新鮮な気持ちで御詠歌を

本年は

当山での御詠歌(ごえいか)の会は

1月と2月を休会して

3月からの開催としました。

 

ですので

本年は3/8が最初の講習となりましたが

2ケ月空けての開催だったので

ご参加の皆様は

とても“新鮮な”心持ちで

御詠歌と向き合われた様子でした。

 

本年最初ということで

所作や譜について

基本の確認をしつつ

和やかに御詠歌の

研鑽を積ませて頂きました。

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お彼岸中日(3/21)にお手伝い頂ける方いらっしゃいませんか?

3/21(春分の日)の

春彼岸中日に

お手伝い頂ける方を

募集しております。

 

ご協力頂ける方は

是非ともお力添えを

お願い申し上げます。

 

お手伝い内容は

下記の通りとなります。

①早朝のお膳上げ

午前7時にお寺に集合して頂き

位牌堂位牌壇のお膳上げを

お手伝い頂きます。

 

早朝おいで頂いた方には

お弁当も用意させて頂きます。

 

②位牌堂の後片付け

午後2時にお寺に集合して頂き

位牌堂の後片付けをして頂いて

終了次第解散という流れになります。

 

終了は遅くとも4時半頃かと思われます。

 

①、②のいずれかでもお手伝い頂ける方

いらっしゃいませんか?

 

①のみ、②のみでも構いません。

 

①、②いずれもお手伝い頂ける方は

早朝の作業が終了後

午後の後片付けまで時間がありますので

1度お帰り頂いて結構です。

 

ご検討の程

何卒よろしくお願い申し上げます。

 

お手伝い頂ける方

いらっしゃいましたら

ご連絡下さいますようお願いいたします。

 

メール:fugenin643@gmail.com

fukusuke

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良い刺激と学び

地域を超えて

宗派を超えて

立場を超えて

時代と向き合い

お寺についてとことん考える

未来の住職塾という

学びの場がありました。

 

拙僧(副住職)も

平成27年春よりご縁を結ばせて頂き

それ以降大変お世話になっております。

 

平成31年3月の

7期生の皆様の卒業をもって

現行の未来の住職塾は

幕を閉じます。

 

拙僧(副住職)は4期生として

深く学ばせて頂きました。

 

同期の御寺院様や

住職塾を通じてご縁を結ばせて頂いた

全国各地の御寺院様とは

今でも交流させて頂いており

沢山のことを学ばせて頂いております。

 

今後は新たな展開をもって

こちらで結ばれたご縁が

さらに深められていくようです。

 

3/6は夕刻より

「未来の住職塾 卒業PARTY!」が

六本木ヒルズ内の

お店を会場に開催され

翌3/7は

「未来の住職塾 感謝のつどい」

として中目黒の實相山正覚寺(日蓮宗)

を会場に午前10時より午後4時まで

みっちりと研修させて頂きました。

 

沢山の刺激と学びを頂戴したので

それらを当山や地域に

しっかりと還元したいと思います。

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青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)④

現在の青森県田子町の

釜渕家出身の高僧

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

は千体仏作仏を三度成満し

その他にも数百体の仏像を

彫られたとされます。

 

その多くは喪失してしまい

現在確認されている

学秀仏(がくしゅうぶつ)は80体程

だそうです。

 

当山には学秀御作の

千手観音がお祀りされていることが

判明したことを受け

当山関連の歴史を踏まえながら

当ブログにて

学秀との関係について

投稿を重ねております。

 

前回は

学秀仏の千手観音が

祀られていたであろう

千手観音堂について触れ

さらに学秀仏が

当山に請来されることになった

キーパーソンが

当山中興開山である

快傅上人だと拙僧(副住職)は

推測していることを

お伝えいたしました。

 

この点について

今回はもう少し深めて

記させて頂きます。

 

快傅上人は

「当山寺屋敷共」に

新たに建立された方です。

 

当山所蔵の

享保18年(1733)と記された

棟札表中央には

再建立當寺屋敷共

新今慶建立

當寺長久安全如意

快傅末々之住寺共

萬民愛敬云々…

記されます。

 

またこの棟札にはその際

観音山(七崎山)に

杉を2000本余植えたと

記されますので

その前後で当地の雰囲気は

かなり厳かになったと思います。

 

七崎山とは

当山が別当をつとめた

旧観音堂があった

現在の七崎神社の地を指します。

 

さらに現在の当山の地にも

様々な木々を植えたようで

杉のほかにも

松、ヒバ、ツキ、エノミ

クリ、サイガチ、クルミ

ナシ、モモ、カキなどが

植えられたと記されます。

 

享保年間(1716〜1736)の

快傅上人による当山中興と

学秀活躍期は重なっております。

 

快傅上人が中興にあたり

学秀千手観音を

請来されたと推察することは

無理のないことと思われます。

 

少し視点を変えて

この時代を考えるに

貞享元年(1684 )には

弘法大師850年御遠忌(ごおんき)

というとても重要な法要が

各本山はじめ各地で厳修されております。

 

これより程なくして

貞享4年(1687)4月に

第29第藩主・南部重信公は

聖観音像を七崎観音堂に

奉納されております。

 

これが現在の

七崎観音です。

 

また元禄3年(1690)12月には

覚鑁(かくばん、1095〜1143)上人が

東山天皇より興教大師(こうぎょうだいし)

の諡号(しごう)を賜っております。

 

▼興教大師 覚鑁

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これは

覚鑁上人がご入滅されて

537年目のことでした。

 

(新義)真言宗において

興教大師覚鑁上人は

弘法大師空海上人と共に

両祖大師(りょうそだいし)とされる

とても尊い方です。

 

元禄5年(1692)は

興教大師550年御遠忌

にあたっております。

 

もう少しこのことについて

掘り下げさせて頂きます。

 

この時期の新義真言宗は

「宗派の繁栄」と表現される程に

格式が高くなり隆盛しております。

 

新義真言宗では

権僧正(ごんそうじょう)という

僧階(そうかい、僧侶の位)が

極官で小池坊(奈良の長谷寺本坊)と

京都の智積院(ちしゃくいん)の

両能化だけが権僧正でした。

 

それが元禄4年(1691)6月18日に

小池坊13世能化・卓玄(たくげん)が

智積院・信盛と

護持院・隆光とともに

正僧正(しょうそうじょう)という

それまでの極官よりも

高い僧階に任じられております。

 

この当時の徳川将軍・綱吉公は

「小池坊も智積院も

権現様(家康公)が取立た

寺院であるから

両能化とも正僧正にしよう」と

述べられたそうです。

 

この卓玄僧正は

八戸藩祈願所である

自在山 豊山寺(じざいさん ぶざんじ)

の(長谷寺式)十一面観音像を

貞享5年(1688)に

開眼(かいげん)されております。

 

この十一面観音は

豊山寺の廃寺に伴い

その末寺である

是川の福善寺に移されました。

 

またまた余談ですが

この豊山寺という寺院は

根城にあった八戸東善寺の後身で

再興にあたって

自在山 豊山寺と改められ

“豊山寺初代”として

花巻の愛宕山八幡寺より

惠廣上人が招かれております。

 

この八幡寺というお寺は

現在の花巻神社の地にあった

小池坊(長谷寺)の末寺ですが

永福寺支配のお寺でもありました。

 

とにかく

新義真言宗がそれまでに増して

“勢いづいていった”時代が

当山中興や学秀の時代でもあります。

 

当山と学秀の関係を考える

背景としてこういった事情は

外すことは出来ないことです。

 

他にも重要な背景は様々ですが

江戸期の南部藩領では

飢饉とよばれるもの以外にも

凶作が頻発していることは

踏まえなければならないことです。

 

ある資料によれば

江戸時代だけで

76回もの凶作が

発生しております。

 

おそらくはその時代の七崎も

度重なる凶作が引き金となり

かなり疲弊していたと思います。

 

時代が時代ゆえ

当山も快傅上人がいらっしゃった頃は

荒廃していたと思われます。

 

そのような中

中興されるにあたり

“現在の救済仏”である千手観音を

学秀和尚に作仏頂いたというのが

拙僧(副住職)の推測です。

 

田子は修験の

大法院(だいほういん)が

強い影響力を持っていたようなので

修験関連で千手観音に

触れみたいと思います。

 

現在の「修験本宗」の

総本山である奈良県吉野の

金峯山寺(きんぷせんじ)では

三体の蔵王権現(ざおうごんげん)が

本尊としてお祀りされ

それぞれが過去・現在・未来の

三世(さんぜ)の尊格とされます。

 

そしてそれぞれの

本地仏(ほんじぶつ)は

過去:釈迦如来

現在:千手観音

未来:弥勒菩薩(みろくぼさつ)

とされており

この“対応関係”は

当山中興にあたり請来された

学秀千手観音に託された願いを

紐解く上で

参考になるように思います。

 

禅宗で大切にされる陀羅尼で

大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)

という“尊いお経”があります。

 

この陀羅尼は

千手千眼観自在菩薩円満無礙大悲心陀羅尼

ともいいまして

千手観音の陀羅尼でもあります。

 

大悲心陀羅尼の意味を

踏まえることもまた

学秀千手観音に託さた願いを

紐解く上で

参考になろうかと思います。

 

かなり専門的な話題ばかりに

なってしまいましたが

当ブログは

「研究ノート」としても

投稿させて頂いておりますので

何卒ご容赦下さいませ。

 

【関連記事】

▼稀代の古刹 七崎観音④

https://fugenin643.com/blog/稀代の古刹七崎観音四/

 

▼稀代の古刹 七崎観音⑤

https://fugenin643.com/blog/稀代の古刹七崎観音五/

 

▼吉野金峯山寺について

https://fugenin643.com/blog/吉野金峯山寺/

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南祖法師尊像の来た道を探る

当山には十和田湖伝説の

南祖坊(なんそのぼう)の御像である

南祖法師尊像(なんそほっしそんぞう)

がお祀りされております。

 

文化7年(1810)の火災のため

多くの文書が燃えており

この御像の詳しい由緒は不明でしたが

諸事調べ物をしていた所

その作風と類似する

仏像の存在を知り

その作者である

津要玄梁(しんようげんりょう)

という僧侶について

調査を始めました。

 

津要玄梁の彫刻は

彫目(ほりめ)に

とても大きな特徴があります。

 

少し前に

港町の十王院(じゅうおういん)に

お祀りされる地蔵菩薩立像を

拝見させて頂き

その際は彫目を中心に

特徴を確認させて頂きました。

 

3/4の午後には

八戸市妙の伝昌寺(でんしょうじ)に

お祀りされる津要玄梁御作の

六地蔵像を拝見させて頂きました。

 

地蔵尊のお衣の袖の彫り方や

お顔の彫り方に

南祖法師尊像と通じるものが

あるように感じました。

 

さらにその後

階上町の潮山神社(寺下観音)の

宮司である桑原氏と

以前より親しくさせて頂いている

階上出身の根岸礼子さんが

当山においで下さり

津要玄梁のことや

寺下観音のことなど

様々に伺わせて頂きました。

 

寺下観音は当山と同じく

糠部三十三観音の札所でもあります。

 

主題は津要玄梁についてでしたが

他にも幅広くお話が出来まして

今後に繋がるような

とても実りある時間となりました。

 

南祖法師尊像については

更に調査研究を

進めたいと思います。

 

▼伝昌寺(現在は本堂建替中)

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▼潮山神社(寺下観音)宮司さん達と

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▼南祖法師尊像(普賢院)

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畏れ多くも

本年八戸市矢沢に開設される

特別養護老人ホーム 八戸素心苑の

新採用者に対する講話を

畏れ多くもさせて頂きました。

 

こちらの施設は

ご縁のある方が多く

携わられていらっしゃることもあり

引き受けさせて頂きました。

 

お願いされた講話のテーマは

「生ききる 逝ききる」。

 

あれこれとお話させて頂き

 

お預かりした約2時間は

あっという間に

過ぎ去りました。

 

お役に立てたかどうかは

分かりませんが

お話させて頂くということ

お伝えさせて頂くということは

話者自身にとっても

「学び」の機会でもあります。

 

拙僧(副住職)自身も

大いに学ばせて頂いた

講話の時間となりました。

 

素心苑は本年4月より開設されます。

 

施設内をご案内頂きましたが

木の香りに満ちており

心安らぐような

開放的な空間が拡がっておりました。

 

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使い終えたランドセルをアフガニスタンへ

日本で役目を終えたランドセルを

アフガニスタンへ贈りませんか?

 

当山では本年も

想い出のランドセルギフト

を実施いたします。

 

日本で役目を終え

アフガニスタンの

新たな持ち主と一緒に

新たな物語が紡がれる

想い出のランドセルギフト。

 

この活動は

アフガニスタンの

子どもたちの

就学支援活動です。

 

ご賛同頂ける方

ご協力の程

よろしくお願い申し上げます。

 

ご協力頂ける方で

ランドセルをお持ちの方は

当山にお届け願います。

 

未使用の鉛筆や消しゴム

あるいはノートなどの文房具も

アフガニスタンへ贈ります。

 

ランドセルを贈られる方で

未使用の文房具を

お持ちの方は

ランドセルに入れて

当山にお持ち下さい。

 

協賛費(輸送経費)として

ランドセル1個につき

3000円のご納入を

お願いしておりますので

ご理解の程よろしくお願いいたします。

 

ランドセルを

お持ちでない方でも

ご賛同・ご支援頂ける方

いらっしゃいましたら

是非ともご協力願います。

 

5/3に

午前10:00〜12:00の予定で

想い出のランドセルギフトの

ワークショップと

ランドセルの梱包作業を

行います。

 

ご賛同頂ける方で

ご都合のつく方は

ご一緒頂けると幸いです。

 

皆様のご協力を

心よりお願い申し上げます。

 


 

【ランドセルギフト概要】

使い終えたランドセル

未使用の文房具

をアフガニスタンへ贈ります

 

・回収期間:本年3/21〜5/3

・協賛費:ランドセル1個につき3000円

(アフガニスタンへの輸送経費)

 

・ワークショップ&梱包作業

 本年5/3午前10時〜12時頃


 

 

▼昨年の様子

https://fugenin643.com/blog/アフガニスタンへ向けて/

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活き活きと学ぶ 豊崎小学校「世界を知ろう国際理解教室」

当山副住職妻は

豊富な国際経験を活かし

グローバルナビゲーターとして

地元を中心に活動しております。

 

最近では学校関係の方から

お声がけ頂くこともございます。

 

地元の豊崎小学校では

課外活動の充実を図っており

その一環として

当山ハナレにて

世界を知ろう国際理解教室

(2ケ月に1回)

が昨年春より開催され

平成30年度の日程は

全て終了いたしました。

 

拙僧(副住職)妻は

本年2月初頭に8日間

お寺を留守にさせて頂き

天竺(インド)を訪問いたしました。

 

2月28日に行われた

今年度最後の国際理解教室は

そのお話も盛り込んでの時間だったので

大盛り上がりだったようです。

 

活き活きと学びを楽しむ

小学校の皆さんの姿。

 

“意義ある学びの本質”を

教えて頂いたように思います。

 

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青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)③

『御領分社堂』という

宝暦13年(1763)の書物は

宝暦9年(1759)の幕府の御触(おふれ)

により開始された

藩領の社堂の調査を

まとめたものです。

 

七崎(豊崎の古称)について

同書に以下のように

記載されております。

 


寺院持社堂 五戸御代官所七崎

一 観音堂 四間四面萱葺(かやぶき)

古来縁起不相知

萬治元年(1658)重直公御再興被遊

貞享四年(1687)重信公御再興被遊候

何(いずれ)も棟札(むなふだ)有

 

一 大日堂

一 不動堂

一 愛染堂

一 大黒天社

一 毘沙門堂

一 薬師堂

一 虚空蔵堂

一 天神社

一 明神社

一 稲荷社

一 白山社

右十一社堂は観音堂御造営之節

依御立願何も御再興被遊候

小社之事故棟札も無之

只今大破社地斗に罷成候

一 月山堂 壱間四面板ふき

 

一 観音堂 右ニ同

右両社共に観音堂御造営之節

重直公御再興也

 

善行院(ぜんぎょういん)

当圓坊(とうえんぼう)

覚圓坊(かくえんぼう)

覚善坊(かくぜんぼう)

右四人之修験は本山派にて

拙寺(永福寺)知行所所附之者共御座候

古来より拙寺(永福寺)拝地之内

三石宛(ずつ)遣置

掃除法楽為致置候


 

現・田子町出身の奇峯学秀

(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

御作の千手観音が

当山観音堂にお祀りされていることが

つい先日判明いたしました。

 

学秀は

出生年代は不明ですが

元文4年(1739)に82歳頃に

入滅したとされます。

 

ですので

『御領分社堂』が伝えるのは

学秀が入滅して約20年後の

主なお堂の様子であるといえます。

 

先の引用箇所で

赤字にした箇所

学秀と関わると思われます。

 

当山で所蔵する棟札の

内容を踏まえると

この「観音堂」は

千手千眼(せんじゅせんげん)観音堂

(以下、千手観音堂)です。

 

現在の本堂を文化8年(1811)に

再建した当時の

当山先師である覚宥師の名が記される

千手観音堂再建の

棟札があることから

千手観音堂が以前から

あったことが分かるのです。

 

また当山には

散逸してはおりますが

千手観音の作法の次第である

千手観音法(せんじゅかんのんぼう)

が残されております。

 

先の引用文では

冒頭にもう1つ観音堂が

記されておりますが

これは現在の七崎神社の地にあった

寺号を七崎山徳楽寺とする観音堂で

現在の当山本堂にある

観音堂内殿中央に祀られる

七崎観音(聖観音)を

本尊としておりました。

 

観音堂ついででいえば

現在の八戸市白銀にある

清水観音(糠部第6番札所)も

当山が別当をつとめておりました。

 

さて千手観音堂に

話を戻しますが

重直公が観音堂を再興した際に

千手観音堂も再興されている

ということは

千手観音堂はさらに以前から

建立されていたことを意味します。

 

このお堂に学秀仏の

千手観音も請来されて

もとから祀られていた

千手観音と合祀された可能性は

大いにあると思います。

 

ここでもうお一方

当山と学秀を紐解く上で

キーパーソンとなる(と思われる)

当山先師・快傅(かいでん)上人

について触れたいと思います。

 

当山は

開創が圓鏡上人

(弘仁8年(817)5月15日入滅)

開山(開基)が行海上人

(承安元年(1171)5月に開山)

そして中興開山が快傅上人です。

 

快傅上人は

主に享保年間(1716〜1736)に

当山を中興された先師で

寛保元年(1741)11月2日に

御遷化されております。

 

過去帳によると

快傅上人は遠野の

ご出身だそうです。

 

脱線になりますが

遠野といえば

根城南部氏が移った地ですが

それに伴って祈願所である

師建山 東善寺(しけんざん とうぜんじ)

が八戸市根城から

本坊が寛永4年(1627)に

移された地でもあります。

 

東禅寺の山号である

師建山(しけんざん)は

南部師行公に由来し

行公が立された」

ことを意味します。

 

東善寺という寺号もまた

南部氏の「東氏」に由来するそうです。

 

遠野に本坊が移った後も

八戸根城の旧地は

八戸東禅寺として存続し

延宝年間(1673〜1681)に

自在山 豊山寺(じざいさん ぶざんじ)

として再興されます。

 

八戸東善寺が自在山豊山寺に

改称されたのは

延宝3年(1675)です。

 

豊山寺は延宝8年(1680)に

八戸城(現在の三八城公園)へ

移されました。

 

現在は廃寺となりましたが

この東禅寺(豊山寺)も

永福寺の傘下寺院でした。

 

豊山寺は八戸藩の内五ケ寺に

列ねられており

末寺には

是川の八鳩山 福善寺

田面木の延命山 善照院

楊柳山 永久寺(現在は廃寺)

豊山寺支配として

小田山 徳城寺(現・小田八幡宮)

霊現山 新源寺(現・斗賀霊(涼)現堂)

という本末関係がありました。

 

これら関係寺院についても

当山と学秀との関係を

考察する上で

重要な意味を持つと思われます。

 

快傅上人の出身地が遠野であることから

脱線として関連事項を

長々と記してしまいましたが

後々触れるべきことなので

これで良しとさせて頂きます。

 

快傅上人の当山中興と

学秀仏が当山に祀られたことは

深く関わっているのではないかと

拙僧(副住職)は推測しております。

 

このことについて

次回述べさせて頂きます。

 

【関連記事】

▼稀代の古刹 七崎観音③

https://fugenin643.com/ふげんいん探訪/十和田湖南祖坊について/稀代の古刹七崎観音参/

 

▼稀代の古刹 七崎観音⑦

https://fugenin643.com/ふげんいん探訪/十和田湖南祖坊について/稀代の古刹七崎観音七/

 

▼白銀清水観音

https://fugenin643.com/ふげんいん探訪/かんのんまいり-清水観音/

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急遽の護摩に思う

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当山本堂は

本尊が祀られる内陣の隣に

観音堂が設えられております。

 

現在当山において

本尊の御宝前では

正月や彼岸やお盆の法要はじめ

重要な各種法会(ほうえ)や

ご供養が執り行われる一方で

観音堂では

御祈願を主とした法会や

札所巡礼のお参りが

なされております。

 

明治時代になるまでは

観音堂は現在の七崎神社の地に

建立されており

徳楽寺という寺号が

用いられていたのですが

神仏分離の処置を受け

旧観音堂(徳楽寺)は廃寺となり

七崎神社に改められ

七崎観音などの仏像は

当山本堂へ遷座されました。

 

先にお伝えした

本尊御宝前での修法と

観音堂での修法の

“意味合い”が異なるのは

本堂と観音堂の“性格の違い”と

いっても良いでしょう。

 

かつての本堂

(本堂のある境内地)は

「根本中堂」「根本道場」であり

得度(出家)した僧侶が

師匠(阿闍梨)より伝授を受けたり

講伝を受けたり

修行をするお堂でもあるので

一般参詣者が気軽かつ自由に

出入りをしたり

お参りが出来る場所

というわけではありませんでした。

 

今でもそうですが

出家僧でしか出仕できなかったり

様々な条件を満たさなければ

臨むことが許されない

法会や行事は多々あります。

 

本堂は“出家僧向けのお堂”と

いうことが出来るかもしれません。

 

補足ですが

本堂という言葉は

「根」の略であるとか

」の略であるという

いわれがございます。

 

ただ単に仏像が祀られているお堂が

本堂ということではありません。

 

専門性が高いかもしれませんが

本堂という言葉には

きちんとした意味があります。

 

本堂が主に出家僧の行事等が

催されていた道場である一方で

七崎の観音堂は

“稀代の古刹”と謳われる程に

藩よりの信仰が篤く

一般参詣者もすこぶる多く

お仕えしていた修験者・山伏も存在し

様々な祭事が行われておりました。

 

現在の当山における

本尊御宝前と観音堂における

法会等の主旨の違いは

かつての本堂と観音堂の

性格の違いの名残といえます。

 

この辺のことは

専門的に通じていなければ

中々分かりにくい所かもしれませんが

きちんと踏まえるべきことと思われます。

 

さて

ここまでは前置きでして

本日午前中に有縁の方より

護摩祈祷のお願いをされました。

 

お話によると

毎月28日(不動明王縁日)に

護摩をお願いしている御寺院様が

諸事情により護摩を休会する

ことになったようで

当山に問い合わせられたそうです。

 

拙僧(副住職)も

午後であれば都合がついたので

不動明王の護摩を

修法させて頂きました。

 

導師一人での護摩なので

数名で厳修する

厳かさとは趣が異なりますが

粛々とした護摩も心地よいものです。

 

普段の御祈願では

お願いされない限り

護摩を修法することは

ありませんでしたが

これを機に

毎月護摩を修法したり

定期的に修法するのも

良いかもしれないと感じた

お不動様の御縁日となりました。

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