研究者の方より論文を頂戴しました

盛岡にお住まいの

研究者である阿部幹男様より

ご丁寧なお手紙と

十和田湖伝説の論文を頂戴しました。

 

光栄なことに

十和田湖伝説について調べる中で

当山のブログもお読み下さり

参考にして下さったとのことです。

 

お手紙には

その御礼として

論文をお送り下さった旨が

したためられており

とても嬉しく感じております。

 

十和田湖伝説に散りばめらている

仏道的な部分や

神仏習合的な部分は

曼荼羅思想をはじめとして

密教的視点や手法が

とても有効です。

 

ですがこういった部分は

書籍などを読むだけでは

多くを汲むことは難しく

実際の修法や儀礼等に通じなければ

浮かび上がりにくいものです。

 

そういった背景もあり

仏道的な視点や

当山の伝えられる所の由緒などを

踏まえながら

これまでブログで

拙稿を気まぐれで

アップしてまいりました。

 

本当に小さな積み重ねなのですが

少しでもお役立て頂けたことを

とても嬉しく思います。

 

お送りいただいた論文を

ありがたく拝読させて頂き

さらなる研鑽に励ませて頂きます。

 

阿部様

お心遣い大変ありがとうございました。

 

機会がありましたら

是非当山へおいで下さいませ。

 

【阿部様へ追伸】

貴論文にも

触れられていましたが

拙僧(副住職)も以前より

八郎太郎と諏訪信仰との関係は

大切な視点であると感じております。

 

記紀神話にも連なる

諏訪明神の本地仏は

普賢菩薩とされ

深秘な意味が通わされています。

 

ちなみにですが

当山本尊脇仏として

祀られる普賢菩薩像は

一般的な像相ではなく

どこか神像の雰囲気を帯びたような

“異形仏”で何かしらの意味が

託されているようにも思われます。

 

また諏訪信仰と当地域近辺は

様々な関わりが見られ

諏訪という地名も見られます。

 

挙げると切りがありませんが

伝説を構成する

多くの要素の一つとしての諏訪信仰は

丁寧に紐解くべきものと考えます。

 

阿部様の今後益々の

御発展を衷心より祈念申し上げます。

 

合掌

 

史跡・九戸城跡を訪ねる

史跡・九戸城跡(くのへじょうあと)。

 

豊臣秀吉の天下統一の

最後の戦いとなった

九戸政実(まさざね)の乱

舞台となった所です。

 

時は天正19年(1591)。

 

豊臣秀次を総大将とし

名だたる武将で編成された

豊臣方の軍勢は6万5千ともいわれます。

 

九戸方の軍勢は5000で

対峙したとされます。

 

九戸城のすぐ近くには

糠部観音28番札所の

岩谷観音(いわやかんのん)が祀られます。

 

▼岩谷観音(以前のブログ記事)

https://fugenin643.com/blog/かんのんまいり%E3%80%80岩谷観音/

 

現在の岩谷観音堂のすぐそばには

千補陀堂(せんほだどう)建立碑

という碑があります。

 

千補陀堂の「補陀」は

観音菩薩の浄土を意味する

補陀落(ふだらく)という語から

来ていると思われます。

 

この千補陀というのは

千体の観音像を指しており

田子町出身の高僧である

奇峯学秀(きほうがくしゅう)が

九戸政実の乱の戦没者慰霊のため

ご奉納された千体の観音像を意味します。

 

千補陀堂は天保6年(1835)の

白髭水と呼ばれる大洪水で

仏像もろとも流されてしまいました。

 

奇峯学秀は生涯において

三千数百体の仏像を作仏しますが

現存確認されているのは80体程で

当山にも千手観音坐像が

お祀りされております。

 

また岩谷観音堂は

お堂の修復にあたって

当山先師である清珊(せいさん)が

祈祷したことが記される棟札があるそうです。

 

延宝8年(1680)に

盛岡にあった当時の本坊が

大火災により焼尽しますが

これは九戸政実の怨霊によるものとの

伝えもございます。

 

南部藩祈願所という

寺格であったということもあり

時を経て九戸政実のエピソードが

語られたものと思いますが

それだけ後世においても

インパクトが大きかったといえます。

 

九戸城に赴いた当日は

九戸城まつりが開催されており

九戸政実にちなんだイベントなど

様々に行われていました。

 

郷土の歴史を伝えるだけでなく

感じて頂こうというお心が

伝わってくる素敵な催しでした。

 

八体仏の台座の彫刻

当山観音堂に祀られる

八体仏(はったいぶつ、十二支守護尊)の

台座には各干支の

彫刻が施されています。

 

仏像の観察をしていて気がついたのですが

各干支の彫刻の横には

家紋の彫刻も見られます。

 

この八体仏は

弘化年間(1845〜1848)に

納められたものです。

 

奉納当時の施主の家紋なのかもしれません。

 

 

湯殿山大日坊の大黒天

当山観音堂には

様々な尊格が祀られます。

 

向かって左側に祀られる

一体の大黒天。

 

この大黒様には

「湯殿山大日坊」との

文字が記されております。

 

大日坊とは

山形県鶴岡の湯殿山にあるお寺です。

 

詳細は不明ですが

そちらから勧請された

大黒様だと思われます。

 

湯殿山大日坊と当山はご縁があり

拙僧(副住職)曽祖父である

長峻大和尚が住職を

務めたことがございます。

 

その際に当山に

迎えられたのかもしれませんし

それより以前のものかもしれません。

 

とても綺麗な御仏像ですので

当山にお参りの際は

是非ご縁をお結び下さいませ。

糠部三十三観音霊場における寛保3年の意義

以前にもブログで紹介しましたが

当山観音堂には

寛保3年(1743)12月に

納められた賽銭箱がございます。

 

※以前のブログはコチラです▼

https://fugenin643.com/blog/寛保3年の賽銭箱/

 

寛保3年(1743)は

現在の糠部三十三観音にとって

とても大切な年でもあります。

 

天聖寺第8世の則誉守西上人が

永正9年(1512)の観光上人による

糠部三十三観音を元に

新たに巡礼したのが寛保3年6月であり

その札所が現在の糠部霊場となっております。

 

現在の三十三観音札所が

新たに“定められた”年でもある

寛保3年(1743)。

 

そのメモリアルイヤーに

納められた賽銭箱。

 

詳細は分かりませんが

糠部霊場における

「寛保3年」の意義を

今に伝えているように感じます。

 

毛馬内の月山神社

毛馬内(けまない)の月山神社。

 

こちらはかつて

月山 廣増寺(こうぞうじ)が

別当をつとめておりました。

 

江戸時代には

この廣増寺から

当山においでになられた

先師がいらっしゃいます。

 

廣増寺は

永福寺の門徒寺院という

本末関係があったため

当山との行き来がありました。

 

毛馬内の月山神社本宮は

山深いところに鎮座しており

霊験あらたかな雰囲気が

感じられました。

 

“蘇る”不動明王脇侍の二童子像

不動明王の脇侍(わきじ)である

矜羯羅童子(こんがらどうじ)

制多迦童子(せいたかどうじ)

という童子像を

弘前にお住まいの

仏師・小堀寛治さんに

作仏して頂きました。

 

小堀さんが手がけられる御像は

とても柔らかで優しい雰囲気を

まとわれています。

 

今回仕上げて頂いたお仏像もまた

仏師さんのお人柄の如く

慈悲に溢れるような

お姿をされていらっしゃいます。

 

当山は文化7年(1810)に

本堂が火災に見舞われており

その際に二童子像が焼失したと見られます。

 

謹んでお祀りさせて頂きましたが

200年以上の時を超え

久しぶりに脇侍を従えた不動明王像が

一層神々しく感じられます。

 

千手観音坐像の厨子を仕上げて頂きました

田子町出身の高僧である

奇峯学秀(きほうがくしゅう)御作の

千手観音坐像。

 

本年2月に

学秀仏(奇峯学秀作仏の仏像の意)であると

確認されてから

本格的に調べた所

この仏像は享保期の当山中興の頃に

当山に納められたと見ております。

 

学秀仏の千手観音は

現時点で他に作例が無いようです。

 

現在当山では

本堂建替事業を推進しており

その事業の中で

仏像仏具の修繕等にも

取り組むことにしております。

 

その一環として

学秀御作の千手観音坐像を安置する

厨子(ずし)の製作を

五戸木工の中野久男さんにお願いした所

とても立派な厨子に仕上げて頂きました。

 

感嘆させられるような

素晴らしい厨子を製作して頂き

心より感謝しております。

 

この千手観音坐像は

“美術的”にも歴史的にも

大変貴重な仏像といえます。

 

後世においても

祈り継ぎ

護り継い

語り継いで頂ければと思います。

 

ねぶたと田村将軍伝説

青森のねぶたは全国的に有名です。

 

ねぶたの起源には諸説ありますが

坂上田村麿将軍の伝説が

伝えられております。

 

毎年優れた団体を表彰する

「ねぶた大賞」という栄えある賞がありますが

少し前までこの賞は

「田村麿賞」という賞名でした。

 

青森駅のすぐそばにある

ワ・ラッセには

受賞した6台のねぶたが

展示されております。

 

ねぶた大賞を受賞したねぶたをはじめ

美しく迫力満点のねぶたは圧巻です。

 

是非多くの方に

ご覧頂きたいです。

 

ねぶたついでに

もう少しだけ田村将軍について

触れさせて頂きたいと思います。

 

田村将軍の伝説は

青森県内各所に見られますが

当山にも田村将軍創建伝説が

伝わっております。

 

当山の創建伝説というのは

田村将軍が奥州六観音の一つとして

七崎に十一面観音を祀ったというものです。

 

当山の現在の本尊は愛染明王ですが

かつては十一面観音を

本尊としております。

 

少し脱線しますが

いつの頃のものかは不明ですが

当山が所蔵する古い版木(はんぎ)で

観音菩薩のお姿と

七崎山 普賢院」の字が彫られている

ものがあります。

 

七崎山は観音山とも呼ばれており

当地周辺を指しますし

現在の七崎神社の地にあった

旧観音堂(寺号・徳楽寺)の

山号としても用いられていました。

 

普賢院においても七崎山の山号が

用いられることがあったということを

版木は伝えております。

 

全てというわけではありませんが

田村将軍伝説は

十一面観音と関わりが深いものが

多く伝えられます。

 

当山に伝わる

田村将軍創建伝説も

十一面観音との関係で

語られております。

 

ここでいう田村将軍は

“歴史上の人物”の枠組みを超えた

“神仏に連なるもの”(権者)といえます。

 

こういった視点は

伝説と向き合う際に

必要だと思います。

 

熊野権現と十和田湖の十湾寺

青森市油川の熊野社と

十和田湖十湾寺(とうわんじ)について

先日ブログでとりあげましたが

今回はその十湾寺について

もう少しだけ触れたいと思います。

 

中道等氏の

『十和田村史』(上巻)

(青森県上北郡十和田村役場、昭和30年)

にはかつて十和田湖にあった

熊野山 十湾寺について触れらた

史料が紹介されておりますが

それを記した僧侶が

当山先師の廣宥(こうゆう)大和尚です。

 

十湾寺は史料によっては

十涯寺とも十瀧寺とも記されます。

 

当山は鎌倉期から江戸初期にかけ

永福寺の寺号が用いられておりましたが

盛岡に永福寺の本坊が

建立されて以後は

本坊永福寺に対し

旧地である七崎(現在の豊崎)の

永福寺を自坊 普賢院とし

同じく旧地である三戸の永福寺を

自坊 嶺松院(れいしょういん)としました。

 

当山と同じく自坊であった嶺松院は

寛文年間(1661〜1673)に焼失したと

『新撰陸奥国誌』には記されます。

 

廣宥大和尚が

本坊永福寺45世住職を担うわけですが

史料を見てみると

本坊永福寺44世良光大和尚が

元禄12年(1699)に下総の観福寺へ

行かれることになり

永福寺住職を辞められた後

45世の廣宥大和尚が就任される間

如常

堯意

堯誉

以伝

という方々が「住職」を

されております。

 

南部藩における冠寺であった

本坊盛岡永福寺の

正式な住職になるためには

様々な条件が必要だったことと

このことは関係しております。

 

廣宥大和尚は

法明院住持をつとめられ

後に当山本坊盛岡永福寺45世も

つとめられた方で

当山先師過去帳にも

当山歴代先師墓の墓誌にも

その名を連ねられていらっしゃいます。

 

法明院は永福寺末寺ですが

江戸後期に本末関係をめぐり

“いざこざ”があった

寺院でもあります。

 

さて

余談が過ぎてしまいましたが

以下に中道氏の書き下し文の

一部を引用いたします。

(カタカナ表記をひらがなに改めました)

 


陸奥南部糠部郡の奥瀬村に

十和田と号する沼あり

 

奇代の霊沼にして

塵俗を離る数百里

城下を去ること数千里

 

峩々(がが)たる高山は峰を並べ

黄々たる灌木は枝を連ね

萋萋(せいせい)たる

葛藟(かつるい)は道を塞ぐ

 

既にして

虫類禽獣たりといえども

輙(たやす)く上ることを得ず

 

清々たるの池に臨みて之を見れば

洪々たる海水は崎を敲(たた)き

潺緩(せんかん)たる波浪は砂を洗ふ

 

譬えば魍魎鬼神たりといえども

謾(みだ)りに池の辺(ほとり)に

近づく能わず

 

誠に和漢无雙(むそう)の霊沼なり

 

是の沼の来由を尋ねしむるに昔

人王七代の帝 孝霊天皇の

治世七十六年壬子の暦(とし)の六月

湧き出たりと云々

 

此沼の主に八郎太郎と云う大竜あり

 

諸(もろもろ)の眷属八竜王

前後左右を囲繞(いぎょう)し

渇仰(かつごう)して常に之を

守護すること歳久しかりき

 

其後

人王五十一代平城天皇の御宇

大同二年丁亥の年八月

南宗比丘(なんそびく)

新たに霊夢を蒙り

彼の八竜を追出して

則ち池の主とはなりぬ

 

斯の時

悉く隣里郷党奔(はし)り集まりて

七堂伽藍を建立し

熊野三所権現を勧請し奉りて

熊野山十涯寺と号したり


 

ここには僧侶ならではの

言い回しが見られます。

 

十湾寺についてのみならず

十和田湖伝説の“ダイジェスト”を

どのように捉えていたのかを

窺い知ることが出来るように思います。

 

▼自籠岩より見た十和田湖(西湖)