戦争の記憶を留める木札

昭和22年(1947)に行われた

当山本堂の屋根葺替(ふきかえ)時に

記された木札があります。

 

その一部を

以下に記します。

 


昭和貳拾弐年拾弐月拾弐日

(昭和22年12月12日)

屋根葺替記事左ノ通リ

 

住職 品田晃雄(こうゆう)

大東亜戦争ノ為メ

出征中ニシテ未復員

生死不明

 

(中略)

 

當時ノ物價相場及各種賃金

一、精米 壱俵

供出價格 八百円

闇價格 四千円位

一、大豆 壱俵

供出價格 七百円

闇價格 参千五百円

一、リンゴ壱箱

統制ナシ 八百円

一、給料

普通壱ケ月 千五百円

一、田地小作料

壱反歩 壱百円

畑地小作料

壱反歩 四拾円

 

太平洋戦争終戦

二週(周)年ニシテ

米国ノ占領下二在リ

統制経済中ニシテ

闇ノ甚ダシキ時ナリ


 

品田晃雄(こうゆう)和尚は

当山62世住職で

晋山(しんざん)して

間もなく出征しました。

 

晋山とは

住職に正式に就任することです。

 

晃雄和尚は拙僧(副住職)の

大叔父にあたり

祖母の兄にあたります。

 

晃雄和尚の

切割(かっせつ)という袈裟が

残っており袈裟の裏地には

昭和18年(1943)11月 晃雄

と墨書きされています。

 

今回採り上げた

当時の一端が

伺えるこの木札は

激動の時代を乗り越え

今があることを

私達に伝えているように思います。

 

戦争に関連して

当山境内には昭和37年(1962)11月に

建立された戦没者慰霊碑があります。

 

慰霊碑には

建立にあたっての言葉や

豊崎町出身者の戦没者名

建立賛助者名などが記されており

今回触れた晃雄和尚の名前と

その弟・高明(こうめい)の名前も

連ねられております。

 

以下に

慰霊碑に記される

「建立の心」と題された

建立趣意書を紹介させて頂き

結びとさせて頂きます。

 


建立の心

 

戦争は私たちの子弟を

異国の土に化しました。

 

元気な姿でお国のためにと

旅だって行ったこれらの人々が

その輝く瞳で

再び故郷の山河を見ることは

できなかったのです。

 

そして

白木の箱に萬感の思いを

こめながらも

言葉なく私たちの胸に

帰ってきました。

 

戦爭の厳しさと

愛しい肉親を失った悲しみは

私たちの心を深くえぐりました。

 

しかし

戦いの目的がどこにあれ

私たちの子弟の一人一人が

純な心から唯一途に

お国のためにと

その身を捧げた姿は

私たちにとっては

せめてもの慰めでした。

 

そして

この献身の姿を留め

二度とこのような悲しみを

繰り返さないよう碑文を刻んで

とどめることにしました。

 

国の繁栄を願って

散っていった魂と

その心を受けて

平和な郷土の建設を希う

私ども遺族の魂とを留めて

留魂といたしました。

 

昭和三十七年十一月

豊崎町遺族会会長 白石寒能象