行基菩薩ゆかりの東山温泉

本年4月1日〜3日にかけ

研究調査を兼ねて

会津若松市へ赴いた際に

東山温泉にも行かせて頂きました。

 

東山温泉は

奈良時代に活躍した

行基(ぎょうき)という高僧が

開いたとされます。

 

行基は

朝廷より菩薩号を諡号され

行基菩薩と尊称されます。

 

天智天皇7年(668)に

現在の堺(大阪)にて生まれ

天平21年(749)に

行年82歳で入滅されたとされます。

 

東山温泉のホテル東鳳の

案内板によると

天平年間(729〜749)に

行基が会津を訪れた際に

八咫烏(やたがらす)の“導き”により

発見されたそうです。

 

峰の方で

烏が啼いていたため

仰ぎ見た所

軍荼利(ぐんだり)

妙見(みょうけん)

聖観音の三尊が現れたそうです。

 

そこで三社権現を奉り

羽黒山東光寺を開いたのが

この東山温泉の始まりだと

案内されておりました。

 

行基菩薩は

近畿地方を中心にご活躍された方で

各地にお寺を開かれました。

 

行基伝説は全国各地に見られ

青森県内にも伝わっております。

 

その一例として

当山の近くでいうと

階上町の寺下観音(糠部第1番札所)が

あげられます。

 

拙僧(副住職)は

4/13〜15まで愛媛県松山市別府町の

飯岡山 浄明院(じょうみょういん)に

法要のため行ってまいりますが

浄明院本尊・薬師如来像は

行基菩薩の御作(おんさく)の

とても古い仏像です。

 

行基菩薩は

当地近辺の地域に伝わる

「祈り」について考える時

欠かすことの出来ない

キーパーソンの一人といえます。

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ご利益を頂く

毎年3月28日は

下北半島の大湊にある

常楽寺(じょうらくじ)の

涅槃会(ねはんえ)の法要に

出仕しております。

 

涅槃会とは

「お釈迦様のご法事」です。

 

本年もご案内頂いたので

お勤めしてまいりました。

 

県内を北上する機会は

多いわけではないので

道中の寺社仏閣や資料館などに

立ち寄らせて頂いております。

 

本年は

往路にて七戸城跡とその近辺

復路にて野辺地町立民俗資料館に

立ち寄らせて頂き

学ばせて頂きました。

 

殊に七戸は当地と

とても関わりのある地域です。

 

七戸城主であった

南部重信公は

盛岡南部藩の藩主となり

当山に観音像を

奉納された方です。

 

また当地より

七戸新館八幡宮に

祢宜として入られているなど

様々な接点があげられます。

 

七戸城跡とその近辺を

訪ねさせて頂き

そして野辺地民俗資料館も

訪ねさせて頂いたことで

多くの気づきと学びを

頂戴することが出来ました。

 

涅槃会に赴くことで

良いご利益を頂いたような

心持ちでおります。

 

【七戸城跡】

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【野辺地町立民俗資料館】

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福島でのお葬式

つい先日福島県新地の

拙僧(副住職)妻の祖父が

大往生を遂げました。

 

その葬儀のため4/9に日帰りで

福島県新地へ行ってまいりました。

 

福島の親戚の菩提寺は

当山と同宗であったため

拙僧(副住職)もお勤めを

ご一緒させて頂きました。

 

その当日は

仙台駅から在来線に

乗り換えて現地入りする

予定だったのですが

信号トラブルのため

常磐線が混乱しておりました。

 

葬儀の時間に

間に合わないと思われましたが

親戚の方が車を出して下さり

何とか現地にたどり着きました。

 

今回ご一緒させて頂いた

福島の親戚の菩提寺である

相馬山 摂取院(せっしゅいん)の

ご住職・副住職の両師とは

以前より親しくさせて頂いております。

 

この度の葬儀は

丁寧に厳かに

お勤め下さり

とても感謝しております。

 

▼2年前の写真(摂取院にて)

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5/3までの間

当山では使い終えたランドセルの

回収を行っております。

 

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解読困難な棟札に挑む

当山では多くの棟札を

所蔵しております。

 

古いものなので

中には墨がほぼ落ちてしまい

目視による解読が

難しいものもあります。

 

当山では200余年ぶりの本堂建替

という歴史的な節目に

あるということで

歴史や伝承などの整理を

進めております。

 

棟札の整理をしていた所

解読困難な棟札1枚の形状と

宝暦13年(1763)の

愛染堂再興棟札と

天照皇大神宮再興棟札が

酷似していることに気が付きました。

 

棟札の大きさや厚さ

そして釘穴の位置までもが

酷似しているのです。

 

これらの棟札は

両面それぞれに文言が記されております。

 

何のお堂を建立したかを

記した面を仮に表面

その反対を裏面とすると

今取り上げている3枚の

裏面の文言は同じものです。

 

裏面は

棟札上方中央に梵字「バン」が記され

棟札下方中央に梵字「シリー」が

記されております。

 

そしてその梵字の間のスペースには

2行の偈文(げもん)

一切皆善 一切宿皆賢 諸仏皆威徳

羅漢皆断漏 以斯實言 願我常吉祥

が記されております。

 

この偈文ですが

解読困難な棟札でも

かろうじて何文字かを

読み取ることが出来たので

同文であることは間違いありません。

 

さて

問題は棟札の主旨が記される表面です。

 

当山諸堂については

諸史料の記述や

他の棟札により

大まかに分かっております。

 

様々な可能性に思いを巡らせながら

法事の合間などに

角度を変えて観察したり

光の具合を変えて

解読を試みた所

「不動明王堂一宇」と

書かれてあることが判明しました。

 

「再興」という字も

書かれてあるように見えます。

 

この棟札は

宝暦13年(1763)の

不動堂再興棟札だと思われます。

 

宝暦13年(1763)の

愛染堂再興棟札と

天照皇大神宮再興棟札の

双方それぞれに

大檀那大膳大夫利雄公

永福五十二世勅許法印宥恕

の名が記されております。

 

利雄(としかつ)公は南部藩34代藩主

宥恕(ゆうじょ)上人は当山先師です。

 

確信に近い推測ですが

不動堂再興棟札についても

お二方について

記されていると思います。

 

棟札の文字の墨は

ほぼ完全に落ちているものの

何となく何かが書かれてあることは

分かる程度の状態だったゆえ

とてももどかしい思いを

抱かせられていた棟札だっただけに

その内容を知ることが出来て

スッキリとしました。

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大志を抱いて

4月8日は

「花まつり」です。

 

花まつりとは

お釈迦様の誕生を

お祝いする日であり

個々の命の尊さを

讃える日です。

 

本年の4/8は

拙僧(副住職)長男の

小学校入学式でした。

 

希望に胸を膨らませている長男の姿に

元気をもらった一日となりました。

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青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)⑧

当山本堂内の観音堂には

「青森の円空」とも称される

田子町出身の高僧である

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

御作の仏像がお祀りされております。

 

本年2月には

千手観音坐像が確認されました。

 

その他にも

学秀御作と思われる

不動明王像と大黒天像が

お祀りされております。

 

そういったご縁があり

当ブログにおいて

学秀をテーマとした投稿を

重ねております。

 

今回は学秀の書と思われる

扁額について探ってみようと思います。

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当山観音堂縁側には

賽銭箱が置かれ

鰐口や鳴り物が設えられております。

 

その上方に

「観世音(かんぜおん)」と

記された扁額(へんがく)が

掲げられます。

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この扁額は

30年以上前に

塗り直されております。

 

文化財を保護するような

資格をお持ちの方に

修復して頂いたものではないので

扁額の刻字などの細部が

大雑把に塗料が付されており

やや読みにくくなっております。

 

この扁額は誰によって

いつ頃製作されたのか等

詳細は分かりませんでした。

 

当山では

文化8年(1811)以来の

本堂建替という歴史的大事業を

現在推進しております。

 

そのような歴史的な節目にあたり

当山の歴史や伝承等の整理や研究を

改めて進めているのですが

その一環として

扁額についても

調べております。

 

そんな中

観音堂縁側の扁額の

落款(らっかん)を解読したら

とても興味深いことが

浮かび上がってまいりました。

 

この扁額には3つの落款印が

されておりますが

そのうちの1つが以下の写真です。

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この落款を

友人や知人の協力を得ながら

解読してみた所

龜峯(きほう)」

という二文字であることが判明しました。

 

残り二箇所の落款印はそれぞれ

「主忠信」「不爾(二)」

であることも分かりました。

 

さらに

「龜峯」と「不爾」の2つの落款の上にも

刻字がなされており

ここにも「亀峯」の字が見られることが

分かりました。

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拙僧(副住職)は

「龜峯(きほう)」というのは

奇峯学秀のことではないかと

考えております。

 

「奇」ではなく「龜」という文字が

用いられた理由についても

思い当たる所があります。

 

以下の写真は

当山に掲げられる

「圓通閣(えんつうかく)」と

記された扁額です。

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観音菩薩には別称が色々あり

圓通大士(えんつうだいし)とも

呼ばれます。

 

圓通閣とは観音堂を意味します。

 

この扁額の書は

鶴洲(かくしゅう)という方が

75歳の時にしたためたものです。

 

現在は色あせておりますが

とても立派な仕立ての扁額です。

 

字の彫りの部分には

金箔が残っているのが確認できます。

 

この扁額は

享保年間に奉納されたと思われます。

 

先程の扁額において

龜の字が用いられたのは

鶴洲の「鶴」の字を受けての

機知に富んだ決定であり

験を担いでのものなのではないかと

拙僧(副住職)は

考えております。

 

「鶴」と「龜」で

吉祥の意味を色濃くしたものとは

考えられないでしょうか。

 

この享保年間というのは

当山にとっては

中興された時期でもあります。

 

また度重なる凶作や飢饉により

地域全体が大変な状況であった

時代でもあります。

 

学秀は生涯において

三千数百体もの仏像を作仏し

祈りを捧げられた方です。

 

「龜峯」には学秀の祈りが

重ねられていると考えることは

それ程無理のない

仮説であるように思います。

新鮮な気持ちで論語と向き合う

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先日会津へ赴いた際に

会津藩校・日新館(にっしんかん)に

立ち寄らせて頂きました。

 

日新館の教育は

全国の藩校の中でも

かなり高い水準であったといわれます。

 

日新館の学生は

10歳になると

論語の素読(そどく)を行ったそうです。

 

4/6に本年最初の

「親子で学ぶ こども論語塾」が

開催されました。

 

講師の

川崎葉子(かわさき ようこ)先生は

福島のご出身で

会津藩のことについても

お話の中で触れて下さいました。

 

本年度の初回ということもあり

新鮮な気持ちで

論語に向き合うことが

出来たように思います。

 

本年度のこども論語塾では

テキストとして

安岡定子・田部井文雄共著の

『心を育てる こども論語塾』

(ポプラ社)を使うそうです。

 

このテキストがまた

とても良いのです。

 

拙僧(副住職)のように

論語の“素人”にも分かりやすい

書籍になっているので

本年はこのテキストで

自身も論語について

学びを深めたいと思います。

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会津をゆく

4/1〜3にかけ

福島県会津若松市を

訪ねました。

 

当山には

会津斗南(となみ)藩士の

墓石が16基が

本堂裏手にございます。

 

当山過去帳には

二十数名の斗南藩の方が

記されております。

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当地近辺には

若松姓が多数おいでですが

この若松家は

会津若松がルーツだそうです。

 

そういった様々なご縁のある

会津若松を訪ね

学びを深めたいと

以前より願っておりました所

ようやく足を運ぶことが出来ました。

 

会津の“豊かな文化”にも触れることが出来

とても良い学びになりましたし

とても良い学びのキッカケにも

なったように感じております。

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稀代の古刹 七崎観音⑬

当山本堂内の観音堂の

内殿中央に祀られる

聖観音(しょうかんのん)は

七崎観音(ならさきかんのん)と呼ばれ

その起源は平安時代にまで

さかのぼるとされます。

 

当山は古くから

七崎観音の別当をつとめております。

 

七崎観音は明治時代になるまでは

本堂の位置から南方に位置する

現在の七崎神社の地に建立されていた

観音堂にお祀りされておりました。

 

その観音堂は七崎山徳楽寺

という寺号が用いられ

諸堂も整備されておりましたが

明治の神仏分離政策のため

廃寺となり七崎神社として

改められました。

 

七崎観音へ捧げられた祈りの痕跡として

今回は観音堂へ奉納された

吊り灯篭を紹介させて頂きます。

 

現在観音堂には吊り灯籠が

6つ吊るされております。

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そのうち2つの吊り灯篭について

紹介させて頂きます。

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その①【寛文10年(1670)吊り灯篭】

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まず1つ目の吊り灯篭ですが

六面の各面に

以下のように刻字がされております。

 

金燈籠所願成就所

奉懸奥州南部三戸郡之内

七﨑村観音御宝前

願主 槻茂左衛門尉 藤原清継

寛文十庚戊(1670年)月日

 

この吊り灯篭は

平成31年・令和元年(2019)から

349年も前に奉納されたものです。

 

この時期は

永福寺41世・宥鏡(ゆうきょう)上人の

時代にあたります。

 

当山先師である宥鏡上人は

奈良県の長谷寺から

永福寺住職として

お迎えされました。

 

慶安4年(1651)

三代将軍家光公がご逝去された際には

日光東照宮でのご供養のため

召し出されております。

 

さらに宥鏡上人は

盛岡城の時鐘の銘文を

仰せ付けられたり

二戸の天台寺の

桂泉観音堂と末社の棟札も

記されていらっしゃいます。

 

宥鏡上人の晩年である

延宝8年(1680)に

盛岡永福寺は火災にあっており

その後焼けて損じてしまった

仏像や経典などを

東の岡の地中に納め

歓喜天供養塚を建立し

同所を41世以後の住職はじめ

末寺住職や所化などの境内墓地とし

さらには十和田山青龍権現を

勧請して祀られました。

 

宥鏡上人と七崎観音堂の関係でいうと

当山所蔵の明暦2年(1656)の棟札には

宥鏡上人の名が見られます。

 

この棟札は

観音堂と末社十二宮を再興した時のものです。

 

南部第28藩主・重直公が

病気の際に七崎観音に祈願した所

霊験があったとして

再興が成されました。

 

同時期には

三戸の早稲田観音堂も再興されております。

 

早稲田観音堂がある

三戸の沖田面は

三戸永福寺があった場所で

本坊が盛岡に建立された後は

自坊・宝珠山 嶺松院(れいしょういん)

が旧地を引き継ぎました。

 

余談を挟ませて頂くと

先に盛岡永福寺が

延宝8年(1680)に焼尽したことに

触れましたが

この嶺松院についても

火災に見舞われており

万治2年(1659)の

棟札(むなふだ)では

寛永17年(1640)3月に

門前の焚き火が飛び火して焼失して

宥鏡(ゆうきょう)大和尚が再興したと

記されており

また『新撰陸奥国誌』によると

寛文年間(1661〜1673)に

焼失したとされております。

 

宥鏡上人の後に永福寺住職となられたのが

清珊(せいさん)上人です。

 

清珊上人と南部29第藩主・重信公が

なされた連歌が

盛岡の地名の由来といわれます。

 

清珊上人の代になり

七崎永福寺は普賢院に

「改められた」とされます。

 


その②【天保8年(1837)吊り灯篭】

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2つ目の吊り灯篭は

天保8年(1837)正月に

永福寺57世・宥威(ゆうい)上人により

奉納されたものです。

 

こちらの吊り灯篭には

以下のように刻字されております。

 

奉納七﨑山観世音菩薩

諸願成就 皆令満足

永福寺権僧正 宥威 敬白

天保八歳次丁酉(1837年)

春正月摩訶吉祥日

 

宥威上人は

権僧正(ごんそうじょう)という

とても高い僧階(そうかい、僧侶の位)

にあられた住職です。

 

宥威上人は

天保10年(1839)に御遷化(ごせんげ)

されていらっしゃるので

観音堂の吊り灯篭は

亡くなられる2年前に

奉納されたことになります。

 

当山の『先師過去帳』には

先師として盛岡の

当山本坊である永福寺住職も

記されてまいりましたが

永福寺57世・宥威上人が

本坊の住職として記される

最後の住職となります。

 

▼宥威権僧正

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今回は

2つの吊り灯篭を

紹介させて頂きました。

 

お寺に祀られる仏像や

設えられるもののことを

宝物(ほうもつ)といいます。

 

宝物に通わされる

個々の物語は

どれも尊いものです。