「おこもり」にちなんだ歌を作りました

旧暦1月17日は

秘仏・七崎観音をご開帳して

法要が行われます。

 

旧暦は月の暦です。

 

旧暦1月17日は

必ず大安であり

その月の位相は

古くから愛でられてきました。

 

十五夜(満月)以降の位相には

細やかに名称が当てられており

いかに関心が寄せられていて

尊いものとされてきたかが

伺われるように思います。

 

ご開帳は

単に秘仏の厨子(ずし)の

扉を開いて

そのお姿にお目見えする

という意味にとどまりません。

 

旧暦1月17日であることの意味

観音菩薩に託された願い

祈るということ

集うということなど

色々な意味が相まってこそ

この行事の尊さが

際立ってきます。

 

そのようなことを踏まえ

さらに“遠く”の

大切な人たちへの思いを込めて

「十七夜の祈り」という

歌を作りました。

 

歌詞は自作ですが

曲・歌声はAIで生成しています。

 

ぜひお聴きいただければと思います。

 

僧侶手彫りの地蔵菩薩像

昨日のブログでも紹介した

当山先師(代務住職ですが)

赤穂覚信師が手彫りされた仏像のひとつに

地蔵菩薩像(一説に弘法大師像)があります。

 

袈裟をまとい

左手に宝珠らしきものを携え

右手に錫杖を持つ姿なので

弘法大師像ではなく

地蔵菩薩の立像であると

高確率で断定出来ます。

 

というのも

弘法大師像で同様の

お姿のもの(修行大師像など)も

ありますが

その場合は袈裟(地蔵袈裟)を

着衣した姿ではありませんし

持仏についても念珠や鉢であることが多く

笠を着けていることも多いので

総合して考えると

地蔵菩薩であると判断出来ます。

 

この御像は旧本堂時代

本尊愛染明王の脇仏として

祀られていました。

 

新本堂建立にあたって

もともとの本尊が十一面観音だったという

いわれを踏まえて

長谷式十一面観音三尊を造立し

現在はそちらを本尊脇仏として

お祀りしています。

 

覚信仏である

この地蔵菩薩は

新本堂の地蔵堂にて

お祀りしています。

 

先日の地震では

転倒してしまいました。

 

以前から台座が不安定だったので

今後のことを考えて

こちらの仏像も

仏師さんに相談して

台座を作成してもらおうと思います。

 

将来のいつか

大きな地震は必ず来ます。

 

その際には

倒れることのないように

今のうちから

出来ることは

実行してまいります。

 

▼地震発生超後の転倒の様子

僧侶手彫りの不動明王像

地震で落下して

修繕が必要な不動明王像。

 

こちらは

円空仏といういわれや

奇峰学秀の作った学秀仏

といういわれがありますが

本堂建替の際に

仏像・古文書の悉皆調査を踏まえるに

当山代務者を一時期務めており

田面木の善照院先師でもある

赤穂覚信師が作仏したものだと

拙僧泰峻は考えています。

 

当山には覚信師の仏像は他にもあり

さらに同宗派の他寺院にも

何体か現存しています。

 

覚信師の不動明王像は

来年修繕する仏像のうちの一体です。

 

自立が不安定だったので

壁面に立てかけるような形で

観音堂脇堂最上段に

お祀りしていたので

地震が来た時に

こちらのお仏像は

たぶん落下したであろうと思っていた所

案の定の結果でした。

 

ということで

台座をきちんとしていただいた上

何年か前に取り外した

後背と持物(じぶつ)を

作り直していただこうと思います。

 

▼不動明王像の足元部分

台座とは接着剤で

つけられていたようです。

南祖祭で“南祖護摩”を行います

南祖法師を本尊に

法要を行い

そのご宝前で

伝説にまつわる法話をする

南祖祭(なんそさい)。

 

法要の準備をしている中で

護摩を行うことにしました。

 

今年の節分で

市川の願成寺(浄土宗)さんの

本堂で護摩法要をご依頼された時に

他所で護摩が出来るように炉を

用意したのですが

今回はそれを活用して

南祖堂の所で護摩を行ってみます。

 

不動護摩のように

高く炎を上げることは

場所的に出来ませんが

とても良い時間になると思います。

 

こじんまりした行事なので

大々的にご参列いただいている

法要ではありませんが

ご興味をお持ちの方は

ご一緒いただけます。

 

ご参列される方はj

受付にて

お名前・願い事をお書きいただき

お布施(金額は決めません)を

お納めください。

 

当山ならではのというか

当山でしか出来ない形の

伝説との向き合い方です。

 

“ならでは”の形式を通じて

祈りをお捧げいただければと思います。

 

12/7南祖祭のご案内

南祖坊(なんそのぼう)として

有名な南祖法師(なんそほっし)に

祈りを捧げるひとときです。

 

南祖法師は

普賢院第2世住職

月法律師(がっぽうりっし)の

弟子とされ

全国行脚の果てに

十和田湖の龍神

青龍大権現(せいりゅうだいごんげん)に

なったと伝えられます。

 

当日は法要の後

「南祖法師の物語に見る仏道アラカルト」

と題して法話を行います。

  • 参加される方は、受付用紙にお名前・願い事をお書きいただきます。
  • 会費は設けないので、お気持ちの程、お布施としてお納めください。
  • 授与品を用意するので、入り用の方はお求めください。※お納めいただいた浄財は、国際協力活動への寄付と、観音堂・南祖堂の仏具等にあてさせていただきます。

 

授与品は以下の通りです。

  1. 南祖法師紙札:1体500円
  2. 南祖法師お守り:1体1000円
  3. 絵本『龍になったおしょうさま』(ハードカバー):1冊3000円
  4. 絵本『龍になったおしょうさま』(ソフトカバー):1冊1500円

 

こじんまりとした法要ですが

ご興味をお持ちの方は

お気軽にご一緒ください。

 

そろそろ南祖祭の準備も

12月上旬に開催を重ねている

南祖祭(なんそさい)。

 

本年は12月7日(日)

午後3時より行います。

 

詳細は後日ご案内します。

 

南祖祭は

南祖坊(なんそのぼう)として

地元では知られている

十和田湖龍神伝説の

南祖法師の行事です。

 

南祖法師は

当山2世住職の弟子であると

言い伝えられております。

 

南祖法師の師は

月法律師という方で

「律師」である点は

とても大きな意味があると

最近は考えています。

 

そんなことを

今年のいつだったかに

やや専門的に当ブログで

記述したことがあったと記憶しています。

 

律師は

戒律に通じた僧侶であることを意味するのは

言うまでもありません。

 

戒律をめぐる歴史は

その時々に非常に重要な契機となっています。

 

南祖法師にまつわる伝説の内容について

これまでとは異なる角度から

(専門的な仏道からの視点から)

アプローチすることで

とても“豊かなもの”が

浮かび上がってくる実感があります。

 

本年も

そんなアプローチからの

南祖法師伝説について

お話ししてみたいと思います。

 

南祖堂マイナーチェンジ

観音堂脇の祭壇には

南祖法師(なそほっし)尊像が

祀られており

ここは南祖堂と呼んでいます。

 

これまで

最上段に厨子(ずし)という

尊像が納められた化粧箱を

じか置きしていたのですが

親しい仏具屋さんに

少し高くした方が

バランスが良いように感じると

アドバイスいただいたので

位牌堂で使っていた台の一部を

厨子の下に設置してみました。

 

ちょっとしたことですが

明らかに雰囲気が

良くなった感じがします。

 

南祖法師は

普賢院の第2世住職の弟子として

修行・研鑽を積み

全国行脚の果てに

十和田湖の龍神となったと

伝えられる伝説の僧侶で

県内では南祖坊(なんそのぼう)

という呼び名で有名です。

 

南祖伝説は

現代でも様々な語りがあり

興味を持たれる方も多いです。

 

様々なバージョンがあり

場所場所でカスタムされてきたので

豊かな内容につながっているのが

南祖伝説の特徴です。

 

その南祖伝説を

仏教的視点で紐解くと

より豊かで深い内容が

浮かび上がってきます。

 

ここでいう仏教的視点というのは

教理的なものだけでなく

実践理論を踏まえての

専門的な視点ということです。

 

そういった視点で

ここ何年かアプローチをしていまして

成果の一部は

12月の南祖祭でお伝えしています。

 

ここ何年かのブログでは

メモ的なものは紹介しても

専門的な内容について

記すことはありませんでしたが

研究所で担当している

諸テーマの研究が

良い感じに進展・深化するのに伴い

南祖伝説に関しての理解も

実は深化してきています。

 

深化しているのですが

超専門的な内容なので

講式という

“専門的な形式”の

次第にするなどして

次代住職に託す方法も

良いかなと考えてたりします。

 

大師像の来歴考〜もしかしたらなお話〜

 

先日

祈りつがせていただくこととなり

当山薬師堂(会館1階)に

ご安置された弘法大師像(以下、大師像)。

 

大師像以外にも

引き取ることとなったものや

お焚き上げをお願いされた

掛け軸や仏具もあり

その中に

昭和初期の写真がありました。

 

写真が入れられた木額の裏には

昭和六年(1931)四月二十一日

に奉納と墨書きされていました。

 

21日は

弘法大師のご縁日です。

 

当山での写真ではないので

写真を掲載できませんが

堂内の祭壇最上段中央に

逗子に納められた大師像が安置され

その祭壇前に

4名の方が正座して

撮影されたものです。

 

4名は2名女性・2名男性で

女性はいずれも着物姿で

そのうち1名は

紋付の黒い着物に

輪袈裟を着用されており

右手には中啓を立て持ち

左手には念珠を掛けて

片手合掌をされています。

 

男性は軽装で薄着ですし

女性のもう一方の方は

かなりお若い方で

薄手の着物に見えます。

 

供えられている花や野菜の

内容も踏まえるに

暖かな季節であることは

間違いありません。

 

写真そのものの裏には

「18.7」印字されています。

 

おそらく

1918年(大正7)7月

ということだと思います。

 

市内のとあるご自宅敷地内に

建立されていたお堂に

祀られていた大師像ですが

もともとは剣吉

つまり名久井の方に

あったものだそうです。

 

写真額の裏書などから

そのご自宅近隣の方が

額を奉納されているので

写真は名久井から

遷座されてからのものと

考えられます。

 

額の奉納は

昭和6年(1931)4月21日ですが

写真撮影がされたのが

1918年(大正7)7月とすると

遷座されてから

100年以上経過していることになります。

 

それ以前は名久井の方にあり

諸経緯あって

とあるお宅に

迎えられることになったわけです。

 

当山に大師像を託されたお宅によれば

その地に遷座される以前の歴史は不明で

大師像自体がどれ位古いものかは

全く分からないとのことでした。

 

そもそも

これだけ立派な大師像ですから

もともとお寺に

祀られていたと想像することは

違和感ないことと思います。

 

もともとは

名久井方面のお寺に

祀られていた大師像である

と大胆に仮定してみると

実に不思議なご縁が感じられる

ストーリーが浮かび上がります。

 

剣吉という地区に隣接する

諏訪平という地域には

明治に入って廃寺となった

当山の関係寺院

嶺松院(れいしょういん)がありました。

 

嶺松院が廃寺となり

同院が別当として管理していた

早稲田観音堂は現存しています。

 

嶺松院の檀家だったと思われる家の方が

当山の過去帳に記載されることから

嶺松院廃寺後は

当山で弔われたようです。

 

当山先師の中には

嶺松院住職も務めた方もいらっしゃいます。

 

嶺松院も普賢院と同様

本坊・盛岡宝珠山永福寺の

自坊であった寺院で

嶺松院は「三戸永福寺」

普賢院は「七崎永福寺」

という具合に

とても関わりが深いのです。

 

大師像はもともと

お寺に祀られていたのでは

という仮説を立てたとき

嶺松院(または関連するお堂)に

祀られていたという可能性を

指摘出来るのように思います。

 

先に触れた

嶺松院の元檀家と思われる家の

お弔いの記録は

明治20年代まで確認出来ます。

 

嶺松院廃寺後も

何らかの形で

仏像等が引き継がれており

その中の大師像が

八戸の方に遷座されて

さらに当山に至ったという仮説は

全くないとはいえないように思います。

 

あくまでも仮説ですが

もしそうだとすれば

三戸永福寺・嶺松院から

七崎永福寺・普賢院へと

渡り来られた大師像ということになり

まさに不思議なご縁により

お迎えされたことになります。

 

あくまでも一仮説です。

 

どのような経緯にせよ

宗祖の尊像ゆえ

謹んで守らせていただきます。

 

紐解き七崎観音⑬

前回触れた様に

「七崎山普賢院」と刻された

観音版木の“発見”により

七崎山普賢院徳楽寺が徳楽寺の

正式名称かもしれないことと

七崎観音別当・七崎山普賢院の号を

本坊永福寺自坊・宝照山普賢院の号と

併用していたかもしれないことを

新たな説として提示することが出来ました。

 

特に後者は

史料の記載内容を踏まえるに

可能性は高いと思われます。

 

当山観音堂に主尊として祀られる

聖観音は七崎観音と通称され

この呼び名は

「七崎(地名)+観音(尊格名)」

という構成となっています。

 

普賢院住職は歴代

七崎観音別当という

お役を受け継いでいるので

この七崎観音という

名称を手がかりに

仏道のみおしえに

触れていただけるような

紐解き方をご紹介できればと

かねてより考えていました。

 

地名としての七崎を

仏道的な解読方法で

アプローチすることは

普段あまりなじみがないであろう

文化に触れていただく

機会にもなると思うのです。

 

ということで

前回は七に関する用語に触れたり

na-ra-sa(ja)-kiの音による

字義釈を紹介してみました。

 

明治を迎えて

必要に迫られた

旧観音堂の神社化に関しても

当時の状況下において

旧来の慣習を極力温存しつつ

明治スタイルに適応した形に

落ち着かせるため

縁起の改変作業が行われたであろう

ことについても述べました。

 

また幕末における新政権の政策構想として

国学者の立場より奉呈された史料中にて

記紀神話の神々と

皇系につらなる方々や

国家に功績のあった方々を

国家的に祭祀するよう主張するものがあり

藤原氏は「皇系につらなる方々」でした。

 

この構想にそった形で

明治元年以降に

神社創建があいついぐわけですが

旧観音堂の神社化と藤原諸江譚への縁起改変は

軌を同じくした可能性もあることも

前回言及しました。

 

国づくりにおいて明治政府は

「日本神話」を必要としました。

 

近代化と王政復古という

論理上どこか

不思議な組み合わせな方針が

とても特徴的といえます。

 

「日本神話」を核とした

国づくりの徹底は

諸経緯を経ることになり

国家神道を国教化することは

ありませんでしたが

国家神道は宗教ではなく祭祀であるされ

各地の神社は「祭祀の場」となり

神社化推進は政治的意図によるものでした。

 

そういう時代背景において

旧来からの縁起を

“時代的なもの”に

改変せざるを得なかったわけです。

 

こういった経緯に

触れることすらも

憚られることもあったと思いますが

当地では旧来のことについても

忘れられることなく

むしろ留めようとしていたようにも

感じられるのです。

 

そう感じるのは

大正期に記念刊行された

旧修験家・小泉家の神官による

『神社誌』の記述において

旧観音堂時代のことが明記され

さらに

後世において改変が必要な場合は

改変するようにアドバイスしているとも

取れる記述が見られます。

 

そこに当地の“イズム”を

読み取ることが

出来るように思います。

 

明治に入って程なくの

『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])に

次のような報告があります。

 

当社は何の頃の草創にか

究て古代の御正体を祭りたり

旧より正観音と称し

観音堂と呼なして

近郷に陰れなき古刹なり

 

数丈なる杉樹

地疆に森立して空に聳ひ

青苔地に布て如何さま

物ふりたる所なり

 

去は里人の崇仰も大方ならす

 

四時の祭会は元より

南部旧藩尊敬も他の比にあらす

常に参詣も絶えす

廟堂の構界区の装置まて

昔を忍ふ種となる所なり

 

同書における七崎の報告では

当時の「新縁起」について

垣間見られる記述があり

その件については

以前触れているので

そちらもお読みいただければと思います。

 

「数丈なる杉樹」は

天にそびえる大きな杉の木々を指し

それらが「森立」し

青苔が広がる“苔むす”地であり

その空間は

物ふりたる所であると

報告者は記述しています。

 

この記述には

当地において旧来より

大切にされていた空間に対する

讃嘆の思い

「もののあはれ」の思いが

込められていると思います。

 

「物」は様々な意味があり

古事記・日本書紀でも

需要な語と言えると思いますが

「霊性」つまり「たま」

とも置き換えられます。

 

ものふりたる所

たまふりたる所とも

言い換えが出来ます。

 

そして旧七崎観音堂は

近郷に隠(陰)れなき古刹であり

並大抵ではなく(大方ならす)

信仰されてきたと評されており

南部藩領においても

比類ない程に常時参詣されていたと

往時について記載されています。

 

神社化が進められても

廟堂の構えや境内の作りが

往時(かつての様子)を

偲ばせるような場所だとも

記載されております。

 

「廟堂の構え」に関してですが

史料の記述に基づいて解釈するに

観音堂であったお堂の

仏像・仏具・荘厳具などが

撤去・搬出されて

同堂が廟堂として使用されています。

 

幕末の安政10年(1863)に

七崎観音堂は修繕されており

お堂自体はしっかりしていたため

そのまま使用したと思われます。

 

こういった神社化への対応においても

出来る限りにおいて

旧来からの慣習や祈りを温存して

行政的神仏分離の求めに応じたことが

想像されるのです。

 

以上のような内容にも触れながら

また七崎観音について

紐解いていきたいと思います。

 

つづく