命をもって命と向き合うという大きな観点

たぶん

本日の葬儀が

本年最後の葬儀だったと思います。

 

明日以降のスケジュールを考えると

次の葬儀は年明けになりそうです。

 

当山は

八戸市内で見ても

それ程大きな寺院ではありませんが

行事が多いお寺です。

 

毎月何かしらの行事があり

本年もあと

不動護摩と

除夜の鐘リレー

除夜の鐘

年越法要を

残すのみとなりました。

 

あと12/29と30は大掃除です。

 

大掃除

ご都合のよろしい方

お手伝いいただけると助かります!

 

さて

葬儀について振り返ってみると

今年も50件以上ありました。

 

これが

多いかどうかは分かりませんが

沢山の行事と

毎月何度かの出張もあったり

研究発表の準備や調査・執筆などもあったので

いつもビチビチな

スケジュール感だったように思います。

 

法務(葬儀や法事)の間は

所定の法式に則って

作法を行い読経をするので

“ゾーンに入っている”というか

ほぼ無意識な感じというか

流れに身を委ねて

お勤めが行われる感覚があります。

 

真言宗の僧侶は

真言行者(しんごんぎょうじゃ)とも言われ

身・口・意(しん・く・い)

つまり体・言葉・心の全てに渡って

作法を行い読経も行います。

 

なので

心も含め全身でもって諸行を行うわけなので

言い換えれば生命活動によって

命と向き合うといった観点が

あると言えると思います。

 

命をもって命と向き合う。

 

その命とは

亡くなった方の命や

今を生きる我々の命という意味も

あると思いますが

命のあり方にまで及ぶもので

さらにいえば

人間の認知認識での範囲に限定されない

全体的で大きな意味にまで及ぶものとして

想定されている感があります。

 

本年も沢山の方とのご縁を通じて

一住職として

一僧侶(真言行者)として

命のあり方に触れさせていただき

沢山の“み教え”に直に触れさせて

いただいたように感じます。

 

とある死生学の研究者は

「供養は生きるために行う」ものと述べており

この主張に拙僧泰峻は賛同します。

 

「生きる」ことと「供養」は

密接に結びついています。

 

ではなぜ

「供養」を行うことが

「生きるため」の行いとなるのか?

 

この点を「仏道」として

実感をもって如何に

お伝え出来るかが

一寺院として

一僧侶として

問われるのだと考えます。

 

普賢院には

普賢院として大切にされてきた

供養や祈願の「物語」や「伝統」があり

それを尊重して現在においても

法務に勤しませていただいています。

 

真言宗の僧侶を真言行者というように

常に行者であり修行者であるので

来年も修行(事相と教相の両輪の研鑽)を

怠ることなく精励したいと思います。