稀代の古刹 七崎観音⑬

当山本堂内の観音堂の

内殿中央に祀られる

聖観音(しょうかんのん)は

七崎観音(ならさきかんのん)と呼ばれ

その起源は平安時代にまで

さかのぼるとされます。

 

当山は古くから

七崎観音の別当をつとめております。

 

七崎観音は明治時代になるまでは

本堂の位置から南方に位置する

現在の七崎神社の地に建立されていた

観音堂にお祀りされておりました。

 

その観音堂は七崎山徳楽寺

という寺号が用いられ

諸堂も整備されておりましたが

明治の神仏分離政策のため

廃寺となり七崎神社として

改められました。

 

七崎観音へ捧げられた祈りの痕跡として

今回は観音堂へ奉納された

吊り灯篭を紹介させて頂きます。

 

現在観音堂には吊り灯籠が

6つ吊るされております。

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そのうち2つの吊り灯篭について

紹介させて頂きます。

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その①【寛文10年(1670)吊り灯篭】

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まず1つ目の吊り灯篭ですが

六面の各面に

以下のように刻字がされております。

 

金燈籠所願成就所

奉懸奥州南部三戸郡之内

七﨑村観音御宝前

願主 槻茂左衛門尉 藤原清継

寛文十庚戊(1670年)月日

 

この吊り灯篭は

平成31年・令和元年(2019)から

349年も前に奉納されたものです。

 

この時期は

永福寺41世・宥鏡(ゆうきょう)上人の

時代にあたります。

 

当山先師である宥鏡上人は

奈良県の長谷寺から

永福寺住職として

お迎えされました。

 

慶安4年(1651)

三代将軍家光公がご逝去された際には

日光東照宮でのご供養のため

召し出されております。

 

さらに宥鏡上人は

盛岡城の時鐘の銘文を

仰せ付けられたり

二戸の天台寺の

桂泉観音堂と末社の棟札も

記されていらっしゃいます。

 

宥鏡上人の晩年である

延宝8年(1680)に

盛岡永福寺は火災にあっており

その後焼けて損じてしまった

仏像や経典などを

東の岡の地中に納め

歓喜天供養塚を建立し

同所を41世以後の住職はじめ

末寺住職や所化などの境内墓地とし

さらには十和田山青龍権現を

勧請して祀られました。

 

宥鏡上人と七崎観音堂の関係でいうと

当山所蔵の明暦2年(1656)の棟札には

宥鏡上人の名が見られます。

 

この棟札は

観音堂と末社十二宮を再興した時のものです。

 

南部第28藩主・重直公が

病気の際に七崎観音に祈願した所

霊験があったとして

再興が成されました。

 

同時期には

三戸の早稲田観音堂も再興されております。

 

早稲田観音堂がある

三戸の沖田面は

三戸永福寺があった場所で

本坊が盛岡に建立された後は

自坊・宝珠山 嶺松院(れいしょういん)

が旧地を引き継ぎました。

 

余談を挟ませて頂くと

先に盛岡永福寺が

延宝8年(1680)に焼尽したことに

触れましたが

この嶺松院についても

火災に見舞われており

万治2年(1659)の

棟札(むなふだ)では

寛永17年(1640)3月に

門前の焚き火が飛び火して焼失して

宥鏡(ゆうきょう)大和尚が再興したと

記されており

また『新撰陸奥国誌』によると

寛文年間(1661〜1673)に

焼失したとされております。

 

宥鏡上人の後に永福寺住職となられたのが

清珊(せいさん)上人です。

 

清珊上人と南部29第藩主・重信公が

なされた連歌が

盛岡の地名の由来といわれます。

 

清珊上人の代になり

七崎永福寺は普賢院に

「改められた」とされます。

 


その②【天保8年(1837)吊り灯篭】

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2つ目の吊り灯篭は

天保8年(1837)正月に

永福寺57世・宥威(ゆうい)上人により

奉納されたものです。

 

こちらの吊り灯篭には

以下のように刻字されております。

 

奉納七﨑山観世音菩薩

諸願成就 皆令満足

永福寺権僧正 宥威 敬白

天保八歳次丁酉(1837年)

春正月摩訶吉祥日

 

宥威上人は

権僧正(ごんそうじょう)という

とても高い僧階(そうかい、僧侶の位)

にあられた住職です。

 

宥威上人は

天保10年(1839)に御遷化(ごせんげ)

されていらっしゃるので

観音堂の吊り灯篭は

亡くなられる2年前に

奉納されたことになります。

 

当山の『先師過去帳』には

先師として盛岡の

当山本坊である永福寺住職も

記されてまいりましたが

永福寺57世・宥威上人が

本坊の住職として記される

最後の住職となります。

 

▼宥威権僧正

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今回は

2つの吊り灯篭を

紹介させて頂きました。

 

お寺に祀られる仏像や

設えられるもののことを

宝物(ほうもつ)といいます。

 

宝物に通わされる

個々の物語は

どれも尊いものです。

七崎山龍神堂

当山所蔵の木札の中に

「分龍守護神」と記された

木札があります。

 

中央には宝珠が彫られ

両脇には海上安全と大漁満足の

願目(がんもく)が記されます。

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この木札の浦には

大正4年(1915)の年号があり

七嵜山龍神堂分と記載されます。

 

当山において

龍神へ捧げられた祈りの

一端を伝えるものといえます。

 

当地はかつて

七崎(ならさき)と呼ばれました。

 

この七崎には

いつくか龍神伝説が伝えられます。

 

十和田湖の青龍大権現という

龍神となった南祖坊(なんそのぼう)

の伝説が有名ですが

その他にも行海伝説と七崎姫伝説が

伝えられております。

 

七崎姫伝説は

八戸市八太郎にある

蓮沼神社と関連があり

当地より蓮沼まで赴く行事が

行われておりました。

※関連記事↓

https://fugenin643.com/blog/稀代の古刹七崎観音六/

 

嘉永年間(1848〜1855)に

三峰館寛兆(さんぽうかんかんちょう)

が描いた『八戸浦之図』には

白銀の清水観音(糠部第6番札所)の

別当は永福寺(現在の普賢院)であると

記されております。

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これらのことからも分かるように

当山は海の地域とも

古くから関わりがあります。

 

また

この清水観音に祀られる

十一面観音は

港町出身の禅僧

津要玄梁(しんようげんりょう)が

晩年に作仏されたものです。

 

当山には

南祖坊の御像である

南祖法師尊像(なんそほっしそんぞう)

が観音堂にお祀りされますが

この御像は津要玄梁の晩年作の

ものではないかと

拙僧(副住職)は考えており

調査を進めております。

※関連記事↓

https://fugenin643.com/blog/8272/

 

余談ですが

津要玄梁の足跡をたどると

「青龍」ととてもご縁のある方です。

 

この点については

別稿にてお伝えさせて頂きます。

 

今回は

龍神の木札について

紹介させて頂きました。

稀代の古刹 七崎観音⑫

当山本堂内の観音堂

内殿中央にお祀りされる

聖観音(しょうかんのん)は

七崎観音と通称され

古くから親しまれております。

 

七崎観音は明治時代になるまでは

現在の七崎神社の地にあった

観音堂にお祀りされておりましたが

神仏分離政策のため

旧観音堂は“廃寺”となり

七崎神社に改められました。

 

“大正の広重”とも称された

鳥瞰図(ちょうかんず)絵師である

吉田初三郎(よしだはつさぶろう)

(明治7年(1884)〜昭和30年(1955))

の「十和田湖鳥瞰図」には

当山も描かれております。

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「十和田湖鳥瞰図」には

永福寺と七崎神社の名称が

記されております。

 

ここに記される永福寺とは

現在の普賢院です。

 

当山は江戸時代初期頃まで

永福寺の寺号が

主に用いられており

永福寺42世住職である

清珊(せいさん)の代に

普賢院になったと伝えられております。

 

永福寺という寺号は

鎌倉時代からのもので

南部氏との関わりがあるものですが

普賢院そのものは

弘仁初期頃(810頃)に

開創されたと伝えられます。

 

当山は十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)が

修行したと伝えられるお寺です。

 

南祖坊は

七崎永福寺(現在の普賢院)の

月法和尚(当山2世)に弟子入りしたと

伝えられております。

 

吉田初三郎氏がこの伝説を

踏まえていたのか否かは

分かりませんが

「永福寺」と七崎の名が付され

明治以後に神社に改められた

「七崎神社」の名称が

鳥瞰図に記載されていることは

十和田湖と当地の関わりの深さを

反映してのことであると

言えるかもしれません。

 

現在の観音堂は

多くの荘厳具が設えられており

現在に歴史を伝えるものが多くあります。

 

以下の写真は

観音堂内陣の扁額です。

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この扁額は

文化13年(1816)4月に

菊池氏により奉納されたものです。

 

扁額の書は

三井親孝によるものです。

 

三井親孝は

江戸中期に活躍した書家である

三井親和(しんな)の子です。

 

この扁額には

「正観世音(しょうかんぜおん)」

の文字が“芸術的”に

記されております。

 

つい先日

他の扁額の落款を解読するために

様々な字典にあたったのですが

その際に文字の奥深さを

感じました。

 

白川静氏によると

「文字」は祭祀儀礼のために

生まれたそうです。

 

口という漢字の字源は

「祝詞を納める箱」だそうです。

 

話を扁額に戻すと

三井親孝の「正観世音」の

「正」の一画目の一の部分が

“原初的な漢字の口”

(「さい」といいます)に

なっており

字自体に祭祀的意味合いを

見て取ることが出来ます。

 

扁額を通じてご縁のある

三井親和・親孝については

文化的に功績のある

方なので今後改めて

その足跡を追わせて頂き

学びを深めさせて頂こうと思います。

 

さて

今回は三井親孝書の扁額を

紹介させて頂きました。

 

観音堂には多くの仏像や

宝物(ほうもつ)がありますので

次回からはそれらについて

紹介させて頂きたいと思います。

一役割を果たすべく

当山には

多くの仏像のみならず

多くの荘厳や奉納品が

設えられております。

 

それらには

沢山の物語があります。

 

本堂建替を

控えていることもあり

本腰を入れて

当山にまつわる歴史や

当山の仏像や荘厳類等の

調査研究を進めておりますが

とても多くのことを

改めて学ばせて頂き

気づかせて頂いております。

 

またそれに伴って

新たな「発見」も続いております。

 

元号が改まり

いよいよ幕を開ける

新時代以降において

諸事お伝え出来るようにすることは

地域における

お寺の重要な役目だと感じます。

 

その役目を果たせるよう

研鑽に励み続けたいと

思っております。

 

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青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)⑦

現在の青森県田子町の

釜渕家出身の高僧

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

は1657年頃に生まれ

元文4年(1739)82歳頃に

入寂したとされます。

 

学秀は千体仏作仏を三度成満し

その他にも数百体の仏像を

彫られたとされます。

 

三度に渡る千体仏作仏は

以下のようになります。

 


 

第1期 地蔵菩薩

(1600年代末〜1700年代初頭)

(学秀 50歳頃)

飢饉物故者供養のため

 

第2期 観音菩薩

(正徳2年(1712)頃〜)

(学秀 60歳頃〜)

九戸戦争戦没者のため

 

第3期 観音菩薩

(享保7年(1722)〜元文4年(1739))

(学秀 70歳頃〜入寂)

生まれである釜渕家一族の供養のため

 


 

本年2月に学秀御作の

千手観音が確認されたご縁で

当山の歴史や

仏道の視点を交えつつ

高僧学秀について

紐解かせて頂いております。

 

学秀御作の千手観音は

当山の千手観音堂に

祀られていたと考えられます。

 

また享保年間の

当山中興開山の時期に

請来された可能性があります。

 

さらに

確認され報告されている所の

学秀仏のラインナップから

曼荼羅の話に飛んだり

長谷寺の話に飛んだり

観音霊場の話に飛んだりと

振り返ってみると

様々に触れてまいりましたが

今回は当山に祀られる

学秀御作の千手観音像を

じっくり観察して

述べられることを

述べさせて頂きます。

 


【正面】

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正面には4手あり

一組は胸の前で合掌をし

もう一組はおへその辺りで

定印(じょういん)という

印を組んでおり

宝鉢(ほうはつ)をのせております。

 

合掌と定印が

正面にて組まれているお姿は

千手観音の一般的なお姿といえます。

 


【頭頂】

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多面(顔が複数あること)であることが

よく分かると思います。

 

本面(メインの顔)の上にあたる

頭部は三段になっており

確認出来る範囲で

一段目が11面

二段目が7面

三段目が3面です。

 

欠けた面もあるかもしれませんし

数え損ねている面も

あるかもしれませんが

本面をあわせて二十二面

となっております。

 

三段目は3面のうち

中央のお顔が大きくなっており

これは化仏(けぶつ)である

阿弥陀如来だと思われます。

 


【側面】

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左右側面には2列に複数の穴があり

これは千手観音の手が差し込まれていた

ほぞ穴だと思われます。

 

こういった細工は

他の学秀仏には見られないので

少し細かく検討しつつ

眺めてみたいと思います。

 

よく見ると

一列の穴の数はそれぞれ9つ

あるように見えます。

 

仮に1列9つの穴があるとして

左右2列ずつなので

合計36個の穴があり

両側面には合わせて

36手があったと考えられます。

 

それに正面の4手を加えると

合計40手の仏像ということになります。

 

とすると

これは手の数に

意味が通わされて作られたという

可能性が出てまいります。

 

補足ですが

千手観音の「千」とは

「はかりしれない慈悲」を

意味します。

 

千手観音の「化身」として

四十観音(しじゅうかんのん)

という“観音群”があり

千手観音の40手に応じた

お姿で描かれます。

 

四十観音は

『千光眼秘密法経』という

経典に説かれます。

 

専門的な話ですが

「五部五法(ごぶごほう)

それぞれに各8手があり

40の真言法になる」と

されております。

 

細かな説明は省きますが

五部五法というのは

①仏部(ぶつぶ)

息災法(そくさいほう)

②金剛部(こんごうぶ)

調伏法(ちょうぶくほう)

③宝部(ほうぶ)

増益法(そうやくほう)

④蓮華部(れんげぶ)

敬愛法(けいあいほう)

⑤羯磨部(かつまぶ)

鉤召法(こうしょうほう)

の「部」と「法」を指します。

 

それぞれに8手があるということは

「4組の手」があることになります。

 

言葉を替えると

五部五法それぞれに

4尊格(仏の意)がそなわっている

ことを意味しております。

 

かなり専門的な話になるので

これ以上の言及はさけますが

これは金剛界曼荼羅

そのものを意味しております。

 

ほぞ穴を多数こしらえて

多手を差し込む形の

学秀の作仏は

現時点では他に見られません。

 

「40手の意味」が

踏まえられての

お姿であるとすれば

当山を中興された

快傅上人がその旨お伝えし

作仏して頂いたのではないか

という推測が出来るように思います。

 


【背面】

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背面には

衣紋線が見られます。

 

これは背面は

学秀仏全般に見られる特徴と

同様なのだそうです。

 

「学秀美」を感じます。

 


 

今回は当山に祀られる

学秀仏・千手観音坐像を

観察いたしました。

 

一般的な千手観音の特徴も

確認出来ましたし

真言宗の事相的側面に

通じている可能性も

確認することが出来ました。

 

ここでいう事相的側面とは

換言すると

「真言宗において専門的なこと」

ということです。

 

この点から

当山を中興開山された快傅上人が

千手観音作仏に携わっていたと

考えることが出来るように思います。

 

【快傅上人の墓石】

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南祖法師尊像の来た道を探る 是川福善寺の虚空蔵菩薩像

江戸時代中期に活躍された

津要玄梁(しんようげんりょう)

という禅僧がいらっしゃいます。

 

当山には十和田湖伝説の

南祖坊(なんそのぼう)の御像である

南祖法師尊像(なんそほっしそんぞう)が

観音堂にお祀りされますが

この御像は津要和尚が

手がけられたものではないかと

拙僧(副住職)は考えております。

 

その可能性に

初めて気がついたのは

白銀の清水観音(糠部第6番札所)

について調べていた時でした。

 

こちらの清水観音堂は

かつて当山が別当をつとめたお堂で

本尊の十一面観音像は

津要(しんよう)和尚が

作仏されたものです。

 

この十一面観音の写真が

滝尻善英氏の著作に

掲載されており

その御尊容に

当山に祀られる南祖法師尊像の

御尊容と類似する点が

多く見られたため

南祖法師尊像は

津要仏(津要が作仏された仏像の意)

ではないかと考えるように至ったのです。

 

それ以来

津要仏について

個人的に調査をしております。

 

【これまでの“仏像調査”の記事】

https://fugenin643.com/blog/ふらりと港町へ仏像調査/

https://fugenin643.com/blog/8044/

 

津要(しんよう)和尚は

延宝8年(1680)に

八戸市港町で生まれます。

 

松館大慈寺

盛岡の青龍山 祇陀寺(ぎだじ)

二戸浄法寺の天台寺で

修行された後に

階上町寺下を拠点にして

布教活動をされたそうです。

 

津要和尚は晩年

右手が不自由になり

彫刻等を左手でなされております。

 

色々と踏まえると

当山に祀られる南祖法師尊像は

津要和尚が右手を不自由にされた後に

彫られた御像である可能性が

高いように思います。

 

天聖寺8世の

則誉守西(そくよしゅさい)上人の

『奥州南部糠部順礼次第』(寛保3年(1743))

では第6番札所である清水観音について

内御堂二正観音安置

と記されており

現在祀られる十一面観音ではなく

正(聖)観音が

祀られていたことが分かります。

 

この正(聖)観音像は

盗まれたそうです。

 

そこで津要和尚が

十一面観音を造立し

観音堂を再興したのだそうです。

 

則誉守西上人の「順礼」が行われた

寛保3年(1743)は

津要和尚が亡くなられる2年前で

まさに晩年にあたります。

 

ですので

十一面観音像は

津要和尚晩年の御像といえます。

 

滝尻善英氏の著作に掲載される

この十一面観音像の写真は

拝見する限り

当山の南祖法師尊像の尊容と

通じているように思います。

 

また

津要和尚の御像について

調べていくと

津要仏に見られる独特の特徴が

南祖法師尊像にも見られますし

さらにそれらが左手で

彫られたものだとすると

かなり説得力を持つような

特徴を指摘することが出来ます。

 

前置きが長くなりましたが

津要仏である

虚空蔵菩薩像が祀られる

是川の福善寺を訪ねました。

 

福善寺は当山と同宗であり

いつも大変お世話になっている

御寺院様です。

 

ご住職にご案内頂き

仏像を拝見させて頂きました。

 

▼津要御作・虚空蔵菩薩(福善寺)

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津要和尚御作の御像のお顔は

鼻や眼

鼻と眉のラインのとり方が

とても特徴的です。

 

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写真では分かりにくいですが

津要和尚独特の彫目(ほりめ)が

全体に見られます。

 

彫刻されている文字ですが

中央には

南無能満諸願虚空蔵菩薩

その右方に階上山

それとは対に青龍寺

と刻まれております。

 

彫目について

これだけでは

分かりにくいと思いますので

すこし前に伺わせて頂いた

港町の十王院にお祀りされる

地蔵菩薩立像の写真を

以下に添付いたします▼

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独特の彫目が

ある程度分かると思います。

 

こういった彫目が

福善寺に祀られる

虚空蔵菩薩像にも見られました。

 

比較対象として紹介させて頂いた

十王院の津要仏・地蔵菩薩立像の

全体像はこちらです

(高さは2メートル近くあります)▼

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当山に祀られる

南祖法師尊像がコチラです▼

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背面に見られる

彫目が分かるでしょうか?

 

津要仏に見られる特徴である

彫目が全身に見られます。

 

彫目がやや大きいのは

左手で彫られたものだと考えると

納得出来るように思います。

 

顔に見られる特徴も

津要仏の特徴を

指摘出来るかと思います。

 

今回は

津要和尚の

仏像に見られる特徴から

南祖法師尊像の来た道の

可能性について検討してみました。

 

他の視点からの検討も

有意義かと思いますので

また改めて投稿させて頂きます。

青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)⑥

青森県田子町の

釜渕家出身である高僧

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

は生没年代の詳細は不明ですが

1657年頃に生まれ

元文4年(1739)82歳頃に

入寂したとされます。

 

学秀は千体仏の作仏を

三度成し遂げられており

それらの時期は以下のように

第1期〜3期という形で

表現されているようです。

 


 

第1期 地蔵菩薩

(1600年代末〜1700年代初頭)

(学秀 50歳頃)

飢饉物故者供養のため

 

第2期 観音菩薩

(正徳2年(1712)頃〜)

(学秀 60歳頃〜)

九戸戦争戦没者のため

 

第3期 観音菩薩

(享保7年(1722)〜元文4年(1739))

(学秀 70歳頃〜入寂)

生まれである釜渕家一族の供養のため

 


 

話があちこち飛ぶかと思いますが

仏道における「三千」という数字や

「千」という数字について

触れてみたいと思います。

 

三世三千仏(さんぜさんぜんぶつ)

という言葉があります。

 

三世という言葉は

掘り下げられて様々な意味があり

さらには三毒(さんどく)といった

仏道の根本的なキーワードと絡め

説かれることが多いのですが

ここでは基本的な意味として

過去・現在・未来のことと

捉えて頂いて結構です。

 

三世三千仏とは

それぞれに千仏が

いらっしゃるという

意味だとお考え下さい。

 

ここでいう千とは

個数の数字ではなく

象徴的意味を帯びた聖数です。

 

この三千仏に祈りを捧げる法要を

仏名会(ぶつみょうえ)といい

日本では光仁天皇代の

宝亀5年(774)12月に

初めて行われております。

 

意図してのことか否かを

知るすべはありませんが

結果として

学秀の後半生におけるお歩みは

三世三千仏への尊い祈りを

作仏を以て遂げられたとも

捉えられるかと思います。

 

学秀は禅僧でもあるので

その観点から考えてみると

禅宗でもよく用いられる

陀羅尼(だらに、梵語のお経のこと)に

大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)

または大悲咒(だいひしゅ)

と通称される“お経”があります。

 

大悲心陀羅尼あるいは大悲咒は

千手観音の陀羅尼でもあります。

 

日本最古の観音霊場である

西国(さいごく)三十三観音霊場

のうち千手観音が本尊である

札所は33所のうち

実に15所(十一面千手1ケ寺も含む)

にのぼります。

 

西国三十三観音霊場の

札所本尊としては

如意輪観音が6ケ寺

十一面観音が6ケ寺

聖観音が3ケ寺

准胝観音が1ケ寺

不空羂索観音が1ケ寺

馬頭観音が1ケ寺です。

 

開創1300年とされる

西国三十三観音霊場において

千手観音を本尊とする札所が

最も多いことからも

古くから信仰されてきた

観音菩薩であることが

分かるかと思います。

 

日本最古の三十三観音霊場である

西国霊場の起源は

当山の本山である長谷寺を

開山された徳道(とくどう)上人が

関わっております。

 

養老2年(718)に

徳道(とくどう)上人が

病床において見られた夢で

閻魔大王より三十三の宝印を授かります。

 

そして衆生救済のために

観音霊場を作るよう

閻魔大王に告げられたため

宝印を納める三十三所を定められ

西国三十三観音霊場が開創された

と伝えられます。

 

しかし

徳道上人の時代には

機運が熟さなかったようで

授かった三十三の宝印を

現在の兵庫県にある

中山寺に納めることになります。

 

中山寺は真言宗中山寺派の本山で

聖徳太子創建とされ

勝鬘夫人(しょうまんぶにん)の

お姿をうつして造ったと伝えられる

十一面観音を本尊とします。

 

中山寺は西国第一番札所です。

 

徳道上人が

中山寺に三十三の宝印を納め

それから約270年経った後に

花山法皇により

西国三十三観音霊場は

復興されたとされます。

 

花山法皇は

播磨(現在の兵庫県)にある

書寫山(しょしゃざん)の

性空(しょうくう)上人とご縁がある方です。

 

書寫山というと

“最古の十和田湖伝説”が収録されている

『三国伝記』(さんごくでんき)では

難蔵(南祖坊(なんそのぼう)のこと)は

書寫山の法華持経者とされます。

 

南祖坊は十和田湖伝説に登場する僧侶で

当山にて修行したと伝えられ

全国練行の末に十和田湖に入定し

青龍大権現という龍神として

十和田湖の主になったと伝えられます。

 

西国三十三観音霊場に続いて

坂東(ばんどう)三十三観音

秩父三十三観音(のち三十四観音)の

霊場が成立しますが

それに続いて成立した地方的札所が

糠部三十三観音だそうです。

 

糠部三十三観音霊場は

永正9年(1512)9月に

観光上人により創始されました。

 

観光上人の札番(札所の番号)は

現行のものとは異なりまして

現在の札番は

八戸市の天聖寺(てんしょうじ)第8世

則誉守西(そくよしゅさい)上人が

寛保3年(1743)に定められたものです。

 

当山の七崎観音は第15番札所で

田子の釜渕観音は第27番札所になります。

 

この27番札所の釜渕観音堂にて

学秀は出身である釜渕家のご供養のため

最後の千体仏を完成させました。

 

西国三十三観音霊場のルーツである

当山の本山である奈良県桜井市の

長谷寺の創建は

朱鳥元(686)年に

修行法師の道明上人が

銅板法華説相図(ほっけせっそうず)

を安置して祀られ開創されます。

 

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この法華説草図には

法華経

見宝塔品(けんほうとうぼん)

の場面が描かれております。

 

平泉の中尊寺金堂は

この見宝塔品に基づいて

建立されたといわれます。

 

補足になりますが

江戸時代初期までは

中尊寺には真言寺院も構えられており

永福寺住職が中尊寺から

迎えられたこともあります。

 

見宝塔品について

以下の引用文を参考に

大意を見てみましょう。

 


 

釈迦牟尼(しゃかむに)が

霊鷲山(りょうじゅせん)で

大比丘尼衆一万二千

菩薩八万のために

法華経を説かれると

会座(えざ)に地中より

高さ五百由旬

縦横二百由旬の七宝塔が

湧出(ゆうしゅつ)し

空中に住在するところあり

時に宝塔中より

多宝仏(たほうぶつ)が大音声を発し

釈尊説くところの法華経を讃嘆し

それが真実なることを証する。

 

やがて釈尊

扉をひらいて

二仏宝塔中に

併座されるといふのが

この経文の大旨である。

 

(安田與重郎、昭和40年

『大和長谷寺』(淡交社)p.11。)

 


 

このような象徴的場面が

法華説相図には

施されております。

 

またこの法華説相図は

金銅千体仏とも

金銅釈迦仏一千体ともいわれ

「千体仏」が施されております。

 

他にも「千」や「三千」に

関連して述べられることは

沢山あるかと思いますが

様々な意味合いや伝統がある

ということが少しでも

伝えることは出来たでしょうか。

 

こういった観点から

学秀千体仏に

アプローチすることは

有意義なことと思われます。

 

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彼岸と南祖坊

春彼岸(はるひがん)を

迎えようとしております。

 

当山は

十和田湖南祖坊(なんそのぼう)伝説

ゆかりの寺院ですが

春と秋の彼岸の時季に

南祖坊が来臨するという

いわれがございます。

 

江戸期になると

当山本坊の盛岡永福寺は

盛岡に建立されますが

盛岡においても

彼岸に南祖坊が来臨するという

慣習は引き継がれていたことが

近世の史料から

読み取ることが出来ます。

 

※関連記事↓

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相⑨/

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相⑩/

 

行事や儀式というものは

そこに通わされている「意味合い」や

「物語」ともいえるような筋書きが

現在において「体現」「再現」される

とても大切なものといえます。

 

当山は古い歴史のみならず

様々な伝承に彩られた古刹なので

それらを後世に伝える意味においても

様々な「意味合い」「物語」に

触れて頂けるよう

つとめることが必要だと

最近は感じております。

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古代の祈りの痕跡とお寺の起源

錫杖(しゃくじょう)状鉄製品

といわれる遺物が

当地の上七崎での

遺跡調査(平成6年(1994)実施)で

発掘されております。

 

八戸市の

遺跡台帳番号03268

上七崎遺跡

『新編八戸市史』によると

平安以前のものとされますが

出土遺物は概ね

10世紀後半のものとしております。

 

錫杖(しゃくじょう)は

現在でも修法や儀式で用いられる

法具(ほうぐ)です。

 

同資料によれば

宗教儀礼等に用いられていたと

考えられる錫杖状鉄製品は

北東北を中心に

発見されていたものの

用途は不明だったようで

上七崎遺跡出土の錫杖状鉄製品が

完存品で発見されたことにより

現在用いられている錫杖のように

用いることで音が発せられることが

初めて明らかになったそうです。

 

9世紀頃〜10世紀には

七崎の地において法具が

用いられ祈りが捧げられていた

ことを伝えているといえるでしょう。

 

また当地の滝谷(たきや)地区の

蛇ケ沢(じゃがさわ)遺跡では

9世紀後半から10世紀初頭の

竪穴式住居跡3棟が見つかっており

そこでカマドにまつわる

宗教儀礼があったものと

想定されているそうです。

 

また同遺跡では

鋤(すき)・鍬(くわ)先が

3枚重なった状態で納められており

「当時貴重品であったと思われる

鉄製品をどのような理由で

納めたのか

この集落を考える上で

注目される事例」だそうです。

 

※遺跡関係の記述は

全て『新編八戸市史 』の

考古学資料編と地誌編を

参考にしております。

 

それぞれの遺跡は

古代の祈りの痕跡を伝えます。

 

当山は

開創は圓鏡上人

(延暦弘仁年間(8C下旬〜9C初頭))

開基(開山)は行海上人

(承安元年(1171))

中興開山は快傅上人

(享保年間(1716〜1736))

とされまして

ルーツは平安初期にさかのぼります。

 

当地の住所にも残る

「永福寺」という寺号は

甲州南部郷より遷座され

三戸沖田面に建立された

新羅堂の供養を

鎌倉の二階堂永福寺の僧侶

宥玄(ゆうげん)が勤めたことに

由来するとされます。

 

鎌倉では

永福寺を「ようふくじ」と

読んでおります。

 

鎌倉時代の歴史書(とされる)

『吾妻鑑』(あずまかがみ)

宝治2年(1248)2月5日条には

文治5年(1189)12月9日

永福寺事始あり

とあります。

 

ついでですが

鎌倉は中世において

密教の一大拠点でした。

 

さらに

鎌倉ついででいえば

鎌倉の長谷寺は

当山本山である

奈良の長谷寺と

深く関わるお寺です。

 

鶴岡八幡宮寺

勝長寿院

二階堂永福寺

の三学山は鎌倉の密教を

考える上で重要な寺院といえます。

 

二階堂永福寺は

平泉の大長寿院を模して

建立されたとされますが

現在は廃寺となっております。

 

諸説ありますが

“鎌倉三学山”の1つである

二階堂永福寺の僧侶である

宥玄が新羅堂供養を勤めた

「供養料」として

沖田面村に一宇お堂が建立され

宥玄をそのお堂の住職として

永福寺と号したそうです。

 

また

三戸沖田面村と五戸七崎村を賜ったと

近世の史料は伝えております。

 

この近世の史料とは

『たけたからくり』(文政6年(1823))

という文書でして

幅広く貴重な情報を今に伝えるものです。

 

同史料では

七崎(ならさき)に古くから

観音堂があったことにも

触れております。

 

また観音堂は

宗旨も不定で寺号もなく

こちらの「住職」ともなった

宥玄が永福寺の

僧侶であったことから

「時の人挙げて」永福寺と

呼ぶようになったとも

記されております。

 

史料の伝える時期を踏まえると

この二階堂永福寺・宥玄の時期は

行海上人開基の少し後となります。

 

この行海上人は

現在の七崎神社の地に

七つ星(北斗七星または七曜)

の形になぞらえて

杉を植えたとされます。

 

現在の七崎神社にそびえる

3本の大杉(樹齢800〜1000年)は

その時のものだといわれ

行海上人の時代の頃と重なります。

 

当地には

時の天皇の怒りに触れ

平安初期に

当地へおいでになられた

藤原諸江(もろえ)卿が

9本の杉を植えたとの伝説もあり

現在の七崎神社の地の

大杉はその時のものという

いわれもあります。

 

当地に見られる

久保杉(くぼすぎ)という名字は

「9本の杉」から来ており

藤原氏の流れをひいていると

伝えられております。

 

郷土史研究などでは永福寺は

「七崎から三戸に移った」と

よく説明されますが

「移った」という表現は

当てはまらないように思いますし

かなり違和感を覚えます。

 

古い時代の有力寺社は

所領を当地以外にも

持つ場合が多く見られるので

そういったことも

踏まえる必要があるかと思います。

 

永福寺は

「永福寺」という寺号が

用いられる以前に遡及して

その縁起が編まれてゆきます。

 

「永福寺縁起」として

総本山長谷寺とゆかりのある

坂上田村麻呂将軍が

十一面観音を本尊として

奥州「田村の里」七崎に

お寺を建立したという

縁起も伝えられております。

 

『長谷寺験記』(はせでらげんき)

(建保7年(1219)頃までに成立)

という鎌倉期の霊験記の

田村将軍が奥州一国に

十一面観音を本尊として

6ケ所にお寺を建立した話が

同書上巻第5話に収録されており

これが田村将軍創建伝説の

根拠となっているかもしれません。

 

今回とりあげた

『たけたからくり』は

文政6年(1823)に書かれた

近世の史料なので

当時の盛岡における

永福寺縁起がどのように

語られていたのかが

垣間見られるものですし

七崎の地が観音様と

強く結び付けられて

意識されていたであろうことが

よく伝わってまいります。

 

当山開基の行海上人は廻国僧で

当地の大蛇を改心させたことで

地域の住民から

当地に留まるよう

懇願されたため

草庵が結ばれ

普賢院が開基されたと

伝えられます。

 

十和田湖伝説の

南祖坊(なんそのぼう)は

行海上人の弟子であるとも

伝えられております。

 

当山開基の時代を

さらにさかのぼり

弘仁初期頃(810頃)

圓鏡上人により

当山は開創されたとされます。

 

「弘仁初期頃」となっているのは

拙僧(副住職)の見解では

『先師過去帳』に

当山開創 圓鏡上人が

弘仁7年(817)5月15日に御遷化

されていることに

由来していると思います。

 

弘仁年間は810〜824年なので

『先師過去帳』に記される

開創上人の没年を踏まえて

「弘仁初期頃」としているのだと

考えられます。

 

開創や開基の時代には

当地において

「祈り」が捧げられていた

可能性が高いことを伝える

上七崎遺跡と蛇ケ沢遺跡。

 

他の遺跡でいえば

夏間木地区の遺跡は

浅水川流域の数少ない

奈良時代の集落であることが

確認されておりますし

喉平(のどひら)遺跡には

縄文時代後期の小規模集落が

あったと見られており

当地にはその時代には

集落があったことが伺えますし

祭祀に用いられたと見られる

土偶も出土しております。

 

当山草創期に思いをはせるにあたり

当地の各遺跡が伝えることに

耳をしっかりと傾けたいと思います。

 

【関連記事】

▼南祖坊伝説の諸相⑤

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相⑤%E3%80%80長谷寺と南祖坊%E3%80%80その参/

 

▼錫杖状鉄製品

(『新編八戸市史 地誌編』p.576。)

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青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)⑤

青森県田子町の

釜渕家出身である高僧

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

は出生年の詳細は不明ですが

1657年頃に生まれ

元文4年(1739)82歳頃に

入寂したとされます。

 

名久井の名刹・法光寺に入門し

その後の足取りは不明ですが

宝永4年(1707)には

九戸の長興寺7世として

奉職していたことが

分かっております。

 

1657年に生まれたと仮定すると

宝永4年(1707)には

学秀は御年50歳ということになります。

 

法光寺入門後

50歳に至るまで

どのように過ごされたかについて

郷土史研究をされている方の

一説では永平寺に

行っていたのではないかと

いわれてきたようです。

 

たまたま見ていた

『新編八戸市史』(近世資料編Ⅲ)

所収の翻刻資料

「松館大慈寺歴代住職の書上」

(原本は天明8年(1788)の史料)

では学秀について

前総持

当寺六世奇峯学秀大和尚

元文四己未二月七日

と記されておりました。

 

「前総持」の部分は

住職になる以前に

(曹洞宗)本山である

横浜市鶴見の

総持寺(そうじじ)に

登嶺していたことを示すものです。

 

もう一方の本山である永平寺に

登嶺していたのであれば

「前永平」と記されます。

 

ということなので

学秀は総持寺へ

行っていたことになります。

 

総持寺に行っていたことは

間違いないようですが

当時の僧侶の修行や研鑽の動向や

学秀が彫られた仏像の

ラインナップを踏まえつつ

想像力を膨らませて

学秀の“足跡”を思い描いてみると

方々の学山で学ばれたり

霊場霊跡に赴かれたりしたと

考えても良いと思われます。

 

当時の僧侶の動向を探る一例として

当山の本山である

奈良県桜井市の長谷寺を

とりあげてみると長谷寺は

学山 豊山(がくさん ぶざん)といわれ

今で言う所の「宗派」の垣根を超えて

非常に多くの僧侶が学ばれた

“大学”のような御山でした。

 

そういった学山を

各所訪ねて研鑽を積むことが

明治時代になるまでは

“違和感のないこと”だったのです。

 

参考までにですが

学秀と同時代を生き

作仏も多くされた

港町の若松屋出身の僧侶である

津要玄梁(しんようげんりょう)は

松館大慈寺

盛岡の青龍山 祇陀寺(ぎだじ)

二戸浄法寺の天台寺で

修行された後に

階上町寺下を拠点にして

布教活動をされていらっしゃいます。

 

寺下の五重塔跡近くの

津要和尚墓誌には

延享ニ年(1745)乙丑

前永平(永平寺に登嶺していたの意)

祇陀先住(祇陀寺の僧侶であったの意)

石橋玄梁大和尚禅師

大閏十二月二十五日

と記されております。

 

学秀仏のラインナップを見てみると

聖観音(しょうかんのん)

十一面観音(じゅういちめんかんのん)

千手観音(せんじゅかんのん)

地蔵菩薩(じぞうぼさつ)

弥勒菩薩(みろくぼさつ)

勢至菩薩(せいしぼさつ)

五智如来(ごちにょらい)

大日如来(だいにちにょらい)

薬師如来(やくしにょらい)

阿弥陀如来(あみだにょらい)

釈迦如来(しゃかにょらい)

不動明王(ふどうみょうおう)

韋駄天(いだてん)

牛頭天王(ごずてんのう)

閻魔大王(えんまだいおう)

大黒天(だいこくてん)

恵比寿天(えびすてん)

十王(じゅうおう)

達磨大師(だるまだいし)

と実に幅広い尊格の

仏像と御像が

作仏されております。

 

尊格それぞれは

本質的には通じておりますが

各尊の司るみ教えやお諭しに

個性もあります。

 

尊格は主に

如来(にょらい)

明王(みょうおう)

菩薩(ぼさつ)

天(てん)

に分けられます。

 

これらは個別に

独立しているのでは

ありません。

 

例えば

弘法大師空海が請来した

曼荼羅を現図曼荼羅

といますが

曼荼羅中央に描かれる

大日如来という尊格について

見てみましょう。

 

現図曼荼羅は

金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)

胎蔵曼荼羅(たいぞうまんだら)

の一対になっており

金剛界は智慧

胎蔵界は慈悲

であるとも言われます。

 

学秀最古の仏像として

葛巻の宝積寺のために彫った

五智如来(ごちにょらい)

と称されている仏像が

八戸市の上野に

お祀りされております。

 

現在は1体ですが

もともとは5体であったと

考えられているそうです。

 

この五智如来とは

一般的に金剛界五仏といわれる

金剛界曼荼羅中央の

五尊を指します。

 

阿閦如来(あしゅくにょらい)

宝生如来(ほうしょうにょらい)

阿弥陀如来(あみだにょらい)

不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)

大日如来(だいにちにょらい)

の五仏を五智如来といいます。

 

五智(ごち)とは

五つの智慧のことで

先の金剛界五仏それぞれは

大円鏡智(だいえんきょうち)

平等性智(びょうどうしょうち)

妙観察智(みょうかんざっち)

成所作智(じょうそさち)

法界体性智(ほうかいたいしょうち)

の尊格です。

 

正確には五智のうち

前4つを四智(しち)

その総体を法界体性智といい

四智と法界体性智を合わせて

五智(ごち)といいます。

 

現在各流派の御詠歌(ごえいか)で

用いられている鈴(れい)の仕様は

もともとは

金剛流(こんごうりゅう)という

高野山の流派のものでして

この鈴(れい)の頭

(鈴頂(れいちょう))を

五智如来といいます。

 

▼御詠歌の鈴(れい)

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▼五智如来(ごちにょらい)

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鈴頂の五智如来は

蓮台(れんだい)の上に

五鈷(ごこ)という

五つの爪が載せられた形

となっており

これは先の金剛界五仏の

象徴でもあります。

 

蓮台の前に取り付けられている

梵字はバンという字で

(金剛界)大日如来を

表す種字(しゅじ)です。

 

金剛界五仏は

全ての尊格“各グループ”である

五部(ごぶ)を“代表”しており

金剛部(こんごうぶ)

宝生部(ほうしょうぶ)

蓮華部(れんげぶ)

羯磨部(かつまぶ)

仏部(ぶつぶ)

と各部のことをいいます。

 

これら五部の総体

(つまり全ての尊格の代表)

とされるのが大日如来です。

 

その大日如来の

教化(きょうけ)のお姿の1つが

不動明王とされます。

 

専門用語では

教令輪身(きょうりょうりんじん)

といいます。

 

要するに“本質的に”

大日如来と不動明王は

“同体”なのです。

 

以上のような諸尊の関係も

含めて「曼荼羅思想」と

ここでは言わせて頂くと

かつて曼荼羅思想は

僧侶や修験者

あるいは一般的に

現在より膾炙(かいしゃ)された

ものだったようです。

 

曼荼羅の考え方は

各尊格や仏像を捉える上で

必要不可欠な視点です。

 

学秀仏のラインナップを

ざっと見渡しても

「曼荼羅思想」に

大いに通じていると

いうことが出来るかと思います。

 

学秀は千体仏の作仏を

三度成し遂げた方です。

 

三度の作仏は大きく分けて

第1期〜3期という形で

表現されているそうです。


 

第1期 地蔵菩薩

(1600年代末〜1700年代初頭)

(学秀 50歳頃)

 

第2期 観音菩薩

(正徳2年(1712)頃〜)

(学秀 60歳頃〜)

 

第3期 観音菩薩

(享保7年(1722)〜元文4年(1739))

(学秀 70歳頃〜入寂)

 


第1期の千体仏は

飢饉で亡くなられた多くの方の

ご供養のために。

 

第2期の千体は

九戸の乱の戦没者供養のために。

 

第3期の千体は

隠居後に故郷である田子において

出身である釜渕家一族の供養のために。

 

単純計算してみると

観音菩薩を二千体以上

次いで地蔵菩薩を千体以上

作仏していることになります。

 

これらの仏像含め

学秀は三千数百体は作仏しただろうと

いわれているようです。

 

仏道において

「三千」という数は

伝統的な意味のあるもので

このことと関連付けて

学秀の三千仏を考察してみることは

有意義なことかと思います。

 

次回はこの点について

触れてみたいと思います。

 

▼五智如来が祀られるお堂(八戸市上野)

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▼金剛界曼荼羅

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▼胎蔵曼荼羅

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