棟札に耳を傾ける④

当山では本堂建替事業の

第5年目を迎え

本年より新本堂の建設が始まり

来年秋頃に完成する予定です。

 

この機会に

普賢院の寺史を

作成したいと考えています。

 

新本堂が完成すると

棟札や古い文書は

再び丁重にしまうことになるので

このタイミングでしか

行うことが出来ないので

当ブログの投稿も活かしつつ

まとめていこうと思います。

 

次第をはじめ文書については

除きますが

当山所蔵の棟札ほか

年代が判明している(一部推定)

江戸期以降の

主な仏像や灯籠などを

あげると以下のようになります。

※『郷社七崎神社誌』(小泉幸雄、大正15年[1926])に掲載される神社所蔵の棟札については青字で記します。

 

  • 仁王門造営(寛永2[1625])
  • 本七崎観音(明暦元年[1655])
  • 観音堂並十二末社再興(観音堂3間四方/棟札は明暦2年[1656]に宥鏡上人が作成)
  • 吊灯籠(寛文10年[1670])
  • 現七崎観音(貞享4年[1687]/4間四方の観音堂が再建[棟札が神社にアリ]
  • 観音堂並小宮葺替(元禄6年[1693])
  • 仁王門改造(享保2年[1717])
  • 仁王像(享保3年[1718])
  • 前机(享保9年[1724])
  • 稲荷大明神造営(享保12[1727])
  • 快傳上人逆修建立の墓石(享保14年[1729]、施主信敬とある)
  • 寺屋敷(庫裡)(享保18[1733]/この時に観音山[現在の七崎神社境内]に2000本余の杉を植樹と記載アリ)
  • 学秀仏・千手観音坐像(享保年間奉納と推定/学秀仏と思われる不動明王像と大黒天像アリ)
  • 龜峯扁額(享保頃の可能性/落款が「龜峯」「主忠信」「不爾」)
  • 南祖法師尊像(延享元年〜2年[1744〜45]と推定)
  • 賽銭箱(寛保3年[1743]12月)
  • 御輿再修覆(宝暦6年[1756]/神社誌にも記載されるが棟札は当山所蔵
  • 鳥居新築(宝暦10年[1760]春)
  • 愛染堂再興(宝暦13年[1763])
  • 不動堂再興(宝暦13年[1763])
  • 天照皇大神宮再興(宝暦13年[1763])
  • 大黒天堂造営(宝暦13年[1763])
  • 仁王門修造(宝暦13年[1763]3月)
  • 御輿新造(明和2年[1765]3月)
  • 夫婦地蔵(安永3年[1774])
  • 鈸(寛政2年[1790]/宥慎上人により奉納)
  • 荒神堂再建(寛政5年[1793]8月6日)
  • 地蔵菩薩(享和2年[1802]/現在、位牌堂本尊)
  • 鐘楼堂再建(文化5年[1808]/神社誌にも記載されるが棟札は当山所蔵
  • 愛染明王(文化7年[1810]/宥瑗上人により奉納)
  • 本堂再建(文化8年[1811])
  • 千手観音堂再建(本堂再建と同時期)
  • 香炉(本堂再建と同時期/宥瑗上人により奉納)
  • 圓通閣扁額(文化14年[1817]/三井親孝の書)
  • 秋葉権現堂再建(天保4年[1833])
  • 吊灯篭(天保8[1837]/宥威上人により奉納)
  • 不動尊祈祷札(吊灯籠と同時期と推定/権僧正とあるため瑜伽者は晩年の宥威上人)
  • 鰐口(天保12[1841]/河内屋により奉納)
  • 八体仏(弘化年間[1845〜48])
  • 稲荷大明神(嘉永2年[1849]/普賢院宥青[当山先師]、善明院栄隆[修験“善行院”14代])
  • 一王子再建(安政4年[1857]8月)
  • 観音堂再修(安政10年[1863])
  • 斗南藩縁故者墓石16基(主に明治4〜5年[1871〜72])
  • 旧神臣略系(明治7年[1874])
  • 観音堂内御堂造立(明治19年[1886])
  • 興隆講規則(明治34年[1901]/観音講を組織化して再興)
  • 十三仏掛軸木箱の蓋(明治39年[1906])
  • 本堂屋根葺替(大正3年[1914]12月)
  • 七崎山龍神堂木札(大正4年[1915]5月)
  • 地蔵菩薩(明治末〜大正期/一時当山の代務者をつとめた赤穂覚信師が作仏)
  • 北沼観音(昭和2年[1927]蓮沼にて発見、昭和4年[1929]旧8月17日建立)
  • 観音堂並仁王門改築(昭和6年[1931]/『七崎観世音道場普請報告書』に記載)
  • 子安地蔵堂(昭和6年[1931])
  • 本堂庫裡修繕(昭和9年[1934]/長峻和尚尊霊歎徳文に記載)
  • 大日坊大黒天(昭和10年[1935]頃と推定/61世長峻上人は昭和10年に大日坊88世住職にも就任)
  • 戦勝祈願札3枚(戦争期)
  • 本堂屋根葺替(昭和22年[1947]12月/戦後の統制経済の様子を伝える記述がある)
  • 「北ノシノキ」と書かれた木板(昭和22年[1947]12月12日/3名の名が列記)
  • 本堂修築(昭和26年[1951]/写真アリ)
  • 戦没者慰霊碑(昭和37年[1962]11月)
  • 本堂改築並位牌堂新築(昭和51年[1975])
  • 観音堂宮殿塗装修復(昭和56年[1981])
  • 子安地蔵厨子(昭和59年[1984])
  • 仁王門新造並山号札・観音札所札(昭和59年[1984])
  • 観音堂内陣格天井並中台八葉院法曼荼羅及新装照明(昭和60年[1985])
  • 子安地蔵内格天井(昭和60年[1985])
  • 観音堂内格子前扉(昭和61年[1986])
  • 鐘楼堂建立(平成2年[1990])
  • 本尊厨子(平成5年[1993])
  • 客殿並位牌堂新築(平成12年[2000])
  • 鐘楼堂修繕(平成25年[2013])
  • 長谷寺式十一面観音三尊造立(令和二年[2020]/仏師・小堀寛治氏)

 

先に少しだけ触れている

大正15年(1926)の

『郷社七崎神社誌』は

当時の社司・小泉幸雄氏が

編纂したもので

結びとして書かれた自序に

次のように記されてあります。

 

神社誌の編纂に志すこと多年。即ち明治37年より大正6年3月に至る14年を以て、漸く完成を見るに至れり。此間資料蒐集に務め、特に盛岡藩南部伯爵家及遠野南部男爵家の古文書の拝見を許され、之れに力を得て多大の成果を収めたり。御両家に対し甚深なる敬意と感謝の誠意を表するものなり。

本誌編纂に当り参考資料は、盛藩旧事記、南部男爵家の御邦内郷村誌、東北太平記、七崎観世音伝話記、其他棟札、不肖幸雄保存せる南部五世伝、南部地雷復、霊験縁起、小泉家系図、言ひ伝並に明治維新に至るまでの事績等の参酌に依るものなるを以て、地方の史実に関するものあるべきも、多少とも本社に関係あるものは或は重複の嫌あるも之を記載せり。

大正6年以降現在までの事績にして、将来記録すべきは之れを記載し且つ新事実の発見する毎に訂正したり。

本年は皇輝ある紀元2600年を迎え奉祝記念として、本誌を印刷に附し広く有志に分ち永久に伝え、以て御神徳発揚の資に供せんとす。

 

当山近くの七崎神社は

明治になるまでは

当山が管理していた

旧観音堂(寺号・徳楽寺)でした。

 

小泉家は

明治まで修験家でもあり

旧観音堂に深く関わりがありました。

 

参考資料にある

七崎観世音伝話記は

幸雄氏の曽祖父にあたる

大学院泰道などが

「古老の伝説」を文政年中に

編纂したものと説明されおり

参詣人の案内役をすることもあった

修験の方々が

一種の手引のような形で

七崎観音にまつわるお話を

まとめられていたことがうかがえます。

 

引用した自序をみると分かるように

神社誌は参考文献をもとにしつつ

神社所蔵の棟札や

当地での言い伝えを踏まえて編集された

力作といえます。

 

当時の状況を考えると

大変なご労力があったと思うのです。

 

この神社誌で

挙げられている棟札と

当山が所蔵する棟札や

一部仏像や仏具などについて

寛永2年(1625)以降のものを

先に列挙してみました。

 

青字で示したのが神社誌で

触れられているものですが

全体からすると

ごく一部のものですし

お寺の歴史を紐解くうえで

ある意味最も尊い古文書たる

過去帳にも触れられていないので

明治以前のことを述べるには

やはり限界があるように感じます。

 

当地の大先輩であり

旧観音堂に仕えていただいた

修験の流れを組むお家の

小泉幸雄氏の労作にて

語られるお寺の歴史を

さらに厚みのあるものに

したいと考えております。

 

また本山の長谷寺や仁和寺や

当時の本坊・盛岡永福寺や

その他多くの関係寺院との

関わりであったり

宗派における節目の行事などを

踏まえると

意義が浮かび上がるものもあるので

そういったことも押さえながら

後世に託すべく『寺史』を

作成したいと思います。

 

ここでようやく

棟札の本題に入らせていただきます。

 

ここに至るまでで

かなりの分量をさいたので

今回の棟札の紹介は

少しだけにします。

 

本堂建替事業まっただ中なので

旧本堂の棟札について見ています。

 

次の画像資料の通り

この棟札は結構大きく

形は剣形(けんがた)で

表裏に文言が見られます。

 

幅についてですが

底が21cmで

上に向かって多少

幅が広がっていまして

一番広い所が22cmです。

 

文言については次回以降

紐解いてまいります。

棟札に耳を傾ける③

少しづつ

懐かしさが増してきた旧本堂。

 

本年から

いよいよ新本堂の建設です。

 

今回は一昨年から

ピタッと更新が止まっていた

「棟札に耳を傾ける」の

第3稿をアップいたします。

 

▼以前のものはコチラ

棟札に耳を傾ける①

棟札に耳を傾ける②

 

当山は

開創以来1200年もの

歴史が積み上げられた古刹で

これまでも様々な節目にあたり

縁起や由緒が

改めて有縁の方や

ご参詣の方に説かれてきました。

 

平成令和の本堂建替においても

所蔵される文書や棟札を踏まえ

近世の史料の記述や

最近の諸資料を見直して

普賢院の寺史を

作成したいと思います。

 

現在発行されている書籍含め

近世の史料がもとになり

当山が紹介されているのですが

近世の史料は

寺史を紐解く上で重要になる

当山の過去帳に触れられていません。

 

過去帳は他見厳禁ゆえ

公開するようなものではありませんが

住職をつとめられた

先師の御名が記された

尊い古文書でもあります。

 

近世の史料に目を通してみると

お寺の創建について

諸開山上人の没年齢が

創建年代や中興年代になっていたり

記載される棟札の文言に

誤植が見られるなど

注意を払うべき所が多くあります。

 

それらをのみ

典拠としてしまうと

当然のことながら

不十分な説明にならざるをえません。

 

専門性が高く

いわゆる郷土史という

枠組みだけでは

紐解けない部分もあるので

個々の課題を明らかにしつつ

出来る形で

整えていきたいと考えております。

 

これまでも

当山について

様々なことを紹介して

まいりましたが

最近は資料を添付しつつ

投稿を重ねております。

 

特に棟札については

文字ばかりよりも

添付した図のような形の方が

断然分かりやすいと思うので

資料を示しつつ

お話を進めていきたいと思います。

 

ここしばらくは

文化8年(1811)の旧本堂棟札について

お寺の歴史に触れながら

見ていきたいと思います。

 

資料が現時点で

13枚あるので

投稿を重ねる中で

説明を補足する形式で

「棟札に耳を傾ける」シリーズを

進めていきたいと思います。

 

▼旧本堂(令和元年お盆の様子)

 

▼以下、資料画像になります。

 

以上が、現時点で

用意した画像になります。

 

まだ未完ですが

とりあえずアップいたします。

 

ブログの文章よりも

ビジュアル的なので

ストーリーが分かりやすい

のではないでしょうか。

 

これらの資料をたたき台に

棟札について紐解きつつ

お寺の歴史や伝説についても

紹介させていただきたいと思います。

棟札に耳を傾ける②

棟札について

久しぶりの投稿になりましたが

当山の歴史に触れつつ

まずは現在の本堂の

棟札に“耳を傾けて”みたいと思います。

 

掲載内容に

ボリュームがあるので

複数回に分けて

内容に触れていきます。

 

※棟札に耳を傾ける①はコチラ

https://fugenin643.com/ふげんいん探訪/棟札に耳を傾ける一/

 

この棟札は文化8年(1811)のもので

縦110cm×横20.5cm×厚さ3cmの

大きさがあります。

 

▼現在の本堂の棟札(文化8年(1811))【表】

▼同上【裏】

▼記載内容(右:【表】、左:【裏】)

 

本堂は言うまでもなく

お寺で最も大切なお堂で

本尊が祀られるお堂です。

 

本堂という言葉は

(ほんぞんどう)

または

(こんぽんちゅうどう)

に由来するとされます。

 

ここで少し

当山の由緒について

簡単に整理してみます。

 

当山は弘仁初期(810頃)に

圓鏡(えんきょう)上人が開創

承安元年(1171)に

行海(ぎょうかい)上人が開基されました。

 

鎌倉時代から江戸時代には

永福寺という寺号が

用いられており

永福寺42世・清珊(せいさん)の代に

当山では普賢院の寺号を主に

用いるようになったとされます。

 

永福寺の寺号は

現在も当地の住所・地名として

その名前を留めておりますが

鎌倉二階堂の永福寺(ようふくじ)に

由来しております。

 

甲州南部郷より遷座され

三戸沖田面に建立された

新羅堂の供養を

二階堂の永福寺の僧侶・宥玄(ゆうげん)が

担当することになります。

 

その「供養料」として

沖田面村に一宇お堂が建立され

宥玄をそのお堂の住職に任じ

永福寺(えいふくじ)と号したそうです。

 

また宥玄は

沖田面村とともに

五戸七崎村を賜ることとなり

それを契機として

七崎のお寺も宥玄が司ることとなります。

 

宥玄は

永福寺の僧侶であったことから

七崎のお寺(当山)も

永福寺(えいふくじ)と

呼ばれるようになったそうです。

 

当山の本尊は現在

愛染明王(あいぜんみょうおう)

という尊格ですが

もともとは十一面観音を本尊としており

篤く敬われていたそうです。

 

今回採り上げた棟札には

愛染明王を本尊としてお堂(本堂)を

建立したことが記されております。

 

現在の本尊の愛染明王像は

文化7年(1810)に

盛岡永福寺 宥瑗(ゆうえん)より

寄付されたものです。

 

前置きが長くなりましたが

棟札の本文を見ていきます。

 

【表】中央部分は

以下のように記されています。

 


 

ジャク(愛染明王の種字の1つ)

奉本堂再建一宇 八間仁六間

本尊邏ギャ(訁に我)尊(愛染明王)

院内安穏 興隆佛法 諸難消除

當寺檀家息災延命 子孫繁昌 所

 


 

現在の本堂は

文化7年(1810)に火災に

見舞われております。

 

そのために

翌年に再建されたのが

現在の本堂であり

その際の棟札が

今回紐解いている棟札です。

 

冒頭に愛染明王をあらわす

種字(梵字)が書かれています。

 

この棟札は

単に記録が記された木札ではなく

この棟札自体が

本尊の愛染明王の象徴であり

曼荼羅を象徴することを意味します。

 

8間(けん)6間の

本堂を再建したこと

本尊が愛染明王であることが

記されているとともに

建立に際して託された

願いが添えられていることが

分かるかと思います。

 

〈院内安穏〉

お寺が安穏でありますように

 

〈興隆佛法〉

尊いみ教えが

多くの人々のために

なりますように

 

〈諸難消除〉

様々な困難を乗り越えられますように

 

〈當寺檀家息災延命子孫繁昌〉

ご縁ある方々が

健やかで過ごせますように

家々が繁栄しますうに

 

棟札には

様々な書式があると思いますが

当山所蔵の棟札は

どれも仏道的な作法が施されております。

 

今回見た棟札の中央には

①尊格(仏)の種字(梵字)

②建立したお堂のこと

③願目(祈願の項目)

が記されていました。

 

この構成は

当山に所蔵される他の棟札にも

見られるものです。

 

次回以降も

さらに読み進め

棟札が今に伝えていることを

少し丁寧に見ていきたいと思います。

 

▼現在の本堂

幾度となく修繕を繰り返してまいりました。

 

▼昭和26年(1951)の改修記念

▼昭和59年(1984)改修(屋根葺替ほか)記念

棟札に耳を傾ける①

棟札(むなふだ)について

日本大百科全書(ニッポニカ)は

以下のように説明しております

(以下、コピペです)。

 

建築物の創建または修理に際して、その事実を木札などに記して棟や梁(はり)に打ち付けた記録である。その多くは建造の年月日、建築主、工匠の名前などを記す。家の守護神の名を記したり、呪文を記したものもある。一般に薄く細長い板で、頭部は多く山形をなし、呪物などとともに箱に入れる場合もある。同じような記録は棟や梁などに直接記される棟木銘にもみられ、これが棟札の起源であるといわれている。現存する古い例としては、岩手県・中尊寺蔵の棟札(保安3年(1122))、同金色堂の棟木銘(天治元年(1124))、また奈良・東大寺三月堂礼堂の棟札(正治元年(1199))がある。民家では奈良県五條市五條の栗山家が慶長12年(1607)の棟札を残し、現存する最古の町屋とされている。

 

当山にも棟札が所蔵されており

歴史を今に伝えております。

 

「棟札に耳を傾ける」と銘打ち

当山所蔵の棟札を紐解きつつ

当山の歴史に触れてまいります。

 

棟札に耳を傾ける前情報として

宝暦9年(1759)の

江戸幕府の御触(おふれ)

により開始された

藩領の社堂の調査をまとめた

『御領分社堂』という

宝暦13年(1763)の書物に

記載される所の

七崎(豊崎の古称)について

見ておきたいと思います。

 

『御領分社堂』は

以下のように

七崎の諸堂の一端が

記載されております。

 


寺院持社堂 五戸御代官所七崎

一 観音堂 四間四面萱葺(かやぶき)

古来縁起不相知

萬治元年(1658)重直公御再興被遊

貞享四年(1687)重信公御再興被遊候

何(いずれ)も棟札(むなふだ)有

(この観音堂は

現在の七崎神社の場所にあったもので

明治になって神社に改められました。)

 

一 大日堂

一 不動堂

一 愛染堂

一 大黒天社

一 毘沙門堂

一 薬師堂

一 虚空蔵堂

一 天神社

一 明神社

一 稲荷社

一 白山社

右十一社堂は観音堂御造営之節

依御立願何も御再興被遊候

小社之事故棟札も無之

只今大破社地斗に罷成候

一 月山堂 壱間四面板ふき

 

一 観音堂 右ニ同

右両社共に観音堂御造営之節

重直公御再興也

(この観音堂は千手観音堂です。)

 

善行院(ぜんぎょういん)

当圓坊(とうえんぼう)

覚圓坊(かくえんぼう)

覚善坊(かくぜんぼう)

右四人之修験は本山派にて

(七崎神社誌では“七崎修験”は

「真言宗なり」とあり

当時の“宗派性”が垣間見られます)

拙寺(永福寺)知行所所附之者共御座候

古来より拙寺(永福寺)拝地之内

三石宛(ずつ)遣置

掃除法楽為致置候


 

ここに記される

お堂の全てではありませんが

棟札が残っております。

 

また

ここに記されていない

お堂の棟札も残っております。

 

棟札一枚一枚に

記されることに

“耳を傾け”ながら

紹介させて頂きたいと思います。

 

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