十和田湖三大聖地をゆく

当山は十和田湖伝説ゆかりのお寺です。

 

南祖坊(なんそのぼう)という僧侶が

当山2世の月法律師に弟子入りし

当山にて修行したと伝えられます。

 

南祖坊は

十和田山を開祖した

上人といわれます。

 

伝説によれば南祖坊は

全国の霊山霊跡を巡った果てに

十和田湖の龍神である

青龍大権現(せいりゅうだいごんげん)

となったとされます。

 

十和田湖の休屋(やすみや)

という地域には

当山がまだ永福寺の寺号を

用いていた頃に

別院として十湾寺(とうわんじ)

というお寺がありました。

 

挙げれば切りがありませんが

十和田湖はとてもご縁の深い所です。

 

そのような十和田湖で

多くの方に十和田湖の

魅力を伝えていらっしゃる

十和田湖自然ガイドクラブの

皆さんのご厚意により

“十和田湖三大聖地”を

ご案内頂きました。

 

ここでいう三大聖地とは

奥の院(おくのいん)

自籠岩(じごもりいわ)

占場(うらないば)

の3所のことだそうです。

 

ボートで移動して

道なき道を歩き

岩を登り

ハシゴを登りなどなど

十和田湖の聖地を

“登拝(とうはい)”させて頂きました。

 

現地を熟知されていらっしゃる

ガイドクラブの皆様のおかげで

素晴らしい時間を

過ごさせて頂いたと感じております。

 

現地や現場からでなければ

見えてこないことが

沢山あるのが世の常です。

 

現地に足を運ばせて頂くことで

“腹落ち”したことや

新たに気がついたことや

新たに着想を得たことが

沢山ありました。

 

それらついては機会を改めて

拙僧(副住職)の

一僧侶としての視点や経験も踏まえ

“気まぐれに”お伝えさせて

頂きたいと思います。

 

本日は

十和田神社の宮司さんにも

色々な相談に乗って頂き

さらにはご丁寧にご対応頂きました。

 

様々な尊いご縁により

未来へつながるような

本当に素晴らしい1日となりました。

 

お世話下さった

ガイドクラブの皆様

十和田神社の宮司さんご夫妻に

心より御礼申し上げます。

 

▼奥の院(おくのいん)

 

▼自籠岩(じごもりいわ)

 

▼占場(うらないば)

 

▼十和田神社にて

ご案内頂いた自然ガイドクラブの皆さんと

十和田神社宮司さんにご一緒頂き

写真を撮りました。

 

▼美しき十和田湖ブルー

歴史を伝える約300年前の前机

五戸木工の中野久男さんに

お願いしまして

江戸期の前机を

修繕して頂きました。

 

当山の設えの多くは

五戸木工さんに

作って頂いたもので

いつも本当にお世話になっております。

 

今回修繕して頂いた前机は

裏書きによると

今から約300年前の

享保9年(1724)3月3日に

五戸町の三浦家により

奉納されたもので

かなり傷んだ状態で

物置で保管されていました。

 

修繕して頂いた上に

塗り直して頂いたので

おかげさまで

装い新たな素晴らしい

前机となりました。

 

五戸木工の中野さんには

心より感謝申し上げます。

 

おそらくですが

年代が分かっている設えとしては

この前机が最古のものだと思います。

 

享保期といえば

当山は快傅(かいでん)大和尚により

中興開山(ちゅうこうかいさん)された時期です。

 

当山の中興期に

奉納されたものだということは

とても意味のあるものだと感じます。

 

歴史を今に伝える

貴重な前机なので

これからも長く

使わせて頂きたいと思います。

 

6/26南祖祭(なんそさい)を開催します

当山には

南祖法師尊像(なんそほっしそんぞう)

という御像がお祀りされております。

 

南祖法師とは

十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)のことです。

 

南祖坊は

当山にて修行したとされ

十和田山の開祖であり

十和田湖青龍大権現という

龍神になったとされる

伝説の僧侶です。

 

6/26午前10時より

当山本堂にて

南祖坊とご縁をお結び頂く

南祖祭(なんそさい)

〜祭事と「龍の特別授業」〜

という行事を行います。

 

祭事では

巫女さんにもお手伝い頂き

まさに神仏習合の法要を

執り行わせて頂きます。

 

祭事に加え

伝説についてのお話をさせて頂き

さらにゲストスピーカーとして

八戸の太陽信仰について

調べていらっしゃる

髙山正道さんをお招きして

伝説にまつわるお話を

して頂きます。

 

「祭」は祈りを捧げる

ひとときであると同時に

神話や伝説と

“つながる”ひとときであり

“向き合う”ひとときです。

 

伝説とつながるひとときを

是非ご一緒下さいませ。

 

日程:令和元年6月26日(水)

時間:午前10時〜正午頃

会場:普賢院本堂

会費:お一人2000円

※会費の一部は、国内の震災復興を

含めた国際協力活動への寄附に

あてさせて頂きます。

ほのぼの愛らしいお地蔵様

3年前に八戸市根城の

番地石材店より

ご寄贈頂いた

愛らしいお地蔵様が

鐘楼堂に座っております。

 

こちらは

いわゆる「なで仏」で

頭などをなでて頂いても構いません。

 

新たな本堂が完成したら

入口近辺に置かせて頂き

多くの方に

親しんで頂きたいと考えております。

 

当山にお参りの際は

是非頭なり体なりを

なでていただいたり

抱きついていただいてリ

写真を一緒に撮って頂くなどして

ご縁を深めて下さいませ。

オシラサマ

オシラサマという

神様をご存知でしょうか?

 

当山では子安地蔵堂と

位牌堂にお祀りされております。

 

オシラサマは

馬と女性(娘)が一対で

お祀りされるものです。

 

形状は様々ですが

桑の木で作られ

オセンダクと呼ばれる布が

まとわせられます。

 

オシラサマの祭事をすることを

「あそばせる」といいます。

 

オシラサマの由緒は

馬に恋した女性の物語です。

 

16日がご縁日とされ

ご御縁日のことを

命日ともいうそうです。

 

春祈祷として

オシラサマの祭事を

行う所が多いようです。

 

このオシラサマは

東北独特の祈りのあり方や

民話の世界に通じるものでもあります。

 

祭事は

そういった「物語」と

“つながる”ものであり

“向き合う”ものなので

何かしらの形で

執り行いたいと考えております。

七崎姫観音への祈りのあと

鯉のぼりが

各地で泳いでおりますが

「のぼり」は古くから

神仏への奉納品の1つでもあります。

 

以下の写真は

当山に奉納された

昭和期ののぼりです。

 

これらののぼりには

「北沼神社」や「北沼氏子」

という字が見られますが

北沼は現在の八太郎蓮沼に

あった沼です。

 

当山仁王門裏手にお祀りされる

「北沼観音」は元々

北沼にあったものです。

 

北沼観音は

七崎姫(ならさきひめ)という

お姫様を観音様として

お祀りたといわれます。

 

埋め立てることになり

現在地に遷座されました。

 

少し前までは

北沼観音の祭事がありましたが

現在では年末年始、彼岸、お盆に

お膳をお供えする程度です。

 

七崎姫伝説のことを

ご存じない方も多いと思いますので

何らかの祭事を設けたり

七崎姫について案内板を設けるなどして

“七崎姫観音”と

ご縁を深めて頂けるよう

準備をしたいと考えております。

 

▼関連記事

https://fugenin643.com/blog/稀代の古刹七崎観音六/

 

▼北沼観音(七崎姫観音)

▼八太郎にあった頃の写真

棟札に耳を傾ける①

棟札(むなふだ)について

日本大百科全書(ニッポニカ)は

以下のように説明しております

(以下、コピペです)。

 

建築物の創建または修理に際して、その事実を木札などに記して棟や梁(はり)に打ち付けた記録である。その多くは建造の年月日、建築主、工匠の名前などを記す。家の守護神の名を記したり、呪文を記したものもある。一般に薄く細長い板で、頭部は多く山形をなし、呪物などとともに箱に入れる場合もある。同じような記録は棟や梁などに直接記される棟木銘にもみられ、これが棟札の起源であるといわれている。現存する古い例としては、岩手県・中尊寺蔵の棟札(保安3年(1122))、同金色堂の棟木銘(天治元年(1124))、また奈良・東大寺三月堂礼堂の棟札(正治元年(1199))がある。民家では奈良県五條市五條の栗山家が慶長12年(1607)の棟札を残し、現存する最古の町屋とされている。

 

当山にも棟札が所蔵されており

歴史を今に伝えております。

 

「棟札に耳を傾ける」と銘打ち

当山所蔵の棟札を紐解きつつ

当山の歴史に触れてまいります。

 

棟札に耳を傾ける前情報として

宝暦9年(1759)の

江戸幕府の御触(おふれ)

により開始された

藩領の社堂の調査をまとめた

『御領分社堂』という

宝暦13年(1763)の書物に

記載される所の

七崎(豊崎の古称)について

見ておきたいと思います。

 

『御領分社堂』は

以下のように

七崎の諸堂の一端が

記載されております。

 


寺院持社堂 五戸御代官所七崎

一 観音堂 四間四面萱葺(かやぶき)

古来縁起不相知

萬治元年(1658)重直公御再興被遊

貞享四年(1687)重信公御再興被遊候

何(いずれ)も棟札(むなふだ)有

(この観音堂は

現在の七崎神社の場所にあったもので

明治になって神社に改められました。)

 

一 大日堂

一 不動堂

一 愛染堂

一 大黒天社

一 毘沙門堂

一 薬師堂

一 虚空蔵堂

一 天神社

一 明神社

一 稲荷社

一 白山社

右十一社堂は観音堂御造営之節

依御立願何も御再興被遊候

小社之事故棟札も無之

只今大破社地斗に罷成候

一 月山堂 壱間四面板ふき

 

一 観音堂 右ニ同

右両社共に観音堂御造営之節

重直公御再興也

(この観音堂は千手観音堂です。)

 

善行院(ぜんぎょういん)

当圓坊(とうえんぼう)

覚圓坊(かくえんぼう)

覚善坊(かくぜんぼう)

右四人之修験は本山派にて

(七崎神社誌では“七崎修験”は

「真言宗なり」とあり

当時の“宗派性”が垣間見られます)

拙寺(永福寺)知行所所附之者共御座候

古来より拙寺(永福寺)拝地之内

三石宛(ずつ)遣置

掃除法楽為致置候


 

ここに記される

お堂の全てではありませんが

棟札が残っております。

 

また

ここに記されていない

お堂の棟札も残っております。

 

棟札一枚一枚に

記されることに

“耳を傾け”ながら

紹介させて頂きたいと思います。

 

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解読困難な棟札に挑む

当山では多くの棟札を

所蔵しております。

 

古いものなので

中には墨がほぼ落ちてしまい

目視による解読が

難しいものもあります。

 

当山では200余年ぶりの本堂建替

という歴史的な節目に

あるということで

歴史や伝承などの整理を

進めております。

 

棟札の整理をしていた所

解読困難な棟札1枚の形状と

宝暦13年(1763)の

愛染堂再興棟札と

天照皇大神宮再興棟札が

酷似していることに気が付きました。

 

棟札の大きさや厚さ

そして釘穴の位置までもが

酷似しているのです。

 

これらの棟札は

両面それぞれに文言が記されております。

 

何のお堂を建立したかを

記した面を仮に表面

その反対を裏面とすると

今取り上げている3枚の

裏面の文言は同じものです。

 

裏面は

棟札上方中央に梵字「バン」が記され

棟札下方中央に梵字「シリー」が

記されております。

 

そしてその梵字の間のスペースには

2行の偈文(げもん)

一切皆善 一切宿皆賢 諸仏皆威徳

羅漢皆断漏 以斯實言 願我常吉祥

が記されております。

 

この偈文ですが

解読困難な棟札でも

かろうじて何文字かを

読み取ることが出来たので

同文であることは間違いありません。

 

さて

問題は棟札の主旨が記される表面です。

 

当山諸堂については

諸史料の記述や

他の棟札により

大まかに分かっております。

 

様々な可能性に思いを巡らせながら

法事の合間などに

角度を変えて観察したり

光の具合を変えて

解読を試みた所

「不動明王堂一宇」と

書かれてあることが判明しました。

 

「再興」という字も

書かれてあるように見えます。

 

この棟札は

宝暦13年(1763)の

不動堂再興棟札だと思われます。

 

宝暦13年(1763)の

愛染堂再興棟札と

天照皇大神宮再興棟札の

双方それぞれに

大檀那大膳大夫利雄公

永福五十二世勅許法印宥恕

の名が記されております。

 

利雄(としかつ)公は南部藩34代藩主

宥恕(ゆうじょ)上人は当山先師です。

 

確信に近い推測ですが

不動堂再興棟札についても

お二方について

記されていると思います。

 

棟札の文字の墨は

ほぼ完全に落ちているものの

何となく何かが書かれてあることは

分かる程度の状態だったゆえ

とてももどかしい思いを

抱かせられていた棟札だっただけに

その内容を知ることが出来て

スッキリとしました。

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青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)⑧

当山本堂内の観音堂には

「青森の円空」とも称される

田子町出身の高僧である

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

御作の仏像がお祀りされております。

 

本年2月には

千手観音坐像が確認されました。

 

その他にも

学秀御作と思われる

不動明王像と大黒天像が

お祀りされております。

 

そういったご縁があり

当ブログにおいて

学秀をテーマとした投稿を

重ねております。

 

今回は学秀の書と思われる

扁額について探ってみようと思います。

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当山観音堂縁側には

賽銭箱が置かれ

鰐口や鳴り物が設えられております。

 

その上方に

「観世音(かんぜおん)」と

記された扁額(へんがく)が

掲げられます。

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この扁額は

30年以上前に

塗り直されております。

 

文化財を保護するような

資格をお持ちの方に

修復して頂いたものではないので

扁額の刻字などの細部が

大雑把に塗料が付されており

やや読みにくくなっております。

 

この扁額は誰によって

いつ頃製作されたのか等

詳細は分かりませんでした。

 

当山では

文化8年(1811)以来の

本堂建替という歴史的大事業を

現在推進しております。

 

そのような歴史的な節目にあたり

当山の歴史や伝承等の整理や研究を

改めて進めているのですが

その一環として

扁額についても

調べております。

 

そんな中

観音堂縁側の扁額の

落款(らっかん)を解読したら

とても興味深いことが

浮かび上がってまいりました。

 

この扁額には3つの落款印が

されておりますが

そのうちの1つが以下の写真です。

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この落款を

友人や知人の協力を得ながら

解読してみた所

龜峯(きほう)」

という二文字であることが判明しました。

 

残り二箇所の落款印はそれぞれ

「主忠信」「不爾(二)」

であることも分かりました。

 

さらに

「龜峯」と「不爾」の2つの落款の上にも

刻字がなされており

ここにも「亀峯」の字が見られることが

分かりました。

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拙僧(副住職)は

「龜峯(きほう)」というのは

奇峯学秀のことではないかと

考えております。

 

「奇」ではなく「龜」という文字が

用いられた理由についても

思い当たる所があります。

 

以下の写真は

当山に掲げられる

「圓通閣(えんつうかく)」と

記された扁額です。

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観音菩薩には別称が色々あり

圓通大士(えんつうだいし)とも

呼ばれます。

 

圓通閣とは観音堂を意味します。

 

この扁額の書は

鶴洲(かくしゅう)という方が

75歳の時にしたためたものです。

 

現在は色あせておりますが

とても立派な仕立ての扁額です。

 

字の彫りの部分には

金箔が残っているのが確認できます。

 

この扁額は

享保年間に奉納されたと思われます。

 

先程の扁額において

龜の字が用いられたのは

鶴洲の「鶴」の字を受けての

機知に富んだ決定であり

験を担いでのものなのではないかと

拙僧(副住職)は

考えております。

 

「鶴」と「龜」で

吉祥の意味を色濃くしたものとは

考えられないでしょうか。

 

この享保年間というのは

当山にとっては

中興された時期でもあります。

 

また度重なる凶作や飢饉により

地域全体が大変な状況であった

時代でもあります。

 

学秀は生涯において

三千数百体もの仏像を作仏し

祈りを捧げられた方です。

 

「龜峯」には学秀の祈りが

重ねられていると考えることは

それ程無理のない

仮説であるように思います。

会津をゆく

4/1〜3にかけ

福島県会津若松市を

訪ねました。

 

当山には

会津斗南(となみ)藩士の

墓石が16基が

本堂裏手にございます。

 

当山過去帳には

二十数名の斗南藩の方が

記されております。

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当地近辺には

若松姓が多数おいでですが

この若松家は

会津若松がルーツだそうです。

 

そういった様々なご縁のある

会津若松を訪ね

学びを深めたいと

以前より願っておりました所

ようやく足を運ぶことが出来ました。

 

会津の“豊かな文化”にも触れることが出来

とても良い学びになりましたし

とても良い学びのキッカケにも

なったように感じております。

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