当山に祀られる
七崎観音(ならさきかんのん)は
明治時代を迎えるまでは
現在の七崎神社の地にあった
七崎観音堂に祀られていました。
神仏分離政策への対応のため
七崎観音堂は廃止され
堂内の諸尊・諸法具は
別当寺である普賢院へ移されました。
七崎観音堂は
「稀代の古刹」と称されるほど
多くの方に崇敬され
代々の藩主にも庇護されてきましたが
明治に廃止され
突貫工事的に普賢院本堂内に用意された
観音堂に遷座されることになります。
普賢院本堂の一隅に用意された
観音堂のスペースは
とても簡素なもので
盛時の面影は
全くなかったそうです。
しかし
明治以後の住職方のご尽力により
七崎観音堂は
普賢院本堂の内御堂(うちみどう)として
再興されていくことになります。
明治、大正、昭和、平成を通じ
観音堂は素晴らしい空間に
整備されてまいります。
歴代住職方が繋がれてきた
尊い「思い」を令和においても
しっかりと引き継ぎたいと思います。
そのようなことに触れながら
七崎観音についての動画を
用意したので
ご覧いただけると幸いです。
当山に祀られる
七崎観音(ならさきかんのん)と
称される聖観音は秘仏で
毎年旧暦1月17日にのみご開帳され
そのご宝前にて法要が行われます。
現在、七崎観音として
認知されている仏像は
1687年に藩主・南部重信公が
「御前立ち」として奉納されたものです。
「御前立ち」というのは
本体の仏像の前に安置される仏像
という意味です。
七崎観音のご本体にあたる仏像は
これまでよく分からなかったのですが
本堂建替という歴史的な節目において
所蔵する仏像・仏具・史料・資料などを
総整理しつつ調査も進めていた所
どの仏像が七崎観音のご本体かが
判明いたしました。
本体にあたる七崎観音の仏像は
1655年に藩主・南部重直公が
奉納されたものになります。
重直公と重信公は兄弟です。
消えかけていた歴史を
後世に留めることが出来たことに
奇縁を感じさせられます。
当山ではご本体の七崎観音を
本(もと)七崎観音と呼び
現在七崎観音として祀られている御前立ち仏を
現(げん)七崎観音と呼び分けています。
これまでも
七崎観音について
色々と紹介してまいりましたが
今回は明治以後に
どのように安置方法が
変化していったのかについて
取り上げたいと思います。
安置方法の変化をたどると
その時々における七崎観音の認識が
いかなるものであったかですとか
認識の変化と思われるものを
汲み取ることが出来ます。
安置方法についていうと
お祀りするスペースの関係もあったことは
忘れてはならないことです。
限りあるスペースでは
出来る形でしか采配することが出来ません。
本七崎観音の仏像は大きいもので
昭和後期までは大きな厨子に
納められていました。
そうすると
高さも奥行きも必要となるわけで
スペースに限りがあるならば
本来のなすべき形ではなく
変則的な形で祭祀せざるをえないわけです。
そういった経緯ですとか
時の住職のお考えは
記録に残りにくいものですし
明治以後となると
頻繁に住職が交代し
記録に残っていない方も
いらっしゃる状態なので
十分な引き継ぎがなされていたとは
考えられません。
明治になると
もともとの観音堂は廃止され
観音堂内の仏像・仏具などは
別当寺である普賢院に
移されることになります。
明治になり
七崎観音は当山に遷座されたのですが
空の旧観音堂へ観音参りに
訪れる方が耐えなかったため
七崎観音は再度旧観音堂に遷座され
そしてまた当山に
遷座されたという経緯があります。
拙僧泰峻の推測ですが
当山から旧観音堂へ遷座する際は
全てを移動させるのではなく
当時の背景や慣例等を踏まえるに
現七崎観音のみを
移したものと思われます。
神仏の遷座には
当然のことながら作法が伴うわけで
その意味を踏まえて考えると
本体である本七崎観音も
再度旧地にお連れするということは
しないと思います。
御前立ちであれば
いわば「分身」なので
再び旧地に一時的に移すというのは
無理のない判断だったと思います。
戦争のインパクトも大きいもので
62世住職・晃雄大和尚と
その弟である高明大和尚が
出征・戦死したため
当時の住職の妹が
お寺を守った期間もあります。
歴史の大きなうねりの中で
様々な要素が関連して
七崎観音にまつわる歴史が
徐々に忘れかけていったと
言うことが出来るでしょう。
以下に
画像資料を掲載するので
どのように祀られ方が
変わっていったのかを
ご確認いただけると幸いです。










《ご開帳のご案内》
令和4年おこもりのご案内
《本年の七崎観音に関する記事》
かつての七崎観音堂のイメージ図
浮かび上がる江戸期の七崎観音の祀られ方
本年2月17日は
七崎観音(ならさきかんのん)
おこもり法要
が行われます。
七崎とは現在の豊崎町の旧称です。
七崎観音は
聖観音(しょうかんのん)という観音様です。
七崎観音おこもり法要という行事は
秘仏の七崎観音をご開帳して
行われる法要です。
例年ですと
護摩を行うのですが
仮本堂では消防法の関係で
護摩を修法できないため
昨年同様に形式を変えて
ご祈祷の法要を行ないます。
以下に
本年の法要のご案内と
これまでの
アーカイブ(動画)の
リンクを貼っておきます。
令和4年おこもりのご案内
旧暦1月17日に行われるこの行事は
「おこもり」と通称されます。
一時は
存続の危機にあったのですが
試行錯誤を重ねまして
この10年で少しづつ
参列者も盛り返し
多くの方にご縁を
お結びいただけるようになりました。
当山HPは2016年に開設して
同時に「おてらブログ」も
開始したのですが
おこもりの時季となると
お寺の歴史であったり
七崎観音の由緒であったり
おこもりについての投稿を
重ねております。
過去の記事を見てみると
よくこれだけ多くのものを
調べてまとめたものだと
自身でも驚く程です。
ただ
記事のボリュームがあるうえ
投稿数も結構あるため
自身でもいつ何をまとめたのか
調べるのが大変なため
最近は画像資料として
整理したり
過去の記事を添付するなどして
あらためて当山と
向き合わせていただいております。
本年もおこもりの日が
近づいてきたので
七崎観音に関連する投稿を
重ねたいと思います。
少し前に
江戸期における
七崎観音の祀られ方について
紹介いたしました。
それがこちらの記事になります⬇
浮かび上がる江戸期の七崎観音の祀られ方
今回は前回の続きとして
もう少し具体的に
かつての七崎観音が
どのような所にどのような形で
祀られていたのかについて
拙僧泰峻が法流(お作法や法式などの流れ等)
を踏まえて出来るだけ具体的に
紐解いてみたいと思います。
諸史料・資料で
当時の要素を整理したうえで
法流を踏まえて
旧七崎観音堂が
どのようなものであったかを
考察するに
以下に用意した画像資料の
ようになろうかと思います。
まずは
旧七崎観音堂内ですが
七崎観音ご宝前には
護摩壇ほか法具が
荘厳されていたはずです。
▼江戸期の観音堂内部

次に観音堂のお堂についてですが
『新撰陸奥国誌』掲載の
俯瞰図(スケッチ)により
方形(ほうぎょう)であったことがわかります。
方形とは
正方形のお堂で
観音堂として採用とされることが
とても多かった様式です。
江戸期の棟札や史料により
七崎観音堂の大きさも分かっています。
七崎観音堂のイメージ図も含め
以下に画像資料を掲載します。



以上、今回は
旧七崎観音堂について
より具体的に紹介いたしました。
七崎観音とご縁を
お深めいただけると幸いです。
2018年に始動した
「かたり部(ぶ)」。
2021年12月に
クラウドファンディング(CF)で
絵本づくりのプロジェクトを
行わせていただきました。
絵本が出来るに至るまでの
紆余曲折についてだったり
絵本について
よもやまばなしとして
数回にわたって
思いつくままに
記したいと思います。
かたり部は
過去と未来を結ぶ現代において
未来に語り継げることを
出来る形で発信するという
取り組みです。
語り継ぐ手がかりとしているのは
普賢院に伝わる伝説や伝承であったり
地域の歴史や文化です。
結成当初
チームがまず目指したのは
普賢院に伝わる十和田湖伝説の
写本をもとにした絵本づくりでした。
江戸末に成立したと見られる
『十和田山神教記』(とわださんじんきょうき)
は仏教説話的要素が色濃いもので
時代を超えて現代を生きる私たちの
胸にも響く内容となっています。
写本を絵本にするにあたり
先々のことも踏まえて
内容を「設計」しました。
テーマを損なわないよう
主要な場面を配置し
登場人物も最小限にとどめ
絵本仕様に仕立てました。
今回の絵本づくりでは
「余白」を作ることを
意識しました。
ここでいう余白というのは
ストーリーにおいて
深入りをさけたり
触れられていない部分
という意味です。
紙面の都合という
意味も多少ありますが
今後の取り組みを想定して
余白を意識したというのが
大きな理由です。
“余白の多い物語”ゆえ
南祖法師の祭事であったり
ワークショップといった
取り組みを通じて
その部分にアプローチしよう
という姿勢で
かたり部では絵本づくりを
実施させていただきました。
絵本では直接描かれていない
余白を埋めていくのが
これからの取り組みのひとつとなります。
多くの方のご支援のおかげで
完成した絵本の「お披露目会」を
何かしらの形で
行いたいと考えています。
なお
CFで作成した絵本
『龍になったおしょうさま』は
非売品となっています。
入用のお問い合わせが
多く寄せられていますが
在庫が全く無い状態です。
増刷については未定でして
増刷する場合は
再度CFを実施して
ご支援者を募ることに
なると思います。
増刷CFを実施する場合
すぐに準備をするのは難しいので
しばらくたってからになると思います。
出版の事業として
行っているわけではなく
CFの仕組みにおいて
制作にあたったものなので
単に増刷して入用の方に
お渡しすることが出来ないということを
ご理解いただきたく
お願い申し上げます。


旧本堂が解体されて以後
全ての法務(葬儀、法事、ご祈祷など)や
行事・催事は仮本堂で行っております。
新本堂が今秋完成するので
新本堂での新体制に向け
ここ数年は諸事見直しや手直しを
行っています。
さらにいえば
昨年住職が代替わりしたため
見直し手直し検討に
一層力が入っています。
なかでもご祈祷については
熟考を重ねています。
普賢院は
檀家寺という側面のみならず
祈祷寺という側面もあるお寺で
様々なご縁の形があるといえます。
祈祷寺でいうと当山は
南部藩祈願所でもあったので
由緒に大きく関わる要素です。
ご祈祷の際のみの話ではありませんが
法務をご一緒させていただくということは
儀式の意味やお寺の背景などにも
触れていただくことと考えています。
そういった意味や意義を
十分に備えることが
出来るようにするために
どのようにすればよいかを模索しながら
さらに熟考していきたいと思います。



普賢院に祀られる
七崎観音(ならさきかんのん)の
ご開帳が近づいてまいりました。
本年は2月17日となります。
ご開帳された観音様のご宝前で
午後8時から法要が
執り行われます。
詳細は下記リンクを
ご参照下さい▼
令和4年おこもりのご案内
当山では
文化8年(1811)以来の
本堂建替を行っており
それに伴い
仏像仏具等の再整理・調査も
行ないました。
そのおかげで
判明したことや確認されたことなどが
沢山ありました。
七崎観音についても
色々と浮かび上がったことがあります。
以前もお伝えしたように
現在普賢院には
「2体の七崎観音」が
祀られています。
区別するために拙僧泰峻は
現 七崎観音(げんならさきかんのん)
本 七崎観音(もとならさきかんのん)
と呼び分けております。
昭和51年に
旧本堂の大改修が
行われるまでは
本七崎観音は大きな春日型厨子に
納められていました。
また
現七崎観音と本七崎観音は
並列(横並び)に
安置されていたそうです。
本七崎観音の厨子は
かなり傷みが激しかったようで
かなり前に処分されています。
本七崎観音像は
蓮弁に激しい鼠害が見られました。
また
本七崎観音が奉納された際の
観音堂並末社十二宮再興棟札も
古い鼠害が見られるため
恐らく観音像の後ろに
棟札が祀られていたと思われます。
そういったことを
図像資料にしてみたので
ご覧いただいて
七崎観音とのご縁を
深めていただけると幸いです。










本日は寺子屋ワークショップ
写経カフェが開催されました。
一昨年から引き続き
規模を縮小しての
実施となりました。
写経カフェの様子を
お伝えする動画を用意しました。
法話では
七崎観音(ならさきかんのん)
についても触れております。
七崎観音は秘仏で
年に1回
旧暦1月17日にご開帳されます。
本年は2月17日が
ご開帳となり
その日に法要が行われます。
ご開帳しての法要の詳細は
こちらをご参照下さい▼
おこもり法要のご案内
写経カフェで
納経された写経は
ご開帳して行われる法要にて
改めてご宝前に奉呈します。
そういった関わりもあり
写経カフェで
七崎観音についても
お話させていただきました。
ご覧いただけると幸いです。
「子安さま」は
胸に子どもを抱いたお地蔵さまで
当山にもお祀りされており
様々な願いが捧げられております。
子宝祈願
子どもの成長祈願
といった願いはもちろんのこと
先立った子どもたちの
安らかなることへの
供養の思いも捧げられてきました。
お地蔵さまのご縁日は
毎月24日となります。
お地蔵さまに限らず
ご縁日の前日に行事が
行われることが
よく見られますが
当山の子安さまも
毎年1月23日と8月23日に
地元町内会が輪番で
担当する行事があります。
行事といっても
法要を伴う大掛かりなものではなく
町内会の班の女性の方が
子安さまをお参りし
お堂で歓談しながら過ごす
というものです。
ウイルスの感染対策のため
昨年以降は休止状態ですが
行事の有無関わらず
僧侶によるお勤めは行っております。
本年は1月23日が
朝から法務がたて込んでいる関係で
子安さまへのお勤めを
本日行わせていただきました。
その様子を
お伝えする映像を用意したので
ご覧いただけると幸いです。
令和4年から46年さかのぼる
昭和51年(1976)に
旧本堂(文化8年再建、令和2年に解体)の
大改修事業が行われました。
この時に
茅葺き屋根は
トタンに葺き替えられ
境内も整備されています。
当時の様子を伝える写真を
動画に編集しました。
当時のことを懐かしまれる方も
多いのではないかと思いますし
世代によっては
昭和の一幕を知る
ひとつの映像資料という
印象を抱かれるかもしれません。
地域の方やご縁ある方が
大勢お集まりになられ
作業に取り組まれ
完成時には皆さんで
お祝いのひとときを
過ごされた様子を
ぜひご覧くださいませ。
新本堂の屋根は銅板葺きとなります。
真新しい銅板が葺かれてきたので
葺き終わった箇所は
眩しい程に輝いております。
工事の様子をお伝えする
映像を用意したので
ぜひご覧いただき
ご確認いただければと思います。