ぬくもりある祈りの慣習が残る山形

連日ブログにて

紐解き七崎観音シリーズを

投稿したので

毎日1本ずつ書いていると

思われるかもしれませんが

実は②〜⑥は

ここ最近続いた出張の

新幹線車中にて事前に

書いていたものです。

 

今月は出張が多い月でして

ひとつきに3回上京・1回山形

(うち1回上京・1回山形は終えました)

というスケジュールです。

 

新幹線車中は

会議資料・報告書

所内先生方へのメール作成

普賢院の庶務といった

事務作業のほか

研究に関連する作業をして

過ごしております。

 

出張に関するもので

出張に関わる時間に

終えることが出来るものは

なるべく終えないと

普賢院の法務(葬儀や法事や行事など)に

支障が出てしまいかねないので

このような形で奮闘しています。

 

ここまでが前置きで

ここからが本題です。

 

研究調査のため

昨日2/13は山形に日帰りで

行ってまいりました。

 

この調査は前から決まっていたものではなく

不思議と色々なご縁がつながって

実施に至ったものでした。

 

現在、拙僧泰峻は

所属する研究機関にて

いくつか研究テーマを持っており

そのうちの一つが

供養習俗に関するものです。

 

年度末の報告書提出や

研究発表に向けて

準備を進めていく中で

山形の村山地方に見られる

供養習俗について

当事者の方に取材させていただき

習俗の中心である寺院にも

赴かせていただきたいと思い

旧暦元日である2/10に

思い切って連絡をしてみた所

あれこれスムーズに整いまして

2/13に実現いたしました。

 

旧地の中である

東根の白雄寺(浄土宗)住職・村田圭信師に

お世話いただきながら

各所へ赴かせていただき

とても有意義な研究調査に

することが出来ました。

 

この調査結果を

しっかりと研究に

活かしたいと思います。

 

ぬくもりある

素晴らしい慣習が残る山形は

当山ゆかりの地でもあります。

 

拙僧の泰峻という法名は

曽祖父の長峻の一字をいただいているのですが

長峻和尚は湯殿山大日坊の住職も

兼任された傑僧でした。

 

長峻和尚が

湯殿山から灌頂された大黒天は

今でも大切に祀られております。

 

大日坊は真如海上人の即身仏が

祀られる古刹であり

当地はじめ南部藩領においても

湯殿山行者は活発に活動していることが

当山系統の関連寺院の歴史を紐解くと

そのことが鮮明に伺い知られます。

 

これまで

あまり深く紹介する機会は

ありませんでしたが

湯殿山を含む出羽三山の信仰は

当地にも深く根ざしており

その影響力は大きいものと

いうことが出来ます。

 

今回、山形での調査で

お世話いただいた村田上人は

研究者でもあり

地元の郷土史にも明るい方です。

 

村田上人から

東北の熊野信仰は

日本海を経由して出雲から

伝わったものの影響が大きいのではとの

とても興味深いお話を伺いました。

 

村田上人は

熊野信仰についても

調べられているのですが

どうやら紀州の流れでない

流れのものが想定されており

出雲と紀州それぞれの熊野信仰が

山形と宮城のあたりで

習合しているとの仮説を

現時点でお持ちのようでした。

 

熊野信仰は

中世において

まず貴族を中心に広まり

次第に民衆にまで広がり

室町中期に最盛期を迎えますが

その後は停滞し

徐々に衰退してしまいます。

 

全国各所の行者が

熊野先達なる役を務め

信者を従えて

熊野御師のもとへ伺い

熊野に参詣するという形で

なされていたものが

時代の変化とともに維持困難となり

さらには熊野先達を担っていた

各所在地の行者の

各所での立場や役割にも

変質をもたらしていきます。

 

熊野信仰についてのお話も

これまで触れる機会が

なかったと記憶してますが

神話とも西国三十三観音霊場とも

様々に関連する要素なので

機会があればその時に

紹介させていただければと思います。

 

山形のお話から

別の話に深入りしかけましたが

山形での調査で赴かせていただいた各所には

宗派や宗教といった

枠では収めることの出来ない

尊い祈りのあり方を

垣間見させていただきましたし

感じさせていただきました。

 

以前からブログでも

時折強調しているのですが

昭和以降の法律により

一宗派一本山という形にて

行政上規定された現代の宗派感覚と

明治以前の宗派感覚は全く異なり

宗派間の交流は活発なものでした。

 

そういったことに通じた文書はさておき

行政的文書の多くには

そういった実態が踏まえられていないので

記述により限定的な照射に

留まらざるを得ないような

近世文書は沢山ありますし

そういったものだけに

立脚してしまうと

生半可な内容になりかねないと感じます。

 

文書の背景を見ようとすること

行間を読もうとすることには

多分野にまたがる膨大な情報把握を

積み重ねる必要があると

個人的には感じており

そう感じるからこそ

時々にでもブログで関連事項に触れつつ

書きためております。

 

拙僧が還暦になる頃(20年後)に

何かしらの形に出来れば良いな位の

プランで悠長に進めている

気まぐれ探究ではありますが

出来ることを出来る形で

しっかりやることが大切であることを

改めて感じた山形出張でした。

 

▼若松観音

 

▼月山をのぞむ

 

▼山寺

紐解き七崎観音⑥

七崎観音の縁起・由来の諸譚について

死生観を背景とする供養習俗の事例や

蓄積されている先学の研究を手がかりに

再検討を重ねているわけですが

供養のために観音菩薩が造立された

というそもそもの部分が

見えてまいりました。

 

七崎観音が祀られるお堂を

七崎観音堂といいます。

 

七崎観音堂は現在

普賢院本堂の内御堂として

おそらく(いや間違いなく)

七崎観音堂史上

もっとも荘厳な空間となっています。

 

現在の七崎観音堂には

とても多くの仏像が祀られますが

特定の個人の供養が志向されて

造立・奉納されたものも見られます。

 

供養のため以外の

仏像造立契機としては

宗祖弘法大師御遠忌や

塔堂造立の節目にあたってであったり

天変地異などの際であったり

何かしらの願目が捧げされ

霊験ありとしての御礼としての実施などが

主にあげられます。

 

供養のための仏像の作仏について

当山にて祭祀される仏像のうち

千手観音坐像を一例として

もう少し紹介させていただきます。

 

現在の七崎観音堂

向かって右側の脇堂

最上段中央の厨子に納められている

千手観音坐像は

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下学秀)

という田子町出身の禅僧が

作仏されたものです。

 

学秀については当ブログにて

青森の円空 奇峯学秀

というシリーズで紹介してますし

折に触れて紹介しております。

 

記事カテゴリーとして

青森の円空 奇峯学秀

を設けているので

記事数が多いのですが

詳しくはそちらをご参照ください。

 

ここでは便宜的に

一部画像資料を以下に添付します。

 

資料①学秀と千手観音坐像について(2021/2/8ブログ掲載)

 

資料②千手観音坐像について(2021/2/8ブログ掲載)

 

資料③七崎観音と千手観音坐像(2021/2/8ブログ掲載)

※資料中、本七崎観音は修繕中とありますが、現在は修繕が終わり安置されています。

 

資料④千手観音坐像が奉納された時期の住職に関して(2021/2/8ブログ掲載)

 

円空が作仏した円空仏については

紐解き七崎観音④でも

若干触れましたが

死者供養のために作られ

菩提のため海に放たれたと

考えられる事例があります。

 

参考までにですが

広く事例にあたれば

水に関する供養のあり方は

海だけでなく川や湖などでも

行われていたことが確認されますし

流水灌頂という作法に

代表されるように

仏道における作法としても

今に伝えられるものがあります。

 

この点も

後々の考察において

関わってくるので

今の所は深入りせずに

次に進ませていただきます。

 

学秀の作った仏像も

素朴で簡素な作りをしており

円空仏を彷彿とさせることもあり

地元では学秀仏といわれます。

 

資料にもある通り

学秀は供養のための浄行として

かなり多くの作仏を実施しています。

 

飢饉や戦乱により

多くの命が失われたわけですが

その供養のために

無数の仏像が作仏されたわけです。

 

学秀に関する先行研究は

郷土史家の方や

それに準じる方によるものが中心で

管見する限り

仏教的観点からの本格的分析は

見られません。

 

ただ仏教的観点から

学秀の業績やその周辺について

紐解くのであれば

諸行に込められたであろう

意味合いや背景が

浮かび上がるように思います。

 

それは機会があれば

紐解きに臨んでみたいと思います。

 

供養のために

仏像が造立されることを

当山に祀られる千手観音坐像の

作者である学秀を例に

改めて確認してまいりました。

 

学秀は

飢饉や戦乱といった有事に

見舞われた時代を生きました。

 

世界的ベストセラーとなった

『サピエンス全史』の筆者で

イスラエルの軍事学者である

ユヴァル・ノア・ハラリは

人類が常に向き合ってきた

3つの困難として

疫病・戦争・飢饉

をあげています。

 

今でこそ日本において飢饉は

縁遠イメージがあると思いますが

東北は何度も飢饉に見舞われ

そのインパクトはとてつもなく大きいものでした。

 

飢饉の際は疫病を伴ったり

社会不安が人心を蝕んで

物騒な世の中になってしまったりと

生きた心地がしないような

日々を多くの方が送ったものと想像します。

 

壮絶なリアリティがあり

理不尽とも地獄そのものとも

思われる厳しい現実を

目の当たりにしたからこそ

多くの仏像を作仏するに

至ったものと考えます。

 

ハラリ氏が

三大困難にあげていないものでは

自然災害もまた先人方が

常に向き合ってきた大きな出来事です。

 

地震大国ですし

明確な四季のある日本自然の

時々の猛威などは

歴代無数に発生しています。

 

そのような背景も踏まえると

供養のため鎮魂のため

様々な方法により

祈りを捧げてきたことについて

いかに切実であったかが

見えてくると思います。

 

前回も今回も

供養という言葉だけでなく

鎮魂という言葉も用いていますが

庶民信仰としての行いを紐解くには

「鎮魂」という死生観(もっといえば霊魂観)

が意識された行いについて

検討する必要があると思うためです。

 

日本の多くの神事や祭事は

もともと鎮魂が目的ともいわれます。

 

七崎姫の物語をモチーフにした祭事である

お浜入りについて前回は触れましたが

八太郎の定期的監視という意味だけでなく

七崎姫の鎮魂という意味合いも

あったと思われると述べました。

 

4月7日に行われていたという

時季的なこともあわせてみると

七崎姫の鎮魂に代表せしめ

御霊会(ごりょうえ)に通じる

祈りが捧げられていたと考えます。

 

七崎姫については

短い物語でありながら

そこからアプローチが可能と思われる

要素がたくさんありますし

お浜入りに関しては

深掘りして考えるべきものと思うので

主流となっている縁起譚とともに

丁寧に見ていきたいと思います。

 

つづく

 

紐解き七崎観音⑤

前稿では

海から引き揚げられたとされる

七崎観音縁起の「前段階」についての

検討を試みました(前稿参照)。

 

結果として

死者の供養のために

作られた観音像が海に放たれ

それが白銀で引き揚げられて

当地に遷座されるに至った

という流れを提示いたしました。

 

八戸市白銀は当山と縁深い場所で

白銀の清水川観音(糠部霊場札所)は

かつて当山が管理していた観音堂です。

 

七崎観音の由来については

白銀の浜といういわれの他

八太郎とのいわれもあります。

 

白銀と八太郎は

浜づたいの地域であり

八太郎地区が開発工事される以前は

現在以上に隣接感があったでしょうから

白銀と八太郎あたりに

七崎観音の「出現」が

設定されているという感じで捉えています。

 

参考までにですが

藤原諸江卿が白銀に上陸して

浜をつたって八太郎に着き居を構えて

漁師として暮らしている中

天長元年(824)4月7日に

漁をしていると網に

聖観音がかかったので

祀ったという一説があります。

 

その説では

諸江卿が承和元年(834)1月7日に

夢告にて当地に

その聖観音を祀ったという

筋書きになっております。

 

明治元年(1868・戊辰)の後に

廃止されたお浜入り(御浜出)という祭事は

当地から八太郎の浜まで

御神輿を担ぎ行列をなして

赴くものでした。

 

そのことについては

これまで何度かブログで

紹介しているのですが

当シリーズに関連するものとして

稀代の古刹⑥のリンクを以下に

示しておくので

そちらをご参照ください。

 

稀代の古刹 七崎観音⑥(2019/2/1)

 

八太郎へのお浜入りについて

紐解き七崎観音①掲載の

資料1.『新撰陸奥国志』における

記述を註も含め以下に引用します。

 

四月七日の◻或は昔出現ありし所なりとて

八太郎(九大区一小区)に旅所あり

黒森浜に輿を移し

其時 別当 役々残らす扈従し

氏子百五十人余

その他遠近信仰の従相随ひ

八太郎浜は群参千余人

海上には小艇に乗して

囲繞すること夥し

旅所は黒森にありしか

戊辰後これを廃し

(※現在、本堂前に祀られる北沼観音に関する記述。現在普賢院に祭祀される北沼観音は、八太郎の蓮沼にあったが、昭和39年[1964]に当山に遷座された。北沼観音は七崎姫伝説という物語に関連。七崎姫伝説とは、藤原諸江[もろえ]の娘である七崎姫が、八戸市の八太郎の沼に住む大蛇を命と引き換えに改心させたという物語。その姫を観音様として祀ったのが、七崎観音であるという由緒譚も一説として伝えられる。)

 

明治まで行われていた

お浜入りは

七崎姫伝説の筋書きを

踏まえたものです。

 

七崎姫の出自については

藤原諸江卿の娘という説のほか

七崎の長者の娘という説もあります。

 

八太郎は

義経伝説も伝えられる地域です。

 

引用文より

八太郎が出現した場所であるとして

旅所があったとされていたことが分かります。

 

人々を苦しめていた

八太郎の沼の大蛇を鎮めるため

七崎姫なるお姫様が

人身御供として命を捧げる

“利他行”を実行し

その菩提を弔うために

七崎姫を七崎観音として

お祀りされたという物語が

七崎姫伝説といわれるものの内容です。

 

とても短いエピソードですが

様々に検討出来る要素が

散りばめられています。

 

扱うことが出来る要素を

あげれば切りがないので

後の機会にゆずりますが

供養として観音菩薩が

祀られた点が

何といっても大切だと思います。

 

「七崎姫を七崎観音として祀った」

という文章も深く考えてみると

七崎姫が供養のために

①七崎観音として祀られた

②観音像が七崎に造立・奉納・安置された

と一様でなく読むことが可能です。

 

ちなみにですが

七崎観音別当である当山に対しても

七崎観音の名が用いられるケースもあるので

七崎姫の供養のあり方についても

様々に検討の余地があります。

 

現在当山では

本堂前に鎮座する北沼観音を

七崎姫に有縁の“姫観音”として

お祀りしており

七崎観音として祀られる観音様とは

別の観音様として祀られています。

 

この法式は

以前からのものなので

お浜入りの祭事が行われていた頃も

主なる縁起がありながら

各様の縁起も尊重されていたのではと

想像いたします。

 

拙稿の無理矢理なまとめに

移らせていただきますが

七崎観音縁起とされるお話を

検討してみるに

「供養のために」という切なる動機が

あるらしいということが分かります。

 

お浜入りについて言及される際

七崎姫が身命を賭して

改心・解脱させた大蛇が

再び乱心せぬかを確認すべく

なされたものであるという

説明がされますが

それだけに留まるものではないと

拙僧は考えております。

 

具体的にいうと

七崎姫の供養・鎮魂という

意味合いもあったものと考えています。

 

そもそも祭事の大部分は

鎮魂が志向されるとされます。

 

次回以降

そのことに関連して

供養・鎮魂のための仏像の作仏の

一例を確認してみたいと思います。

 

つづく

 

紐解き七崎観音④

七崎観音が

大海より引き揚げられた

という縁起に着目しつつ

その背景にあると想定される

死生観についても思い巡らすことは

より俯瞰的な検討に

つながるはずです。

 

そんな課題意識を持ちながら

これまで当シリーズを

連載しております。

 

紐解き七崎観音①には

資料を多く掲載していますが

ここで紹介している

七崎観音縁起の類は一部であり

実際はかなりのバリエーションがあります。

 

このような豊かな語りについては

前稿(紐解き七崎観音③)にて

述べさせていただきましたが

行者などの語り部が

歴代多数存在したのであれば

極端な話

その数だけのバリエーションが

あってもおかしくありません。

 

普賢院は

十和田湖伝説の南祖坊として有名な

南祖法師が弟子として修行したと

伝えられますが

その物語についても同様で

興味深く「脚本」され

各地域にてカスタマイズされたものが

確認されます。

 

現代的感覚からすれば

荒唐無稽と思われるかもしれませんが

注意深く多種内容を吟味してみると

発信者の立場によって

重点が異なりますし

果たして同列に括って良いものかと

思わせられるものも見られます。

 

そういったことも含めて

検討してみると

各「語り」が意図しているものが

浮かび上がってくるものもあるのですが

それはまた機会があれば

記してみたいと思います。

 

前稿後半で

「大海から引き揚げられた」ということは

「大海に解き放たれた」ことにも

目を向けてみようみたいな

提案をしたかと思います。

 

観音菩薩と海は

ご縁が深いものとして

捉えられていたということは

既に述べました。

 

もっといえば

その観念というものは

仏教的思想のはるか以前から

あったと推定されるものが

関わっているとされるということも

既に述べております。

 

前稿では水葬について触れましたが

故人を海に放つ行為は

海のかなたの補陀落浄土へ送ることが

志向されております。

 

また生きた者が舟で大海へ出航し

命の限り補陀落浄土を目指すという

捨身行ともいえる行いは

行を通じて浄土へ往くことが

志向されています。

 

観音菩薩の浄土である

補陀落浄土が

海のかなたに想定されているという点は

これまで触れてきた

「海の信仰」を考える

重要な要素となります。

 

古代神話においては

常世(とこよ)と呼ばれるところは

死者が往くところであり

年をとることもなく

まさに幻想的な楽土だと

捉えられていたとされますが

今見てきた浄土の観念が

庶民信仰において常世の

仏教的翻訳として無意識に

受容されたといっても

多くの方が納得出来ると思います。

 

弔いについての話題に触れたので

もう少し同話題を

続けさせていただきます。

 

円空仏は有名かと思います。

 

一説によると

北海道の西海岸に見られる

円空仏のうち蓮華を持ったものは

高野山の二十五菩薩来迎図に着想があり

死者供養のために作られたとされます。

 

また

円空仏が多い同地方では

漂流している仏像を引き揚げ

豊漁を期して祀ったものが見られます。

 

漂流したものが

引き揚げられた例は

他所にも見られるのですが

仏像が死者供養のために流されたもので

それらが引き揚げられて

本尊や神体として

祀られることが多かったと

見られています。

 

死者供養というのは

主に海難者とされます。

 

なぜ

死者供養の仏像を祀るのかというと

豊漁になるという信仰が

あったからだそうです。

 

一部の海岸地域では

漂流する水死者と遭遇した場合

その死者を「エビスさま」と称し

故人を引き揚げることは

大変に縁起の良いことであり

豊漁が約束されるとの信仰がありました。

 

以上のような信仰が

漂流する仏像を引き揚げて

祀るという行いの動機として

ある程度共有されていたと

考えられるわけです。

 

また長くなってしまいましたが

これまで語られてきた

七崎観音縁起は

「海→引き揚げ→当地に遷座」

というものが別当寺としては

採用されております。

 

この大筋について

本稿で見てきた内容を参考に

ふくらませてみると

供養のために作仏した観音像が海に放たれ

それが白銀にて引き揚げられ

当地に遷座された

という流れを提示することが出来ます。

 

引き揚げられた地とされるのは

白銀だけでなく八太郎とのいわれもあり

八太郎に関するエピソードでは

七崎姫というお姫様の供養として

七崎観音が祀られたと伝えられます。

 

提示された「新説」と

七崎姫伝説に共通するのは

供養を契機とした

縁起であるという点です。

 

これまでですと

諸縁起のうち七崎姫伝説が

他説と異色のように

捉えられていたと思うのですが

本稿で見てきたように

死生観が窺える信仰のあり方を

ひとつの手がかりとして

主な縁起(海→引き揚げ→遷座)を

再検討して提示された

“供養のために海に放たれた説”により

七崎姫の供養のために祭祀されたという

七崎観音縁起が

実は他説と重なるものがあると

捉えられるようになったと思います。

 

そんな所で

本稿は終えさせていただきます。

 

つづく

 

紐解き七崎観音③

はるかかなたから

やってくる尊いものを「来訪神」と

表現することがあります。

 

来訪神が海の

はるかかなたの常世(とこよ)

からやって来るという観念が

古来よりあったと

考えられています。

 

中世以降に仏教が表舞台に

登場して以降は

古来からの観念と

仏教的思想が融和しはじめますが

もともとの観念そのものは

完全な形ではなくとも

留められていたと考えられています。

 

常世は

観音菩薩の浄土である

補陀落浄土などと重ねられ

来訪神としては

観音菩薩などの尊格が重ねられます。

 

このような観念と関連して

日本における供養習俗の記録が

多くのことを示唆します。

 

現代に比べ

生と死が接近していた時代の方が

圧倒的に長く続いていた中

抱かれていた死生観が

いかなるものであったかを探り

今取り上げている「海の信仰」に

再び注目したとき

七崎観音の海に関わるいわれは

より広がりをもって

共有されうる由緒譚となります。

 

現在の日本では火葬が一般的葬法ですが

葬法には様々なものがあり

水葬というものもあります。

 

水葬に定型はなく

さまざまな事例を指して

用いられる言葉でもありますが

さまざまな事例のうち

補陀落渡海(ふだらくとかい)

というものがあります。

 

亡き方を海に放つだけでなく

はるか南方を目指して

生きながらに舟で旅立ち

その生を全うするという行いが

記録として残されています。

 

細かな事例には

ここでは触れませんが

観音菩薩と海は

古くから関わりが深いものと

考えられています。

 

大雑把に

海と観音菩薩に関わる

古来的観念について

述べさせていただきましたが

以下に七崎観音の由緒について

改めて確認してみたいと思います。

 

なお七崎観音の由緒については

様々な語りがあり

どれが正しいとか間違いとか

そういった次元のものではない

ということを

お断りしておきます。

 

神仏や寺社の縁起は

学問的な歴史とは

似て非なるものです。

 

歴史としてではなく

当時の人々が求めた

安寧や利益に関する「霊験」を

説こうと腐心した

行者などの語り部が

歴代多数存在したのですから

自然とバリエーションは

増えるものと捉えた方が

実態に近いと思われます。

 

様々なバリエーションがあるうち

七崎観音別当寺である

当山にて現在用いている

表白という文言は次のように

縁起を述べております。

 

夫れ七崎聖観世音大菩薩者(といっぱ)、その縁起を尋ねみれば、一千百有余年の昔、大海より白銀の浜へ引き揚げられ、承和元年、当地に請来結縁するを端緒となす。

 

普賢院住職には

七崎観音別当という役職を

歴代兼ねることになっており

現住職も晋山式にて

当山法流を継承し

普賢院第65世住職の任を

拝命すると同時に

七崎観音別当の人も拝命しました。

 

また現住職である拙僧は

令和四年夏に便壇灌頂という

弘法大師伝来の儀式に臨ませていただき

恐れ多くも傳燈大阿闍梨

なる位に登らせていただきました。

 

阿闍梨位にあるということは

当山次世に法流を託すのはもちろん

縁起についても伝授する義務があるゆえ

生半可に縁起や由緒を

紐解いておくわけにはまいりません。

 

そういった強い思いを胸に

日々励ませていただいているのですが

表白には幾種類もあるものの

縁起のくだりについては

ローカルで豊かに語られる物語に

比重が置かれることはあまりなく

観音菩薩そのものについて

述べられることに重点が置かれています。

 

当然のことではありますが

来歴については

諸譚中から「海→引き揚げ→当地に遷座」

の縁起が採用されており

このことは具体的で地域的な物語を超えて

観音菩薩霊験譚の一種が

採用されているとも考えられます。

 

海にて引き揚げられたわけですが

引き揚げられるためには

海へ放たれている必要があります。

 

引き揚げられたとされる「観音」は

仏像に限りはしませんが

仮に仏像やそれに類するものならば

何かしらの形で

解き放たれたものということになります。

 

こういったことにも触れながら

次回もまた「海の信仰」に関して

述べてみたいと思います。

 

紐解き七崎観音②

死とどのように向き合い

生をどのように捉えるかという

死生観は時代によって

展開があったと指摘されます。

 

供養習俗に注目して

そこから死生観を読み解こうとする

アプローチは現在では

大分定着したように思いますし

各分野で先学による先行研究が

重ねられています。

 

神仏との向き合い方もまた

時代時代の死生観はもちろんのこと

社会背景を踏まえて検討することは

有意義なことだと思います。

 

当山には多くの仏像が祀られますが

奉納年や施主にのみ注目し記録するだけでは

その実態というか意味合いみたいなものが

なかなか見えにくいと思います。

 

同じ尊格が数体祀られているとしても

その造立・奉納の経緯や意図を

おしはかってみるならば

そこに唯一無二の

エピソードが浮かび上がってまいります。

 

言い方を変えると

当時の細やかな背景や事情や思いを

背負っているものが

当山には多く祀られ託されている

ということが出来るでしょう。

 

背景・事情・思いのうち

「思い」が死生観と最も関わりが

深いものかと思いますが

死生観には共時的な傾向と

捉えられるものだけでなく

地域的なものや個別的なものなど

本来は細やかに検討すべきものと思います。

 

そうすると個別無数の検討も要するので

死生観の検討は限界を抱えながらも

時代的特徴を把握するには有効な

方法であることを

確認させていただいたうえ

本シリーズでは死生観についても

着目したいと思います。

 

時代的死生観は

時代的価値観に含まれるものであり

「時代的」と冠する以上

時代背景を見る必要があります。

 

さて

前置きが長くなりましたが

今回は七崎観音の由緒について

時代的死生観にも若干触れながら

見てみたいと思います。

 

前回の紐解き七崎観音①では

七崎観音に関する主な資料を

ナンバリングして列記しました。

 

本堂建替に際する総整理にて

明らかになった情報を反映させ

補足を加えながら

史料の翻刻したものや

作成した図や

荘厳具の写真など

ボリューミーに紹介しております。

 

「塵も積もれば山となる」とは

本当だと感じさせられます。

 

これまで確認されている

藩による近世史料の記述は

貴重な情報を今に伝えている一方

誤植も見られるので

気がついた点については

註をつけております。

 

前稿に掲載した資料にも

何件か触れていますが

七崎観音は海にて引き揚げられた

と伝えられています。

 

引き揚げたのが

坂上田村麻呂公であったり

藤原諸江卿なる人物とされたり

という部分が注目されがちですが

研究職につかせていただく身としては

海から引き揚げられたという点こそ

注意深く捉えたい箇所です。

 

数奇な命運をたどった

七崎観音の由緒として整理しなければ

ならなかったタイミングが

幾度もある中で

勧請者(お迎えした人物)が

いかなる理由で設定されたかは

七崎観音の場合

ほぼほぼ推察可能で

死生観の文脈においても

述べられることはいくつかあります。

 

死生観の文脈で考えるなら

「海から引き揚げられた」点にこそ

より広く共有され暗に引き継がれていたと

思われるものに接近出来るといえます。

 

この「海の信仰」について

次回も取り上げてまいります。

 

位牌合祀所の祭壇が新しくなりました

位牌合祀所の祭壇を

五戸木工さんにお願いして

新調いたしました。

 

合葬墓を使用する方で

位牌壇のない方や

後を見る方のない位牌を

お祀りするスペースでもあり

以前からきちんとした祭壇を

用意させていただきたいとの

思いを強く抱いていました。

 

昨年末に

五戸木工の社長さんに

相談したところ

早速に準備を進めてくださり

昨日と本日で

設置作業を終えてくださいました。

 

以前は

二段の雛壇が設置された

簡易な状態でしたが

今度は欄干も設えられた

立派な祭壇にしていただきました。

 

こちらの祭壇は

住職として当山に

奉納させていただきます。

 

時代の変化により

これまでの供養形式の維持が

難しくなるケースが増えています。

 

そういった現代において

少しでも多くの方に

ご安心いただける一助となればと思います。

 

▼昨年12月29日 午前

 

▼昨年12月29日 午後

 

▼令和6年2月8日 午後

パンフレット作りに精を出す

小正月で刊行したお寺通信でも

記させていただきましたが

本年は各種パンフレットや

リーフレットの制作を

重ねてまいります。

 

普賢院のパンフレットは

プロの力も借りようと思い

業者さんに協力していただいて

最終仕上げに入っています。

 

その他は自力で

こしらえるのですが

昨日と本日は

空き時間をフルに使って

①本年のおこもりパンフレット

②合葬墓三つ折りリーフレット

③お寺でのお葬式三つ折りリーフレット

の制作に励んでおりました。

 

研究所のレポートや研究報告など

〆切が迫りくる原稿には

目もくれずに作業を進めた甲斐あって

それなりに良いものに

なったと個人的に感じます。

 

①②③いずれも

印刷の発注を終え

完成を待つのみです。

 

今年はとにかく

形にすることを意識して

積極的に諸事取り組んで参ります。

 

オンラインで事前受付出来るようにしてみました

だいぶ前から考えていたことですが

各催事をオンラインで

手軽に参加申し込みいただけるよう

受付フォームを作ってみました。

 

護摩法要については

オンライン参列も

受付しております。

 

下記URLから

各催事の概要の確認や

参加申し込みなどが

出来ますので

ご活用いただければと思います。

 

▼お寺ヨガ(2/18)受付シート

https://forms.gle/8c6MpSMFoApa8E8a6

 

▼おこもり護摩(2/26)受付シート

https://forms.gle/gHirNnwcyjCLogUh9

 

▼不動護摩(2/28)受付シート

https://forms.gle/WFxafRqJxjP88aL78

 

▼各催事のご案内はコチラ

https://x.gd/fAo56

 

普賢院本尊の愛染明王④

昨日は「明王の存在感」について

投稿しましたが

インパクトあるお姿には

深いお諭しが込められています。

 

様々なみ教えが託されますが

愛染明王は煩悩即菩提

不動明王は生死即涅槃

を象徴するともいわれます。

 

前回までは

専門的な辞書を引いて

関連事項について紹介をしましたが

今回は『西国愛染十二霊場巡礼』

(西国愛染霊場会編・朱鷺書房・2021年)

を参考に愛染明王の十二誓願を紹介します。

 

なお以下の文言は

引用元の文章を尊重しつつ

語尾を改めた箇所があります。

 

一、智慧の弓方便の矢を以って愛敬を与え幸福を授ける

二、悪心を加持して善果を得せしめる

三、三毒の煩悩を摧破して浄心を起こす

四、諸の邪見・驕慢の心を離れて正見に住せしめる

五、諸人との闘争の縁を断って一生平和に送らせる

六、諸の病苦と天災の難を去って天寿を全うさせる

七、貧弱飢渇の苦を除いて無量の福徳を与える

八、悪鬼邪神の厄を払うて安穏快楽ならしめる

九、子孫繁栄と家運増長を守って復縁を断たせない

十、前世の悪行の報を清めて後生は浄土に生まれしむ

十一、女人には愛を与えて良縁を結ばしめ善児を授ける

十二、女人には臨産の苦を免れしめ所生子には福徳愛敬を授ける

 

誓願はみ教えに通じているものであり

尊格に託された願いでもあります。

 

以上の誓願が

いずれの経典のどの箇所に

典拠を持つものであるかは

調べる余地があるものの

愛染明王十二誓願は

広く共有されているようなので

今回紹介させていただきました。

 

こういった具体的な誓願と

愛染明王の特徴的な各所の造形を

照らし合わせながら

紐解いていくことは

とても有意義なことであり

よりご縁をお結びいただく

方便だと思います。

 

それはまた

機会を改めて

書いてみたいと思います。

 

つづく