基礎資料を一部更新しました

2〜3年程前から

当ブログに掲載・更新している

「基礎資料」を一部更新しました。

 

これは

この10年の整理や調査の成果を

反映させて

当山の歴史をたどれるよう

時系列に箇条に記したものです。

 

昨今流布する書籍や文章を見ますと

近代以前の宗派感覚など

専門的に通じていないと

捉えにくい部分についての検討が

不十分なのは仕方ないとして

当山に関わる歴史についての記述について

当山が所蔵する史料(棟札含む)が

書き伝える内容などが

全く踏まえられることなく

仮説に仮説が重ねられた状態で

さもそれが認証され

市民権を得たかのような体裁で

紹介されているものが

多い印象があります。

 

中には

明らかに間違ったものも見受けられ

そのようなものになると

結果的に発信者自身の

研究手法自体に疑念を

抱かせてしまいかねず

信用を失いかねないという

大きなリスクを

抱えていることになります。

 

そもそも

当山が所蔵する文書や仏像などについて

体系的にまとめられ

世に紹介されているような資料は皆無ですし

近世の史料の内容自体に誤植が認められるなど

現状が現状なので

仕方がないことといえるかもしれません。

 

世に出す書籍について

研究畑の方や

研究者的アプローチで執筆する場合

言い切る形で述べる必要があるので

あくまで限りある情報から

述べたということと理解しています。

 

拙僧泰峻も

研究機関に所属して

現在進行形で研究職にもついているので

限界を孕んだ事情は痛いほど分かります。

 

当山については

10年前と現在とでは

整理された情報のボリュームが

格段に異なるので

後々に正式にまとめやすいよう

数年前から基礎資料として

こちらで紹介している次第です。

 

後々にまとめる布石としての基礎資料は

令和5年の事柄も反映させたので

ご興味をお持ちの方に

お役立ていただければ幸いです。

 


※『郷社七崎神社誌』(小泉幸雄、大正15年[1926])を典拠にしたものについては青字で記します。(※一部追記アリ。)

※伝説・伝承含め当山に関連する記述の見られる主な史料の年代等を緑字で記します。前回のものに追記したものがあります。

※弘法大師空海や興教大師覚鑁の両祖大師に関すること、寛永11年[1634]以降の御遠忌(ごおんき)を紫字で記します。

※近世以前(ここでは寛政12年[1625]以前)については、当山の過去帳を主な典拠として橙色で記します。(※一部追記アリ)

  • 開創・圓鏡上人(弘仁8年[817]5月15日ご遷化/過去帳に「當寺開創」と記載/ご遷化の年次から最近では「弘仁初期(810)頃開創」と紹介してきたが、明確なことは分からないため「延暦弘仁年間の開創」と説明されてきた)
  • 月法律師(当山2世/天長8年[831]10月16日ご遷化/南祖法師の師とされる)
  • 七崎観音の“おこり”(承和元年[834]1月7日、八太郎で漁師として暮らしていた京都の四条中納言・藤原諸江卿が観音夢告により、当地に観音様を遷して祀り、それが七崎観音の始まりという由緒譚アリ/坂上田村麻呂将軍[758〜811]が祀ったという話や、諸江卿の娘である七崎姫を七崎観音として祀ったという話が由緒譚としてあるが、実際の経緯については不明[南祖坊を諸江卿の子息とする伝えもある]/大正15年[1926]の『郷社七崎神社誌』では「坂上田村麻呂将軍が当地に来たことは史実」としているが、田村将軍の研究を踏まえると「史実」というのは難しい)
  • 空海ご入定(承和2年[835]3月21日/延喜21年[921]に大師号下賜)
  • 鏡宥上人(貞観10年[868]11月24日ご遷化)
  • 日照上人(仁和3年[887]7月23日ご遷化)
  • 空海に大師号「弘法大師」下賜(延喜21年[921]10月21日/醍醐天皇より)
  • 宥海上人(寛治5年[1091]5月25日ご遷化)
  • 覚鑁入寂(康治2年[1143]12月12日/49年の生涯/元禄3年[1690]に大師号下賜)
  • 開基・行海上人(承安元年[1171]5月に開基/過去帳に「當寺中興」と記載/位牌では表に「開山」、裏に「開基」と記載/全国行脚の後に当地に立ち寄り、村の沼の大蛇を解脱に導き、村人に懇願されて当地に留まられたと伝えられる/旧・観音堂[寺号・徳楽寺、現在の七崎神社の地にあった]の地に、七つ星になぞらえて杉を植えたとされる/建仁年間[1201〜1203]に99歳でご遷化)
  • 鎌倉二階堂永福寺(ようふくじ)の宥玄が、南部氏入部に尽力したため、恩賞として三戸に永福寺(えいふくじ)が建立され、同寺を賜る。さらに、七崎(現在の豊崎)の地も賜ることとなり、古くからある当山も管理することになる。永福寺の僧侶が司るお寺であることから、当山も次第に永福寺と称されることとなった。以後、江戸時代初期まで永福寺の寺号が主に用いられた。
  • 行惠上人(寛元2年[1244]1月26日ご遷化/修円房/当中5世)
  • 『三国伝記』(応永14年[1407]成立/沙弥玄棟/説話集/十和田湖伝説が収録/全360話中120話が日本の説話で、そのうち1割もが『長谷寺験記』関係という特徴がある)
  • 宥漸上人(応仁元年[1467]8月26日ご遷化/当山22世/秀満房)
  • 惠海上人(元和3年[1617]5月19日ご遷化/五輪塔が旧・三戸永福寺[嶺松院(明治に廃寺)]の地に現存/本坊盛岡永福寺30世)
  • 仁王門造営(寛永2[1625])
  • 弘法大師800年御遠忌(寛永11年[1634])
  • 興教大師500年御遠忌(寛永19年[1642])
  • 『雑書』(確認されているのは寛永21年[1644]3月14日〜天保11年[1840]末【欠落箇所アリ】)※江戸時代前期、中尊寺から本坊・永福寺に住職を迎えたことがある(『雑書』にも記述アリ)。現在は中尊寺といえば天台宗寺院の印象が強いと思われるが、かつては真言寺院も構えられており、現代とは異なる“宗派感覚”・“宗派交流”があったことを十二分に踏まえるべきである。近年になって県内や地元の書籍において永福寺や当山がかつて天台宗寺院であったと記述するものが突如見られるようになったが、推定するに中尊寺=天台宗という現代的宗派感覚による読み解きに依るものであろう。天台宗・修験・山伏などの用語について注意深い検討が不十分なまま、現代的宗派感覚で安易に用いられているように感じられる。現住職(65世)が平成23年(2011)に帰山する前後より、当山に学術調査の類は一度も要請されたことも実施されたこともないので、当山関係についてはかなり古い情報が基とされているため、郷土史や伝説の研究や探究には、諸事踏まえたうえで臨まれることを期待したい。【泰峻註】
  • 『寺社記録』(寛永21年[1644]〜天保8年[1837]【欠落箇所アリ】)
  • 本七崎観音(明暦元年[1655])
  • 観音堂並十二末社再興(観音堂3間四方/棟札は明暦2年[1656]に宥鏡上人が作成)
  • 吊灯籠(寛文10年[1670])
  • 弘法大師850年御遠忌(貞享元年[1684])
  • 興教大師550年御遠忌(元禄5年[1692])
  • 現七崎観音(貞享4年[1687]/4間四方の観音堂が再建[棟札が神社にアリ]
  • 覚鑁に大師号「興教大師」下賜(元禄3年[1690]12月26日/東山天皇より)
  • 観音堂並小宮葺替(元禄6年[1693])
  • 『系縁集』(元禄11年[1698]、編者・藤根吉品[重信・行信・信恩3代に右筆として仕える])
  • 『来歴集』(元禄12年[1699]、編者・藤根吉品[重信・行信・信恩3代に右筆として仕える])
  • 殺生禁断札設置(正徳2年[1712]/南部利幹公)
  • 仁王門改造(享保2年[1717])
  • 仁王像(享保3年[1718])
  • 前机(享保9年[1724])
  • 稲荷大明神造営(享保12[1727])
  • 快傳上人逆修建立の墓石(享保14年[1729]、施主信敬とある)
  • 『津軽一統志』(享保16年[1731])
  • 寺屋敷(庫裡)(享保18[1733]/この時に観音山[現在の七崎神社境内]に2000本余の杉を植樹と記載アリ)
  • 弘法大師900年御遠忌(享保19年[1734])
  • 興教大師600年御遠忌(寛保2年[1742])
  • 学秀仏・千手観音坐像(享保年間奉納と推定/学秀仏と思われる不動明王像と大黒天像アリ)
  • 龜峯扁額(享保頃の可能性/落款が「龜峯」「主忠信」「不爾」)
  • 南祖法師尊像(延享元年〜2年[1744〜45]と推定)
  • 賽銭箱(寛保3年[1743]12月)
  • 『奥州南部糠部巡礼次第』(寛保3年[1743]6月3日〜18日の15泊16日で則誉守西上人ら14名が巡礼)
  • 『祐清私記』(著者・伊藤祐清は寛保元年[1741]に諸士系図武器右筆等諸用掛りについており、この際に収集した諸資料や記録をもとに編集したと見られている)
  • 『寛延盛岡城下図』(寛延年間[1748〜51]/本坊・盛岡永福寺ほか関係寺院が記載されている)
  • 御輿再修覆(宝暦6年[1756]/神社誌にも記載されるが棟札は当山所蔵
  • 鳥居新築(宝暦10年[1760]春)
  • 『御領分社堂』(宝暦10年[1760]頃)
  • 愛染堂再興(宝暦13年[1763])
  • 不動堂再興(宝暦13年[1763])
  • 天照皇大神宮再興(宝暦13年[1763])
  • 大黒天堂造営(宝暦13年[1763])
  • 仁王門修造(宝暦13年[1763]3月)
  • 御輿新造(明和2年[1765]3月)
  • 『平泉雑記』(安永2年[1773]/南祖坊が植えた姥杉の伝説)
  • 夫婦地蔵(安永3年[1774])
  • 弘法大師950年御遠忌(天明4年[1784])
  • 『いわてのやま』(天明8年[1788]/菅江真澄の紀行文/十和田湖伝説関連)
  • “十和田の本地”(天明期[1781〜89]には南部藩領で語られた奥浄瑠璃/諸本多し)
  • 鈸(寛政2年[1790]/宥慎上人により奉納)
  • 興教大師650年御遠忌(寛政4年[1792])
  • 荒神堂再建(寛政5年[1793]8月6日)
  • 『邦内郷村志』(明和・寛政年間/大巻秀詮)
  • 地蔵菩薩(享和2年[1802]/現在、位牌堂本尊)
  • 『十曲湖』(文化7年[1807]/菅江真澄の紀行文/十和田湖伝説関連)
  • 『篤焉家訓』(文化・天保年間[1804〜44]/市原篤焉)
  • 鐘楼堂再建(文化5年[1808]/神社誌にも記載されるが棟札は当山所蔵
  • 愛染明王(文化7年[1810]/宥瑗上人により奉納)
  • 本堂再建(文化8年[1811])
  • 千手観音堂再建(本堂再建と同時期)
  • 香炉(本堂再建と同時期/宥瑗上人により奉納)
  • 観音堂扁額(文化14年[1817]/三井親孝の書)
  • 『竹田加良久里』(文政6年[1823]/持仏堂主人)
  • 『当時十和田参詣道中八戸よりの大がひ』(文政年間のものと見られている/十和田湖参詣道について)
  • 『十和田記 全』(文政12年[1829]成立と見られている/「御縁起見る心得のケ条覺」に彼岸中日に青龍大権現[南祖坊]来臨のいわれに触れられている)
  • 秋葉権現堂再建(天保4年[1833])
  • 『盛岡砂子』(天保4年[1833]/星川正甫)
  • 弘法大師1000年御遠忌(天保5年[1834])
  • 吊灯篭(天保8[1837]/宥威上人により奉納)
  • 不動尊祈祷札(吊灯籠と同時期と推定/権僧正とあるため瑜伽者は晩年の宥威上人)
  • 鰐口(天保12[1841]/河内屋により奉納)
  • 興教大師700年御遠忌(天保13年[1842])
  • 八体仏(弘化年間[1845〜48])
  • 稲荷大明神(嘉永2年[1849]/普賢院宥青[当山先師]、善明院栄隆[修験“善行院”14代])
  • 『鹿角日誌』(嘉永2年[1849]7月16日〜8月3日の日誌/松浦武四郎)
  • 『八戸浦之図』(嘉永年間[1848〜1855])
  • 一王子再建(安政4年[1857]8月)
  • 『十和田山神教記』(万延元年[1860])
  • 観音堂再修(安政10年[1863])
  • 七崎観音遷座(明治2年[1869]/旧観音堂より仏像・什器など一式が移される/しかし、旧地への参詣者が見られたため旧地へ小堂を作り旧神宦神殿へ再遷座[『伺』の記述内容と僧侶としての知見から、再遷座されたのは現七崎観音と思われる])
  • 斗南藩縁故者墓石16基(主に明治4〜5年[1871〜72])
  • 旧神臣略系(明治7年[1874])
  • 七崎観音遷座(明治9年[1876]12月/明治2年に旧地へ再遷座した七崎観音を普賢院へ再々遷座/移されたのはおそらく現七崎観音)
  • 『伺』(明治10年[1877]/青森県令 山田秀典にあてたもの/文化6年(1809)奉納された梵鐘に関する伺い/明治初期における七崎観音遷座の経緯について述べられている)
  • 『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])
  • 『奥々風土記』(江刺恒久が南部利剛の命により編纂)
  • 弘法大師1050年御遠忌(明治17年[1884])
  • 観音堂内御堂造立(明治19年[1886])
  • 興教大師750年御遠忌(明治25年[1892])
  • 興隆講規則(明治34年[1901]/観音講を組織化して再興)
  • 『目録』(明治36年[1903]/明治になり旧観音堂から移されたものをまとめたもの)
  • 十三仏掛軸木箱の蓋(明治39年[1906])
  • 本堂屋根葺替(大正3年[1914]12月)
  • 七崎山龍神堂木札(大正4年[1915]5月)
  • 『郷社七崎神社誌』(大正6年[1917]/小泉幸雄)
  • 『糠部五郡小史 附 三戸名所旧蹟考 埋木の花 鄙の土』(大正11年[1922]/当地については小泉幸雄氏が記述している)
  • 地蔵菩薩(明治末〜大正期/一時当山の代務者をつとめた赤穂覚信師が作仏)
  • 北沼観音(昭和2年[1927]蓮沼にて発見、昭和4年[1929]旧8月17日建立)
  • 観音堂並仁王門改築(昭和6年[1931]/『七崎観世音道場普請報告書』に記載)
  • 子安地蔵堂(昭和6年[1931])
  • 『十和田湖鳥瞰図』(昭和8年[1933]/吉田初三郎/七崎観音と永福寺[普賢院]が描かれている)
  • 弘法大師1100年御遠忌(昭和9年[1934])
  • 本堂庫裡修繕(昭和9年[1934]/長峻和尚尊霊歎徳文に記載)
  • 大日坊大黒天(昭和10年[1935]頃と推定/61世長峻上人は昭和10年に大日坊88世住職にも就任)
  • 割切五條袈裟(昭和11年[1936]11月/長峻子息・晃雄師[後に出征し戦死])
  • 興教大師800年御遠忌(昭和17年[1942])
  • 戦勝祈願札3枚(戦争期)
  • 本堂屋根葺替(昭和22年[1947]12月/戦後の統制経済の様子を伝える記述がある)
  • 「北ノシノキ」と書かれた木板(昭和22年[1947]12月12日/3名の名が列記)
  • 『永福寺物語』(昭和22年[1947]/山岸郷友会編集部/江戸期まで本坊であった盛岡永福寺は明治になり廃寺。その後、昭和17年[1942]に再興が許可。盛岡に再興された永福寺の場所は、東坊[普賢院]だった場所。本誌は再興永福寺の落慶記念。)
  • 本堂修築(昭和26年[1951]/写真アリ)
  • 戦没者慰霊碑(昭和37年[1962]11月)
  • 北沼観音を八太郎から普賢院に遷座(昭和39年[1964])
  • 本堂改築並位牌堂新築(昭和51年[1975])
  • 観音堂宮殿塗装修復(昭和56年[1981])
  • 弘法大師1150年御遠忌(昭和59年[1984])
  • 子安地蔵厨子(昭和59年[1984])
  • 仁王門新造並山号札・観音札所札(昭和59年[1984])
  • 観音堂内陣格天井並中台八葉院法曼荼羅及新装照明(昭和60年[1985])
  • 聖観音像奉納(昭和60年[1985]1月24日/施主 中村元吉・ミチ夫妻/内殿に安置)
  • 子安地蔵内格天井(昭和60年[1985])
  • 観音堂内格子前扉(昭和61年[1986])
  • 鐘楼堂建立(平成2年[1990])
  • 興教大師850年御遠忌(平成4年[1992])
  • 本尊厨子(平成5年[1993])
  • 客殿並位牌堂新築(平成12年[2000])
  • 鐘楼堂修繕(平成25年[2013])
  • 十和田神社・普賢院合同祈祷(令和元年12月9日/南祖法師尊像出開帳/十和田湖占場にて取水し、浄水を合同祈祷にてお加持)
  • 長谷寺式十一面観音三尊造立(令和2年[2020]/仏師・小堀寛治氏)
  • 普賢院中興64世 泰永大和尚遷化(令和3年9月8日/生前中自身の手による仏具・仏画を多く残したうえ、修繕も多く行っている)
  • 絵本『龍になったおしょうさま』制作(かたり部によるプロジェクト/令和3年8月〜10月クラウドファンディング実施、12月完成)
  • 大般若経全600巻新調(令和3年/文化7年の火災により焼失したとされるため、本堂建替にあたり新調)
  • 本堂建替(令和2年10月解体、令和3年5月19日地鎮式、7〜9月基礎工事、同年11月建方開始、11月9日立柱式、令和4年3月6日上棟式、12月12日落慶式/施工・松本工務店)
  • 本尊・愛染明王像、仁王像、普賢菩薩像、本七崎観音像修繕、ほか仏具修繕(令和2年秋彼岸後に搬出/施工・阿部正助商店)
  • 須弥壇・密壇・護摩壇ほか修繕、観音堂賽銭箱ほか制作(施工・五戸木工)
  • 権現像・薬師如来像奉納(令和4年9月/施主・小坂明氏[コサカ技研会長]/いずれも関頑亭[1919-2020]による脱活乾漆像/開眼法要は関係者参列のもと令和5年10月21日に厳修)
  • 龍王・龍女像制作・奉安(令和4年/造立願主・普賢院弟子太陽坊[勧進を呼びかけ、有志勧募により制作]/仏師・小堀寛治氏)
  • 十和田湖青龍大権現碑建立(令和4年/施主・根城番地石材店)
  • 会津斗南藩供養所整備(令和4年)
  • 合葬墓建立(令和4年)
  • 弘法大師御生誕1250年(令和5年/65世住職晋山・本堂落慶の記念もかね、有志で団参を6月6〜8日に実施[総本山長谷・岡寺・仁和寺・東寺ほか参拝])
  • 不動明王像引受(令和5年4月28日/不動護摩の砌、八戸市内の旧家[旧修験家]より引受)
  • 不動明王像修繕(令和5年5月:旧家より引き受けたものの破損状態が激しかったため仏師・小堀寛治氏に修繕を依頼/6月に修繕完了し奉安)
  • 幢幡を内陣に奉納(令和5年6月30日/施主・田中久一氏)

初不動の祈りをご一緒しませんか?

本年も毎月28日に不動護摩を行います。

 

今月28日は

当年初めのご縁日なので

初不動といいます。

 

先に発生した

能登半島地震の被害状況に

心が痛みます。

 

被災された皆さまに

心よりお見舞い申し上げます。

 

当山では

様々な取り組みに

日本を含む国際協力活動の要素を

持たせておりますが

先般発生した震災復興への支援に

当面は注力させていただきたいと思います。

 

初不動の護摩にあたっては

ご参列される方ご自身の

願いをお捧げいただくとともに

復興への祈りもお捧げいただきたく

お願い申し上げます。

 

新本堂での初めての南祖祭

法事や通夜などで

バタバタしていた中ではありましたが

現在の本堂で初めての

南祖祭を行うことが出来ました。

 

十分な準備の時間はありませんでしたが

とても良い具合に

落ち着いたように感じています。

 

今回の法式を叩き台として

来年はさらに良い時間になるよう

励みたいと思います。

 

本日の祭事は

友人の協力を得て

ライブ配信しました。

 

拙僧泰峻

9月以降は諸事猛烈に立て込んでおり

動画を編集する時間を

確保するのが難しくなっているため

ライブ配信で一部行事の様子を

お伝えしております。

 

ライブ配信なので

大小トラブルがあったりするのですが

大まかにでも様子を

把握していただければと思っています。

 

もしよろしければ

本日の南祖祭の様子を

ご覧くださいませ。

 

 

明日は南祖祭を行います

明日は午後3時から

南祖祭を行います。

 

手探りでの開催ではありますが

当山ならではの祭事として

今後続けていくことを

目指しております。

 

ご都合よろしい方

ご興味をお持ちの方は

ぜひご一緒くださいませ。

 

南祖祭の授与品のご案内

12/9は午後3時から

南祖祭を行います。

 

受付は午後2時30分からです。

 

本堂が新しくなって

初めての南祖祭となります。

 

授与品として

南祖法師の紙札を用意します。

 

それと

2年前にクラウドファンディングで制作した

絵本『龍になったおしょうさま』も

入用の方に頒布させていただきます。

 

絵本は残部が極少数なので

当日現地でのみの

頒布とさせていただきます。

 

絵本には

御朱印ページがあり

それ用の御朱印(押印式)もあるので

絵本をお持ちの方は

持参されて御朱印を

いただいてみてはいかがでしょう?

 

 

日に日に増してく年末感

明日が写経カフェなので

法事を終えてその準備に

全力を注ぐはずが

気晴らしに取り組んでしまった

年末年始の行事画像制作に精を出し

研究所の情報管理について

所長と主任にもご意見を伺ったりと

すっかり横道にそれてしまいました。

 

そもそも本日

やる予定ではなかったのですが

思いついてふと取り組んだもの

それぞれが良い形になったので

とても満足しています。

 

メインだったはずの

写経カフェの資料作りも

夜になって何とか終わりましたし

結果的には

とてもよく頑張った1日となりました(笑)

 

素敵な行事案内の画像が出来たので

本日はこちらに掲載させていただきます。

 

インスタ絵本を更新しています

2021年に

クラウドファンディングで制作した

絵本『龍になったおしょうさま』の

AIアート版「Nanso-Boy」を

インスタでアップしています。

 

本編が15話で構成されていまして

かなり不定期になってしまいましたが

本日までで9話分の画像を

公開しております。

 

ご興味をお持ちの方は

ご覧いただけると幸いです。

 

Nanso-Boyと表記したのは

実はきちんとした理由があり

南祖の持つNansoという

音の連なりに注目して

声字実相(しょうぎじっそう)という

考え方によって考えてみると

とても興味深い意味が

込められているのです。

 

修験者や語り部により

広く様々に語られてきた

十和田湖伝説ですが

そのコアな部分について

超専門的なものが実は踏まえられていると

推定することは可能と思いますし

伝説にもともと深く関わる

当山や関係寺院の諸事を踏まえてみると

可能性はかなり高いと思います。

 

12/9開催の南祖祭では

そういったことにも触れて

仏道的なアプローチで見る

伝説についてお話したいと思います。

 

 

 

本尊おとなりの普賢菩薩

本尊愛染明王に向かって

右側に祀られるのは

普賢菩薩(ふげんぼさつ)

という尊格です。

 

当山の普賢菩薩は

儀軌(ぎき)という

形式や方式がまとめられる

経典に見られる形相ではありません。

 

普賢菩薩として

祀られる尊格ですが

そのお姿は

菩薩形というより

弁財天や吉祥天といった

天部のお姿に近いように思います。

 

意図をもって

あえてこのような形相で

普賢菩薩を造仏した

可能性もあるのですが詳細は不明です。

 

とても柔らかな雰囲気の

素敵な尊格です。

 

以前は一部破損しており

全体的に塗料が剥げかかっていましたが

令和4年(2022)に修繕していただきました。

 

蓮を両手で執っており

その手にも印相(いんそう、意味のある手の形の意)

が見られるのが特徴のひとつです。

 

右手で蓮の茎の下方を執り

左手は頭指(ずし、人差し指の意)を立てて

残りの四指で蓮の茎を包むような形です。

 

右手は仏

左手は衆生を象徴することを踏まえると

この手の形に託された意味・願いが

浮かび上がってまいります。

 

この手の形や持物である蓮の形に

当山の普賢菩薩が宿す

本誓(ほんぜい)本願(ほんがん)の

一端を紐解く鍵があるといえます。

 

このことについては

機会を改めて

ご紹介してみたいと思います。

 

南祖祭のご案内

12月9日に

南祖祭(なんそさい)を行います。

 

南祖祭とは

十和田湖伝説の南祖坊で有名な

南祖法師(なんそほっし)に

祈りを捧げるひとときです。

 

法要と法話を行います。

 

南祖法師は

当山第2世・月法律師(がっぽうりっし)の

弟子とされます。

 

当山にはそのお像である

南祖法師尊像(なんそほっしそんぞう)が

祀られています。

 

また本年春に

南祖法師の御影(みえい、お姿の意)の軸を

新調いたしました。

 

今回の南祖祭では

御影軸の開眼も行います。

 

ご参列の方には

法要の途中で内陣にお入りいただき

御影軸と南祖法師尊像に

お参りいただきたいと思います。

 

 

南祖祭〜伝説に思いをはせつつ祈りを捧ぐ〜

日程 2023年12月9日

内容 法要と法話

時間 法要15時〜(受付は14時30分〜)終了後、法話【終了は16時頃】

会費 お気持ちの程、お布施としてお納め下さい。

会場 普賢院本堂

※申込は不要です。

 

法話は

「南祖法師の物語に見る仏道アラカルト」

と題して行わせていただきます。

 

十和田湖伝説は

現在も様々に語られていますが

仏道の観点からの紐解きは

管見する限り見られません。

 

仏教的解釈の試みをしようとしても

仏教学や真言学といった超専門的な

教相(きょうそう)と事相(じそう)に

通じていなければ

なかなか難しいのが実際だと感じます。

 

史料・資料を読み解くだけでは

なかなか浮かび上がってこない

躍動的な部分の照射は

仏道的観点が必要です。

 

そのような観点により

再検討してみることは

これまでとは違った角度から

光を当てることなので

新鮮な印象を

抱いていただけるように思います。

 

ちょっと余談ですが

ここ数年で

当山が所蔵する

文書や仏像などについての情報が

“大幅にアップデート”され

以前まで分からなかったことが

多く判明しています。

 

そういったことにも

触れながら今後は

様々な機会に

発信したいと考えています。

 

仏道は歩み方です。

 

では

十和田湖伝説が宿す「光」は

どのように歩み方を

照らしてくれるのでしょうか?

 

そんなことを

南祖法師ゆかりのお寺の住職として

さらには法燈を継承する

傳燈大阿闍梨として

お伝えすることが

役目のひとつと捉えています。

 

拙僧泰峻は現在

真言宗豊山派総合研究院

現代教化研究所常勤研究員という

お役目も預る身でもあるので

一研究者という立場からも

述べさせていただきたいと思います。

 

当日は時間の関係上

多くを語ることは難しいでしょうが

その一端をお伝え出来ればと思います。

 

伝説に思いをはせながら

祈りを捧げるひととき南祖祭。

 

どなた様もご参加いただけるので

ご都合のよろしい方

ご興味をお持ちの方は

ぜひご一緒くださいませ。

 

普賢院本尊の愛染明王③

各お寺の本尊と呼ばれる尊格(仏様)は

そのお寺の中心となるもので

とても重要な意味を持ちます。

 

普賢院の場合は

愛染明王が諸仏中において

最も重要な意味が託されています。

 

真言宗の本尊は大日如来という

色々な意味で

とんでもないスケールの尊格で

諸尊のみならず森羅万象の

本質や本地であると捉えます。

 

尊格でいえば

愛染明王も不動明王も観音菩薩も

大日如来の応身(おうじん)つまり

お姿のひとつのあり方であり

弁財天や大黒天などの諸天も諸神も

しかりというわけです。

 

木の幹と枝の関係で例えると

幹が大日如来で

枝が諸尊ともいえます。

 

こうした考え方は

真言宗でとても重要な曼荼羅(まんだら)を

理解するために欠かせないものです。

 

根本を同じくしながらも

諸尊はそれぞれ特徴的なお姿をしており

その違いは強調される御教えによるといえます。

 

根本的な意味を持ちながら

諸尊の差異により

一層躍動的に御教えを示すような

イメージを拙僧は抱いています。

 

大日如来が宿す御教えは

あらゆる諸尊にも通じている

といった方が分かりやすいかもしれません。

 

愛染明王には具体的に

どのような御教えが

託されているのかを

前回も引用した文章を

手がかりに見てみたいと思います。

 

今回は

下記1の赤い部分について

ご紹介いたします。

 

  1. 梵語羅誐(らぎゃ)は彩色・赤色・情欲等の義なり、故にその愛欲染着(あいよくせんじゃく)の義を取りて愛染王または染愛王という。この尊は愛欲貪染をそのまま浄菩提心とする三昧にして、瑜祇経(ゆぎきょう、金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経のこと)を本軌とす。(中略)衆生の本有倶生(ほんぬぐしょう)の欲染(よくせん)を直に浄菩提心の金剛薩埵(こんごうさった)の染愛三昧の化身とし、これを愛染明王とす。

  2. また金剛王秘密儀軌にこの尊の真言を説きて金剛王の真言とせり。王に鉤召(こうしょう)の徳ありて海内の民みな王に帰するが如く、愛染よく衆生を鉤召するが故に愛染王と名づけ、金剛王菩薩の化身とす。

  3. また菩薩の大悲は衆生を愛念したまうこと世間の恩愛の如く、この尊は敬愛の三昧にして、衆生をして仏の妙法を愛着せしめ、煩悩即菩提の理に入らしむ、これ金剛愛菩薩の化身なりとす。

  4. ただし金剛王菩薩とは、金剛薩埵の異名なるのみならず、薩・王・愛・喜の四菩薩は共に東方大圓鏡智(だいえんきょうち)菩提心門の尊にして体同義別なるが故に、結局本身は金剛薩埵なり、従って金剛薩埵の十七尊を眷属(けんぞく)とすることあり。

  5. また薩埵(金剛薩埵のこと)即大日の故にこの尊を直ちに大日如来とし、三十七尊を眷属とすることあり。あるいは瑜祇経の大勝金剛心瑜伽成就品第七に愛染王根本一字心明を説けるが故に、大勝金剛は愛染と同体なりとす。覚禅鈔には平等王・咤枳王等の異名を挙ぐれども本拠未審。

  6. 密号を離愛金剛といい、白寳口鈔に離は生死の業因を離れ、愛は菩提の妙果を愛する義にして、離染即愛染なりと釈せり。

『密教大辞典』より引用(※一部ひらがな・簡体字に改めています。一部送りがな・説明を捕捉しています。番号は筆者住職によります。)

 

改めて赤字にした部分を見てみましょう。

この尊は愛欲貪染をそのまま浄菩提心とする三昧にして

愛染明王の愛は

平たくいえば煩悩を指しており

愛染明王が司る

代表的な御教えは

煩悩即菩提というものです。

 

誰しも抱く煩悩は

本質的には穢れないものであるという

御教えが託されております。

 

ただし

この御教えは注意深く捉える必要があり

煩悩がそのまま尊いとしているわけではなく

“本質的に”という部分が大切ですし

仏道において煩悩がどのように捉えられているかを

前提として空(般若の思想)の視点に立って

煩悩即菩提であるとしなければなりません。

 

愛染明王は

むやみに祀ってはならないとされた尊格で

時代によっては特別な許可や

格式がなければ

お寺の本尊にすることが出来なかった尊格です。

 

それは

生半可に御教えを解釈すると

危険とされたからでもあります。

 

論理的に説明するのであれば

多くの説明事項があるので

ここではしませんが

愛染明王には

私たちの生き方を

強く後押ししてくれるような

メッセージが込められています。

 

真言宗で重要視される経典に

『般若理趣教』というお経があり

その教主は愛染明王ともされ

愛染明王に託された御教えに通じています。

 

『般若理趣教』は

法事や葬儀でよく唱えられるものですが

かつてはかなり修行を積んだ僧侶でなければ

扱うことが許されなかったお経です。

 

その理由は

先程と同様で

生半可な状態で取り扱うと

誤った解釈になりかねないためです。

 

そのため

拙僧も愛染明王や般若理趣教について

お伝えするにあたり

注意しながらご紹介したいと思います。

 

煩悩即菩提

という御教えが

代表的なものとして

託されているということを

今回のまとめとしまして

また次回につづけたいと思います。

 

つづく