紐解き七崎観音③

はるかかなたから

やってくる尊いものを「来訪神」と

表現することがあります。

 

来訪神が海の

はるかかなたの常世(とこよ)

からやって来るという観念が

古来よりあったと

考えられています。

 

中世以降に仏教が表舞台に

登場して以降は

古来からの観念と

仏教的思想が融和しはじめますが

もともとの観念そのものは

完全な形ではなくとも

留められていたと考えられています。

 

常世は

観音菩薩の浄土である

補陀落浄土などと重ねられ

来訪神としては

観音菩薩などの尊格が重ねられます。

 

このような観念と関連して

日本における供養習俗の記録が

多くのことを示唆します。

 

現代に比べ

生と死が接近していた時代の方が

圧倒的に長く続いていた中

抱かれていた死生観が

いかなるものであったかを探り

今取り上げている「海の信仰」に

再び注目したとき

七崎観音の海に関わるいわれは

より広がりをもって

共有されうる由緒譚となります。

 

現在の日本では火葬が一般的葬法ですが

葬法には様々なものがあり

水葬というものもあります。

 

水葬に定型はなく

さまざまな事例を指して

用いられる言葉でもありますが

さまざまな事例のうち

補陀落渡海(ふだらくとかい)

というものがあります。

 

亡き方を海に放つだけでなく

はるか南方を目指して

生きながらに舟で旅立ち

その生を全うするという行いが

記録として残されています。

 

細かな事例には

ここでは触れませんが

観音菩薩と海は

古くから関わりが深いものと

考えられています。

 

大雑把に

海と観音菩薩に関わる

古来的観念について

述べさせていただきましたが

以下に七崎観音の由緒について

改めて確認してみたいと思います。

 

なお七崎観音の由緒については

様々な語りがあり

どれが正しいとか間違いとか

そういった次元のものではない

ということを

お断りしておきます。

 

神仏や寺社の縁起は

学問的な歴史とは

似て非なるものです。

 

歴史としてではなく

当時の人々が求めた

安寧や利益に関する「霊験」を

説こうと腐心した

行者などの語り部が

歴代多数存在したのですから

自然とバリエーションは

増えるものと捉えた方が

実態に近いと思われます。

 

様々なバリエーションがあるうち

七崎観音別当寺である

当山にて現在用いている

表白という文言は次のように

縁起を述べております。

 

夫れ七崎聖観世音大菩薩者(といっぱ)、その縁起を尋ねみれば、一千百有余年の昔、大海より白銀の浜へ引き揚げられ、承和元年、当地に請来結縁するを端緒となす。

 

普賢院住職には

七崎観音別当という役職を

歴代兼ねることになっており

現住職も晋山式にて

当山法流を継承し

普賢院第65世住職の任を

拝命すると同時に

七崎観音別当の人も拝命しました。

 

また現住職である拙僧は

令和四年夏に便壇灌頂という

弘法大師伝来の儀式に臨ませていただき

恐れ多くも傳燈大阿闍梨

なる位に登らせていただきました。

 

阿闍梨位にあるということは

当山次世に法流を託すのはもちろん

縁起についても伝授する義務があるゆえ

生半可に縁起や由緒を

紐解いておくわけにはまいりません。

 

そういった強い思いを胸に

日々励ませていただいているのですが

表白には幾種類もあるものの

縁起のくだりについては

ローカルで豊かに語られる物語に

比重が置かれることはあまりなく

観音菩薩そのものについて

述べられることに重点が置かれています。

 

当然のことではありますが

来歴については

諸譚中から「海→引き揚げ→当地に遷座」

の縁起が採用されており

このことは具体的で地域的な物語を超えて

観音菩薩霊験譚の一種が

採用されているとも考えられます。

 

海にて引き揚げられたわけですが

引き揚げられるためには

海へ放たれている必要があります。

 

引き揚げられたとされる「観音」は

仏像に限りはしませんが

仮に仏像やそれに類するものならば

何かしらの形で

解き放たれたものということになります。

 

こういったことにも触れながら

次回もまた「海の信仰」に関して

述べてみたいと思います。