子ども論語塾を開催します

本年も

子ども論語塾が

開催されます。

 

古典中の古典である

論語のひびきに

親子で触れてみては

いかがでしょうか?

 

本年は

4月6日(土)

6月1日(土)

7月27日(土)

10月5日(土)

12月7日(土)

の日程で開催される予定です。

 

時間は

午前11時から正午までとなります。

 

会費は

一家族につき500円となります。

 

テキスト代は

別途お納め頂きます(1300円程)。

 

講師は川崎葉子さんが

お勤め下さいます。

 

ご興味をお持ちの方は

お気軽にお声がけ下さい。

 

 

お申込みは

メールか電話にて受付いたします。

 

メール fugenin643@gmail.com

電話 0178-23-2135

※担当者が不在のことが多いため

なるべくメールでお願いいたします。

論語塾ロゴ

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南祖坊伝説の諸相⑪ 南祖坊はいつ入定したか?

十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)は

当山2世の月法律師の

弟子であると伝えられます。

 

全国霊山霊跡を巡った果てに

十和田湖に入定し

青龍大権現となった

というのが伝説の筋書きです。

 

今回は南祖坊が入定した

時期について

考えてみたいと思います。

 

当山は

圓鏡上人により

延暦弘仁年間(8C末〜9C初頭)に

開創されたとされます。

 

この圓鏡上人は

弘仁8年(817)5月15日に

御遷化されております。

 

南祖坊の師とされる月法律師は

天長8年(831)10月16日に

御遷化されております。

 

まずは

このお二人の没年を

手がかりに南祖坊の

十和田湖入定について

考察してみます。

 

南祖坊入定を考えるにあたり

当山に2冊写本が残る

『十和田山神教記』を

踏まえさせて頂きます。

 

同書では

南祖坊は7歳で弟子入りし

68歳で十和田湖入定

とされております。

 

この年齢を条件として検討すると

南祖坊は878年〜892年に入定

という仮説が成立します。

 

また南祖坊は

貞観年間(859〜876)に生まれた

との伝えもあります。

 

この生誕年を踏まえて

先程と同じ手順で検討すると

南祖坊は927年〜944年に入定

という仮説も成立します。

 

さらに

南祖坊は当山開基(開山)の

行海上人の弟子とのいわれもあります。

 

行海上人は

承安元年(1171)年に当山を

開基(開山)した方です。

 

『新撰陸奥国誌』では

普賢院について

建仁中(1201〜1203)の建立の由

伝れとも往年火災に罹て記録を失し

詳悉ならす

寛保元年(1741)辛酉十一月

快傅と云る僧の中興なりと云り

とあります。

 

寛保元年という年は

快傅が中興した年ではなく

御遷化された年です。

 

同年11月2日に

御遷化されております。

 

行海上人については

開基(開山)の年号は分かるのですが

いつ御遷化されたのかは不明です。

 

なので

ここで記される

建仁中という期間は

御遷化された年を

意味している可能性も

あるのではないかと感じております。

 

真相は分かりませんが

承安元年(1171)という年と

建仁年間(1201〜1203)という年を

踏まえて先程と同じような

手順で検討すると

南祖坊は1232年〜1262年頃に入定

という(条件付きではありますが)

仮説が成立します。

 

当山先師と

当山に残る写本から

①878年〜892年に入定

②927年〜944年に入定

③1232年〜1262年に入定

という3つの説を提示出来ます。

 

探究的試論ですが

これらの年代は

どれも深い意味を

汲み取ることが出来るものです。

 

いずれにおいても

諸事を踏まえると意味が

見えてくるように感じます。

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青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)⑥

青森県田子町の

釜渕家出身である高僧

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

は生没年代の詳細は不明ですが

1657年頃に生まれ

元文4年(1739)82歳頃に

入寂したとされます。

 

学秀は千体仏の作仏を

三度成し遂げられており

それらの時期は以下のように

第1期〜3期という形で

表現されているようです。

 


 

第1期 地蔵菩薩

(1600年代末〜1700年代初頭)

(学秀 50歳頃)

飢饉物故者供養のため

 

第2期 観音菩薩

(正徳2年(1712)頃〜)

(学秀 60歳頃〜)

九戸戦争戦没者のため

 

第3期 観音菩薩

(享保7年(1722)〜元文4年(1739))

(学秀 70歳頃〜入寂)

生まれである釜渕家一族の供養のため

 


 

話があちこち飛ぶかと思いますが

仏道における「三千」という数字や

「千」という数字について

触れてみたいと思います。

 

三世三千仏(さんぜさんぜんぶつ)

という言葉があります。

 

三世という言葉は

掘り下げられて様々な意味があり

さらには三毒(さんどく)といった

仏道の根本的なキーワードと絡め

説かれることが多いのですが

ここでは基本的な意味として

過去・現在・未来のことと

捉えて頂いて結構です。

 

三世三千仏とは

それぞれに千仏が

いらっしゃるという

意味だとお考え下さい。

 

ここでいう千とは

個数の数字ではなく

象徴的意味を帯びた聖数です。

 

この三千仏に祈りを捧げる法要を

仏名会(ぶつみょうえ)といい

日本では光仁天皇代の

宝亀5年(774)12月に

初めて行われております。

 

意図してのことか否かを

知るすべはありませんが

結果として

学秀の後半生におけるお歩みは

三世三千仏への尊い祈りを

作仏を以て遂げられたとも

捉えられるかと思います。

 

学秀は禅僧でもあるので

その観点から考えてみると

禅宗でもよく用いられる

陀羅尼(だらに、梵語のお経のこと)に

大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)

または大悲咒(だいひしゅ)

と通称される“お経”があります。

 

大悲心陀羅尼あるいは大悲咒は

千手観音の陀羅尼でもあります。

 

日本最古の観音霊場である

西国(さいごく)三十三観音霊場

のうち千手観音が本尊である

札所は33所のうち

実に15所(十一面千手1ケ寺も含む)

にのぼります。

 

西国三十三観音霊場の

札所本尊としては

如意輪観音が6ケ寺

十一面観音が6ケ寺

聖観音が3ケ寺

准胝観音が1ケ寺

不空羂索観音が1ケ寺

馬頭観音が1ケ寺です。

 

開創1300年とされる

西国三十三観音霊場において

千手観音を本尊とする札所が

最も多いことからも

古くから信仰されてきた

観音菩薩であることが

分かるかと思います。

 

日本最古の三十三観音霊場である

西国霊場の起源は

当山の本山である長谷寺を

開山された徳道(とくどう)上人が

関わっております。

 

養老2年(718)に

徳道(とくどう)上人が

病床において見られた夢で

閻魔大王より三十三の宝印を授かります。

 

そして衆生救済のために

観音霊場を作るよう

閻魔大王に告げられたため

宝印を納める三十三所を定められ

西国三十三観音霊場が開創された

と伝えられます。

 

しかし

徳道上人の時代には

機運が熟さなかったようで

授かった三十三の宝印を

現在の兵庫県にある

中山寺に納めることになります。

 

中山寺は真言宗中山寺派の本山で

聖徳太子創建とされ

勝鬘夫人(しょうまんぶにん)の

お姿をうつして造ったと伝えられる

十一面観音を本尊とします。

 

中山寺は西国第一番札所です。

 

徳道上人が

中山寺に三十三の宝印を納め

それから約270年経った後に

花山法皇により

西国三十三観音霊場は

復興されたとされます。

 

花山法皇は

播磨(現在の兵庫県)にある

書寫山(しょしゃざん)の

性空(しょうくう)上人とご縁がある方です。

 

書寫山というと

“最古の十和田湖伝説”が収録されている

『三国伝記』(さんごくでんき)では

難蔵(南祖坊(なんそのぼう)のこと)は

書寫山の法華持経者とされます。

 

南祖坊は十和田湖伝説に登場する僧侶で

当山にて修行したと伝えられ

全国練行の末に十和田湖に入定し

青龍大権現という龍神として

十和田湖の主になったと伝えられます。

 

西国三十三観音霊場に続いて

坂東(ばんどう)三十三観音

秩父三十三観音(のち三十四観音)の

霊場が成立しますが

それに続いて成立した地方的札所が

糠部三十三観音だそうです。

 

糠部三十三観音霊場は

永正9年(1512)9月に

観光上人により創始されました。

 

観光上人の札番(札所の番号)は

現行のものとは異なりまして

現在の札番は

八戸市の天聖寺(てんしょうじ)第8世

則誉守西(そくよしゅさい)上人が

寛保3年(1743)に定められたものです。

 

当山の七崎観音は第15番札所で

田子の釜渕観音は第27番札所になります。

 

この27番札所の釜渕観音堂にて

学秀は出身である釜渕家のご供養のため

最後の千体仏を完成させました。

 

西国三十三観音霊場のルーツである

当山の本山である奈良県桜井市の

長谷寺の創建は

朱鳥元(686)年に

修行法師の道明上人が

銅板法華説相図(ほっけせっそうず)

を安置して祀られ開創されます。

 

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この法華説草図には

法華経

見宝塔品(けんほうとうぼん)

の場面が描かれております。

 

平泉の中尊寺金堂は

この見宝塔品に基づいて

建立されたといわれます。

 

補足になりますが

江戸時代初期までは

中尊寺には真言寺院も構えられており

永福寺住職が中尊寺から

迎えられたこともあります。

 

見宝塔品について

以下の引用文を参考に

大意を見てみましょう。

 


 

釈迦牟尼(しゃかむに)が

霊鷲山(りょうじゅせん)で

大比丘尼衆一万二千

菩薩八万のために

法華経を説かれると

会座(えざ)に地中より

高さ五百由旬

縦横二百由旬の七宝塔が

湧出(ゆうしゅつ)し

空中に住在するところあり

時に宝塔中より

多宝仏(たほうぶつ)が大音声を発し

釈尊説くところの法華経を讃嘆し

それが真実なることを証する。

 

やがて釈尊

扉をひらいて

二仏宝塔中に

併座されるといふのが

この経文の大旨である。

 

(安田與重郎、昭和40年

『大和長谷寺』(淡交社)p.11。)

 


 

このような象徴的場面が

法華説相図には

施されております。

 

またこの法華説相図は

金銅千体仏とも

金銅釈迦仏一千体ともいわれ

「千体仏」が施されております。

 

他にも「千」や「三千」に

関連して述べられることは

沢山あるかと思いますが

様々な意味合いや伝統がある

ということが少しでも

伝えることは出来たでしょうか。

 

こういった観点から

学秀千体仏に

アプローチすることは

有意義なことと思われます。

 

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平成最後の春彼岸の中日

春彼岸の中日は

本年も多くの方が

お参りにいらっしゃいました。

 

当山では彼岸中日に

位牌堂の位牌段各所に

お膳を上げておりますが

今朝も早くからお手伝い頂き

準備をして頂きました。

 

後片付けにおきましても

駆けつけて下さった方々の

お力添えも頂き

滞りなく大きな行事を

終えることが出来ました。

 

それにしても

ここ2、3日の

花粉飛散は凄まじいものがあり

今朝も黒板消しをはたいた際の

チョークの粉の如くに

杉の枝から黄色い花粉が

わんさか飛んでおりました。

 

そのような1日でしたが

秋彼岸中日法要も

無事にお勤めさせて頂き

ご参列の皆様と共に

「平成最後の彼岸法要」にて

祈りを捧げさせて頂きました。

 

▼法要の様子(youtube)

https://www.youtube.com/watch?v=z_g6cerrLWY

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暖かさと彩りと

平成最後の春彼岸三日目は

初夏並の暖かな日和となりました。

 

当山本堂では

長年にわたり当山役員を

お勤め下さった方の

葬儀が執り行われました。

 

須弥壇(しゅみだん)には

生花が沢山飾られました。

 

暖かな日和に

色とりどりの生花は

生前のお人柄に

通じていたように感じます。

 

いつもにこやかで

優しさに溢れる

お人柄であった故人様は

これからも有縁の皆様を

見守って下さると思います。

 

精八さん

長い間お世話になりました。

 

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かけがえのない時間

NHK文化センター八戸教室で

平成23年春より担当してきた

講座「初めての御詠歌 豊山流入門」は

本年3月19日が

最後の講座日でした。

 

8年間にわたり

拙僧(副住職)自身も

学ばせて頂きながら

ご参加の皆様に色々と

お伝えさせて頂きました。

 

光栄なことに

長年受講された方々より

最後に御礼を頂戴いたしました。

 

大変ありがたく感じております。

 

この場所で

御詠歌により結ばれた皆様と

ご一緒させて頂いた

かけがけのない時間は

忘れることはないでしょう。

 

▼お唱えの様子(youtube)

https://www.youtube.com/watch?v=r-WAeCLgE8Q

 

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役目を終えたランドセルを集めます

3/21〜5/3の期間で

当山では使い終えたランドセルの

回収を行います。

 

日本で役目を終えたランドセルを

アフガニスタンへ贈る

想い出のランドセルギフト

を昨年に引き続き

本年も開催します。

 

当活動に

ご賛同頂ける方

ご協力頂ける方

いらっしゃいましたら

ご協力の程よろしくお願いいたします。

 

▼詳細はコチラ▼

https://fugenin643.com/blog/使い終えたランドセルをアフガニスタンへ/

 


【ランドセルギフト概要】

使い終えたランドセル

未使用の文房具

をアフガニスタンへ贈ります

 

・回収期間:本年3/21〜5/3

・協賛費:ランドセル1個につき3000円

(アフガニスタンへの輸送経費)

 

・ワークショップ&梱包作業

本年5/3午前10時〜12時頃


 

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彼岸と南祖坊

春彼岸(はるひがん)を

迎えようとしております。

 

当山は

十和田湖南祖坊(なんそのぼう)伝説

ゆかりの寺院ですが

春と秋の彼岸の時季に

南祖坊が来臨するという

いわれがございます。

 

江戸期になると

当山本坊の盛岡永福寺は

盛岡に建立されますが

盛岡においても

彼岸に南祖坊が来臨するという

慣習は引き継がれていたことが

近世の史料から

読み取ることが出来ます。

 

※関連記事↓

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相⑨/

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相⑩/

 

行事や儀式というものは

そこに通わされている「意味合い」や

「物語」ともいえるような筋書きが

現在において「体現」「再現」される

とても大切なものといえます。

 

当山は古い歴史のみならず

様々な伝承に彩られた古刹なので

それらを後世に伝える意味においても

様々な「意味合い」「物語」に

触れて頂けるよう

つとめることが必要だと

最近は感じております。

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古代の祈りの痕跡とお寺の起源

錫杖(しゃくじょう)状鉄製品

といわれる遺物が

当地の上七崎での

遺跡調査(平成6年(1994)実施)で

発掘されております。

 

八戸市の

遺跡台帳番号03268

上七崎遺跡

『新編八戸市史』によると

平安以前のものとされますが

出土遺物は概ね

10世紀後半のものとしております。

 

錫杖(しゃくじょう)は

現在でも修法や儀式で用いられる

法具(ほうぐ)です。

 

同資料によれば

宗教儀礼等に用いられていたと

考えられる錫杖状鉄製品は

北東北を中心に

発見されていたものの

用途は不明だったようで

上七崎遺跡出土の錫杖状鉄製品が

完存品で発見されたことにより

現在用いられている錫杖のように

用いることで音が発せられることが

初めて明らかになったそうです。

 

9世紀頃〜10世紀には

七崎の地において法具が

用いられ祈りが捧げられていた

ことを伝えているといえるでしょう。

 

また当地の滝谷(たきや)地区の

蛇ケ沢(じゃがさわ)遺跡では

9世紀後半から10世紀初頭の

竪穴式住居跡3棟が見つかっており

そこでカマドにまつわる

宗教儀礼があったものと

想定されているそうです。

 

また同遺跡では

鋤(すき)・鍬(くわ)先が

3枚重なった状態で納められており

「当時貴重品であったと思われる

鉄製品をどのような理由で

納めたのか

この集落を考える上で

注目される事例」だそうです。

 

※遺跡関係の記述は

全て『新編八戸市史 』の

考古学資料編と地誌編を

参考にしております。

 

それぞれの遺跡は

古代の祈りの痕跡を伝えます。

 

当山は

開創は圓鏡上人

(延暦弘仁年間(8C下旬〜9C初頭))

開基(開山)は行海上人

(承安元年(1171))

中興開山は快傅上人

(享保年間(1716〜1736))

とされまして

ルーツは平安初期にさかのぼります。

 

当地の住所にも残る

「永福寺」という寺号は

甲州南部郷より遷座され

三戸沖田面に建立された

新羅堂の供養を

鎌倉の二階堂永福寺の僧侶

宥玄(ゆうげん)が勤めたことに

由来するとされます。

 

鎌倉では

永福寺を「ようふくじ」と

読んでおります。

 

鎌倉時代の歴史書(とされる)

『吾妻鑑』(あずまかがみ)

宝治2年(1248)2月5日条には

文治5年(1189)12月9日

永福寺事始あり

とあります。

 

ついでですが

鎌倉は中世において

密教の一大拠点でした。

 

さらに

鎌倉ついででいえば

鎌倉の長谷寺は

当山本山である

奈良の長谷寺と

深く関わるお寺です。

 

鶴岡八幡宮寺

勝長寿院

二階堂永福寺

の三学山は鎌倉の密教を

考える上で重要な寺院といえます。

 

二階堂永福寺は

平泉の大長寿院を模して

建立されたとされますが

現在は廃寺となっております。

 

諸説ありますが

“鎌倉三学山”の1つである

二階堂永福寺の僧侶である

宥玄が新羅堂供養を勤めた

「供養料」として

沖田面村に一宇お堂が建立され

宥玄をそのお堂の住職として

永福寺と号したそうです。

 

また

三戸沖田面村と五戸七崎村を賜ったと

近世の史料は伝えております。

 

この近世の史料とは

『たけたからくり』(文政6年(1823))

という文書でして

幅広く貴重な情報を今に伝えるものです。

 

同史料では

七崎(ならさき)に古くから

観音堂があったことにも

触れております。

 

また観音堂は

宗旨も不定で寺号もなく

こちらの「住職」ともなった

宥玄が永福寺の

僧侶であったことから

「時の人挙げて」永福寺と

呼ぶようになったとも

記されております。

 

史料の伝える時期を踏まえると

この二階堂永福寺・宥玄の時期は

行海上人開基の少し後となります。

 

この行海上人は

現在の七崎神社の地に

七つ星(北斗七星または七曜)

の形になぞらえて

杉を植えたとされます。

 

現在の七崎神社にそびえる

3本の大杉(樹齢800〜1000年)は

その時のものだといわれ

行海上人の時代の頃と重なります。

 

当地には

時の天皇の怒りに触れ

平安初期に

当地へおいでになられた

藤原諸江(もろえ)卿が

9本の杉を植えたとの伝説もあり

現在の七崎神社の地の

大杉はその時のものという

いわれもあります。

 

当地に見られる

久保杉(くぼすぎ)という名字は

「9本の杉」から来ており

藤原氏の流れをひいていると

伝えられております。

 

郷土史研究などでは永福寺は

「七崎から三戸に移った」と

よく説明されますが

「移った」という表現は

当てはまらないように思いますし

かなり違和感を覚えます。

 

古い時代の有力寺社は

所領を当地以外にも

持つ場合が多く見られるので

そういったことも

踏まえる必要があるかと思います。

 

永福寺は

「永福寺」という寺号が

用いられる以前に遡及して

その縁起が編まれてゆきます。

 

「永福寺縁起」として

総本山長谷寺とゆかりのある

坂上田村麻呂将軍が

十一面観音を本尊として

奥州「田村の里」七崎に

お寺を建立したという

縁起も伝えられております。

 

『長谷寺験記』(はせでらげんき)

(建保7年(1219)頃までに成立)

という鎌倉期の霊験記の

田村将軍が奥州一国に

十一面観音を本尊として

6ケ所にお寺を建立した話が

同書上巻第5話に収録されており

これが田村将軍創建伝説の

根拠となっているかもしれません。

 

今回とりあげた

『たけたからくり』は

文政6年(1823)に書かれた

近世の史料なので

当時の盛岡における

永福寺縁起がどのように

語られていたのかが

垣間見られるものですし

七崎の地が観音様と

強く結び付けられて

意識されていたであろうことが

よく伝わってまいります。

 

当山開基の行海上人は廻国僧で

当地の大蛇を改心させたことで

地域の住民から

当地に留まるよう

懇願されたため

草庵が結ばれ

普賢院が開基されたと

伝えられます。

 

十和田湖伝説の

南祖坊(なんそのぼう)は

行海上人の弟子であるとも

伝えられております。

 

当山開基の時代を

さらにさかのぼり

弘仁初期頃(810頃)

圓鏡上人により

当山は開創されたとされます。

 

「弘仁初期頃」となっているのは

拙僧(副住職)の見解では

『先師過去帳』に

当山開創 圓鏡上人が

弘仁7年(817)5月15日に御遷化

されていることに

由来していると思います。

 

弘仁年間は810〜824年なので

『先師過去帳』に記される

開創上人の没年を踏まえて

「弘仁初期頃」としているのだと

考えられます。

 

開創や開基の時代には

当地において

「祈り」が捧げられていた

可能性が高いことを伝える

上七崎遺跡と蛇ケ沢遺跡。

 

他の遺跡でいえば

夏間木地区の遺跡は

浅水川流域の数少ない

奈良時代の集落であることが

確認されておりますし

喉平(のどひら)遺跡には

縄文時代後期の小規模集落が

あったと見られており

当地にはその時代には

集落があったことが伺えますし

祭祀に用いられたと見られる

土偶も出土しております。

 

当山草創期に思いをはせるにあたり

当地の各遺跡が伝えることに

耳をしっかりと傾けたいと思います。

 

【関連記事】

▼南祖坊伝説の諸相⑤

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相⑤%E3%80%80長谷寺と南祖坊%E3%80%80その参/

 

▼錫杖状鉄製品

(『新編八戸市史 地誌編』p.576。)

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美しき梵字

八戸にゆかりのある

思想家でもある安藤昌益

(あんどうしょうえき、1703〜1762)。

 

拙僧(副住職)にとっては

ただ名前を知っていて

昌益思想を代表するフレーズを

2、3程知っている位でして

詳しいことは分かりません。

 

調べ物で

『新編八戸市史』(近世資料編Ⅲ)

を読んでいたところ

昌益関係の資料として

掲載されている

『詩文聞書記』(延享元年(1744))

の翻刻と原本の写真が

目に止まりました。

 

調べてみると

『詩文聞書記』とは

八戸市の天聖寺(てんしょうじ)第8世

則誉守西(そくよしゅさい)上人

記された昌益の講演会の

覚書だそうです。

 

なぜに目が止まったのかというと

梵字が書かれていたからです。

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梵字を用いるのは

真言宗だけではありませんが

殊に真言宗は

真言陀羅尼宗(しんごんだらにしゅう)

ともいう程ですので梵字を

深く学ばなければなりませんし

日常的によく

読んだり書いたりするので

梵字に目が止まるのも

拙僧(副住職)にとっては

ごく自然なことです。

 

掲載されている梵字を見てみると

陀羅尼(だらに、梵字のお経・文言)

というわけではなく

『観無量寿経』の一節や文言

浄土宗や浄土真宗の

お祖師様の一人である

善導(ぜんどう)上人の文言

などの「音」と同音の梵字が

書かれておりました。

 

厳密な音の対応とは

いえませんが

経文や論書の文言

一字一字の「読み」につき

一音一音の梵字が概ね

当てられております。

 

則誉守西(そくよしゅさい)上人

現在の糠部三十三観音霊場の

札番(札所の番号)を

定められた方といわれます。

 

中世以降

和歌は陀羅尼に通じる

尊いものであるとする

「和歌即陀羅尼(わかそくだらに)」

という考え方が出てまいります。

 

今回取り上げた書物は

「詩」をテーマにしているので

和歌や漢詩や陀羅尼に

通底するところについて

昌益が触れつつ講演したのだろうかと

想像を膨らませております。

 

それにしても

(直筆かどうかは分かりませんが

これが直筆だとすると)

則誉守西上人の梵字は

とても絶妙だと感じました。