太陽や星の観察での気づき

境内周辺の立木伐採が終わり

一気に視界が広がってから

太陽や星の動きを

これまで以上に

観察するようになりました。

 

普賢院の開創は

平安初期にさかのぼりますが

お寺の位置が

天体の動きと関連付けて

定められていると思われます。

 

そのような理由もありまして

太陽や星の動きを

観察しています。

 

特に今の時期は

1年の中でも日が長く

日昇も日没も

最も北よりになるので

こまめに記録をとっています。

 

大人の自由研究

といったところでしょうか。

 

星との関わりでいうと

普賢院を承安元年(1171)5月に

開基(中興)開山された

行海上人は

北斗七星にまつわる

伝説が伝えられる住職です。

 

お話しとしてだけではなく

実際に星を観察してみると

これまでにはなかった

気づきも得られます。

 

その気づきのひとつを

紹介しますと

1171年5月という

時季についてです。

 

今の時季は

1年でも最も日が長いと

記しましたが

本年の夏至は

6月21日となります。

 

夏至は

1年で最も日が長い日です。

 

本年6月21日は

旧暦ですと5月12日になります。

 

調べてみると

夏至は旧暦5月にあたる

ことになっているそうです。

 

1171年についても

調べてみると

旧暦5月12日が夏至でした。

 

観察をきっかけに

そんな伝説の一要素に

気がつくことが出来ました。

 

実際に調べてみることは

やはり有意義だと感じつつ

味わいながら

観察を続けたいと思います。

 

▼本日の日没の光景

 

▼昨日の様子

会津斗南藩供養所の基礎工事も始まりました

本堂基礎工事に先行しての

墓地の工事。

 

昨日より

合葬墓の基礎工事が始まり

本日から

会津斗南藩供養所の

基礎工事も始まりました。

 

普賢院には

会津斗南藩縁故者の墓石が

16基現存しており

激動の歴史を今に伝えています。

 

その墓石を

移設して整備して

中央に供養碑を建立して

供養所とする予定です。

 

会津斗南藩縁故者の墓石は

土の上に安置していた関係で

場所によっては傾いたり

時によっては倒れたり

していたのが

気がかりだったのですが

供養所スペースが整えば

これまで以上に丁寧に

ご供養させていただけます。

 

本堂建替事業における

境内整備の一環として

合葬墓建立も

会津斗南藩供養所の整備も

行われるのですが

これも当事業に多大なる

ご協力をいただいた

有縁の皆様のおかげと

心から感謝いたします。

 

▼合葬墓の建立地

 

▼会津斗南藩縁故者供養所と

古い墓石の移設スペース

 

▼会津斗南藩縁故者の墓石と

移設される古い墓石

 

▼掘り出された土の山

 

▼合葬墓イメージ

三戸大神宮を訪ねました

南部町、田子町の当山関連地を

回っていたときに

たまたま立ち寄った三戸大神宮。

 

境内は掃き清められており

すがすがしい気持ちで

お参りさせていただきました。

 

こちらは会津斗南藩

ゆかりの地でもあります。

 

当山にも

斗南藩縁故者の墓石が16基あり

そのようなことから

足を運ばせていただきました。

 

すると

こちらの祖霊社がある所が

明治に廃寺となった

当山有縁の正智院というお寺の

跡地であることを知りました。

 

当山先師の中には

正智院住職を歴任された方が

いらっしゃいます。

 

当山先師には

正智院以外にも

現在は廃寺となっている

お寺の住職をつとめた方が

何人も見られるのですが

これは貴重な歴史を

今に伝えているように思います。

 

三戸大神宮ですが

突然の訪問にも関わらず

宮司さんが丁寧にご案内下さいました。

 

趣向を凝らした

取り組みをされていらっしゃり

地域の皆様に

親しまれている神社ということが

伝わってまいりました。

 

早稲田観音〜三戸永福寺と七崎永福寺(普賢院)〜

普賢院の住所は

「永福寺(えいふくじ)」

となっていますが

これはかつての寺院名が

永福寺であったことを

今に伝えています。

 

当山は鎌倉〜江戸時代初期に

永福寺という寺号(お寺の名前)が

主に用いられていました。

 

寺号ついでにいえば

本堂建替に伴う

所蔵物の整理・調査の中で

古い聖観音御影版木の山号寺号が

「七崎山普賢院」となっている

ものを発見しました。

 

これまで

「七崎山」という山号は

当山が長く別当を担っていた

旧観音堂の寺号「徳楽寺」

と“セット”のものとして

当然のように捉えられてきました。

 

「七崎山普賢院」と

刻される版木の発見は

その“定説”を再考する余地が

大いにあることを示すといえます。

 

確認ですが

旧観音堂は明治まで

現在の七崎神社の地にありましたが

明治になって廃寺となり

跡地は七崎神社に改められました。

 

棟札等を踏まえるに

徳楽寺という寺号は

15世紀半ば頃〜後半に

用いられ始めたと推定しています。

 

江戸時代になり

檀家制度が成立し

お寺の本末関係も

“行政的に”明確にすることが

幕府により企図されます。

 

本末関係が確認され

本寺が最も権威があると

されたものの

史料を見る限り

本寺に「絶対的権力」が

あったわけではないようで

末寺の方が経済的に

豊かになっていった

というケースは

珍しくありません。

 

東北地方は

飢饉が頻発した歴史があり

いくら藩の手厚い支援を

受けていたからといって

本寺が盤石な体制を敷いていた

わけではないようです。

 

話が大分脇道にそれましたが

「お寺の運営・経営」という側面が

歴史に大いに関わっている

ということをお伝えしたいのです。

 

普賢院が鎌倉〜江戸初期に

用いていた永福寺という寺号は

鎌倉二階堂にあった永福寺(ようふくじ)

という大寺院に由来します。

 

鎌倉の永福寺(ようふくじ)は

源頼朝が奥州戦乱の戦没者供養のため

平泉の大長寿院二階大堂を模して

鎌倉に建立した大寺院です。

 

その鎌倉永福寺の僧・宥玄が

南部氏より恩賞として

三戸沖田面(現南部町)に

永福寺が建立されます。

 

それに加え

七崎も与えられ

当山も所管することに

なったとされます。

 

永福寺の僧侶が入ったことから

当山も次第に永福寺と

呼ばれるようになったと

伝えられます。

 

永福寺は

江戸初期になると

本坊が盛岡に建てられ

七崎永福寺(普賢院)と

三戸永福寺(嶺松院)は

自坊と位置づけられます。

 

これまで

指摘されてきませんでしたが

この点については

永福寺の“運営・経営的側面”も

大きく関係していると思われます。

 

お寺とひとことでいっても

菩提所と祈願所という

違いをはじめとして

細かな違いがあるのですが

それらを踏まえてみると

いろいろなことが

浮かび上がってまいります。

 

これ以上記すと

ボリュームが凄いことになるので

この辺にしておきます。

 

七崎永福寺(普賢院)

三戸永福寺(嶺松院)

盛岡永福寺

という3つの永福寺。

 

七崎永福寺を残し

明治になり

他の永福寺は廃寺となりました。

 

盛岡永福寺については

昭和17年(1942)3月に

再興許可がおり

新たなスタートが切られました。

 

糠部三十三観音第23番札所の

早稲田観音は

今はなき三戸永福寺(嶺松院)の

歴史をとどめる札所といえます。

 

早稲田観音について

動画で紹介していますので

ご覧いただき

当山とのご縁も

深めていただければ幸いです。

 

田子町の釜淵観音

糠部三十三観音第27番札所の

釜淵観音は

青森円空と称される

奇峰学秀(きほう がくしゅう)

ゆかりの札所です。

 

学秀和尚は江戸中期の高僧で

生涯に三千数百体もの仏像を

作仏されました。

 

学秀和尚が作った仏像は

学秀仏(がくしゅうぶつ)と

呼ばれており

当山にも千手観音が

お祀りされています。

 

当山には

学秀仏と思われる仏像が

他にもお祀りされています。

 

学秀和尚は

千体仏の作仏を3回行っており

釜淵観音堂は

3度目の千体仏作仏を

成し遂げた地でもあります。

 

釜淵観音についての動画を

アップしたので

ご覧いただき

ご縁をお深め下さいませ。

 

本堂解体から地鎮式のダイジェスト

先の5月19日に本堂建替に向け

地鎮式(じちんしき)が行われ

本格的に建設工事が

始まろうとしています。

 

本堂建替に伴う諸儀式のうち

最初に行われる地鎮式は

一番準備が大変なものだと

個人的には感じていましたが

無事に終えることが出来ました。

 

一般住宅の地鎮式は

お願いされれば

仏式でお勤めしていたのですが

本堂建設の地鎮式は

初めての経験でしたし

どのような作法でお勤めするのか

調べるのも大変でした。

 

平成29年に本堂建替事業が

本格化してすぐに

諸儀式について各種次第にあたり

準備を進めていたのですが

地鎮式についてが

一番難しいように感じました。

 

これまでも

建替事業の様子については

動画をアップしてきましたが

地鎮式までのダイジェスト版を

ひとつの区切りとして準備したので

ご覧になって下さいませ。

 

南祖法師和讃を作らせていただきました

普賢院は十和田湖伝説の

南祖法師(なんそほっし)が

修行したとされるお寺です。

 

南祖法師は

南祖坊(なんそのぼう)と通称され

広く親しまれてきた伝説の僧侶で

当山第2世・月法律師(がっぽうりっし)

の弟子であり

十和田湖の龍神・青龍権現に

なったとされます。

 

令和3年は

廻国僧の行海上人により

承安元年(1171に当山が

開基中興されて850年という

節目でもあります。

 

昨日もお伝えしたように

開基中興850年記念として

普賢院和讃と

南祖法師和讃を

作らせていただきました。

 

拙僧(副住職)は

豊山流(ぶざんりゅう)御詠歌の

詠秀(えいしゅう)という

公職につく身でもあり

御詠歌をとても大切にしております。

 

自身が出来ることの一つとして

御詠歌(和讃)を

この歴史的節目に

記念事業として納めようと

数年前に発願しまして

何とか形にすることが出来ました。

 

お寺の歴史や

お寺の伝承・伝説を

後世に託す一助になればと思います。

 

▼南祖法師和讃

 

▼普賢院和讃はコチラ

念願だったお寺のご詠歌(和讃)が出来ました

令和3年は

当山が開基中興され850年という

歴史的な節目にあたります。

 

この機会に

かねてより念願していた

当山のご詠歌(和讃)を

納めさせていただきました。

 

この度

当山に納めさせていただいたのは

普賢院和讃と南祖法師和讃です。

 

普賢院和讃の奉詠動画を

用意したので

聞いていただけると幸いです。

 

合葬墓と斗南藩縁故者供養碑と十和田湖青龍権現碑と

一生に一度であろう

本堂地鎮式を終え

ホッとしたのもつかの間で

本日が締め切り日の原稿を

一気に仕上げたり

葬儀の準備をしたりと

バタバタした一日でした。

 

本堂建替についていうと

次の大きな儀式は

上棟式となります。

 

上棟式は本年末〜来年頭に

行われる見込みです。

 

上棟式では

新しい棟札(むなふだ)を設えて

法要と式典が行われます。

 

時季的に

あまり準備に時間を

さくことが出来ないと思うので

今のうちから

準備を整えておきたいと思います。

 

本堂建替事業では

境内整備も行われます。

 

その一環として

墓地の整備も行います。

 

墓地の整備は具体的に

①合葬墓(永代供養墓)の建立

②会津斗南藩縁故者墓石の移設、供養碑を建立

③十和田湖青龍権現碑の建立

の3点が主な項目となります。

 

そのことについて

動画で紹介しておりますので

ご覧いただき

ご確認いただければと思います。

 

地鎮式を無事に終えることが出来ました

本堂建替に向け

地鎮式を執り行いました。

 

法式に則り

地鎮式に先立ち

早朝4時より仮本堂にて

修法(しゅほう)を行い

午前11時より

当山役員の皆様と

関係業者の方に

ご臨席いただき

謹んで地鎮式を

お勤めいたしました。

 

ここまで来ることが出来たのは

有縁の皆様のお支えのおかげと

心より感謝しております。