大発見かもしれません〜早稲田観音と普賢院聖観音〜

滝尻善英氏の

『奥州南部糠部三十三カ所霊場めぐり』

(デーリー東北社、平成15年)に

掲載される第23番札所・早稲田観音の

十一面観音像の写真。

 

下から見上げるなアングルで

全体像が写真に納められ

仏像の特徴が捉えられています。

 

こちらがその写真です。

 

調べ物をしていて

それとなしに早稲田観音の

お姿を確認しようと思い

前掲の書籍を見たところ

早稲田十一面観音と

当山の聖観音(しょうかんのん)が

とても似ていることに気が付きました。

 

今話題にあがっている

当山の聖観音は観音堂内陣内殿の

七崎観音の脇仏として

向かって右側に祀られる観音像です。

 

古くから当山に祀られているようですが

その詳細は不明でした。

 

当山では本堂建替を控えており

来年春までには現在の本堂を

解体しなければならないため

本年の七崎観音御開帳の際に

内殿の観音像を細かく観察して

その特徴を確認しております。

 

そういった経緯があっての

今回の「気づき」です。

 

早稲田観音は

当山ととても関わりのある観音様で

かつて早稲田観音の別当を勤めていた

嶺松院(れいしょういん)は当山同様

江戸期に盛岡永福寺を本坊とする

関連寺院でした(現在は廃寺)。

 

普賢院と嶺松院は

いずれも永福寺の旧地ということで

自坊という形で庇護されました。

 

そういった歴史的関係性が

大いにある2所なので

同じ仏師が作仏された仏像が

祀られていたとしても

何ら不思議はありません。

 

それでは実際に

2体の観音像の類似点を

見ていきたいと思います。

 


【蓮台】

▼早稲田観音

▼普賢院聖観音

蓮台後方の“魚のヒレ”のようなものが

左右に施されており

これは早稲田観音の写真でも

この特徴的な部分が

当山同様左右両方に

施されていることが

はっきりと分かります。

 

また蓮台下の敷茄子(しきなす)と

呼ばれる箇所の作りや

その下にある蓮台もまた

作風がとても似ています。

 

【仏頭と上半身】

▼早稲田観音

▼普賢院聖観音

共通する点として

大きな耳たぶ

左手の形

左手に持たれている蓮の作風

装身具がない如来形

などが挙げられます。


 

前掲書より

以下を引用させて頂きます。

 

万治2年(1659)の

棟札(むなふだ)によると

二十年程前の寛永17年(1640)3月

門前の焚き火が飛び火して焼失し

宥鏡(ゆうきょう)法印の代に再興し

ご本尊の観音像も修復したと

記されています。(前掲書、p.92。)

 

寛永17年(1640)に

早稲田観音は火災に見舞われたことが

棟札に記されているとありますが

別の史料では

寛文年間(1661〜1673)にも

嶺松院が火災に見舞われていることが

記されております。

 

余談ですが

この宥鏡という方は

当山の先師でもありますが

その晩年の延宝8年(1680)に

本坊・盛岡永福寺も大火災に

見舞われております。

 

前掲書にも記されておりますが

早稲田観音の観音像は

棟札に記される万治2年(1659)

以前からある仏像ということになります。

 

当山の聖観音像もまた

同時期のものであれば

少なくとも三百数十年

当山にお祀りされていたことになります。

 

“真実”は

早稲田観音と当山の聖観音のみ知るわけですが

新たな仮説として

決して無理のないものかと思います。

 

さて

こういったことはどなたに

相談や問い合わせすれば

良いのでしょうか?

青森市油川の熊野社と十和田湖十湾寺

享保年間の『津軽一統志』は

外ヶ浜(青森市)油川の

熊野十二所権現社に

永禄2年(1559)の再興の棟札があり

その裏書には

十湾寺(とうわんじ)南蔵坊

於いて勧請(かんじょう)

と記されていると伝えております。

 

この十湾寺は永福寺の別院で

熊野山の山号を用いていたとされます。

 

史料によっては

十涯寺や十瀧寺とも記されます。

 

永禄2年の棟札に見られる

南蔵坊というのは

十湾寺に所属する坊と見られます。

 

当山付近にも

南宗坊という地名があり

かつて当山に所属する坊が

あったと言われております。

 

南蔵坊も南宗坊も

十和田湖伝説の南祖坊(なんそのぼう)に

連なるものと考えて

差し支えないかと思います。

 

十和田湖伝説に関係なくとも

「南蔵」や「南宗」の文言は

寺院に用いられることがあるのですが

今回見ているものについては

関係性が十分にあるものなので

南祖坊伝説の「ナンソ」が

踏まえられていると捉えて良いと思います。

 

南祖坊伝説において

熊野信仰は重要な要素の一つといえます。

 

現存するか否かは分かりませんが

『津軽一統志』が伝える永禄2年の棟札は

十湾寺の名が見られる

とても貴重なものといえます。

 

十湾寺については

またの機会に

こちらで紹介させて頂きます。

 

▼油川の熊野宮

▼油川の熊野神社(十三森熊野宮)

蒸し暑い送り盆

令和元年のお盆の諸行事が

多くの皆様のお支えのもとに

全て終えることが出来ました。

 

例年にない程の

蒸し暑いお盆でしたが

おかげさまで

本年もきちんと祈りを

捧げさせて頂きました。

 

現在の本堂で迎える

最後のお盆を

無事に過ごすことが出来

ほっとしております。

 

祭りのあと

7月末より8月上旬にかけ

青森では多くのお祭りが

開催されます。

 

八戸では三社大祭

青森ではねぶた

弘前ではねぷた

五所川原では立佞武多。

 

全てがこの時季

というわけではありませんが

これら同様の山車祭りは

青森県内各地に沢山あり

季節の風物詩として

大切にされています。

 

今年の青森ねぶたでは

十和田湖南祖坊(なんそのぼう)伝説の

山車があったそうです。

 

南祖坊は

当山第2世の月法律師(がっぽうりっし)の

弟子となり学ばれ

全国の霊山霊跡を巡った果てに

十和田湖に結縁入定され

青龍大権現(せいりゅうだいごんげん)

という十和田湖の龍神になった

とされる僧侶です。

 

調べてみると

青森ねぶたでは以前にも幾度か

南祖坊が山車の題材として

採り上げられています。

 

八戸三社大祭でも

南祖坊はちょくちょく

題材として採用されています。

 

南祖坊伝説が

今もなお郷土に根付き

生き続けていることは

とても尊いことだと思います。

 

夏祭りの終わりは

「夏の終り」に近い感覚が

あるように思います。

 

暦の上でも立秋を迎え

当地ではお盆を迎えます。

 

一年に一度

ご先祖様が帰郷するとされるお盆。

 

一年に一度のお帰りを

“気持ちよく”お過ごし頂けるよう

“おもてなし”することが

お盆のご供養とされます。

 

お供えをすること

お参りをすることなど

お盆の“おもてなし”には

様々ありますが

「お盆のお経をあげること」も

尊い“おもてなし”とされます。

 

当山では毎年

新盆のお宅と

一部お盆のお参りを

ご希望されるお宅に

伺わせて頂いております。

 

お盆のお経参りのことを

棚経(たなぎょう)といいます。

 

“里帰り”された有縁の皆様に

謹んで向き合わせて頂きたいと思います。

 

寛保3年の賽銭箱

本堂内にある観音堂の

八体仏(十二支守護尊)が

祀られる脇堂前の賽銭箱の裏には

以下のように筆書されています。

 

寛保三癸亥歳(1743年)十二月吉日敬白

 

18世紀は

様々な天変地異があった時代でもあり

切実な祈りが込められ

奉納された賽銭箱なのかもしれません。

 

古いものゆえ

この賽銭箱自体も傷んでおりますが

今もなおその役割を果たしていることに

歴史を感じます。

 

戦争の記憶を留める木札

昭和22年(1947)に行われた

当山本堂の屋根葺替(ふきかえ)時に

記された木札があります。

 

その一部を

以下に記します。

 


昭和貳拾弐年拾弐月拾弐日

(昭和22年12月12日)

屋根葺替記事左ノ通リ

 

住職 品田晃雄(こうゆう)

大東亜戦争ノ為メ

出征中ニシテ未復員

生死不明

 

(中略)

 

當時ノ物價相場及各種賃金

一、精米 壱俵

供出價格 八百円

闇價格 四千円位

一、大豆 壱俵

供出價格 七百円

闇價格 参千五百円

一、リンゴ壱箱

統制ナシ 八百円

一、給料

普通壱ケ月 千五百円

一、田地小作料

壱反歩 壱百円

畑地小作料

壱反歩 四拾円

 

太平洋戦争終戦

二週(周)年ニシテ

米国ノ占領下二在リ

統制経済中ニシテ

闇ノ甚ダシキ時ナリ


 

品田晃雄(こうゆう)和尚は

当山62世住職で

晋山(しんざん)して

間もなく出征しました。

 

晋山とは

住職に正式に就任することです。

 

晃雄和尚は拙僧(副住職)の

大叔父にあたり

祖母の兄にあたります。

 

晃雄和尚の

切割(かっせつ)という袈裟が

残っており袈裟の裏地には

昭和18年(1943)11月 晃雄

と墨書きされています。

 

今回採り上げた

当時の一端が

伺えるこの木札は

激動の時代を乗り越え

今があることを

私達に伝えているように思います。

 

戦争に関連して

当山境内には昭和37年(1962)11月に

建立された戦没者慰霊碑があります。

 

慰霊碑には

建立にあたっての言葉や

豊崎町出身者の戦没者名

建立賛助者名などが記されており

今回触れた晃雄和尚の名前と

その弟・高明(こうめい)の名前も

連ねられております。

 

以下に

慰霊碑に記される

「建立の心」と題された

建立趣意書を紹介させて頂き

結びとさせて頂きます。

 


建立の心

 

戦争は私たちの子弟を

異国の土に化しました。

 

元気な姿でお国のためにと

旅だって行ったこれらの人々が

その輝く瞳で

再び故郷の山河を見ることは

できなかったのです。

 

そして

白木の箱に萬感の思いを

こめながらも

言葉なく私たちの胸に

帰ってきました。

 

戦爭の厳しさと

愛しい肉親を失った悲しみは

私たちの心を深くえぐりました。

 

しかし

戦いの目的がどこにあれ

私たちの子弟の一人一人が

純な心から唯一途に

お国のためにと

その身を捧げた姿は

私たちにとっては

せめてもの慰めでした。

 

そして

この献身の姿を留め

二度とこのような悲しみを

繰り返さないよう碑文を刻んで

とどめることにしました。

 

国の繁栄を願って

散っていった魂と

その心を受けて

平和な郷土の建設を希う

私ども遺族の魂とを留めて

留魂といたしました。

 

昭和三十七年十一月

豊崎町遺族会会長 白石寒能象

 

吉田初三郎の鳥瞰図

新幹線で読むことができる

フリーマガジン『トランヴェール』。

 

2019年7月号では

“大正の広重”ともいわれた

吉田初三郎の特集が組まれていました。

 

吉田初三郎は八戸とゆかりのある方で

多くの鳥瞰図(ちょうかんず)を

手がけられました。

 

吉田初三郎の

『十和田湖鳥瞰図』(昭和8年)には

大きな十和田湖が山頂に描かれ

県内各所が周囲に配置されています。

 

デフォルメされ

印象的なタッチで描かれる

吉田初三郎の鳥瞰図。

 

その中に当山も描かれています。

 

このことについては

以前にもブログで触れておりますので

そちらもご参照頂ければと思います↓

https://fugenin643.com/ふげんいん探訪/十和田湖南祖坊について/稀代の古刹七崎観音十二/

 

『十和田湖鳥瞰図』には

当山は「永福寺」の名で

記載されています。

 

「永福寺」の隣に

「七崎神社」と記され

鳥瞰図にバッチリ登場しております。

 

七崎神社は

明治時代まで観音堂で

徳楽寺の寺号が用いられております。

 

徳楽寺の名が記された

木札が当山には残っております。

 

そのような歴史や

十和田湖伝説なども

この鳥瞰図には

落とし込まれているように思います。

 

夏空のもとでの法事

7/20に本堂にて

拙僧(副住職)である

品田豐(とよ)の三回忌と

その姉である道子の十三回忌

併せて先祖供養並三界萬霊供養

普賢院歴代先師供養を

執り行いました。

 

豐と道子には

2人の兄がいましたが

出征したため

当山は一時住職不在となり

その間“女の和尚さん”として

お寺を守りました。

 

激動かつ困難な時代において

祖母と大叔母の姉妹が

有縁の方々のお力添えを頂きながら

何とか当山を守りました。

 

現在の本堂は建替のために

近い将来取り壊される予定です。

 

おそらく今回が

現在の本堂で執り行う

当家最後の法事に。

 

当山住職と法務を執り行い

近い親戚とともに

祈りを捧げさせて頂きました。

 

棟札に耳を傾ける②

棟札について

久しぶりの投稿になりましたが

当山の歴史に触れつつ

まずは現在の本堂の

棟札に“耳を傾けて”みたいと思います。

 

掲載内容に

ボリュームがあるので

複数回に分けて

内容に触れていきます。

 

※棟札に耳を傾ける①はコチラ

https://fugenin643.com/ふげんいん探訪/棟札に耳を傾ける一/

 

この棟札は文化8年(1811)のもので

縦110cm×横20.5cm×厚さ3cmの

大きさがあります。

 

▼現在の本堂の棟札(文化8年(1811))【表】

▼同上【裏】

▼記載内容(右:【表】、左:【裏】)

 

本堂は言うまでもなく

お寺で最も大切なお堂で

本尊が祀られるお堂です。

 

本堂という言葉は

(ほんぞんどう)

または

(こんぽんちゅうどう)

に由来するとされます。

 

ここで少し

当山の由緒について

簡単に整理してみます。

 

当山は弘仁初期(810頃)に

圓鏡(えんきょう)上人が開創

承安元年(1171)に

行海(ぎょうかい)上人が開基されました。

 

鎌倉時代から江戸時代には

永福寺という寺号が

用いられており

永福寺42世・清珊(せいさん)の代に

当山では普賢院の寺号を主に

用いるようになったとされます。

 

永福寺の寺号は

現在も当地の住所・地名として

その名前を留めておりますが

鎌倉二階堂の永福寺(ようふくじ)に

由来しております。

 

甲州南部郷より遷座され

三戸沖田面に建立された

新羅堂の供養を

二階堂の永福寺の僧侶・宥玄(ゆうげん)が

担当することになります。

 

その「供養料」として

沖田面村に一宇お堂が建立され

宥玄をそのお堂の住職に任じ

永福寺(えいふくじ)と号したそうです。

 

また宥玄は

沖田面村とともに

五戸七崎村を賜ることとなり

それを契機として

七崎のお寺も宥玄が司ることとなります。

 

宥玄は

永福寺の僧侶であったことから

七崎のお寺(当山)も

永福寺(えいふくじ)と

呼ばれるようになったそうです。

 

当山の本尊は現在

愛染明王(あいぜんみょうおう)

という尊格ですが

もともとは十一面観音を本尊としており

篤く敬われていたそうです。

 

今回採り上げた棟札には

愛染明王を本尊としてお堂(本堂)を

建立したことが記されております。

 

現在の本尊の愛染明王像は

文化7年(1810)に

盛岡永福寺 宥瑗(ゆうえん)より

寄付されたものです。

 

前置きが長くなりましたが

棟札の本文を見ていきます。

 

【表】中央部分は

以下のように記されています。

 


 

ジャク(愛染明王の種字の1つ)

奉本堂再建一宇 八間仁六間

本尊邏ギャ(訁に我)尊(愛染明王)

院内安穏 興隆佛法 諸難消除

當寺檀家息災延命 子孫繁昌 所

 


 

現在の本堂は

文化7年(1810)に火災に

見舞われております。

 

そのために

翌年に再建されたのが

現在の本堂であり

その際の棟札が

今回紐解いている棟札です。

 

冒頭に愛染明王をあらわす

種字(梵字)が書かれています。

 

この棟札は

単に記録が記された木札ではなく

この棟札自体が

本尊の愛染明王の象徴であり

曼荼羅を象徴することを意味します。

 

8間(けん)6間の

本堂を再建したこと

本尊が愛染明王であることが

記されているとともに

建立に際して託された

願いが添えられていることが

分かるかと思います。

 

〈院内安穏〉

お寺が安穏でありますように

 

〈興隆佛法〉

尊いみ教えが

多くの人々のために

なりますように

 

〈諸難消除〉

様々な困難を乗り越えられますように

 

〈當寺檀家息災延命子孫繁昌〉

ご縁ある方々が

健やかで過ごせますように

家々が繁栄しますうに

 

棟札には

様々な書式があると思いますが

当山所蔵の棟札は

どれも仏道的な作法が施されております。

 

今回見た棟札の中央には

①尊格(仏)の種字(梵字)

②建立したお堂のこと

③願目(祈願の項目)

が記されていました。

 

この構成は

当山に所蔵される他の棟札にも

見られるものです。

 

次回以降も

さらに読み進め

棟札が今に伝えていることを

少し丁寧に見ていきたいと思います。

 

▼現在の本堂

幾度となく修繕を繰り返してまいりました。

 

▼昭和26年(1951)の改修記念

▼昭和59年(1984)改修(屋根葺替ほか)記念

青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)⑨

現在の青森県田子町の

釜渕家出身の高僧

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

は1657年頃に生まれ

元文4年(1739)82歳頃に

入寂したとされます。

 

千体仏作仏を三度成満し

それに加え数百体もの仏像を

彫られた“傑僧”です。

 

三度に渡る千体仏作仏は

以下のように整理されます。

 


 

第1期 地蔵菩薩

(1600年代末〜1700年代初頭)

(学秀 50歳頃)

飢饉物故者供養のため

 

第2期 観音菩薩

(正徳2年(1712)頃〜)

(学秀 60歳頃〜)

九戸戦争戦没者のため

 

第3期 観音菩薩

(享保7年(1722)〜元文4年(1739))

(学秀 70歳頃〜入寂)

生まれである釜渕家一族の供養のため

 


 

当山にも学秀御作の仏像が

お祀りされます。

 

本年2月に

確認された千手観音坐像と

学秀御作と見られる

不動明王像

大黒天像が祀られております。

 

そういったご縁で当ブログで

学秀に関して

ちょくちょく触れております。

 

今回は千手観音坐像について

重ねて記させて頂きます。

 

少し前に

千手観音坐像のお身拭いをしました。

https://fugenin643.com/blog/千手観音のお身拭い/

 

筆を用いて

細部に至るまで

積もり積もったホコリを

払い落としました。

 

この千手観音坐像は

両側面部分に穴が空いており

拙僧(副住職)が数えた所

穴は36あるように見えます。

 

これまでは

側面の腕は喪失したものと

考えておりましたが

そもそも腕は

無かったのではないかと

最近は考えております。

 

先のお身拭いは

詳細に仏像を観察する機会にも

なったのですが

仏像側面部分の穴は

腕を差し込むためのものとは

考えにくいような

穴の作り方になっています。

 

諸穴が腕を差し込むための

ほぞ穴だとすると

あまりにも仕掛けが“甘い”のです。

 

この作りでは

ほぞ穴としての役割を

果たせないように感じます。

 

機能的な視点に加え

学秀仏(学秀が彫った仏像の意)に

見られる特徴的な観点からも

考えてみたいと思います。

 

“装飾的意匠”が極力削がれた所に

学秀仏の大きな特徴があります。

 

そういった特徴を踏まえると

小さく細かな腕を多数こしらえて

一つ一つを差し込むような

作仏をしていたとは考えにくいのです。

 

ということで

拙僧(副住職)の見立てとして

正面の4本の腕以外には

当初から腕は無く

側面部の穴をもって

腕は表現されているのだと思います。

 

千手観音において

「千手」(複数の手)は

千手観音を千手観音たらしめる

重要な意味を持つものです。

 

重要な意味を帯びる

「千手」の存在を

しっかりと仏像に刻み

“無いもの”を表現したとすると

学秀仏の奥深さを

改めて感じさせられませんか?