紐解き七崎観音⑫

七崎(ならさき)は

「七つの岬」に由来するとされます。

 

「岬」は海や川や湖を連想させます。

 

地元の士族でもあった

とある旧家の方の伝えでは

かつて浅水川が相当に蛇行しており

「七つの岬」のように見えるその光景が

七崎の地名の由来だとも言われます。

 

七崎の「七」は

具体的な数とは限らず

多数を意味し

かつ聖数としての意味がある

とも考えられますし

仏教的な意味が込められているとすれば

七宝(しっぽう)からきた七

とも考えられそうです。

 

空海の『声字実相義』の

考え方を応用すれば

na-ra-sa-kiの音に分解して

各音(梵字)の字義という

観点から検討することも可能です。

 

この方法で

na-ra-sa-kiを解読すると

この響きの中に

「南無観自在菩薩(観音菩薩)」

という意味が含まれるのが

とても絶妙に思います。

 

na字は「帰命」(南無)につながり

sa字とka字(kiの母字)は

「観自在菩薩(観音菩薩)」につながります。

 

「ならさき」ではなく

「ならじゃき」と

読むこともあったので

na-ra-ja-kiで解読すると

ja字は「鉤召」の意に通じ

さらに当山本尊「愛染明王」

にも通じるものと

捉えることも出来ます。

 

旧観音堂の地を

七崎山または観音山

と読んでいたとされますが

これら山号(お山の名前)は

字義釈によって捉えると

通底したものといえます。

 

七崎山は

旧観音堂の寺号・徳楽寺の

山号として使用されていたと

考えられてきましたが

当山の本堂建替に伴う

古文書や史料や仏像や仏具の

総整理の際に

この通説を揺るがす発見がありました。

 

それが次の版木です。

 

七嵜山 普賢院」刻字の御影板木(年代不詳)

※「嵜」は「崎」の異体字。

※七崎山の山号は、徳楽寺(七崎観音堂の寺号)の山号であると考えられていたが、普賢院にも用いられていたことを示すとても貴重な史料。

 

「七崎山徳楽寺」

「七崎山普賢院」という

組み合わせの存在が判明したことは

これまでの通説を

場合によってはくつがえす程の

大きな意味を持ちます。

 

徳楽寺の院号が

普賢院だったとすれば

七崎山普賢院徳楽寺が

正式名称だった可能性もあります。

 

本坊宝珠盛岡山永福寺自坊・宝照山普賢院と

七崎観音別当・七崎山普賢院の

二つの院号を

併用していた可能性もあります。

 

これらの説は

先に紹介した版木の存在が

明らかになったゆえに

浮上したものです。

 

七崎山普賢院徳楽寺の名が

文字として残る史料はないので

検証することは難しく

可能性を示すに留まりますが

後者の説については

七崎(嵜)山普賢院と刻された

“観音版木”があり

近世文書に七崎観音の別当が

普賢院との記述があることから

新説として提示出来るものと考えます。

 

そんな新説については

また後日触れるとして

前回も扱った史料について

再びみてまいりましょう。

 

前回は

時代の要請による

旧観音堂の神社化について

里人・社人の伝えについて

『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])に

採録された箇所を参考に

考察を行いました。

 

同史料では

「七崎神社としての縁起」について

「全く後人の偽作なれとも」として

以下の2説を述べていました。

 

  1. 祭神はイザナミノミコト。むかし火事があり、縁起など焼失して無いため、詳細については分からない。
  2. 祭神イザナミノミコトの勧請について、天災で縁起を失っているため、詳細を知るのは難しいと前置きをし、藤原諸江卿が当地に勧請したという説を示す。四条中納言であった諸江卿は、勅令により白銀に居住しており、承和元年(834)1月7日の夢でイザナミノミコトの神告を受け、当地に勧請された。

 

藤原諸江という人物は

明治以後になると

七崎神社の縁起において

キーパーソンとなりますが

一方で

明治以前の文書や木札には

少なくとも当山が所蔵するものや

確認出来る文書(過去帳や表白など)には

いっさい見られないのです。

 

藤原諸江を祖とする

古い家々が

旧修験家など他

当地にはあります。

 

旧修験家の方が還俗し

神職となったのちの

旧観音堂の神社化の推進と

藤原諸江卿の「伝説」や

系譜観念が

相関しているのかもしれません。

 

藤原氏の方が

諸事情により

京より当地方に

おいでになった

という類の話は当地や近隣で

よく見らますが

個人名がどうというより

藤原氏であることに

深掘りポイントがあると

個人的には考えてきました。

 

藤原氏の

氏寺は興福寺

氏神は春日大明神。

 

そして春日大明神と同体とされる

難陀龍王(なんだりゅうおう)という

諸龍王を司る「龍神」と

その難陀龍王を脇侍とする

十一面観音(長谷寺式)。

 

その十一面観音は

アマテラスと同体とされる

雨宝童子も脇侍としており

長谷寺は古くから

観音信仰の中心地のひとつで

藤原氏にも庇護を受け

もともとは興福寺の末寺でした。

 

長谷寺の十一面観音信仰は

歴史があるもので

「長谷信仰」は

元祖観音霊場であり

屈指の古刹からなる

西国三十三観音霊場の発祥と

関わります。

 

当山創建当初の本尊も

十一面観音とされます。

 

余談が長くなりましたが

藤原氏と観音信仰には

深いつながりがある点を

明示しておきたかったのです。

 

それと

京の方にルーツを持つ方が

当地に来たことは

歴史的にある話だと思いますし

修験者などの宗教者が

当地に居を構えたことも

実際にあったと思います。

 

諸江卿について付言すると

先に示した1と2の

イザナミノミコト勧請について

2の報告には

杉の植樹の伝説には

触れられていません。

 

当山では

開基開山上人の行海大和尚が

旧観音堂の地に

七つ星になぞらえて杉を植えた

との伝えがあるのですが

別説として

藤原諸江卿が杉を植えた

という伝えもあります。

 

これらについても

前回触れた坂上田村麿将軍の説と同様

同じエピソードの主人公が

“仏教的人物”から

藤原諸江卿に代替されているようにも

思われるのです。

 

藤原諸江卿を祖神とする

旧修験家の方々が

古来より大切にされてきた

祈りの地を

当時の状況下において

求められた形態にて

受け継いだことの決意の現れ

としての縁起改変

のようにも感じられます。

 

さらには

幕末における

新政権の政策構想として

国学者の立場から

奉呈された史料中にて

記紀神話の神々と

皇系につらなる方々や

国家に功績のあった方々を

国家的に祭祀するよう

主張するものがあり

藤原氏は「皇系につらなる方々」

となります。

 

この構想にそった形で

明治元年以降に

神社創建があいついだことと

旧観音堂の神社化と

藤原諸江譚への縁起改変は

軌を同じくした可能性もあるでしょう。

 

以上見てきたような

改変パターンによる縁起の整理で

時代的背景もあって

全国的に強要された神仏分離と

当地における旧観音堂の神社化を

乗り越え

“破壊”を伴う様な状況ではなく

可能な限り歴史や伝統を温存しつつ

明治スタイルに適応させた形に

着地させることが出来た

と言えようかと思います。

 

明治以後

大正・昭和20年までの間は

教育においても

古事記など日本神話に基づいた理解は

必須のことであり

それが公的祭祀を裏付けるものであり

国としての思想的基盤とも

いえるものでした。

 

明治における

旧観音堂の神社化や

それに伴う縁起改変は

明治だけの話ではなく

その後に向けた“国づくり”

としての文脈で捉えると

見えてくるものがあると感じます。

 

春の終活カフェのご案内【再掲】

春の終活カフェのご案内再掲です。

 

4月17日(木)午後1時から

ふれあい豊山館で開催します。

 

参加費は無料です。

 

午後1時から住職が

昨今の葬送事情

の演題でお話します。

 

合葬墓や永代供養についても

お話しますので

これからのご供養についてや

これからのお葬式について

何かしら考えてみたい方や

興味をお持ちの方は

ぜひご一緒ください。

 

午後1時から1時間程

住職がお話しまして

休憩をはさんで

弟子・中野太陽さんにも

少しお話いただきます(20分程)。

 

皆様のご参加

お待ちしております。

 

松山の古刹にて

愛媛県松山市別府町の

飯岡山浄明院に

行ってまいりました。

 

こちらの森脇宥海師には

当山のおこもり法要に

毎年おいでいただいてます。

 

拙僧泰峻とは

修行・修学を共にさせていただいた

法友でもあります。

 

牡丹祭り法要と

会館・納骨堂落慶法要に

出仕してまいりました。

 

同院では

神仏習合形式により

牡丹祭り法要が開催されており

落慶法要についても

関係社の宮司さんも出仕されました。

 

また今回は巫女さん達の舞も奉納され

とても良い祈りの時間でした。

 

明治時代以降も

維持されてきた地域もありますが

復興されたものも含め

最近は神仏習合の法要が

各地で見られるようになった印象があります。

 

 

とても良い祈りの時間でした。

 

今年も沢山の刺激をもらいつつ

参集された諸寺院の住職方との

ご縁も深められた

本年の牡丹祭りとなりました。

 

 

▼新築された会館・納骨堂

心地よい老子の響き

毎月一回のペースで

有志による古典勉強会が

開催されています。

 

少し前までは『論語』でしたが

最近は『老子』に

耳を傾けております。

 

講師の先生の講義録(CD)を聴きながら

ときおり素読して

最後にその場の皆さんで

その日に感じたことや近況報告といった

流れで開催が重ねられています。

 

講演録は

一般向け(おもに企業向け)の内容なので

とても分かりやすく

大変勉強になっています。

 

「耳」による学びは

とても良いものです。

 

現代的感覚では

「書籍は黙読するもの」

と主に捉えられていると思いますが

これはあくまで最近のことのようで

音読を伴っていた時代の方が

長かったそうです。

 

音読・素読を行うときに

私たちの感覚器官の働きは

黙読を行うときのそれ以上に

身体性を伴うものなので

健康にも効きそうな感じがします。

 

なじみのある黙読には

黙読の素晴らしさがあることを

(たぶん)私たちは知っているので

それとあわせて

音読・素読を実践してみるのは

心身を潤す一助になるように思います。

 

紐解き七崎観音⑪

前回(紐解き七崎観音⑩)は

多様な語りの発生について

声による「口承」と

文字による「文書」による

伝達という観点から検討してみました。

 

現代に生きる私たちにとって

「文書」は黙読をもって

そこに保存された情報を

取り出そうとするアプローチが

ごく日常的ですが

時代が違えば事情も異なり

「文書」と「音読」をセットとして

捉えられていたそうです。

 

「文書」により保存され

伝達が目指された情報は

眼識(目による情報の認識)

だけでなく

耳識(耳による情報の認識)

にも関わりながら

情報受者に取得されていた

と一応表現できるでしょう。

 

私たちは

自身の感覚器官(六根)により

各器官が対象とするもの(六境)を

把握し認識(六識)します。

 

五蘊(色受想行識)

という考え方は

私たちの認識構造を把握するのに

大変参考になるものでして

私たちの内面から

物事との接触・認識までの流れを

識→行→想→受→色

と捉えます。

 

専門度が高いので

識をここでは便宜的に

「あらゆる経験が蓄積される深層的な心」とし

行については

「各自の思考のクセ」とします。

 

意識的無意識的とわず

私たちの様々な「経験」が

心のうちに種のように

ストックされており

諸条件によりその種が発現し

想起させる力が働いて

物事の認識や行動に関わるという

内的で深層的な心と外的環境とのあり方を

捉える考え方があるのです。

 

こういったものは

私たちの認識のあり方や

世の中のあり方を

観察(瞑想)するためという

側面のあるもので

観念論的な思考としてだけではなく

実践が伴ってこそ

本領が発揮されるものといえます。

 

これらの思想や実践は

「苦」と「識」が

深く関わっていると

仏道で捉えられていることの

明示でもあります。

 

観音菩薩は

観自在菩薩とも言いますが

観自在菩薩は

「観ること自在なる菩薩」です。

 

自在というのは

とわわれないことを意味します。

 

「観ること」(因)により

「自在なる」(果)となる。

 

その「観ること」を考える時

本稿で触れた諸項目が

解読の鍵となります。

 

観自在菩薩に

関連する経典は様々あり

法華経や華厳経や般若心経といった

超有名経典ほか

多くの経典に登場しており

曼荼羅においても重要な尊格です。

 

「観自在」について

若干の説明をするはずが

結構長くなってしまいました…

 

奇数月に開催している

『写経カフェ』では

こういった類のお話が主となるので

ご興味をお持ちの方は

そちらでお話に

耳を傾けていただければと思います。

 

前回も

幕末明治以降の七崎観音について

触れましたが

その流れで今回も

同史料を扱います。

 

令和7年は終戦80年

という節目ということで

他シリーズでも

幕末明治以降について

触れています。

 

太平洋戦争について

深ぼって考えるためには

幕末明治にさかのぼって

考える必要があるためです。

 

また

当地だけではなく

戦争期において観音菩薩は

様々な願いが捧げられた尊格であり

この点からも様々

述べられることがあると考えています。

 

七崎観音についていえば

旧観音堂が廃止され

旧地は神社化され

七崎観音は遷座された

のが明治時代で

ひとつ(無分別)のものが

ふたつ(分別)にされた

ともいえます。

 

明治〜昭和20年(1868〜1945)の

77年の間は

目まぐるしさがあり

寺社関係についても

明治冒頭から

大きな変化がいくつもあります。

 

それらのことにも

触れながら眺めることは

とても有意義と捉えています。

 

細かなことについては

徐々に触れるとして

前回扱った史料について

以下に再掲します。

 

『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])の当地についての箇所

全く後人の偽作なれとも

本条と俚老の口碑を

採抜せるものなるへけれは

風土の考知らん為に左に抄す

 

七崎神社

祭神

伊弉冉命[イザナミノミコト]

勧請之義は古昔天火に而

焼失仕縁起等

無御座候故

詳に相知不申候

 

異聞あり

ここに挙く祭神は伊弉冉尊にして

勧請の由来は天災に焼滅して

縁起を失ひ詳らかなることは

知かたけれとも

四条中納言 藤原諸江卿

勅勘を蒙り◻刑となり

八戸白銀村(九大区 三小区)の

海浜に居住し

時は承和元年正月七日の

神夢に依て浄地を見立の為

深山幽谷を経廻しかとも

宜しき所なし居せしに

同月七日の霄夢に

当村の申酉の方

七ノの崎あり

其の山の林樹の陰に

我を遷すへしと神告に依り

其告の所に尋来るに大沼あり

 

水色◻蒼

其浅深をしらす

寅卯の方は海上漫々と見渡され

風情清麗にして

いかにも殊絶の勝地なれは

ここに小祠を建立したり

 

則今の浄地なりと

里老の口碑に残り

右の沼は経年の久き

水涸て遺阯のみ僅に

小泉一学か彊域の裏に残れり

 

当村を七崎と云るは

七ツの岬あるか故と云う

 

又諸江卿の霊をは荒神と崇め

年々八月六日より十二日まて

七日の間 祭事を修し来たれりと

(以上 里人の伝る所

社人の上言に依る)

 

この語を見に初

伊弉冉尊霊を祭る趣なれとも

縁起記録等なく詳ならされとも

南部重直の再興ありし頃は

正観音を安置せり棟札あり

 

〈引用文献〉

青森県文化財保護協会

昭和41(1966)年

『新撰陸奥国誌』第五巻

 

史料では

「七崎神社としての縁起」について

「全く後人の偽作なれとも」として

以下の2説を述べています。

 

  1. 祭神はイザナミノミコト。むかし火事があり、縁起など焼失して無いため、詳細については分からない。
  2. 祭神イザナミノミコトの勧請について、天災で縁起を失っているため、詳細を知るのは難しいと前置きをし、藤原諸江卿が当地に勧請したという説を示す。四条中納言であった諸江卿は、勅令により白銀に居住しており、承和元年(834)1月7日の夢でイザナミノミコトの神告を受け、当地に勧請された。

 

大まかにいえば

上記の様になります。

 

藤原諸江卿という人物が

登場していますが

この伝説的人物を祖先とする

家々が当地にあります。

 

藤原諸江卿は

大同2年(807)1月3日に

没したとの説もありますが

大同2年という年は

北東北全体において

坂上田村麿将軍と結び付けられて

語られる年号でもあり

おそらく明治以後に

旧観音堂エリアの“神社化”に

必要な縁起類の編成作業において

藤原諸江卿と大同2年が

結び付けられて

語り直されたと思われます。

 

田村麿将軍は

「観音菩薩の権化」と言われるなど

観音信仰と深く関わる人物でもあるので

神社化作業においては

田村麿将軍と藤原諸江卿が

入れ替えられた形で

縁起が編まれたと言えそうです。

 

七崎観音の縁起についても

同じエピソードで

主人公が

田村麿将軍と藤原諸江卿という

違いのものがあるので

先述の様な改変作業が

必要あって為されたと

考えられるのです。

 

当地の神仏分離作業中

縁起改変において

「藤原諸江卿」という人物が

重要な役割を担ったといえます。

 

当山に残る

古文書や棟札や

各種表白において

藤原諸江卿について

全く記述がないことからも

明治以後における

縁起改変作業で

採用された人物であった可能性が

高いように思います。

 

引用した史料では

藤原諸江卿を荒神として

祀っていたとの報告もありますが

当山と旧修験家が所有していた

荒神像は三宝荒神と思われることから

諸江卿を荒神として祀っていた

という報告は

神社化の縁起改変に伴う内容である

可能性があるものの

「藤原諸江卿=荒神」と祀って

そのための行事があったとすると

怨霊信仰や祖霊信仰の観点から

様々に述べることが出来るので

この辺は別の機会に

深めてみたいと思います。

 

これまで見てきたような

縁起改変作業は

時代的要求があって

実行されたものであり

必要があった故のことで

「不敬なもの」ではありません。

 

すこぶる強烈な

政治的・時代的圧力が

長い歴史や伝統を

政治的・時代的要求に耐えうる

縁起に編み直さざるを得なかったのが

明治における神仏分離の頃だった

とまとめられるでしょう。

 

祈りの引き継ぎ

家によっては

敷地内に持仏堂やお社があり

そこで神仏を丁重に

お祀りされている場合があります。

 

諸事情あって

そういったお堂を

整理しなければならず

そちらでの閉眼供養や

仏像・神像などの

祭祀の引き継ぎを

お願いされることが

しばしばあります。

 

後々は

墓じまいや仏壇じまいを伴う場合も多く

こういったことは

現代的特徴といえるかもしれません。

 

祈り込まれていたものゆえ

引き継がせていただくものについては

丁重に守らせていただきたいと思います。

 

春の不動護摩のご案内

春の不動護摩のご案内です!

 


不動護摩

  • 開催日:毎月28日
  • 受付は午後6時30分から
  • 法要は午後7時から
  • まず、受付所で受付をしてください。そこでお布施をお納めください。会費等は設けませんが、お布施としてお気持ちの程お納めいただきますようお願いいたします。
  • 受付所で受付用紙をお渡しするので、そちらにご記入し、ご提出ください。
  • 授与所で授与品を用意するので、入用の方はお求めください。授与品は護摩木(1本500円)、供養護摩木(1本1,000円/供養護摩木用の申込用紙にご記入・ご提出してください)、お守り(一体1,000円)、不動経写経セット(2,000円)があります。
  • 参加される方には、お経を記載した法要次第をお渡しします。よろしければご一緒にお唱えください。もちろん、お心静かにご参列いただいても構いません。法要次第はお持ち帰りいただいて結構です。

 

昨年より

供養のための護摩木である

供養護摩木を用意しています。

 

供養護摩木は

思いを捧げたい方の

お名前や戒名を

供養護摩木申し込み用紙に

お書きいただきまして

それを住職が護摩木に

したためます。

 

不動経写経セットも

昨年末から用意したので

ぜひお求めいただき

写経していただければと思います。

 

お納めいただいた浄財は

四大明王像の制作に

あてさせていただきます。

 

新年度最初の不動護摩です。

 

春を感じながら

護摩の時間を

ご一緒しませんか?

 

どなた様でも

ご参加いただけますので

ご興味をお持ちの方

ご都合よろしい方は

お気軽にお運びくださいませ。

 

 

今年度初出張

東京は桜がほぼ葉桜になっており

とても暖かな日和でした。

 

とても良い刺激をいただいた

今年度最初の登庁でした。

 

研究機関は新体制となり

とても良い刺激をいただいた

今年度初回の

東京出張となりました。

 

いざ新学期

住職の長男は

4月7日が

中学校の入学式でした。

 

長女は小学5年生で

新学期スタートをきりました。

 

生活スタイルも

ガラッと変わり

子ども達もどこか

活力に満ちているようです。

 

法務のために

長男の入学式も

出席できませんでしたが

制服を着た姿に

元気をもらいました。

 

拙僧泰峻も

明日は今年度最初の

東京出張です。

 

今年度も

頑張りたいと思います。

 

紐解き七崎観音⑩

当シリーズ

1年以上ぶりの投稿です。

 

最近の投稿にも本シリーズと

大いに関わるものがあるので

そちらもご参照ください。

 

▼草創期に関して

「開創当時を考える」シリーズ

 

▼近現代に関して

R7開山忌関連(草創期と近現代について触れています)

 

前回(紐解き七崎観音⑨)は

語りの一旦を担い

その拡散に貢献した方々を

広い意味でヒジリと

表現してみました。

 

諸聖

山伏

修験者

私度僧

などをヒジリと言っています。

 

七崎観音に関する

霊験譚や縁起譚は

もともと口承によります。

 

寺社縁起や諸尊縁起ほか

霊験譚で語られるものは

歴史とは似て非なるものであることは

ずっと以前より強調してきました。

 

ここでいう歴史とは

現代的意味においての歴史であり

現在より時間的に遡って

実際に発生したことの記録

といった意味でしょうか。

 

縁起・由緒譚といった類のうちにも

先にいった意味での歴史が

含まれていないという

意味ではありませんが

歴史と等価に捉えるのは

難しいといえます。

 

語りの一翼を担い

多くの方に広げた

ヒジリには

様々な方が想定され

口々に発される内容は

各人において

内在化されたもので

その理解を踏まえた

表現(言い回しや抑揚など)も

異なるでしょう。

 

語りは

それを聞くものにとっての効果だけでなく

それを語るものにとっての効果も

認められるものです。

 

自身の内に

内在化したものを

第三者に向けて

伝達するプロセスは

昨今の臨床場面で見られることのある

ナラティブ・アプローチと

類似すると思われます。

 

声による伝達は

話者の内面とつながり

そして語りが伝達されるためには

対象者がいることが必要です。

 

ヒジリ→対象者

に話が伝達されれば

そこからさらに対象者を通じて

新たな話者(対象者)において

内在化されたものが

別の対象者へ伝達されるという

連鎖によって広がっていきます。

 

対象者から別の対象者への伝達を

第二次伝達とすれば

それはカッチリしたものではなく

世間話のような形であることの方が

多かったでしょうし

むしろ世間話のような形の伝達が

大きな拡散力を持っていたとも

考えられます。

 

口承は「声の伝達」とすれば

文書など記述によるものは

「文字の伝達」です。

 

さらにこれら伝達には

保存の働きもあるので

「声の保存・伝達」

「文字の保存・伝達」

ともいえます。

 

その両者は

保存・伝達という

働きが同じであっても

口承によるものは

簡略明快な内容である

傾向にあるのに比べ

文字によるものは

固定化が目指される傾向にあり

心情や場面などの

情景描写が多い傾向にあるなど

大きく異なります。

 

口承は声によるため

その内容が人々の記憶に

留められるとはいえ

文字などに記録されなければ

史料としては残りませんが

文書は

その内容いかんに関わらず

史料としては残ります。

 

唐代の義浄三蔵が

『南海寄帰内法伝』で

口承でしか伝えられていない

経典があったため

文字にとどめたと

記されているように

口承を重んじて

継承されてきたものが

あったことは

とても興味深く思いますし

口承は奥深いものだと感じます。

 

真言宗においても

口伝といって

文字に起こすのではなく

阿闍梨が弟子に対して

儀式において伝授する伝統が

今なおあることもまた

口承文化の尊さに通じると思います。

 

文字による保存・伝達は

現代に生きる私たちにとっては

とても馴染みあるもので

今や大量の情報を扱うことが可能です。

 

とはいえ

文字による保存・伝達の

性格は今も昔も共通しており

文字による情報の保存には

限界があるのは間違いなく

そのことに私たちの多くは

気がついているように思います。

 

たまたま残った文字が

当時からすれば

デタラメなものだった

なんてことがないとは

いいきれないわけです。

 

「語り」には

①物語などの内容

②語るという行い

の二つの意味があり

①が同じであっても

②の方法or主体により

バリエーションが生まれるのは

自然なことといえるでしょう。

 

七崎観音にまつわるお話は

一様ではないことについて

「語り」のあり方に注目して

わずかながら述べてみました。

 

七崎観音に関して

口承されてきた内容は

明治の到来とともに

イザナミノミコトと

藤原諸江卿のお話への

変更が図られることになります。

 

これは時代的背景によるもので

政府の政策において

神仏分離による“神社化”が

国家神道において

重要な意味を持つためです。

 

明治・大正・昭和(終戦まで)

を通して神社に関わる政策に

幾度か変遷があるにせよ

宗教ではなく祭祀において

大きな意味が付与されていきます。

 

旧来の縁起類の

改変の様子を

以下の引用に

見ることが出来ます。

 

『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])の当地についての箇所

全く後人の偽作なれとも

本条と俚老の口碑を

採抜せるものなるへけれは

風土の考知らん為に左に抄す

 

七崎神社

祭神

伊弉冉命[イザナミノミコト]

勧請之義は古昔天火に而

焼失仕縁起等

無御座候故

詳に相知不申候

 

異聞あり

ここに挙く祭神は伊弉冉尊にして

勧請の由来は天災に焼滅して

縁起を失ひ詳らかなることは

知かたけれとも

四条中納言 藤原諸江卿

勅勘を蒙り◻刑となり

八戸白銀村(九大区 三小区)の

海浜に居住し

時は承和元年正月七日の

神夢に依て浄地を見立の為

深山幽谷を経廻しかとも

宜しき所なし居せしに

同月七日の霄夢に

当村の申酉の方

七ノの崎あり

其の山の林樹の陰に

我を遷すへしと神告に依り

其告の所に尋来るに大沼あり

 

水色◻蒼

其浅深をしらす

寅卯の方は海上漫々と見渡され

風情清麗にして

いかにも殊絶の勝地なれは

ここに小祠を建立したり

 

則今の浄地なりと

里老の口碑に残り

右の沼は経年の久き

水涸て遺阯のみ僅に

小泉一学か彊域の裏に残れり

 

当村を七崎と云るは

七ツの岬あるか故と云う

 

又諸江卿の霊をは荒神と崇め

年々八月六日より十二日まて

七日の間 祭事を修し来たれりと

(以上 里人の伝る所

社人の上言に依る)

 

この語を見に初

伊弉冉尊霊を祭る趣なれとも

縁起記録等なく詳ならされとも

南部重直の再興ありし頃は

正観音を安置せり棟札あり

 

〈引用文献〉

青森県文化財保護協会

昭和41(1966)年

『新撰陸奥国誌』第五巻

 

以上の部分に

社人と里人の説が記載されています。

 

この部分には

当地の先人方の

明治政府より求められた

「旧観音堂の神社化」への

苦心しての対応を

見てとることが出来ます。

 

「全く後人の偽作」

とありますが

当時求められた神社化において

旧来守られてきた伝統や

地域に誇る歴史といったものを

下敷きにして

イサナミノミコトを祭神とした

縁起が用意されたと考えられます。

 

真言神道や両部神道という

神道と仏教が融合した形があるのですが

女神であるイザナミノミコトを

蓮華部という曼荼羅のパートを司る

観自在菩薩と

関連づけて捉える理解の方法を

採用したのではないかと

拙僧泰峻は考えています。

 

要するに

イザナミノミコトを祭神としたのは

神仏習合・真言神道の考え方や

曼荼羅の思想が背景にあり

七崎観音と七崎観音堂時代との

つながりを内包することで

行政的に実行される断絶を

乗り越えようとした

と考えております。

 

神仏分離が図られた頃

地域によっては

廃仏毀釈という現象が多発しますが

当地ではその風潮が希薄であり

旧観音堂の「神社化」が

漸次進められているように見えます。

 

現在の七崎神社の境内に

「ほこ杉」と呼ばれる

巨大な杉がありますが

この名称は明らかに

古事記・日本書紀の

神話に由来しており

天沼矛(あめのぬほこ・古事記)

天之瓊矛(あめのぬほこ・日本書紀)

から来ています。

 

古事記・日本書紀が

仏教的な様相を帯びて

語られた時代があり

その内容は

中世神話と表現されることもあり

神道灌頂といった儀式が

真言宗でも行われていたので

明治における諸対応への

根拠たる思想を

そもそも持ち合わせていた

とも考えられます。

 

明治における

改変された縁起について

次回も触れてみたいと思います。