曽祖父の日記

拙僧(副住職)の祖父である

長峻(ちょうしゅん)は

当山住職であるのみならず

現在の南部町にございます

牡丹のお寺である長谷寺(恵光院)と

山形湯殿山の大日坊の住職も兼ねた僧侶です。

 

ちなみに拙僧(副住職)の法名である

泰峻の峻の字は

長峻大和尚の一文字を頂いております。

 

長峻大和尚は日記を毎日記していたようで

たまたま大正14年の手帳が

出てまいりました。

 

大正14年は先日逝去した

拙僧(副住職)祖母の品田豐(とよ)が

生まれた年でもあります。

 

祖母は8月18日生まれなので

その日のページを見てみると

祖母のことが記されおりました。

 

正午過即ち十二時半

常子無事女児分娩ス

常子痛む事二十五分也

尤も易産乎安也

是偏に大悲尊之力也

 

長峻大和尚の日記には

毎日欠かさずにお勤めをし

様々な書籍を読み

常に研究をしていた様子が

うかがわれます。

 

祖母が安産であった様子を

綴った文面からも

その人となりが何となく

伝わってくるように感じます。

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美しき霊山 十和田

研究調査で十和田湖へ赴きました。

 

先日、当山を訪ねて下さった

十和田湖自然ガイドクラブの方々に

十和田湖のガイドをお願いした所

快くお引き受け頂き

ご丁寧に各所をご案内頂きました。

 

おかげさまで

とても有意義な

時間となりました。

 

十和田湖自然ガイドクラブの皆様

大変お世話になりました。

 

また色々とお世話になりますので

よろしくお願いいたします。

 

赴いた当日は雨天であったため

とても静寂な雰囲気に

自身を置くことが出来ました。

 

当山は十和田湖伝説の

南祖坊(なんそのぼう)が

修行したとされるお寺です。

 

昨年夏に当山観音堂に

行者の出で立ちをした

南祖坊の御像が“発見”されました。

 

十和田湖伝説は

様々な方により語り継がれておりますが

僧侶の専門的視点から分析が

なされたことはないようです。

 

南祖坊は行者であり

修験者として描かれます。

 

当山には『十和田山神教記』という

十和田湖伝説を描いた書物がありますが

仏教的要素・修験的要素が随所に見られます。

 

真言宗では

教相(きょうそう)と事相(じそう)

2つの側面を深めることを

修行とします。

 

教相とは「学問的な側面」で

経典や論書など文献学的な

アプローチでみ教えを学びます。

 

事相とは「実践的な側面」で

数多くの所作や作法などを通じ

言葉を超えて託される心を学びます。

 

それらは

車の両輪に喩えられるもので

どちらも備わってこそのものです。

 

それらの見方をもって

伝説を見つめると

より一層味わい深い物語となり

より多くの方の心に響くものに

なるように思います。

 

当山では南祖坊の伝説について

改めて研究をしております。

 

十和田湖の南祖坊伝説は

当山に伝わる幾つかの伝承や伝説の中でも

とても大切なものなので

後世にしっかりと伝えられるよう

しっかりと研鑽を重ねてまいります。

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後世に託すべく

今月初頭に当山有縁の方の

50回忌と先祖供養の

ご法事をご一緒させて頂きました。

 

その方は

斗南藩(となみはん)の

末裔にあたります。

 

ご法事がてら

斗南藩のお墓について

少しばかり拙僧(副住職)の

考えを伝えさせて頂きました。

 

当山境内には

斗南藩の方のお墓が16基ございます。

 

時代の経過とともに

徐々に劣化が見られております。

 

また、現在当山では

6年計画で本堂建替という

歴史的大事業を進めております。

 

この大きな機会に当たり

当山の歴史や伝承などの

見直しや整理も行い

後世に伝える用意をしております。

 

斗南藩の歴史も

きちんとした形で

整えさせて頂き

後世にしっかりと伝えたいと

切に考えております。

 

境内の斗南藩墓地については

供養塔を建立し

現存の墓石を周囲に

配置するような形で

整備したいと思索中です。

 

本堂建替事業の中で取り掛かるか

別事業として進めるのかは

まだ未定ですが

激動の時代を確かに歩まれた

斗南藩の方々の歴史を

当山の出来る形で

しっかりと伝えられればと思います。

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▼本堂建替事業について

https://fugenin643.com/blog/新たな歴史を紡ぐ/

 

辰子姫のお話〜秋田 田沢湖伝説〜

当山は十和田湖伝説と

ゆかりのあるお寺です。

 

十和田湖伝説では

南祖坊(なんそのぼう)が

湖の主であった八郎太郎との

戦いに”勝利”して

青龍大権現(せいりゅうだいごんげん)

として十和田湖の主となります。

 

十和田湖、八郎潟、田沢湖に

まつわる伝説を三湖伝説

といいます。

 

先日、秋田県仙北の

田沢湖を訪ねました。

 

田沢湖は日本一深い湖です。

 

田沢湖の主とされる

辰子姫(たつこひめ)は

八郎太郎の恋人とされます。

 

伝説では辰子姫も龍となり

田沢湖を司るとされます。

 

三湖伝説は龍神の

物語ではありますが

人の心の本質をついた

仏教説話の如くの側面がある

奥深い物語です。

 

▼辰子姫伝説

http://www.city.semboku.akita.jp/sightseeing/spot/tatsukodensetsu.html

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古い祈りの形を伝える金峯山寺

奈良県吉野の名刹

金峯山寺(きんぷせんじ)。

 

こちらのお寺は

修験本宗(しゅげんほんしゅう)

総本山です。

 

京都に赴いた際

立ち寄らせて頂きました。

 

修験道(しゅげんどう)や

山伏(やまぶし)という言葉を

多くの方が聞いたことが

あるかと思います。

 

細かなことはさておき

東北の信仰を考える上で

修験道は非常に大切な要素です。

 

金峯山寺は

古くからの

祈りと実践の形を

今に伝える古刹です。

 

吉野は熊野に通じる山で

古くから霊験あらたかな

聖地とされます。

 

金峯山寺の本尊は

金剛蔵王大権現

(こんごうざおうだいごんげん)

という尊格で

高さ10メートル近くの仏像が

3体並んでお祀りされます。

 

蔵王権現は

全国各地で祀られる程

“知名度”の高い尊格です。

 

その形相は

明王の如くの忿怒形で

迫力満点です。

 

権現(ごんげん)とは

「仮のお姿」という意味で

「まことのお姿」のことを

本地(ほんじ)といいます。

 

本堂に祀られる3体は

仏が仮の姿を以て

力強いメッセージを

担っております。

 

中央の本地が釈迦如来

右側の本地が千手観音

左側の本地が弥勒菩薩。

 

またそれぞれに

過去、現在、未来の

三世(さんぜ)の

意味もあるそうです。

 

これらの考え方は

東北の信仰を紐解く上で

とても大切なものです。

 

当山は

湯殿山(ゆどのさん)と

ゆかりあるお寺でもあります。

 

また

当山にて修行したとされる

十和田湖伝説の

南祖坊(なんそのぼう)は

修験者として描かれます。

 

金峯山寺を始め

今に伝えられる所の

修験道の”伝統”は

古の姿を浮かび上がらせる上で

大きな手がかりとなります。

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▼金峯山寺HP

http://www.kinpusen.or.jp/zao/index.html

 

真言宗の本山

当山は

真言宗豊山派のお寺です。

 

真言宗には本山が

18もございます。

 

これは他宗に類なきことです。

 

歴史が長いという

理由だけに止まらず

作法などの“流儀”を

重んじる真言宗の特徴も

理由として挙げられる

かと思います。

 

専門的な言葉を使うと

「法流(ほうりゅう)」

という一切の作法などの

流れを真言宗では

重んじます。

 

おなじ流れでも

事細かに支流があり

「○○流□□方(がた)」

といった具合に

流儀が伝えられます。

 

流儀が異なれば

作法も若干異なっており

お経の節回しも異なります。

 

そこに

深い意味が託されておりは

真言宗の僧侶生涯かけて

多くの流儀に触れて

その真意を体得することを

修行の1つとしております。

 

当山の本山は

奈良県の長谷寺です。

 

その他に真言宗の本山として

善通寺(ぜんつうじ)

須磨寺(すまでら)

清澄寺(せいちょうじ)

中山寺(なかやまでら)

大覚寺(だいかくじ)

仁和寺(にんなじ)

智積院(ちしゃくいん)

泉涌寺(せんにゅうじ)

東寺(とうじ)

勧修寺(かじゅうじ)

随心院(ずいしんいん)

醍醐寺(だいごじ)

宝山寺(ほうざんじ)

朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)

西大寺(さいだいじ)

根来寺(ねごろじ)

金剛峰寺(こんごうぶじ)

が挙げられます。

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南祖坊伝説の色々

当山は

十和田湖伝説と関わるお寺です。

 

南祖坊(なんそのぼう)という

1人の僧侶が湖の主であった

八郎太郎に変わり

青龍大権現

(せいりゅうだいごんげん)

という神として

新たな主となる。

 

それが十和田湖伝説の

大まかなストーリーです。

 

当山は

南祖坊(なんそのぼう)が

幼少期から青年期にかけて

修行したお寺だと伝えられます。

 

この伝説には典拠となる

書物が幾つか存在します。

 

当山には

『十和田山神教記』

写本が伝えられております。

 

十和田湖伝説は

写本によって内容が

異なります。

 

主役である南祖坊の名前も

書物によって

異なっております。

 

八戸近辺で

十和田湖伝説について

よく参考にされる

書物として

『十和田由来記』

『十和田記』

『十和田山神教記』

の3つが挙げられます。

 

この3つが伝える

伝説の違いは沢山ありますが

分かりやすい例として

南祖坊の名前について

ご紹介します。

 

南祖坊には幼名と僧名があり

『十和田由来記』では

【幼名】熊之進【僧名】南宗坊

『十和田記』では

【幼名】善正【僧名】南祖坊

『十和田山神教記』では

【幼名】南祖丸【僧名】南祖法師

というように

それぞれの書物により

記載が全く異なっております。

 

当山には南祖坊の御像が

観音堂に安置されますが

『十和田山神教記』と同じく

「南祖法師(なんそほっし)」

の御名でお祀りしております。

 

▼十和田湖南祖坊伝説について

https://fugenin643.com/category/ふげんいん探訪/十和田湖南祖坊について/

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かんのんまいり〜悟真寺〜

糠部三十三観音霊場

第25番札所

悟真寺(ごしんじ)

 

三戸町同心町のお寺です。

 

門を入り右手側に

札所の観音様が祀られる

観音堂がございます。

 

こちらのお寺には

会津藩士戊辰殉難者招魂碑が

建立されております。

 

三戸の旧会津藩士の方々が

会津有縁者の慰霊のために

建立したものです。

 

会津藩は再興を許され

北の地に斗南藩を立藩しました。

 

始めは五戸に藩庁が置かれ

後に下北の円通寺に

藩庁が移されます。

 

斗南藩の方々は

見知らぬ北の地に移られ

大変なご苦労を強いられたと

伝えられております。

 

 

悟真寺観音をお参りの際は

招魂碑にもお手を合わせて頂き

激動の時代におもいを

馳せられてみてはいかがでしょうか。

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永福寺ゆかりの札所 早稲田観音②

糠部三十三観音霊場

第23番札所

早稲田観音

 

こちらはかつて

当山前身である永福寺の

堂宇が建立された地です。

 

現在は永福寺の

後身であるお寺は

三戸にはありませんが

嶺松院(れいしょういん)という

永福寺自坊が明治時代までは

存在しておりました。

 

永福寺の起源は

不明な所が多いのですが

永福寺の寺伝によれば

延暦13年(794年)に

坂上田村麿公により

奥州六観音の1つとして

現在の当山の地に

十一面観音を祀る

祈願寺として建立された

とされます。

 

寺伝によれば

永福寺は別院として

別所にも堂宇を

構えたとされます。

 

永福寺と深く関わったことを

今に伝えるものとして

早稲田観音のお堂裏手に

広がる墓地内に

永福寺僧侶の

五輪塔や供養塔がございます。

 

永福寺の先師方に

限ったことではありませんが

かつては供養塔として

墓石を縁故ある各地に

建立するということは

珍しいことではありません。

 

もちろん世間一般的な

ことではありませんが

僧侶でいえば

縁故あるお寺数カ所に

墓石や位牌が祀られることは

よく見られることです。

 

早稲田の地に

永福寺僧侶にまつわるものが

残されていることが

三戸の地が永福寺と

とても縁が深い場所である

ことを物語っております。

 

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永福寺ゆかりの札所 早稲田観音①

糠部三十三観音霊場

第23番札所

早稲田観音

 

三戸郡南部町の

新羅神社のすぐそばに

札所の観音堂があります。

 

こちらの本尊は

十一面観音という観音様です。

 

 

早稲田観音の地は

かつて永福寺の堂宇(どうう)

があった場所でもあります。

 

当山の前身である永福寺は

三戸にも堂宇を構えたと

寺伝は伝えております。

 

永福寺が祈願所として

殊に大切にされたのは

宮中祭祀とも深く関りのあった

真言宗の「法流」を受け継ぐ

お寺であったことが

大きな理由であろうと

考えられます。

 

後七日御修法

という行事をご存知でしょうか?

 

今もなお東寺にて

年頭に行われる国家安泰を

ご祈願する尊い行事ですが

弘法大師の御代より

真言宗が担っているものです。

 

永福寺が

南部家累代の祈願所

とされたのは

由緒ある法流を受け継いでいた

ことが大きな理由であったのだと

思われます。

 

南部実光公が

建久2年(1191年)に

三戸城の鬼門の位置である

早稲田の地に永福寺を

建立したと伝えられますが

鬼門の地に

七崎の地で古い歴史のある

永福寺を早稲田の地にも

わざわざ建立したことから

いかに大切なお寺であったかが

伝わるかと思います。

 

早稲田観音と

永福寺のかかわりについて

次回またお話させて頂きます。

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