紐解き七崎観音⑥

七崎観音の縁起・由来の諸譚について

死生観を背景とする供養習俗の事例や

蓄積されている先学の研究を手がかりに

再検討を重ねているわけですが

供養のために観音菩薩が造立された

というそもそもの部分が

見えてまいりました。

 

七崎観音が祀られるお堂を

七崎観音堂といいます。

 

七崎観音堂は現在

普賢院本堂の内御堂として

おそらく(いや間違いなく)

七崎観音堂史上

もっとも荘厳な空間となっています。

 

現在の七崎観音堂には

とても多くの仏像が祀られますが

特定の個人の供養が志向されて

造立・奉納されたものも見られます。

 

供養のため以外の

仏像造立契機としては

宗祖弘法大師御遠忌や

塔堂造立の節目にあたってであったり

天変地異などの際であったり

何かしらの願目が捧げされ

霊験ありとしての御礼としての実施などが

主にあげられます。

 

供養のための仏像の作仏について

当山にて祭祀される仏像のうち

千手観音坐像を一例として

もう少し紹介させていただきます。

 

現在の七崎観音堂

向かって右側の脇堂

最上段中央の厨子に納められている

千手観音坐像は

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下学秀)

という田子町出身の禅僧が

作仏されたものです。

 

学秀については当ブログにて

青森の円空 奇峯学秀

というシリーズで紹介してますし

折に触れて紹介しております。

 

記事カテゴリーとして

青森の円空 奇峯学秀

を設けているので

記事数が多いのですが

詳しくはそちらをご参照ください。

 

ここでは便宜的に

一部画像資料を以下に添付します。

 

資料①学秀と千手観音坐像について(2021/2/8ブログ掲載)

 

資料②千手観音坐像について(2021/2/8ブログ掲載)

 

資料③七崎観音と千手観音坐像(2021/2/8ブログ掲載)

※資料中、本七崎観音は修繕中とありますが、現在は修繕が終わり安置されています。

 

資料④千手観音坐像が奉納された時期の住職に関して(2021/2/8ブログ掲載)

 

円空が作仏した円空仏については

紐解き七崎観音④でも

若干触れましたが

死者供養のために作られ

菩提のため海に放たれたと

考えられる事例があります。

 

参考までにですが

広く事例にあたれば

水に関する供養のあり方は

海だけでなく川や湖などでも

行われていたことが確認されますし

流水灌頂という作法に

代表されるように

仏道における作法としても

今に伝えられるものがあります。

 

この点も

後々の考察において

関わってくるので

今の所は深入りせずに

次に進ませていただきます。

 

学秀の作った仏像も

素朴で簡素な作りをしており

円空仏を彷彿とさせることもあり

地元では学秀仏といわれます。

 

資料にもある通り

学秀は供養のための浄行として

かなり多くの作仏を実施しています。

 

飢饉や戦乱により

多くの命が失われたわけですが

その供養のために

無数の仏像が作仏されたわけです。

 

学秀に関する先行研究は

郷土史家の方や

それに準じる方によるものが中心で

管見する限り

仏教的観点からの本格的分析は

見られません。

 

ただ仏教的観点から

学秀の業績やその周辺について

紐解くのであれば

諸行に込められたであろう

意味合いや背景が

浮かび上がるように思います。

 

それは機会があれば

紐解きに臨んでみたいと思います。

 

供養のために

仏像が造立されることを

当山に祀られる千手観音坐像の

作者である学秀を例に

改めて確認してまいりました。

 

学秀は

飢饉や戦乱といった有事に

見舞われた時代を生きました。

 

世界的ベストセラーとなった

『サピエンス全史』の筆者で

イスラエルの軍事学者である

ユヴァル・ノア・ハラリは

人類が常に向き合ってきた

3つの困難として

疫病・戦争・飢饉

をあげています。

 

今でこそ日本において飢饉は

縁遠イメージがあると思いますが

東北は何度も飢饉に見舞われ

そのインパクトはとてつもなく大きいものでした。

 

飢饉の際は疫病を伴ったり

社会不安が人心を蝕んで

物騒な世の中になってしまったりと

生きた心地がしないような

日々を多くの方が送ったものと想像します。

 

壮絶なリアリティがあり

理不尽とも地獄そのものとも

思われる厳しい現実を

目の当たりにしたからこそ

多くの仏像を作仏するに

至ったものと考えます。

 

ハラリ氏が

三大困難にあげていないものでは

自然災害もまた先人方が

常に向き合ってきた大きな出来事です。

 

地震大国ですし

明確な四季のある日本自然の

時々の猛威などは

歴代無数に発生しています。

 

そのような背景も踏まえると

供養のため鎮魂のため

様々な方法により

祈りを捧げてきたことについて

いかに切実であったかが

見えてくると思います。

 

前回も今回も

供養という言葉だけでなく

鎮魂という言葉も用いていますが

庶民信仰としての行いを紐解くには

「鎮魂」という死生観(もっといえば霊魂観)

が意識された行いについて

検討する必要があると思うためです。

 

日本の多くの神事や祭事は

もともと鎮魂が目的ともいわれます。

 

七崎姫の物語をモチーフにした祭事である

お浜入りについて前回は触れましたが

八太郎の定期的監視という意味だけでなく

七崎姫の鎮魂という意味合いも

あったと思われると述べました。

 

4月7日に行われていたという

時季的なこともあわせてみると

七崎姫の鎮魂に代表せしめ

御霊会(ごりょうえ)に通じる

祈りが捧げられていたと考えます。

 

七崎姫については

短い物語でありながら

そこからアプローチが可能と思われる

要素がたくさんありますし

お浜入りに関しては

深掘りして考えるべきものと思うので

主流となっている縁起譚とともに

丁寧に見ていきたいと思います。

 

つづく