境内に
当山の主な尊格の幟(のぼり)が
設えられました。
南祖法師(なんそほっし)の幟も
掲げられております。
幟や旗そのものは
仏道のみおしえの象徴でもあり
仏道の歩みへの導きを意味します。
幟には
南無愛染明王
南無不動明王
南無観世音菩薩
南無地蔵菩薩
南無大師遍照金剛
南無稲荷大明神
南無南祖法師大薩埵
という文言が記されております。
これらの文言は各尊格の
宝号(ほうごう)、称名(しょうみょう)
であるとともに
仏道のこころが託された
“短いお経”です。
お経のしたためられた
幟の1つ1つは
万人の平安への願い
そのものでもあります。
お参りされる方の
目にも鮮やかな
新たな彩りが添えられ
境内が華やぎました。
時々の風に揺れ
たなびく幟に
仏道のこころを
“躍動的に”
感じて頂ければと思います。



当山本堂裏手に
お祀りされる
稲荷大明神(いなりだいみょうじん)は
嘉永2年(1849)に
建立されたものです。
稲荷大明神は
「おいなりさま」として
一般に親しまれてきた
“神様”です。
仏道において“神様”を
神祇(じんぎ)といいます。
明治時代以前は
仏と神は連なるもとして
お祀りされておりました。
石碑側面に
嘉永二酉年
五月十九日
と刻まれております。
平成29年より
さかのぼること
168年前に建立されたものです。
おいなりさまには
種々の功徳があると
伝えられます。
当山にお参りの際は
おいなりさまにも
お立ち寄り頂き
願い事をお捧げ下さいませ。



普賢院の草創は
平安初頭とされます。
初代住職である
圓鏡(えんきょう)大和尚は
817年に亡くなられております。
第2世住職である
月法(がっぽう)大和尚は
十和田湖伝説の南祖坊(なんそのぼう)の
師僧であるとされます。
以後月日が積み上げられ
1200年以上もの
歴史が紡がれて参りました。
その歴史の最前線が
今現在です。
永きにわたり
お寺を守り
今に伝えて下さった
沢山の方の
ご縁があってこその
今現在です。
今を大切にすることは
過去に報いることであり
未来につながることです。
今日の1日を大切に
時の流れの最前線を
本日も過ごしたいと思います。

斗南藩(となみはん)の
子孫にあたる方が
お参りにいらっしゃいました。
当山には
斗南藩の方々の墓石や
お位牌がお祀りされます。
そういったご縁で
年間に何名かの有縁の方が
お参りにいらっしゃいます。
斗南藩の方々は
日本が大きく舵を切った
激動の時代に生きた方々です。
激動の時代の下
苦難と向き合い
力強く生き抜かれた方々の
歴史を改めて感じさせて頂きました。

最近
境内の木に
鷲(わし)と思われる鳥が
よく見られます。
立派な容姿ゆえ
何となく
良いことがあるような
心持ちになります。
ガルーダという
神話の鳥を
ご存知の方も多いと思います。
ガルーダの
描かれ方は様々ですが
鷲の姿で描かれることが
多いのだそうです。
ガルーダは
“神の鳥”として
縁起の良いものとされます。
来年は
酉年(とりどし)です。
酉年の守り本尊(ほんぞん)は
不動明王(ふどうみょうおう)という
仏様です。
不動明王は
「お不動さま」として
広く親しまれてきた仏様です。
不動明王は
迦楼羅炎(かるらえん)という
炎を背負って描かれます。
迦楼羅炎の
迦楼羅(かるら)とは
ガルーダのことです。
迦楼羅炎は
“火の鳥”として
描かれます。
お不動さまが
酉年の守り本尊であるのは
意味があることです。
干支(えと)の
十二支それぞれに
守り本尊があります。
当山観音堂に
十二支それぞれの守り本尊である
十二支守護尊(じゅうにししゅごそん)が
お祀りされております。
十二支守護尊は
八体仏(はったいぶつ)ともいい
8体の仏様からなります。
12体ではなく
なぜ8体なのか。
日本ではかつて
四方四隅(しほうしぐう)の
八方角も十二支で
表しておりました。
四方(しほう)とは
東西南北を指し
四隅(しぐう)とは
北東・南東・南西・北西を指します。
それらを干支で
北は子(ね)、北東は丑寅(うしとら)と
いった具合に表現していたのです。
四方は
各干支に1体ずつの
仏様が割り当てられ
四隅は
2つの干支ごとに1体ずつの
仏様が割り当てられます。
8つの方角を
十二支で表現していたので
守り本尊も8体となります。
お運びの際は
お参り頂き
ご縁をお結び下さい。

南祖法師(なんそほっし)尊像の
須弥壇(しゅみだん)を
ご奉納頂きました。
須弥壇(しゅみだん)とは
仏像などを安置する際に
お足下に設えられる
壇のことです。
(有)五戸木工の
中野久男(なかの ひさお)様に
とても素晴らしいものを
作っていただきました。
おかげさまをもちまして
南祖法師尊像が
より厳かに
お祀りされました。
中野久男様
誠にありがとうございました。
南祖法師(なんそほっし)とは
十和田湖伝説に登場する
南祖坊(なんそのぼう)のことです。
法師とは
仏道にたけた方への尊称です。
南祖法師尊像への
“祈りの空間”が
徐々に整えられて
参りました。
南祖坊の伝説や
お寺の歴史は
後世に伝えるべき
地域の財産です。
本年8月に“発見”されるまで
長らくの間
南祖法師尊像は
お地蔵様であるとされ
お祀りされておりました。
平成28年8月に
しばらくの時を経て
“再び”お祀りされた
南祖法師尊像は
今の世に
そして後の世に
歴史と伝説を伝える
尊い御像です。
お寺にお運びの際は
是非お参り頂き
ご縁をお結び頂ければ
と思います。


それぞれの宗派に
それぞれの宗派の
礎を築かれた
尊い方がいらっしゃいます。
平安時代後期の方で
覚鑁(かくばん)という
僧侶がいらっしゃいます。
興教大師(こうぎょうだいし)
という諡号(しごう)が
天皇より贈られた方です。
当山は
真言宗豊山派(ぶざんは)のお寺です。
真言宗豊山派では
興教大師覚鑁上人を
中興(ちゅうこう)の祖と仰ぎます。
当山では
興教大師覚鑁上人の御像が
本尊内陣に向かって左側に
お祀りされております。
弘法大師と
興教大師の
お二方を
両祖大師(りょうそだいし)として
真言宗豊山派では
殊に大切にいたします。
その御心は
時を超えて
今の時代にも
受け継がれております。
12月12日は
興教大師の祥月命日(しょうつきめいにち)に
あたります。
この日に
陀羅尼会(だらにえ)という法要が
営まれます。
陀羅尼会では
佛頂尊勝陀羅尼(ぶっちょうそんしょうだらに)
というお経がお唱えされます。


現在の十和田神社の草創には
2つのいわれがあります。
1つは坂上田村麿公による
創建であるという説。
もう1つは南祖坊(なんそのぼう)が
創建したという説です。
南祖坊は
十和田湖伝説に登場する僧侶で
当山にて修行されたと伝えらます。
十和田神社の境内は
実に緑豊かです。
十和田湖観光での
スポットの1つでもあるので
歩道が整えられているものの
かつて多くの修験者(しゅげんしゃ)が
修行に励まれていた場所である
ということを納得させられます。
本年夏に
当山にて南祖坊の御像が
南祖法師(なんそほっし)尊像として
改めて祀られたことにちなみ
十和田神社を訪れました。
十和田神社では
要所要所で
南祖坊の伝説に
触れることが出来ます。
十和田神社の本殿脇には
熊野権現社が鎮座しております。
熊野権現が南祖坊に
「鉄のわらじ」を授けた
という伝説の一幕にちなみ
熊野権現社には
わらじが奉納されております。
十和田神社の本殿から
登山道をしばらく進むと
南祖坊の石像が祀られる南祖堂に
たどり着きます。
すぐそばには
青龍大権現堂(せいりゅうだいごんげんどう)も
建てられております。
青龍大権現とは
“十和田湖の主神”としての
南祖坊です。
今では立入り禁止ですが
その場所から
ハシゴを下ると
占場(うらないば)
という場所があります。
この場所が
南祖坊の入定(にゅうじょう)の地
であると伝えられます。
伝説によると
南祖坊は
この場所に身を沈め
青龍大権現として
十和田湖の主となったとされます。
十和田湖伝説は
今に伝えられる
壮大な物語です。
仏教説話としても
捉えられる物語でもあります。
語り継がれる尊い物語を
当山でも
後世に伝えていければと思います。












南祖法師(なんそほっし)とは
南祖坊(なんそのぼう)のことです。
法師とは
仏道に長けた方への尊称です。
南祖坊(なんそのぼう)は
十和田湖伝説に登場する僧侶で
当山にて修行したとされます。
その南祖坊の御尊像が
当山にてお祀りされていた
ということが
本年8月初旬に“発見”されました。
これまで数十年間
お地蔵様と“勘違い”され
観音堂脇の八体仏(はったいぶつ)と
共に安置されておりました。
副住職が仏像の
御身拭い(おみぬぐい)がてら
尊容(そんよう)を観察した際
お地蔵様ではないことが判明したのです。
頭に頭襟(ときん)を戴くなど
修験者(しゅげんしゃ)の
装束(しょうぞく)を
まとったお姿の御像です。



当山の歴史を踏まえ検証した結果
これは南祖坊であるという
結論に至りました。
いつの時代に作られたものかは
定かではありませんが
中々の古さであろうと思われます。
また
ご縁がありまして
(株)山村総本店の
社長であられる
山村雅雄様ご夫妻に
厨子(ずし)を御奉納頂きました。
山村ご夫妻には
衷心より感謝申し上げます。
この御像は
「南祖法師(なんそほっし)尊像」として
改めて当山観音堂にて
お祀りされております。
当山にお越しの際は
どうぞお参り下さいませ。




当山の観音堂には
不動明王も
お祀りされております。
これらの不動明王像は
焼けこげており
部分的修繕が
施されております。
当山の本堂は
江戸時代に
火災に見舞われております。
火災直後の
文化8年(1811年)に
建立された本堂が
現在の本堂です。
焼けこげた不動明王像が
当山の火災の歴史を
生々しく
今に伝えております。


