おてらおやつクラブの
発送作業を行いました。
お寺にあがった
「おそなえ」を
「おさがり」として
「おすそわけ」する活動が
おてらおやつクラブです。
日本における
子どもの貧困は
目に見えにくいとされます。
少しでも
お役立ていただければ
との思いで
当活動に取り組んでいます。
当山では月に一度程度の頻度で
発送作業を行っています。
夏休みの
ささやかな楽しみとして
召し上がっていただきたいと思います。

おてらおやつクラブの
発送作業を行いました。
お寺にあがった
「おそなえ」を
「おさがり」として
「おすそわけ」する活動が
おてらおやつクラブです。
日本における
子どもの貧困は
目に見えにくいとされます。
少しでも
お役立ていただければ
との思いで
当活動に取り組んでいます。
当山では月に一度程度の頻度で
発送作業を行っています。
夏休みの
ささやかな楽しみとして
召し上がっていただきたいと思います。

脱臼かと思い
整形外科で診察したところ
首のヘルニアか
五十肩になりかけている
ということでした。
ヘルニアについては
神経に悪さをしている
わけではないようだったので
五十肩の治療を
していただくことに。
まだ40代なので
四十肩ではないのでしょうか
と先生にお聞きする暇もなく
リハビリのスペースで
カウンセリングやら
五十肩体操やら電気やら。
当分のあいだ
定期的にリハビリに
通うことになりました。
痛みどめなどの薬と
塗り薬と湿布も
処方されました。
何はともあれ
深刻な事態ではなかったので
右肩をいたわりながら
諸事に励みたいと思います。

童謡「夏の思い出」の
歌詞の出だし
「夏が来れば思い出す〜」の
メロディーが頭の中に
流れたとき
皆さんはどのような思い出を
真っ先に思い出されるでしょう。
皆さん各々に
惹起されるものがあると思います。
拙僧泰峻の場合は
奈良県にある本山長谷寺での
加行(けぎょう)という修行です。
友人や家族との思い出ではなく
加行の時のことが
(不覚にも?)
思い出されます。
あの時のことが
思い出されるせいか
膝がズキズキ痛む気がします。
正座で
膝や足の甲が血だらけになり
半跏座で
くるぶしのあたりも出血し
はだしに下駄を履いて
山ゆえにアップダウンのきつい
境内の諸堂を
日に3度参拝するため
下駄の鼻緒に当たる
足の親指と人差し指からも出血しと
満身創痍だったことが
鮮やかに思い出されちゃいます。
一番厳しい所で
修行した方が良いと
先代住職にアドバイスされたので
本山での加行にのぞみましたが
先輩方から聞いていた内容よりも
はるかに厳しく感じられ
加行が始まった当初は戸惑いました。
ですが
今となっては
本山で修行が出来て
良かったと感じていますし
やりきることが出来たことは
間違いなく現在に繋がっています。
楽しい思い出というタイプの
思い出ではないのですが
“極限状態”で自身と
向き合うことが出来た
尊い時間だったという意味で
強烈に心に刻まれています。
夏が来れば
思い出されるような
しかけになっていると
思ってしまう程
毎年今の時季になると
思い出されます。
そんなことで
今年も加行の頃のことと
あの時の情熱的な姿勢が
思い出されたので
諸作法や諸次第について
基本的で根本的な所について
しっかりと振り返りたいと思います。

9月には北海道
10月には群馬で
研修会の講師を
お願いされているのですが
両研修会では
普賢院での取り組みや
そこから見える現代性
といった内容のリクエストを
いただいております。
研究所の研究員として
扱っているテーマとは
異なるものではありますが
これまでの取り組みを
振り返りながら
研修としても通用する
内容に整えるべく
資料を作成しています。
振り返ると
自分でも驚くほどに
色々とやってきたことに
気付かされます。
行事だけではなく
普段の法務
運営にあたっての会計や
細々としたことについて
試行錯誤を繰り返して
今に至っていることを
つくづく実感出来ました。
このような振り返りの機会を
いただけたこともまた
ありがたいことだと感じます。
うまくいかなかったことや
多くの課題を含みつつ
走らせていることも多いですし
これから形にしたいものも
沢山ありますが
拙僧にとっての30代までの
一応の成果や足跡を僭越ながら
整理させていただくことが出来たので
これをこの先に
活かしていきたいと思います。

先月末頃から
右肩・右腕・右の背中が
調子が悪くて
度重なる出張と法務と
長時間のデスクワークによる
疲れによるものと
考えているのですが
右の鎖骨の下あたりが
腫れているというか
出っ張っているというか
そんな状態であることに
昨日気がつきました。
もしかして
脱臼しているのでしょうか…
身体の酷使で
脱臼が起こるという話は
よく耳にします。
脱臼だとすると
最近の状態に
納得がいきます。
脱臼ではない
病気の可能性もあるでしょうが
お盆も控えていますし
出張もあるので
とにかく病院に
行きたいと思います。

9月27日の午後2時より
おてらおやつクラブのイベント
子どもの貧困について考えよう
が普賢院で開催されます。
本日は開催に向けた
オンラインミーティングが
行われました。
事務局による
当活動についてのお話の他
ゲストスピーカーとして
おやつクラブに協賛いただいている
方をお迎えします。
当地で様々に活動されている
根市大樹(南部どき代表社員)さんに
ゲストスピーカーの打診をしたところ
ご快諾くださいました。
とても充実したイベントに
なる予感がしています。
他のゲストスピーカーは
まだ未定ですが
詳細は後日
あらためてご案内いたします。

江戸時代の飢饉のうち
天明の飢饉(1783〜84)が
近世最大の死者を
出したと推定されています。
八戸藩では
6万人の人口が
ほぼ半減してしまったと
伝える史料もあります。
その数字が
どれほど正確なものかは
諸説あるようですが
大変な状況であったことは
間違いありません。
来年冒頭に寄稿する
原稿の内容に関わるので
飢饉について調べ直してみると
当時の社会制度であったり
財政再建のために
どのような政策がとられ
どのようなリアクションが
あったかなどにも触れるのですが
色んな意味で
現代は「飽食の時代」だと感じます。
当地では
お墓参りのお供えのなかに
「あられ団子」と称される団子があり
その団子に米と茶葉をまぜたものを
かけるという作法があります。
これは一説に
施餓鬼作法といわれ
餓鬼というものに対しても
供養をなしていることを象徴します。
最近では
お墓での供物は
置いたままにはしませんが
作法を施された供物を
放置することにより
餓鬼が供物を得ることが
出来るという
具体的なストーリーが
想定されていました。
カラスなどの動物に
食べてもらうという
利他のあり方として
捉えられている場合も
あると思いますが
それだけでなく
餓鬼にも施されていると
考えられていたのです。
六道のなかのひとつでもある
餓鬼の存在は
歴史的背景を踏まえると
ある種のリアリティを帯びたものとして
人々の死生観において
捉えられていたと思います。
天明の飢饉では
人肉を食べて飢えを
凌ごうとしたというエピソードも
伝えられます。
庶民感覚における餓鬼は
苦しみながら亡くなった者の霊
というイメージが重ねられ
飢饉や災害や戦乱などの歴史が
そのようなイメージを
より強固なものにしていたと
考えられるように思います。
あられ団子に限りませんが
慣習的作法の背景として
今では考えられないような
歴史的事実がいくつもあげられることを
忘れてはならないと思うのです。

キャンバスに描かれた絵と
プリント用紙に印刷された写真。
「物」としては
いずれも平面ですが
描き込まれたものと
映し出されたものは
意味合いが全くことなります。
そりゃそうでしょうと
思われるかもしれませんが
実はこのことについては
思想的アプローチや
哲学的アプローチによって
多くの考察がなされています。
写真については
技術的展開が大きく関与しており
今やスマホで誰もが
撮影することが出来ます。
今では写真をデータとして
認識する傾向があるでしょうが
デジタルカメラ以前は
写真店などに
フィルムの現像をお願いして
仕上げてもらってからでないと
その出来栄えは分かりませんでした。
スマホで撮影する現在の方式に比して
フィルムカメラ時代は
より身体性が伴っていたように思います。
フィルムカメラには
上限枚数があったので
ここぞという時に
シャッターを押していたと記憶しています。
絵を描くという行為は
はるか昔から
行われてきたもので
その画法は数多く存在します。
仏教においても
大切な意味をもつ絵画もあり
仏画や曼荼羅を
その代表として挙げられます。
絵画にしろ
写真にしろ
それを目にした観者により
その意味が汲み取られます。
「その意味」というのは
共有する規定がない限り
絵画の作者や
写真の撮影者が
意図したものと
一致することは稀といえます。
イメージ人類学にならい
「その意味」をイメージと呼び
その意味を伝達するものをメディアと
呼ぶことにします。
絵画と写真をメディアの例としていますが
より日常的で身近なものとしては
言語もメディアとして挙げられます。
私と友人がいたとして
私が何かを伝えようとして
絵を用いて
口頭で言葉によって説明した場合
私が伝えようとした内容がイメージで
絵と言葉がメディアということになります。
私からの説明を受けた友人もまた
絵と私の言葉を通じて
内容を伝達されるわけですが
友人の受け取った内容もまた
イメージということになります。
私が当初伝えたかったイメージと
友人が結果として受け取ったイメージが
完全に一致しているかどうか
確認し尽くすのは難しいでしょうが
普段の何気ない行いを
深く考えてみると
以上のような見方も可能です。
こういった捉え方は
仏教の重要な考え方に
つながっていくものなのですが
ブログでは収集がつかなくなるので
この辺にしておきます。
無意識なことを
意識的に見てみることは
とても大切な修行のあり方で
誰もが身近に行える
瞑想につながります。
瞑想と聞くと
プロフェッショナルなイメージを
持たれる方もいると思いますが
入門的で重要なポイントは
日常無意識に行っていることに
意識を向けてみることだと考えます。
自身の呼吸に意識を向けてみる。
身の回りのコト・モノに
意識を向けてみる。
そういったことが
自心を整えることとなり
様々な効果がもたらされると
科学的根拠も示され
世界的に支持されている現代。
そもそも
日本文化に含まれていた
姿勢であるともいえますが
その姿勢は忘れられかけていたものだった
ともいえるように思います。

お盆まで一ヶ月をきりました。
そろそろ寺報も
作成しなければなりませんし
今月は写経カフェがあるので
その資料などもボチボチ
作成したいと思います。
いまあげた項目を
真っ先にやれば良いのですが
こういう時は不思議と
他のことに閃きがうまれて
そちらのほうに
取り掛かってしまうなんてことが
多々あります。
中学・高校時代に
テスト週間でテスト勉強をせずに
部屋の整理を念入りに
やってしまう感覚に
似ているかもしれません。
執筆原稿と講習会講師を
いくつかお願いされている関係もあり
それぞれの内容に関わる
資料や書籍を読み込んでいるのですが
一見関係ないようなテーマでも
思いがけず化学反応を起こして
つながってしまったり
意外な所でクロスしたり
そんな内なる楽しみを
しっかり堪能しています。
途方に暮れるような
地道な作業を重ねていると
ある時点から
急に充実感を得られるようになるのは
全てに通じることではないでしょうか。
そういえば
青森県は起床平均時間が
日本一早いそうですね!
拙僧でも4時くらいから
あれこれ動くのが日課です。
朝は頭の回転も良いですし
動きにもキレがあるので
どんな作業もサクサク進みます。
特に夏場は
朝が一番過ごしやすいので
早起き生活はおすすです。
あと一ヶ月弱で迎えるお盆の準備も
朝のスッキリしている時間を
うまく活用して
サクサクと進めたいものです。

長男が小学校の
修学旅行から戻り
お土産を買ってきてくれました。
私が小学生だった頃と同じく
行き先は函館。
地元の小学校は
6年生が7名。
若干の緊張を抱きつつ
ワクワク感いっぱいな中
きっと濃密な時間を
過ごしてきたと思います。
バター飴の味は
今も昔も変わらず
優しい味がします。
