青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)④

現在の青森県田子町の

釜渕家出身の高僧

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

は千体仏作仏を三度成満し

その他にも数百体の仏像を

彫られたとされます。

 

その多くは喪失してしまい

現在確認されている

学秀仏(がくしゅうぶつ)は80体程

だそうです。

 

当山には学秀御作の

千手観音がお祀りされていることが

判明したことを受け

当山関連の歴史を踏まえながら

当ブログにて

学秀との関係について

投稿を重ねております。

 

前回は

学秀仏の千手観音が

祀られていたであろう

千手観音堂について触れ

さらに学秀仏が

当山に請来されることになった

キーパーソンが

当山中興開山である

快傅上人だと拙僧(副住職)は

推測していることを

お伝えいたしました。

 

この点について

今回はもう少し深めて

記させて頂きます。

 

快傅上人は

「当山寺屋敷共」に

新たに建立された方です。

 

当山所蔵の

享保18年(1733)と記された

棟札表中央には

再建立當寺屋敷共

新今慶建立

當寺長久安全如意

快傅末々之住寺共

萬民愛敬云々…

記されます。

 

またこの棟札にはその際

観音山(七崎山)に

杉を2000本余植えたと

記されますので

その前後で当地の雰囲気は

かなり厳かになったと思います。

 

七崎山とは

当山が別当をつとめた

旧観音堂があった

現在の七崎神社の地を指します。

 

さらに現在の当山の地にも

様々な木々を植えたようで

杉のほかにも

松、ヒバ、ツキ、エノミ

クリ、サイガチ、クルミ

ナシ、モモ、カキなどが

植えられたと記されます。

 

享保年間(1716〜1736)の

快傅上人による当山中興と

学秀活躍期は重なっております。

 

快傅上人が中興にあたり

学秀千手観音を

請来されたと推察することは

無理のないことと思われます。

 

少し視点を変えて

この時代を考えるに

貞享元年(1684 )には

弘法大師850年御遠忌(ごおんき)

というとても重要な法要が

各本山はじめ各地で厳修されております。

 

これより程なくして

貞享4年(1687)4月に

第29第藩主・南部重信公は

聖観音像を七崎観音堂に

奉納されております。

 

これが現在の

七崎観音です。

 

また元禄3年(1690)12月には

覚鑁(かくばん、1095〜1143)上人が

東山天皇より興教大師(こうぎょうだいし)

の諡号(しごう)を賜っております。

 

▼興教大師 覚鑁

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これは

覚鑁上人がご入滅されて

537年目のことでした。

 

(新義)真言宗において

興教大師覚鑁上人は

弘法大師空海上人と共に

両祖大師(りょうそだいし)とされる

とても尊い方です。

 

元禄5年(1692)は

興教大師550年御遠忌

にあたっております。

 

もう少しこのことについて

掘り下げさせて頂きます。

 

この時期の新義真言宗は

「宗派の繁栄」と表現される程に

格式が高くなり隆盛しております。

 

新義真言宗では

権僧正(ごんそうじょう)という

僧階(そうかい、僧侶の位)が

極官で小池坊(奈良の長谷寺本坊)と

京都の智積院(ちしゃくいん)の

両能化だけが権僧正でした。

 

それが元禄4年(1691)6月18日に

小池坊13世能化・卓玄(たくげん)が

智積院・信盛と

護持院・隆光とともに

正僧正(しょうそうじょう)という

それまでの極官よりも

高い僧階に任じられております。

 

この当時の徳川将軍・綱吉公は

「小池坊も智積院も

権現様(家康公)が取立た

寺院であるから

両能化とも正僧正にしよう」と

述べられたそうです。

 

この卓玄僧正は

八戸藩祈願所である

自在山 豊山寺(じざいさん ぶざんじ)

の(長谷寺式)十一面観音像を

貞享5年(1688)に

開眼(かいげん)されております。

 

この十一面観音は

豊山寺の廃寺に伴い

その末寺である

是川の福善寺に移されました。

 

またまた余談ですが

この豊山寺という寺院は

根城にあった八戸東善寺の後身で

再興にあたって

自在山 豊山寺と改められ

“豊山寺初代”として

花巻の愛宕山八幡寺より

惠廣上人が招かれております。

 

この八幡寺というお寺は

現在の花巻神社の地にあった

小池坊(長谷寺)の末寺ですが

永福寺支配のお寺でもありました。

 

とにかく

新義真言宗がそれまでに増して

“勢いづいていった”時代が

当山中興や学秀の時代でもあります。

 

当山と学秀の関係を考える

背景としてこういった事情は

外すことは出来ないことです。

 

他にも重要な背景は様々ですが

江戸期の南部藩領では

飢饉とよばれるもの以外にも

凶作が頻発していることは

踏まえなければならないことです。

 

ある資料によれば

江戸時代だけで

76回もの凶作が

発生しております。

 

おそらくはその時代の七崎も

度重なる凶作が引き金となり

かなり疲弊していたと思います。

 

時代が時代ゆえ

当山も快傅上人がいらっしゃった頃は

荒廃していたと思われます。

 

そのような中

中興されるにあたり

“現在の救済仏”である千手観音を

学秀和尚に作仏頂いたというのが

拙僧(副住職)の推測です。

 

田子は修験の

大法院(だいほういん)が

強い影響力を持っていたようなので

修験関連で千手観音に

触れみたいと思います。

 

現在の「修験本宗」の

総本山である奈良県吉野の

金峯山寺(きんぷせんじ)では

三体の蔵王権現(ざおうごんげん)が

本尊としてお祀りされ

それぞれが過去・現在・未来の

三世(さんぜ)の尊格とされます。

 

そしてそれぞれの

本地仏(ほんじぶつ)は

過去:釈迦如来

現在:千手観音

未来:弥勒菩薩(みろくぼさつ)

とされており

この“対応関係”は

当山中興にあたり請来された

学秀千手観音に託された願いを

紐解く上で

参考になるように思います。

 

禅宗で大切にされる陀羅尼で

大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)

という“尊いお経”があります。

 

この陀羅尼は

千手千眼観自在菩薩円満無礙大悲心陀羅尼

ともいいまして

千手観音の陀羅尼でもあります。

 

大悲心陀羅尼の意味を

踏まえることもまた

学秀千手観音に託さた願いを

紐解く上で

参考になろうかと思います。

 

かなり専門的な話題ばかりに

なってしまいましたが

当ブログは

「研究ノート」としても

投稿させて頂いておりますので

何卒ご容赦下さいませ。

 

【関連記事】

▼稀代の古刹 七崎観音④

https://fugenin643.com/blog/稀代の古刹七崎観音四/

 

▼稀代の古刹 七崎観音⑤

https://fugenin643.com/blog/稀代の古刹七崎観音五/

 

▼吉野金峯山寺について

https://fugenin643.com/blog/吉野金峯山寺/

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青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)③

『御領分社堂』という

宝暦13年(1763)の書物は

宝暦9年(1759)の幕府の御触(おふれ)

により開始された

藩領の社堂の調査を

まとめたものです。

 

七崎(豊崎の古称)について

同書に以下のように

記載されております。

 


寺院持社堂 五戸御代官所七崎

一 観音堂 四間四面萱葺(かやぶき)

古来縁起不相知

萬治元年(1658)重直公御再興被遊

貞享四年(1687)重信公御再興被遊候

何(いずれ)も棟札(むなふだ)有

 

一 大日堂

一 不動堂

一 愛染堂

一 大黒天社

一 毘沙門堂

一 薬師堂

一 虚空蔵堂

一 天神社

一 明神社

一 稲荷社

一 白山社

右十一社堂は観音堂御造営之節

依御立願何も御再興被遊候

小社之事故棟札も無之

只今大破社地斗に罷成候

一 月山堂 壱間四面板ふき

 

一 観音堂 右ニ同

右両社共に観音堂御造営之節

重直公御再興也

 

善行院(ぜんぎょういん)

当圓坊(とうえんぼう)

覚圓坊(かくえんぼう)

覚善坊(かくぜんぼう)

右四人之修験は本山派にて

拙寺(永福寺)知行所所附之者共御座候

古来より拙寺(永福寺)拝地之内

三石宛(ずつ)遣置

掃除法楽為致置候


 

現・田子町出身の奇峯学秀

(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

御作の千手観音が

当山観音堂にお祀りされていることが

つい先日判明いたしました。

 

学秀は

出生年代は不明ですが

元文4年(1739)に82歳頃に

入滅したとされます。

 

ですので

『御領分社堂』が伝えるのは

学秀が入滅して約20年後の

主なお堂の様子であるといえます。

 

先の引用箇所で

赤字にした箇所

学秀と関わると思われます。

 

当山で所蔵する棟札の

内容を踏まえると

この「観音堂」は

千手千眼(せんじゅせんげん)観音堂

(以下、千手観音堂)です。

 

現在の本堂を文化8年(1811)に

再建した当時の

当山先師である覚宥師の名が記される

千手観音堂再建の

棟札があることから

千手観音堂が以前から

あったことが分かるのです。

 

また当山には

散逸してはおりますが

千手観音の作法の次第である

千手観音法(せんじゅかんのんぼう)

が残されております。

 

先の引用文では

冒頭にもう1つ観音堂が

記されておりますが

これは現在の七崎神社の地にあった

寺号を七崎山徳楽寺とする観音堂で

現在の当山本堂にある

観音堂内殿中央に祀られる

七崎観音(聖観音)を

本尊としておりました。

 

観音堂ついででいえば

現在の八戸市白銀にある

清水観音(糠部第6番札所)も

当山が別当をつとめておりました。

 

さて千手観音堂に

話を戻しますが

重直公が観音堂を再興した際に

千手観音堂も再興されている

ということは

千手観音堂はさらに以前から

建立されていたことを意味します。

 

このお堂に学秀仏の

千手観音も請来されて

もとから祀られていた

千手観音と合祀された可能性は

大いにあると思います。

 

ここでもうお一方

当山と学秀を紐解く上で

キーパーソンとなる(と思われる)

当山先師・快傅(かいでん)上人

について触れたいと思います。

 

当山は

開創が圓鏡上人

(弘仁8年(817)5月15日入滅)

開山(開基)が行海上人

(承安元年(1171)5月に開山)

そして中興開山が快傅上人です。

 

快傅上人は

主に享保年間(1716〜1736)に

当山を中興された先師で

寛保元年(1741)11月2日に

御遷化されております。

 

過去帳によると

快傅上人は遠野の

ご出身だそうです。

 

脱線になりますが

遠野といえば

根城南部氏が移った地ですが

それに伴って祈願所である

師建山 東善寺(しけんざん とうぜんじ)

が八戸市根城から

本坊が寛永4年(1627)に

移された地でもあります。

 

東禅寺の山号である

師建山(しけんざん)は

南部師行公に由来し

行公が立された」

ことを意味します。

 

東善寺という寺号もまた

南部氏の「東氏」に由来するそうです。

 

遠野に本坊が移った後も

八戸根城の旧地は

八戸東禅寺として存続し

延宝年間(1673〜1681)に

自在山 豊山寺(じざいさん ぶざんじ)

として再興されます。

 

八戸東善寺が自在山豊山寺に

改称されたのは

延宝3年(1675)です。

 

豊山寺は延宝8年(1680)に

八戸城(現在の三八城公園)へ

移されました。

 

現在は廃寺となりましたが

この東禅寺(豊山寺)も

永福寺の傘下寺院でした。

 

豊山寺は八戸藩の内五ケ寺に

列ねられており

末寺には

是川の八鳩山 福善寺

田面木の延命山 善照院

楊柳山 永久寺(現在は廃寺)

豊山寺支配として

小田山 徳城寺(現・小田八幡宮)

霊現山 新源寺(現・斗賀霊(涼)現堂)

という本末関係がありました。

 

これら関係寺院についても

当山と学秀との関係を

考察する上で

重要な意味を持つと思われます。

 

快傅上人の出身地が遠野であることから

脱線として関連事項を

長々と記してしまいましたが

後々触れるべきことなので

これで良しとさせて頂きます。

 

快傅上人の当山中興と

学秀仏が当山に祀られたことは

深く関わっているのではないかと

拙僧(副住職)は推測しております。

 

このことについて

次回述べさせて頂きます。

 

【関連記事】

▼稀代の古刹 七崎観音③

https://fugenin643.com/ふげんいん探訪/十和田湖南祖坊について/稀代の古刹七崎観音参/

 

▼稀代の古刹 七崎観音⑦

https://fugenin643.com/ふげんいん探訪/十和田湖南祖坊について/稀代の古刹七崎観音七/

 

▼白銀清水観音

https://fugenin643.com/ふげんいん探訪/かんのんまいり-清水観音/

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急遽の護摩に思う

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当山本堂は

本尊が祀られる内陣の隣に

観音堂が設えられております。

 

現在当山において

本尊の御宝前では

正月や彼岸やお盆の法要はじめ

重要な各種法会(ほうえ)や

ご供養が執り行われる一方で

観音堂では

御祈願を主とした法会や

札所巡礼のお参りが

なされております。

 

明治時代になるまでは

観音堂は現在の七崎神社の地に

建立されており

徳楽寺という寺号が

用いられていたのですが

神仏分離の処置を受け

旧観音堂(徳楽寺)は廃寺となり

七崎神社に改められ

七崎観音などの仏像は

当山本堂へ遷座されました。

 

先にお伝えした

本尊御宝前での修法と

観音堂での修法の

“意味合い”が異なるのは

本堂と観音堂の“性格の違い”と

いっても良いでしょう。

 

かつての本堂

(本堂のある境内地)は

「根本中堂」「根本道場」であり

得度(出家)した僧侶が

師匠(阿闍梨)より伝授を受けたり

講伝を受けたり

修行をするお堂でもあるので

一般参詣者が気軽かつ自由に

出入りをしたり

お参りが出来る場所

というわけではありませんでした。

 

今でもそうですが

出家僧でしか出仕できなかったり

様々な条件を満たさなければ

臨むことが許されない

法会や行事は多々あります。

 

本堂は“出家僧向けのお堂”と

いうことが出来るかもしれません。

 

補足ですが

本堂という言葉は

「根」の略であるとか

」の略であるという

いわれがございます。

 

ただ単に仏像が祀られているお堂が

本堂ということではありません。

 

専門性が高いかもしれませんが

本堂という言葉には

きちんとした意味があります。

 

本堂が主に出家僧の行事等が

催されていた道場である一方で

七崎の観音堂は

“稀代の古刹”と謳われる程に

藩よりの信仰が篤く

一般参詣者もすこぶる多く

お仕えしていた修験者・山伏も存在し

様々な祭事が行われておりました。

 

現在の当山における

本尊御宝前と観音堂における

法会等の主旨の違いは

かつての本堂と観音堂の

性格の違いの名残といえます。

 

この辺のことは

専門的に通じていなければ

中々分かりにくい所かもしれませんが

きちんと踏まえるべきことと思われます。

 

さて

ここまでは前置きでして

本日午前中に有縁の方より

護摩祈祷のお願いをされました。

 

お話によると

毎月28日(不動明王縁日)に

護摩をお願いしている御寺院様が

諸事情により護摩を休会する

ことになったようで

当山に問い合わせられたそうです。

 

拙僧(副住職)も

午後であれば都合がついたので

不動明王の護摩を

修法させて頂きました。

 

導師一人での護摩なので

数名で厳修する

厳かさとは趣が異なりますが

粛々とした護摩も心地よいものです。

 

普段の御祈願では

お願いされない限り

護摩を修法することは

ありませんでしたが

これを機に

毎月護摩を修法したり

定期的に修法するのも

良いかもしれないと感じた

お不動様の御縁日となりました。

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青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)②

当山観音堂に

奇峯学秀(きほうがくしゅう)御作の

千手観音像が祀られていることが

先日確認されました。

 

ご確認頂いたのは

ごのへ郷土館館長の木村明彦館長と

奇峯学秀の末裔でもある釜渕嘉内氏の

お二人です。

 

2月22日に地元紙の

デーリー東北と東奥日報の各記者と

先のお二人に当山へおいで頂き

取材して頂いた際に

木村館長が奇峯学秀についての

資料を作成して下さいました。

 

奇峯学秀は田子町の

釜渕家出身の高僧で

名久井の法光寺に入門し

後に九戸の長興寺

八戸の大慈寺の住職を

務めた方です。

 

出生年代は不明ですが

元文4年(1739)に名久井の

顧養庵(こようあん)にて

82歳頃で入滅されたそうです。

 

行年が82歳として

没年の1732年から82を引くと

1657となります。

 

1657年は明暦3年です。

 

明暦前後の年号は明暦含め

承応(1652〜1655)

明暦(1655〜1658)

万治(1658〜1661)ですので

この辺りの生まれとなるようです。

 

この時期の

当山の歴史と学秀出生を

重ねてみると

当山では観音堂と末社十二宮が

再興されております。

 

落雷により観音堂が

焼失してしまったため

28代藩主・南部重直公により

御再興頂いております。

 

この観音堂は

現在の七崎神社の地に

建立されていたもので

七崎山 徳楽寺という

寺号が用いられておりましたが

明治になって廃寺となりました。

 

学秀の出生と同時期の

観音堂と末社十二宮の

再興棟札には

承応3年(1654)2月に事始

明暦元年(1655)9月に遷宮畢

と記されております。

 

当山の前身である永福寺は

南部盛岡藩が盛岡に

居城するにあたり

不来方城(盛岡城)の

鬼門の位置に

本坊が構えられます。

 

寛永2年(1625)12月には

27代藩主・南部利直公により

永福寺自坊でもある普賢院は

祈願所とされております。

 

寺院の本末関係や

藩領における統制が

整えられる中で

南部藩の祈願所である

七崎永福寺を“正式な形”で

(自坊という形ではありますが)

普賢院が引き継いだことになります。

 

当山を祈願所と定めた

南部利直公は十和田湖伝説に

登場する南祖坊(なんそのぼう)の

生まれ替わりであるとの

いわれがある藩主です。

 

南祖坊は

当山2世の月法律師に

弟子入りしたとされます。

 

また学秀が住職を務めた

大慈寺は最初

八戸の松館に建立されますが

利直公が開基されたお寺です。

 

この利直公も

学秀と同じく田子の出身です。

 

こういったことも

当山と学秀を結びつける

重要な要素といえるでしょう。

 

高僧・奇峯学秀の生きた時代を

当山の歴史や

仏道的視点を踏まえながら

「青森の円空 奇峯学秀」

と銘打ち何回か投稿したいと思います。

 

なぜ当山に学秀仏がお祀りされたのか

ということをテーマの1つとして

拙僧(副住職)なりの考察を交えつつ

試論として記してみたいと思います。

 

【関連記事】

▼糠部五郡小史に見る普賢院

https://fugenin643.com/blog/糠部五郡小史に見る普賢院/

 

▼稀代の古刹 七崎観音③

https://fugenin643.com/ふげんいん探訪/十和田湖南祖坊について/稀代の古刹七崎観音参/

 

▼稀代の古刹 七崎観音⑦

https://fugenin643.com/ふげんいん探訪/十和田湖南祖坊について/稀代の古刹七崎観音七/

 

▼南祖坊伝説の諸相⑧

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相⑧/

 

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学秀仏の千手観音像が記事で紹介されました

先日“発見”された

奇峯学秀(きほうがくしゅう)御作の

千手観音像について

地元紙である

デーリー東北と東奥日報で

紹介されました。

 

奇峯学秀は田子町の釜渕家出身とされ

八戸大慈寺の住職も務めた高僧です。

 

「東北の円空」

「青森の円空」とも呼ばれます。

 

当山と奇峯学秀の関係を考察すると

様々なことを指摘出来そうです。

 

この点については

少しづつ深めたいと思います。

 

“埋もれていた歴史”が

現在このタイミングで

再び掘り起こされるに至るまでには

様々なご縁の巡り合わせがありました。

 

そういった尊いご縁が

発見へと導いてくれた

学秀仏・千手観音。

 

伝えるべき「物語」が

また1つ当山に加えられたことを

心より光栄に思います。

 

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稀代の古刹 七崎観音⑩

当山観音堂に祀られる

七崎観音(ならさきかんのん)の

起源は平安初期にまで

さかのぼります。

 

七崎観音は普段は秘仏ですが

年に一度旧暦1月17日にのみ

御開帳され

その御宝前にて

護摩法要が厳修されます。

 

この行事は「おこもり」と

通称され本年は

2月21日に行われます。

※▼詳細はコチラ

https://fugenin643.com/blog/wp-content/uploads/2019/01/H31おこもり広告.pdf

 

平安時代より現在に至るまで

戦乱の世があり

幾多の災害があり

あまたの困難がありました。

 

長い歴史があるということは

それらとしっかり向き合い

時代時代において

対応してきたことを

意味するといえます。

 

当山は前身である永福寺時代より

七崎観音の別当をつとめておりますが

歴代先師のご尽力は

切なるものがあります。

 

災害でいうと江戸期はまさに

“災害の時代”でもあります。

 

江戸期に限らず

日本は昔から“災害大国”といえる程

深刻な事態の連続でした。

 

七崎観音は

明治になるまでは

現在の七崎神社の地にあった

旧・観音堂にお祀りされておりました。

 

『寺社記録』という

南部藩史料の

安永年間の記録には

旧・観音堂の災禍について

伺える記述があります。

 

以下に

安永8年(1779)

9月の記録を

少しだけ引用してみます。

 

※カッコは拙僧(副住職)の補足です。


 

(安永8年(1779))

九月十二日

 

一 永福寺

預五戸七崎村観音堂並二王門

共ニ先代住(永福寺52世・宥恕)

宝暦十三年(1763)

委細之申上

萱葺(かやぶき)修繕等仕候所

其後両度大地震ニて

本堂二王門共ニ

屋根以外之他損

猶又取繕仕置候得共

次第内通えも朽入

別て二王門等

夏中大雨之節

屋根一向相潰(あいつぶれ)

両所ともニ最速

其侭(そのまま)に

可致置様無之躰ニ御座候間

当年より来春迄

如何様ニも修復仕度念願御座候

 


 

次に安永9年(1780)

2月の記述を

見てみましょう。

 


 

(安永9年(1780))

二月三日

 

一 永福寺

五戸御代官所

七崎村観音堂並二王門

慶安四年(1651)

山城守様(南部重直)御建立

其の後元禄年中(1688-1704)

当寺先住 清珊(永福寺36世)代

再興修理等仕

宝暦十三年(1763)

先住宥恕(永福寺52世)委細之儀申上

萱葺(かやぶき)修復

末社迄再興仕候処

右本堂並仁王門

明和年中(1764-1772)大地震之節

殊之外まかり出来

屋根共相損

段々取繕候得共

弥増大大破罷(まかる)成

 


 

これらの引用中で

地震に触れられていますが

明和5年(1768)9月8日と

明和6年(1769)7月12日に

八戸は大地震に見舞われております。

 

明和年間には

津軽でも雪の時季に

大地震があり

甚大な被害を被ったそうです。

 

先の引用文は

大地震により

お堂がかなり傷んだことを

伝えております。

 

明治34年の文書で

『興隆講規則』というものが

残されております。

 

興隆講(こうりゅうこう)とは

明治初頭の神仏分離ならびに

廃仏毀釈の風潮の中で

“荒廃”した七崎観音を

復興させるべく

当時の当山住職はじめ

当山総代や旧社人

さらに賛助人として

神社宮司(旧・善行院)が

設立した講(組織)です。

 

当山と

七崎(現在の豊崎)の方々が

手を携えて七崎観音を

復興させようとしたものと

いうことが出来るかと思います。

 

『興隆講規則』には

「七崎山観音祭り日」として

初祭 正月七日

春祭 四月七日、八日

秋祭 八月十七日

御年越 十二月十七日

と記されております。

 

その他にも

六斎日や功徳日

さらに護摩の日程や

会日(講の開催日)についても

記されており

『興隆講規則』自体が

七崎観音の手引きの役割も

担っております。

 

「興隆講規則設置趣意書」

という箇所があるのですが

ここは僧侶が唱える

表白(ひょうびゃく)という

尊い文言の仕様になっており

当山や七崎観音の

由緒について触れながら

興隆講設立への経緯が

恭しく述べられております。

 

以下に趣意書を

引用させて頂きます。

 


 

恭しく按ずるに

我邦人皇三十四代推古天皇

篤く三宝を敬い

其往昔大聖仏世尊輪王の

宝位を脱履し

世間出世間の大医王となり給い

諸の国王の為に

仁王般若仏母明王不空羂索経等を

説き給い

七難を摧破して四時を調和し

国家を守護して

自他を安ずるの大法

ひとつも欠漏あることなし。

 

降て

天長年間(824-834)に至り

当七崎山蘭若においても

金剛頂経大日経等

最上乗甚深の秘法を行えり。

 

爾来

円鏡(当山開創(弘仁初期(810)頃))

月法(当山二世、南祖坊の師)

行法

行海(当山開山(承安元年(1171)))

宥鏡

快傅(当山中興開山(江戸中期))

達円

快翁

宥敞

宥青等

凡そ八拾有ニ世の間

領主の祈願道場たり。

 

殊には南部二十八代

源朝臣重直公

深く正観世音を信仰し

かたじけなくも

御高五百五石五斗三合の

知行を喜捨せられ

加うるに十二社人を置き

毎月神楽を奏し奉りしは

ひろく世人の知る所なり。

 

然るに維新に際し

封建の制を廃せられ

版籍悉く返上の結果

遂に之が保続の資を失い

従って神楽も絶亡すること

ここに三十三年を経ぬ。

 

嗚呼、世の移り行くは

人力の得て止むべからざるもの

とはいいながら

かく伝来の霊位を

寺院の一隅に奉置し

絶えて法楽の道を

欠きしこと畏くも亦憂たてけれ。

 

ここを以て

郷人の愁歎限りなく

涙を止むるに由なし。

 

先師宥浄

しばしばこれを忌歎し

再興を企つといえもの

時機未だ熟せず

わずかに院内に小堂を営み

霊位を安置せしのみにて

遂に去る戊戌(明治31年(1898))

卯月九日を以て遷化す。

 

月を越えて小童

過て重任をこうむり

庚子(明治33年(1900))

臘月に至り若干の法器を整い

檀徒総代と謀りて旧社人を集め

之が再興の方法を議し

講を設けて興隆講と称し

明る辛丑(明治34年(1901))

正月二十八日を初会とし

神楽に替うるに

本尊護摩を修し奉り

宝祚無疆

玉体安穏

十善徳化

四海静謐

風雨順時

五穀豊穣

疫病退散

正法興隆を

精祈せんと欲す。

 

伏してこう

十方善男女諸氏

この機に乗じて

生等の徴志を賛し

三宝を帰依し

入講の栄を賜い

益々本尊の威光を増揚し

一指まちまちなる信仰を列ね

五指堅固にして遮那覚王の

金挙に擬し

以て彼の迷邪を破壊し

正法に導き

貴賤を問わず

男女を論ぜず

同体大悲を旨として

大徹悟入の床に遊び

ともに補陀落の浄刹に至り

一切の功徳を具足し

二世の勝益祈られんことを。

 

明治三十四年(1901)陰暦正月

金剛仏子 隆真

敬白

 


 

僧侶であれば

馴染みのある文言ですが

多くの方には

かなり読みにくいかと思います。

 

ですが何となく

大まかな内容は

捉えられるかと思います。

 

七崎観音の復興を切願して

講が設立されたことが

伝わってまいります。

 

少し話は変わりますが

ここでは当山開創である

円(圓)鏡上人から

数名の先師があげられた後

八拾有ニ世の間」と

書かれております。

 

現在の当山住職は

「第64世」として歴代住職に

列ねられておりますが

現在の数え方は

大正5年に亡くなられた

宥精師が自身を60世として

以後代を重ねるよう

方針を定められたので

それに則り現在は数えております。

 

ですが『興隆講規則』が作られた

明治時代までは

現行のものとは別の数え上げが

なされていることが分かります。

 

明治までの数え上げを

現在に適応して

当山先師の墓誌をなぞると

現住職の泰永僧正は

第91世」になります。

 

現行の数え上げは

当山開山の行海上人からのもので

明治までの数え上げは

当山開創の圓鏡上人からのもの

かもしれません。

 

歴代先師の中には

「第〜世」と数え上げられない方も

いらっしゃるので

その方々を数えるか否かという

ことなのかもしれませんし

行ったり来たりということも

あったようなのでそのことが

関係しているのかもしれません。

 

その真相を判明させる術は

ありませんが

要するに歴代住職の数え上げは

一通りではないということです。

 

時代時代で

様々なことがあったでしょうが

七崎観音は

とても長い間

歴代先師はもちろんのこと

有縁の方の手により

守り伝えられてまいりました。

 

今回取り上げた史料からは

その一端を垣間見ることが

出来たかと思います。

 

今を生きる者として

歴史をしっかりと受け継ぎ

未来へ繋いでいきたいと思います。

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稀代の古刹 七崎観音⑨

当山本堂内の観音堂に

本尊としてお祀りされる

聖観音(しょうかんのん)は

七崎観音(ならさきかんのん)

と呼ばれその起源は

平安初期にまでさかのぼるとされます。

 

これまで「稀代の古刹」と銘打ち

七崎観音について

紹介を続けておりますが

今回は明治以後を焦点に

お伝えさせて頂きます。

 

七崎観音は

明治になるまでは

現在の七崎神社(ならさきじんじゃ)

の地に建立されていた

観音堂(以下、旧・観音堂)に

お祀りされており

当山が永福寺時代より

別当をつとめております。

 

旧・観音堂には

七崎山 徳楽寺(ならさきさん とくらくじ)

という寺号(じごう、お寺の名前)が

ありましたが明治の神仏分離により

廃寺となり郷社 七崎神社として

改められました。

 

神仏分離の際に

旧・観音堂に祀られていた

仏像や仏具は

当山に移されることになります。

 

その際の

『目録』(明治36年(1900))と

青森県令・山田秀典氏へあてた

『伺』(明治10年(1877))が

残っております。

 

明治36年の『目録』より

旧・観音堂より当山へ

遷座(せんざ)された仏像の

記述を以下に引用してみます。

 


 

仏像ノ部

一 正観世音大士木像 一躯

一 仁王木像 ニ躯

一 禅林地蔵大士木像 一躯

一 無二地蔵大士木像 一躯

一 護讃地蔵大士木像 一躯

一 延命地蔵大士木像 一躯

 ※1寸8分の仏像

一 弘法大師木像 一躯

一 木像 一躯 十二童子ノ一

 ※5寸の小さな仏像

一 十一面観音金像 一躯

 ※現在行方不明。

【以下、八体仏(はったいぶつ)を指します。

十二支守護尊とも呼ばれます。】

一 普賢菩薩木像

一 大日如来 仝(木像)

一 不動明王 仝(木像)

一 文殊菩薩 仝(木像)

一 千手観世音 仝(木像)

一 勢至菩薩 仝(木像)

一 阿弥陀如来 仝(木像)

一 虚空蔵菩薩 仝(木像)

 


 

以上の仏像が

旧・観音堂から当山へ移されました。

 

現在の観音堂は

七崎観音を中心として

実に多くの尊格が

お祀りされておりますが

その約半数は

引用箇所に記される

旧・観音堂より遷座された仏像です。

 

逆にいえば

上記以外の現・観音堂の仏像は

もともと当山にお祀りされていたものや

各所にあったお堂の仏像です。

 

宝暦13年(1763)の

『御領分社堂』によれば

七崎(現在の豊崎)には

大日堂、不動堂、愛染堂

大黒天社、毘沙門堂、薬師堂

虚空蔵堂、天神社、明神社

稲荷社、白山社

の「小社」があり

さらに一間四面の

月山堂、(千手千眼)観音堂

があったそうです。

 

現在の当山観音堂は

とても荘厳な設えとなっておりますが

これは明治の七崎観音御遷座以後の

歴代先師と有縁の方々の

絶大なるご尽力によるものです。

 

明治19年(1886)に

本堂に内御堂の観音堂が

用意された際の

棟札が残っております。

 

昭和6年(1931)には

観音堂と仁王門(堂)が

改築されました。

 

仁王像は現在の場所ではなく

本堂の観音堂正面の所に

門が作られております。

 

この時の経過等が

『七崎観世音道場普請報告書』という

文書にまとめられております。

 

落慶の日は正午より

新観音堂にて法要が行われ

その後は祝宴が午後5時まで行われ

さらに外では午後5時より

青年分団の方による相撲大会が開催され

1500人もの観衆がいらっしゃり

加えて鶏舞(けいまい、けいばい)も

行われてかなりの盛会だったようです。

 

『七崎観世音道場普請報告書』の

序文には当時の住職である

長峻(ちょうしゅん)大和尚の

表白(ひょうびゃく)という文言が

添えられており

改築に至るまでの

先師方の“七崎観音復興”への

強い思いに触れられております。

 

その表白の一部を

以下に引用してみます。

 


 

明治初年神仏分離の結果

今の神社に奉安されし観世音は

当然の帰結として当普賢院道場へ

付属三宝物と共に

遷座されるに至れり。

 

爾来六十有余年の間

当道場の一隅に安置して

先師宥浄をはじめ宥精師等は

往時の隆盛を偲んで

之が復興を念願たりしが

嗚呼悲哉

機縁未だ熟せずして涙を呑みて

世を去られたり。

 

其後

小衲不思議の縁を以て

大正六年の春

任に当院に就きたりしが

思えば同じ大悲観音

法儀復興にてありき。

 


 

「七崎観音の復興」は

明治以後の先師方の

“大悲願”であったことが伺えます。

 

長峻大和尚は

当山61世住職のみならず

南部町の恵光院住職と

山形県の湯殿山大日坊住職をも

兼任された方で

“激務”に追われる中で病となり

60歳で御遷化(ごせんげ)されました。

 

後を継いだ62世住職の

晃雄(こうゆう)大和尚と

その弟である高明(こうめい)大和尚は

若くしてフィリピンにて戦死しており

その間は2人の妹が

有縁の方のお力添えを頂きながら

お寺を守りました。

 

戦争の時期は

尽きない困難があったそうです。

 

戦争が終わり

新たな住職として

裕教(ゆうきょう)大和尚が迎えられ

当山は復興されてゆきます。

 

本堂は昭和58年に

大改修が成し遂げられます。

 

また現住職を中心に

当山伽藍は一層整えられます。

 

観音堂内陣は

格天井に改装され

その中央には法曼荼羅が刻まれ

吊り灯籠や荘厳具

護摩壇(ごまだん)や

法具(ほうぐ)類が整えられ

現在のお堂となりました。

 

そして現在

当山では本堂建替にあたり

七崎観音の新たな歴史が

紡がれようとしております。

 

内陣の内殿には

七崎観音が納められる

厨子(ずし)以外にも

大きな観音像をはじめ

小さな観音像や

宝剣はじめ奉納物など

多くのものが納められており

歴史を感じると共に

いかに多くの願いが

捧げられてきたのかが

伝わってまいります。

 

託されてきたもの

捧げられてきたもの

守られてきたもの。

 

七崎観音は

無量のおもいにより

今に伝えられていることを

心にしっかりと刻み込み

新たな歴史を有縁の方と共に

紡いでまいりたいと思います。

 

▼本堂建替事業について

https://fugenin643.com/blog/新たな歴史を紡ぐ/

 

▼長峻師と愛娘達

※本堂前にて大正初期に撮られたものです

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▼高明師 送別会の写真

※写真の裏には以下のように書かれます

 昭和拾九年六月十四日

 高明 応召出発前日

 送別会ノ日 写ス

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▼昭和26年 本堂修築記念

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▼昭和30年代の本堂

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▼昭和の本堂大改修(昭和51年8月落慶)

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▼現在の観音参拝所

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▼現在の観音堂内陣

観音堂

▼現在の普賢院

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稀代の古刹 七崎観音⑧

七崎(ならさき)とは

現在の八戸市豊崎町の古称です。

 

当山は現在でも

「七崎のお寺さん」と

呼ばれることが多くありますし

「永福寺さん」とも呼ばれます。

 

この七崎の地には

かつて永福寺(当山の前身)があり

多くのお堂を管理する

別当でもありました。

 

当山本堂内の観音堂に

祀られる聖観音は七崎観音と呼ばれ

古くから多くの方に

ご参詣頂いた観音様で

明治以前は現在の七崎神社の地にあった

観音堂(以下、旧・観音堂)に

お祀りされていたものです。

 

この観音堂をはじめ

多くのお堂の別当寺を

当山が永福寺時代より担ったようです。

 

現在の八戸市白銀にある

清水観音堂(糠部第6番札所)は

当山が別当寺をつとめたお堂であり

古くから海の方面とも

関わりがあったことが分かります。

 

海に関連する御祈祷の一例として

「舩(船)祈祷」というものがあります。

 

時代が違えども

海に限らず船は

とても重要なものです。

 

当山には舩祈祷の

次第(聖教(しょうぎょう))や

それに関係する文書が幾つか

所蔵されております。

 

船祈祷の聖教(古文書)には

「慶長20年(1615)授与」と

記されたものもあれば

安永5年(1776)の浄写されたものを

寛政6年(1794)に書写されたと

奥書されたものもありますし

実際に用いられた

船祈祷の祈祷札の文言を写した

宝暦13(1763)と寛政4年(1792)との

年代が記された文書も所蔵しております。

 

文政10年の聖教(古文書)もあり

これら船祈祷のものは

いずれも当山61世である

長峻(ちょうしゅん)大和尚が

新潟よりお持ちになられたものです。

 

長峻大和尚は新潟県出身で

ご縁があって当山61世となり

さらには南部町の恵光院(長谷寺)を

第29世(99世ともされます)として兼任され

晩年は山形県鶴岡の湯殿山大日坊も

第88世住職 慈念海上人 忍光道人として

兼任された方です。

 

恵光院の由緒はとても古く

平安期の十一面観音像が祀られ

これは青森県最古のもので

糠部観音第22番札所です。

 

山形県鶴岡の

湯殿山 大日坊(ゆどのさん だいにちぼう)

には即身仏(そくしんぶつ)の

真如海上人(しんにょかいしょうにん)が

お祀りされます。

 

即身仏とは

平たくいえば“僧侶のミイラ”です。

 

拙僧(副住職)の法名は

泰峻(たいしゅん)といいますが

現住職の「泰」の字と

長峻大和尚の「峻」の字を

頂いております。

 

長峻大和尚は

船祈祷の聖教のみならず

非常に多くのものを

当山に請来されております。

 

ほぼ全てが江戸期のものですが

御祈祷はもちろんのこと

どのような作法や次第が

継承され施されていたのかが

垣間見られる貴重なものだと感じます。

 

先に南部町の古刹である恵光院

についても少し触れましたが

恵光院も当山も

糠部(ぬかべ)三十三観音霊場の札所です。

 

糠部は

「ぬかのぶ、ぬかのべ、ぬかぶ」とも

読みますがここでは

「ぬかべ」として読ませて頂きます。

 

糠部三十三観音霊場

第15番札所は七崎観音です。

 

三十三は「無限」を意味し

尽きることがない

無量の慈悲を表しております。

 

全国各地に「三十三観音」と名のつく

霊場は沢山あるかと思いますが

最古の霊場は西国三十三観音で

その起源は当山の本山である

奈良県桜井市の長谷寺にあります。

 

養老2年(718)に

長谷寺の徳道(とくどう)上人が

病床にみた夢で

閻魔大王より三十三の宝印を授かり

衆生救済のため観音霊場を作るよう

告げられたとの開創伝説が伝えられます。

 

徳道上人は三十三所を定めたものの

機運が熟さなかったため

宝印を中山寺に納め

それから約270年経った後に

花山法皇により復興されたとされます。

 

花山法皇は

播磨(現在の兵庫県)にある

書寫山(しょしゃざん)の

性空(しょうくう)上人とご縁がある方です。

 

書寫山ついででいうと

“最古の十和田湖伝説”が収録されている

『三国伝記』(さんごくでんき)では

難蔵(南祖坊(なんそのぼう)のこと)は

書寫山の法華持経者とされます。

 

南祖坊は十和田湖伝説に登場する僧侶で

当山にて修行したと伝えられ

全国練行の末に十和田湖に入定し

青龍大権現という龍神として

十和田湖の主になったと伝えられます。

 

西国三十三観音霊場に続いて

坂東(ばんどう)三十三観音

秩父三十三観音(のち三十四観音)の

霊場が成立します。

 

それに続いて成立した地方的札所が

糠部三十三観音だそうです

(山崎武雄1980

「糠部三十三所観音巡礼(一)」

『天台寺研究』pp.60-117。)。

 

永正9年(1512)9月

観光上人によって成立した霊場です。

 

観光上人御選定の札所番数は

現行の番数とは異なっており

その詳細は一部しか

分からないようですが

1番札所が天台寺(現在は33番)で

33番札所が恵光院(現在は22番)です。

 

観光上人の「観光」という

言葉についても

少し触れさせて頂きます。

 

観光といえば各所に赴く

旅行や行楽といったニュアンスがある

言葉として定着しておりますが

一説によると

音のを頂きに行くこと」

の意味で観光という言葉が

使われたそうです。

 

糠部霊場の創始に携わるとされる

観光上人について

詳細は不明とのことですが

一観音霊場創始者の法名が

観音菩薩と縁深きものである点は

深秘であると思いますし

その当時の時代背景を踏まえながら

全国的にも古い霊場である

糠部三十三所の魅力を後世に伝える意味で

新たな“草創譚”を編むことが

出来るようにも感じます。

 

観音霊場の札所ともなった七崎観音は

観光巡礼が流行した時代を迎え

それまで以上の多くの方が

参詣されたことと思います。

 

▼船祈祷の聖教

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▼長峻大和尚

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▼恵光院(南部町)

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稀代の古刹 七崎観音⑦

当山本堂内の観音堂本尊として

祀られる聖観音は

七崎観音(ならさきかんのん)と呼ばれ

その起源は平安初期にまで

さかのぼるとされます。

 

七崎観音は普段は秘仏ですが

年に一度旧暦1月17日に御開帳し

御宝前にて護摩法要が厳修されます。

 

本年は2月21日が御開帳となります。

▼護摩法要の詳細はコチラ

https://fugenin643.com/blog/wp-content/uploads/2019/01/H31おこもり広告.pdf

 

七崎観音は明治になるまで

現在の七崎神社の地にあった

観音堂(以下、旧・観音堂)に

お祀りされておりました。

 

旧・観音堂には

七崎山 徳楽寺(ならさきさん とくらくじ)

という寺号(じごう)がありました。

 

補足ですが

諸尊格のお堂に寺号(じごう)が

用いられる例は他所にも見られます。

 

「毛馬内 三大日」といわれた

毛馬内の三つの大日堂は

それぞれ寺号が用いられており

小豆沢村大日堂は養老山 喜徳寺

長牛村大日堂は長牛山 仁両寺

毛馬内村大日堂は福生山 中台寺

という寺号が用いられております。

 

毛馬内でいえば

不動院が別当をつとめた

舘神宮は玉崎山 金光寺の寺号が

用いられております。

 

田子でも観音堂に

蟹沢山 宣王寺の寺号が

用いられておりますし

こういった例は他にも多く見られます。

 

当山は古くから

七崎観音の別当をになっております。

 

当山を開創した

圓鏡(えんきょう)大和尚は

弘仁8年(817)5月15日に

御遷化(ごせんげ、高僧の逝去の意)

と過去帳に記されますので

かなり古い時代から当山と七崎観音は

深く関わっているのだと思います。

 

当地である豊崎町は

かつて七崎(ならさき)と呼ばれました。

 

現在でも「永福寺」と「七崎」の

地名が残っており

地域とともに歴史が紡がれてきたことを

今に伝えているように感じます。

 

地名でいうと

「南宗(祖)坊」(なんそのぼう)

という地名も豊崎には

残っております。

 

南祖坊とは

十和田湖伝説に登場する僧侶で

当山に弟子入りして

全国を巡った末に

十和田湖に入定(にゅうじょう)し

青龍大権現(せいりゅうだいごんげん)

という龍神になったとされる方です。

 

「南宗(祖)坊」には

南祖坊という坊舎(お寺)が

あったのではないかとも

いわれております。

 

「南宗(祖)坊」は

当山と滝谷(たきや)地区の

ほぼ中間に位置する場所です。

 

滝谷には天満宮がありますが

かつては十和田山参詣の際には

滝谷の天満様に立ち寄ってから

十和田山へ向かったそうです。

 

豊崎町は現在の町名が示す如くに

「豊かな土のふるさと」

(豊崎小学校校歌の一節でもあります)

であると共に伝承・伝説に彩られた

とても由緒ある素晴らしい

地域であると拙僧(副住職)は

誇りに思っております。

 

全国各所に赴かせて頂くことが

多い拙僧(副住職)からしても

当地はどこにも引けを取らない

魅力にあふれていると

胸を張って言うことが出来ます。

 

さて今回は近世の史料を一助とし

旧・観音堂(七崎観音)を含めた

かつての七崎について

見ていきたいと思います。

 

宝暦13年(1763)のもので

盛岡南部藩領の社堂についての

調査書である

『御領分社堂』という書物があります。

 

『御領分社堂』は

宝暦9年(1759)の幕府の御触(おふれ)

により開始された調査が

広範囲にわたり丁寧に

なされたということが

伝わってくるような書物です。

 

七崎についても

当時の主な社堂が

旧・観音堂(現・七崎神社)を含め

同書に以下のように

記載されております。

 


寺院持社堂 五戸御代官所七崎

一 観音堂 四間四面萱葺(かやぶき)

古来縁起不相知

萬治元年(1658)重直公御再興被遊

貞享四年(1687)重信公御再興被遊候

何(いずれ)も棟札(むなふだ)有

 

一 大日堂

一 不動堂

一 愛染堂

一 大黒天社

一 毘沙門堂

一 薬師堂

一 虚空蔵堂

一 天神社

一 明神社

一 稲荷社

一 白山社

右十一社堂は観音堂御造営之節

依御立願何も御再興被遊候

小社之事故棟札も無之

只今大破社地斗に罷成候

一 月山堂 壱間四面板ふき

 

一 観音堂 右ニ同

右両社共に観音堂御造営之節

重直公御再興也

 

善行院(ぜんぎょういん)

当圓坊(とうえんぼう)

覚圓坊(かくえんぼう)

覚善坊(かくぜんぼう)

右四人之修験は本山派にて

拙寺(永福寺)知行所所附之者共御座候

古来より拙寺(永福寺)拝地之内

三石宛(ずつ)遣置

掃除法楽為致置候


 

とても多く神仏が

お祀りされていたことが

分かると思います。

 

大日如来と

不動・愛染の両明王が

お祀りされる小社(お堂)が

あったと記されますが

拙僧(副住職)からすると

この部分には深秘(じんぴ)な

意味を感じます。

 

『御領分社堂』では

七崎の観音堂が

2つ紹介されております。

 

1つは旧・観音堂のことですが

もう1つは当山所蔵の

棟札等を踏まえると

千手千眼観音観堂(以下、千手観音堂)

のことだと思われます。

 

史料によれば

一間四方のお堂だったようです。

 

現在の当山本堂は

文化8年(1811)に再建されており

その当時は覚宥(かくゆう)大和尚が

普賢院を担っておりました。

 

当山に残る

千手観音堂再興の棟札(むなふだ)には

この覚宥大和尚の名が記されているので

江戸期までは千手観音堂が

再建を繰り返しながら

維持されていたことが分かります。

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千手観音堂にどの仏像が

納められていたかは分かりませんが

当山に祀られる千手観音の1体を

紹介させて頂きます。

 

以下がその写真となります。

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ご覧の通り

とても古い仏像で

お顔の上にも多くのお顔があり

仏像両側面には

千手観音の腕が

差し込まれていたと考えられる

無数の穴があります。

 

この千手観音は

田子出身の高僧である

奇峯学秀(きほうがくしゅう)

彫ったものであることが

つい先日判明いたしました。

 

千手観音に加え

不動明王像の中にも

奇峯学秀作のものがあることが

判明いたしました▼

https://fugenin643.com/blog/奇峯学秀(きほうがくしゅう)の仏像が発見/

 

ついでになりますが

当山観音堂には

八体仏(はったいぶつ)という

十二支の守護尊がお祀りされ

その中にも千手観音が

入っておりまして

この八体仏は

弘化年間(1844〜1848)に

作られております。

 

先の引用文には

修験についても紹介されているので

最後にこのことにも触れたいと思います。

 

『御領分社堂』では

四人の修験者が記され

「本山派」であるとされます。

 

『七崎神社誌』では

七崎の修験は「真言宗なり」とあり

記述に矛盾を感じられる方が

いらっしゃるかと思いますが

ここに現代とは異なる

かつての“宗派性”を

読み解くことが出来ると思います。

 

修験者としての認可を

本山派(天台系修験)で授かり

作法などは当山派(真言系修験)の

伝授が出来る寺院

あるいは阿闍梨に授かるといったことは

決して珍しいことではありません。

 

参考までにですが

当山の本山である

奈良県の長谷寺は

学山(がくさん)として非常に栄え

宗派を問わず多くの学僧が

各地より集ったお山でした。

 

七崎(現在の豊崎)も

垣根をこえて

様々な方が各所より集われた

魅力ある地域だったと思います。

 

▼当山より南方方向

 ※当山と七崎山のその先には

   名久井岳が位置します。

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▼観音橋上空から見た南方

※当山と七崎山の奥に見える

   大きな山が名久井岳です。

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▼当山より真東方向

 ※その先には海が広がり

  蕪島(かぶしま)が位置します。

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▼当山より西方

 ※ずっと先には戸来(へらい)岳や

   十和田湖があります。

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▼当山より北方

 ※ずっと先には小川原湖があります。

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十和田湖自然ガイドクラブの皆様においで頂きました

十和田湖自然ガイドクラブの皆様が

当山においで下さいました。

 

今回は拙僧(副住職)から

皆様にお願いがあり

お声がけさせて頂き

ご足労頂きました。

 

当山は十和田湖伝説の

南祖坊(なんそのぼう)が修行したと

伝えられるお寺でもあり

南祖坊の御像もお祀りされております。

 

そのご縁もあって数年前より

十和田湖自然ガイドクラブの

皆様とは親しくさせて頂いております。

 

十和田湖伝説を

十和田湖でガイドとして

お伝えされている

いわば“現代の語り部”の皆様です。

 

今回お呼び立てしたのは

本堂建替に伴う記念事業と

諸儀式に関することや

今後の取り組みなどについて

様々相談させて頂きたいことが

あったためです。

 

十和田湖では現在

「十和田湖冬物語」という冬の行事が

開催されている期間で

皆様お忙しいにも関わらず

親身に相談に乗って下さり

ありがたい限りでした。

 

おかげさまで

とても有意義な時間となりました。

 

▼十和田湖自然ガイドクラブ

https://www.aptinet.jp/Detail_display_00000573.html

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▼十和田湖(2017年秋の写真)

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