“蘇る”不動明王脇侍の二童子像

不動明王の脇侍(わきじ)である

矜羯羅童子(こんがらどうじ)

制多迦童子(せいたかどうじ)

という童子像を

弘前にお住まいの

仏師・小堀寛治さんに

作仏して頂きました。

 

小堀さんが手がけられる御像は

とても柔らかで優しい雰囲気を

まとわれています。

 

今回仕上げて頂いたお仏像もまた

仏師さんのお人柄の如く

慈悲に溢れるような

お姿をされていらっしゃいます。

 

当山は文化7年(1810)に

本堂が火災に見舞われており

その際に二童子像が焼失したと見られます。

 

謹んでお祀りさせて頂きましたが

200年以上の時を超え

久しぶりに脇侍を従えた不動明王像が

一層神々しく感じられます。

 

新本堂の基本設計が定まってまいりました

長い間使われることなく

本堂の床下に置かれ

かなり傷んでいた

礼盤(らいはん)という台座を

五戸木工さんに塗り直して頂きました。

 

新本堂では子安地蔵を祀る地蔵堂の

スペースを現状よりも広くとり

お堂の配置を変える予定です。

 

具体的には

本尊内陣に向かって

右側奥を地蔵堂といたします。

 

その地蔵堂で

こちらの礼盤を設えようと

考えております。

 

新本堂の間取りが

大まかにですが

定まってまいりました。

 

8月25日に開催された

建設委員会において

基本設計の方向性の

承認を頂きました。

 

本設計は本堂建替をご担当頂く

業者さんを決定した後に

詰めていくことになります。

 

本堂建替事業はまだまだ道半ばですが

とても大切な段階を迎えているので

慎重に重要事項の決定を

重ねていきたいと思います。

 

千手観音坐像の厨子を仕上げて頂きました

田子町出身の高僧である

奇峯学秀(きほうがくしゅう)御作の

千手観音坐像。

 

本年2月に

学秀仏(奇峯学秀作仏の仏像の意)であると

確認されてから

本格的に調べた所

この仏像は享保期の当山中興の頃に

当山に納められたと見ております。

 

学秀仏の千手観音は

現時点で他に作例が無いようです。

 

現在当山では

本堂建替事業を推進しており

その事業の中で

仏像仏具の修繕等にも

取り組むことにしております。

 

その一環として

学秀御作の千手観音坐像を安置する

厨子(ずし)の製作を

五戸木工の中野久男さんにお願いした所

とても立派な厨子に仕上げて頂きました。

 

感嘆させられるような

素晴らしい厨子を製作して頂き

心より感謝しております。

 

この千手観音坐像は

“美術的”にも歴史的にも

大変貴重な仏像といえます。

 

後世においても

祈り継ぎ

護り継い

語り継いで頂ければと思います。

 

サハリン追悼慰霊供養の旅へ行ってまいりました

8/26〜29の日程で

拙僧(副住職)は

追悼慰霊供養の墓参(ぼさん)団の

一員として

サハリン(旧・樺太)へ

行ってまいりました。

 

参加者21名のうち

拙僧(副住職)含め僧侶は4名でした。

浦臼の樺戸山 金剛寺(高野山真言宗)

ご住職・米田弘明大僧正

(写真左から2番目の方)

 

恵庭の金比羅山 弘隆寺(高野山真言宗)

ご住職・秋山有洋僧正

(写真右から2番目の方)

 

旭川の成田山 大聖寺(真言宗豊山派)

ご住職・伊藤聖健僧正

(写真一番左側の方)

 

以上3名のご住職と

お勤めをご一緒させて頂きました。

 

今回は拙僧(副住職)と同じく

現代教化研究所の研究員である

伊藤聖健僧正にお声がけ頂き

参加させて頂いた次第です。

 

米田大僧正は平成3年から

この墓参(ぼさん)を

サハリン各地で重ねられて

いらっしゃいます。

 

秋山僧正と伊藤僧正は

それぞれの先代住職の代より

米田大僧正と共に

墓参(ぼさん)をされておいでです。

 

サハリンは

終戦後に旧ソ連軍の侵攻により

5000とも6000ともいわれる方が

亡くなったんだそうです。

 

多くの方は

遺骨収集がされていないそうです。

 

日本人墓地や慰霊碑が

サハリン各地にあるのですが

誰にも手を合わせられることもない所や

全く手入れがされておらず

雑木林に埋もれてしまい

“忘れ去られ”ようとしている所も

多いと聞きました。

 

今回の墓参追悼慰霊供養の旅では

ユジノサハリンスク(旧・豊原)

ホルムスク(旧・真岡)

コルサノフ(旧・大泊)へ

赴かせて頂きました。

 

これまでサハリンのことを

多くは知りませんでした。

 

沢山のことを

考えさせられた4日間でした。

 

今回の参加者の多くは

樺太出身の方や

ご両親が樺太出身であるなど

樺太とご縁のある方でした。

 

当時のことを知る皆様のお話しは

とても生々しく

臨場感すら覚えるようなものばかり。

 

本当に貴重な体験でしたし

大切なことを教えて頂いたように感じます。

 

 

▼熊笹峠のトーチカにて

※トーチカは防空壕や見張り台の

ようなもののことをいうそうです。

 

▼ホルムスク(旧・真岡)にて

 

▼コルサノフ(旧・大泊)日本人墓地にて

 

▼ユジノサハリンスク(旧・豊原)にて

 

▼サハリン州郷土博物館(旧・樺太庁博物館)

【参加者募集中】9/25寺子屋ワークショップ『写経カフェ』

9/25

午前10時より

寺子屋ワークショップ

写経カフェ

が開催されます。

 

▼『写経カフェ』の様子(2019/7/25)

https://www.youtube.com/watch?v=C5bojEpebbM

 

寺子屋ワークショップで

お納め頂く御浄財の一部は

アーユス仏教国際協力ネットワーク

への寄付を通じて

国際協力活動に活用されます。

 

寺子屋ワークショップに

ご参加頂き精進頂くことが

そのまま国際協力活動に重なります。

 

参加者を募集しておりますので

ご参加される方は

お気軽にお問い合わせ下さいませ。

 

※担当者が不在の場合が多いので

ご連絡は下記アドレスへ

メール頂けると助かります。

fugenin643@gmail.com

 

日程:令和元年9月25日

時間:午前10時〜正午頃

会費:1500円

会場:普賢院ふれあい豊山館

定員:24名

 

津軽の名所 髙山稲荷

津軽に鎮座する

髙山稲荷(たかやまいなり)。

 

案内板によると

鎌倉時代から室町時代にかけて

このあたりを統治していた

豪族の安倍安東(藤)氏の創建と

伝えられるそうです。

 

また同案内によると

こちらの稲荷社は

播磨国赤穂藩主

浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)

の江戸城中での刃傷事件による

藩取りつぶしの際

赤穂城内に祀っていた

稲荷大神の御霊代を

藩士の寺坂三五郎が奉戴し

流浪の果て津軽の弘前城下に寓し

その後鰺ヶ沢に移り住み「赤穂屋」と号し

醸造業を営み栄えたそうです。

 

その子孫が渡島に移住するにあたり

この髙山の霊地に祀れとのお告げにより

遷し祀ったと伝えられるようです。

 

稲荷信仰は

全国的に隆盛したもので

当山にも江戸期の稲荷大明神が

境内に祀られますし

堂内にも御像が祀られ

大切にされております。

 

髙山稲荷の境内はとても広く

社殿などもとても立派で

篤く敬われていることが

伝わってまいりました。

 

せっかくなので

拙僧(副住職)も同行した家族とともに

心願成就を願い宮司さんに

ご祈祷して頂きました。

 

ねぶたと田村将軍伝説

青森のねぶたは全国的に有名です。

 

ねぶたの起源には諸説ありますが

坂上田村麿将軍の伝説が

伝えられております。

 

毎年優れた団体を表彰する

「ねぶた大賞」という栄えある賞がありますが

少し前までこの賞は

「田村麿賞」という賞名でした。

 

青森駅のすぐそばにある

ワ・ラッセには

受賞した6台のねぶたが

展示されております。

 

ねぶた大賞を受賞したねぶたをはじめ

美しく迫力満点のねぶたは圧巻です。

 

是非多くの方に

ご覧頂きたいです。

 

ねぶたついでに

もう少しだけ田村将軍について

触れさせて頂きたいと思います。

 

田村将軍の伝説は

青森県内各所に見られますが

当山にも田村将軍創建伝説が

伝わっております。

 

当山の創建伝説というのは

田村将軍が奥州六観音の一つとして

七崎に十一面観音を祀ったというものです。

 

当山の現在の本尊は愛染明王ですが

かつては十一面観音を

本尊としております。

 

少し脱線しますが

いつの頃のものかは不明ですが

当山が所蔵する古い版木(はんぎ)で

観音菩薩のお姿と

七崎山 普賢院」の字が彫られている

ものがあります。

 

七崎山は観音山とも呼ばれており

当地周辺を指しますし

現在の七崎神社の地にあった

旧観音堂(寺号・徳楽寺)の

山号としても用いられていました。

 

普賢院においても七崎山の山号が

用いられることがあったということを

版木は伝えております。

 

全てというわけではありませんが

田村将軍伝説は

十一面観音と関わりが深いものが

多く伝えられます。

 

当山に伝わる

田村将軍創建伝説も

十一面観音との関係で

語られております。

 

ここでいう田村将軍は

“歴史上の人物”の枠組みを超えた

“神仏に連なるもの”(権者)といえます。

 

こういった視点は

伝説と向き合う際に

必要だと思います。

 

熊野権現と十和田湖の十湾寺

青森市油川の熊野社と

十和田湖十湾寺(とうわんじ)について

先日ブログでとりあげましたが

今回はその十湾寺について

もう少しだけ触れたいと思います。

 

中道等氏の

『十和田村史』(上巻)

(青森県上北郡十和田村役場、昭和30年)

にはかつて十和田湖にあった

熊野山 十湾寺について触れらた

史料が紹介されておりますが

それを記した僧侶が

当山先師の廣宥(こうゆう)大和尚です。

 

十湾寺は史料によっては

十涯寺とも十瀧寺とも記されます。

 

当山は鎌倉期から江戸初期にかけ

永福寺の寺号が用いられておりましたが

盛岡に永福寺の本坊が

建立されて以後は

本坊永福寺に対し

旧地である七崎(現在の豊崎)の

永福寺を自坊 普賢院とし

同じく旧地である三戸の永福寺を

自坊 嶺松院(れいしょういん)としました。

 

当山と同じく自坊であった嶺松院は

寛文年間(1661〜1673)に焼失したと

『新撰陸奥国誌』には記されます。

 

廣宥大和尚が

本坊永福寺45世住職を担うわけですが

史料を見てみると

本坊永福寺44世良光大和尚が

元禄12年(1699)に下総の観福寺へ

行かれることになり

永福寺住職を辞められた後

45世の廣宥大和尚が就任される間

如常

堯意

堯誉

以伝

という方々が「住職」を

されております。

 

南部藩における冠寺であった

本坊盛岡永福寺の

正式な住職になるためには

様々な条件が必要だったことと

このことは関係しております。

 

廣宥大和尚は

法明院住持をつとめられ

後に当山本坊盛岡永福寺45世も

つとめられた方で

当山先師過去帳にも

当山歴代先師墓の墓誌にも

その名を連ねられていらっしゃいます。

 

法明院は永福寺末寺ですが

江戸後期に本末関係をめぐり

“いざこざ”があった

寺院でもあります。

 

さて

余談が過ぎてしまいましたが

以下に中道氏の書き下し文の

一部を引用いたします。

(カタカナ表記をひらがなに改めました)

 


陸奥南部糠部郡の奥瀬村に

十和田と号する沼あり

 

奇代の霊沼にして

塵俗を離る数百里

城下を去ること数千里

 

峩々(がが)たる高山は峰を並べ

黄々たる灌木は枝を連ね

萋萋(せいせい)たる

葛藟(かつるい)は道を塞ぐ

 

既にして

虫類禽獣たりといえども

輙(たやす)く上ることを得ず

 

清々たるの池に臨みて之を見れば

洪々たる海水は崎を敲(たた)き

潺緩(せんかん)たる波浪は砂を洗ふ

 

譬えば魍魎鬼神たりといえども

謾(みだ)りに池の辺(ほとり)に

近づく能わず

 

誠に和漢无雙(むそう)の霊沼なり

 

是の沼の来由を尋ねしむるに昔

人王七代の帝 孝霊天皇の

治世七十六年壬子の暦(とし)の六月

湧き出たりと云々

 

此沼の主に八郎太郎と云う大竜あり

 

諸(もろもろ)の眷属八竜王

前後左右を囲繞(いぎょう)し

渇仰(かつごう)して常に之を

守護すること歳久しかりき

 

其後

人王五十一代平城天皇の御宇

大同二年丁亥の年八月

南宗比丘(なんそびく)

新たに霊夢を蒙り

彼の八竜を追出して

則ち池の主とはなりぬ

 

斯の時

悉く隣里郷党奔(はし)り集まりて

七堂伽藍を建立し

熊野三所権現を勧請し奉りて

熊野山十涯寺と号したり


 

ここには僧侶ならではの

言い回しが見られます。

 

十湾寺についてのみならず

十和田湖伝説の“ダイジェスト”を

どのように捉えていたのかを

窺い知ることが出来るように思います。

 

▼自籠岩より見た十和田湖(西湖)

歴史ロマン〜国道4号線の魅力〜

8/23は拙僧(副住職)長女の

幼稚園の遠足で

岩手県立児童館いわて子どもの森

行ってまいりました。

 

いわて子どもの森は

奥中山高原にある

とても素晴らしい施設です。

 

朝8時半に大型バス2台で

五戸の江渡(えと)幼稚園を出発しました。

 

幼稚園の遠足なので

立ち寄ることは出来ませんでしたが

国道4号線で南下する道中には

多くの史跡や見所があります。

 

自身で運転している時は

外の景色をじっくり

観察することは出来ませんが

今回は娘の隣に座りながら

スマホの地図を片手に

じっくりと景色を堪能出来ました。

 

サハリンへ行ってまいります

8月26日から29日まで

拙僧(副住職)はサハリン(旧樺太)へ

行ってまいります。

 

サハリンは北海道の

さらに北に位置する

巨大な島です。

 

旭川の成田山大聖寺ご住職で

拙僧(副住職)と同じ

現代教化研究所の研究員でもある

伊藤聖健師にお声がけ頂き

第53回サハリン平和の翼へ一僧侶として

参加させて頂くことになりました。

 

参加者名簿を見ると今回の旅団は21名で

そのうち僧侶は拙僧(副住職)含め4名です。

 

多くは北海道の方で

旧樺太で出生された方など

旧樺太とゆかりのある方のようです。

 

拙僧(副住職)にお声がけ下さった

伊藤聖健師も先代住職である

ご尊父様が旧樺太出身です。

 

慰霊追悼の式典の他

郷土博物館やロシア正教会にも

立ち寄る予定となっております。

 

拙僧(副住職)はサハリンについて

ほとんど知らないので

下調べをしてみましたが

とてもデリケートな問題もあり

色々と考えさせられます。

 

自身の役目を果たしつつも

多くを学び多くを感じてきたいと思います。