上棟式がつつがなく厳修されました

本堂の上棟式を

無事に厳修することが出来ました。

 

携わって下さった皆様

おいで下さった皆様

大変ありがとうございました。

 

天候が心配されましたが

本日午前中は天候に恵まれ

つつがなく上棟式の典儀を

挙げることが出来ました。

 

上棟式は

青空のもとで開催されました。

 

上棟式が結ばれて程なくして

八戸では雪が舞い降りました。

 

本日の天候のあり方は

今後の瑞兆と捉えたいと思います。

 

上棟式の様子を伝える動画を

用意したので

ご覧いただけると幸いです。

 

上棟式の準備が整いました

本堂上棟式に

臨ませていただく準備が整いました。

 

上棟式前日の本堂の様子を

お伝えする動画を用意したので

ご覧いただいて

雰囲気を感じていただけると幸いです。

 

本堂の上棟式は

何百年に一度の機会です。

 

ご都合のよろしい方は

この慶事を

ぜひご一緒いただければと思います。

 

屋根に鬼飾りが設置されました

本堂の屋根正面の

唐破風と大棟両側の三ヶ所に

鬼飾りが昨日設置され

荘厳さが一層増したように思います。

 

また

堂内では天井が徐々に入れられており

工匠方の技術たるや

実に見事なものと

感嘆しております。

 

現状をお伝えする動画を用意したので

ぜひご覧下さいませ。

 

タフな10年

上棟式で

お祝いをお持ちの方に

お渡しする記念品には

パンフレットも

添えさせていただきます。

 

そのパンフレット中で

これまでの経緯を

大まかに記載したのですが

ふりかえってみると

同時多発的に傷みが

顕著になったのは

東日本大震災直後からということに

気が付かされます。

 

それ以前から

老朽化は顕著でしたが

平成23年(2011)以降

一気に限界が

表面化しました。

 

あの頃は

急場を凌ぎつつといった感じで

老朽化と向き合っていました。

 

翌平成24年(2012)には

大きな工事を必要とする箇所が

いくつも出てきたため

根本的解決に向け

本腰を入れての検討が始まります。

 

この10年は

とてもタフな期間だったと

感じています。

 

もうすぐ上棟式です。

 

3月6日は

・午前10時 受付開始

・午前11時 法要・儀式

・正午頃 餅まき

という予定です。

 

本堂の建設という

非常に大がかりな工事は

しばらくないことなので

今回の上棟式は

稀有な機会となります。

 

どなた様でも

ご参加いただけますので

ご都合のよろしい方は

ぜひおいで下さいませ。

 

▼旧本堂



 

 

▼上棟式について

おこもり法要の記事が新聞に掲載されました

本日のデーリー東北(朝刊)に

本年のおこもり法要の記事が

掲載されました。

 

令和3年と令和4年の

おこもり法要(毎年旧暦1月17日)は

仮本堂での開催だったため

通常とは形式を変えて

法要をお勤めいたしました。

 

令和5年からは

新本堂での開催となります。

 

火の修法である

護摩法要をお勤めいたしますが

これまでの形式の護摩法要とは異なり

来年以降は大般若(だいはんにゃ)という

修法を取り入れた形式で

一層厳かに厳修いたします。

 

大般若というのは

つぶさには

大般若波羅蜜多経という経典で

600巻にも及ぶものです。

 

当山では

文化8年(1811)の火災の際に

大般若を焼失しているのですが

本堂建替という歴史的節目にあたり

新調することが叶いました。

 

大般若経典は

転読(てんどく)という作法により

力強く祈りを捧げる

「法具」ともいえます。

 

普賢院は

供養をになう菩提寺であると同時に

祈願をになう祈願寺でもあった

という歴史的経緯をもっています。

 

祈願本尊であったのが

七崎観音(ならさきかんのん)で

明治時代になるまでは

現在の七崎神社がある地にあった

七崎観音堂に祀られ

当山は七崎観音別当として

祭祀を主管してまいりました。

 

当山が所蔵する

江戸期の七崎観音堂の

棟札(むなふだ)の記述を踏まえるに

観音堂は15世紀頃に徳楽寺という

寺号(じごう、お寺の名前の意)が

用いられていると考えられます。

 

七崎観音堂は

明治に廃止され

境内地も分離することとなり

仏像仏具は別当寺普賢院に

移されました。

 

普賢院住職は

七崎観音別当という

役職も代々になっております。

 

遷座当初は

突貫工事的に設えた祭壇に

諸仏を置いただけといった

状態だったそうですが

明治以降の住職方の

すさまじいご尽力により

内御堂(うちみどう)として

七崎観音堂は再興されていきます。

 

特に61世長峻大和尚の時代と

前住職である64世泰永大和尚の時代に

観音堂の整備は大きく進められ

素晴らしく荘厳な空間となりました。

 

その志を受け継ぎ

拙僧泰峻も現七崎観音別当として

今後も努力してまいります。

 

大般若の話に戻りますが

200年以上の時を経て

再び用意された大般若経典なので

七崎観音堂での法要においても

使わせていただきたいと思います。

 

本年12月の本堂落慶式でも

大般若法要を行う予定です。

 

落慶式で大般若を行うわけですが

当山では200有余年ぶりに行われる

大般若法要となります。

 

他宗においても

大般若法要は行われますが

真言宗の法式は

当地の方はご覧になったことが

ない方が大部分かと思います。

 

しかも

落慶式では十数名の住職方に

おいでいただき厳修するので

とても迫力ある法要になるかと思います。

 

落慶式以降は

おこもり法要はじめ

伝統ある祈りの形式の1つである

大般若法要のひとときに

有縁の皆様に触れていただけるよう

色々と考えたいと思います。

 

 

 

▼当日の法要の様子

 

▼令和3年(2021)の様子

 

▼令和2年(2020)の様子

 

▼平成31年(2019)の様子

 

▼平成30年(2018)の様子

 

▼平成29年(2017)の様子

この年は前住職泰永僧正が導師を勤めました。

これが泰永僧正の生前最後の護摩法要でした。

迫力ある太鼓の響き

先日行われた

七崎観音おこもり法要での

観音経(かんのんぎょう)

というお経の読経シーンの

動画をアップしました。

 

太鼓つきの迫力ある

法要の様子をご覧いただけると幸いです。

 

おこもり法要という

一年に一度の行事を終えて

少し一休みしたいところですが

3月6日の上棟式(じょうとうしき)の

準備を本格的に始めました。

 

細々とした所を詰めている段階ですが

とても良いひとときに

なるように思います。

 

なかなかない機会なので

多くの方にご一緒いただき

お祝いの儀式に

臨ませていただきたいと思います。

 

 

▼上棟式のご案内動画

昭和の最困難期

普賢院61世である

長峻和尚は

現在の住職の曽祖父にあたります。

 

近現代の“巨星”ともいえる

長峻和尚の住職在位20年は

当山はもちろんのこと

携わった関係寺院の

興隆期となりました。

 

長峻和尚は行年60で

ご遷化されるのですが

その当時

次代となる晃雄和尚は

また14歳でした。

 

そのため

晃雄和尚が晋山されるまでの間は

代務住職により

法務がなされています。

 

晃雄和尚の晋山式は

昭和19年(1944)に行われました。

 

この晋山式は

晃雄和尚の出征にあたる

送別のひとときでもありました。

 

晋山式を終えて程なくして

晃雄和尚は出征し入隊されます。

 

晃雄和尚の弟である高明氏もまた

同年6月15日に出征しました。

 

住職と弟が不在となった普賢院。

 

晃雄和尚と高明氏の

姉と妹が

法務(葬儀や法事など)も担い

お寺を守ることになります。

 

拙僧泰峻からみると

大叔母と祖母にあたります。

 

63世となる

裕教和尚を迎えるまでの約4年間。

 

大変な苦労があったのは

いうまでもありません。

 

当時東京の親戚にあてた手紙によると

泥棒に入られたこともあるそうです。

 

昔を知る総代さんのお話ですと

馬鹿にされたこともあったそうです。

 

そういったことを乗り越えて

今があるということは

忘れてはならないと

心にとめております。

 

 

 

 

 

  • 大正5年(1916)10月 普賢院61世長峻和尚 住職就任
  • 大正7年(1918)8月8日 長女 道子誕生
  • 大正10年(1921)8月10日 長男 晃雄誕生
  • 大正12年(1923)6月5日 次男 高明誕生
  • 大正14年(1925)8月18日 次女 誕生
  • 昭和2年(1927)八太郎の蓮沼で「聖観音」と刻された石が発見される
  • 昭和4年(1929)旧8月17日に蓮沼に「北沼観音」のお社を建立
  • 昭和6年(1931)観音堂(内御堂)と仁王門を改築
  • 昭和6年(1931)子安地蔵堂建立
  • 昭和9年(1934)本堂と庫裏を修繕(当時、累年の凶作で経済的に大変な時代)
  • 昭和9年(1934)8月 弘法大師1100年御遠忌を厳修
  • 昭和10年(1935)5月 長峻和尚 山形県湯殿山の大日坊88世住職兼任(大日坊での住職名は慈念海上人忍光上人)
  • 昭和11年(1936)3月3日(旧2月10日)長峻和尚ご遷化(行年60)
  • 昭和17年(1942)3月28日 晃雄和尚四度加行成満(阿闍梨 神林隆淨僧正/慈光山道場にて)
  • 昭和17年(1942)10月12日 晃雄和尚灌頂(東京の護国寺にて)
  • 昭和18年(1943)晃雄和尚の割切袈裟一領(年月と晃雄と墨書きあり)
  • 昭和19年(1944)晃雄和尚晋山・出征(2月28日頃出発、3月1日弘前野砲隊へ入隊)
  • 昭和19年(1944)6月5日 長峻和尚後妻ツネ逝去(行年61/明治17年(1884)9月15日生まれ/出身地は現在の岩手県沼宮内の柴田家/60世宥精師[大正5年(1916)5月24日 行年35でご遷化]の妻で、長峻師とは再婚)
  • 昭和19年(1944)6月15日 高明氏出征(前日に送別会が行われ、その時の写真が残っている)
  • 昭和20年(1945)4月8日 高明氏戦死(フィリピンルソン島マウテル州バキオ付近にて/陸軍伍長/命日は過去帳による)
  • 昭和20年(1945)7月30日 晃雄和尚戦死(フィリピンルソン島ダラカン州にて戦死/陸軍伍長/命日は過去帳による)
  • 昭和22年(1947)本堂屋根葺替の木札に当時の様子が記述され、その中に「晃雄住職の生死不明」とある。

 

もうすぐ秘仏ご開帳です

令和4年2月17日は

旧暦1月17日大安にあたります。

 

この日は

秘仏・七崎観音(ならさきかんのん)を

ご開帳して法要を厳修します。

 

この行事は

「おこもり」とよばれます。

 

令和2年までは

午後8時より護摩を行っていましたが

仮本堂では消防法の関係で

護摩を修法できないため

昨年同様

別形式でご祈祷の法要を

行います。

 

当日の流れは次のようになります。

 

どなた様でも

ご参列いただけるので

年に1度の行事を

ぜひご一緒下さい。

 

おこもりの流れ

◆仮本堂にて受付(午後7時〜)

お布施、加持物(かじもつ)をお預かりします。

  • 法要中、祈願者名を読み上げますので、読み上げてほしいお名前はお布施の袋にお書きいただくか、別紙ご持参下さい(読みがなを振っていただけると有り難いです)。
  • 読み上げの名簿を作成する都合上、時間にゆとりをもって来ていただけると助かります。また、前日までに受付を済ませて頂いても構いません。メールでも受付いたします。
  • 護摩の時は、加持物(かじもつ)を護摩の煙にあててお加持していましたが、今回はご宝前に設えてお加持いたします。加持物ですが、例えば愛用の服、メガネ、ノート、シャーペンなど、皆様ゆかりの物を風呂敷に包むか、カバンに入れてお持ち下さい。

◆法要(午後8時〜)

法要の中で、祈願者名を読み上げます。ご自身のお名前、あるいは有縁の方のお名前が読み上げられた際は、心願成就を願い、柏手(かしわで)を2度お打ちください(2拍手)。

◆ウイルス対策のため、本年も後席はありません。

◆数に限りがありますが、御護符(おごふ)として落雁(らくがん)をお渡しします。

◆法要後、授与品(お守、お札など)をお授けする授与所を用意するので、入用の方は、そちらでお求め下さい。

 

皆様のご参加

心よりお待ちしております。

 

 

▼令和3年の様子(仮本堂にて厳修)

 

▼令和2年の様子(旧本堂にて厳修)

 

▼平成31年の様子

 

▼平成30年の様子

 

▼七崎観音についての動画

 

七崎観音の近現代

2月17日は

秘仏・七崎観音(ならさきかんのん)の

ご開帳日です。

 

この日は

午後8時よりご宝前にて

法要を執り行います。

 

この行事は「おこもり」と

通称されます。

令和4年おこもりのご案内

 

明治時代になり七崎観音は

行ったり来たりを繰り返した

ということは

これまでも触れてきましたが

そのことをいまに伝える

明治10年(1877)『伺』(うかがい)

という県令への文書があります。

 

以下に引用するのは

その翻刻です。

 

往来がわかる部分は

色を付しています。

 

赤は1回目

青は2回目

紫は3回目の遷座の記述です。

 

なお

原文のくずし字を

拙僧泰峻が翻刻したのですが

何文字か解読困難な箇所があり

文脈から字をあてていることを

あらかじめお断りしておきます。

 

 

当七崎村郷社七崎神社

曩日仏体正観音混一七崎山観音社号二付

衆庶参拝罷在昔時

文化六年當時第九大區三小區

新井田村盛元太郎曽祖父半兵衛代

梵鐘壱鳴寄附有之候処

御維新来各社寺

一般神佛混淆不相成旨

御達二付

過ル明治二己巳年

右正観音佛体外附属之什器

并梵鐘共該社ヨリ

當村真言宗普賢院へ

一旦移置候処

従来近郷人民信仰之霊佛二付

衆庶旧慣ヲ不脱

猶受持旧神宦ヲ訪来

空殿ヲ参拝スルノ族モ

間々有之二付

更二永続方法ノ目途相立可成

丈ケハ小堂ナリトモ建立仕度義

村方一同志願二付

其際旧神宦神殿江移転

人民信仰二任セ

参拝為致居候

昨九年十二月

教部省第三拾七号御達之趣モ有之

素ヨリ佛体二候得共

当院へ再ビ移転

什器共悉皆可引渡ハ勿論二候所

前顕梵鐘寄附人私有之訳ヲ以

今般取戻之義掛合有之

殆ド困迫之次第

尤廃社等二至テハ寄附什器

本人随意取戻之義可有之候得共

既二神佛区分右佛体

現今普賢院二存在候上ハ

概シテ廃社寺与

同視スベカラザル様有之

且本人情願二依リ寄附候者

今更無用ノ贄物抔申唱候義

如何与存候得共

元ヨリ私共二於テ

其可否討論可致ノ権理無之二付

無余儀次第与思考仕候得共

従来正観音江寄附之鏡故当院へ

備置仕度

且つ当院境内之義ハ村中中央土地髙壟

鐘堂建築適当之地二付

自今報時鐘二仕候得共

昼夜旦暮之時報ヲ耳二シ

各自農民臥起之教戒ハ勿論

臨時之為成丈ケ

取戻等無之様

再三先方ヘ示談二及び候得共

兎角承諾無之

依之右等共一般寄附人二付

自侭二取戻之権理可有之哉

且つ弥取戻候節ハ

右梵鐘寄附之際

村方人夫二付

鮫村より運搬仕候二付

其入費并右二関諸入費

悉皆本人より償却為到候義

如何可有之哉

此段共奉伺候条何分之御指令

奉希望候

以上

 

明治十年六月七日

第八大区三小区七崎村

旧社人惣代 嶋森亀之助 印

同旧神宦 白石守 印

同普賢院住職 佐藤法隆 印

同総代 久保杉嘉藤治 印

同村用係 橋本岩松 印

 

青森県令 山田秀典殿

 

以上が『伺』の翻刻となります。

 

どのような

伺いがたてられているかというと

江戸期に梵鐘を奉納した方の

孫にあたる方が

奉納した梵鐘の返還を

強く求めていることに対する

対応について

当地の代表者方が

当時の県令に問うているわけです。

 

この文書中に

明治初期の当地における

神仏分離の対応を

読み取ることが出来ます。

 

これまでの慣習も尊重しつつ

新たな時代に対応しようと

努められている様子が

伝わってくるように思います。

 

昨日の投稿では

当山61世の長峻和尚について

少しばかり紹介いたしました。

 

名僧というべき長峻和尚は

住職在位中の約20年にわたり

普賢院を復興され

さらには兼務寺院興隆にも

ご尽力されました。

 

長峻和尚は研究者肌だったようで

晩年に到るまで時間があれば

ひとり研究に励まれていたそうです。

 

1901年(明治34)に

普賢院では興隆講という

講が発足しています。

 

興隆講については

以前にブログで触れているので

よろしければそちらも

ご参照下さい。

稀代の古刹 七崎観音⑩

 

興隆講は

七崎観音堂の再興事業とでも

いうべき取り組みです。

 

定期的に集まり

護摩祈祷を行ったり

法話を聞いたりなど

積極的な活動が

なされていたようです。

 

長峻和尚の祈祷や護摩には

多くの人が集まったそうです。

 

カリスマ的な住職だったと

いえるかと思います。

 

東北屈指の霊場である

山形県鶴岡の

湯殿山大日坊の住職を

最晩年は務めるわけですが

多忙が過ぎたこともあり

病魔におかされ

行年60でご遷化されました。

 

それからしばらくの間

当山は困難な時期となります。

 

62世晃雄和尚が住職になるのは

長峻和尚亡きあと

しばらくたってからとなるのですが

その晃雄和尚の晋山式は

同時に出征送別のひとときでもありました。

 

戦争期において

七崎観音へは

身内が出征した方が

多く参詣されるようになったそうです。

 

明治から昭和まで

話が飛んでしまった感がありますが

明治以後の激動期については

可能な限りの記述を試みたいと思います。

 

今回は

明治初期における神仏分離への対応を

今に伝える文書『伺』の紹介と

“巨星”長峻和尚とその後について

多少触れさせていただきました。