八体仏の台座の彫刻

当山観音堂に祀られる

八体仏(はったいぶつ、十二支守護尊)の

台座には各干支の

彫刻が施されています。

 

仏像の観察をしていて気がついたのですが

各干支の彫刻の横には

家紋の彫刻も見られます。

 

この八体仏は

弘化年間(1845〜1848)に

納められたものです。

 

奉納当時の施主の家紋なのかもしれません。

 

 

湯殿山大日坊の大黒天

当山観音堂には

様々な尊格が祀られます。

 

向かって左側に祀られる

一体の大黒天。

 

この大黒様には

「湯殿山大日坊」との

文字が記されております。

 

大日坊とは

山形県鶴岡の湯殿山にあるお寺です。

 

詳細は不明ですが

そちらから勧請された

大黒様だと思われます。

 

湯殿山大日坊と当山はご縁があり

拙僧(副住職)曽祖父である

長峻大和尚が住職を

務めたことがございます。

 

その際に当山に

迎えられたのかもしれませんし

それより以前のものかもしれません。

 

とても綺麗な御仏像ですので

当山にお参りの際は

是非ご縁をお結び下さいませ。

糠部三十三観音霊場における寛保3年の意義

以前にもブログで紹介しましたが

当山観音堂には

寛保3年(1743)12月に

納められた賽銭箱がございます。

 

※以前のブログはコチラです▼

https://fugenin643.com/blog/寛保3年の賽銭箱/

 

寛保3年(1743)は

現在の糠部三十三観音にとって

とても大切な年でもあります。

 

天聖寺第8世の則誉守西上人が

永正9年(1512)の観光上人による

糠部三十三観音を元に

新たに巡礼したのが寛保3年6月であり

その札所が現在の糠部霊場となっております。

 

現在の三十三観音札所が

新たに“定められた”年でもある

寛保3年(1743)。

 

そのメモリアルイヤーに

納められた賽銭箱。

 

詳細は分かりませんが

糠部霊場における

「寛保3年」の意義を

今に伝えているように感じます。

 

毛馬内の月山神社

毛馬内(けまない)の月山神社。

 

こちらはかつて

月山 廣増寺(こうぞうじ)が

別当をつとめておりました。

 

江戸時代には

この廣増寺から

当山においでになられた

先師がいらっしゃいます。

 

廣増寺は

永福寺の門徒寺院という

本末関係があったため

当山との行き来がありました。

 

毛馬内の月山神社本宮は

山深いところに鎮座しており

霊験あらたかな雰囲気が

感じられました。

 

“蘇る”不動明王脇侍の二童子像

不動明王の脇侍(わきじ)である

矜羯羅童子(こんがらどうじ)

制多迦童子(せいたかどうじ)

という童子像を

弘前にお住まいの

仏師・小堀寛治さんに

作仏して頂きました。

 

小堀さんが手がけられる御像は

とても柔らかで優しい雰囲気を

まとわれています。

 

今回仕上げて頂いたお仏像もまた

仏師さんのお人柄の如く

慈悲に溢れるような

お姿をされていらっしゃいます。

 

当山は文化7年(1810)に

本堂が火災に見舞われており

その際に二童子像が焼失したと見られます。

 

謹んでお祀りさせて頂きましたが

200年以上の時を超え

久しぶりに脇侍を従えた不動明王像が

一層神々しく感じられます。

 

千手観音坐像の厨子を仕上げて頂きました

田子町出身の高僧である

奇峯学秀(きほうがくしゅう)御作の

千手観音坐像。

 

本年2月に

学秀仏(奇峯学秀作仏の仏像の意)であると

確認されてから

本格的に調べた所

この仏像は享保期の当山中興の頃に

当山に納められたと見ております。

 

学秀仏の千手観音は

現時点で他に作例が無いようです。

 

現在当山では

本堂建替事業を推進しており

その事業の中で

仏像仏具の修繕等にも

取り組むことにしております。

 

その一環として

学秀御作の千手観音坐像を安置する

厨子(ずし)の製作を

五戸木工の中野久男さんにお願いした所

とても立派な厨子に仕上げて頂きました。

 

感嘆させられるような

素晴らしい厨子を製作して頂き

心より感謝しております。

 

この千手観音坐像は

“美術的”にも歴史的にも

大変貴重な仏像といえます。

 

後世においても

祈り継ぎ

護り継い

語り継いで頂ければと思います。

 

ねぶたと田村将軍伝説

青森のねぶたは全国的に有名です。

 

ねぶたの起源には諸説ありますが

坂上田村麿将軍の伝説が

伝えられております。

 

毎年優れた団体を表彰する

「ねぶた大賞」という栄えある賞がありますが

少し前までこの賞は

「田村麿賞」という賞名でした。

 

青森駅のすぐそばにある

ワ・ラッセには

受賞した6台のねぶたが

展示されております。

 

ねぶた大賞を受賞したねぶたをはじめ

美しく迫力満点のねぶたは圧巻です。

 

是非多くの方に

ご覧頂きたいです。

 

ねぶたついでに

もう少しだけ田村将軍について

触れさせて頂きたいと思います。

 

田村将軍の伝説は

青森県内各所に見られますが

当山にも田村将軍創建伝説が

伝わっております。

 

当山の創建伝説というのは

田村将軍が奥州六観音の一つとして

七崎に十一面観音を祀ったというものです。

 

当山の現在の本尊は愛染明王ですが

かつては十一面観音を

本尊としております。

 

少し脱線しますが

いつの頃のものかは不明ですが

当山が所蔵する古い版木(はんぎ)で

観音菩薩のお姿と

七崎山 普賢院」の字が彫られている

ものがあります。

 

七崎山は観音山とも呼ばれており

当地周辺を指しますし

現在の七崎神社の地にあった

旧観音堂(寺号・徳楽寺)の

山号としても用いられていました。

 

普賢院においても七崎山の山号が

用いられることがあったということを

版木は伝えております。

 

全てというわけではありませんが

田村将軍伝説は

十一面観音と関わりが深いものが

多く伝えられます。

 

当山に伝わる

田村将軍創建伝説も

十一面観音との関係で

語られております。

 

ここでいう田村将軍は

“歴史上の人物”の枠組みを超えた

“神仏に連なるもの”(権者)といえます。

 

こういった視点は

伝説と向き合う際に

必要だと思います。

 

熊野権現と十和田湖の十湾寺

青森市油川の熊野社と

十和田湖十湾寺(とうわんじ)について

先日ブログでとりあげましたが

今回はその十湾寺について

もう少しだけ触れたいと思います。

 

中道等氏の

『十和田村史』(上巻)

(青森県上北郡十和田村役場、昭和30年)

にはかつて十和田湖にあった

熊野山 十湾寺について触れらた

史料が紹介されておりますが

それを記した僧侶が

当山先師の廣宥(こうゆう)大和尚です。

 

十湾寺は史料によっては

十涯寺とも十瀧寺とも記されます。

 

当山は鎌倉期から江戸初期にかけ

永福寺の寺号が用いられておりましたが

盛岡に永福寺の本坊が

建立されて以後は

本坊永福寺に対し

旧地である七崎(現在の豊崎)の

永福寺を自坊 普賢院とし

同じく旧地である三戸の永福寺を

自坊 嶺松院(れいしょういん)としました。

 

当山と同じく自坊であった嶺松院は

寛文年間(1661〜1673)に焼失したと

『新撰陸奥国誌』には記されます。

 

廣宥大和尚が

本坊永福寺45世住職を担うわけですが

史料を見てみると

本坊永福寺44世良光大和尚が

元禄12年(1699)に下総の観福寺へ

行かれることになり

永福寺住職を辞められた後

45世の廣宥大和尚が就任される間

如常

堯意

堯誉

以伝

という方々が「住職」を

されております。

 

南部藩における冠寺であった

本坊盛岡永福寺の

正式な住職になるためには

様々な条件が必要だったことと

このとは関係しております。

 

廣宥大和尚は

法明院住持をつとめられ

後に当山本坊盛岡永福寺45世も

つとめられた方で

当山先師過去帳にも

当山歴代先師墓の墓誌にも

その名を連ねられていらっしゃいます。

 

法明院は永福寺末寺ですが

江戸後期に本末関係をめぐり

寺院でもあります。

 

さて

余談が過ぎてしまいましたが

以下に中道氏の書き下し文の

一部を引用いたします。

(カタカナ表記をひらがなに改めました)

 


陸奥南部糠部郡の奥瀬村に

十和田と号する沼あり

 

奇代の霊沼にして

塵俗を離る数百里

城下を去ること数千里

 

峩々(がが)たる高山は峰を並べ

黄々たる灌木は枝を連ね

萋萋(せいせい)たる

葛藟(かつるい)は道を塞ぐ

 

既にして

虫類禽獣たりといえども

輙(たやす)く上ることを得ず

 

清々たるの池に臨みて之を見れば

洪々たる海水は崎を敲(たた)き

潺緩(せんかん)たる波浪は砂を洗ふ

 

譬えば魍魎鬼神たりといえども

謾(みだ)りに池の辺(ほとり)に

近づく能わず

 

誠に和漢无雙(むそう)の霊沼なり

 

是の沼の来由を尋ねしむるに昔

人王七代の帝 孝霊天皇の

治世七十六年壬子の暦(とし)の六月

湧き出たりと云々

 

此沼の主に八郎太郎と云う大竜あり

 

諸(もろもろ)の眷属八竜王

前後左右を囲繞(いぎょう)し

渇仰(かつごう)して常に之を

守護すること歳久しかりき

 

其後

人王五十一代平城天皇の御宇

大同二年丁亥の年八月

南宗比丘(なんそびく)

新たに霊夢を蒙り

彼の八竜を追出して

則ち池の主とはなりぬ

 

斯の時

悉く隣里郷党奔(はし)り集まりて

七堂伽藍を建立し

熊野三所権現を勧請し奉りて

熊野山十涯寺と号したり


 

ここには僧侶ならではの

言い回しが見られます。

 

十湾寺についてのみならず

十和田湖伝説の“ダイジェスト”を

どのように捉えていたのかを

窺い知ることが出来るように思います。

 

▼自籠岩より見た十和田湖(西湖)

大発見かもしれません〜早稲田観音と普賢院聖観音〜

滝尻善英氏の

『奥州南部糠部三十三カ所霊場めぐり』

(デーリー東北社、平成15年)に

掲載される第23番札所・早稲田観音の

十一面観音像の写真。

 

下から見上げるなアングルで

全体像が写真に納められ

仏像の特徴が捉えられています。

 

こちらがその写真です。

 

調べ物をしていて

それとなしに早稲田観音の

お姿を確認しようと思い

前掲の書籍を見たところ

早稲田十一面観音と

当山の聖観音(しょうかんのん)が

とても似ていることに気が付きました。

 

今話題にあがっている

当山の聖観音は観音堂内陣内殿の

七崎観音の脇仏として

向かって右側に祀られる観音像です。

 

古くから当山に祀られているようですが

その詳細は不明でした。

 

当山では本堂建替を控えており

来年春までには現在の本堂を

解体しなければならないため

本年の七崎観音御開帳の際に

内殿の観音像を細かく観察して

その特徴を確認しております。

 

そういった経緯があっての

今回の「気づき」です。

 

早稲田観音は

当山ととても関わりのある観音様で

かつて早稲田観音の別当を勤めていた

嶺松院(れいしょういん)は当山同様

江戸期に盛岡永福寺を本坊とする

関連寺院でした(現在は廃寺)。

 

普賢院と嶺松院は

いずれも永福寺の旧地ということで

自坊という形で庇護されました。

 

そういった歴史的関係性が

大いにある2所なので

同じ仏師が作仏された仏像が

祀られていたとしても

何ら不思議はありません。

 

それでは実際に

2体の観音像の類似点を

見ていきたいと思います。

 


【蓮台】

▼早稲田観音

▼普賢院聖観音

蓮台後方の“魚のヒレ”のようなものが

左右に施されており

これは早稲田観音の写真でも

この特徴的な部分が

当山同様左右両方に

施されていることが

はっきりと分かります。

 

また蓮台下の敷茄子(しきなす)と

呼ばれる箇所の作りや

その下にある蓮台もまた

作風がとても似ています。

 

【仏頭と上半身】

▼早稲田観音

▼普賢院聖観音

共通する点として

大きな耳たぶ

左手の形

左手に持たれている蓮の作風

装身具がない如来形

などが挙げられます。


 

前掲書より

以下を引用させて頂きます。

 

万治2年(1659)の

棟札(むなふだ)によると

二十年程前の寛永17年(1640)3月

門前の焚き火が飛び火して焼失し

宥鏡(ゆうきょう)法印の代に再興し

ご本尊の観音像も修復したと

記されています。(前掲書、p.92。)

 

寛永17年(1640)に

早稲田観音は火災に見舞われたことが

棟札に記されているとありますが

別の史料では

寛文年間(1661〜1673)にも

嶺松院が火災に見舞われていることが

記されております。

 

余談ですが

この宥鏡という方は

当山の先師でもありますが

その晩年の延宝8年(1680)に

本坊・盛岡永福寺も大火災に

見舞われております。

 

前掲書にも記されておりますが

早稲田観音の観音像は

棟札に記される万治2年(1659)

以前からある仏像ということになります。

 

当山の聖観音像もまた

同時期のものであれば

少なくとも三百数十年

当山にお祀りされていたことになります。

 

“真実”は

早稲田観音と当山の聖観音のみ知るわけですが

新たな仮説として

決して無理のないものかと思います。

 

さて

こういったことはどなたに

相談や問い合わせすれば

良いのでしょうか?

青森市油川の熊野社と十和田湖十湾寺

享保年間の『津軽一統志』は

外ヶ浜(青森市)油川の

熊野十二所権現社に

永禄2年(1559)の再興の棟札があり

その裏書には

十湾寺(とうわんじ)南蔵坊

於いて勧請(かんじょう)

と記されていると伝えております。

 

この十湾寺は永福寺の別院で

熊野山の山号を用いていたとされます。

 

史料によっては

十涯寺や十瀧寺とも記されます。

 

永禄2年の棟札に見られる

南蔵坊というのは

十湾寺に所属する坊と見られます。

 

当山付近にも

南宗坊という地名があり

かつて当山に所属する坊が

あったと言われております。

 

南蔵坊も南宗坊も

十和田湖伝説の南祖坊(なんそのぼう)に

連なるものと考えて

差し支えないかと思います。

 

十和田湖伝説に関係なくとも

「南蔵」や「南宗」の文言は

寺院に用いられることがあるのですが

今回見ているものについては

関係性が十分にあるものなので

南祖坊伝説の「ナンソ」が

踏まえられていると捉えて良いと思います。

 

南祖坊伝説において

熊野信仰は重要な要素の一つといえます。

 

現存するか否かは分かりませんが

『津軽一統志』が伝える永禄2年の棟札は

十湾寺の名が見られる

とても貴重なものといえます。

 

十湾寺については

またの機会に

こちらで紹介させて頂きます。

 

▼油川の熊野宮

▼油川の熊野神社(十三森熊野宮)