平成最後の春彼岸の中日

春彼岸の中日は

本年も多くの方が

お参りにいらっしゃいました。

 

当山では彼岸中日に

位牌堂の位牌段各所に

お膳を上げておりますが

今朝も早くからお手伝い頂き

準備をして頂きました。

 

後片付けにおきましても

駆けつけて下さった方々の

お力添えも頂き

滞りなく大きな行事を

終えることが出来ました。

 

それにしても

ここ2、3日の

花粉飛散は凄まじいものがあり

今朝も黒板消しをはたいた際の

チョークの粉の如くに

杉の枝から黄色い花粉が

わんさか飛んでおりました。

 

そのような1日でしたが

秋彼岸中日法要も

無事にお勤めさせて頂き

ご参列の皆様と共に

「平成最後の彼岸法要」にて

祈りを捧げさせて頂きました。

 

▼法要の様子(youtube)

https://www.youtube.com/watch?v=z_g6cerrLWY

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暖かさと彩りと

平成最後の春彼岸三日目は

初夏並の暖かな日和となりました。

 

当山本堂では

長年にわたり当山役員を

お勤め下さった方の

葬儀が執り行われました。

 

須弥壇(しゅみだん)には

生花が沢山飾られました。

 

暖かな日和に

色とりどりの生花は

生前のお人柄に

通じていたように感じます。

 

いつもにこやかで

優しさに溢れる

お人柄であった故人様は

これからも有縁の皆様を

見守って下さると思います。

 

精八さん

長い間お世話になりました。

 

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かけがえのない時間

NHK文化センター八戸教室で

平成23年春より担当してきた

講座「初めての御詠歌 豊山流入門」は

本年3月19日が

最後の講座日でした。

 

8年間にわたり

拙僧(副住職)自身も

学ばせて頂きながら

ご参加の皆様に色々と

お伝えさせて頂きました。

 

光栄なことに

長年受講された方々より

最後に御礼を頂戴いたしました。

 

大変ありがたく感じております。

 

この場所で

御詠歌により結ばれた皆様と

ご一緒させて頂いた

かけがけのない時間は

忘れることはないでしょう。

 

▼お唱えの様子(youtube)

https://www.youtube.com/watch?v=r-WAeCLgE8Q

 

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役目を終えたランドセルを集めます

3/21〜5/3の期間で

当山では使い終えたランドセルの

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ご協力の程よろしくお願いいたします。

 

▼詳細はコチラ▼

https://fugenin643.com/blog/使い終えたランドセルをアフガニスタンへ/

 


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本年5/3午前10時〜12時頃


 

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彼岸と南祖坊

春彼岸(はるひがん)を

迎えようとしております。

 

当山は

十和田湖南祖坊(なんそのぼう)伝説

ゆかりの寺院ですが

春と秋の彼岸の時季に

南祖坊が来臨するという

いわれがございます。

 

江戸期になると

当山本坊の盛岡永福寺は

盛岡に建立されますが

盛岡においても

彼岸に南祖坊が来臨するという

慣習は引き継がれていたことが

近世の史料から

読み取ることが出来ます。

 

※関連記事↓

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相⑨/

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相⑩/

 

行事や儀式というものは

そこに通わされている「意味合い」や

「物語」ともいえるような筋書きが

現在において「体現」「再現」される

とても大切なものといえます。

 

当山は古い歴史のみならず

様々な伝承に彩られた古刹なので

それらを後世に伝える意味においても

様々な「意味合い」「物語」に

触れて頂けるよう

つとめることが必要だと

最近は感じております。

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古代の祈りの痕跡とお寺の起源

錫杖(しゃくじょう)状鉄製品

といわれる遺物が

当地の上七崎での

遺跡調査(平成6年(1994)実施)で

発掘されております。

 

八戸市の

遺跡台帳番号03268

上七崎遺跡

『新編八戸市史』によると

平安以前のものとされますが

出土遺物は概ね

10世紀後半のものとしております。

 

錫杖(しゃくじょう)は

現在でも修法や儀式で用いられる

法具(ほうぐ)です。

 

同資料によれば

宗教儀礼等に用いられていたと

考えられる錫杖状鉄製品は

北東北を中心に

発見されていたものの

用途は不明だったようで

上七崎遺跡出土の錫杖状鉄製品が

完存品で発見されたことにより

現在用いられている錫杖のように

用いることで音が発せられることが

初めて明らかになったそうです。

 

9世紀頃〜10世紀には

七崎の地において法具が

用いられ祈りが捧げられていた

ことを伝えているといえるでしょう。

 

また当地の滝谷(たきや)地区の

蛇ケ沢(じゃがさわ)遺跡では

9世紀後半から10世紀初頭の

竪穴式住居跡3棟が見つかっており

そこでカマドにまつわる

宗教儀礼があったものと

想定されているそうです。

 

また同遺跡では

鋤(すき)・鍬(くわ)先が

3枚重なった状態で納められており

「当時貴重品であったと思われる

鉄製品をどのような理由で

納めたのか

この集落を考える上で

注目される事例」だそうです。

 

※遺跡関係の記述は

全て『新編八戸市史 』の

考古学資料編と地誌編を

参考にしております。

 

それぞれの遺跡は

古代の祈りの痕跡を伝えます。

 

当山は

開創は圓鏡上人

(延暦弘仁年間(8C下旬〜9C初頭))

開基(開山)は行海上人

(承安元年(1171))

中興開山は快傅上人

(享保年間(1716〜1736))

とされまして

ルーツは平安初期にさかのぼります。

 

当地の住所にも残る

「永福寺」という寺号は

甲州南部郷より遷座され

三戸沖田面に建立された

新羅堂の供養を

鎌倉の二階堂永福寺の僧侶

宥玄(ゆうげん)が勤めたことに

由来するとされます。

 

鎌倉では

永福寺を「ようふくじ」と

読んでおります。

 

鎌倉時代の歴史書(とされる)

『吾妻鑑』(あずまかがみ)

宝治2年(1248)2月5日条には

文治5年(1189)12月9日

永福寺事始あり

とあります。

 

ついでですが

鎌倉は中世において

密教の一大拠点でした。

 

さらに

鎌倉ついででいえば

鎌倉の長谷寺は

当山本山である

奈良の長谷寺と

深く関わるお寺です。

 

鶴岡八幡宮寺

勝長寿院

二階堂永福寺

の三学山は鎌倉の密教を

考える上で重要な寺院といえます。

 

二階堂永福寺は

平泉の大長寿院を模して

建立されたとされますが

現在は廃寺となっております。

 

諸説ありますが

“鎌倉三学山”の1つである

二階堂永福寺の僧侶である

宥玄が新羅堂供養を勤めた

「供養料」として

沖田面村に一宇お堂が建立され

宥玄をそのお堂の住職として

永福寺と号したそうです。

 

また

三戸沖田面村と五戸七崎村を賜ったと

近世の史料は伝えております。

 

この近世の史料とは

『たけたからくり』(文政6年(1823))

という文書でして

幅広く貴重な情報を今に伝えるものです。

 

同史料では

七崎(ならさき)に古くから

観音堂があったことにも

触れております。

 

また観音堂は

宗旨も不定で寺号もなく

こちらの「住職」ともなった

宥玄が永福寺の

僧侶であったことから

「時の人挙げて」永福寺と

呼ぶようになったとも

記されております。

 

史料の伝える時期を踏まえると

この二階堂永福寺・宥玄の時期は

行海上人開基の少し後となります。

 

この行海上人は

現在の七崎神社の地に

七つ星(北斗七星または七曜)

の形になぞらえて

杉を植えたとされます。

 

現在の七崎神社にそびえる

3本の大杉(樹齢800〜1000年)は

その時のものだといわれ

行海上人の時代の頃と重なります。

 

当地には

時の天皇の怒りに触れ

平安初期に

当地へおいでになられた

藤原諸江(もろえ)卿が

9本の杉を植えたとの伝説もあり

現在の七崎神社の地の

大杉はその時のものという

いわれもあります。

 

当地に見られる

久保杉(くぼすぎ)という名字は

「9本の杉」から来ており

藤原氏の流れをひいていると

伝えられております。

 

郷土史研究などでは永福寺は

「七崎から三戸に移った」と

よく説明されますが

「移った」という表現は

当てはまらないように思いますし

かなり違和感を覚えます。

 

古い時代の有力寺社は

所領を当地以外にも

持つ場合が多く見られるので

そういったことも

踏まえる必要があるかと思います。

 

永福寺は

「永福寺」という寺号が

用いられる以前に遡及して

その縁起が編まれてゆきます。

 

「永福寺縁起」として

総本山長谷寺とゆかりのある

坂上田村麻呂将軍が

十一面観音を本尊として

奥州「田村の里」七崎に

お寺を建立したという

縁起も伝えられております。

 

『長谷寺験記』(はせでらげんき)

(建保7年(1219)頃までに成立)

という鎌倉期の霊験記の

田村将軍が奥州一国に

十一面観音を本尊として

6ケ所にお寺を建立した話が

同書上巻第5話に収録されており

これが田村将軍創建伝説の

根拠となっているかもしれません。

 

今回とりあげた

『たけたからくり』は

文政6年(1823)に書かれた

近世の史料なので

当時の盛岡における

永福寺縁起がどのように

語られていたのかが

垣間見られるものですし

七崎の地が観音様と

強く結び付けられて

意識されていたであろうことが

よく伝わってまいります。

 

当山開基の行海上人は廻国僧で

当地の大蛇を改心させたことで

地域の住民から

当地に留まるよう

懇願されたため

草庵が結ばれ

普賢院が開基されたと

伝えられます。

 

十和田湖伝説の

南祖坊(なんそのぼう)は

行海上人の弟子であるとも

伝えられております。

 

当山開基の時代を

さらにさかのぼり

弘仁初期頃(810頃)

圓鏡上人により

当山は開創されたとされます。

 

「弘仁初期頃」となっているのは

拙僧(副住職)の見解では

『先師過去帳』に

当山開創 圓鏡上人が

弘仁7年(817)5月15日に御遷化

されていることに

由来していると思います。

 

弘仁年間は810〜824年なので

『先師過去帳』に記される

開創上人の没年を踏まえて

「弘仁初期頃」としているのだと

考えられます。

 

開創や開基の時代には

当地において

「祈り」が捧げられていた

可能性が高いことを伝える

上七崎遺跡と蛇ケ沢遺跡。

 

他の遺跡でいえば

夏間木地区の遺跡は

浅水川流域の数少ない

奈良時代の集落であることが

確認されておりますし

喉平(のどひら)遺跡には

縄文時代後期の小規模集落が

あったと見られており

当地にはその時代には

集落があったことが伺えますし

祭祀に用いられたと見られる

土偶も出土しております。

 

当山草創期に思いをはせるにあたり

当地の各遺跡が伝えることに

耳をしっかりと傾けたいと思います。

 

【関連記事】

▼南祖坊伝説の諸相⑤

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相⑤%E3%80%80長谷寺と南祖坊%E3%80%80その参/

 

▼錫杖状鉄製品

(『新編八戸市史 地誌編』p.576。)

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美しき梵字

八戸にゆかりのある

思想家でもある安藤昌益

(あんどうしょうえき、1703〜1762)。

 

拙僧(副住職)にとっては

ただ名前を知っていて

昌益思想を代表するフレーズを

2、3程知っている位でして

詳しいことは分かりません。

 

調べ物で

『新編八戸市史』(近世資料編Ⅲ)

を読んでいたところ

昌益関係の資料として

掲載されている

『詩文聞書記』(延享元年(1744))

の翻刻と原本の写真が

目に止まりました。

 

調べてみると

『詩文聞書記』とは

八戸市の天聖寺(てんしょうじ)第8世

則誉守西(そくよしゅさい)上人

記された昌益の講演会の

覚書だそうです。

 

なぜに目が止まったのかというと

梵字が書かれていたからです。

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梵字を用いるのは

真言宗だけではありませんが

殊に真言宗は

真言陀羅尼宗(しんごんだらにしゅう)

ともいう程ですので梵字を

深く学ばなければなりませんし

日常的によく

読んだり書いたりするので

梵字に目が止まるのも

拙僧(副住職)にとっては

ごく自然なことです。

 

掲載されている梵字を見てみると

陀羅尼(だらに、梵字のお経・文言)

というわけではなく

『観無量寿経』の一節や文言

浄土宗や浄土真宗の

お祖師様の一人である

善導(ぜんどう)上人の文言

などの「音」と同音の梵字が

書かれておりました。

 

厳密な音の対応とは

いえませんが

経文や論書の文言

一字一字の「読み」につき

一音一音の梵字が概ね

当てられております。

 

則誉守西(そくよしゅさい)上人

現在の糠部三十三観音霊場の

札番(札所の番号)を

定められた方といわれます。

 

中世以降

和歌は陀羅尼に通じる

尊いものであるとする

「和歌即陀羅尼(わかそくだらに)」

という考え方が出てまいります。

 

今回取り上げた書物は

「詩」をテーマにしているので

和歌や漢詩や陀羅尼に

通底するところについて

昌益が触れつつ講演したのだろうかと

想像を膨らませております。

 

それにしても

(直筆かどうかは分かりませんが

これが直筆だとすると)

則誉守西上人の梵字は

とても絶妙だと感じました。

思いをはせつつ精進に励む

3/12は始発の新幹線で上京し

大本山護国寺境内の宗務所へ

現代教化研究所の所内会に

行ってまいりました。

 

ご縁がありまして

一昨年秋より

こちらの研究所に所属し

研究活動に本格的に

力を入れさせて頂いております。

 

今年度を振り返ると

当山に大いに資する発見が

続いたりしまして

ある程度の成果を残せた1年だったと

ありがたく思っております。

 

現代教化研究所の所内会では

毎回研究員の先生方の

様々な分野における発表を

お伺いさせて頂き

多くの発見や気付きの機会に恵まれ

時には研究発表をさせて頂き

貴重なご助言を頂く機会にも恵まれ

とても充実した時間を

過ごさせて頂いております。

 

また

毎月足を運ばせて頂いている

大本山護国寺は

5代将軍・徳川綱吉公生母である

桂昌院ゆかりのお寺です。

 

南部地方には

南部藩第29代藩主・南部重信公の

ご発言により5代将軍は綱吉公に

決定されたとの逸話が伝えられます。

 

この重信公は

当山観音堂本尊として

現在祀られている観音像(聖観音)を

ご奉納された方です。

 

重信公は学問を好み

優れた歌人でもあったとされ

盛岡という地名は

永福寺42世住職・清珊(せいさん)上人と

重信公の連歌に由来するとされます。

 

そういった歴史等にも

思いをはせつつ

毎月こちらへ運ばせて頂き

精進させて頂いております。

 

来年度も引き続き

励ませて頂きます。

 

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青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)⑤

青森県田子町の

釜渕家出身である高僧

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

は出生年の詳細は不明ですが

1657年頃に生まれ

元文4年(1739)82歳頃に

入寂したとされます。

 

名久井の名刹・法光寺に入門し

その後の足取りは不明ですが

宝永4年(1707)には

九戸の長興寺7世として

奉職していたことが

分かっております。

 

1657年に生まれたと仮定すると

宝永4年(1707)には

学秀は御年50歳ということになります。

 

法光寺入門後

50歳に至るまで

どのように過ごされたかについて

郷土史研究をされている方の

一説では永平寺に

行っていたのではないかと

いわれてきたようです。

 

たまたま見ていた

『新編八戸市史』(近世資料編Ⅲ)

所収の翻刻資料

「松館大慈寺歴代住職の書上」

(原本は天明8年(1788)の史料)

では学秀について

前総持

当寺六世奇峯学秀大和尚

元文四己未二月七日

と記されておりました。

 

「前総持」の部分は

住職になる以前に

(曹洞宗)本山である

横浜市鶴見の

総持寺(そうじじ)に

登嶺していたことを示すものです。

 

もう一方の本山である永平寺に

登嶺していたのであれば

「前永平」と記されます。

 

ということなので

学秀は総持寺へ

行っていたことになります。

 

総持寺に行っていたことは

間違いないようですが

当時の僧侶の修行や研鑽の動向や

学秀が彫られた仏像の

ラインナップを踏まえつつ

想像力を膨らませて

学秀の“足跡”を思い描いてみると

方々の学山で学ばれたり

霊場霊跡に赴かれたりしたと

考えても良いと思われます。

 

当時の僧侶の動向を探る一例として

当山の本山である

奈良県桜井市の長谷寺を

とりあげてみると長谷寺は

学山 豊山(がくさん ぶざん)といわれ

今で言う所の「宗派」の垣根を超えて

非常に多くの僧侶が学ばれた

“大学”のような御山でした。

 

そういった学山を

各所訪ねて研鑽を積むことが

明治時代になるまでは

“違和感のないこと”だったのです。

 

参考までにですが

学秀と同時代を生き

作仏も多くされた

港町の若松屋出身の僧侶である

津要玄梁(しんようげんりょう)は

松館大慈寺

盛岡の青龍山 祇陀寺(ぎだじ)

二戸浄法寺の天台寺で

修行された後に

階上町寺下を拠点にして

布教活動をされていらっしゃいます。

 

寺下の五重塔跡近くの

津要和尚墓誌には

延享ニ年(1745)乙丑

前永平(永平寺に登嶺していたの意)

祇陀先住(祇陀寺の僧侶であったの意)

石橋玄梁大和尚禅師

大閏十二月二十五日

と記されております。

 

学秀仏のラインナップを見てみると

聖観音(しょうかんのん)

十一面観音(じゅういちめんかんのん)

千手観音(せんじゅかんのん)

地蔵菩薩(じぞうぼさつ)

弥勒菩薩(みろくぼさつ)

勢至菩薩(せいしぼさつ)

五智如来(ごちにょらい)

大日如来(だいにちにょらい)

薬師如来(やくしにょらい)

阿弥陀如来(あみだにょらい)

釈迦如来(しゃかにょらい)

不動明王(ふどうみょうおう)

韋駄天(いだてん)

牛頭天王(ごずてんのう)

閻魔大王(えんまだいおう)

大黒天(だいこくてん)

恵比寿天(えびすてん)

十王(じゅうおう)

達磨大師(だるまだいし)

と実に幅広い尊格の

仏像と御像が

作仏されております。

 

尊格それぞれは

本質的には通じておりますが

各尊の司るみ教えやお諭しに

個性もあります。

 

尊格は主に

如来(にょらい)

明王(みょうおう)

菩薩(ぼさつ)

天(てん)

に分けられます。

 

これらは個別に

独立しているのでは

ありません。

 

例えば

弘法大師空海が請来した

曼荼羅を現図曼荼羅

といますが

曼荼羅中央に描かれる

大日如来という尊格について

見てみましょう。

 

現図曼荼羅は

金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)

胎蔵曼荼羅(たいぞうまんだら)

の一対になっており

金剛界は智慧

胎蔵界は慈悲

であるとも言われます。

 

学秀最古の仏像として

葛巻の宝積寺のために彫った

五智如来(ごちにょらい)

と称されている仏像が

八戸市の上野に

お祀りされております。

 

現在は1体ですが

もともとは5体であったと

考えられているそうです。

 

この五智如来とは

一般的に金剛界五仏といわれる

金剛界曼荼羅中央の

五尊を指します。

 

阿閦如来(あしゅくにょらい)

宝生如来(ほうしょうにょらい)

阿弥陀如来(あみだにょらい)

不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)

大日如来(だいにちにょらい)

の五仏を五智如来といいます。

 

五智(ごち)とは

五つの智慧のことで

先の金剛界五仏それぞれは

大円鏡智(だいえんきょうち)

平等性智(びょうどうしょうち)

妙観察智(みょうかんざっち)

成所作智(じょうそさち)

法界体性智(ほうかいたいしょうち)

の尊格です。

 

正確には五智のうち

前4つを四智(しち)

その総体を法界体性智といい

四智と法界体性智を合わせて

五智(ごち)といいます。

 

現在各流派の御詠歌(ごえいか)で

用いられている鈴(れい)の仕様は

もともとは

金剛流(こんごうりゅう)という

高野山の流派のものでして

この鈴(れい)の頭

(鈴頂(れいちょう))を

五智如来といいます。

 

▼御詠歌の鈴(れい)

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▼五智如来(ごちにょらい)

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鈴頂の五智如来は

蓮台(れんだい)の上に

五鈷(ごこ)という

五つの爪が載せられた形

となっており

これは先の金剛界五仏の

象徴でもあります。

 

蓮台の前に取り付けられている

梵字はバンという字で

(金剛界)大日如来を

表す種字(しゅじ)です。

 

金剛界五仏は

全ての尊格“各グループ”である

五部(ごぶ)を“代表”しており

金剛部(こんごうぶ)

宝生部(ほうしょうぶ)

蓮華部(れんげぶ)

羯磨部(かつまぶ)

仏部(ぶつぶ)

と各部のことをいいます。

 

これら五部の総体

(つまり全ての尊格の代表)

とされるのが大日如来です。

 

その大日如来の

教化(きょうけ)のお姿の1つが

不動明王とされます。

 

専門用語では

教令輪身(きょうりょうりんじん)

といいます。

 

要するに“本質的に”

大日如来と不動明王は

“同体”なのです。

 

以上のような諸尊の関係も

含めて「曼荼羅思想」と

ここでは言わせて頂くと

かつて曼荼羅思想は

僧侶や修験者

あるいは一般的に

現在より膾炙(かいしゃ)された

ものだったようです。

 

曼荼羅の考え方は

各尊格や仏像を捉える上で

必要不可欠な視点です。

 

学秀仏のラインナップを

ざっと見渡しても

「曼荼羅思想」に

大いに通じていると

いうことが出来るかと思います。

 

学秀は千体仏の作仏を

三度成し遂げた方です。

 

三度の作仏は大きく分けて

第1期〜3期という形で

表現されているそうです。


 

第1期 地蔵菩薩

(1600年代末〜1700年代初頭)

(学秀 50歳頃)

 

第2期 観音菩薩

(正徳2年(1712)頃〜)

(学秀 60歳頃〜)

 

第3期 観音菩薩

(享保7年(1722)〜元文4年(1739))

(学秀 70歳頃〜入寂)

 


第1期の千体仏は

飢饉で亡くなられた多くの方の

ご供養のために。

 

第2期の千体は

九戸の乱の戦没者供養のために。

 

第3期の千体は

隠居後に故郷である田子において

出身である釜渕家一族の供養のために。

 

単純計算してみると

観音菩薩を二千体以上

次いで地蔵菩薩を千体以上

作仏していることになります。

 

これらの仏像含め

学秀は三千数百体は作仏しただろうと

いわれているようです。

 

仏道において

「三千」という数は

伝統的な意味のあるもので

このことと関連付けて

学秀の三千仏を考察してみることは

有意義なことかと思います。

 

次回はこの点について

触れてみたいと思います。

 

▼五智如来が祀られるお堂(八戸市上野)

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▼金剛界曼荼羅

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▼胎蔵曼荼羅

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じゃらくの降った3.11

「春の陽気」を感じる日々が

続いておりましたが

そうはいかないのが北国です。

 

「彼岸じゃらく」と呼ばれる

水分をたっぷりと含んだ重い雪が

この時季は必ず降ります。

 

今年も“期待”を裏切ることなく

3.11の夕刻より降り始めました。

 

そういえば8年前も

寒い日が続き

雪が降っていました。

 

あの時のことを

忘れないように

今年も8年前のように

雪が降っているようにも思います。

 

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