命灯会〜東日本大震災から8年〜

3/10午後1時より

命灯会(みょうとうえ)

東日本大震災

物故者供養・復興祈願

開催されました。

 

あの大震災で

甚大な被害のあった

気仙沼の工房で作られた

命灯会ロウソク。

 

爽やかな青い色が着色された

この命灯会ロウソクには

「あの日を忘れない」という思い

亡くなられた方々への思い

未来への願いなど

沢山の「おもい」が

込められております。

 

その命灯会ロウソクに

灯りをともさせて頂き

お集まり下さった皆様と

祈りのひとときを

過ごさせて頂きました。

 

また今回は

たまたま八戸においでになられていた

東京都足立区の吉祥院

副住職である横山裕明師にも

急遽御助法頂けることになり

命灯会においで頂きました。

 

横山裕明師の奥様は

拙僧(副住職)の高校時代の

同級生でもあります。

 

また

伝法大会(でんぼうだいえ)という

本山での大きな儀式が

同時期でもあったというご縁で

親しくさせて頂いております。

 

尊い御助法を頂いたおかげで

厳かにお勤めさせて頂きました。

 

法要後には

「龍の特別授業」が行われ

ハーモニールイさんと

拙僧(副住職)で

龍をテーマにお話しさせて頂きました。

 

▼法要の様子(youtube)

https://www.youtube.com/watch?v=fb5uji6zE9Q

 

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▼法要後の「龍の特別授業」の様子

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稀代の古刹 七崎観音⑪

当地はかつて

七崎(ならさき)と

呼ばれておりました。

 

この七崎には

かつて当山の前身である

永福寺がありました。

 

当山は永福寺時代より

七崎観音の別当でもあります。

 

「永福寺」と一言でいっても

その実態は中々複雑かつ複合的でして

現在の当山ような形態とは異なります。

 

昭和期の永福寺住職である

熊谷精海(せいかい)師は

永福寺は江戸時代になり

本坊が盛岡に構えられ

42世住職・清珊(せいさん)の代に

七崎永福寺は普賢院になった

とお話されていたそうで

その伝を当山では踏まえております。

 

今回は

「永福寺」というお寺の名前である

寺号(じごう)について

見ていきたいと思います。

 

当地の住所にも残る

「永福寺」という寺号は

甲州南部郷より遷座され

三戸沖田面に建立された

新羅堂の供養を

鎌倉の二階堂永福寺の僧侶

宥玄(ゆうげん)が勤めたことに

由来するとされます。

 

鎌倉では

永福寺を「ようふくじ」と

読んでおります。

 

鎌倉時代の歴史書(とされる)

『吾妻鑑』(あずまかがみ)

宝治2年(1248)2月5日条には

文治5年(1189)12月9日

永福寺事始あり

とあります。

 

鎌倉といえば長谷寺を

連想される方が多いと思いますし

東北においてですと

長谷寺と聞くと

鎌倉を連想される方は

とても多いかと思います。

 

奈良と鎌倉の長谷寺は

“姉妹”と言わることがある程

切っても切れぬ

深いご縁で結ばれたお寺です。

 

鎌倉の永福寺に触れる前に

長谷寺について

触れさせて頂きます。

 

奈良の長谷寺は正式には

豊山 神楽院 長谷寺といい

朱鳥元(686)年に

修行法師である道明上人が

銅板法華説相図(ほっけせっそうず)

を安置して祀られ

開創されました。

 

その後約40年後に

徳道上人が主導されて

十一面観音像

神亀6年(729)に完成し

行基(ぎょうき)を導師として

天平5年(733)に開眼されます。

 

この徳道上人が

長谷寺を開山されました。

 

さて

鎌倉との関係ですが

この十一面観音が

2つの長谷寺をつなぐ

キーポイントになります。

 

奈良の長谷寺の十一面観音像を

彫ったものと同じクスノキ

(十一面観音像との説もあります)

を海に解き放ち

流れついた地に

衆生済度の願いを託して

十一面観音を本尊としたお寺を

造立しようとしたそうです。

 

海に解き放たれた

クスノキ(あるいは十一面観音像)が

流れ着いた先が鎌倉で

そこに長谷寺が建立され

行基により開眼された

というのが奈良と鎌倉の

2つの長谷寺をつなぐ伝説です。

 

鎌倉に話を移しまして

鎌倉の永福寺は源頼朝が

奥州での戦没者供養も兼ね

平泉の大長寿院(二階大堂)を模して

建立されたとされますが

現在は廃寺となっております。

 

『たけたからくり』(文政6年(1823))

によると鎌倉の永福寺の僧侶である

宥玄が新羅堂供養を勤めた

「供養料」として

沖田面村に一宇お堂が建立され

宥玄をそのお堂の住職として

永福寺と号したそうです。

 

また宥玄は

三戸沖田面村と

五戸七崎村を賜ったと

記されております。

 

同史料では

七崎(ならさき)には

往古より観音堂があり

宗旨も不定で寺号もなく

こちらの「住職」ともなった

宥玄が永福寺の

僧侶であったことから

「時の人挙げて」永福寺と

呼ぶようになったとも

記されております。

 

この『たけたからくり』は

江戸後期(文政6年(1823))の

史料なので

その当時において

永福寺縁起がどのように

整えられ編まれていたのかが

よく伺えるように思います。

 

史料の伝える時期を踏まえると

この二階堂永福寺・宥玄の時期は

行海上人開基の少し後となります。

 

郷土史研究などでは永福寺は

「七崎から三戸に移った」と

よく説明されますが

『たけたからくり』や

当山の過去帳を踏まえると

「移った」という表現は

当てはまらないように思います。

 

また

同史料でいうところの

観音堂はおそらく七崎観音の

ことを指していると思いますが

永福寺縁起が七崎観音と

強く結び付けられていることも

伺えるかと思います。

 

それだけ

七崎観音は重要な

尊格であったということを

意味するといえます。

 

今見てきたように永福寺は

「永福寺」という寺号が

用いられる以前に遡及して

その由緒や縁起が

編まれていくことになります。

 

「永福寺縁起」として

総本山長谷寺とゆかりのある

坂上田村麻呂将軍が

十一面観音を本尊として

七崎にお寺を建立したという

縁起も伝えられております。

 

この縁起は

『長谷寺験記』(はせでらげんき)

(建保7年(1219)頃までに成立)

という鎌倉期の霊験記の

上巻第5話として収録される

田村将軍が奥州一国に

十一面観音を本尊として

6ケ所にお寺を建立した話が

根拠となっていると考えられます。

 

永福寺の縁起や創建伝説は

なかなか豊富でして

七崎観音は

実際には聖観音(しょうかんのん)

という観音様なのですが

「七崎観音は田村将軍の十一面観音」

との縁起もあったりします。

 

念のために触れると

縁起といわれるものは

歴史とは似て非なるもので

様々な意味合いがあることを

しっかりと踏まえて

紐解くべきものです。

 

当山開基の行海上人は廻国僧で

当地の大蛇を改心させたことで

地域の住民から当地に留まるよう

懇願されたため草庵が結ばれ

普賢院を開基したと伝えられます。

 

行海上人は

現在の七崎神社の地に

七つ星(北斗七星)になぞらえ

杉を植えた上人でもあります。

 

十和田湖伝説の

南祖坊(なんそのぼう)は

行海上人の弟子であるとも

伝えられております。

 

当山開基の時代を

さらにさかのぼり

弘仁初期頃(810頃)

圓鏡上人により

当山は開創されたとされます。

 

「弘仁初期頃」というのは

『先師過去帳』に

当山開創 圓鏡上人が

弘仁7年(817)5月15日に御遷化

されていることに由来します。

 

こういった

“永福寺以前”の由緒も

永福寺の由緒として編入され

七崎は永福寺発祥の地となり

とても重要な意味を帯びたわけです。

 

永福寺は江戸時代前期に

平泉の中尊寺から住職が

おいでになられたことがあります。

 

中尊寺は今でこそ天台宗ですが

昔は真言寺院も多くあり

今とは異なる“宗派感覚”や

“宗派交流”があったのです。

 

そういったことも踏まえると

これまで以上にスケールの大きな

歴史が七崎の地を起点としながら

お伝えできるように感じます。

 

当地や周辺の遺跡からも

この地域には縄文時代から

集落があったことや

何かしらの儀礼に用いられたであろう

9世紀〜10世紀頃の古い

祭具(錫杖(しゃくじょう)状鉄製品)が

発掘されております。

 

平泉や鎌倉とも絡めることが出来ますし

古い信仰の歴史を持つ諸観音

地域の諸伝承

十和田湖南祖坊伝説

さらには大日坊との関係や

会津斗南藩(となみはん)のこと

などなど後世に伝えるべきことは

とても多いように感じております。

 

それらの探求を続けることや

後世に託すために形にすることに

情熱を以て取り組みたいとの思いを

常々持っております。

 

 

稀代の古刹と銘打ち

七崎観音を主役として

当山の歴史について

これまで触れてまいりました。

 

当ブログは拙僧(副住職)の

「研究メモ」も兼ねて

投稿することがあるので

読みにくい部分が多かったかと思いますが

少しでもお伝え出来たものが

あったのであれば幸いです。

 

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【観音堂内陣内殿】

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手前の大きな浄鏡の右側の

観音菩薩立像は

とても古い仏像です。

 

反対側の端正なお姿をした観音菩薩立像は

地元の篤信者である中村元吉氏より

ご奉納頂いたものです。

 

中央奥の厨子(ずし)は

三重になっており

七崎観音(聖観音)が

お祀りされております。

 


【七崎観音(聖観音)】

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第29代藩主

南部重信公により

貞享4年(1687)4月に

奉納されたものです。

 

身の丈約20センチの

金銅仏(こんどうぶつ)で

とても美しいお姿の御仏像です。

 

ご奉納された当時は

御前立(おまえだち)

としてお祀りされていたそうです。

新鮮な気持ちで御詠歌を

本年は

当山での御詠歌(ごえいか)の会は

1月と2月を休会して

3月からの開催としました。

 

ですので

本年は3/8が最初の講習となりましたが

2ケ月空けての開催だったので

ご参加の皆様は

とても“新鮮な”心持ちで

御詠歌と向き合われた様子でした。

 

本年最初ということで

所作や譜について

基本の確認をしつつ

和やかに御詠歌の

研鑽を積ませて頂きました。

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お彼岸中日(3/21)にお手伝い頂ける方いらっしゃいませんか?

3/21(春分の日)の

春彼岸中日に

お手伝い頂ける方を

募集しております。

 

ご協力頂ける方は

是非ともお力添えを

お願い申し上げます。

 

お手伝い内容は

下記の通りとなります。

①早朝のお膳上げ

午前7時にお寺に集合して頂き

位牌堂位牌壇のお膳上げを

お手伝い頂きます。

 

早朝おいで頂いた方には

お弁当も用意させて頂きます。

 

②位牌堂の後片付け

午後2時にお寺に集合して頂き

位牌堂の後片付けをして頂いて

終了次第解散という流れになります。

 

終了は遅くとも4時半頃かと思われます。

 

①、②のいずれかでもお手伝い頂ける方

いらっしゃいませんか?

 

①のみ、②のみでも構いません。

 

①、②いずれもお手伝い頂ける方は

早朝の作業が終了後

午後の後片付けまで時間がありますので

1度お帰り頂いて結構です。

 

ご検討の程

何卒よろしくお願い申し上げます。

 

お手伝い頂ける方

いらっしゃいましたら

ご連絡下さいますようお願いいたします。

 

メール:fugenin643@gmail.com

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良い刺激と学び

地域を超えて

宗派を超えて

立場を超えて

時代と向き合い

お寺についてとことん考える

未来の住職塾という

学びの場がありました。

 

拙僧(副住職)も

平成27年春よりご縁を結ばせて頂き

それ以降大変お世話になっております。

 

平成31年3月の

7期生の皆様の卒業をもって

現行の未来の住職塾は

幕を閉じます。

 

拙僧(副住職)は4期生として

深く学ばせて頂きました。

 

同期の御寺院様や

住職塾を通じてご縁を結ばせて頂いた

全国各地の御寺院様とは

今でも交流させて頂いており

沢山のことを学ばせて頂いております。

 

今後は新たな展開をもって

こちらで結ばれたご縁が

さらに深められていくようです。

 

3/6は夕刻より

「未来の住職塾 卒業PARTY!」が

六本木ヒルズ内の

お店を会場に開催され

翌3/7は

「未来の住職塾 感謝のつどい」

として中目黒の實相山正覚寺(日蓮宗)

を会場に午前10時より午後4時まで

みっちりと研修させて頂きました。

 

沢山の刺激と学びを頂戴したので

それらを当山や地域に

しっかりと還元したいと思います。

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青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)④

現在の青森県田子町の

釜渕家出身の高僧

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

は千体仏作仏を三度成満し

その他にも数百体の仏像を

彫られたとされます。

 

その多くは喪失してしまい

現在確認されている

学秀仏(がくしゅうぶつ)は80体程

だそうです。

 

当山には学秀御作の

千手観音がお祀りされていることが

判明したことを受け

当山関連の歴史を踏まえながら

当ブログにて

学秀との関係について

投稿を重ねております。

 

前回は

学秀仏の千手観音が

祀られていたであろう

千手観音堂について触れ

さらに学秀仏が

当山に請来されることになった

キーパーソンが

当山中興開山である

快傅上人だと拙僧(副住職)は

推測していることを

お伝えいたしました。

 

この点について

今回はもう少し深めて

記させて頂きます。

 

快傅上人は

「当山寺屋敷共」に

新たに建立された方です。

 

当山所蔵の

享保18年(1733)と記された

棟札表中央には

再建立當寺屋敷共

新今慶建立

當寺長久安全如意

快傅末々之住寺共

萬民愛敬云々…

記されます。

 

またこの棟札にはその際

観音山(七崎山)に

杉を2000本余植えたと

記されますので

その前後で当地の雰囲気は

かなり厳かになったと思います。

 

七崎山とは

当山が別当をつとめた

旧観音堂があった

現在の七崎神社の地を指します。

 

さらに現在の当山の地にも

様々な木々を植えたようで

杉のほかにも

松、ヒバ、ツキ、エノミ

クリ、サイガチ、クルミ

ナシ、モモ、カキなどが

植えられたと記されます。

 

享保年間(1716〜1736)の

快傅上人による当山中興と

学秀活躍期は重なっております。

 

快傅上人が中興にあたり

学秀千手観音を

請来されたと推察することは

無理のないことと思われます。

 

少し視点を変えて

この時代を考えるに

貞享元年(1684 )には

弘法大師850年御遠忌(ごおんき)

というとても重要な法要が

各本山はじめ各地で厳修されております。

 

これより程なくして

貞享4年(1687)4月に

第29第藩主・南部重信公は

聖観音像を七崎観音堂に

奉納されております。

 

これが現在の

七崎観音です。

 

また元禄3年(1690)12月には

覚鑁(かくばん、1095〜1143)上人が

東山天皇より興教大師(こうぎょうだいし)

の諡号(しごう)を賜っております。

 

▼興教大師 覚鑁

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これは

覚鑁上人がご入滅されて

537年目のことでした。

 

(新義)真言宗において

興教大師覚鑁上人は

弘法大師空海上人と共に

両祖大師(りょうそだいし)とされる

とても尊い方です。

 

元禄5年(1692)は

興教大師550年御遠忌

にあたっております。

 

もう少しこのことについて

掘り下げさせて頂きます。

 

この時期の新義真言宗は

「宗派の繁栄」と表現される程に

格式が高くなり隆盛しております。

 

新義真言宗では

権僧正(ごんそうじょう)という

僧階(そうかい、僧侶の位)が

極官で小池坊(奈良の長谷寺本坊)と

京都の智積院(ちしゃくいん)の

両能化だけが権僧正でした。

 

それが元禄4年(1691)6月18日に

小池坊13世能化・卓玄(たくげん)が

智積院・信盛と

護持院・隆光とともに

正僧正(しょうそうじょう)という

それまでの極官よりも

高い僧階に任じられております。

 

この当時の徳川将軍・綱吉公は

「小池坊も智積院も

権現様(家康公)が取立た

寺院であるから

両能化とも正僧正にしよう」と

述べられたそうです。

 

この卓玄僧正は

八戸藩祈願所である

自在山 豊山寺(じざいさん ぶざんじ)

の(長谷寺式)十一面観音像を

貞享5年(1688)に

開眼(かいげん)されております。

 

この十一面観音は

豊山寺の廃寺に伴い

その末寺である

是川の福善寺に移されました。

 

またまた余談ですが

この豊山寺という寺院は

根城にあった八戸東善寺の後身で

再興にあたって

自在山 豊山寺と改められ

“豊山寺初代”として

花巻の愛宕山八幡寺より

惠廣上人が招かれております。

 

この八幡寺というお寺は

現在の花巻神社の地にあった

小池坊(長谷寺)の末寺ですが

永福寺支配のお寺でもありました。

 

とにかく

新義真言宗がそれまでに増して

“勢いづいていった”時代が

当山中興や学秀の時代でもあります。

 

当山と学秀の関係を考える

背景としてこういった事情は

外すことは出来ないことです。

 

他にも重要な背景は様々ですが

江戸期の南部藩領では

飢饉とよばれるもの以外にも

凶作が頻発していることは

踏まえなければならないことです。

 

ある資料によれば

江戸時代だけで

76回もの凶作が

発生しております。

 

おそらくはその時代の七崎も

度重なる凶作が引き金となり

かなり疲弊していたと思います。

 

時代が時代ゆえ

当山も快傅上人がいらっしゃった頃は

荒廃していたと思われます。

 

そのような中

中興されるにあたり

“現在の救済仏”である千手観音を

学秀和尚に作仏頂いたというのが

拙僧(副住職)の推測です。

 

田子は修験の

大法院(だいほういん)が

強い影響力を持っていたようなので

修験関連で千手観音に

触れみたいと思います。

 

現在の「修験本宗」の

総本山である奈良県吉野の

金峯山寺(きんぷせんじ)では

三体の蔵王権現(ざおうごんげん)が

本尊としてお祀りされ

それぞれが過去・現在・未来の

三世(さんぜ)の尊格とされます。

 

そしてそれぞれの

本地仏(ほんじぶつ)は

過去:釈迦如来

現在:千手観音

未来:弥勒菩薩(みろくぼさつ)

とされており

この“対応関係”は

当山中興にあたり請来された

学秀千手観音に託された願いを

紐解く上で

参考になるように思います。

 

禅宗で大切にされる陀羅尼で

大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)

という“尊いお経”があります。

 

この陀羅尼は

千手千眼観自在菩薩円満無礙大悲心陀羅尼

ともいいまして

千手観音の陀羅尼でもあります。

 

大悲心陀羅尼の意味を

踏まえることもまた

学秀千手観音に託さた願いを

紐解く上で

参考になろうかと思います。

 

かなり専門的な話題ばかりに

なってしまいましたが

当ブログは

「研究ノート」としても

投稿させて頂いておりますので

何卒ご容赦下さいませ。

 

【関連記事】

▼稀代の古刹 七崎観音④

https://fugenin643.com/blog/稀代の古刹七崎観音四/

 

▼稀代の古刹 七崎観音⑤

https://fugenin643.com/blog/稀代の古刹七崎観音五/

 

▼吉野金峯山寺について

https://fugenin643.com/blog/吉野金峯山寺/

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南祖法師尊像の来た道を探る

当山には十和田湖伝説の

南祖坊(なんそのぼう)の御像である

南祖法師尊像(なんそほっしそんぞう)

がお祀りされております。

 

文化7年(1810)の火災のため

多くの文書が燃えており

この御像の詳しい由緒は不明でしたが

諸事調べ物をしていた所

その作風と類似する

仏像の存在を知り

その作者である

津要玄梁(しんようげんりょう)

という僧侶について

調査を始めました。

 

津要玄梁の彫刻は

彫目(ほりめ)に

とても大きな特徴があります。

 

少し前に

港町の十王院(じゅうおういん)に

お祀りされる地蔵菩薩立像を

拝見させて頂き

その際は彫目を中心に

特徴を確認させて頂きました。

 

3/4の午後には

八戸市妙の伝昌寺(でんしょうじ)に

お祀りされる津要玄梁御作の

六地蔵像を拝見させて頂きました。

 

地蔵尊のお衣の袖の彫り方や

お顔の彫り方に

南祖法師尊像と通じるものが

あるように感じました。

 

さらにその後

階上町の潮山神社(寺下観音)の

宮司である桑原氏と

以前より親しくさせて頂いている

階上出身の根岸礼子さんが

当山においで下さり

津要玄梁のことや

寺下観音のことなど

様々に伺わせて頂きました。

 

寺下観音は当山と同じく

糠部三十三観音の札所でもあります。

 

主題は津要玄梁についてでしたが

他にも幅広くお話が出来まして

今後に繋がるような

とても実りある時間となりました。

 

南祖法師尊像については

更に調査研究を

進めたいと思います。

 

▼伝昌寺(現在は本堂建替中)

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▼潮山神社(寺下観音)宮司さん達と

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▼南祖法師尊像(普賢院)

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畏れ多くも

本年八戸市矢沢に開設される

特別養護老人ホーム 八戸素心苑の

新採用者に対する講話を

畏れ多くもさせて頂きました。

 

こちらの施設は

ご縁のある方が多く

携わられていらっしゃることもあり

引き受けさせて頂きました。

 

お願いされた講話のテーマは

「生ききる 逝ききる」。

 

あれこれとお話させて頂き

 

お預かりした約2時間は

あっという間に

過ぎ去りました。

 

お役に立てたかどうかは

分かりませんが

お話させて頂くということ

お伝えさせて頂くということは

話者自身にとっても

「学び」の機会でもあります。

 

拙僧(副住職)自身も

大いに学ばせて頂いた

講話の時間となりました。

 

素心苑は本年4月より開設されます。

 

施設内をご案内頂きましたが

木の香りに満ちており

心安らぐような

開放的な空間が拡がっておりました。

 

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使い終えたランドセルをアフガニスタンへ

日本で役目を終えたランドセルを

アフガニスタンへ贈りませんか?

 

当山では本年も

想い出のランドセルギフト

を実施いたします。

 

日本で役目を終え

アフガニスタンの

新たな持ち主と一緒に

新たな物語が紡がれる

想い出のランドセルギフト。

 

この活動は

アフガニスタンの

子どもたちの

就学支援活動です。

 

ご賛同頂ける方

ご協力の程

よろしくお願い申し上げます。

 

ご協力頂ける方で

ランドセルをお持ちの方は

当山にお届け願います。

 

未使用の鉛筆や消しゴム

あるいはノートなどの文房具も

アフガニスタンへ贈ります。

 

ランドセルを贈られる方で

未使用の文房具を

お持ちの方は

ランドセルに入れて

当山にお持ち下さい。

 

協賛費(輸送経費)として

ランドセル1個につき

3000円のご納入を

お願いしておりますので

ご理解の程よろしくお願いいたします。

 

ランドセルを

お持ちでない方でも

ご賛同・ご支援頂ける方

いらっしゃいましたら

是非ともご協力願います。

 

5/3に

午前10:00〜12:00の予定で

想い出のランドセルギフトの

ワークショップと

ランドセルの梱包作業を

行います。

 

ご賛同頂ける方で

ご都合のつく方は

ご一緒頂けると幸いです。

 

皆様のご協力を

心よりお願い申し上げます。

 


 

【ランドセルギフト概要】

使い終えたランドセル

未使用の文房具

をアフガニスタンへ贈ります

 

・回収期間:本年3/21〜5/3

・協賛費:ランドセル1個につき3000円

(アフガニスタンへの輸送経費)

 

・ワークショップ&梱包作業

 本年5/3午前10時〜12時頃


 

 

▼昨年の様子

https://fugenin643.com/blog/アフガニスタンへ向けて/

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活き活きと学ぶ 豊崎小学校「世界を知ろう国際理解教室」

当山副住職妻は

豊富な国際経験を活かし

グローバルナビゲーターとして

地元を中心に活動しております。

 

最近では学校関係の方から

お声がけ頂くこともございます。

 

地元の豊崎小学校では

課外活動の充実を図っており

その一環として

当山ハナレにて

世界を知ろう国際理解教室

(2ケ月に1回)

が昨年春より開催され

平成30年度の日程は

全て終了いたしました。

 

拙僧(副住職)妻は

本年2月初頭に8日間

お寺を留守にさせて頂き

天竺(インド)を訪問いたしました。

 

2月28日に行われた

今年度最後の国際理解教室は

そのお話も盛り込んでの時間だったので

大盛り上がりだったようです。

 

活き活きと学びを楽しむ

小学校の皆さんの姿。

 

“意義ある学びの本質”を

教えて頂いたように思います。

 

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