糠部(ぬかべ)三十三観音霊場
第16番札所である
斗賀 霊現堂(とが りょうげんどう)。
明治まではお寺でしたが
現在は斗賀神社という
神社となっております。
十和田湖伝説に登場する
南祖坊(なんそのぼう)は
こちらで生まれたとされます。
斗賀神社の裏手には
十和田神社があり
南祖坊が祀られております。
糠部(ぬかべ)三十三観音霊場
第16番札所である
斗賀 霊現堂(とが りょうげんどう)。
明治まではお寺でしたが
現在は斗賀神社という
神社となっております。
十和田湖伝説に登場する
南祖坊(なんそのぼう)は
こちらで生まれたとされます。
斗賀神社の裏手には
十和田神社があり
南祖坊が祀られております。
征夷大将軍
坂上田村麿(さかのうえの たむらまろ)公。
田村麿公の伝説は
東北各地にございます。
当山にも
田村麿公の伝説が
伝えられます。
普賢院の前身である
永福寺(えいふくじ)は
延暦19年(西暦800年)に
奥州六観音の1つとして
現在の当山の地に
楢崎観音(ならざきかんのん)として
坂上田村麿公により
建立されたと伝えられております。
6/27に奥州市、一関市を訪れた際
平泉にございます
達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわや びしゃもんどう)
にも立ち寄らせて頂きました。
こちらは国指定史跡であり
延暦20年(西暦801年)に
田村麿公が創建した名刹です。
たまたま訪れた所
金堂(こんどう)にて
大将軍会(だいしょうぐんえ)
という田村麿公の法要が
営まれておりました。
毎年旧暦5月23日に
厳修されている
1年に1度の法要だそうです。
偶然とはいえ
光栄にも尊い法要に
立ち会わせて頂きました。
平泉は
仏教文化が荘厳に花開き
国土安寧の願いが
託された地でもあります。
歴史を今に伝える
平泉の地にて
受け継がれ祈り継がれた
“色あせぬ風土”を観させて頂きました。
▼達谷窟毘沙門堂
http://www.iwayabetto.com/mysite1/bisyamondou.html
十和田湖伝説に登場する
南祖坊(なんそのぼう)は
当山にて
修行されたと伝えられます。
十和田市には
「法量(ほうりょう)のイチョウ」
という国の天然記念物の巨木があります。
樹齢1100年とも伝えられる
法量のイチョウは
南祖坊が手植えしたとされます。
力強くそびえるイチョウに
“伝説のロマン”が
感じられます。
▼青森県観光情報サイト
http://www.aptinet.jp/Detail_display_00002568.html
当山の本山は
奈良県桜井市の
長谷寺(はせでら)です。
長谷寺は
真言宗豊山派(ぶざんは)の
総本山です。
「花の御寺(みてら)」と
いわれるように
四季折々の花々に
彩られます。
創建は
神亀(じんき)4年(西暦729年)。
大自然そのものが
境内である
長谷寺に赴くと
まるで“タイムスリップ”したかのような
心持ちになります。
古き時代の
お寺のたたずまいを
今に伝えております。
京都・奈良を
訪れの際は
是非お立ち寄り下さい。
▼総本山 長谷寺ホームページ
青森県の
景勝地のひとつ
十和田湖。
十和田湖には
伝説が伝えられます。
十和田湖伝説に登場する
南祖坊(なんそのぼう)は
幼少期に当山にて
修行されたとされます。
南祖坊は
青龍大権現(せいりゅうだいごんげん)
という名の神仏として
十和田神社の奥の院に
お祀りされております。
当山はかつて
永福寺(えいふくじ)というお寺でした。
南部氏が拠点を盛岡に移す際
永福寺も盛岡に改められました。
永福寺は現在も盛岡にございます。
永福寺にも南祖坊の碑が建立されております。
石碑正面に
「十和田山青龍大権現」
と刻まれております。
両側面には
「十和田山南祖坊大菩薩」
「十和田山観世音菩薩」
と刻まれております。
▼十和田神社について
http://towadako.or.jp/rekishi-densetsu/towada-jinja/
▼十和田湖伝説について(紙芝居動画)
http://towadako.or.jp/rekishi-densetsu/towadako-densetsu/
当山はかつて
永福寺というお寺で
南部氏の祈願寺(祈願所)
として重宝されました。
南部氏が
盛岡に拠点を移す際に
永福寺も
盛岡の地に改められます。
永福寺は
真言宗の「惣録(そうろく)」(統括寺院)であり
寺領800石の大寺でした。
南部氏には
流れがあります。
当山は
南部氏宗家である
三戸南部氏と
深く関わった
お寺です。
三戸南部氏が
盛岡に拠点を移した後も
永福寺は
祈願寺として大切にされました。
『邦内郷村志(ほうないごうそんし)』
という古文書の中に
永福寺について
以下のように書かれております。
※以下、抜粋です。
重信公貞享三年 御造営成
慶長元和之頃 従三戸御移
真言宗歴代祈願所
寺領八百石 是為邦内諸刹之冠成
故寺格無出其右
最多末山
「寺領800石」と
聞いても中々ピンとは
きませんが
南部藩領において
2番目に大きな石高だそうです。
現在、永福寺は
盛岡市下斗内に
構えられております。
▼『邦内郷村志』はイーハトーブ岩手電子図書館でご覧頂けます。
http://www.library.pref.iwate.jp/ihatov/index/sakuin.html
▲「根城の広場」(八戸市)の案内板
▲現在の永福寺(盛岡市下斗内)
当山には
南祖坊伝説が
伝えられます。
南祖坊(なんそのぼう)とは
十和田湖伝説に
登場する僧侶です。
当山には
『十和田山神教記(とわださん じんきょうき)』
という書物の写本がございます。
その他にも
伝説が記される書物がいくつかあり
一説によれば
南祖坊(なんそのぼう)は
当山の月体(がったい)和尚の下で
修行されたとされます。
“七日七晩の死闘”の末
十和田湖の主であった
八郎太郎に代わり
十和田湖の主となったとも伝えられます。
南祖坊は今もなお
青龍大権現(せいりゅうだいごんげん)として
多くの方に親しまれております。
普賢院の本堂裏に
斗南藩(となみはん)の方々の
お墓があります。
当山位牌堂には
斗南藩の方々の
戒名がしたためられた
お位牌も祀られております。
激動の時代を
今に伝えております。
斗南藩は
旧会津藩の方々が
北の地にて
再興された藩です。
下北地方と
当時の二戸、三戸郡に
その藩領がありました。
戊辰戦争に敗れ
会津藩はお家断絶となり
後に斗南藩として再興が許され
会津よりはるか北へと移住し
様々な困難と
向き合われた方々が
大勢いらっしゃいます。
三沢市に
斗南藩記念観光村
という観光施設があります。
そちらでは
斗南藩の方々の
新天地における
生活を垣間みることが出来ます。
当山に並ぶ
十数基の墓石は
会津を故郷とする
斗南藩の方のものです。
ご縁あって
当山にて弔われた
斗南藩の方のものです。
斗南藩の歴史を
当山なりに
しっかりと伝えて行く
ということも
当山にて
弔われた斗南藩の方への
ご供養の形かと思います。
歴史を伝える方法は
様々かと思いますが
出来ることを
続けていきたいと思います。
当山の起源は古く
弘仁初期(810年頃)草創
承安元年(1171年)開基
の古刹(こさつ)です。
当山は
かつて永福寺(えいふくじ)
というお寺でした。
当山付近の住所が
永福寺という地名なのは
かつては永福寺があった
ということを物語っております。
当山は
江戸期に当地域を治めていた
南部氏の祈願所(きがんしょ)
として重宝されておりました。
祈願所とは
ご祈願やご祈祷をお願いする
お寺のことです。
一方で
ご供養をお願いするお寺を
菩提所(ぼだいしょ)
菩提寺(ぼだいじ)
といいます。
永福寺は
南部氏が拠点を
三戸から盛岡に
移す際に
盛岡に改めて建立されました。
このように
居城を構えるに当たり
お抱えのお寺も一緒に
移転させるということは
当時では珍しくはないことでした。
当地域から盛岡へ
移転された寺院は他にもあり
永福寺はその筆頭でした。
永福寺は
盛岡に移転され
隆盛を極めます。
その“勢力”たるや
東北において“3本の指”に
入る程であったと伝えられます。
永福寺は
元和3年(1617年)に
お城の艮(うしとら)の方角に
改めて建立されます。
艮とはいわゆる鬼門の方角です。
居城守護のために
鬼門の位置に構えられました。
現在、永福寺は
盛岡市下斗内にあり
当山と同じ
真言宗豊山派の寺院です。
普賢院からすぐの所に
七崎神社(ならさきじんじゃ)という
神社があります。
七崎神社には
八戸市指定天然記念物の
大杉が3株ございます。
樹齢約1000年の大木は
地域の神木となっております。
七崎神社は
明治時代迄は
七崎山 徳楽寺(ならさきさん とくらくじ)というお寺で
当山が別当寺(べっとうじ)として管理しておりました。
明治時代になり
神仏分離令(しんぶつぶんりれい)という法律の下
「神」と「仏」に行政的な線引きがなされます。
そのような背景があり
徳楽寺の本尊である観音様
その他仏像は普賢院に移され
徳楽寺は七崎神社として改められます。
徳楽寺より移された観音様は
当山本堂左手の観音堂に祀られ
糠部三十三観音第15番札所となっております。
明治時代到来までは
神も仏も連なるものとして
日本では考えられておりました。
神にも仏を見いだす伝統がありました。
大日如来の神としての姿が天照大神
阿弥陀如来の神としての姿が春日大明神
などといった“共生”の伝統がありました。
平安後期の当山住職に
行海(ぎょうかい)大和尚という方がいらっしゃいます。
寺伝によると
行海大和尚により
現在の七崎神社の地に
北斗七星の形に
7本の杉が植えられたとされます。
そのうち3本が残り
それが市指定天然記念物である大杉とされます。
行海大和尚は
承安元年(1171年)に
当山の基礎を固められた方です。
大杉の樹齢は
1000〜800年だそうです。
仏教において
北斗七星は息災(そくさい)の象徴です。
仏教において
北斗七星は平和の象徴です。
地域の安寧
国土の安穏の願いが託された大杉は
現在も力強くそびえております。