十和田湖伝説に登場する
南祖坊(なんそのぼう)は
当山2世の月法律師の
弟子であると伝えられます。
全国霊山霊跡を巡った果てに
十和田湖に入定し
青龍大権現となった
というのが伝説の筋書きです。
今回は南祖坊が入定した
時期について
考えてみたいと思います。
当山は
圓鏡上人により
延暦弘仁年間(8C末〜9C初頭)に
開創されたとされます。
この圓鏡上人は
弘仁8年(817)5月15日に
御遷化されております。
南祖坊の師とされる月法律師は
天長8年(831)10月16日に
御遷化されております。
まずは
このお二人の没年を
手がかりに南祖坊の
十和田湖入定について
考察してみます。
南祖坊入定を考えるにあたり
当山に2冊写本が残る
『十和田山神教記』を
踏まえさせて頂きます。
同書では
南祖坊は7歳で弟子入りし
68歳で十和田湖入定
とされております。
この年齢を条件として検討すると
南祖坊は878年〜892年に入定
という仮説が成立します。
また南祖坊は
貞観年間(859〜876)に生まれた
との伝えもあります。
この生誕年を踏まえて
先程と同じ手順で検討すると
南祖坊は927年〜944年に入定
という仮説も成立します。
さらに
南祖坊は当山開基(開山)の
行海上人の弟子とのいわれもあります。
行海上人は
承安元年(1171)年に当山を
開基(開山)した方です。
『新撰陸奥国誌』では
普賢院について
建仁中(1201〜1203)の建立の由
伝れとも往年火災に罹て記録を失し
詳悉ならす
寛保元年(1741)辛酉十一月
快傅と云る僧の中興なりと云り
とあります。
寛保元年という年は
快傅が中興した年ではなく
御遷化された年です。
同年11月2日に
御遷化されております。
行海上人については
開基(開山)の年号は分かるのですが
いつ御遷化されたのかは不明です。
なので
ここで記される
建仁中という期間は
御遷化された年を
意味している可能性も
あるのではないかと感じております。
真相は分かりませんが
承安元年(1171)という年と
建仁年間(1201〜1203)という年を
踏まえて先程と同じような
手順で検討すると
南祖坊は1232年〜1262年頃に入定
という(条件付きではありますが)
仮説が成立します。
当山先師と
当山に残る写本から
①878年〜892年に入定
②927年〜944年に入定
③1232年〜1262年に入定
という3つの説を提示出来ます。
探究的試論ですが
これらの年代は
どれも深い意味を
汲み取ることが出来るものです。
いずれにおいても
諸事を踏まえると意味が
見えてくるように感じます。