十和田山青龍大権現とは何者ぞ

当山は

十和田湖南祖坊(なんそのぼう)伝説と

ゆかりのあるお寺です。

 

その伝説とは

南祖坊という僧侶が

十和田山青龍大権現

(とわださんせいりゅうだいごんげん)

という龍神になる物語です。

 

南祖坊は

当山にて修行されたとされます。

 

当山では観音堂に

南祖坊の御像である

南祖法師(なんそほっし)尊像が

お祀りされております。

 

一昨年に南祖法師尊像が

「発見」されたことを契機として

当山では“本腰を入れ”て

整理を進めております。

 

「仏教的な見地から」整理を進める中で

興味深いことが浮かび上がってきたり

つながりが見えてきました。

 

一気に全部をここに

記すことは出来ませんが

覚書も兼ねて

十和田山青龍大権現の

ルーツについて

仏教的な見地から

ご紹介させて頂きます。

 

大権現という言い回しは

尊称なので

以下「青龍権現」とさせて頂きます。

 

永福寺の伝えでは

永福寺5世の月躰(がったい)法印の

弟子であった南祖坊が

神護寺(じんごじ)の

清瀧(せいりょう・せいりゅう)権現

十和田湖畔の休屋(やすみや)に

勧請(かんじょう)したのが

青龍権現だとしております。

 

「永福寺5世の月躰法印」は

当山では「月法律師」とされており

当山二世の住職となっております。

 

この清瀧権現は

弘法大師空海と

深く関わる龍神です。

 

さらには空海以後の

恵運(えうん)

宗叡(しゅえい)

聖宝(しょうぼう)といった

真言宗における諸大徳(だいとく)にも

まつわる権現で

それはそれは深い意味を持ちます。

 

十和田湖南祖坊伝説では

南祖坊が入定して青龍権現になる

というストーリーですが

永福寺の伝えでは

南祖坊が清瀧権現を勧請して

祀ったのが青龍権現であるとしており

この違いはとても重要なポイントです。

 

青森県内では十和田湖の神様は

女性であるとする地域がありますが

南祖坊が勧請したとされる清瀧権現は

“女性の龍神”なので

それを踏まえると諸説に通じる部分が

増えるかと思います。

 

清瀧権現は

善如(女)龍王(ぜんにょりゅうおう)

ともいいます。

 

弘法大師空海の師で

かつての唐の皇帝に

篤く信頼されていた恵果(けいか)という

阿闍梨(あじゃり)がいらっしゃいます。

 

恵果阿闍梨は長安の

青龍寺の方ですが

この青龍寺の名は

青龍権現(清瀧権現)に由来します。

 

「清瀧権現」は当初「青龍権現」であり

「氵」(さんずい)はついておりません。

 

恵果阿闍梨は

青龍を勧請して鎮守としたことに由来し

お寺の名が青龍寺になったとされます。

 

青龍に「氵」がつくのは

弘法大師空海が唐に渡って

日本に戻って以後の話です。

 

細かなエピソードを紹介すると

相当なボリュームになるので

割愛しますが

海波をしのいで日本へ来たことを顕して

青龍に「氵」をつけ清瀧と改めたとされます。

 

弘法大師空海は

天長年間に請雨法(しょううぼう)という

“雨乞い”の修法(しゅほう)を行い

その際に善如龍王(清瀧権現)が現れたとの

伝承があります。

 

その場所が

神泉苑(しんせんえん・しんぜんえん)です。

 

神泉苑の名は

現在も十和田湖の聖地の呼び名として

使われております。

 

以前から感じていたのですが

十和田湖にはそれ以外にも

仏教(殊に密教系)に由来する

名称が見られます。

 

余談ですが

当山の本尊である

愛染明王(あいぜんみょうおう)は

清瀧権現との関係で見るならば

修法において深く関わっております。

 

当山は

宝暦13年(1763年)に愛染明王堂を

再建したと棟札に書かれております。

 

その後文化7年(1810年)に火災に遭います。

 

その年に

盛岡永福寺より現在の本尊である

愛染明王像が贈られており

翌年に本堂が再建されております。

 

江戸時代文化期の南部藩の財政は

低迷期であり

当山本堂の再建にあたっては

富籤(とみくじ)発行が許可され

資金の一部にあてられております。

 

火災の翌年に本堂が建立され

しかも愛染明王像が

贈られているという歴史からは

いかに七崎が大切であるかということと

愛染明王を祀ることの重要性を

読み取ることが出来るように思います。

 

愛染明王という尊格は

最極深秘(さいごくじんぴ)の仏とされ

愛染明王が説かれるお経である

金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経

(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)

という経典は

高野山の金剛峯寺の寺名の基です。

 

真言宗の読誦経典として最も重要な

『般若理趣経』(はんにゃりしゅきょう)

というお経がありますが

この教主は愛染明王とされます。

 

当山において

愛染明王堂が再建されたり

愛染明王像が当山に贈られたりした

少し前の永福寺住職がしたためた

多くの次第の中に

愛染明王関連の次第が幾つか見られます。

 

その内容にまで

踏み込んで説明するには

相当な時間がかかるので

これも割愛しますが

愛染明王を“龍の本地”とする

修法の次第が見られます。

 

これには

両部大日如来

不動明王

如意輪観音

准胝観音

如意宝珠(にょいほうしゅ)など

多くの要素をからめての説明が

必要となりますが

「秘説」「口伝」として

師資相承されてきた修法を

紐解くことで

十和田山青龍権現を

これまで以上に躍動的でかつ

壮大なスケールで

捉えることが出来るかと思います。

 

これまでの諸要素を踏まえて

当山の歴史をかえりみますと

十和田山青龍権現の

“本地(ほんじ)”として

愛染明王を当山に祀った

という可能性が出てまいります。

 

そしてその可能性は

かなり高いと思われます。

 

青龍権現のルーツであるとお伝えした

清瀧権現の本地は「通常」であれば

如意輪観音と准胝観音ですが

修法においては本地仏として

様々な尊格が立てられることは

珍しいことではありません。

 

祈祷寺において修法というのは

とても重要なもので

“高位”な阿闍梨でなければ

修法することが許されなかったものは

数多く存在しており

その中には愛染明王関係のものが

多く含まれまれております。

 

話があちらこちらに

飛んできたので

根本的な所を整理すると

十和田山青龍権現のルーツは

清瀧権現であり

南祖坊により

勧請され祀られたものだと

永福寺では伝えております。

 

修法や作法といった分野のことを

事相(じそう)といいます。

 

いわゆる密教と呼ばれる

真言宗や天台宗において

事相は極めて重要なもので

非常に多くの伝えがあります。

 

今回は主に事相を踏まえて

青龍権現を紐解いてみましたが

とても面白い指摘を

出来るように思います。

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合葬墓と斗南藩の供養碑を考える

当山では本堂裏手墓地に

合葬墓(がっそうぼ)の建立を

考えております。

 

当山には多くの御寺院さまのように

一般分譲してお使い頂くような

境内墓地はありません。

 

当山にある境内墓地は

歴代住職の墓所と

現住職家関係の墓所と

有縁の方のお墓が2基あるだけで

檀信徒の皆様の墓地は

各地域の共同墓地か

各地霊園にございます。

 

当山の境内墓地は

スペースに限りがあるので

大きなものは建立出来ませんが

有縁の方にご安心頂けるように

出来る形で合葬墓を

建立したいと考えております。

 

まだ公な話ではないのですが

現実的な話として

建立するとすれば現在

斗南藩の方々の墓石が並べられている

場所への建立となろうかと思われます。

 

斗南藩の方々の墓石に関しては

本堂建替事業に際して

隣接地を境内地として取得する

手続きを進めているので

少し広がる境内地の部分に

墓石を移させて頂き

そちらに供養碑を建立しようという

考えを持っております。

 

斗南藩の歴史は

後世に伝えるべきものであると思いますし

ご縁があって当山で弔われた方々の

ご供養をきちんとした形で

行いたいと考えております。

 

合葬墓に関してですが

当山本堂入口脇の不動明王像を

合葬墓の本尊として

計画を進めたいと思っております。

 

こちらの不動明王像は

拙僧(副住職)の弟が

洪水で亡くなったことを契機とし

父である当山住職が

三界萬霊供養(すべての方のご供養)の

ために切実な思いを託して

造立したものです。

 

拙僧(副住職)の弟は

大雨による浅水川の洪水で

平成11年10月28日お昼頃に

濁流にのみこまれ遭難しました。

 

28日は

不動明王の御縁日でもあります。

 

そういったことも踏まえ

拙僧(副住職)の弟の

ご供養と萬霊供養のために

造立されたのが

本堂入口脇にあります

不動明王像です。

 

合葬墓の本尊として

この不動明王に

有縁の方々をお守り頂きたいとの

思いを住職も拙僧(副住職)も

現在抱いております。

 

本堂建替もあわせて

総合的な見地から

まだまだ

詰めなければならないことが

山積みですが

多くの方のお心に寄り添える形を

整えたいと切願しております。

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少しずつ少しずつ

昨年9月末に

ご縁がありまして

当山が所属いたします

真言宗豊山派(ぶざんは)の

総合研究院 現代教化研究所なる

研究機関に籍を置かせて頂いて以来

「日々の研究も修行なり」との思いで

これまでにも増して

“探究活動”に励ませて

頂いております。

 

“探求分野”は幾つかありますが

その中の一つとして

当山が関係する

十和田湖伝説についても

これまで手薄であったと思われる

仏教的視点(正確には密教的視点)

を踏まえて調べを進めております。

 

ちなみにですが

十和田湖伝説については

当山との関係も含めて

大きな“発見”がありましたし

“最古の十和田湖伝説”とされる

説話が収録される『三国伝記』

という室町時代の書物と

当山の総本山である長谷寺に

大きな関わりが指摘されており

現代教化研究所の一員として

今後様々な方向で

テーマを設定出来ることが

個人的に確信を持てたことなどの

成果を得ることが出来ました。

 

時間はかかると思いますが

少しずつ形にしていきたいと

考えております。

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南祖坊伝説が生きるふるさと

当山のございます豊崎町は

歴史が古い地域で

様々な伝承に彩られております。

 

豊崎町は古くは

七崎(ならさき)といいますが

現在の豊崎町よりも

かなり広い地域だったようです。

 

様々な伝承のうち

有名なものとしては

南祖坊(なんそのぼう)伝説が

挙げられます。

 

南祖坊は当山の前身である

永福寺の弟子となり

諸国修行の果てに

十和田湖の龍神となったと

語られる方です。

 

この伝説発信の拠点は

七崎だったそうです。

 

当山より西側の方に

滝谷(たきや)という地域があり

当山と滝谷の間には

「南宗坊」という地名があります。

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ちなみにですが

南祖坊には様々な表記があり

南蔵、難蔵、南宗坊など

何種類かございます。

 

当山の過去帳によると

先に触れた滝谷という地域も

かなり古い地域です。

 

滝谷には天満宮があり

こちらもかつては永福寺が

管理していたそうです。

 

この天満宮は

七崎より十和田方面へ

修行に向かう者が

立ち寄った場所と伝えられます。

 

南祖坊も立ち寄ったとの

伝承もあるそうです。

 

当山と滝谷の間には

南祖法師(なんそほっし)像が

お祀りされている所があります。

 

南祖法師(なんそほっし)とは

出家した南祖坊の尊称です。

 

この像は地元の篤信の方が

昭和9年に建立されたものだそうです。

 

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伝承や伝説は

“文献学的な歴史”とは

似て非なるものです。

 

活き活きと語り伝えられてきた

伝説はその時代時代に

受け入れられ

今に至っております。

 

この地域に今も残る

伝承や伝説を“活き活き”と

後世に託していきたいと願います。

今に生きる八郎伝説

南祖坊(なんそのぼう)伝説には

八郎(はちろう)という

“キーパーソン”が登場します。

 

南祖坊は幼少期を

当山の前身である永福寺にて

過ごしたとされます。

 

八郎は

八郎太郎や八之太郎など

幾通りかの名前で呼ばれ

その由緒地は様々です。

 

南祖坊と八郎の伝説は

十和田湖の主であった

大蛇の八郎を

諸国修行の末に

十和田湖を永住の地と

見定めた南祖坊が解き放ち

青龍大権現として

十和田湖の新たな主となる

という筋書きです。

 

八郎が「生まれた」とされる

場所は様々ありますが

八戸市の南郷も

八郎が生まれた地と伝えられます。

 

そのご縁で

青葉湖(世増(よまさり)ダム)にも

“新たな八郎のエピソード”が

添えられております。

 

「伝説」は今もなお

生き続け語り継がれております。

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馬の守り神 蒼前

少し前に

ご縁がありまして

八甲田のブナ林を

乗馬でトレッキングさせて

頂きました。

 

トレッキングとは

山を歩くことです。

 

当山の地域も

かつては家々の多くが馬と同居し

馬がとても身近な地域でした。

 

当山の地元である豊崎には

蒼前神社(そうぜんじんじゃ)という

神社があります。

 

蒼前神社は「馬の守り神」とされ

蒼前様(そうぜんさま)と通称されます。

 

この蒼前様は

十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)の父である

藤原宗善(そうぜん)が祀られたものです。

 

『十和田山神教記』という書物に

南祖坊の父である藤原宗善の死後

一社が建立され

宗善を馬頭観音(ばとうかんのん)として

崇められたと記されております。

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現代の語り部を訪ねて

研究調査の一環で

十和田湖にて

ガイドをされていらっしゃる

十和田湖自然ガイドクラブ

皆様にお話をお伺いして参りました。

 

研究調査は

十和田湖伝説についてのものです。

 

当山は十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)が

修行されたと伝えられるお寺でして

そのご縁で十和田湖伝説について

調査をしております。

 

十和田湖自然ガイドクラブの皆様は

十和田湖の自然や動植物や歴史や伝説を

観光に訪れた方々へお伝えする

まさに“現代の語り部”です。

 

ガイドクラブの設立の経緯や

どのような形で

様々お伝えしているのかを

取材させて頂く中で

貴重な「昔話」や

看過してはならない

社会的事情や課題についても

聞かせて頂きました。

 

まだまだお聞きしたいことが

多々ありましたが

とても充実した時間となりました。

 

午後1時前に取材を終えた頃

外は雪が舞っておりました。

 

取材前日に

冬用タイヤから夏用タイヤに

はきかえたばかりだったので

帰路はある意味“スリル満点”で

恐る恐る車を走らせました。

 

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小川原湖伝説と十和田湖伝説

しじみで有名な

青森県の小川原湖(おがわらこ)。

 

その小川原湖と隣接して

姉沼(あねぬま)という大きな湖があります。

 

この姉沼と小川原湖には

姉妹の伝説が伝わります。

 

姉の玉依姫と妹の勝世姫。

 

姉妹は行方不明の父を探し

諸国を巡りこの地へ

たどり着きます。

 

そして父がすでに亡くなっていることを知り

姉妹は湖に身を沈めます。

 

姉の玉依姫が身を沈めた湖が姉沼

妹の勝世姫が身を沈めた湖が小川原湖(妹沼)。

 

その父は沼崎観音として

お祀りされております。

 

姉妹もそれぞれが

お祀りされる神社があります。

 

この小川原湖伝説は

姉妹の名称は異なりますが

十和田記(とわだき)という

十和田湖伝説が記された

文書にも登場します。

 

かなり前ですが

青森県史編纂グループの方より

頂いたお手紙の中に

江戸時代の「十和田信仰」の拠点は

当山と東北町の新舘(にいだて)神社

であることが解ってきたとの

ご報告がございました。

 

十和田湖への参詣路の

五戸口と七戸口の起点として

当山と新舘神社が重要な位置を

占めていたようです。

 

さらに新舘神社の「別当住職」は

江戸時代初めに七崎の禰宜(ねぎ)が

移転したものという由緒書が

確認されたそうです。

 

七崎(ならさき)とは

当山の地域のかつての呼び名です。

 

専門的なことも含め

様々踏まえて伝説と向き合うと

これまでは語らてこなかったものにも

多く言及することが出来そうです。

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根城南部氏の祈願寺 東善寺

八戸市博物館に隣接する

八戸史跡根城(ねじょう)の広場に

東善寺跡(とうぜんじあと)という

場所があります。

 

東善寺は真言宗のお寺で

根城南部氏が遠野へ移るにあたり

東善寺も遠野へ改められました。

 

当山と同じように

東善寺は南部氏の

祈願寺・祈願所という

位置づけのお寺でした。

 

根城の広場の東善寺跡には

墓地もあり

その中には僧侶の墓石も

並んでおります。

 

墓石には「豊山寺(ぶざんじ)」

という寺院名が見られます。

 

この豊山寺というお寺は

廃寺になってしまいましたが

八戸藩の祈願寺であった

真言宗のお寺です。

 

東善寺と豊山寺の両寺院は

深く関係するお寺です。

 

根城から見ると東善寺の位置は

鬼門である東北に位置します。

 

また当山と同じように

東善寺は小高い場所に建立され

そこからは広く景色を

見渡すことが出来ます。

 

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田舎本寺の永福寺

最近は当山にまつわる

歴史や伝説について

ご興味をお持ちの方が多いようです。

 

これまであまり

専門的にお伝えしたことは

ありませんでしたが

永福寺の歴史について

少しだけ専門的な見地から

ご紹介いたします。

 

当山の前身である永福寺は

江戸期には盛岡南部領において

田舎本寺(いなかほんじ)

触頭(ふれがしら)

という立場のお寺でした。

 

田舎本寺(いなかほんじ)とは

「地方の中核寺院」の意で

僧侶が修行・勉学を行う

談林(だんりん)という

大学のような養成機関も

兼ねておりました。

 

盛岡にて火災にあった後

「所化寮(しょけりょう)を再建した」

という記述が見られます。

 

所化(しょけ)とは

ご指南頂く者

修行する者

学生などの意味です。

 

要するに永福寺には

修行僧寮・学生寮があったことを

意味します。

 

触頭(ふれがしら)とは

幕府よりのお触れや法令を

伝達する役所を意味し

合議制で役割を遂行します。

 

かつての寺格や本末関係が

記された文書を見ると

永福寺は盛岡五山という

“盛岡藩首都”における

主要な5つのお寺の筆頭であり

永福寺の末寺などの

関係寺院として多くのお寺が

列記されております。

 

永福寺とは別に

真言宗七箇寺として

朝日山 法明院

南池山 大荘厳院

蓮(台)山 長谷寺

走湯山 高水寺

池峰山 新山寺

高野山 中台院

宝幡山 覚善院

という7つのお寺が列記されますが

これらのお寺より

七崎(現在の普賢院)へ

おいでになられた和尚様も

いらっしゃいます。

 

永福寺の住職は

相応の方が選抜されたようで

関東からいらっしゃったり

京都からいらっしゃったりと

いったことがありました。

 

これまでは「定説」として

永福寺は七崎から三戸に移り

三戸から盛岡に移った

という説明をしてきましたが

最近はこの言い回しは

適切でないように感じております。

 

この推移は南部氏の築城に

ともなった歴史からの言い回しであり

現地の視点ではないゆえです。

 

事実として

七崎と三戸には

盛岡永福寺が新築された後も

「永福寺」が存続し

盛岡永福寺の住職が

「七崎永福寺」(普賢院)の

住職も兼ねていることが

当山の過去帳に記されております。

 

「三戸永福寺」(嶺松院)の

過去帳はないのですが

その跡地には

盛岡永福寺の住職の墓石が

あることから

当山と同じ状況である

可能性が高いと思われます。

 

当山は

七崎山 徳楽寺(ならさきさん とくらくじ)

という現在の七崎神社(ならさきじんじゃ)

の別当寺でもありました。

 

寺伝によると当山の住職である

行海(ぎょうかい)大和尚が

徳楽寺(七崎神社)の地が

修行の霊地として適した

聖地であるとして

北斗七星の形になぞらえ

杉を植えたとされます。

 

高くそびえ

町のシンボルツリーでもある

天然記念物の大杉3本が

その杉であると言われます。

 

樹齢が800〜1000年とされますが

行海大和尚は平安末期の方なので

伝説に真実味を感じます。

 

この徳楽寺は

当山から南方に位置しますが

南方は観音様を象徴する方角です。

 

様々な尊格(そんかく)には

象徴する方角やみ教えがありますが

これらを諸堂配置に応用することで

伽藍(がらん)そのものを以て

曼荼羅(まんだら)を

表していると考えられます。

 

徳楽寺(七崎神社)周辺には

修験者(しゅげんしゃ)が

各坊を構えており

一般参詣者の案内役である

先達(せんだつ)という役や

世話係などを担って

いらっしゃいました。

 

当山は徳楽寺の別当ではありますが

七崎修験(ならさきしゅげん)を

統括してはおりません。

 

七崎修験を統括していたのは

記録によると戸来(へらい)の

多聞院(たもんいん)とされます。

 

この多聞院は

聖護院門跡の奉書を拝受し

五戸 正年行事(しょうねんぎょうじ)

という修験の大役を担っており

その管轄地区はかなり広く

「支配末院六十八人有」と

修験本末の記録に記されます。

 

これらお寺や修験の本末関係は

殊に江戸時代に厳格となり

「社会体制」に組み込まれました。

 

盛岡永福寺には

1万坪もの土地があったそうですが

江戸時代が終わり

明治時代が始まって間もなく

盛岡永福寺は東坊と墓地のみ残し

没収されることとなります。

 

ある資料によると

この東坊は普賢院とされております。

 

永福寺六供坊(ろっくぼう)の

一寺院として当山も

盛岡にお堂が用意され

出仕していたのかもしれません。

 

まだまだご紹介したいことが

あるのですが

またの機会とさせて頂きます。

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