大師像の来歴考〜もしかしたらなお話〜

 

先日

祈りつがせていただくこととなり

当山薬師堂(会館1階)に

ご安置された弘法大師像(以下、大師像)。

 

大師像以外にも

引き取ることとなったものや

お焚き上げをお願いされた

掛け軸や仏具もあり

その中に

昭和初期の写真がありました。

 

写真が入れられた木額の裏には

昭和六年(1931)四月二十一日

に奉納と墨書きされていました。

 

21日は

弘法大師のご縁日です。

 

当山での写真ではないので

写真を掲載できませんが

堂内の祭壇最上段中央に

逗子に納められた大師像が安置され

その祭壇前に

4名の方が正座して

撮影されたものです。

 

4名は2名女性・2名男性で

女性はいずれも着物姿で

そのうち1名は

紋付の黒い着物に

輪袈裟を着用されており

右手には中啓を立て持ち

左手には念珠を掛けて

片手合掌をされています。

 

男性は軽装で薄着ですし

女性のもう一方の方は

かなりお若い方で

薄手の着物に見えます。

 

供えられている花や野菜の

内容も踏まえるに

暖かな季節であることは

間違いありません。

 

写真そのものの裏には

「18.7」印字されています。

 

おそらく

1918年(大正7)7月

ということだと思います。

 

市内のとあるご自宅敷地内に

建立されていたお堂に

祀られていた大師像ですが

もともとは剣吉

つまり名久井の方に

あったものだそうです。

 

写真額の裏書などから

そのご自宅近隣の方が

額を奉納されているので

写真は名久井から

遷座されてからのものと

考えられます。

 

額の奉納は

昭和6年(1931)4月21日ですが

写真撮影がされたのが

1918年(大正7)7月とすると

遷座されてから

100年以上経過していることになります。

 

それ以前は名久井の方にあり

諸経緯あって

とあるお宅に

迎えられることになったわけです。

 

当山に大師像を託されたお宅によれば

その地に遷座される以前の歴史は不明で

大師像自体がどれ位古いものかは

全く分からないとのことでした。

 

そもそも

これだけ立派な大師像ですから

もともとお寺に

祀られていたと想像することは

違和感ないことと思います。

 

もともとは

名久井方面のお寺に

祀られていた大師像である

と大胆に仮定してみると

実に不思議なご縁が感じられる

ストーリーが浮かび上がります。

 

剣吉という地区に隣接する

諏訪平という地域には

明治に入って廃寺となった

当山の関係寺院

嶺松院(れいしょういん)がありました。

 

嶺松院が廃寺となり

同院が別当として管理していた

早稲田観音堂は現存しています。

 

嶺松院の檀家だったと思われる家の方が

当山の過去帳に記載されることから

嶺松院廃寺後は

当山で弔われたようです。

 

当山先師の中には

嶺松院住職も務めた方もいらっしゃいます。

 

嶺松院も普賢院と同様

本坊・盛岡宝珠山永福寺の

自坊であった寺院で

嶺松院は「三戸永福寺」

普賢院は「七崎永福寺」

という具合に

とても関わりが深いのです。

 

大師像はもともと

お寺に祀られていたのでは

という仮説を立てたとき

嶺松院(または関連するお堂)に

祀られていたという可能性を

指摘出来るのように思います。

 

先に触れた

嶺松院の元檀家と思われる家の

お弔いの記録は

明治20年代まで確認出来ます。

 

嶺松院廃寺後も

何らかの形で

仏像等が引き継がれており

その中の大師像が

八戸の方に遷座されて

さらに当山に至ったという仮説は

全くないとはいえないように思います。

 

あくまでも仮説ですが

もしそうだとすれば

三戸永福寺・嶺松院から

七崎永福寺・普賢院へと

渡り来られた大師像ということになり

まさに不思議なご縁により

お迎えされたことになります。

 

あくまでも一仮説です。

 

どのような経緯にせよ

宗祖の尊像ゆえ

謹んで守らせていただきます。

 

紐解き七崎観音⑬

前回触れた様に

「七崎山普賢院」と刻された

観音版木の“発見”により

七崎山普賢院徳楽寺が徳楽寺の

正式名称かもしれないことと

七崎観音別当・七崎山普賢院の号を

本坊永福寺自坊・宝照山普賢院の号と

併用していたかもしれないことを

新たな説として提示することが出来ました。

 

特に後者は

史料の記載内容を踏まえるに

可能性は高いと思われます。

 

当山観音堂に主尊として祀られる

聖観音は七崎観音と通称され

この呼び名は

「七崎(地名)+観音(尊格名)」

という構成となっています。

 

普賢院住職は歴代

七崎観音別当という

お役を受け継いでいるので

この七崎観音という

名称を手がかりに

仏道のみおしえに

触れていただけるような

紐解き方をご紹介できればと

かねてより考えていました。

 

地名としての七崎を

仏道的な解読方法で

アプローチすることは

普段あまりなじみがないであろう

文化に触れていただく

機会にもなると思うのです。

 

ということで

前回は七に関する用語に触れたり

na-ra-sa(ja)-kiの音による

字義釈を紹介してみました。

 

明治を迎えて

必要に迫られた

旧観音堂の神社化に関しても

当時の状況下において

旧来の慣習を極力温存しつつ

明治スタイルに適応した形に

落ち着かせるため

縁起の改変作業が行われたであろう

ことについても述べました。

 

また幕末における新政権の政策構想として

国学者の立場より奉呈された史料中にて

記紀神話の神々と

皇系につらなる方々や

国家に功績のあった方々を

国家的に祭祀するよう主張するものがあり

藤原氏は「皇系につらなる方々」でした。

 

この構想にそった形で

明治元年以降に

神社創建があいついぐわけですが

旧観音堂の神社化と藤原諸江譚への縁起改変は

軌を同じくした可能性もあることも

前回言及しました。

 

国づくりにおいて明治政府は

「日本神話」を必要としました。

 

近代化と王政復古という

論理上どこか

不思議な組み合わせな方針が

とても特徴的といえます。

 

「日本神話」を核とした

国づくりの徹底は

諸経緯を経ることになり

国家神道を国教化することは

ありませんでしたが

国家神道は宗教ではなく祭祀であるされ

各地の神社は「祭祀の場」となり

神社化推進は政治的意図によるものでした。

 

そういう時代背景において

旧来からの縁起を

“時代的なもの”に

改変せざるを得なかったわけです。

 

こういった経緯に

触れることすらも

憚られることもあったと思いますが

当地では旧来のことについても

忘れられることなく

むしろ留めようとしていたようにも

感じられるのです。

 

そう感じるのは

大正期に記念刊行された

旧修験家・小泉家の神官による

『神社誌』の記述において

旧観音堂時代のことが明記され

さらに

後世において改変が必要な場合は

改変するようにアドバイスしているとも

取れる記述が見られます。

 

そこに当地の“イズム”を

読み取ることが

出来るように思います。

 

明治に入って程なくの

『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])に

次のような報告があります。

 

当社は何の頃の草創にか

究て古代の御正体を祭りたり

旧より正観音と称し

観音堂と呼なして

近郷に陰れなき古刹なり

 

数丈なる杉樹

地疆に森立して空に聳ひ

青苔地に布て如何さま

物ふりたる所なり

 

去は里人の崇仰も大方ならす

 

四時の祭会は元より

南部旧藩尊敬も他の比にあらす

常に参詣も絶えす

廟堂の構界区の装置まて

昔を忍ふ種となる所なり

 

同書における七崎の報告では

当時の「新縁起」について

垣間見られる記述があり

その件については

以前触れているので

そちらもお読みいただければと思います。

 

「数丈なる杉樹」は

天にそびえる大きな杉の木々を指し

それらが「森立」し

青苔が広がる“苔むす”地であり

その空間は

物ふりたる所であると

報告者は記述しています。

 

この記述には

当地において旧来より

大切にされていた空間に対する

讃嘆の思い

「もののあはれ」の思いが

込められていると思います。

 

「物」は様々な意味があり

古事記・日本書紀でも

需要な語と言えると思いますが

「霊性」つまり「たま」

とも置き換えられます。

 

ものふりたる所

たまふりたる所とも

言い換えが出来ます。

 

そして旧七崎観音堂は

近郷に隠(陰)れなき古刹であり

並大抵ではなく(大方ならす)

信仰されてきたと評されており

南部藩領においても

比類ない程に常時参詣されていたと

往時について記載されています。

 

神社化が進められても

廟堂の構えや境内の作りが

往時(かつての様子)を

偲ばせるような場所だとも

記載されております。

 

「廟堂の構え」に関してですが

史料の記述に基づいて解釈するに

観音堂であったお堂の

仏像・仏具・荘厳具などが

撤去・搬出されて

同堂が廟堂として使用されています。

 

幕末の安政10年(1863)に

七崎観音堂は修繕されており

お堂自体はしっかりしていたため

そのまま使用したと思われます。

 

こういった神社化への対応においても

出来る限りにおいて

旧来からの慣習や祈りを温存して

行政的神仏分離の求めに応じたことが

想像されるのです。

 

以上のような内容にも触れながら

また七崎観音について

紐解いていきたいと思います。

 

つづく

紐解き七崎観音⑫

七崎(ならさき)は

「七つの岬」に由来するとされます。

 

「岬」は海や川や湖を連想させます。

 

地元の士族でもあった

とある旧家の方の伝えでは

かつて浅水川が相当に蛇行しており

「七つの岬」のように見えるその光景が

七崎の地名の由来だとも言われます。

 

七崎の「七」は

具体的な数とは限らず

多数を意味し

かつ聖数としての意味がある

とも考えられますし

仏教的な意味が込められているとすれば

七宝(しっぽう)からきた七

とも考えられそうです。

 

空海の『声字実相義』の

考え方を応用すれば

na-ra-sa-kiの音に分解して

各音(梵字)の字義という

観点から検討することも可能です。

 

この方法で

na-ra-sa-kiを解読すると

この響きの中に

「南無観自在菩薩(観音菩薩)」

という意味が含まれるのが

とても絶妙に思います。

 

na字は「帰命」(南無)につながり

sa字とka字(kiの母字)は

「観自在菩薩(観音菩薩)」につながります。

 

「ならさき」ではなく

「ならじゃき」と

読むこともあったので

na-ra-ja-kiで解読すると

ja字は「鉤召」の意に通じ

さらに当山本尊「愛染明王」

にも通じるものと

捉えることも出来ます。

 

旧観音堂の地を

七崎山または観音山

と読んでいたとされますが

これら山号(お山の名前)は

字義釈によって捉えると

通底したものといえます。

 

七崎山は

旧観音堂の寺号・徳楽寺の

山号として使用されていたと

考えられてきましたが

当山の本堂建替に伴う

古文書や史料や仏像や仏具の

総整理の際に

この通説を揺るがす発見がありました。

 

それが次の版木です。

 

七嵜山 普賢院」刻字の御影板木(年代不詳)

※「嵜」は「崎」の異体字。

※七崎山の山号は、徳楽寺(七崎観音堂の寺号)の山号であると考えられていたが、普賢院にも用いられていたことを示すとても貴重な史料。

 

「七崎山徳楽寺」

「七崎山普賢院」という

組み合わせの存在が判明したことは

これまでの通説を

場合によってはくつがえす程の

大きな意味を持ちます。

 

徳楽寺の院号が

普賢院だったとすれば

七崎山普賢院徳楽寺が

正式名称だった可能性もあります。

 

本坊宝珠盛岡山永福寺自坊・宝照山普賢院と

七崎観音別当・七崎山普賢院の

二つの院号を

併用していた可能性もあります。

 

これらの説は

先に紹介した版木の存在が

明らかになったゆえに

浮上したものです。

 

七崎山普賢院徳楽寺の名が

文字として残る史料はないので

検証することは難しく

可能性を示すに留まりますが

後者の説については

七崎(嵜)山普賢院と刻された

“観音版木”があり

近世文書に七崎観音の別当が

普賢院との記述があることから

新説として提示出来るものと考えます。

 

そんな新説については

また後日触れるとして

前回も扱った史料について

再びみてまいりましょう。

 

前回は

時代の要請による

旧観音堂の神社化について

里人・社人の伝えについて

『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])に

採録された箇所を参考に

考察を行いました。

 

同史料では

「七崎神社としての縁起」について

「全く後人の偽作なれとも」として

以下の2説を述べていました。

 

  1. 祭神はイザナミノミコト。むかし火事があり、縁起など焼失して無いため、詳細については分からない。
  2. 祭神イザナミノミコトの勧請について、天災で縁起を失っているため、詳細を知るのは難しいと前置きをし、藤原諸江卿が当地に勧請したという説を示す。四条中納言であった諸江卿は、勅令により白銀に居住しており、承和元年(834)1月7日の夢でイザナミノミコトの神告を受け、当地に勧請された。

 

藤原諸江という人物は

明治以後になると

七崎神社の縁起において

キーパーソンとなりますが

一方で

明治以前の文書や木札には

少なくとも当山が所蔵するものや

確認出来る文書(過去帳や表白など)には

いっさい見られないのです。

 

藤原諸江を祖とする

古い家々が

旧修験家など他

当地にはあります。

 

旧修験家の方が還俗し

神職となったのちの

旧観音堂の神社化の推進と

藤原諸江卿の「伝説」や

系譜観念が

相関しているのかもしれません。

 

藤原氏の方が

諸事情により

京より当地方に

おいでになった

という類の話は当地や近隣で

よく見らますが

個人名がどうというより

藤原氏であることに

深掘りポイントがあると

個人的には考えてきました。

 

藤原氏の

氏寺は興福寺

氏神は春日大明神。

 

そして春日大明神と同体とされる

難陀龍王(なんだりゅうおう)という

諸龍王を司る「龍神」と

その難陀龍王を脇侍とする

十一面観音(長谷寺式)。

 

その十一面観音は

アマテラスと同体とされる

雨宝童子も脇侍としており

長谷寺は古くから

観音信仰の中心地のひとつで

藤原氏にも庇護を受け

もともとは興福寺の末寺でした。

 

長谷寺の十一面観音信仰は

歴史があるもので

「長谷信仰」は

元祖観音霊場であり

屈指の古刹からなる

西国三十三観音霊場の発祥と

関わります。

 

当山創建当初の本尊も

十一面観音とされます。

 

余談が長くなりましたが

藤原氏と観音信仰には

深いつながりがある点を

明示しておきたかったのです。

 

それと

京の方にルーツを持つ方が

当地に来たことは

歴史的にある話だと思いますし

修験者などの宗教者が

当地に居を構えたことも

実際にあったと思います。

 

諸江卿について付言すると

先に示した1と2の

イザナミノミコト勧請について

2の報告には

杉の植樹の伝説には

触れられていません。

 

当山では

開基開山上人の行海大和尚が

旧観音堂の地に

七つ星になぞらえて杉を植えた

との伝えがあるのですが

別説として

藤原諸江卿が杉を植えた

という伝えもあります。

 

これらについても

前回触れた坂上田村麿将軍の説と同様

同じエピソードの主人公が

“仏教的人物”から

藤原諸江卿に代替されているようにも

思われるのです。

 

藤原諸江卿を祖神とする

旧修験家の方々が

古来より大切にされてきた

祈りの地を

当時の状況下において

求められた形態にて

受け継いだことの決意の現れ

としての縁起改変

のようにも感じられます。

 

さらには

幕末における

新政権の政策構想として

国学者の立場から

奉呈された史料中にて

記紀神話の神々と

皇系につらなる方々や

国家に功績のあった方々を

国家的に祭祀するよう

主張するものがあり

藤原氏は「皇系につらなる方々」

となります。

 

この構想にそった形で

明治元年以降に

神社創建があいついだことと

旧観音堂の神社化と

藤原諸江譚への縁起改変は

軌を同じくした可能性もあるでしょう。

 

以上見てきたような

改変パターンによる縁起の整理で

時代的背景もあって

全国的に強要された神仏分離と

当地における旧観音堂の神社化を

乗り越え

“破壊”を伴う様な状況ではなく

可能な限り歴史や伝統を温存しつつ

明治スタイルに適応させた形に

着地させることが出来た

と言えようかと思います。

 

明治以後

大正・昭和20年までの間は

教育においても

古事記など日本神話に基づいた理解は

必須のことであり

それが公的祭祀を裏付けるものであり

国としての思想的基盤とも

いえるものでした。

 

明治における

旧観音堂の神社化や

それに伴う縁起改変は

明治だけの話ではなく

その後に向けた“国づくり”

としての文脈で捉えると

見えてくるものがあると感じます。

 

紐解き七崎観音⑪

前回(紐解き七崎観音⑩)は

多様な語りの発生について

声による「口承」と

文字による「文書」による

伝達という観点から検討してみました。

 

現代に生きる私たちにとって

「文書」は黙読をもって

そこに保存された情報を

取り出そうとするアプローチが

ごく日常的ですが

時代が違えば事情も異なり

「文書」と「音読」をセットとして

捉えられていたそうです。

 

「文書」により保存され

伝達が目指された情報は

眼識(目による情報の認識)

だけでなく

耳識(耳による情報の認識)

にも関わりながら

情報受者に取得されていた

と一応表現できるでしょう。

 

私たちは

自身の感覚器官(六根)により

各器官が対象とするもの(六境)を

把握し認識(六識)します。

 

五蘊(色受想行識)

という考え方は

私たちの認識構造を把握するのに

大変参考になるものでして

私たちの内面から

物事との接触・認識までの流れを

識→行→想→受→色

と捉えます。

 

専門度が高いので

識をここでは便宜的に

「あらゆる経験が蓄積される深層的な心」とし

行については

「各自の思考のクセ」とします。

 

意識的無意識的とわず

私たちの様々な「経験」が

心のうちに種のように

ストックされており

諸条件によりその種が発現し

想起させる力が働いて

物事の認識や行動に関わるという

内的で深層的な心と外的環境とのあり方を

捉える考え方があるのです。

 

こういったものは

私たちの認識のあり方や

世の中のあり方を

観察(瞑想)するためという

側面のあるもので

観念論的な思考としてだけではなく

実践が伴ってこそ

本領が発揮されるものといえます。

 

これらの思想や実践は

「苦」と「識」が

深く関わっていると

仏道で捉えられていることの

明示でもあります。

 

観音菩薩は

観自在菩薩とも言いますが

観自在菩薩は

「観ること自在なる菩薩」です。

 

自在というのは

とわわれないことを意味します。

 

「観ること」(因)により

「自在なる」(果)となる。

 

その「観ること」を考える時

本稿で触れた諸項目が

解読の鍵となります。

 

観自在菩薩に

関連する経典は様々あり

法華経や華厳経や般若心経といった

超有名経典ほか

多くの経典に登場しており

曼荼羅においても重要な尊格です。

 

「観自在」について

若干の説明をするはずが

結構長くなってしまいました…

 

奇数月に開催している

『写経カフェ』では

こういった類のお話が主となるので

ご興味をお持ちの方は

そちらでお話に

耳を傾けていただければと思います。

 

前回も

幕末明治以降の七崎観音について

触れましたが

その流れで今回も

同史料を扱います。

 

令和7年は終戦80年

という節目ということで

他シリーズでも

幕末明治以降について

触れています。

 

太平洋戦争について

深ぼって考えるためには

幕末明治にさかのぼって

考える必要があるためです。

 

また

当地だけではなく

戦争期において観音菩薩は

様々な願いが捧げられた尊格であり

この点からも様々

述べられることがあると考えています。

 

七崎観音についていえば

旧観音堂が廃止され

旧地は神社化され

七崎観音は遷座された

のが明治時代で

ひとつ(無分別)のものが

ふたつ(分別)にされた

ともいえます。

 

明治〜昭和20年(1868〜1945)の

77年の間は

目まぐるしさがあり

寺社関係についても

明治冒頭から

大きな変化がいくつもあります。

 

それらのことにも

触れながら眺めることは

とても有意義と捉えています。

 

細かなことについては

徐々に触れるとして

前回扱った史料について

以下に再掲します。

 

『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])の当地についての箇所

全く後人の偽作なれとも

本条と俚老の口碑を

採抜せるものなるへけれは

風土の考知らん為に左に抄す

 

七崎神社

祭神

伊弉冉命[イザナミノミコト]

勧請之義は古昔天火に而

焼失仕縁起等

無御座候故

詳に相知不申候

 

異聞あり

ここに挙く祭神は伊弉冉尊にして

勧請の由来は天災に焼滅して

縁起を失ひ詳らかなることは

知かたけれとも

四条中納言 藤原諸江卿

勅勘を蒙り◻刑となり

八戸白銀村(九大区 三小区)の

海浜に居住し

時は承和元年正月七日の

神夢に依て浄地を見立の為

深山幽谷を経廻しかとも

宜しき所なし居せしに

同月七日の霄夢に

当村の申酉の方

七ノの崎あり

其の山の林樹の陰に

我を遷すへしと神告に依り

其告の所に尋来るに大沼あり

 

水色◻蒼

其浅深をしらす

寅卯の方は海上漫々と見渡され

風情清麗にして

いかにも殊絶の勝地なれは

ここに小祠を建立したり

 

則今の浄地なりと

里老の口碑に残り

右の沼は経年の久き

水涸て遺阯のみ僅に

小泉一学か彊域の裏に残れり

 

当村を七崎と云るは

七ツの岬あるか故と云う

 

又諸江卿の霊をは荒神と崇め

年々八月六日より十二日まて

七日の間 祭事を修し来たれりと

(以上 里人の伝る所

社人の上言に依る)

 

この語を見に初

伊弉冉尊霊を祭る趣なれとも

縁起記録等なく詳ならされとも

南部重直の再興ありし頃は

正観音を安置せり棟札あり

 

〈引用文献〉

青森県文化財保護協会

昭和41(1966)年

『新撰陸奥国誌』第五巻

 

史料では

「七崎神社としての縁起」について

「全く後人の偽作なれとも」として

以下の2説を述べています。

 

  1. 祭神はイザナミノミコト。むかし火事があり、縁起など焼失して無いため、詳細については分からない。
  2. 祭神イザナミノミコトの勧請について、天災で縁起を失っているため、詳細を知るのは難しいと前置きをし、藤原諸江卿が当地に勧請したという説を示す。四条中納言であった諸江卿は、勅令により白銀に居住しており、承和元年(834)1月7日の夢でイザナミノミコトの神告を受け、当地に勧請された。

 

大まかにいえば

上記の様になります。

 

藤原諸江卿という人物が

登場していますが

この伝説的人物を祖先とする

家々が当地にあります。

 

藤原諸江卿は

大同2年(807)1月3日に

没したとの説もありますが

大同2年という年は

北東北全体において

坂上田村麿将軍と結び付けられて

語られる年号でもあり

おそらく明治以後に

旧観音堂エリアの“神社化”に

必要な縁起類の編成作業において

藤原諸江卿と大同2年が

結び付けられて

語り直されたと思われます。

 

田村麿将軍は

「観音菩薩の権化」と言われるなど

観音信仰と深く関わる人物でもあるので

神社化作業においては

田村麿将軍と藤原諸江卿が

入れ替えられた形で

縁起が編まれたと言えそうです。

 

七崎観音の縁起についても

同じエピソードで

主人公が

田村麿将軍と藤原諸江卿という

違いのものがあるので

先述の様な改変作業が

必要あって為されたと

考えられるのです。

 

当地の神仏分離作業中

縁起改変において

「藤原諸江卿」という人物が

重要な役割を担ったといえます。

 

当山に残る

古文書や棟札や

各種表白において

藤原諸江卿について

全く記述がないことからも

明治以後における

縁起改変作業で

採用された人物であった可能性が

高いように思います。

 

引用した史料では

藤原諸江卿を荒神として

祀っていたとの報告もありますが

当山と旧修験家が所有していた

荒神像は三宝荒神と思われることから

諸江卿を荒神として祀っていた

という報告は

神社化の縁起改変に伴う内容である

可能性があるものの

「藤原諸江卿=荒神」と祀って

そのための行事があったとすると

怨霊信仰や祖霊信仰の観点から

様々に述べることが出来るので

この辺は別の機会に

深めてみたいと思います。

 

これまで見てきたような

縁起改変作業は

時代的要求があって

実行されたものであり

必要があった故のことで

「不敬なもの」ではありません。

 

すこぶる強烈な

政治的・時代的圧力が

長い歴史や伝統を

政治的・時代的要求に耐えうる

縁起に編み直さざるを得なかったのが

明治における神仏分離の頃だった

とまとめられるでしょう。

 

紐解き七崎観音⑩

当シリーズ

1年以上ぶりの投稿です。

 

最近の投稿にも本シリーズと

大いに関わるものがあるので

そちらもご参照ください。

 

▼草創期に関して

「開創当時を考える」シリーズ

 

▼近現代に関して

R7開山忌関連(草創期と近現代について触れています)

 

前回(紐解き七崎観音⑨)は

語りの一旦を担い

その拡散に貢献した方々を

広い意味でヒジリと

表現してみました。

 

諸聖

山伏

修験者

私度僧

などをヒジリと言っています。

 

七崎観音に関する

霊験譚や縁起譚は

もともと口承によります。

 

寺社縁起や諸尊縁起ほか

霊験譚で語られるものは

歴史とは似て非なるものであることは

ずっと以前より強調してきました。

 

ここでいう歴史とは

現代的意味においての歴史であり

現在より時間的に遡って

実際に発生したことの記録

といった意味でしょうか。

 

縁起・由緒譚といった類のうちにも

先にいった意味での歴史が

含まれていないという

意味ではありませんが

歴史と等価に捉えるのは

難しいといえます。

 

語りの一翼を担い

多くの方に広げた

ヒジリには

様々な方が想定され

口々に発される内容は

各人において

内在化されたもので

その理解を踏まえた

表現(言い回しや抑揚など)も

異なるでしょう。

 

語りは

それを聞くものにとっての効果だけでなく

それを語るものにとっての効果も

認められるものです。

 

自身の内に

内在化したものを

第三者に向けて

伝達するプロセスは

昨今の臨床場面で見られることのある

ナラティブ・アプローチと

類似すると思われます。

 

声による伝達は

話者の内面とつながり

そして語りが伝達されるためには

対象者がいることが必要です。

 

ヒジリ→対象者

に話が伝達されれば

そこからさらに対象者を通じて

新たな話者(対象者)において

内在化されたものが

別の対象者へ伝達されるという

連鎖によって広がっていきます。

 

対象者から別の対象者への伝達を

第二次伝達とすれば

それはカッチリしたものではなく

世間話のような形であることの方が

多かったでしょうし

むしろ世間話のような形の伝達が

大きな拡散力を持っていたとも

考えられます。

 

口承は「声の伝達」とすれば

文書など記述によるものは

「文字の伝達」です。

 

さらにこれら伝達には

保存の働きもあるので

「声の保存・伝達」

「文字の保存・伝達」

ともいえます。

 

その両者は

保存・伝達という

働きが同じであっても

口承によるものは

簡略明快な内容である

傾向にあるのに比べ

文字によるものは

固定化が目指される傾向にあり

心情や場面などの

情景描写が多い傾向にあるなど

大きく異なります。

 

口承は声によるため

その内容が人々の記憶に

留められるとはいえ

文字などに記録されなければ

史料としては残りませんが

文書は

その内容いかんに関わらず

史料としては残ります。

 

唐代の義浄三蔵が

『南海寄帰内法伝』で

口承でしか伝えられていない

経典があったため

文字にとどめたと

記されているように

口承を重んじて

継承されてきたものが

あったことは

とても興味深く思いますし

口承は奥深いものだと感じます。

 

真言宗においても

口伝といって

文字に起こすのではなく

阿闍梨が弟子に対して

儀式において伝授する伝統が

今なおあることもまた

口承文化の尊さに通じると思います。

 

文字による保存・伝達は

現代に生きる私たちにとっては

とても馴染みあるもので

今や大量の情報を扱うことが可能です。

 

とはいえ

文字による保存・伝達の

性格は今も昔も共通しており

文字による情報の保存には

限界があるのは間違いなく

そのことに私たちの多くは

気がついているように思います。

 

たまたま残った文字が

当時からすれば

デタラメなものだった

なんてことがないとは

いいきれないわけです。

 

「語り」には

①物語などの内容

②語るという行い

の二つの意味があり

①が同じであっても

②の方法or主体により

バリエーションが生まれるのは

自然なことといえるでしょう。

 

七崎観音にまつわるお話は

一様ではないことについて

「語り」のあり方に注目して

わずかながら述べてみました。

 

七崎観音に関して

口承されてきた内容は

明治の到来とともに

イザナミノミコトと

藤原諸江卿のお話への

変更が図られることになります。

 

これは時代的背景によるもので

政府の政策において

神仏分離による“神社化”が

国家神道において

重要な意味を持つためです。

 

明治・大正・昭和(終戦まで)

を通して神社に関わる政策に

幾度か変遷があるにせよ

宗教ではなく祭祀において

大きな意味が付与されていきます。

 

旧来の縁起類の

改変の様子を

以下の引用に

見ることが出来ます。

 

『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])の当地についての箇所

全く後人の偽作なれとも

本条と俚老の口碑を

採抜せるものなるへけれは

風土の考知らん為に左に抄す

 

七崎神社

祭神

伊弉冉命[イザナミノミコト]

勧請之義は古昔天火に而

焼失仕縁起等

無御座候故

詳に相知不申候

 

異聞あり

ここに挙く祭神は伊弉冉尊にして

勧請の由来は天災に焼滅して

縁起を失ひ詳らかなることは

知かたけれとも

四条中納言 藤原諸江卿

勅勘を蒙り◻刑となり

八戸白銀村(九大区 三小区)の

海浜に居住し

時は承和元年正月七日の

神夢に依て浄地を見立の為

深山幽谷を経廻しかとも

宜しき所なし居せしに

同月七日の霄夢に

当村の申酉の方

七ノの崎あり

其の山の林樹の陰に

我を遷すへしと神告に依り

其告の所に尋来るに大沼あり

 

水色◻蒼

其浅深をしらす

寅卯の方は海上漫々と見渡され

風情清麗にして

いかにも殊絶の勝地なれは

ここに小祠を建立したり

 

則今の浄地なりと

里老の口碑に残り

右の沼は経年の久き

水涸て遺阯のみ僅に

小泉一学か彊域の裏に残れり

 

当村を七崎と云るは

七ツの岬あるか故と云う

 

又諸江卿の霊をは荒神と崇め

年々八月六日より十二日まて

七日の間 祭事を修し来たれりと

(以上 里人の伝る所

社人の上言に依る)

 

この語を見に初

伊弉冉尊霊を祭る趣なれとも

縁起記録等なく詳ならされとも

南部重直の再興ありし頃は

正観音を安置せり棟札あり

 

〈引用文献〉

青森県文化財保護協会

昭和41(1966)年

『新撰陸奥国誌』第五巻

 

以上の部分に

社人と里人の説が記載されています。

 

この部分には

当地の先人方の

明治政府より求められた

「旧観音堂の神社化」への

苦心しての対応を

見てとることが出来ます。

 

「全く後人の偽作」

とありますが

当時求められた神社化において

旧来守られてきた伝統や

地域に誇る歴史といったものを

下敷きにして

イサナミノミコトを祭神とした

縁起が用意されたと考えられます。

 

真言神道や両部神道という

神道と仏教が融合した形があるのですが

女神であるイザナミノミコトを

蓮華部という曼荼羅のパートを司る

観自在菩薩と

関連づけて捉える理解の方法を

採用したのではないかと

拙僧泰峻は考えています。

 

要するに

イザナミノミコトを祭神としたのは

神仏習合・真言神道の考え方や

曼荼羅の思想が背景にあり

七崎観音と七崎観音堂時代との

つながりを内包することで

行政的に実行される断絶を

乗り越えようとした

と考えております。

 

神仏分離が図られた頃

地域によっては

廃仏毀釈という現象が多発しますが

当地ではその風潮が希薄であり

旧観音堂の「神社化」が

漸次進められているように見えます。

 

現在の七崎神社の境内に

「ほこ杉」と呼ばれる

巨大な杉がありますが

この名称は明らかに

古事記・日本書紀の

神話に由来しており

天沼矛(あめのぬほこ・古事記)

天之瓊矛(あめのぬほこ・日本書紀)

から来ています。

 

古事記・日本書紀が

仏教的な様相を帯びて

語られた時代があり

その内容は

中世神話と表現されることもあり

神道灌頂といった儀式が

真言宗でも行われていたので

明治における諸対応への

根拠たる思想を

そもそも持ち合わせていた

とも考えられます。

 

明治における

改変された縁起について

次回も触れてみたいと思います。

 

開山忌と供養祭のお話のつづき〜近現代史に触れながら〜

初代住職のご法事にあわせ

歴代先師のご供養を行う

開山忌(かいさんき)。

 

ならびに

会津斗南藩縁故者供養

戦没者供養

合葬墓供養を

5月10日に行います。

 

令和7年は

この行事にて

四大明王像の開眼も

執り行います。

 

本年の開山忌に関して

数日前にも書いたので

そちらもご参照ください▼

令和7年の開山忌について①

 

開山忌ならびに供養祭は

住職と弟子のみで

行なってきたものですが

参列はご自由にいただけるので

ご希望の方は

ご一緒いただき

お焼香していただければと思います。

 

本堂でお勤めをして

本堂裏手境内墓地にて

歴代住職墓

合葬墓

会津斗南藩縁故者供養所を

お参りして

最後に本堂前の

戦没者留魂碑を参拝します。

 

令和7年は

いわゆる太平洋戦争の

終戦80年という年です。

 

戦没者の慰霊追悼について

全国各地で難しさに

直面している昨今でして

豊崎地区においても

遺族会の維持継続は

困難であるとして

昨年の会合の時には

令和7年に何かしら

決断する必要があると

奥田卓司会長が

お話されていました。

 

奥田会長には

公私共に昔から

お世話になっており

都度都度に

戦争に関することや

慰霊追悼について

お話を伺わせていただき

切実な思いや願いも

お聞きしたことがあるので

当山として出来ることを

出来る形で精一杯

継続してまいりたいとの

思いを強く抱いています。

 

当山も当時の住職と

その弟が出征・戦死しています。

 

拙僧泰峻からみると

大叔父にあたるお二人です。

 

大叔父たちは

拙僧も一緒に暮らした

大叔母・道子の弟たち

祖母・豐の兄たちで

大叔父ら兄妹の過ごした時代は

幼少期から困難が伴いました。

 

というのも

その父である当山61世・長峻師は

行年60でご遷化されており

その時に次代を担う

長男・晃雄師は14歳で

その姉の道子は17歳

弟の高明は12歳

妹の豐は10歳という状況で

お寺の住職については

晃雄師が住職に就任する時まで

代務者を立てなければなりませんでした。

 

代務者としては

親戚でもあり

大学者でもあった神林隆淨大僧正などの

多大なご助力がありました。

 

神林大僧正の奥様が

長峻師と兄妹であったご縁で

神林家には

大変お世話になった経緯があります。

 

戦争期については

その前後のことも含めて

以前ブログで書いたことがあるので

いくつかリンクを貼っておきます。

 

▼過去の参考記事

「昭和の最困難期」

「普賢院近現代の「巨星」長峻大和尚」

「稀代の古刹 七崎観音⑨」

 

上記の記事を

読み返すと

実に大変な時期であったことを

再確認させられます。

 

こういったことが

あったということの中には

時代を超えた気づきや教訓が

多分に込められていると考えます。

 

明治以後から

戦時下における

参拝や祈りのあり方には

切実なものが感じられます。

 

あまり紹介する機会がなかったので

本稿で少しだけ述べますと

幕末明治の混乱期や

戦時下において

七崎観音への参拝のあり方は

実に切実なものがあります。

 

幕末から明治への移行は

戦乱を伴うものであり

それは明治になってからも

国内の戦火が静まるまでに

しばらくの時間を要しました。

 

政策面においても

例えば宗教政策については

当初打ち出されたものが

うまく機能しなかったために

方針を変更しながら

着地点が模索されています。

 

神仏分離と廃仏毀釈を

同じものと誤解される方も

いらっしゃると思いますが

神仏分離は政府として

トップダウンで試みられたもので

廃仏毀釈は現象として

発生したものといえます。

 

神仏分離への対応として

当山では旧観音堂のあった

境内地を切り離して

旧観音堂を廃止して

仏像・什器などは普賢院に移し

旧地・旧堂は七崎神社となりました。

 

明治2年(1869)に

七崎観音(本七崎観音[本体仏]と

現七崎観音[御前立])は

遷座されたにも関わらず

多くの方が旧地へ

観音参りに訪れたため

応急策として

小堂を用意してそこに

七崎観音(現七崎観音)を再遷座し

明治9年(1876)の再々遷座まで

小堂が維持されています。

 

神仏分離の行政的実行と

地域によっては顕著な

廃仏毀釈の風潮の中

旧来通りに参拝がなされていたことは

大いに注目すべきことで

地域として長きにわたり

「協創された」伝統の凄みを

個人的には感じるのです。

 

この点については

若干本稿で触れますが

後日深ぼって

ご紹介したいと思います。

 

ちなみに

当地においては

廃仏毀釈の痕跡は希薄で

漸次順応が図られています。

 

明治9年(1876)の

官撰地誌『新撰陸奥国誌』は

数年の調査により編集され

明治天皇御巡幸を前に

完成したものです。

 

北方における

天皇御巡幸という出来事は

当然のことながら

政治的にも

当時の宗教的にも

大きな影響力があることで

明治上旬の出来事を

検証するにあたり

見落としてはならないことです。

 

こういった件については

別の機会にするとし

話をもとに戻しまして

旧来通りに観音参りをされた方が

いかなる祈りを

捧げられたかについて

思いをはせたとき

ルンルンな気分での参拝というより

時勢に伴う祈りが多いのです。

 

七崎神社となった旧地に

七崎観音(現七崎観音)が

小堂にて祀られた明治2〜9年は

国内においてもですが

東北地方においても

心穏やかな時期ではなく

むしろ社会不安により覆われた

時期でした。

 

関連する話題として

取り潰された会津藩の方が

斗南藩として再興を許可され

五戸・むつへ向かう道中

当地に身を寄せられ

そして当山にて弔われた方が

いらっしゃいます。

 

当山で弔われた斗南藩縁故者は

明治4〜6年が没年であり

斗南藩の方にとって

とても厳しい時期にあたります。

 

会津斗南藩縁故者の墓石16基が

当山には現存しておりまして

本堂建替の機会に

供養所として供養碑を建立し

墓石も並列して

供養所を整えました。

 

その方々も

当山はもちろんですが

七崎観音堂旧地にも

お参りされて

祈りを捧げられたと思われます。

 

トップダウンで

新たな秩序への変更が

図られることは

当初において

旧来よりの秩序を保ってきた

方々からすれば

言葉にならない不安に

さいなまれたはずです。

 

幕末明治は

戦火により多くの方が殉死した

時期でもあり

そういったことに対する

祈りも切実に捧げられており

そのような祈りは

日清・日露・太平洋戦争

といった一連の戦時下でも同様です。

 

七崎観音が明治9年に

再々遷座されたことは

明治天皇御巡幸を前に

地域として

行政的要求に準じた

「神社」を整える必要が

あったと捉えるのが

自然だと思います。

 

環境における

行政的(表向き)な変化が

あったにせよ

それ以前からも

それ以後も

頼りとされた観音菩薩に

切実な祈りが捧げられ続けました。

 

戦時下において

出征者の家の方が

毎日のように観音参りをされた

エピソードは

当山だけではないでしょう。

 

当山では

地域で戦死者が出ると

本堂に遺影が掲げられ

供養がなされました。

 

現在境内にある

戦没者留魂碑は

昭和37年(1962)に

建立されたものです。

 

留魂碑には

地域の戦没者のお名前が

刻まれており

さらに当山では

当地だけでなく

当山有縁の戦没者の

過去帳と位牌が用意され

供養されてまいりました。

 

戦没者過去帳は

先代・泰永師が用意し

したためたものです。

 

開山忌にあわせて

会津斗南藩縁故者

戦没者供養を行うのは

これまでなされてきた供養に

託された様々な思いを

考えてのことでもあります。

 

あちこち話が飛びましたが

「開山忌ならびに供養祭」のうち

供養祭の内容に関して

会津斗南藩縁故者供養と

戦没者供養について

書かせていただきました。

 

開創当時を考える⑧

このシリーズ

思いの外

好評いただいておりまして

楽しみにしてますとか

勉強になりますとか

おっしゃっていただけるのは

お世辞とはいえ

とてもありがたいのですが

気ままに書いているので

かたじけなく思います。

 

当山の歴史は長いので

時代ごとに

紹介したいことや

関連事項のお話は

ものすごく沢山なのですが

ブログで触れられるのは

そのうちの一部だけなので

記事内容はあくまでも

参考程度にご覧ください。

 

さて

「開創当時を考える」ここ何回かは

月法律師について

深ぼってきました。

 

法名が月法ではなく

月躰とする場合もありますが

これは南祖坊伝説を

伝える写本の中に

南祖坊の師僧が

月躰と表記されるものがあるからです。

 

なので月躰という名は

写本ベースのもので

当山の場合は

過去帳に依っております。

 

当山過去帳には

第二世として月法律師の

法名が明記されているのです。

 

この点については

巷で共有出来る情報からでは

把握出来ないことだと思うので

一応言及しておきます。

 

月法師が

戒律に精通した律師である点は

かなり大きな意味を持つことは

以前に述べた所です。

 

日本では多くの場合

戒という一語に

戒(シーラ)と律(ヴィナーヤ)が

含まれて捉えられています。

 

仏道修行において

戒は三学(戒・定・慧)の筆頭であり

仏道入門または修行入門において

不可欠なものです。

 

「初道」において

戒とともに重要視されるのが

菩提心(ぼだいしん)という尊い心です。

 

菩提心には

①悟りを求める心

②そもそも備わる尊い心

という意味があり

いずれもが大切なものであり

この菩提心の感得が

修行では目指されるといえます。

 

そして菩提心は

戒体(戒の本質)であり

様々な戒律は戒相(戒のあり方)

であると捉えます。

 

戒と聞くと

ルールとか禁止事項のニュアンスを

感じる方が多いと思いますが

具足戒はともかくとして

特に大乗仏教では

善業の意味合いが強いものが

“戒の日々の実践”とされます。

 

とりあえずここでは

本質としての菩提心

具体的な形としての戒

ということを

押さえていただければ結構です。

 

それでは

このことを踏まえて

「月法」という法名について

深ぼってまいりましょう。

 

空海が重用した経典『菩提心論』の

経文をいくつか

書き下して引用します。

 

  1. まさに普賢大菩提心に住すべし。一切衆生は本有の薩埵なれども、貪瞋癡の煩悩のために縛せ所るが故に、諸仏の大悲善巧智を以て、この甚深秘密瑜伽を説いて、修行者をして内心の中に於いて日月輪を観ぜしめ、此の観を作すに由って本心を照見するに、湛然として清浄なること猶し満月の光の虚空に遍じて分別しり所無が如し
  2. 一切有情は悉く普賢之心を含せり。我れ自心を見るに形、月輪の如し
  3. 凡人の心は合蓮華の如く、仏心は満月の如し

 

1〜3には

観法修行の重要性と

自心の実際は菩提心であり

自心の形は月輪のごとくであり

仏心は満月(満月輪)のごとく

であることが述べられます。

 

これらは事相(修行)と

教相(教理教学など)が

伴って理解する必要がありますが

要するに

菩提心と月輪が

修行上でも教理上でも

不可分なものなのです。

 

月法律師の法名「月法」は

「月の法(みおしえ)」という意味なので

月輪と菩提心という

仏道修行の核に通じる意味を

読み取ることが出来ます。

 

写本に見られる異名「月躰」についても

躰は「本質」という意味なので

同様の意味を宿していると

捉えることが可能です。

 

空海の『声字実相義』や

『吽字義』に代表される

梵字の字相・字義による

法名の紐解きでは

さらに多様な意味に

接続出来るでしょうが

それにはここでは触れません。

 

月法律師の法名・律師の

意義を踏まえたうえで

南祖法師(坊)伝説を

再検討してみると

より仏教的&教導的なものが

浮かび上がってまいります。

 

寺院の縁起・由緒や伝説は

歴史とは似て非なるものであることは

当ブログを始めた当初から

何度も何度も記してきた所です。

 

拙僧泰峻は

仏道に本格的に入る以前

大学で人類学という学問を

専攻していました。

 

人類学にも様々な分野があり

中でも神話研究で有名な

“知の巨人”レヴィ=ストロースは

著書『構造人類学』(みすず書房、1972)で

次のように述べます。

 

むしろ、神話の研究はわれわれを矛盾した認識に導くのだということをみとめようではないか。神話の中では一切が起こりうる。見たところ、そこでは諸事件の継起はいかなる論理あるいは連続性の規則にも従わない。[同書:230]

 

レヴィ=ストロースは

いわゆる構造主義を

代表する人物として

有名な方ですが

ソシュールなどの流れをくむ

記号論を応用して

親族構造や神話の研究を

行なった方です。

 

構造主義は

ギリシャ哲学以来の

西洋哲学・思想に

挑戦した思想です。

 

レヴィ=ストロースは

ギリシャ以来の思想・哲学の

流れを汲んだ

実存主義の代表者サルトルと

同時代の学者で

構造主義の思想は

一世を風靡するものとして

注目されました。

 

西洋的価値観を基準に

あれこれ判断を下すことへの警鐘も

レヴィ=ストロースの

メッセージのひとつです。

 

レヴィ=ストロースの著書は

学生時代の拙僧には

あまりに難しすぎて

ほぼ理解不能だったのですが

おそらく人類学に触れた方に

共通した経験であろうと思います。

 

いま引用した文は

寺社縁起の類においても

重々踏まえるべきことだと

思います。

 

口承により保存・継承され

文字に起こされ保存・継承された

その「字面」と等置される意味だけでなく

「字面」へ保存作業する際に

働いた作用や法則や背景や

暗に込められたコードに

近づこうとすることが

一つの姿勢として

考えられるでしょう。

 

専門的になってきたので

この話題はこの辺で。

 

開創当時の社会状況を

考える一助として

何年か前に阿光坊遺跡を

訪れた際の動画を作成したので

以下に添付しておきます。

 

それに加え

圓鏡上人を含む

三開山上人についての

紹介動画も以前作成したので

以下に添付しておきます。

 

さらにさらに

昨年5月に行なった

開山忌(歴代先師のご法事)と

供養祭の動画も

関連動画として添付します。

 

以上

月法律師についての深掘りでした。

 

5月10日の開山忌で四大明王の開眼も行います

開山忌(かいさんき)は

当山初代住職のご法事にあわせ

歴代先師のご供養を行う行事です。

 

また開山忌にあわせ

会津斗南藩縁故者供養

戦没者供養

合葬墓供養も行います。

 

さらに本年は

新たにお迎えする

四大明王像の開眼も

行います。

 

様々な意味を託した

開山忌ならびに供養祭について

何回かに分けて

投稿したいと思います。

 

当山では

次の三師を

三開山上人としています。

 

三開山上人

  • 開創開山・圓鏡大和尚(延暦・弘仁年間[782~824]開創/弘仁8年[817]5月15日寂)
  • 開基開山・行海大和尚(承安元年[1171]5月開基[中興]/建仁年中[1201~1203]寂か)
  • 中興開山・快傳大和尚(享保年間[1716~1736]に中興)

 

圓鏡上人の頃について

諸研究によりながら

仏教学的あるいは僧侶観点で

投稿を重ねてみたので

ご興味をお持ちの方は

ご一読いただければと思います。

 

▼「開創当時を考える」シリーズ

https://x.gd/m2kzn

(やや専門的です)

 

平安後期から鎌倉初期の

行海大和尚についても

深ぼってご紹介すると

とてもドラマチックというか

波乱万丈であったろう

ご生涯が想像されます。

 

行海上人は

大往生を遂げた方でして

11世紀初頭から12世紀初頭までの

約一世紀を在世とされるので

興教大師の生きた

“激動の時代”を目の当たりに

していたと推定しています。

 

行海大和尚については

機会があれば

ブログでもシリーズで

紹介したいと思います。

 

江戸中期

飢饉等で多くの人が

心身ともに疲弊していた時代に

活躍されたのが

快傳大和尚です。

 

快傳大和尚の時代

多くのお堂の修繕がなり

仏像が造立され

伽藍整備も図られました。

 

快傳大和尚は

かつて境内にそびえていた

大イチョウを植えたと

される方でもあり

また

享保期の寺屋敷建立棟札には

当地に様々な木々を植え

さらに

観音山(七崎山)に2000本の杉を

植えたと記録があります。

 

当地へ植樹されたものは

諸仏諸尊への供物や

修行における自給生活に

資するようなものが多いです。

 

観音山の2000本の杉の植樹は

おそらく現當二世安楽のために

賢劫仏(けんごうぶつ)になぞらえ

観音山を曼荼羅に見立てた

浄行ではないかと考えます。

 

観音山は当山の旧境内地で

明治まで観音堂があった場所で

明治以降は観音堂は廃止され

境内地を切り離し

現在は七崎神社となっています。

 

棟札の記載は

記録としての史料なので

快傳大和尚以前の観音山には

2000本もの杉を

植えられるだけのスペースが

あったということでもあり

現在の景観とは

全く異なる景観だったことを

暗示します。

 

杉だけでなく

伽藍や諸堂の整備

仏像の造立・請来などを

総合的に踏まえると

「曼荼羅に見立てた浄行」を

意識された方であり

さらには修行における

環境を整える意図も

看取出来るといえるでしょう。

 

そんな快傳大和尚についても

機会があれば

ブログでも紹介したいと思います。

 

本年の開山忌では

新たにお迎えする

四大明王像の開眼も行います。

 

不動明王と四大明王を

あわせて五大明王と称します。

 

不動明王は

真言宗においても

日本の信仰史においても

篤く敬われてきた尊格で

修行においてとても重要な意味を

宿しています。

 

普賢院合葬墓は

不動明王を本尊としており

不動明王は当行事にも

大きく関わります。

 

ということで

今回はここまでとし

つづきはまた後日とします。

 

▼昨年の開山忌ならびに供養祭

ネット時代の「研究倫理」的なもの

これまで何度か

棟札(むなふだ)について

紹介したことがあります。

 

棟札は本堂やお堂などを

建立する際に

制作される木札のことで

それは貴重な歴史史料でもあります。

 

本堂建替にあたり

総整理を実施して

その成果を「基礎資料」に

反映させて年表にしています。

 

「基礎資料」については

過去のブログに掲載しており

時折アップデートしているので

ご興味をお持ちの方は

ご参照ください。

 

研究機関に所属する

一研究者でもあるので

史料や典拠に基づいた

情報整理を行なっています。

 

伝承や伝説といったものも

いくつか伝えられる当山ですが

そういったものの中には

増広が顕著なものも見られ

広く枝葉が広がった状態になり

それがあたかも古代からの

「定説」かの如くに

宣伝される事象が見られ

それはそれで味わいが

あると感じています。

 

巷における大衆的な伝承と

寺院における伝承には

異なる意味合いがあるのは当然で

神仏縁起や霊験譚としての

捉え方に方法的差異が

少なからず認められると思います。

 

魅力的な“面白さ”を

感じていただけることが

目指された語りもあるでしょうし

縁起譚・霊験譚として

仏縁を深め日々の精進の励みに

つなげることが目指された語りも

あるでしょうし

意図は様々に考えられます。

 

現住職としては

棟札の記述

仏具や仏像の刻字と朱書き

過去帳の記述

墓誌の記述

次第・近世文書の記述

などの整理を通して

「普賢院史」の大筋を

捉えることを

まず第一に目指しました。

 

まだまだ道半ですが

開創・開基・中興の

三開山上人について

各師の時代背景について

仏教学的視点からのアプローチにも

よりながら紐解きたいと考えています。

 

実はもう

頭の中では

まとまっているのですが

何かしらの形にする作業で

文字にしてみたいと思います。

 

ブログで書くかどうかは

分かりませんが

お寺の行事などでの法話では

随時お伝えしております。

 

普賢院の伝承・伝説と聞くと

当山有縁の方ですと

行海大和尚伝説

七崎姫伝説

南祖法師伝説などが

思い浮かぶと思いますが

それ以外にも

とある檀信徒家のいくつかに

まつわる伝承や

仏像にまつわる伝承などもありますし

表に出す機会の少ないものも多いのです。

 

「歴史」ついででいえば

本年は太平洋戦争の終戦80年

という節目となりますが

戦前・戦中・戦後の

諸エピソードは

後世に伝承すべきものだと

個人的に捉えています。

 

「戦争」としては

さかのぼれば戊辰戦争

日清戦争、日露戦争についても

当山では追悼行事が

続けられているので

これもいかに伝承していくかを

考える必要があると感じています。

 

伝承・伝説には

様々な立場や意図によって

語り方が異なるのは当然として

いざその検証を発願したとき

史料に裏付けられたものに

立ち帰ることが出来るようなものを

整えることは有意義なはずです。

 

そういった時に

一助となるに耐えるような

「基礎資料」や記事を

コツコツとストック

出来ればと思っています。

 

尾鰭背鰭がついて

一次情報から飛躍した形に

なったとしても

そのような語りは

いつの世もあったはずですが

ネットが日常的インフラと化した

現在においては

ある程度の「研究倫理」的なものは

意識されるべきと思います。

 

地の文なのか

引用なのかがあいまいだったり

引用内容が意図的に修正されて

もともとの意味と違っていたり等

ないように

心がけることが

一層必要なのだろうと思います。

 

まとまりのない内容ですが

以前の棟札に関する

記事を久しぶりに読んだのを

きっかけに惹起したことを

ツラツラと記した次第です。

 

▼棟札の記事(例1)

棟札関係記事「数年ごしの解読」

 

▼棟札の記事(例2)

棟札に耳を傾ける①〜④

 

▼享保18年(1733)庫裡(寺屋敷)棟札

開創当時を考える⑦

月法律師について

今回も深ぼっていきたいと思います。

 

十和田湖伝説の南祖法師(坊)の

師僧とされる月法師ですが

師が律師(戒律に精通した上人)で

あることに注目してきました。

 

戒律という言葉は

厳密には戒と律は

異なっており

戒は自律的・内的なもので

律は他律的なもので処罰を伴います。

 

原語を確認すると

戒は「シーラ」

律は「ヴィナーヤ」で

明確な区別があります。

 

ただし

中国や日本に伝わり展開するなかで

戒と律は混然としていき

「戒」の一文字のうちに

戒:シーラと律:ヴィナーヤが

含まれて捉えられるようになります。

 

このことは

例えば弘法大師の著作でも

はっきりと確認できます。

 

といっても

律:ヴィナーヤへの関心が

著しく低かったというわけではありません。

 

月法師をご縁として

戒律について

歴史的にも教理的にも

紐解いていった上で

南祖法師伝説と向き合うと

そこにも新たな見方による

物語像が浮かび上がります。

 

戒律という用語からは

規律や決まり事といったものが

連想されるかもしれませんが

戒律は行法と教理に密接に関わっており

さらには

戒律を伝える古い諸経典には

仏伝の説話が盛り込まれているのです。

 

そういったことを踏まえて

諸事考察していくことが

仏教的視点による姿勢と

一応は言えると考えます。

 

初代・圓鏡師について

取り上げた際にも触れましたが

古代の僧侶は

修行・修学を必須としており

出家(私度も含む)の動機として

何かしらの「悩み」が

多くの場合あったと考えられます。

 

「悩み」に関連していえば

8世紀以降の東北地方は

中央(律令国家)からの

移民政策や城柵が実施され

殊に桓武天皇の御代には

「軍事」政策に力が入れられ

戦時状態となった時期があり

そういった不穏な事態が

現実問題として現前していたことも

忘れてはなりません。

 

当山は

官寺としてではなく

“私寺”として

開創されているでしょうから

道俗(出家者・在家者・一般の方)が

相集うような

修行・修学・参拝の拠点として

よりどころとされたのだと考えています。

 

「律令国家」として

正式な手続きを経ての出家僧は

様々なことを期待されたわけですが

出家するための体制

特に戒律を授けられる環境が

整うに至るには

鑑真和上(688~763)の

来日・戒壇の設置を

待たねばなりませんでした。

 

古代日本において

出家者には様々なことが期待され

待遇も税金免除などの優遇措置が

取られていたため

その優遇措置欲しさに

出家するものも多かったようで

僧侶の質を高める目的もあり

出家制度を整備する必要に迫られ

戒律を授ける官立の戒壇が

設けられることになります。

 

出家動機としての

免税特許などの優遇の希求も

「悩み」からの解放を願った

とも捉えられますが

取り締まりをしなければ

ならない程の状況に

なっていたと推測します。

 

戒律にも種類がありますが

官僧として正式に出家するためには

具足戒(比丘250戒・比丘尼348戒)

の受戒が要件とされていました。

 

具足戒を授けるためには

三師七証という大役を全うできる

プロフェッショナルな僧侶10名が

必要だったため

優秀な僧侶を養成していくことも

戒壇設立には求められたのです。

 

具足戒と一言でいっても

典拠となる戒律の経典があり

中国・日本で広まったものの

代表は法護部(部派仏教のグループ名)の

『四分律』というものです。

 

ついでの話題となりますが

『四分律』よりも後に

成立した『説一切有部律』という

根本説一切有部という

かなり影響力のあった

部派の戒律について

空海は一目置かれており

真言僧侶が学ぶべき

戒律に関する典籍の多くに

有部律のものが挙げられています。

 

部派仏教に伝えられる戒律を

小乗戒と表現することもあり

起源前後から展開する大乗仏教でも

大乗戒が様々唱えられました。

 

大乗戒として

アジア全域で有名なのは

やはり『梵網経』を典拠とする

梵網戒といわれる

十重・四十八軽戒だと思います。

 

当山初代・圓鏡師

第2世・月法師

の時代においては

具足戒と大乗戒の

いずれも受戒していた祖師方が

多かったようです。

 

真言宗の戒律は

菩提心戒・三昧耶戒など

名称としては様々あるのですが

灌頂という儀式を通して

授けられるもので

説明を必要としますが

情報過多だと思うので

これ以上は触れないことにします。

 

月法師が

戒律に精通する律師であったため

具足戒や梵網戒といった

代表的なものを始め

各種戒律に通じていたと考えられます。

 

このことを加味して

次回もまた月法律師について

考察していきたいと思います。

 

つづく