稀代の古刹 七崎観音⑬

当山本堂内の観音堂の

内殿中央に祀られる

聖観音(しょうかんのん)は

七崎観音(ならさきかんのん)と呼ばれ

その起源は平安時代にまで

さかのぼるとされます。

 

当山は古くから

七崎観音の別当をつとめております。

 

七崎観音は明治時代になるまでは

本堂の位置から南方に位置する

現在の七崎神社の地に建立されていた

観音堂にお祀りされておりました。

 

その観音堂は七崎山徳楽寺

という寺号が用いられ

諸堂も整備されておりましたが

明治の神仏分離政策のため

廃寺となり七崎神社として

改められました。

 

七崎観音へ捧げられた祈りの痕跡として

今回は観音堂へ奉納された

吊り灯篭を紹介させて頂きます。

 

現在観音堂には吊り灯籠が

6つ吊るされております。

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そのうち2つの吊り灯篭について

紹介させて頂きます。

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その①【寛文10年(1670)吊り灯篭】

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まず1つ目の吊り灯篭ですが

六面の各面に

以下のように刻字がされております。

 

金燈籠所願成就所

奉懸奥州南部三戸郡之内

七﨑村観音御宝前

願主 槻茂左衛門尉 藤原清継

寛文十庚戊(1670年)月日

 

この吊り灯篭は

平成31年・令和元年(2019)から

349年も前に奉納されたものです。

 

この時期は

永福寺41世・宥鏡(ゆうきょう)上人の

時代にあたります。

 

当山先師である宥鏡上人は

奈良県の長谷寺から

永福寺住職として

お迎えされました。

 

慶安4年(1651)

三代将軍家光公がご逝去された際には

日光東照宮でのご供養のため

召し出されております。

 

さらに宥鏡上人は

盛岡城の時鐘の銘文を

仰せ付けられたり

二戸の天台寺の

桂泉観音堂と末社の棟札も

記されていらっしゃいます。

 

宥鏡上人の晩年である

延宝8年(1680)に

盛岡永福寺は火災にあっており

その後焼けて損じてしまった

仏像や経典などを

東の岡の地中に納め

歓喜天供養塚を建立し

同所を41世以後の住職はじめ

末寺住職や所化などの境内墓地とし

さらには十和田山青龍権現を

勧請して祀られました。

 

宥鏡上人と七崎観音堂の関係でいうと

当山所蔵の明暦2年(1656)の棟札には

宥鏡上人の名が見られます。

 

この棟札は

観音堂と末社十二宮を再興した時のものです。

 

南部第28藩主・重直公が

病気の際に七崎観音に祈願した所

霊験があったとして

再興が成されました。

 

同時期には

三戸の早稲田観音堂も再興されております。

 

早稲田観音堂がある

三戸の沖田面は

三戸永福寺があった場所で

本坊が盛岡に建立された後は

自坊・宝珠山 嶺松院(れいしょういん)

が旧地を引き継ぎました。

 

余談を挟ませて頂くと

先に盛岡永福寺が

延宝8年(1680)に焼尽したことに

触れましたが

この嶺松院についても

火災に見舞われており

万治2年(1659)の

棟札(むなふだ)では

寛永17年(1640)3月に

門前の焚き火が飛び火して焼失して

宥鏡(ゆうきょう)大和尚が再興したと

記されており

また『新撰陸奥国誌』によると

寛文年間(1661〜1673)に

焼失したとされております。

 

宥鏡上人の後に永福寺住職となられたのが

清珊(せいさん)上人です。

 

清珊上人と南部29第藩主・重信公が

なされた連歌が

盛岡の地名の由来といわれます。

 

清珊上人の代になり

七崎永福寺は普賢院に

「改められた」とされます。

 


その②【天保8年(1837)吊り灯篭】

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2つ目の吊り灯篭は

天保8年(1837)正月に

永福寺57世・宥威(ゆうい)上人により

奉納されたものです。

 

こちらの吊り灯篭には

以下のように刻字されております。

 

奉納七﨑山観世音菩薩

諸願成就 皆令満足

永福寺権僧正 宥威 敬白

天保八歳次丁酉(1837年)

春正月摩訶吉祥日

 

宥威上人は

権僧正(ごんそうじょう)という

とても高い僧階(そうかい、僧侶の位)

にあられた住職です。

 

宥威上人は

天保10年(1839)に御遷化(ごせんげ)

されていらっしゃるので

観音堂の吊り灯篭は

亡くなられる2年前に

奉納されたことになります。

 

当山の『先師過去帳』には

先師として盛岡の

当山本坊である永福寺住職も

記されてまいりましたが

永福寺57世・宥威上人が

本坊の住職として記される

最後の住職となります。

 

▼宥威権僧正

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今回は

2つの吊り灯篭を

紹介させて頂きました。

 

お寺に祀られる仏像や

設えられるもののことを

宝物(ほうもつ)といいます。

 

宝物に通わされる

個々の物語は

どれも尊いものです。

現代教化研究所研究員の辞令を拝受しました

新年度になり

拙僧(副住職)は

真言宗豊山派総合研究院

現代教化研究所研究員

の任を拝命しました。

 

4/3に宗務所で

新所長より辞令を

拝受いたしました。

 

これまでは准研究員として

現代教化研究所に

籍を置かせて頂いておりましたが

今年度からは研究員として

一層励ませて頂こうと思います。

 

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七崎山龍神堂

当山所蔵の木札の中に

「分龍守護神」と記された

木札があります。

 

中央には宝珠が彫られ

両脇には海上安全と大漁満足の

願目(がんもく)が記されます。

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この木札の浦には

大正4年(1915)の年号があり

七嵜山龍神堂分と記載されます。

 

当山において

龍神へ捧げられた祈りの

一端を伝えるものといえます。

 

当地はかつて

七崎(ならさき)と呼ばれました。

 

この七崎には

いつくか龍神伝説が伝えられます。

 

十和田湖の青龍大権現という

龍神となった南祖坊(なんそのぼう)

の伝説が有名ですが

その他にも行海伝説と七崎姫伝説が

伝えられております。

 

七崎姫伝説は

八戸市八太郎にある

蓮沼神社と関連があり

当地より蓮沼まで赴く行事が

行われておりました。

※関連記事↓

https://fugenin643.com/blog/稀代の古刹七崎観音六/

 

嘉永年間(1848〜1855)に

三峰館寛兆(さんぽうかんかんちょう)

が描いた『八戸浦之図』には

白銀の清水観音(糠部第6番札所)の

別当は永福寺(現在の普賢院)であると

記されております。

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これらのことからも分かるように

当山は海の地域とも

古くから関わりがあります。

 

また

この清水観音に祀られる

十一面観音は

港町出身の禅僧

津要玄梁(しんようげんりょう)が

晩年に作仏されたものです。

 

当山には

南祖坊の御像である

南祖法師尊像(なんそほっしそんぞう)

が観音堂にお祀りされますが

この御像は津要玄梁の晩年作の

ものではないかと

拙僧(副住職)は考えており

調査を進めております。

※関連記事↓

https://fugenin643.com/blog/8272/

 

余談ですが

津要玄梁の足跡をたどると

「青龍」ととてもご縁のある方です。

 

この点については

別稿にてお伝えさせて頂きます。

 

今回は

龍神の木札について

紹介させて頂きました。

稀代の古刹 七崎観音⑫

当山本堂内の観音堂

内殿中央にお祀りされる

聖観音(しょうかんのん)は

七崎観音と通称され

古くから親しまれております。

 

七崎観音は明治時代になるまでは

現在の七崎神社の地にあった

観音堂にお祀りされておりましたが

神仏分離政策のため

旧観音堂は“廃寺”となり

七崎神社に改められました。

 

“大正の広重”とも称された

鳥瞰図(ちょうかんず)絵師である

吉田初三郎(よしだはつさぶろう)

(明治7年(1884)〜昭和30年(1955))

の「十和田湖鳥瞰図」には

当山も描かれております。

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「十和田湖鳥瞰図」には

永福寺と七崎神社の名称が

記されております。

 

ここに記される永福寺とは

現在の普賢院です。

 

当山は江戸時代初期頃まで

永福寺の寺号が

主に用いられており

永福寺42世住職である

清珊(せいさん)の代に

普賢院になったと伝えられております。

 

永福寺という寺号は

鎌倉時代からのもので

南部氏との関わりがあるものですが

普賢院そのものは

弘仁初期頃(810頃)に

開創されたと伝えられます。

 

当山は十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)が

修行したと伝えられるお寺です。

 

南祖坊は

七崎永福寺(現在の普賢院)の

月法和尚(当山2世)に弟子入りしたと

伝えられております。

 

吉田初三郎氏がこの伝説を

踏まえていたのか否かは

分かりませんが

「永福寺」と七崎の名が付され

明治以後に神社に改められた

「七崎神社」の名称が

鳥瞰図に記載されていることは

十和田湖と当地の関わりの深さを

反映してのことであると

言えるかもしれません。

 

現在の観音堂は

多くの荘厳具が設えられており

現在に歴史を伝えるものが多くあります。

 

以下の写真は

観音堂内陣の扁額です。

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この扁額は

文化13年(1816)4月に

菊池氏により奉納されたものです。

 

扁額の書は

三井親孝によるものです。

 

三井親孝は

江戸中期に活躍した書家である

三井親和(しんな)の子です。

 

この扁額には

「正観世音(しょうかんぜおん)」

の文字が“芸術的”に

記されております。

 

つい先日

他の扁額の落款を解読するために

様々な字典にあたったのですが

その際に文字の奥深さを

感じました。

 

白川静氏によると

「文字」は祭祀儀礼のために

生まれたそうです。

 

口という漢字の字源は

「祝詞を納める箱」だそうです。

 

話を扁額に戻すと

三井親孝の「正観世音」の

「正」の一画目の一の部分が

“原初的な漢字の口”

(「さい」といいます)に

なっており

字自体に祭祀的意味合いを

見て取ることが出来ます。

 

扁額を通じてご縁のある

三井親和・親孝については

文化的に功績のある

方なので今後改めて

その足跡を追わせて頂き

学びを深めさせて頂こうと思います。

 

さて

今回は三井親孝書の扁額を

紹介させて頂きました。

 

観音堂には多くの仏像や

宝物(ほうもつ)がありますので

次回からはそれらについて

紹介させて頂きたいと思います。

一役割を果たすべく

当山には

多くの仏像のみならず

多くの荘厳や奉納品が

設えられております。

 

それらには

沢山の物語があります。

 

本堂建替を

控えていることもあり

本腰を入れて

当山にまつわる歴史や

当山の仏像や荘厳類等の

調査研究を進めておりますが

とても多くのことを

改めて学ばせて頂き

気づかせて頂いております。

 

またそれに伴って

新たな「発見」も続いております。

 

元号が改まり

いよいよ幕を開ける

新時代以降において

諸事お伝え出来るようにすることは

地域における

お寺の重要な役目だと感じます。

 

その役目を果たせるよう

研鑽に励み続けたいと

思っております。

 

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八甲田を遠くにのぞむ

気象条件にもよりますが

当地からは雪をまとった

八甲田山が見えます。

 

個人的には

洞(ほら)近辺か

豊崎橋からの眺めが好きです。

 

写真だと分かりにくいのですが

とても美しい景観です

(写真は豊崎橋からの眺め)。

 

当山は真東を向いて

建てられているので

ちょうど背に八甲田山を負うような

位置になっております。

 

場所にもよりますが

当地からは

名久井岳や階上岳も

眺めることが出来ますし

はるか東方には海が広がります。

 

 

当地は

調べるば調べるほど

とても興味深い立地になっていると

感じさせられております。

 

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青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)⑦

現在の青森県田子町の

釜渕家出身の高僧

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

は1657年頃に生まれ

元文4年(1739)82歳頃に

入寂したとされます。

 

学秀は千体仏作仏を三度成満し

その他にも数百体の仏像を

彫られたとされます。

 

三度に渡る千体仏作仏は

以下のようになります。

 


 

第1期 地蔵菩薩

(1600年代末〜1700年代初頭)

(学秀 50歳頃)

飢饉物故者供養のため

 

第2期 観音菩薩

(正徳2年(1712)頃〜)

(学秀 60歳頃〜)

九戸戦争戦没者のため

 

第3期 観音菩薩

(享保7年(1722)〜元文4年(1739))

(学秀 70歳頃〜入寂)

生まれである釜渕家一族の供養のため

 


 

本年2月に学秀御作の

千手観音が確認されたご縁で

当山の歴史や

仏道の視点を交えつつ

高僧学秀について

紐解かせて頂いております。

 

学秀御作の千手観音は

当山の千手観音堂に

祀られていたと考えられます。

 

また享保年間の

当山中興開山の時期に

請来された可能性があります。

 

さらに

確認され報告されている所の

学秀仏のラインナップから

曼荼羅の話に飛んだり

長谷寺の話に飛んだり

観音霊場の話に飛んだりと

振り返ってみると

様々に触れてまいりましたが

今回は当山に祀られる

学秀御作の千手観音像を

じっくり観察して

述べられることを

述べさせて頂きます。

 


【正面】

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正面には4手あり

一組は胸の前で合掌をし

もう一組はおへその辺りで

定印(じょういん)という

印を組んでおり

宝鉢(ほうはつ)をのせております。

 

合掌と定印が

正面にて組まれているお姿は

千手観音の一般的なお姿といえます。

 


【頭頂】

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多面(顔が複数あること)であることが

よく分かると思います。

 

本面(メインの顔)の上にあたる

頭部は三段になっており

確認出来る範囲で

一段目が11面

二段目が7面

三段目が3面です。

 

欠けた面もあるかもしれませんし

数え損ねている面も

あるかもしれませんが

本面をあわせて二十二面

となっております。

 

三段目は3面のうち

中央のお顔が大きくなっており

これは化仏(けぶつ)である

阿弥陀如来だと思われます。

 


【側面】

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左右側面には2列に複数の穴があり

これは千手観音の手が差し込まれていた

ほぞ穴だと思われます。

 

こういった細工は

他の学秀仏には見られないので

少し細かく検討しつつ

眺めてみたいと思います。

 

よく見ると

一列の穴の数はそれぞれ9つ

あるように見えます。

 

仮に1列9つの穴があるとして

左右2列ずつなので

合計36個の穴があり

両側面には合わせて

36手があったと考えられます。

 

それに正面の4手を加えると

合計40手の仏像ということになります。

 

とすると

これは手の数に

意味が通わされて作られたという

可能性が出てまいります。

 

補足ですが

千手観音の「千」とは

「はかりしれない慈悲」を

意味します。

 

千手観音の「化身」として

四十観音(しじゅうかんのん)

という“観音群”があり

千手観音の40手に応じた

お姿で描かれます。

 

四十観音は

『千光眼秘密法経』という

経典に説かれます。

 

専門的な話ですが

「五部五法(ごぶごほう)

それぞれに各8手があり

40の真言法になる」と

されております。

 

細かな説明は省きますが

五部五法というのは

①仏部(ぶつぶ)

息災法(そくさいほう)

②金剛部(こんごうぶ)

調伏法(ちょうぶくほう)

③宝部(ほうぶ)

増益法(そうやくほう)

④蓮華部(れんげぶ)

敬愛法(けいあいほう)

⑤羯磨部(かつまぶ)

鉤召法(こうしょうほう)

の「部」と「法」を指します。

 

それぞれに8手があるということは

「4組の手」があることになります。

 

言葉を替えると

五部五法それぞれに

4尊格(仏の意)がそなわっている

ことを意味しております。

 

かなり専門的な話になるので

これ以上の言及はさけますが

これは金剛界曼荼羅

そのものを意味しております。

 

ほぞ穴を多数こしらえて

多手を差し込む形の

学秀の作仏は

現時点では他に見られません。

 

「40手の意味」が

踏まえられての

お姿であるとすれば

当山を中興された

快傅上人がその旨お伝えし

作仏して頂いたのではないか

という推測が出来るように思います。

 


【背面】

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背面には

衣紋線が見られます。

 

これは背面は

学秀仏全般に見られる特徴と

同様なのだそうです。

 

「学秀美」を感じます。

 


 

今回は当山に祀られる

学秀仏・千手観音坐像を

観察いたしました。

 

一般的な千手観音の特徴も

確認出来ましたし

真言宗の事相的側面に

通じている可能性も

確認することが出来ました。

 

ここでいう事相的側面とは

換言すると

「真言宗において専門的なこと」

ということです。

 

この点から

当山を中興開山された快傅上人が

千手観音作仏に携わっていたと

考えることが出来るように思います。

 

【快傅上人の墓石】

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春彼岸に捧げられた心が巡らされる

おてらおやつクラブの

発送作業を行いました。

 

今回は

春彼岸に供えられたお供物を

ダンボールに詰めさせて頂きました。

 

「おそなえ」が

「おさがり」として

「おすそわけ」される

おてらおやつクラブの活動は

「心」を巡らせる活動でもあります。

 

春休みのひとときに

笑顔が咲きますようにと願い

荷造りをさせて頂きました。

 

▼おてらおやつクラブ

https://otera-oyatsu.club

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南祖法師尊像の来た道を探る 是川福善寺の虚空蔵菩薩像

江戸時代中期に活躍された

津要玄梁(しんようげんりょう)

という禅僧がいらっしゃいます。

 

当山には十和田湖伝説の

南祖坊(なんそのぼう)の御像である

南祖法師尊像(なんそほっしそんぞう)が

観音堂にお祀りされますが

この御像は津要和尚が

手がけられたものではないかと

拙僧(副住職)は考えております。

 

その可能性に

初めて気がついたのは

白銀の清水観音(糠部第6番札所)

について調べていた時でした。

 

こちらの清水観音堂は

かつて当山が別当をつとめたお堂で

本尊の十一面観音像は

津要(しんよう)和尚が

作仏されたものです。

 

この十一面観音の写真が

滝尻善英氏の著作に

掲載されており

その御尊容に

当山に祀られる南祖法師尊像の

御尊容と類似する点が

多く見られたため

南祖法師尊像は

津要仏(津要が作仏された仏像の意)

ではないかと考えるように至ったのです。

 

それ以来

津要仏について

個人的に調査をしております。

 

【これまでの“仏像調査”の記事】

https://fugenin643.com/blog/ふらりと港町へ仏像調査/

https://fugenin643.com/blog/8044/

 

津要(しんよう)和尚は

延宝8年(1680)に

八戸市港町で生まれます。

 

松館大慈寺

盛岡の青龍山 祇陀寺(ぎだじ)

二戸浄法寺の天台寺で

修行された後に

階上町寺下を拠点にして

布教活動をされたそうです。

 

津要和尚は晩年

右手が不自由になり

彫刻等を左手でなされております。

 

色々と踏まえると

当山に祀られる南祖法師尊像は

津要和尚が右手を不自由にされた後に

彫られた御像である可能性が

高いように思います。

 

天聖寺8世の

則誉守西(そくよしゅさい)上人の

『奥州南部糠部順礼次第』(寛保3年(1743))

では第6番札所である清水観音について

内御堂二正観音安置

と記されており

現在祀られる十一面観音ではなく

正(聖)観音が

祀られていたことが分かります。

 

この正(聖)観音像は

盗まれたそうです。

 

そこで津要和尚が

十一面観音を造立し

観音堂を再興したのだそうです。

 

則誉守西上人の「順礼」が行われた

寛保3年(1743)は

津要和尚が亡くなられる2年前で

まさに晩年にあたります。

 

ですので

十一面観音像は

津要和尚晩年の御像といえます。

 

滝尻善英氏の著作に掲載される

この十一面観音像の写真は

拝見する限り

当山の南祖法師尊像の尊容と

通じているように思います。

 

また

津要和尚の御像について

調べていくと

津要仏に見られる独特の特徴が

南祖法師尊像にも見られますし

さらにそれらが左手で

彫られたものだとすると

かなり説得力を持つような

特徴を指摘することが出来ます。

 

前置きが長くなりましたが

津要仏である

虚空蔵菩薩像が祀られる

是川の福善寺を訪ねました。

 

福善寺は当山と同宗であり

いつも大変お世話になっている

御寺院様です。

 

ご住職にご案内頂き

仏像を拝見させて頂きました。

 

▼津要御作・虚空蔵菩薩(福善寺)

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津要和尚御作の御像のお顔は

鼻や眼

鼻と眉のラインのとり方が

とても特徴的です。

 

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写真では分かりにくいですが

津要和尚独特の彫目(ほりめ)が

全体に見られます。

 

彫刻されている文字ですが

中央には

南無能満諸願虚空蔵菩薩

その右方に階上山

それとは対に青龍寺

と刻まれております。

 

彫目について

これだけでは

分かりにくいと思いますので

すこし前に伺わせて頂いた

港町の十王院にお祀りされる

地蔵菩薩立像の写真を

以下に添付いたします▼

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独特の彫目が

ある程度分かると思います。

 

こういった彫目が

福善寺に祀られる

虚空蔵菩薩像にも見られました。

 

比較対象として紹介させて頂いた

十王院の津要仏・地蔵菩薩立像の

全体像はこちらです

(高さは2メートル近くあります)▼

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当山に祀られる

南祖法師尊像がコチラです▼

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背面に見られる

彫目が分かるでしょうか?

 

津要仏に見られる特徴である

彫目が全身に見られます。

 

彫目がやや大きいのは

左手で彫られたものだと考えると

納得出来るように思います。

 

顔に見られる特徴も

津要仏の特徴を

指摘出来るかと思います。

 

今回は

津要和尚の

仏像に見られる特徴から

南祖法師尊像の来た道の

可能性について検討してみました。

 

他の視点からの検討も

有意義かと思いますので

また改めて投稿させて頂きます。

現代の「瞑想」を尋ねる

階上町のヨガスタジオ

「セナジースタジオ」オーナーで

八戸学院大学の教授でもある

バリー・グロスマンさんが

当山においで下さいました。

 

バリーさんは長い間

ヨガや瞑想をされていらっしゃり

指導もされていらっしゃいます。

 

古い伝統をもつ

ヴィパッサナー瞑想という

「ありのままにものごとを見る」

ことを重視する瞑想に出会われ

人生が変わったそうです。

 

 

この瞑想は

マインドフルネスという名で

日本でも“流行”しております。

 

拙僧(副住職)は

現代教化研究所との

ご縁を頂いた一昨年より

マインドフルネスについて

調べておりまして

バリーさんに色々と

取材させて頂くべく

当山においで頂きました。

 

今後の学びに資する

とても良いお話を

お伺いすることが出来ました。

 

また5月19日に

バリーさんにご協力頂き

寺子屋ワークショップ

お寺でマインドフルネス

を開催することになりました。

 

これを良い契機として

完全に錆びついている

英語も学びつつ

個人研究を進めたいと思います。

 

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