普賢院境内に祀られる
北沼観音(きたぬまかんのん)。
こちらはもともと
八太郎の蓮沼にあったものですが
埋め立てに伴い
普賢院に遷座されたものです。
これまでも
当ブログで紹介してまいりましたが
簡単な紹介動画を作成しました。
祭祀されるものの由緒を
知っていただくことは
とても大切なことです。
紹介動画を通じて
北沼観音とのご縁を
一層深めていただければと思います。
当山にご参詣の際は
ぜひ北沼観音もお参り下さいませ。
普賢院境内に祀られる
北沼観音(きたぬまかんのん)。
こちらはもともと
八太郎の蓮沼にあったものですが
埋め立てに伴い
普賢院に遷座されたものです。
これまでも
当ブログで紹介してまいりましたが
簡単な紹介動画を作成しました。
祭祀されるものの由緒を
知っていただくことは
とても大切なことです。
紹介動画を通じて
北沼観音とのご縁を
一層深めていただければと思います。
当山にご参詣の際は
ぜひ北沼観音もお参り下さいませ。
本堂建替にあたり
五戸木工さんにお願いしていた
観音堂の新しい賽銭箱を
仕上げていただきました。
五戸木工の先代の社長さんが
寄せていたというケヤキを使って
作っていただいたそうで
とても立派なものを
作って下さいました。
五戸木工さんには色々と
お世話になっていますが
職人技というものは
本当にすごいものだと
いつも感心させられます。
素晴らしいものを
作っていただき
心より感謝しております。
現在は仮観音堂に
置かせていただいてますが
空間の雰囲気が
一気に締まったように思います。


以前から
当ブログで書き溜めてきた
「ふげんいん探訪」の記事を
動画化したいと考えておりました。
試験的な意味合いもありますが
七崎観音について
大まかな紹介を動画にしてみました。
まだまだ改良の余地はありますが
文章だけよりは
ずっと分かりやすいように思います。
ご覧いただいて
観音様とご縁を
深めていただければ幸いです。
今月行われる地鎮式。
儀式に必要な
お水と仏具を整えるにあたり
大変お世話になった方々が
いらっしゃいます。
その方々との
アーカイブ動画を作成しました。
本堂建替を
無魔成満させていただくことは
お世話になった皆様への
恩返しにも重なるものと思います。
感謝を胸に
地鎮式に臨ませていただきます。
5月に入り
景観が青々としてきました。
地元では
間もなく田植えが始まります。
そのような時分に
ふるさとの景観を
空撮してみましたので
ご覧いただければ幸いです。
本日は新本堂建設の
施工部会が行われました。
新本堂が完成する来年10月までの
行程確認であったり
今後についての確認を重ね
有意義な会議だったと思います。
本堂建替に伴う主な儀式として
地鎮式(じちんしき)
上棟式(じょうとうしき)
落慶式(らっけいしき)
の3つがあげられます。
来月は地鎮式を行います。
真言宗における地鎮式は
大地を司るとされる
堅牢地神(けんろうちじん)を
本尊とした地鎮法という
修法を行ったうえで
式典が行われます。
真言宗には多くの
法流(ほうりゅう)
というものがあります。
法流というのは
宗派とはまた異なるもので
「作法の流派」といった
側面があるものです。
伝法院流
中性院流
中院流
三宝院流
西院流など
大まかなものだけで12流あり
さらに細分化すると
ものすごく沢山の
法流が伝えられます。
法流が複数にまたがることは
珍しくはなく
多くの法流の伝授を
受けられている
事相家の方もいらっしゃいます。
話が少し専門的に
なってしまいましたが
その法流により
地鎮式の作法も異なります。
当山にて主に用いられる法流では
本堂を建立する際は
地鎮法という作法を
行いますが
その他の
お堂や庫裏などの建物を
建立する際は
土公供(どこうぐ)という
作法が行われることとなっています。
一般的な感覚ですと
本堂やその他の建物は
あまり違いがないように
思われると思いますが
作法上は
意味合いが全く異なります。
この点は
専門性がかなり高いことですが
僧侶の立場からすれば
とても重要な点であると同時に
普賢院の歴史を
紐解く上でも踏まえるべき
ことだと感じます。
地鎮法の
次第を掘り下げてみると
本堂という建物が
とても尊いものだと
いうことがよく分かります。

鎌倉の建長寺の調査員の方が
研究調査で当山に
お立ち寄り下さいました。
調査員の方は
数年後に控える
建長寺の遠忌に向け
北条時頼伝説ゆかりの地を
調べていらっしゃるとの
ことでした。
北条時頼が
奥州を行脚された際に
当地に宿泊されたと
言い伝えられております。
さらに
鎌倉というと
とてもご縁の深い場所でして
永福寺(えいふくじ)という
寺号(じごう、お寺の名前)の由来は
鎌倉の永福寺(ようふくじ)
とされます。
鎌倉の永福寺は源頼朝公が
平泉の二階大堂(大長寿院)を
モデルにして建立したとされます。
また鎌倉というと
長谷寺が有名ですが
この長谷寺は奈良の長谷寺と
深く関わりがあります。
様々なお話を
お伺いさせていただくことも出来
とても尊いご縁を
頂戴したと感謝しております。





2016年にこのHPが
立ち上げられ
翌2017年からブログを
毎日更新しております。
本日時点で
ブログの原稿数は1736。
ブログの内容は様々でして
日記もあれば
研究メモや覚書もあります。
ブログを始めた当初
思い描いていた予定として
色々と書き溜めて
後々に見直して
改めて整理していくつもりで
日々更新してまいりました。
その一環として
ここ最近は空き時間を使い
資料作りをしています。
明日はオンラインで
研究所での発表があるというのに
むしろ資料作りの方に
力を注いでしまいましたが
とても充実した時間となりました。
ブログの内容等から
拙僧(副住職)は
お寺の歴史を含む地域の歴史や
地域の伝承・伝説について
研究していると
お捉えの方も
いらっしゃるようですが
研究のメインテーマは
「マインドフルネス」です。
昨年度はアメリカの
歴史(19世紀以降)や
関連するキーパーソンや団体の
展開について
調べておりました。
その内容については
ブログでお伝えする機会は
あまり無いと思います。
話題を戻しまして
旧本堂が再建される前後の
享和・文化年間について
年代の分かる主な項目を
年表に記してみました。
まとめると
とても分かりやすいなと
つくづく感じます。
こういった形で
少しづつでも画像資料を
用意したいと思います。
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当山は十和田湖伝説の
南祖坊(なんそのぼう)が
修行したとされるお寺で
南祖坊の御像である
南祖法師尊像(なんそほっしそんぞう)が
お祀りされております。
一昨年に
十和田湖伝説を伝える
江戸末期の写本
『十和田山神教記』を
手がかりに
当山史と照らし合わたうえ
伝説が想定している
年代について仮説を
試論してみました。
▼コチラがその拙稿です。
▼コチラは『十和田山神教記』の絵本動画です。
度重なる火災で
大量の文書が焼失していることもあり
古代や中世について不明期がある中
過去帳を丹念に調べていたところ
平安期の先師様のお名前を
発見いたしました。
▼その時のブログはコチラです。
仁和3年(887)7月23日がご命日の
「日照法師 當山」との
過去帳の記載が目に止まったときは
何とも不思議な感覚だったのを
覚えております。
その発見も反映して
入定仮説について
次のように
年表にまとまてみました。

南祖坊は
当山2世・月法律師(がっぽうりっし)の
弟子と伝えられます。
昨年発見された日照法師の
没年から考えるに
日照法師も月法律師の
直弟子であった可能性もあります。
さらに日照法師の没年は
南祖坊の入定仮説①(878〜892)と
奇しくも重なっています。
「月」に対して太陽(日)という
師弟の法名についても
何かしら因縁めいたものが
感じられます。
もしかしたら
日照法師は南祖坊の
モデルとなった先師様
なのかもしれません。
さらに十和田湖関連でいうと
月日山という霊跡があり
日月神社が鎮座します。
月と太陽は
日月輪(にちがちりん)ともいい
仏道において深い意味を持つので
十和田信仰を紐解く上で
教相(きょうそう)的かつ
事相(じそう)的に捉えてみると
新たな意味合いが
浮かび上がってくると思います。
参考までに
月輪を光背とする尊格は
とても多いのですが
当山本尊である愛染明王は
日輪を背負った尊格です。
本堂建替という
歴史的な節目ということもあり
所蔵される仏像仏具や古文書などを
大掛かりに整理したおかげで
新たな発見や気づきが沢山ありました。
それらを踏まえて
十和田湖伝説を改めて
紐解いていきたいと思います。





分かっていること
伝えられていること
分からないこと
新たに分かったことなど
資料として整理してみると
それにより当たらたな着想を
得られることがよくあります。
普賢院の歴史は
なかなか複雑な部分があり
色々と専門的なものを
踏まえる必要があります。
お寺の法務や宗派の宗務に
励ませていただく傍ら
本格的に調査しつつ
寺史作成に向け
調査等に本格的に
取り組んでまいりました。
以前ブログで
年代が分かっている関連事項を
時系列にズラッと並べてみたのですが
これがまたとても良い資料となり
歴史的な流れを
これまで以上に把握しやすく
なったように感じました。
ただ
掲載項目が多すぎるのと
若干見にくいようにも感じたので
草創〜江戸初期までについて
当山の項目のみピックアップして
年表にしてみました。
草創期から江戸時代にいたる
約800年のうち約550年間は
不明期にあたります。
大量の文書が
度重なる火災で焼失したことが
一因とされています。
火災により
長期間の歴史が
葬り去られてしまった中でも
開創開山の頃や開基開山の頃の
ご住職方の名が
今に伝えられていることは
奇跡的なことだといえるでしょう。

▼以下は、以前作った資料です。
着々と資料が増えてきました。






