先日
祈りつがせていただくこととなり
当山薬師堂(会館1階)に
ご安置された弘法大師像(以下、大師像)。
大師像以外にも
引き取ることとなったものや
お焚き上げをお願いされた
掛け軸や仏具もあり
その中に
昭和初期の写真がありました。
写真が入れられた木額の裏には
昭和六年(1931)四月二十一日
に奉納と墨書きされていました。
21日は
弘法大師のご縁日です。
当山での写真ではないので
写真を掲載できませんが
堂内の祭壇最上段中央に
逗子に納められた大師像が安置され
その祭壇前に
4名の方が正座して
撮影されたものです。
4名は2名女性・2名男性で
女性はいずれも着物姿で
そのうち1名は
紋付の黒い着物に
輪袈裟を着用されており
右手には中啓を立て持ち
左手には念珠を掛けて
片手合掌をされています。
男性は軽装で薄着ですし
女性のもう一方の方は
かなりお若い方で
薄手の着物に見えます。
供えられている花や野菜の
内容も踏まえるに
暖かな季節であることは
間違いありません。
写真そのものの裏には
「18.7」印字されています。
おそらく
1918年(大正7)7月
ということだと思います。
市内のとあるご自宅敷地内に
建立されていたお堂に
祀られていた大師像ですが
もともとは剣吉
つまり名久井の方に
あったものだそうです。
写真額の裏書などから
そのご自宅近隣の方が
額を奉納されているので
写真は名久井から
遷座されてからのものと
考えられます。
額の奉納は
昭和6年(1931)4月21日ですが
写真撮影がされたのが
1918年(大正7)7月とすると
遷座されてから
100年以上経過していることになります。
それ以前は名久井の方にあり
諸経緯あって
とあるお宅に
迎えられることになったわけです。
当山に大師像を託されたお宅によれば
その地に遷座される以前の歴史は不明で
大師像自体がどれ位古いものかは
全く分からないとのことでした。
そもそも
これだけ立派な大師像ですから
もともとお寺に
祀られていたと想像することは
違和感ないことと思います。
もともとは
名久井方面のお寺に
祀られていた大師像である
と大胆に仮定してみると
実に不思議なご縁が感じられる
ストーリーが浮かび上がります。
剣吉という地区に隣接する
諏訪平という地域には
明治に入って廃寺となった
当山の関係寺院
嶺松院(れいしょういん)がありました。
嶺松院が廃寺となり
同院が別当として管理していた
早稲田観音堂は現存しています。
嶺松院の檀家だったと思われる家の方が
当山の過去帳に記載されることから
嶺松院廃寺後は
当山で弔われたようです。
当山先師の中には
嶺松院住職も務めた方もいらっしゃいます。
嶺松院も普賢院と同様
本坊・盛岡宝珠山永福寺の
自坊であった寺院で
嶺松院は「三戸永福寺」
普賢院は「七崎永福寺」
という具合に
とても関わりが深いのです。
大師像はもともと
お寺に祀られていたのでは
という仮説を立てたとき
嶺松院(または関連するお堂)に
祀られていたという可能性を
指摘出来るのように思います。
先に触れた
嶺松院の元檀家と思われる家の
お弔いの記録は
明治20年代まで確認出来ます。
嶺松院廃寺後も
何らかの形で
仏像等が引き継がれており
その中の大師像が
八戸の方に遷座されて
さらに当山に至ったという仮説は
全くないとはいえないように思います。
あくまでも仮説ですが
もしそうだとすれば
三戸永福寺・嶺松院から
七崎永福寺・普賢院へと
渡り来られた大師像ということになり
まさに不思議なご縁により
お迎えされたことになります。
あくまでも一仮説です。
どのような経緯にせよ
宗祖の尊像ゆえ
謹んで守らせていただきます。