青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)⑨

現在の青森県田子町の

釜渕家出身の高僧

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

は1657年頃に生まれ

元文4年(1739)82歳頃に

入寂したとされます。

 

千体仏作仏を三度成満し

それに加え数百体もの仏像を

彫られた“傑僧”です。

 

三度に渡る千体仏作仏は

以下のように整理されます。

 


 

第1期 地蔵菩薩

(1600年代末〜1700年代初頭)

(学秀 50歳頃)

飢饉物故者供養のため

 

第2期 観音菩薩

(正徳2年(1712)頃〜)

(学秀 60歳頃〜)

九戸戦争戦没者のため

 

第3期 観音菩薩

(享保7年(1722)〜元文4年(1739))

(学秀 70歳頃〜入寂)

生まれである釜渕家一族の供養のため

 


 

当山にも学秀御作の仏像が

お祀りされます。

 

本年2月に

確認された千手観音坐像と

学秀御作と見られる

不動明王像

大黒天像が祀られております。

 

そういったご縁で当ブログで

学秀に関して

ちょくちょく触れております。

 

今回は千手観音坐像について

重ねて記させて頂きます。

 

少し前に

千手観音坐像のお身拭いをしました。

https://fugenin643.com/blog/千手観音のお身拭い/

 

筆を用いて

細部に至るまで

積もり積もったホコリを

払い落としました。

 

この千手観音坐像は

両側面部分に穴が空いており

拙僧(副住職)が数えた所

穴は36あるように見えます。

 

これまでは

側面の腕は喪失したものと

考えておりましたが

そもそも腕は

無かったのではないかと

最近は考えております。

 

先のお身拭いは

詳細に仏像を観察する機会にも

なったのですが

仏像側面部分の穴は

腕を差し込むためのものとは

考えにくいような

穴の作り方になっています。

 

諸穴が腕を差し込むための

ほぞ穴だとすると

あまりにも仕掛けが“甘い”のです。

 

この作りでは

ほぞ穴としての役割を

果たせないように感じます。

 

機能的な視点に加え

学秀仏(学秀が彫った仏像の意)に

見られる特徴的な観点からも

考えてみたいと思います。

 

“装飾的意匠”が極力削がれた所に

学秀仏の大きな特徴があります。

 

そういった特徴を踏まえると

小さく細かな腕を多数こしらえて

一つ一つを差し込むような

作仏をしていたとは考えにくいのです。

 

ということで

拙僧(副住職)の見立てとして

正面の4本の腕以外には

当初から腕は無く

側面部の穴をもって

腕は表現されているのだと思います。

 

千手観音において

「千手」(複数の手)は

千手観音を千手観音たらしめる

重要な意味を持つものです。

 

重要な意味を帯びる

「千手」の存在を

しっかりと仏像に刻み

“無いもの”を表現したとすると

学秀仏の奥深さを

改めて感じさせられませんか?

 

黙々と棟札の文字を書き写す

強い雨音の響く本堂で

棟札に記載される文字を

筆で黙々と書き写す。

 

朝から夕方まで

ひたすら黙々と。

 

これは7/12のお話です。

 

ただ単に

「手本」を移すという作業ではなく

解読を要するなど

頭を使うことも多く

切り上げる頃にはクラクラしました。

 

当山では毎年8月に

お盆を迎えます。

 

お盆には各地から帰省される方も多く

お寺にも多くの方がお参りされます。

 

当山では

本堂建替を控えておりますので

今年のお盆が

現在の本堂で迎える最後のお盆となります。

 

そのようなこともあり

主だった棟札には

一体どのようなことが

記載されているのかを

お参りされた方に

見て頂けるようにしようと思い

取り組みを始めた次第です。

 

当山に所蔵される

棟札や木札は

貴重な歴史を今に伝えております。

 

展示方法など

一切白紙状態ですが

当山とご縁のある方々に

当山の歴史に触れて頂けるよう

試行錯誤してみたいと思います。

 

お不動様お迎え道中覚書②八甲田

八甲田(はっこうだ)という名は

全国的に知られているかと思います。

 

八甲田とは1つの山の名ではなく

山々の総称です。

 

よく通り過ぎることはあっても

じっくりと向き合うことは

これまで全く無かったので

八甲田山頂公園に

立ち寄らせて頂きました。

 

ロープウェイでお話しして下さった

ガイドの方によれば

八甲田の山々は

標高は1,500メートル級ですが

高緯度のため

標高3,000メートル並の環境と

同様になるんだそうです。

 

青森県で一番高い山は

津軽富士ともいわれる岩木山で

標高1,625メートルです。

 

八甲田の主峰は

大岳が1,585メートル

井戸岳が1,550メートル

赤倉岳が1,548メートルで

3つの主峰は並立し

独特の山頂フォルムをしており

遠方であっても

各所から望むことが出来ます。

 

八戸からも雄大な八甲田の山々を

望むことが出来

当山近辺からも望むことが出来ます。

 

ここでちょっと

南祖坊(なんそのぼう)についても

触れてみたいと思います。

 

『来歴集』(らいれきしゅう)という

元禄期に盛岡藩の学者である

藤根吉品が編じた書物があります。

 

この藤根吉品という人物は

南部重信(しげのぶ)公

南部行信(ゆきのぶ)公

南部信恩(のぶおき)公の

三代に右筆として仕えた方です。

 

『来歴集』では

十和田湖伝説について触れられており

難蔵坊(南祖坊)は

額田嶽熊野山十瀧寺住職

という伝が紹介されております。

 

額田(こうだ)は

八甲田とするのが

これまでの「定説」です。

 

八甲田のちょうど南に

十和田湖は位置します。

 

『来歴集』の少し後

享保期に刊行された

『津軽一統志』という書物では

津軽と糠部の堺

糠檀(こうだ)ノ嶽に

湖水あり

十灣ノ沼(とわだのぬま)と云うなり

と記されています。

 

糠檀ノ嶽を

現在の八甲田として捉え

十灣ノ沼を

現在の十和田湖として捉えると

八甲田に十和田湖がある

と読み直すことが出来ます。

 

色々調べていて感じるのですが

少なくとも

拙僧(副住職)の感覚として

八甲田と十和田湖の

関係性が今と昔とでは

異なるように思います。

 

熊野山という山号

十瀧寺という寺号も

南祖坊の伝説を紐解くにあたり

大切な要素かと思います。

 

これらについて述べ始めると

かなり分量が多くなるので

十瀧寺について少しだけ触れます。

 

十瀧寺の読み方について

「とうたきじ」と読まれている方が

多いようですが

拙僧(副住職)の一見解として

「とうろうじ」

あるいは

「とうりゅうじ」

「とうりょうじ」とした方が

適切ではないかと考えております。

 

熊野那智には

那智大滝という有名な滝があり

その滝の龍神を

飛瀧権現といいます。

 

飛瀧は

「ひろう」「ひりょう」「ひりゅう」と

いくつか読み方がありますが

これらに準じて

十瀧寺を読んだ方が良いと感じます。

 

話を八甲田に戻しまして

八甲田周辺には

酸ヶ湯温泉

猿倉温泉

谷地温泉

蔦温泉などなど

有名な温泉が各所にあります。

 

湿原が多いため

貴重な植生を観察できますが

“湿原あるある”で

夏場は虫が無数に飛び交っています。

 

八甲田で有名なエピソードの1つとして

明治35年(1902)の

八甲田雪中行軍遭難事件が

挙げられるかと思います。

 

これは

ロシアとの戦争に向けて

日本陸軍第8師団歩兵第5連隊が

雪中行軍演習を実施した所

猛烈な寒波による吹雪に見舞われ

八甲田で遭難した事件です。

 

日本人死没者の慰霊のため

来月末にサハリン(旧樺太)へ

渡ることになっている

拙僧(副住職)としては

この八甲田雪中行軍のことが

とても大きなテーマを宿したものに

感じられました。

 

八甲田ロープウェイ山頂駅は

田茂萢(たもやち)岳にあり

掲示案内によると

標高1,314メートルの場所にあるそうです。

 

視野の広い壮大な景観は

見応え充分です。

 

▼南八甲田連峰方面

▼北方面(おそらく)

▼岩木山頂上が神々しく覗いています

▼白神山地方面

お不動様お迎え道中覚書①十和田湖御鼻部山展望台

弘前の仏師さんに

修復をお願いしていた

不動明王像のお迎えに行った際の

道中について

覚書として何回か投稿します。

 

往路は十和田湖経由で行き

復路は八甲田経由で戻りました。

 

道中は

とても素敵な場所や

個人的に深い学びを得られた場所が

多々ありましたので

ブログに記させて頂きます。

 

まずは

当山とも深く関わる

十和田湖についてです。

 

その「関わり」とは

十和田湖伝説のことですが

当山第2世・月法律師(がっぽうりっし)の

弟子である南祖坊(なんそのぼう)は

全国の霊山霊跡を巡った果てに

十和田湖に結縁入定し

十和田湖の龍神である

青龍権現(せいりゅうごんげん)に

なったと伝えられます。

 

十和田湖を望むことが出来る

御鼻部山(おはなべやま)展望台。

 

御鼻部山(おはなべやま)は

標高1,000メートルちょっとの山で

十和田湖の北側に位置します。

▼御鼻部山展望台

 

十和田湖北側に位置する

展望台からは

御倉半島と中山半島を

望むことが出来ます。

 

十和田湖の

全体的なフォルムを見渡せる

素晴らしい展望台です。

 

6/8は雲の流れが速かったので

景色の変化がとても豊かで

とても神秘的に感じました。

津軽の南祖坊伝説

十和田湖伝説の南祖坊(なんそのぼう)。

 

十和田湖の龍神である

青龍大権現(せいりゅうだいごんげん)

の本地とされる僧侶で

当山2世の月法律師(がっぽうりっし)に

弟子入りしたと伝えられます。

 

南祖坊の伝説には

とても多くのバリエーションがあり

弘前の乳井(にゅうい)で

生まれたとの伝えもあります。

 

南祖坊が出生したとの

伝えがある乳井では

その昔

福王寺(ふくおうじ)という寺院が

権威を振るっており

乳井氏が別当を勤めていたそうです。

 

福王寺は

信濃戸隠修験の修験者により

創建されたとされ

乳井氏はその修験者の

末裔とされるようです。

 

乳井神社の社殿裏手の丘には

古い五輪塔ほか石塔や板碑等が

沢山並べられており

歴史が感じられる場所です。

 

「十和田信仰」は

県内においても各所で違いが見られます。

 

その違いを考える上で

関連寺院や修験者の

法流(ほうりゅう)が

1つの手がかりとなるように感じます。

 

伝説とつながる南祖祭(なんそさい)

当山には

十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)の御像である

南祖法師尊像(なんそほっしそんぞう)

がお祀りされます。

 

南祖坊(なんそのぼう)は

当山第2世の月法律師(がっぽうりっし)

の弟子として修行修学に

励まれたと伝えられます。

 

そういったご縁で

南祖坊の祭事と

伝説にまつわるお話を聞く

南祖祭(なんそさい)を

開催いたしました。

 

祭事では

開式にあたり

“お遍路ニスト”として

全国各地を巡られている

中野太陽さんに法螺貝を

吹いて頂いてお清め頂き

法要の中では巫女さんの

おときたさちこさんに

祝詞をあげて頂きました。

 

祭事の後は

ゲストスピーカーとして

髙山正道さんに

太陽信仰の観点から

南祖坊伝説について

お話頂きました。

 

髙山さんのお話は

実に興味深いもので

本当に素晴らしい内容でした。

 

様々なご縁のおかげで

短い時間でしたが

とても濃密な南祖祭となりました。

 

十和田湖の聖地覚書③ 占場(うらないば)

十和田湖屈指の聖地とされる

占場(うらないば)。

 

そこは

南祖坊(なんそのぼう)が

入定(にゅうじょう)し

青龍権現(せいりゅうごんげん)という

十和田湖の龍神と

化したとされる場所です。

 

占場へは

断崖絶壁にかけられている

とても長い鉄ハシゴで下るのですが

現在は通行禁止となっております。

 

今回は十和田湖自然ガイドクラブの

皆様が諸々を手配して下さり

占場へ赴くことが出来ました。

 

占場の水辺から水中を覗いてみると

断崖のようになっており

1〜2メートル先から

いきなり深くなっていました。

 

占場は

中山半島の東側位置し

中湖に面しております。

 

中湖は十和田湖の中で

最も水深があります。

 

視線の先には

御倉半島が見えます。

 

御倉半島は半島そのものが

神聖な場所とされています。

 

御倉半島が龍の頭で

中山半島が龍の尾にあたる

との言われもあるそうです。

 

占場(うらないば)という

名前が示す如く

こちらは卜占(ぼくせん)等が

行われていた場所です。

 

占場はオサゴ場とも呼ばれ

そちらで占いをすることは

「オサング打ち」

「サング打ち」等とも

呼ばれるそうです。

 

おより紙(御依紙)を湖水に放ち

その沈み具合により

“神意のおうかがい”が

なされたりしたようです。

 

占場は地形的に

風の影響があまりない

場所でもあるようです。

 

「サング」を漢字表記すると

おそらく「散供」という字が

あてはまるかと思います。

 

散供とは

神仏に“お供えを捧げる”ことで

修法の作法でもあります。

 

「打つ」というのは

“祈りを捧げる”といった意味合いです。

 

観音霊場を巡礼して祈りを捧げることを

「札を打つ」とか「札打ち」

と言うことがありますが

「サング打ち」の「打つ」も

同様の意味合いがあると思います。

 

占場の湖底からは

多くの古銭が引き揚げられており

多くの人により

祈りが捧げられていたことが分かります。

 

南祖坊は

当山第2世の月法律師(がっぽうりっし)の

弟子として当山で修行され

その後に全国を巡礼巡行した果てに

十和田湖に入定し

青龍権現となったとされます。

 

その伝説の

象徴的スポットの1つが占場ですし

南祖坊の“入水入定”は

とても重要な諸要素やテーマを

宿しているといえます。

 

この点については

また改めて伝えさせて頂きたいと思います。

 

十和田湖の聖地覚書② 自籠岩(じごもりいわ)

南祖坊(なんそのぼう)が

座って修行したとの伝えがある

自籠岩(じごもりいわ)。

 

十和田湖の聖地の1つとして

神聖視されているそうです。

 

自籠岩へ行くべく

西湖側からボートで

中山半島へ上陸しました。

 

ボートをつけて頂いた所には

「正福龍神大神」と記された

鳥居があり

その奥には祠がありました。

 

『十和田湖歴史散策マップ』によると

ここには夫婦の龍神が

お祀りされているとのいわれが

あるそうです。

 

この祠から

険しい“道なき道“を進み

岩石に取り付けられた

鉄のハシゴをのぼり

ようやく目的地に

たどり着くことが出来ました。

 

自籠岩は

地元の地勢を熟知している

十和田湖自然ガイドクラブの

皆様のご案内がなければ

たどり着くことが

出来ないような

難易度の高い場所にあります。

 

ただ自籠岩への道程は

山岳修行を“体感”して頂けるような

“充実感”があるように思いました。

 

多くの修験者が山岳修行に

励んでいたとされる十和田湖。

 

自籠岩への道のりは

かつての修験者が

辿ったであろう道

眺めたであろう光景などに

触れることを通じて

“歴史を感じる”ことが出来る

尊い道のりだと感じました。

 

 

▼天高(狗)森岩

自籠は地高森とも記されていたようです。

 

自籠岩の岩上から東を眺めると

一層高い岩山がそびえ

天高森あるいは天狗森と呼ばれるそうです。

 

▼自籠岩岩上からみた十和田湖(西湖)

千手観音のお身拭い

「青森の円空」とも呼ばれる

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

御作の千手観音像の

お身拭いを行い

安置方法を改めました。

 

何年分か不明ですが

相当量の汚れをまとっていたので

筆を用いて塵を落としました。

 

大量の塵が払われ

千手観音像の表情も

心なしか一層穏やかに感じられます。

 

こちらの仏像は本年初頭に

学秀仏(学秀が彫った仏像の意)

であることが判明したばかりです。

 

さらに当山では

本堂の建替を予定しているということもあり

この千手観音像を今後どのように

お祀りするかを様々に

検討しております。

 

学秀御作の千手観音の

安置場所や安置方法は

大方定まったので

細かな部分については

本堂建替事業の推進と共に

進めていければと思います。

 

現在は学秀千手観音を観音堂の

八体仏(十二支守護尊)が

お祀りされている

脇堂上段中央に

お祀りしております。

 

千手観音は蓮華王とも称される

とても尊い観音様なので

お参りの際は

是非祈りをお捧げ下さいませ。

十和田湖の聖地覚書① 奥の院(御室)

当山は

十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)が

修行したと伝えられるお寺です。

 

6/26は南祖坊の祭事を行います。

 

「祭」は伝承や伝説などの“物語”と

向き合う場であり

“つながる”場です。

 

十和田湖伝説と向き合うひとときを

ご一緒してみませんか?

▼6/26南祖祭のご案内

https://fugenin643.com/blog/626南祖祭を開催します/

 

十和田湖とその周辺には

南祖坊伝説を今に伝える場所や

十和田信仰の祈りの痕跡や

山岳修行の行場と思われる場所が

多く存在します。

 

6/19に十和田湖自然ガイドクラブの

皆様に“十和田湖三大聖地”を

ご案内頂きました。

 

その際の記録を

覚書という形で

簡単にお伝えいたします。

 

まずは御倉半島にある

奥の院についてです。

 

奥の院は

御室(おむろ)とも呼ばれています。

 

その場所には

ボートで向かいました。

 

▼奥の院入口

奥の院入口には

ハシゴが架けられています。

 

ちょっと前(2〜30年前?)までは

例祭の前夜祭の時に

ボートに数名でこちらへ

参詣されていたそうです。

 

その際は

奥の院に“上陸”するために

ボートにハシゴを積んでいたそうです。

 

▼奥の院の中

 

▼木札には「熊野」の文字

 

▼入って正面に広がる同心円状紋

同心円状紋は「龍の眼」とも

捉えられているそうです。

 

とても神秘的です。

 

この空間は手掘りで

作られたようで

修験窟としても使われていたと

考えられているそうです。

 

▼祠に向かって右奥の窟

▼祠に向かって左奥の窟

いずれも一説によると

20間(約36メートル)の深さがあるそうです。

 

コウモリが棲んでいるようで

私達が奥の院に入った時

奥に飛んでいくのが見えました。

 

“龍の棲家”とのいわれもあるとか。

 

ついでですが

当山にも写本が残る

『十和田山神教記』(とわださんじんきょうき)

という十和田湖伝説が記された書物冒頭で

廿尋(約36メートル)余りの青龍

忽然と顕れる場面があります。

 

この場面に登場する

具体的なスケールは

“奥の院の龍穴(りゅうけつ)”を

踏まえての描写である可能性が

あるかもしれません。

 

▼内側より見た奥の院入口

西を向いているため

午後は日が差し込み

日没も拝めるとのこと。

 

奥の院から西には

十和田湖の中湖が広がり

その先には十和田神社のある

中山半島が位置します。

 

各所の

「位置」や「方向」についても

沢山触れたいことがあるのですが

またの機会にしたいと思います。

 

この奥の院の空間は

室戸岬における弘法大師の

明けの明星伝説を思わせるような

空間だと感じました。

 

弘法大師空海上人は

真言宗の宗祖で

全国各地に伝説が残ります。

 

十和田湖伝説を伝える際に

南祖坊は十和田湖に

入定(にゅうじょう)した

という言い回しがよくされますが

この入定信仰(にゅうじょうしんこう)

は十和田湖伝説を

紐解く重要なキーワードといえます。

 

この点についても

記し始めると

終わらなくなってしまうので

またの機会に触れさせて頂きます。

 

奥の院は

御室(おむろ)とも呼ばれますが

この名称は真言宗と

とても関わりのあるものです。

 

具体的には

京都の仁和寺と関わる名称です。

 

仁和寺は

真言宗御室派の本山でもあります。

 

当山の前身である永福寺では

仁和寺の皆明院から

住職が迎えられることもありました。

 

専門用語で

院家兼帯(いんげけんたい)という形で

永福寺と仁和寺皆明院は

深く関わっております。

 

こういった歴史的背景が

十和田湖に見られる御室

という名称の根拠となっている

可能性が考えられます。

 

御室のみならず

十和田湖に関係する用語には

真言宗ゆかりのものが

チラホラ見られます。

 

その点についても

折に触れて紹介させて頂きます。

 

まとまりに欠けますが

こんな感じで「6/19の覚書」を

“気まぐれに”

数回に分けて投稿したいと思います。