糠部三十三観音霊場
第25番札所
悟真寺(ごしんじ)。
三戸町同心町のお寺です。
門を入り右手側に
札所の観音様が祀られる
観音堂がございます。
こちらのお寺には
会津藩士戊辰殉難者招魂碑が
建立されております。
三戸の旧会津藩士の方々が
会津有縁者の慰霊のために
建立したものです。
会津藩は再興を許され
北の地に斗南藩を立藩しました。
始めは五戸に藩庁が置かれ
後に下北の円通寺に
藩庁が移されます。
斗南藩の方々は
見知らぬ北の地に移られ
大変なご苦労を強いられたと
伝えられております。
悟真寺観音をお参りの際は
招魂碑にもお手を合わせて頂き
激動の時代におもいを
馳せられてみてはいかがでしょうか。





糠部三十三観音霊場
第23番札所
早稲田観音。
こちらはかつて
当山前身である永福寺の
堂宇が建立された地です。
現在は永福寺の
後身であるお寺は
三戸にはありませんが
嶺松院(れいしょういん)という
永福寺自坊が明治時代までは
存在しておりました。
永福寺の起源は
不明な所が多いのですが
永福寺の寺伝によれば
延暦13年(794年)に
坂上田村麿公により
奥州六観音の1つとして
現在の当山の地に
十一面観音を祀る
祈願寺として建立された
とされます。
寺伝によれば
永福寺は別院として
別所にも堂宇を
構えたとされます。
永福寺と深く関わったことを
今に伝えるものとして
早稲田観音のお堂裏手に
広がる墓地内に
永福寺僧侶の
五輪塔や供養塔がございます。
永福寺の先師方に
限ったことではありませんが
かつては供養塔として
墓石を縁故ある各地に
建立するということは
珍しいことではありません。
もちろん世間一般的な
ことではありませんが
僧侶でいえば
縁故あるお寺数カ所に
墓石や位牌が祀られることは
よく見られることです。
早稲田の地に
永福寺僧侶にまつわるものが
残されていることが
三戸の地が永福寺と
とても縁が深い場所である
ことを物語っております。






糠部三十三観音霊場
第23番札所
早稲田観音。
三戸郡南部町の
新羅神社のすぐそばに
札所の観音堂があります。
こちらの本尊は
十一面観音という観音様です。
早稲田観音の地は
かつて永福寺の堂宇(どうう)
があった場所でもあります。
当山の前身である永福寺は
三戸にも堂宇を構えたと
寺伝は伝えております。
永福寺が祈願所として
殊に大切にされたのは
宮中祭祀とも深く関りのあった
真言宗の「法流」を受け継ぐ
お寺であったことが
大きな理由であろうと
考えられます。
後七日御修法
という行事をご存知でしょうか?
今もなお東寺にて
年頭に行われる国家安泰を
ご祈願する尊い行事ですが
弘法大師の御代より
真言宗が担っているものです。
永福寺が
南部家累代の祈願所
とされたのは
由緒ある法流を受け継いでいた
ことが大きな理由であったのだと
思われます。
南部実光公が
建久2年(1191年)に
三戸城の鬼門の位置である
早稲田の地に永福寺を
建立したと伝えられますが
鬼門の地に
七崎の地で古い歴史のある
永福寺を早稲田の地にも
わざわざ建立したことから
いかに大切なお寺であったかが
伝わるかと思います。
早稲田観音と
永福寺のかかわりについて
次回またお話させて頂きます。



糠部三十三観音霊場
第26番札所
清水寺(きよみずでら)観音。
田子町にある
真清田(ますみだ)神社が
26番札所となっております。
こちらの神社は
かつて金龍山清水寺
というお寺でした。
創建は坂上田村麿公と
伝えられます。
糠部三十三観音霊場には
明治の神仏分離以降に
お寺から神社に改められた
札所が多く見られます。
観音様は
神様にも連なる尊格として
多く祀られた歴史があります。
歴史的なことを述べると
そもそも明治以前は
寺社仏閣に明確な線引きを
することは稀だったのです。
東北全般に共通する話として
田村将軍が開基とされる
寺社仏閣は多く存在します。
当山も例外ではなく
前身である永福寺は
田村麿公が奥州六観音の1つとして
十一面観音を祀り建立された
と伝えられております。
田村将軍が直々に
足を運ばれて開基したか
否かは別として
田村将軍の影響力がいかに大きな
ものであったかを
今に伝えるものと思います。
坂上田村麿公は
京都の清水寺を建立され
観音様を殊に大切にされたことで
すこぶる有名な方です。
26番札所もお寺であった頃は
清水寺の名がついております。
伝説ゆかりの観音様として
長らく大切にされてきた
清水寺観音。
伝説を感じながら
お参り下さいませ。




当山はかつて
永福寺という名前でした。
当山の創建は古く
そのルーツは
平安時代にまで
遡ります。
その起源には
諸説ありますが
1つの説として
奥州六観音のひとつとして
坂上田村麿公が建立した
観音堂が当山のルーツで
あるといわれます。
当山のある地域は
七崎(ならさき)と呼ばれます。
この七崎の地を古くは
「田村の里」といったそうです。
その田村とは
田村将軍に由来するとのことです。
田村将軍自らがこの地に
赴いたという史実はありませんが
田村将軍指揮下に展開された
奥州における一連の動きの中で
七崎の地に観音堂が建立され
この地が田村の里と
呼ばれるに至ったと
永福寺縁起は伝えております。
その観音堂の本尊は
十一面観音という観音様
であったといわれます。
ちなみに当山本尊は
現在は愛染明王ですが
かつては十一面観音でした。
江戸期の火災の後
現在の本尊様をお迎えしましたが
それまでは十一面観音が
本尊でした。
田村将軍の伝説は
東北各地に伝えられておりますが
当山にも伝えられております。
田村将軍は観音信仰に
篤い方であったそうです。

学びを深めるべく
斗南(となみ)藩に関する
書籍を用意しました。
斗南藩の歴史は
わずか1年8ヶ月しかありません。
資料も決して多い訳ではありません。
当山境内には
斗南藩の方々の墓石が
16基ございます。
その歴史について
後世に伝えるためにも
学びを整えていきたいと思います。

3/28は下北半島の
むつ市大湊へ赴きました。
大湊にございます
同宗派の常楽寺にて
厳修された涅槃会(ねはんえ)
というお釈迦様の法要に
出仕して参りました。



むつ市は
斗南藩(となみはん)
ゆかりの地でもあります。
斗南藩とは
旧会津藩の方々が
明治時代初頭
北の地に再興した藩です。
当山墓地には
斗南藩の方々の墓石が
十数基残っております。
下北むつの地にも
斗南藩の方は海路により
入られました。
大湊にございます
斗南藩士上陸の地。
斗南藩の藩庁が置かれた円通寺。
その他、斗南藩ゆかりの場所に
立ち寄らせて頂きながら
歴史におもいを馳せた
1日となりました。





本年は
酉(とり)年です。
各干支にはその年の
守り本尊があります。
本年の守り本尊は
不動明王(ふどうみょうおう)
という仏様です。
不動明王は
“お不動さま”として古くより
親しまれる仏様です。
当山には
十二支本尊(八体仏)が
観音堂内にお祀りされております。
当山にお参りの際は
皆様ご自身の干支と併せ
本年の守り本尊であるお不動さまも
お参りされてはいかがでしょうか。


境内に
当山の主な尊格の幟(のぼり)が
設えられました。
南祖法師(なんそほっし)の幟も
掲げられております。
幟や旗そのものは
仏道のみおしえの象徴でもあり
仏道の歩みへの導きを意味します。
幟には
南無愛染明王
南無不動明王
南無観世音菩薩
南無地蔵菩薩
南無大師遍照金剛
南無稲荷大明神
南無南祖法師大薩埵
という文言が記されております。
これらの文言は各尊格の
宝号(ほうごう)、称名(しょうみょう)
であるとともに
仏道のこころが託された
“短いお経”です。
お経のしたためられた
幟の1つ1つは
万人の平安への願い
そのものでもあります。
お参りされる方の
目にも鮮やかな
新たな彩りが添えられ
境内が華やぎました。
時々の風に揺れ
たなびく幟に
仏道のこころを
“躍動的に”
感じて頂ければと思います。



当山本堂裏手に
お祀りされる
稲荷大明神(いなりだいみょうじん)は
嘉永2年(1849)に
建立されたものです。
稲荷大明神は
「おいなりさま」として
一般に親しまれてきた
“神様”です。
仏道において“神様”を
神祇(じんぎ)といいます。
明治時代以前は
仏と神は連なるもとして
お祀りされておりました。
石碑側面に
嘉永二酉年
五月十九日
と刻まれております。
平成29年より
さかのぼること
168年前に建立されたものです。
おいなりさまには
種々の功徳があると
伝えられます。
当山にお参りの際は
おいなりさまにも
お立ち寄り頂き
願い事をお捧げ下さいませ。


