と

同様なのだそうです。

 

「学秀美」を感じます。

 


 

今回は当山に祀られる

学秀仏・千手観音坐像を

観察いたしました。

 

一般的な千手観音の特徴も

確認出来ましたし

真言宗の事相的側面に

通じている可能性も

確認することが出来ました。

 

ここでいう事相的側面とは

換言すると

「真言宗において専門的なこと」

ということです。

 

この点から

当山を中興開山された快傅上人が

千手観音作仏に携わっていたと

考えることが出来るように思います。

 

【快傅上人の墓石】

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春彼岸に捧げられた心が巡らされる

おてらおやつクラブの

発送作業を行いました。

 

今回は

春彼岸に供えられたお供物を

ダンボールに詰めさせて頂きました。

 

「おそなえ」が

「おさがり」として

「おすそわけ」される

おてらおやつクラブの活動は

「心」を巡らせる活動でもあります。

 

春休みのひとときに

笑顔が咲きますようにと願い

荷造りをさせて頂きました。

 

▼おてらおやつクラブ

https://otera-oyatsu.club

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南祖法師尊像の来た道を探る 是川福善寺の虚空蔵菩薩像

江戸時代中期に活躍された

津要玄梁(しんようげんりょう)

という禅僧がいらっしゃいます。

 

当山には十和田湖伝説の

南祖坊(なんそのぼう)の御像である

南祖法師尊像(なんそほっしそんぞう)が

観音堂にお祀りされますが

この御像は津要和尚が

手がけられたものではないかと

拙僧(副住職)は考えております。

 

その可能性に

初めて気がついたのは

白銀の清水観音(糠部第6番札所)

について調べていた時でした。

 

こちらの清水観音堂は

かつて当山が別当をつとめたお堂で

本尊の十一面観音像は

津要(しんよう)和尚が

作仏されたものです。

 

この十一面観音の写真が

滝尻善英氏の著作に

掲載されており

その御尊容に

当山に祀られる南祖法師尊像の

御尊容と類似する点が

多く見られたため

南祖法師尊像は

津要仏(津要が作仏された仏像の意)

ではないかと考えるように至ったのです。

 

それ以来

津要仏について

個人的に調査をしております。

 

【これまでの“仏像調査”の記事】

https://fugenin643.com/blog/ふらりと港町へ仏像調査/

https://fugenin643.com/blog/8044/

 

津要(しんよう)和尚は

延宝8年(1680)に

八戸市港町で生まれます。

 

松館大慈寺

盛岡の青龍山 祇陀寺(ぎだじ)

二戸浄法寺の天台寺で

修行された後に

階上町寺下を拠点にして

布教活動をされたそうです。

 

津要和尚は晩年

右手が不自由になり

彫刻等を左手でなされております。

 

色々と踏まえると

当山に祀られる南祖法師尊像は

津要和尚が右手を不自由にされた後に

彫られた御像である可能性が

高いように思います。

 

天聖寺8世の

則誉守西(そくよしゅさい)上人の

『奥州南部糠部順礼次第』(寛保3年(1743))

では第6番札所である清水観音について

内御堂二正観音安置

と記されており

現在祀られる十一面観音ではなく

正(聖)観音が

祀られていたことが分かります。

 

この正(聖)観音像は

盗まれたそうです。

 

そこで津要和尚が

十一面観音を造立し

観音堂を再興したのだそうです。

 

則誉守西上人の「順礼」が行われた

寛保3年(1743)は

津要和尚が亡くなられる2年前で

まさに晩年にあたります。

 

ですので

十一面観音像は

津要和尚晩年の御像といえます。

 

滝尻善英氏の著作に掲載される

この十一面観音像の写真は

拝見する限り

当山の南祖法師尊像の尊容と

通じているように思います。

 

また

津要和尚の御像について

調べていくと

津要仏に見られる独特の特徴が

南祖法師尊像にも見られますし

さらにそれらが左手で

彫られたものだとすると

かなり説得力を持つような

特徴を指摘することが出来ます。

 

前置きが長くなりましたが

津要仏である

虚空蔵菩薩像が祀られる

是川の福善寺を訪ねました。

 

福善寺は当山と同宗であり

いつも大変お世話になっている

御寺院様です。

 

ご住職にご案内頂き

仏像を拝見させて頂きました。

 

▼津要御作・虚空蔵菩薩(福善寺)

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津要和尚御作の御像のお顔は

鼻や眼

鼻と眉のラインのとり方が

とても特徴的です。

 

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写真では分かりにくいですが

津要和尚独特の彫目(ほりめ)が

全体に見られます。

 

彫刻されている文字ですが

中央には

南無能満諸願虚空蔵菩薩

その右方に階上山

それとは対に青龍寺

と刻まれております。

 

彫目について

これだけでは

分かりにくいと思いますので

すこし前に伺わせて頂いた

港町の十王院にお祀りされる

地蔵菩薩立像の写真を

以下に添付いたします▼

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独特の彫目が

ある程度分かると思います。

 

こういった彫目が

福善寺に祀られる

虚空蔵菩薩像にも見られました。

 

比較対象として紹介させて頂いた

十王院の津要仏・地蔵菩薩立像の

全体像はこちらです

(高さは2メートル近くあります)▼

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当山に祀られる

南祖法師尊像がコチラです▼

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背面に見られる

彫目が分かるでしょうか?

 

津要仏に見られる特徴である

彫目が全身に見られます。

 

彫目がやや大きいのは

左手で彫られたものだと考えると

納得出来るように思います。

 

顔に見られる特徴も

津要仏の特徴を

指摘出来るかと思います。

 

今回は

津要和尚の

仏像に見られる特徴から

南祖法師尊像の来た道の

可能性について検討してみました。

 

他の視点からの検討も

有意義かと思いますので

また改めて投稿させて頂きます。

現代の「瞑想」を尋ねる

階上町のヨガスタジオ

「セナジースタジオ」オーナーで

八戸学院大学の教授でもある

バリー・グロスマンさんが

当山においで下さいました。

 

バリーさんは長い間

ヨガや瞑想をされていらっしゃり

指導もされていらっしゃいます。

 

古い伝統をもつ

ヴィパッサナー瞑想という

「ありのままにものごとを見る」

ことを重視する瞑想に出会われ

人生が変わったそうです。

 

 

この瞑想は

マインドフルネスという名で

日本でも“流行”しております。

 

拙僧(副住職)は

現代教化研究所との

ご縁を頂いた一昨年より

マインドフルネスについて

調べておりまして

バリーさんに色々と

取材させて頂くべく

当山においで頂きました。

 

今後の学びに資する

とても良いお話を

お伺いすることが出来ました。

 

また5月19日に

バリーさんにご協力頂き

寺子屋ワークショップ

お寺でマインドフルネス

を開催することになりました。

 

これを良い契機として

完全に錆びついている

英語も学びつつ

個人研究を進めたいと思います。

 

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この日この時だけの尊い心経

寺子屋ワークショップ

写経カフェが

開催されました。

 

まだ寒さの残る中でしたが

多くの方にご参加頂き

盛況に終えることが出来ました。

 

写経カフェでは

般若心経を浄写して頂いております。

 

等しく流れる時間の中で

ご参加の皆様は

それぞれに

それぞれが

ご自身とお向き合いされ

筆を進められます。

 

その中で

いつもよりも

筆の進みがよろしかった方も

いらっしゃれば

いつもよりも

筆の進みが鈍く感じられた方も

いらっしゃいます。

 

どれが正しいということもなく

どれが間違いということもなく

あるがままに

筆を進めて頂き

この日この時にしか

仕上げられない

尊い般若心経を

書き上げて頂きました。

 

様々なご縁を

感じさせて頂きながら

今回も良い時間に

自身を置かせて頂けたことに

感謝しております。

 

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子ども論語塾を開催します

本年も

子ども論語塾が

開催されます。

 

古典中の古典である

論語のひびきに

親子で触れてみては

いかがでしょうか?

 

本年は

4月6日(土)

6月1日(土)

7月27日(土)

10月5日(土)

12月7日(土)

の日程で開催される予定です。

 

時間は

午前11時から正午までとなります。

 

会費は

一家族につき500円となります。

 

テキスト代は

別途お納め頂きます(1300円程)。

 

講師は川崎葉子さんが

お勤め下さいます。

 

ご興味をお持ちの方は

お気軽にお声がけ下さい。

 

 

お申込みは

メールか電話にて受付いたします。

 

メール fugenin643@gmail.com

電話 0178-23-2135

※担当者が不在のことが多いため

なるべくメールでお願いいたします。

論語塾ロゴ

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南祖坊伝説の諸相⑪ 南祖坊はいつ入定したか?

十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)は

当山2世の月法律師の

弟子であると伝えられます。

 

全国霊山霊跡を巡った果てに

十和田湖に入定し

青龍大権現となった

というのが伝説の筋書きです。

 

今回は南祖坊が入定した

時期について

考えてみたいと思います。

 

当山は

圓鏡上人により

延暦弘仁年間(8C末〜9C初頭)に

開創されたとされます。

 

この圓鏡上人は

弘仁8年(817)5月15日に

御遷化されております。

 

南祖坊の師とされる月法律師は

天長8年(831)10月16日に

御遷化されております。

 

まずは

このお二人の没年を

手がかりに南祖坊の

十和田湖入定について

考察してみます。

 

南祖坊入定を考えるにあたり

当山に2冊写本が残る

『十和田山神教記』を

踏まえさせて頂きます。

 

同書では

南祖坊は7歳で弟子入りし

68歳で十和田湖入定

とされております。

 

この年齢を条件として検討すると

南祖坊は878年〜892年に入定

という仮説が成立します。

 

また南祖坊は

貞観年間(859〜876)に生まれた

との伝えもあります。

 

この生誕年を踏まえて

先程と同じ手順で検討すると

南祖坊は927年〜944年に入定

という仮説も成立します。

 

さらに

南祖坊は当山開基(開山)の

行海上人の弟子とのいわれもあります。

 

行海上人は

承安元年(1171)年に当山を

開基(開山)した方です。

 

『新撰陸奥国誌』では

普賢院について

建仁中(1201〜1203)の建立の由

伝れとも往年火災に罹て記録を失し

詳悉ならす

寛保元年(1741)辛酉十一月

快傅と云る僧の中興なりと云り

とあります。

 

寛保元年という年は

快傅が中興した年ではなく

御遷化された年です。

 

同年11月2日に

御遷化されております。

 

行海上人については

開基(開山)の年号は分かるのですが

いつ御遷化されたのかは不明です。

 

なので

ここで記される

建仁中という期間は

御遷化された年を

意味している可能性も

あるのではないかと感じております。

 

真相は分かりませんが

承安元年(1171)という年と

建仁年間(1201〜1203)という年を

踏まえて先程と同じような

手順で検討すると

南祖坊は1232年〜1262年頃に入定

という(条件付きではありますが)

仮説が成立します。

 

当山先師と

当山に残る写本から

①878年〜892年に入定

②927年〜944年に入定

③1232年〜1262年に入定

という3つの説を提示出来ます。

 

探究的試論ですが

これらの年代は

どれも深い意味を

汲み取ることが出来るものです。

 

いずれにおいても

諸事を踏まえると意味が

見えてくるように感じます。

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青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)⑥

青森県田子町の

釜渕家出身である高僧

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

は生没年代の詳細は不明ですが

1657年頃に生まれ

元文4年(1739)82歳頃に

入寂したとされます。

 

学秀は千体仏の作仏を

三度成し遂げられており

それらの時期は以下のように

第1期〜3期という形で

表現されているようです。

 


 

第1期 地蔵菩薩

(1600年代末〜1700年代初頭)

(学秀 50歳頃)

飢饉物故者供養のため

 

第2期 観音菩薩

(正徳2年(1712)頃〜)

(学秀 60歳頃〜)

九戸戦争戦没者のため

 

第3期 観音菩薩

(享保7年(1722)〜元文4年(1739))

(学秀 70歳頃〜入寂)

生まれである釜渕家一族の供養のため

 


 

話があちこち飛ぶかと思いますが

仏道における「三千」という数字や

「千」という数字について

触れてみたいと思います。

 

三世三千仏(さんぜさんぜんぶつ)

という言葉があります。

 

三世という言葉は

掘り下げられて様々な意味があり

さらには三毒(さんどく)といった

仏道の根本的なキーワードと絡め

説かれることが多いのですが

ここでは基本的な意味として

過去・現在・未来のことと

捉えて頂いて結構です。

 

三世三千仏とは

それぞれに千仏が

いらっしゃるという

意味だとお考え下さい。

 

ここでいう千とは

個数の数字ではなく

象徴的意味を帯びた聖数です。

 

この三千仏に祈りを捧げる法要を

仏名会(ぶつみょうえ)といい

日本では光仁天皇代の

宝亀5年(774)12月に

初めて行われております。

 

意図してのことか否かを

知るすべはありませんが

結果として

学秀の後半生におけるお歩みは

三世三千仏への尊い祈りを

作仏を以て遂げられたとも

捉えられるかと思います。

 

学秀は禅僧でもあるので

その観点から考えてみると

禅宗でもよく用いられる

陀羅尼(だらに、梵語のお経のこと)に

大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)

または大悲咒(だいひしゅ)

と通称される“お経”があります。

 

大悲心陀羅尼あるいは大悲咒は

千手観音の陀羅尼でもあります。

 

日本最古の観音霊場である

西国(さいごく)三十三観音霊場

のうち千手観音が本尊である

札所は33所のうち

実に15所(十一面千手1ケ寺も含む)

にのぼります。

 

西国三十三観音霊場の

札所本尊としては

如意輪観音が6ケ寺

十一面観音が6ケ寺

聖観音が3ケ寺

准胝観音が1ケ寺

不空羂索観音が1ケ寺

馬頭観音が1ケ寺です。

 

開創1300年とされる

西国三十三観音霊場において

千手観音を本尊とする札所が

最も多いことからも

古くから信仰されてきた

観音菩薩であることが

分かるかと思います。

 

日本最古の三十三観音霊場である

西国霊場の起源は

当山の本山である長谷寺を

開山された徳道(とくどう)上人が

関わっております。

 

養老2年(718)に

徳道(とくどう)上人が

病床において見られた夢で

閻魔大王より三十三の宝印を授かります。

 

そして衆生救済のために

観音霊場を作るよう

閻魔大王に告げられたため

宝印を納める三十三所を定められ

西国三十三観音霊場が開創された

と伝えられます。

 

しかし

徳道上人の時代には

機運が熟さなかったようで

授かった三十三の宝印を

現在の兵庫県にある

中山寺に納めることになります。

 

中山寺は真言宗中山寺派の本山で

聖徳太子創建とされ

勝鬘夫人(しょうまんぶにん)の

お姿をうつして造ったと伝えられる

十一面観音を本尊とします。

 

中山寺は西国第一番札所です。

 

徳道上人が

中山寺に三十三の宝印を納め

それから約270年経った後に

花山法皇により

西国三十三観音霊場は

復興されたとされます。

 

花山法皇は

播磨(現在の兵庫県)にある

書寫山(しょしゃざん)の

性空(しょうくう)上人とご縁がある方です。

 

書寫山というと

“最古の十和田湖伝説”が収録されている

『三国伝記』(さんごくでんき)では

難蔵(南祖坊(なんそのぼう)のこと)は

書寫山の法華持経者とされます。

 

南祖坊は十和田湖伝説に登場する僧侶で

当山にて修行したと伝えられ

全国練行の末に十和田湖に入定し

青龍大権現という龍神として

十和田湖の主になったと伝えられます。

 

西国三十三観音霊場に続いて

坂東(ばんどう)三十三観音

秩父三十三観音(のち三十四観音)の

霊場が成立しますが

それに続いて成立した地方的札所が

糠部三十三観音だそうです。

 

糠部三十三観音霊場は

永正9年(1512)9月に

観光上人により創始されました。

 

観光上人の札番(札所の番号)は

現行のものとは異なりまして

現在の札番は

八戸市の天聖寺(てんしょうじ)第8世

則誉守西(そくよしゅさい)上人が

寛保3年(1743)に定められたものです。

 

当山の七崎観音は第15番札所で

田子の釜渕観音は第27番札所になります。

 

この27番札所の釜渕観音堂にて

学秀は出身である釜渕家のご供養のため

最後の千体仏を完成させました。

 

西国三十三観音霊場のルーツである

当山の本山である奈良県桜井市の

長谷寺の創建は

朱鳥元(686)年に

修行法師の道明上人が

銅板法華説相図(ほっけせっそうず)

を安置して祀られ開創されます。

 

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この法華説草図には

法華経

見宝塔品(けんほうとうぼん)

の場面が描かれております。

 

平泉の中尊寺金堂は

この見宝塔品に基づいて

建立されたといわれます。

 

補足になりますが

江戸時代初期までは

中尊寺には真言寺院も構えられており

永福寺住職が中尊寺から

迎えられたこともあります。

 

見宝塔品について

以下の引用文を参考に

大意を見てみましょう。

 


 

釈迦牟尼(しゃかむに)が

霊鷲山(りょうじゅせん)で

大比丘尼衆一万二千

菩薩八万のために

法華経を説かれると

会座(えざ)に地中より

高さ五百由旬

縦横二百由旬の七宝塔が

湧出(ゆうしゅつ)し

空中に住在するところあり

時に宝塔中より

多宝仏(たほうぶつ)が大音声を発し

釈尊説くところの法華経を讃嘆し

それが真実なることを証する。

 

やがて釈尊

扉をひらいて

二仏宝塔中に

併座されるといふのが

この経文の大旨である。

 

(安田與重郎、昭和40年

『大和長谷寺』(淡交社)p.11。)

 


 

このような象徴的場面が

法華説相図には

施されております。

 

またこの法華説相図は

金銅千体仏とも

金銅釈迦仏一千体ともいわれ

「千体仏」が施されております。

 

他にも「千」や「三千」に

関連して述べられることは

沢山あるかと思いますが

様々な意味合いや伝統がある

ということが少しでも

伝えることは出来たでしょうか。

 

こういった観点から

学秀千体仏に

アプローチすることは

有意義なことと思われます。

 

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