観音堂の仏像配置を再考中です

旧本堂の観音堂の建具を

再利用する関係で

未定であった観音堂の内殿の

寸法が決められまして

祭壇スペースが

一気に形作られました。

 

スペースの大きさが

決まったことに伴い

観音堂内殿に安置する

お仏像の配置を

再考しております。

 

内殿の祭壇位置が

旧本堂よりかなり髙いうえ

奥行きがあるため

秘仏・現七崎観音を

中央の奥にご安置すると

ご開帳する際に

内殿に入り込まないといけないですし

もともと現七崎観音は

ご本体仏の本七崎観音の

御前立ちだったわけなので

内殿奥側に本七崎観音をお祀りして

その前に現七崎観音をお祀りすれば

ご開帳に際する懸念も解消されます。

 

そうした場合

中央に本七崎観音と現七崎観音が

縦に安置されることになり

向かって右側スペースが空くので

そこに学秀仏・千手観音坐像を

ご安置すればどうだろうかなどと

考えめぐらせております。

 

あくまでも思案段階です。

 

観音扉や飾り柱が設置されてから

安置スペースを実際に

確認してからの決定となるので

最終判断は

お仏像を配置してみてからとなります。

 

この類の決定は

今後の慣習に影響するものゆえ

責任重大です。

 

住職でしか

決定することの出来ないことなので

慎重に検討したいと思います。

 

厳しい時代背景と神童南祖丸という視点

 

▼イベント情報はコチラ

「十和田湖伝説と南祖法師」の詳細

 

令和4年4月10日午前10時から

八戸ブックセンターで開催される

絵本刊行イベント「十和田湖伝説と南祖法師」

は残席1となりました。

 

感染症対策の兼ね合いで

今回は定員10名での開催です。

 

当日のスライド資料を本日仕上げました。

 

短い時間ですが

有意義な時間を

ご一緒させていただきたいと思います。

 

クラウドファンディングで制作した

絵本『龍になったおしょうさま』の

“原作”は『十和田山神教記』

(とわださんじんきょうき)

という幕末の写本で

当山では2冊所蔵されております。

 

この写本は

その内容が

仏教説話的要素が色濃い点に

特徴があります。

 

現在

十和田湖の現地で「伝説」として

語られている内容は

様々な写本の要素が

組み合わされて成っていると

指摘することが出来ます。

 

近世以降(江戸期以降)

様々な写本が作られて

様々な形で様々に語られるわけですが

このバラエティーに富んだあり方への

向き合い方は

まだまだ未着手の部分があるように思います。

 

一つ例をあげるとすれば

時代背景的な部分でいえば

死生学で指摘される

死生観の転換を踏まえることも

出来ると思われます。

 

“神仏の申し子”であったり“神童”として

描かれる南祖法師が

最終的に神仏につながる存在になり

入定(にゅうじょう)して

十和田湖を介した

現世と“地続き的な常世”にあり続けるような

描かれ方に

その時代的死生観が反映されていると

想定するならば

これまで主に考えられてきた筋書き以外に

浮かび上がってくる「時代の声」が

聞こえてくるように思うのです。

 

本堂建替や住職交代という節目にあったため

改めて過去帳を見てみると

江戸〜昭和のある時期までは

とても多くの子どもが亡くなっていることに

気が付かされます。

 

子どもの成長にちなんだ行事を

大切にする伝統が

日本にはありますが

これは子どもが健やかに生育することが

いかに尊いものとして

捉えられていたのかということにも

通じる話とえいます。

 

江戸期の東北は

幾度も飢饉(ききん)に見舞われ

子どものみならず

多くの命が犠牲になっています。

 

当山の棟札(むなふだ)や文書の類を見ても

そういった時代において

切実に願いが捧げられた形跡が見られます。

 

このような視点から

南祖法師の伝説を眺めると

これまでとは少し異なった心情の持ち方による

伝説との向き合い方を

想定出来るように思います。

 

実は本年2月に

青森県津軽地方のある慣習を事例とした論文を

現代教化研究所という研究機関の研究員として

提出したのですが

これは死生観を手がかりとして

現代的供養の特徴について

述べさせていただいたものです。

 

2年越しの執筆だったので

当初の予定よりも

掘り下げた形で仕上げることが出来まして

その一連の研究の中で

近世の東北の状況が

いかに過酷なものであったのかを

改めて確認させられました。

 

という伏線があり

十和田湖伝説を死生観という観点を踏まえて

眺めてみることの可能性に思い至ったわけです。

 

 

 

 

少し話は変わりますが

当山は南祖法師が修行したとされるご縁で

十和田湖伝説が語られる際に

触れられることが多くあります。

 

十和田湖において

伝説は観光資源として大切にされており

それをもとにした取り組みが盛んであるのは

とてもよろしいことだと思いますが

当山の由緒や縁起について

当山が所蔵する棟札(むなふだ)や過去帳を含む文書の記述や

当山・当地にて語り継がれている内容とは全く異なる様々な形で

断定的に語っている方もいらっしゃる様です。

 

十和田信仰の関連寺社は

少ないため

そういったお話を現地等で耳にされた方が

当山においでになられて

色々と質問いただく場合が多いのですが

中には完全な事実誤認を

引き起こされているケースも見られ

これはちょっと…と

思わされることもありました。

 

関連寺社のひとつである

当山が把握する内容とは全く異なる

当山についての言説がなされているわけですから

当山・当地として

歓迎するものであるわけがありません。

 

観光目的としての語りということで

関連地各所にて語り継がれる

寺社の縁起の尊さは

関係ないのかもしれませんが

明らかに配慮に欠けているように感じます。

 

せっかくのご縁があっても

こういったことが続けば有縁各所が

疎遠になってしまうのではないでしょうか…

 

少なくとも

現在の当山としましては

何かご相談されたとしても

お力になれることは

あまりないと考えています。

 

それはそれとして

これまで拙僧泰峻は

お堂内陣にお入りいただき

各仏像を近くでじっくり

ご覧いただくことに対して

あまりに無警戒な部分があったうえ

縁起等の根拠となりうる

所蔵文書等の内容の公開が

最近まで少なかったということもあり

今回話題としているような状況を

ある意味助長していたとも感じられるので

この点は方針を改めたいと思います。

 

普賢院住職には

七崎観音別当という肩書もあり

現在は内御堂となっている

七崎観音堂を司る役目もあります。

 

普賢院(七崎永福寺)と

七崎観音堂(七崎山徳楽寺)の

縁起を守り伝えるのも当山住職の勤めです。

 

そもそも当山は

十和田湖伝説ゆかりのお寺ではありますが

観光のためのお寺ではありません。

 

当山は

檀信徒の皆さんや有縁の皆様により

お支えいただき

お守りされてきた寺院であり

代々「祈り」(供養・祈願など)に

力を入れてきたお寺です。

 

歴代数えられない程

沢山の方々に

携わっていただいてきて

今の普賢院があるということを

お踏まえいただいたうえで

諸事ご対応いただきたいものです。

迫力ある太鼓の響き

先日行われた

七崎観音おこもり法要での

観音経(かんのんぎょう)

というお経の読経シーンの

動画をアップしました。

 

太鼓つきの迫力ある

法要の様子をご覧いただけると幸いです。

 

おこもり法要という

一年に一度の行事を終えて

少し一休みしたいところですが

3月6日の上棟式(じょうとうしき)の

準備を本格的に始めました。

 

細々とした所を詰めている段階ですが

とても良いひとときに

なるように思います。

 

なかなかない機会なので

多くの方にご一緒いただき

お祝いの儀式に

臨ませていただきたいと思います。

 

 

▼上棟式のご案内動画

七崎観音の近現代

2月17日は

秘仏・七崎観音(ならさきかんのん)の

ご開帳日です。

 

この日は

午後8時よりご宝前にて

法要を執り行います。

 

この行事は「おこもり」と

通称されます。

令和4年おこもりのご案内

 

明治時代になり七崎観音は

行ったり来たりを繰り返した

ということは

これまでも触れてきましたが

そのことをいまに伝える

明治10年(1877)『伺』(うかがい)

という県令への文書があります。

 

以下に引用するのは

その翻刻です。

 

往来がわかる部分は

色を付しています。

 

赤は1回目

青は2回目

紫は3回目の遷座の記述です。

 

なお

原文のくずし字を

拙僧泰峻が翻刻したのですが

何文字か解読困難な箇所があり

文脈から字をあてていることを

あらかじめお断りしておきます。

 

 

当七崎村郷社七崎神社

曩日仏体正観音混一七崎山観音社号二付

衆庶参拝罷在昔時

文化六年當時第九大區三小區

新井田村盛元太郎曽祖父半兵衛代

梵鐘壱鳴寄附有之候処

御維新来各社寺

一般神佛混淆不相成旨

御達二付

過ル明治二己巳年

右正観音佛体外附属之什器

并梵鐘共該社ヨリ

當村真言宗普賢院へ

一旦移置候処

従来近郷人民信仰之霊佛二付

衆庶旧慣ヲ不脱

猶受持旧神宦ヲ訪来

空殿ヲ参拝スルノ族モ

間々有之二付

更二永続方法ノ目途相立可成

丈ケハ小堂ナリトモ建立仕度義

村方一同志願二付

其際旧神宦神殿江移転

人民信仰二任セ

参拝為致居候

昨九年十二月

教部省第三拾七号御達之趣モ有之

素ヨリ佛体二候得共

当院へ再ビ移転

什器共悉皆可引渡ハ勿論二候所

前顕梵鐘寄附人私有之訳ヲ以

今般取戻之義掛合有之

殆ド困迫之次第

尤廃社等二至テハ寄附什器

本人随意取戻之義可有之候得共

既二神佛区分右佛体

現今普賢院二存在候上ハ

概シテ廃社寺与

同視スベカラザル様有之

且本人情願二依リ寄附候者

今更無用ノ贄物抔申唱候義

如何与存候得共

元ヨリ私共二於テ

其可否討論可致ノ権理無之二付

無余儀次第与思考仕候得共

従来正観音江寄附之鏡故当院へ

備置仕度

且つ当院境内之義ハ村中中央土地髙壟

鐘堂建築適当之地二付

自今報時鐘二仕候得共

昼夜旦暮之時報ヲ耳二シ

各自農民臥起之教戒ハ勿論

臨時之為成丈ケ

取戻等無之様

再三先方ヘ示談二及び候得共

兎角承諾無之

依之右等共一般寄附人二付

自侭二取戻之権理可有之哉

且つ弥取戻候節ハ

右梵鐘寄附之際

村方人夫二付

鮫村より運搬仕候二付

其入費并右二関諸入費

悉皆本人より償却為到候義

如何可有之哉

此段共奉伺候条何分之御指令

奉希望候

以上

 

明治十年六月七日

第八大区三小区七崎村

旧社人惣代 嶋森亀之助 印

同旧神宦 白石守 印

同普賢院住職 佐藤法隆 印

同総代 久保杉嘉藤治 印

同村用係 橋本岩松 印

 

青森県令 山田秀典殿

 

以上が『伺』の翻刻となります。

 

どのような

伺いがたてられているかというと

江戸期に梵鐘を奉納した方の

孫にあたる方が

奉納した梵鐘の返還を

強く求めていることに対する

対応について

当地の代表者方が

当時の県令に問うているわけです。

 

この文書中に

明治初期の当地における

神仏分離の対応を

読み取ることが出来ます。

 

これまでの慣習も尊重しつつ

新たな時代に対応しようと

努められている様子が

伝わってくるように思います。

 

昨日の投稿では

当山61世の長峻和尚について

少しばかり紹介いたしました。

 

名僧というべき長峻和尚は

住職在位中の約20年にわたり

普賢院を復興され

さらには兼務寺院興隆にも

ご尽力されました。

 

長峻和尚は研究者肌だったようで

晩年に到るまで時間があれば

ひとり研究に励まれていたそうです。

 

1901年(明治34)に

普賢院では興隆講という

講が発足しています。

 

興隆講については

以前にブログで触れているので

よろしければそちらも

ご参照下さい。

稀代の古刹 七崎観音⑩

 

興隆講は

七崎観音堂の再興事業とでも

いうべき取り組みです。

 

定期的に集まり

護摩祈祷を行ったり

法話を聞いたりなど

積極的な活動が

なされていたようです。

 

長峻和尚の祈祷や護摩には

多くの人が集まったそうです。

 

カリスマ的な住職だったと

いえるかと思います。

 

東北屈指の霊場である

山形県鶴岡の

湯殿山大日坊の住職を

最晩年は務めるわけですが

多忙が過ぎたこともあり

病魔におかされ

行年60でご遷化されました。

 

それからしばらくの間

当山は困難な時期となります。

 

62世晃雄和尚が住職になるのは

長峻和尚亡きあと

しばらくたってからとなるのですが

その晃雄和尚の晋山式は

同時に出征送別のひとときでもありました。

 

戦争期において

七崎観音へは

身内が出征した方が

多く参詣されるようになったそうです。

 

明治から昭和まで

話が飛んでしまった感がありますが

明治以後の激動期については

可能な限りの記述を試みたいと思います。

 

今回は

明治初期における神仏分離への対応を

今に伝える文書『伺』の紹介と

“巨星”長峻和尚とその後について

多少触れさせていただきました。

 

 

 

 

2体の七崎観音についてショートムービーを作りました

当山に祀られる

七崎観音(ならさきかんのん)は

明治時代を迎えるまでは

現在の七崎神社の地にあった

七崎観音堂に祀られていました。

 

神仏分離政策への対応のため

七崎観音堂は廃止され

堂内の諸尊・諸法具は

別当寺である普賢院へ移されました。

 

七崎観音堂は

「稀代の古刹」と称されるほど

多くの方に崇敬され

代々の藩主にも庇護されてきましたが

明治に廃止され

突貫工事的に普賢院本堂内に用意された

観音堂に遷座されることになります。

 

普賢院本堂の一隅に用意された

観音堂のスペースは

とても簡素なもので

盛時の面影は

全くなかったそうです。

 

しかし

明治以後の住職方のご尽力により

七崎観音堂は

普賢院本堂の内御堂(うちみどう)として

再興されていくことになります。

 

明治、大正、昭和、平成を通じ

観音堂は素晴らしい空間に

整備されてまいります。

 

歴代住職方が繋がれてきた

尊い「思い」を令和においても

しっかりと引き継ぎたいと思います。

 

そのようなことに触れながら

七崎観音についての動画を

用意したので

ご覧いただけると幸いです。

 

明治以後の七崎観音の祀られ方の変遷

当山に祀られる

七崎観音(ならさきかんのん)と

称される聖観音は秘仏で

毎年旧暦1月17日にのみご開帳され

そのご宝前にて法要が行われます。

 

現在、七崎観音として

認知されている仏像は

1687年に藩主・南部重信公が

「御前立ち」として奉納されたものです。

 

「御前立ち」というのは

本体の仏像の前に安置される仏像

という意味です。

 

七崎観音のご本体にあたる仏像は

これまでよく分からなかったのですが

本堂建替という歴史的な節目において

所蔵する仏像・仏具・史料・資料などを

総整理しつつ調査も進めていた所

どの仏像が七崎観音のご本体かが

判明いたしました。

 

本体にあたる七崎観音の仏像は

1655年に藩主・南部重直公が

奉納されたものになります。

 

重直公と重信公は兄弟です。

 

消えかけていた歴史を

後世に留めることが出来たことに

奇縁を感じさせられます。

 

当山ではご本体の七崎観音を

本(もと)七崎観音と呼び

現在七崎観音として祀られている御前立ち仏を

現(げん)七崎観音と呼び分けています。

 

これまでも

七崎観音について

色々と紹介してまいりましたが

今回は明治以後に

どのように安置方法が

変化していったのかについて

取り上げたいと思います。

 

安置方法の変化をたどると

その時々における七崎観音の認識が

いかなるものであったかですとか

認識の変化と思われるものを

汲み取ることが出来ます。

 

安置方法についていうと

お祀りするスペースの関係もあったことは

忘れてはならないことです。

 

限りあるスペースでは

出来る形でしか采配することが出来ません。

 

本七崎観音の仏像は大きいもので

昭和後期までは大きな厨子に

納められていました。

 

そうすると

高さも奥行きも必要となるわけで

スペースに限りがあるならば

本来のなすべき形ではなく

変則的な形で祭祀せざるをえないわけです。

 

そういった経緯ですとか

時の住職のお考えは

記録に残りにくいものですし

明治以後となると

頻繁に住職が交代し

記録に残っていない方も

いらっしゃる状態なので

十分な引き継ぎがなされていたとは

考えられません。

 

明治になると

もともとの観音堂は廃止され

観音堂内の仏像・仏具などは

別当寺である普賢院に

移されることになります。

 

明治になり

七崎観音は当山に遷座されたのですが

空の旧観音堂へ観音参りに

訪れる方が耐えなかったため

七崎観音は再度旧観音堂に遷座され

そしてまた当山に

遷座されたという経緯があります。

 

拙僧泰峻の推測ですが

当山から旧観音堂へ遷座する際は

全てを移動させるのではなく

当時の背景や慣例等を踏まえるに

現七崎観音のみを

移したものと思われます。

 

神仏の遷座には

当然のことながら作法が伴うわけで

その意味を踏まえて考えると

本体である本七崎観音も

再度旧地にお連れするということは

しないと思います。

 

御前立ちであれば

いわば「分身」なので

再び旧地に一時的に移すというのは

無理のない判断だったと思います。

 

戦争のインパクトも大きいもので

62世住職・晃雄大和尚と

その弟である高明大和尚が

出征・戦死したため

当時の住職の妹が

お寺を守った期間もあります。

 

歴史の大きなうねりの中で

様々な要素が関連して

七崎観音にまつわる歴史が

徐々に忘れかけていったと

言うことが出来るでしょう。

 

以下に

画像資料を掲載するので

どのように祀られ方が

変わっていったのかを

ご確認いただけると幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

《ご開帳のご案内》

令和4年おこもりのご案内

 

《本年の七崎観音に関する記事》

かつての七崎観音堂のイメージ図

浮かび上がる江戸期の七崎観音の祀られ方

 

かつての七崎観音堂のイメージ図

本年2月17日は

七崎観音(ならさきかんのん)

おこもり法要

が行われます。

 

七崎とは現在の豊崎町の旧称です。

 

七崎観音は

聖観音(しょうかんのん)という観音様です。

 

七崎観音おこもり法要という行事は

秘仏の七崎観音をご開帳して

行われる法要です。

 

例年ですと

護摩を行うのですが

仮本堂では消防法の関係で

護摩を修法できないため

昨年同様に形式を変えて

ご祈祷の法要を行ないます。

 

以下に

本年の法要のご案内と

これまでの

アーカイブ(動画)の

リンクを貼っておきます。

令和4年おこもりのご案内

 

旧暦1月17日に行われるこの行事は

「おこもり」と通称されます。

 

一時は

存続の危機にあったのですが

試行錯誤を重ねまして

この10年で少しづつ

参列者も盛り返し

多くの方にご縁を

お結びいただけるようになりました。

 

当山HPは2016年に開設して

同時に「おてらブログ」も

開始したのですが

おこもりの時季となると

お寺の歴史であったり

七崎観音の由緒であったり

おこもりについての投稿を

重ねております。

 

過去の記事を見てみると

よくこれだけ多くのものを

調べてまとめたものだと

自身でも驚く程です。

 

ただ

記事のボリュームがあるうえ

投稿数も結構あるため

自身でもいつ何をまとめたのか

調べるのが大変なため

最近は画像資料として

整理したり

過去の記事を添付するなどして

あらためて当山と

向き合わせていただいております。

 

本年もおこもりの日が

近づいてきたので

七崎観音に関連する投稿を

重ねたいと思います。

 

少し前に

江戸期における

七崎観音の祀られ方について

紹介いたしました。

 

それがこちらの記事になります⬇

浮かび上がる江戸期の七崎観音の祀られ方

 

今回は前回の続きとして

もう少し具体的に

かつての七崎観音が

どのような所にどのような形で

祀られていたのかについて

拙僧泰峻が法流(お作法や法式などの流れ等)

を踏まえて出来るだけ具体的に

紐解いてみたいと思います。

 

諸史料・資料で

当時の要素を整理したうえで

法流を踏まえて

旧七崎観音堂が

どのようなものであったかを

考察するに

以下に用意した画像資料の

ようになろうかと思います。

 

まずは

旧七崎観音堂内ですが

七崎観音ご宝前には

護摩壇ほか法具が

荘厳されていたはずです。

 

▼江戸期の観音堂内部

 

次に観音堂のお堂についてですが

『新撰陸奥国誌』掲載の

俯瞰図(スケッチ)により

方形(ほうぎょう)であったことがわかります。

 

方形とは

正方形のお堂で

観音堂として採用とされることが

とても多かった様式です。

 

江戸期の棟札や史料により

七崎観音堂の大きさも分かっています。

 

七崎観音堂のイメージ図も含め

以下に画像資料を掲載します。

 

 

以上、今回は

旧七崎観音堂について

より具体的に紹介いたしました。

 

七崎観音とご縁を

お深めいただけると幸いです。

浮かび上がる江戸期の七崎観音の祀られ方

普賢院に祀られる

七崎観音(ならさきかんのん)の

ご開帳が近づいてまいりました。

 

本年は2月17日となります。

 

ご開帳された観音様のご宝前で

午後8時から法要が

執り行われます。

 

詳細は下記リンクを

ご参照下さい▼

令和4年おこもりのご案内

 

当山では

文化8年(1811)以来の

本堂建替を行っており

それに伴い

仏像仏具等の再整理・調査も

行ないました。

 

そのおかげで

判明したことや確認されたことなどが

沢山ありました。

 

七崎観音についても

色々と浮かび上がったことがあります。

 

以前もお伝えしたように

現在普賢院には

「2体の七崎観音」が

祀られています。

 

区別するために拙僧泰峻は

現 七崎観音(げんならさきかんのん)

本 七崎観音(もとならさきかんのん)

と呼び分けております。

 

昭和51年に

旧本堂の大改修が

行われるまでは

本七崎観音は大きな春日型厨子に

納められていました。

 

また

現七崎観音と本七崎観音は

並列(横並び)に

安置されていたそうです。

 

本七崎観音の厨子は

かなり傷みが激しかったようで

かなり前に処分されています。

 

本七崎観音像は

蓮弁に激しい鼠害が見られました。

 

また

本七崎観音が奉納された際の

観音堂並末社十二宮再興棟札も

古い鼠害が見られるため

恐らく観音像の後ろに

棟札が祀られていたと思われます。

 

そういったことを

図像資料にしてみたので

ご覧いただいて

七崎観音とのご縁を

深めていただけると幸いです。

 

 

観音さまのお経

観音様のお経は沢山ありますが

最も有名なものといえるのが

「普門品(ふもんぼん)」です。

 

正式には

妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五

といい

観音経(かんのんぎょう)と通称されます。

 

当山では

旧暦1月17日(令和4年は2月17日となります)

に観音様の行事があるので

最近は観音菩薩にまつわる記事を

投稿することが多くなっておりまして

今回は観音経について

紹介したいと思います。

 

観音経全文は次のようになります。

 

妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五

 

爾時無盡意菩薩即従座起偏袒右肩合掌

向佛而作是言世尊観世音菩薩

以何因縁名観世音

佛告無盡意菩薩

善男子若有無量百千萬億衆生受諸苦悩

聞是観世音菩薩一心稱名観世音菩薩

即時観其音聲皆得解脱

若有持是観世音菩薩名者設入大火

火不能燒由是菩薩威神力故

若為大水所漂稱其名號即得淺處

若有百千萬億衆生為求金銀瑠璃硨磲瑪瑙

珊瑚琥珀眞珠等寳入於大海假使黒風

吹其船舫飄堕羅刹鬼國其中

若有乃至一人稱観世音菩薩名者

是諸人等皆得解脱羅刹之難以是因縁名観世音

若復有人臨當被害稱観世音菩薩名者

彼所執刀杖尋段段壊而得解脱

若三千大千國土満中夜叉羅刹欲来悩人

聞其稱観世音菩薩名者

是諸悪鬼尚不能以悪眼視之況復加害

設復有人若有罪若無罪杻械枷鎖

検繋其身稱観世音菩薩名者皆悉断壊即得解脱

若三千大千國土満中怨賊有一商主将諸商人

齎持重寳経過険路其中一人作是唱言

諸善男子勿得恐怖

汝等應当一心稱観世音菩薩名號

是菩薩能以無畏施

於衆生汝等若稱名者於此怨賊當得解脱

衆商人聞倶發声言南無観世音菩薩

稱其名故即得解脱

無盡意観世音菩薩摩訶薩威神之力巍巍如是

若有衆生多於婬欲常念恭敬観世音菩薩便得離欲

若多瞋恚常念恭敬観世音菩薩便得離瞋

若多愚痴常念恭敬観世音菩薩便得離癡

無盡意観世音菩薩有如是等大威神力

多所饒益是故衆生常應心念

若有女人設欲求男禮拝供養観世音菩薩

便生福徳智慧之男

設欲求女便生端正有相之女宿植徳本衆人愛敬

無盡意観世音菩薩有如是力

若有衆生恭敬禮拝観世音菩薩福不唐捐

是故衆生皆應受持観世音菩薩名號

無盡意若有人受持六十二億恒河沙菩薩名字

復盡形供養飲食衣服臥具医薬於汝意

云何是善男子善女人功徳多不無盡意言甚多

世尊佛言若復有人受持観世音菩薩名號

乃至一時禮拝供養是二人福正等無異

於百千萬億劫不可窮盡

無盡意受持観世音菩薩名號

得如是無量無邊福徳之利

無盡意菩薩白佛言世尊観世音菩薩

云何遊此娑婆世界云何而為衆生

説法方便之力其事云何

佛告無盡意菩薩善男子若有國土衆生

應以佛身得度者観世音菩薩即現佛身而為説法

應以辟支佛身得度者即現辟支佛身而為説法

應以声聞身得度者即現声聞身而為説法

應以梵王身得度者即現梵王身而為説法

應以帝釈身得度者即現帝釈身而為説法

應以自在天身得度者即現自在天身而為説法

應以大自在天身得度者即現大自在天身而為説法

應以天大将軍身得度者即現天大将軍身而為説法

應以毘沙門身得度者即現毘沙門身而為説法

應以小王身得度者即現小王身而為説法

應以長者身得度者即現長者身而為説法

應以居士身得度者即現居士身而為説法

應以宰官身得度者即現宰官身而為説法

應以婆羅門身得度者即現婆羅門身而為説法

應以比丘比丘尼優婆塞優婆夷身得度者

即現比丘比丘尼優婆塞優婆夷身而為説法

應以長者居士宰官婆羅門婦女身得度者

即現長者居士宰官婆羅門婦女身而為説法

應以童男童女身得度者即現童男童女身而為説法

應以天龍夜叉乾闥婆阿修羅迦樓羅緊那羅

摩睺羅伽人非人等身得度者即皆現之而為説法

應以執金剛神得度者身得度者

即現執金剛神而為説法

無盡意是観世音菩薩成就如是功徳

以種種形遊諸國土度脱衆生

是故汝等應當一心供養観世音菩薩

是観世音菩薩摩訶薩

於怖畏急難之中能施無畏是故此娑婆世界

皆號之為施無畏者

無盡意菩薩白佛言世尊

我今當供養観世音菩薩

即解頸衆寳珠瓔珞價直千両金而以與之作

是言仁者受此法施珍寳瓔珞時

観世音菩薩不肯受之

無盡意復白観世音菩薩言

仁者愍我等故受此瓔珞

爾時佛告観世音菩薩當愍此

無盡意菩薩及四衆天龍夜叉

乾闥婆阿修羅迦樓羅緊那羅

摩睺羅伽人非人等故受是瓔珞

即時観世音菩薩愍諸四衆及於天龍

人非人等受其瓔珞分作二分

一分奉釈迦牟尼佛

一分奉多寳佛塔

無盡意観世音菩薩有如是自在神力遊於娑婆世界

爾時無盡意菩薩以偈問曰

世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁 名為観世音

具足妙相尊 偈答無盡意 汝聴観音行 善應諸方所

弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億佛 發大清浄願

我為汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦

假使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑變成池

或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼観音力 波浪不能没

或在須弥峰 為人所推堕 念彼観音力 如日虚空住

或被悪人逐 堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛

或値怨賊繞 各執刀加害 念彼観音力 咸即起慈心

或遭王難苦 臨刑欲壽終 念彼観音力 刀尋段段壊

或囚禁枷鎖 手足被杻械 念彼観音力 釋然得解脱

呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力 還著於本人

或遇悪羅刹 毒龍諸鬼等 念彼観音力 時悉不敢害

若悪獣圍繞 利牙爪可怖 念彼観音力 疾走無邊方

玩蛇及蝮蠍 気毒煙火燃 念彼観音力 尋聲自回去

雲雷鼓掣電 降雹澍大雨 念彼観音力 應時得消散

衆生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力 能救世間苦

具足神通力 廣修智方便 十方諸國土 無刹不現身

種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅

眞観清浄観 廣大智慧観 悲観及慈観 常願常瞻仰

無垢清浄光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間

悲體戒雷震 慈意妙大雲 澍甘露法雨 滅除煩悩焔

諍訟経官処 怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散

妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念

念念勿生疑 観世音浄聖 於苦悩死厄 能為作依怙

具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故應頂禮

爾時持地菩薩即従座起前白佛言世尊若有衆生

聞是観世音菩薩品自在之業普門示現神通力者

當知是人功徳不少佛説是普門品時衆中

八萬四千衆生皆発無等等

阿耨多羅三藐三菩提心

 

以上のようなお経になります。

 

観音菩薩の

変幻自在なる境地と

世を照らし心を照らす

智慧と慈悲のありようが

説かれたお経といえます。

 

細かな内容については

今後折に触れて

紹介いたします。

 

昨年の法要で

観音経(偈文)をお唱えした部分を

動画にしてありますので

ご覧いただき観音経と

ご縁を深めていただければと思います。

 

▼観音経(偈文)の動画

 

【おこもりのご案内】

旧暦1月17日にあたる

令和4年2月17日は

秘仏・七崎観音(ならさきかんのん)

をご開帳してご宝前にて

法要を執り行います。

 

この行事は「おこもり」と通称されます。

 

詳細は下記リンクをご参照ください。

おこもりのご案内

 

 

▼昨年のおこもりの様子

令和4年の初観音〜基礎資料の更新をかねて〜

1月18日は

年初の観音縁日ゆえ

初観音といわれます。

 

初観音ということで

当山に祀られる七崎(ならさき)観音

について本日は触れたいと思います。

 

昨日のブログで投稿しましたが

来月は七崎観音の行事があります。

 

令和4年おこもりのご案内について

 

行事との関係もあり

例年この時季には

七崎観音に関する

投稿が多くなるのですが

研究メモや調査メモも

兼ねて書かせていただいております。

 

拙僧自身も

改めて確認したいことがあるので

久しぶりに「年表メモ」も更新しつつ

七崎観音について

これから何回かにまたがり

書きとどめたいと思います。

 

以前もご紹介したように

七崎観音は二体あり

現在秘仏とされているのは

七崎観音本体の御前立(おまえだち)

として貞享4年(1687)に

藩主・南部重信公が奉納したものです。

 

「本体」である聖観音は

明暦元年(1655)に

藩主・南部重直公が奉納した

「金色の観音像」で

こちらは現在修繕中です。

 

この二体の七崎観音を

区別するため昨年より

「現(げん)七崎観音」

「本(もと)七崎観音」

と呼び分けています。

 

本七崎観音は

当時の観音堂が再興された際に

奉安されたものでして

その時の観音堂再興の棟札(むなふだ)が

残っております。

 

七崎観音が祀られる七崎観音堂は

明治まで観音山あるいは七崎山と

呼ばれる場所にありました。

 

現在の七崎神社の場所です。

 

明治になり

神仏分離の対処のため

境内を切り離し

かつての七崎観音堂は取り壊され

社殿が建立されています。

 

仏像仏具は当山に

移されることになりました。

 

旧観音堂が廃止され

七崎観音ほか諸尊が

当山に遷座された後も

空のお堂へ参詣する方が

多かったようで

そういった方への配慮で

再度旧観音堂へ

七崎観音が祀られるという

臨機応変策が

転換期において講じられています。

 

明治以後の住職が残した文書によると

七崎観音が当山に遷座された当初は

旧本堂の一室を

“突貫工事”的に模様替え

せざるを得ない状態だったようで

かなり粗末に感じられるような

空間だったとのことです。

 

「稀代の古刹」とまで称され

藩主はじめ多くの方に

崇敬されてきた観音様ほか諸尊を

お祀りする観音堂を

再興していくことを胸に

代々住職がご尽力されてきたことが

明治以後の歴史から浮かび上がります。

 

先代住職の泰永和尚もまた

その一人でして

先代の期間中において

観音堂はかなり整備されております。

 

もうすでに結構な分量になってきたので

本日はこの辺で終わりにしたいと思います。

 

本年もまた

数回にわたって七崎観音について

紹介したいと思いますが

今回は特に明治以後に注目し

七崎観音の本体と御前立が

“入れ替わって”認識されるに

至った理由について

思いを巡らせてみたいと思おいます。

 

 

▼仮観音堂

 


※『郷社七崎神社誌』(小泉幸雄、大正15年[1926])を典拠にしたものについては青字で記します。(※一部追記アリ。)

※伝説・伝承含め当山に関連する記述の見られる主な史料の年代等を緑字で記します。前回のものに追記したものがあります。

※弘法大師空海や興教大師覚鑁の両祖大師に関すること、寛永11年[1634]以降の御遠忌(ごおんき)を紫字で記します。

※近世以前(ここでは寛政12年[1625]以前)については、当山の過去帳を主な典拠として橙色で記します。(※一部追記アリ)

 

  • 開創・圓鏡上人(弘仁8年[817]5月15日ご遷化/過去帳に「當寺開創」と記載/ご遷化の年次から最近では「弘仁初期(810)頃開創」と紹介してきたが、明確なことは分からないため「延暦弘仁年間の開創」と説明されてきた)
  • 月法律師(当山2世/天長8年[831]10月16日ご遷化/南祖法師の師とされる)
  • 七崎観音の“おこり”(承和元年[834]1月7日、八太郎で漁師として暮らしていた京都の四条中納言・藤原諸江卿が観音夢告により、当地に観音様を遷して祀り、それが七崎観音の始まりという由緒譚アリ/坂上田村麻呂将軍[758〜811]が祀ったという話や、諸江卿の娘である七崎姫を七崎観音として祀ったという話が由緒譚としてあるが、実際の経緯については不明[南祖坊を諸江卿の子息とする伝えもある]/大正15年[1926]の『郷社七崎神社誌』では「坂上田村麻呂将軍が当地に来たことは史実」としているが、田村将軍の研究を踏まえると「史実」というのは難しい)
  • 空海ご入定(承和2年[835]3月21日/延喜21年[921]に大師号下賜)
  • 鏡宥上人(貞観10年[868]11月24日ご遷化)
  • 日照上人(仁和3年[887]7月23日ご遷化)
  • 空海に大師号「弘法大師」下賜(延喜21年[921]10月21日/醍醐天皇より)
  • 宥海上人(寛治5年[1091]5月25日ご遷化)
  • 覚鑁入寂(康治2年[1143]12月12日/49年の生涯/元禄3年[1690]に大師号下賜)
  • 開基・行海上人(承安元年[1171]5月に開基/過去帳に「當寺中興」と記載/位牌では表に「開山」、裏に「開基」と記載/全国行脚の後に当地に立ち寄り、村の沼の大蛇を解脱に導き、村人に懇願されて当地に留まられたと伝えられる/旧・観音堂[寺号・徳楽寺、現在の七崎神社の地にあった]の地に、七つ星になぞらえて杉を植えたとされる/建仁年間[1201〜1203]に99歳でご遷化)
  • 行惠上人(寛元2年[1244]1月26日ご遷化/修円房/当中5世)
  • 『三国伝記』(応永14年[1407]成立/沙弥玄棟/説話集/十和田湖伝説が収録/全360話中120話が日本の説話で、そのうち1割もが『長谷寺験記』関係という特徴がある)
  • 宥漸上人(応仁元年[1467]8月26日ご遷化/当山22世/秀満房)
  • 惠海上人(元和3年[1617]5月19日ご遷化/五輪塔が旧・三戸永福寺[嶺松院(明治に廃寺)]の地に現存/本坊盛岡永福寺30世)
  • 仁王門造営(寛永2[1625])
  • 弘法大師800年御遠忌(寛永11年[1634])
  • 興教大師500年御遠忌(寛永19年[1642])
  • 『雑書』(確認されているのは寛永21年[1644]3月14日〜天保11年[1840]末【欠落箇所アリ】)
  • 『寺社記録』(寛永21年[1644]〜天保8年[1837]【欠落箇所アリ】)
  • 本七崎観音(明暦元年[1655])
  • 観音堂並十二末社再興(観音堂3間四方/棟札は明暦2年[1656]に宥鏡上人が作成)
  • 吊灯籠(寛文10年[1670])
  • 弘法大師850年御遠忌(貞享元年[1684])
  • 興教大師550年御遠忌(元禄5年[1692])
  • 現七崎観音(貞享4年[1687]/4間四方の観音堂が再建[棟札が神社にアリ]
  • 覚鑁に大師号「興教大師」下賜(元禄3年[1690]12月26日/東山天皇より)
  • 観音堂並小宮葺替(元禄6年[1693])
  • 『系縁集』(元禄11年[1698]、編者・藤根吉品[重信・行信・信恩3代に右筆として仕える])
  • 『来歴集』(元禄12年[1699]、編者・藤根吉品[重信・行信・信恩3代に右筆として仕える])
  • 殺生禁断札設置(正徳2年[1712]/南部利幹公)
  • 仁王門改造(享保2年[1717])
  • 仁王像(享保3年[1718])
  • 前机(享保9年[1724])
  • 稲荷大明神造営(享保12[1727])
  • 快傳上人逆修建立の墓石(享保14年[1729]、施主信敬とある)
  • 『津軽一統志』(享保16年[1731])
  • 寺屋敷(庫裡)(享保18[1733]/この時に観音山[現在の七崎神社境内]に2000本余の杉を植樹と記載アリ)
  • 弘法大師900年御遠忌(享保19年[1734])
  • 興教大師600年御遠忌(寛保2年[1742])
  • 学秀仏・千手観音坐像(享保年間奉納と推定/学秀仏と思われる不動明王像と大黒天像アリ)
  • 龜峯扁額(享保頃の可能性/落款が「龜峯」「主忠信」「不爾」)
  • 南祖法師尊像(延享元年〜2年[1744〜45]と推定)
  • 賽銭箱(寛保3年[1743]12月)
  • 『奥州南部糠部巡礼次第』(寛保3年[1743]6月3日〜18日の15泊16日で則誉守西上人ら14名が巡礼)
  • 『祐清私記』(著者・伊藤祐清は寛保元年[1741]に諸士系図武器右筆等諸用掛りについており、この際に収集した諸資料や記録をもとに編集したと見られている)
  • 『寛延盛岡城下図』(寛延年間[1748〜51]/本坊・盛岡永福寺ほか関係寺院が記載されている)
  • 御輿再修覆(宝暦6年[1756]/神社誌にも記載されるが棟札は当山所蔵
  • 鳥居新築(宝暦10年[1760]春)
  • 『御領分社堂』(宝暦10年[1760]頃)
  • 愛染堂再興(宝暦13年[1763])
  • 不動堂再興(宝暦13年[1763])
  • 天照皇大神宮再興(宝暦13年[1763])
  • 大黒天堂造営(宝暦13年[1763])
  • 仁王門修造(宝暦13年[1763]3月)
  • 御輿新造(明和2年[1765]3月)
  • 『平泉雑記』(安永2年[1773]/南祖坊が植えた姥杉の伝説)
  • 夫婦地蔵(安永3年[1774])
  • 弘法大師950年御遠忌(天明4年[1784])
  • 『いわてのやま』(天明8年[1788]/菅江真澄の紀行文/十和田湖伝説関連)
  • “十和田の本地”(天明期[1781〜89]には南部藩領で語られた奥浄瑠璃/諸本多し)
  • 鈸(寛政2年[1790]/宥慎上人により奉納)
  • 興教大師650年御遠忌(寛政4年[1792])
  • 荒神堂再建(寛政5年[1793]8月6日)
  • 『邦内郷村志』(明和・寛政年間/大巻秀詮)
  • 地蔵菩薩(享和2年[1802]/現在、位牌堂本尊)
  • 『十曲湖』(文化7年[1807]/菅江真澄の紀行文/十和田湖伝説関連)
  • 『篤焉家訓』(文化・天保年間[1804〜44]/市原篤焉)
  • 鐘楼堂再建(文化5年[1808]/神社誌にも記載されるが棟札は当山所蔵
  • 愛染明王(文化7年[1810]/宥瑗上人により奉納)
  • 本堂再建(文化8年[1811])
  • 千手観音堂再建(本堂再建と同時期)
  • 香炉(本堂再建と同時期/宥瑗上人により奉納)
  • 観音堂扁額(文化14年[1817]/三井親孝の書)
  • 『竹田加良久里』(文政6年[1823]/持仏堂主人)
  • 『当時十和田参詣道中八戸よりの大がひ』(文政年間のものと見られている/十和田湖参詣道について)
  • 『十和田記 全』(文政12年[1829]成立と見られている/「御縁起見る心得のケ条覺」に彼岸中日に青龍大権現[南祖坊]来臨のいわれに触れられている)
  • 秋葉権現堂再建(天保4年[1833])
  • 『盛岡砂子』(天保4年[1833]/星川正甫)
  • 弘法大師1000年御遠忌(天保5年[1834])
  • 吊灯篭(天保8[1837]/宥威上人により奉納)
  • 不動尊祈祷札(吊灯籠と同時期と推定/権僧正とあるため瑜伽者は晩年の宥威上人)
  • 鰐口(天保12[1841]/河内屋により奉納)
  • 興教大師700年御遠忌(天保13年[1842])
  • 八体仏(弘化年間[1845〜48])
  • 稲荷大明神(嘉永2年[1849]/普賢院宥青[当山先師]、善明院栄隆[修験“善行院”14代])
  • 『鹿角日誌』(嘉永2年[1849]7月16日〜8月3日の日誌/松浦武四郎)
  • 『八戸浦之図』(嘉永年間[1848〜1855])
  • 一王子再建(安政4年[1857]8月)
  • 『十和田山神教記』(万延元年[1860])
  • 観音堂再修(安政10年[1863])
  • 七崎観音遷座(明治2年[1869]/旧観音堂より仏像・什器など一式が移される/しかし、旧地への参詣者が見られたため旧地へ小堂を作り旧神宦神殿へ再遷座[『伺』の記述内容と僧侶としての知見から、再遷座されたのは現七崎観音と思われる])
  • 斗南藩縁故者墓石16基(主に明治4〜5年[1871〜72])
  • 旧神臣略系(明治7年[1874])
  • 七崎観音遷座(明治9年[1876]12月/明治2年に旧地へ再遷座した七崎観音を普賢院へ再々遷座/移されたのはおそらく現七崎観音)
  • 『伺』(明治10年[1877]/青森県令 山田秀典にあてたもの/文化6年(1809)奉納された梵鐘に関する伺い/明治初期における七崎観音遷座の経緯について述べられている)
  • 『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])
  • 『奥々風土記』(江刺恒久が南部利剛の命により編纂)
  • 弘法大師1050年御遠忌(明治17年[1884])
  • 観音堂内御堂造立(明治19年[1886])
  • 興教大師750年御遠忌(明治25年[1892])
  • 興隆講規則(明治34年[1901]/観音講を組織化して再興)
  • 『目録』(明治36年[1903]/明治になり旧観音堂から移されたものをまとめたもの)
  • 十三仏掛軸木箱の蓋(明治39年[1906])
  • 本堂屋根葺替(大正3年[1914]12月)
  • 七崎山龍神堂木札(大正4年[1915]5月)
  • 『郷社七崎神社誌』(大正6年[1917]/小泉幸雄)
  • 『糠部五郡小史 附 三戸名所旧蹟考 埋木の花 鄙の土』(大正11年[1922]/当地については小泉幸雄氏が記述している)
  • 地蔵菩薩(明治末〜大正期/一時当山の代務者をつとめた赤穂覚信師が作仏)
  • 北沼観音(昭和2年[1927]蓮沼にて発見、昭和4年[1929]旧8月17日建立)
  • 観音堂並仁王門改築(昭和6年[1931]/『七崎観世音道場普請報告書』に記載)
  • 子安地蔵堂(昭和6年[1931])
  • 『十和田湖鳥瞰図』(昭和8年[1933]/吉田初三郎/七崎観音と永福寺[普賢院]が描かれている)
  • 弘法大師1100年御遠忌(昭和9年[1934])
  • 本堂庫裡修繕(昭和9年[1934]/長峻和尚尊霊歎徳文に記載)
  • 大日坊大黒天(昭和10年[1935]頃と推定/61世長峻上人は昭和10年に大日坊88世住職にも就任)
  • 割切五條袈裟(昭和11年[1936]11月/長峻子息・晃雄師[後に出征し戦死])
  • 興教大師800年御遠忌(昭和17年[1942])
  • 戦勝祈願札3枚(戦争期)
  • 本堂屋根葺替(昭和22年[1947]12月/戦後の統制経済の様子を伝える記述がある)
  • 「北ノシノキ」と書かれた木板(昭和22年[1947]12月12日/3名の名が列記)
  • 『永福寺物語』(昭和22年[1947]/山岸郷友会編集部/江戸期まで本坊であった盛岡永福寺は明治になり廃寺。その後、昭和17年[1942]に再興が許可。本誌は再興永福寺の落慶記念。)
  • 本堂修築(昭和26年[1951]/写真アリ)
  • 戦没者慰霊碑(昭和37年[1962]11月)
  • 北沼観音を八太郎から普賢院に遷座(昭和39年[1964])
  • 本堂改築並位牌堂新築(昭和51年[1975])
  • 観音堂宮殿塗装修復(昭和56年[1981])
  • 弘法大師1150年御遠忌(昭和59年[1984])
  • 子安地蔵厨子(昭和59年[1984])
  • 仁王門新造並山号札・観音札所札(昭和59年[1984])
  • 観音堂内陣格天井並中台八葉院法曼荼羅及新装照明(昭和60年[1985])
  • 聖観音像奉納(昭和60年[1985]1月24日/施主 中村元吉・ミチ夫妻/内殿に安置)
  • 子安地蔵内格天井(昭和60年[1985])
  • 観音堂内格子前扉(昭和61年[1986])
  • 鐘楼堂建立(平成2年[1990])
  • 興教大師850年御遠忌(平成4年[1992])
  • 本尊厨子(平成5年[1993])
  • 客殿並位牌堂新築(平成12年[2000])
  • 鐘楼堂修繕(平成25年[2013])
  • 十和田神社・普賢院合同祈祷(令和元年12月9日/南祖法師尊像出開帳/十和田湖占場にて取水し、浄水を合同祈祷にてお加持)
  • 長谷寺式十一面観音三尊造立(令和2年[2020]/仏師・小堀寛治氏)
  • 普賢院中興64世 泰永大和尚遷化(令和3年9月8日/生前中自身の手による仏具・仏画を多く残したうえ、修繕も多く行っている)
  • 絵本『龍になったおしょうさま』制作(かたり部によるプロジェクト/令和3年8月〜10月クラウドファンディング実施、12月完成)
  • 大般若経全600巻新調(令和3年/文化7年の火災により焼失したとされるため、本堂建替にあたり新調)
  • 本堂建替(令和2年10月解体、令和3年5月19日地鎮式、7〜9月基礎工事、同年11月建方開始、11月9日立柱式、令和4年3月6日上棟式、12月12日落慶式/施工・松本工務店)
  • 本尊・愛染明王像、仁王像、普賢菩薩像、本七崎観音像修繕、ほか仏具修繕(令和2年秋彼岸後に搬出/施工・阿部正助商店)
  • 須弥壇・密壇・護摩壇ほか修繕、観音堂賽銭箱ほか制作(施工・五戸木工)
  • 龍王・龍女像制作・奉安(令和4年/施主・普賢院弟子太陽坊/仏師・小堀寛治氏)
  • 十和田湖青龍大権現碑建立(令和4年/施主・根城番地石材店)
  • 会津斗南藩供養所整備(令和4年)
  • 合葬墓建立(令和4年)