熊野権現と十和田湖の十湾寺

青森市油川の熊野社と

十和田湖十湾寺(とうわんじ)について

先日ブログでとりあげましたが

今回はその十湾寺について

もう少しだけ触れたいと思います。

 

中道等氏の

『十和田村史』(上巻)

(青森県上北郡十和田村役場、昭和30年)

にはかつて十和田湖にあった

熊野山 十湾寺について触れらた

史料が紹介されておりますが

それを記した僧侶が

当山先師の廣宥(こうゆう)大和尚です。

 

十湾寺は史料によっては

十涯寺とも十瀧寺とも記されます。

 

当山は鎌倉期から江戸初期にかけ

永福寺の寺号が用いられておりましたが

盛岡に永福寺の本坊が

建立されて以後は

本坊永福寺に対し

旧地である七崎(現在の豊崎)の

永福寺を自坊 普賢院とし

同じく旧地である三戸の永福寺を

自坊 嶺松院(れいしょういん)としました。

 

当山と同じく自坊であった嶺松院は

寛文年間(1661〜1673)に焼失したと

『新撰陸奥国誌』には記されます。

 

廣宥大和尚が

本坊永福寺45世住職を担うわけですが

史料を見てみると

本坊永福寺44世良光大和尚が

元禄12年(1699)に下総の観福寺へ

行かれることになり

永福寺住職を辞められた後

45世の廣宥大和尚が就任される間

如常

堯意

堯誉

以伝

という方々が「住職」を

されております。

 

南部藩における冠寺であった

本坊盛岡永福寺の

正式な住職になるためには

様々な条件が必要だったことと

このことは関係しております。

 

廣宥大和尚は

法明院住持をつとめられ

後に当山本坊盛岡永福寺45世も

つとめられた方で

当山先師過去帳にも

当山歴代先師墓の墓誌にも

その名を連ねられていらっしゃいます。

 

法明院は永福寺末寺ですが

江戸後期に本末関係をめぐり

“いざこざ”があった

寺院でもあります。

 

さて

余談が過ぎてしまいましたが

以下に中道氏の書き下し文の

一部を引用いたします。

(カタカナ表記をひらがなに改めました)

 


陸奥南部糠部郡の奥瀬村に

十和田と号する沼あり

 

奇代の霊沼にして

塵俗を離る数百里

城下を去ること数千里

 

峩々(がが)たる高山は峰を並べ

黄々たる灌木は枝を連ね

萋萋(せいせい)たる

葛藟(かつるい)は道を塞ぐ

 

既にして

虫類禽獣たりといえども

輙(たやす)く上ることを得ず

 

清々たるの池に臨みて之を見れば

洪々たる海水は崎を敲(たた)き

潺緩(せんかん)たる波浪は砂を洗ふ

 

譬えば魍魎鬼神たりといえども

謾(みだ)りに池の辺(ほとり)に

近づく能わず

 

誠に和漢无雙(むそう)の霊沼なり

 

是の沼の来由を尋ねしむるに昔

人王七代の帝 孝霊天皇の

治世七十六年壬子の暦(とし)の六月

湧き出たりと云々

 

此沼の主に八郎太郎と云う大竜あり

 

諸(もろもろ)の眷属八竜王

前後左右を囲繞(いぎょう)し

渇仰(かつごう)して常に之を

守護すること歳久しかりき

 

其後

人王五十一代平城天皇の御宇

大同二年丁亥の年八月

南宗比丘(なんそびく)

新たに霊夢を蒙り

彼の八竜を追出して

則ち池の主とはなりぬ

 

斯の時

悉く隣里郷党奔(はし)り集まりて

七堂伽藍を建立し

熊野三所権現を勧請し奉りて

熊野山十涯寺と号したり


 

ここには僧侶ならではの

言い回しが見られます。

 

十湾寺についてのみならず

十和田湖伝説の“ダイジェスト”を

どのように捉えていたのかを

窺い知ることが出来るように思います。

 

▼自籠岩より見た十和田湖(西湖)