おこもりの記事が新聞に掲載されました

本年2/7(旧暦1/17)に

行われた七崎観音おこもり護摩法要の

記事が地元紙デーリー東北に

掲載されました。

 

取材して下さった

記者の田村さんが

とても素敵な写真を

撮って下さったうえ

分かりやすい記事に

まとめて下さっています。

 

手元にある方は

ぜひお読み下さい。

 

 

▼おこもりの様子(ダイジェスト版)

 

▼おこもりの様子(長尺版)

おこもり護摩のダイジェスト動画をアップしました

2/10に行われた

七崎観音おこもり護摩法要の

ダイジェスト動画を公開したので

ご覧いただけると嬉しいです。

 

本年は

新本堂で迎える最初の「おこもり」

だったということもあり

入念に準備を行ったのですが

反省点も多く

まだまだ改善の余地がありそうです。

 

ただ

本年のおこもりは

とても良い法要になったと

嬉しく感じています。

 

観音堂の仏像配置を再考中です

旧本堂の観音堂の建具を

再利用する関係で

未定であった観音堂の内殿の

寸法が決められまして

祭壇スペースが

一気に形作られました。

 

スペースの大きさが

決まったことに伴い

観音堂内殿に安置する

お仏像の配置を

再考しております。

 

内殿の祭壇位置が

旧本堂よりかなり髙いうえ

奥行きがあるため

秘仏・現七崎観音を

中央の奥にご安置すると

ご開帳する際に

内殿に入り込まないといけないですし

もともと現七崎観音は

ご本体仏の本七崎観音の

御前立ちだったわけなので

内殿奥側に本七崎観音をお祀りして

その前に現七崎観音をお祀りすれば

ご開帳に際する懸念も解消されます。

 

そうした場合

中央に本七崎観音と現七崎観音が

縦に安置されることになり

向かって右側スペースが空くので

そこに学秀仏・千手観音坐像を

ご安置すればどうだろうかなどと

考えめぐらせております。

 

あくまでも思案段階です。

 

観音扉や飾り柱が設置されてから

安置スペースを実際に

確認してからの決定となるので

最終判断は

お仏像を配置してみてからとなります。

 

この類の決定は

今後の慣習に影響するものゆえ

責任重大です。

 

住職でしか

決定することの出来ないことなので

慎重に検討したいと思います。

 

厳しい時代背景と神童南祖丸という視点

 

▼イベント情報はコチラ

「十和田湖伝説と南祖法師」の詳細

 

令和4年4月10日午前10時から

八戸ブックセンターで開催される

絵本刊行イベント「十和田湖伝説と南祖法師」

は残席1となりました。

 

感染症対策の兼ね合いで

今回は定員10名での開催です。

 

当日のスライド資料を本日仕上げました。

 

短い時間ですが

有意義な時間を

ご一緒させていただきたいと思います。

 

クラウドファンディングで制作した

絵本『龍になったおしょうさま』の

“原作”は『十和田山神教記』

(とわださんじんきょうき)

という幕末の写本で

当山では2冊所蔵されております。

 

この写本は

その内容が

仏教説話的要素が色濃い点に

特徴があります。

 

現在

十和田湖の現地で「伝説」として

語られている内容は

様々な写本の要素が

組み合わされて成っていると

指摘することが出来ます。

 

近世以降(江戸期以降)

様々な写本が作られて

様々な形で様々に語られるわけですが

このバラエティーに富んだあり方への

向き合い方は

まだまだ未着手の部分があるように思います。

 

一つ例をあげるとすれば

時代背景的な部分でいえば

死生学で指摘される

死生観の転換を踏まえることも

出来ると思われます。

 

“神仏の申し子”であったり“神童”として

描かれる南祖法師が

最終的に神仏につながる存在になり

入定(にゅうじょう)して

十和田湖を介した

現世と“地続き的な常世”にあり続けるような

描かれ方に

その時代的死生観が反映されていると

想定するならば

これまで主に考えられてきた筋書き以外に

浮かび上がってくる「時代の声」が

聞こえてくるように思うのです。

 

本堂建替や住職交代という節目にあったため

改めて過去帳を見てみると

江戸〜昭和のある時期までは

とても多くの子どもが亡くなっていることに

気が付かされます。

 

子どもの成長にちなんだ行事を

大切にする伝統が

日本にはありますが

これは子どもが健やかに生育することが

いかに尊いものとして

捉えられていたのかということにも

通じる話とえいます。

 

江戸期の東北は

幾度も飢饉(ききん)に見舞われ

子どものみならず

多くの命が犠牲になっています。

 

当山の棟札(むなふだ)や文書の類を見ても

そういった時代において

切実に願いが捧げられた形跡が見られます。

 

このような視点から

南祖法師の伝説を眺めると

これまでとは少し異なった心情の持ち方による

伝説との向き合い方を

想定出来るように思います。

 

実は本年2月に

青森県津軽地方のある慣習を事例とした論文を

現代教化研究所という研究機関の研究員として

提出したのですが

これは死生観を手がかりとして

現代的供養の特徴について

述べさせていただいたものです。

 

2年越しの執筆だったので

当初の予定よりも

掘り下げた形で仕上げることが出来まして

その一連の研究の中で

近世の東北の状況が

いかに過酷なものであったのかを

改めて確認させられました。

 

という伏線があり

十和田湖伝説を死生観という観点を踏まえて

眺めてみることの可能性に思い至ったわけです。

 

 

 

 

少し話は変わりますが

当山は南祖法師が修行したとされるご縁で

十和田湖伝説が語られる際に

触れられることが多くあります。

 

十和田湖において

伝説は観光資源として大切にされており

それをもとにした取り組みが盛んであるのは

とてもよろしいことだと思いますが

当山の由緒や縁起について

当山が所蔵する棟札(むなふだ)や過去帳を含む文書の記述や

当山・当地にて語り継がれている内容とは全く異なる様々な形で

断定的に語っている方もいらっしゃる様です。

 

十和田信仰の関連寺社は

少ないため

そういったお話を現地等で耳にされた方が

当山においでになられて

色々と質問いただく場合が多いのですが

中には完全な事実誤認を

引き起こされているケースも見られ

これはちょっと…と

思わされることもありました。

 

関連寺社のひとつである

当山が把握する内容とは全く異なる

当山についての言説がなされているわけですから

当山・当地として

歓迎するものであるわけがありません。

 

観光目的としての語りということで

関連地各所にて語り継がれる

寺社の縁起の尊さは

関係ないのかもしれませんが

明らかに配慮に欠けているように感じます。

 

せっかくのご縁があっても

こういったことが続けば有縁各所が

疎遠になってしまうのではないでしょうか…

 

少なくとも

現在の当山としましては

何かご相談されたとしても

お力になれることは

あまりないと考えています。

 

それはそれとして

これまで拙僧泰峻は

お堂内陣にお入りいただき

各仏像を近くでじっくり

ご覧いただくことに対して

あまりに無警戒な部分があったうえ

縁起等の根拠となりうる

所蔵文書等の内容の公開が

最近まで少なかったということもあり

今回話題としているような状況を

ある意味助長していたとも感じられるので

この点は方針を改めたいと思います。

 

普賢院住職には

七崎観音別当という肩書もあり

現在は内御堂となっている

七崎観音堂を司る役目もあります。

 

普賢院(七崎永福寺)と

七崎観音堂(七崎山徳楽寺)の

縁起を守り伝えるのも当山住職の勤めです。

 

そもそも当山は

十和田湖伝説ゆかりのお寺ではありますが

観光のためのお寺ではありません。

 

当山は

檀信徒の皆さんや有縁の皆様により

お支えいただき

お守りされてきた寺院であり

代々「祈り」(供養・祈願など)に

力を入れてきたお寺です。

 

歴代数えられない程

沢山の方々に

携わっていただいてきて

今の普賢院があるということを

お踏まえいただいたうえで

諸事ご対応いただきたいものです。

迫力ある太鼓の響き

先日行われた

七崎観音おこもり法要での

観音経(かんのんぎょう)

というお経の読経シーンの

動画をアップしました。

 

太鼓つきの迫力ある

法要の様子をご覧いただけると幸いです。

 

おこもり法要という

一年に一度の行事を終えて

少し一休みしたいところですが

3月6日の上棟式(じょうとうしき)の

準備を本格的に始めました。

 

細々とした所を詰めている段階ですが

とても良いひとときに

なるように思います。

 

なかなかない機会なので

多くの方にご一緒いただき

お祝いの儀式に

臨ませていただきたいと思います。

 

 

▼上棟式のご案内動画

七崎観音の近現代

2月17日は

秘仏・七崎観音(ならさきかんのん)の

ご開帳日です。

 

この日は

午後8時よりご宝前にて

法要を執り行います。

 

この行事は「おこもり」と

通称されます。

令和4年おこもりのご案内

 

明治時代になり七崎観音は

行ったり来たりを繰り返した

ということは

これまでも触れてきましたが

そのことをいまに伝える

明治10年(1877)『伺』(うかがい)

という県令への文書があります。

 

以下に引用するのは

その翻刻です。

 

往来がわかる部分は

色を付しています。

 

赤は1回目

青は2回目

紫は3回目の遷座の記述です。

 

なお

原文のくずし字を

拙僧泰峻が翻刻したのですが

何文字か解読困難な箇所があり

文脈から字をあてていることを

あらかじめお断りしておきます。

 

 

当七崎村郷社七崎神社

曩日仏体正観音混一七崎山観音社号二付

衆庶参拝罷在昔時

文化六年當時第九大區三小區

新井田村盛元太郎曽祖父半兵衛代

梵鐘壱鳴寄附有之候処

御維新来各社寺

一般神佛混淆不相成旨

御達二付

過ル明治二己巳年

右正観音佛体外附属之什器

并梵鐘共該社ヨリ

當村真言宗普賢院へ

一旦移置候処

従来近郷人民信仰之霊佛二付

衆庶旧慣ヲ不脱

猶受持旧神宦ヲ訪来

空殿ヲ参拝スルノ族モ

間々有之二付

更二永続方法ノ目途相立可成

丈ケハ小堂ナリトモ建立仕度義

村方一同志願二付

其際旧神宦神殿江移転

人民信仰二任セ

参拝為致居候

昨九年十二月

教部省第三拾七号御達之趣モ有之

素ヨリ佛体二候得共

当院へ再ビ移転

什器共悉皆可引渡ハ勿論二候所

前顕梵鐘寄附人私有之訳ヲ以

今般取戻之義掛合有之

殆ド困迫之次第

尤廃社等二至テハ寄附什器

本人随意取戻之義可有之候得共

既二神佛区分右佛体

現今普賢院二存在候上ハ

概シテ廃社寺与

同視スベカラザル様有之

且本人情願二依リ寄附候者

今更無用ノ贄物抔申唱候義

如何与存候得共

元ヨリ私共二於テ

其可否討論可致ノ権理無之二付

無余儀次第与思考仕候得共

従来正観音江寄附之鏡故当院へ

備置仕度

且つ当院境内之義ハ村中中央土地髙壟

鐘堂建築適当之地二付

自今報時鐘二仕候得共

昼夜旦暮之時報ヲ耳二シ

各自農民臥起之教戒ハ勿論

臨時之為成丈ケ

取戻等無之様

再三先方ヘ示談二及び候得共

兎角承諾無之

依之右等共一般寄附人二付

自侭二取戻之権理可有之哉

且つ弥取戻候節ハ

右梵鐘寄附之際

村方人夫二付

鮫村より運搬仕候二付

其入費并右二関諸入費

悉皆本人より償却為到候義

如何可有之哉

此段共奉伺候条何分之御指令

奉希望候

以上

 

明治十年六月七日

第八大区三小区七崎村

旧社人惣代 嶋森亀之助 印

同旧神宦 白石守 印

同普賢院住職 佐藤法隆 印

同総代 久保杉嘉藤治 印

同村用係 橋本岩松 印

 

青森県令 山田秀典殿

 

以上が『伺』の翻刻となります。

 

どのような

伺いがたてられているかというと

江戸期に梵鐘を奉納した方の

孫にあたる方が

奉納した梵鐘の返還を

強く求めていることに対する

対応について

当地の代表者方が

当時の県令に問うているわけです。

 

この文書中に

明治初期の当地における

神仏分離の対応を

読み取ることが出来ます。

 

これまでの慣習も尊重しつつ

新たな時代に対応しようと

努められている様子が

伝わってくるように思います。

 

昨日の投稿では

当山61世の長峻和尚について

少しばかり紹介いたしました。

 

名僧というべき長峻和尚は

住職在位中の約20年にわたり

普賢院を復興され

さらには兼務寺院興隆にも

ご尽力されました。

 

長峻和尚は研究者肌だったようで

晩年に到るまで時間があれば

ひとり研究に励まれていたそうです。

 

1901年(明治34)に

普賢院では興隆講という

講が発足しています。

 

興隆講については

以前にブログで触れているので

よろしければそちらも

ご参照下さい。

稀代の古刹 七崎観音⑩

 

興隆講は

七崎観音堂の再興事業とでも

いうべき取り組みです。

 

定期的に集まり

護摩祈祷を行ったり

法話を聞いたりなど

積極的な活動が

なされていたようです。

 

長峻和尚の祈祷や護摩には

多くの人が集まったそうです。

 

カリスマ的な住職だったと

いえるかと思います。

 

東北屈指の霊場である

山形県鶴岡の

湯殿山大日坊の住職を

最晩年は務めるわけですが

多忙が過ぎたこともあり

病魔におかされ

行年60でご遷化されました。

 

それからしばらくの間

当山は困難な時期となります。

 

62世晃雄和尚が住職になるのは

長峻和尚亡きあと

しばらくたってからとなるのですが

その晃雄和尚の晋山式は

同時に出征送別のひとときでもありました。

 

戦争期において

七崎観音へは

身内が出征した方が

多く参詣されるようになったそうです。

 

明治から昭和まで

話が飛んでしまった感がありますが

明治以後の激動期については

可能な限りの記述を試みたいと思います。

 

今回は

明治初期における神仏分離への対応を

今に伝える文書『伺』の紹介と

“巨星”長峻和尚とその後について

多少触れさせていただきました。

 

 

 

 

2体の七崎観音についてショートムービーを作りました

当山に祀られる

七崎観音(ならさきかんのん)は

明治時代を迎えるまでは

現在の七崎神社の地にあった

七崎観音堂に祀られていました。

 

神仏分離政策への対応のため

七崎観音堂は廃止され

堂内の諸尊・諸法具は

別当寺である普賢院へ移されました。

 

七崎観音堂は

「稀代の古刹」と称されるほど

多くの方に崇敬され

代々の藩主にも庇護されてきましたが

明治に廃止され

突貫工事的に普賢院本堂内に用意された

観音堂に遷座されることになります。

 

普賢院本堂の一隅に用意された

観音堂のスペースは

とても簡素なもので

盛時の面影は

全くなかったそうです。

 

しかし

明治以後の住職方のご尽力により

七崎観音堂は

普賢院本堂の内御堂(うちみどう)として

再興されていくことになります。

 

明治、大正、昭和、平成を通じ

観音堂は素晴らしい空間に

整備されてまいります。

 

歴代住職方が繋がれてきた

尊い「思い」を令和においても

しっかりと引き継ぎたいと思います。

 

そのようなことに触れながら

七崎観音についての動画を

用意したので

ご覧いただけると幸いです。

 

明治以後の七崎観音の祀られ方の変遷

当山に祀られる

七崎観音(ならさきかんのん)と

称される聖観音は秘仏で

毎年旧暦1月17日にのみご開帳され

そのご宝前にて法要が行われます。

 

現在、七崎観音として

認知されている仏像は

1687年に藩主・南部重信公が

「御前立ち」として奉納されたものです。

 

「御前立ち」というのは

本体の仏像の前に安置される仏像

という意味です。

 

七崎観音のご本体にあたる仏像は

これまでよく分からなかったのですが

本堂建替という歴史的な節目において

所蔵する仏像・仏具・史料・資料などを

総整理しつつ調査も進めていた所

どの仏像が七崎観音のご本体かが

判明いたしました。

 

本体にあたる七崎観音の仏像は

1655年に藩主・南部重直公が

奉納されたものになります。

 

重直公と重信公は兄弟です。

 

消えかけていた歴史を

後世に留めることが出来たことに

奇縁を感じさせられます。

 

当山ではご本体の七崎観音を

本(もと)七崎観音と呼び

現在七崎観音として祀られている御前立ち仏を

現(げん)七崎観音と呼び分けています。

 

これまでも

七崎観音について

色々と紹介してまいりましたが

今回は明治以後に

どのように安置方法が

変化していったのかについて

取り上げたいと思います。

 

安置方法の変化をたどると

その時々における七崎観音の認識が

いかなるものであったかですとか

認識の変化と思われるものを

汲み取ることが出来ます。

 

安置方法についていうと

お祀りするスペースの関係もあったことは

忘れてはならないことです。

 

限りあるスペースでは

出来る形でしか采配することが出来ません。

 

本七崎観音の仏像は大きいもので

昭和後期までは大きな厨子に

納められていました。

 

そうすると

高さも奥行きも必要となるわけで

スペースに限りがあるならば

本来のなすべき形ではなく

変則的な形で祭祀せざるをえないわけです。

 

そういった経緯ですとか

時の住職のお考えは

記録に残りにくいものですし

明治以後となると

頻繁に住職が交代し

記録に残っていない方も

いらっしゃる状態なので

十分な引き継ぎがなされていたとは

考えられません。

 

明治になると

もともとの観音堂は廃止され

観音堂内の仏像・仏具などは

別当寺である普賢院に

移されることになります。

 

明治になり

七崎観音は当山に遷座されたのですが

空の旧観音堂へ観音参りに

訪れる方が耐えなかったため

七崎観音は再度旧観音堂に遷座され

そしてまた当山に

遷座されたという経緯があります。

 

拙僧泰峻の推測ですが

当山から旧観音堂へ遷座する際は

全てを移動させるのではなく

当時の背景や慣例等を踏まえるに

現七崎観音のみを

移したものと思われます。

 

神仏の遷座には

当然のことながら作法が伴うわけで

その意味を踏まえて考えると

本体である本七崎観音も

再度旧地にお連れするということは

しないと思います。

 

御前立ちであれば

いわば「分身」なので

再び旧地に一時的に移すというのは

無理のない判断だったと思います。

 

戦争のインパクトも大きいもので

62世住職・晃雄大和尚と

その弟である高明大和尚が

出征・戦死したため

当時の住職の妹が

お寺を守った期間もあります。

 

歴史の大きなうねりの中で

様々な要素が関連して

七崎観音にまつわる歴史が

徐々に忘れかけていったと

言うことが出来るでしょう。

 

以下に

画像資料を掲載するので

どのように祀られ方が

変わっていったのかを

ご確認いただけると幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

《ご開帳のご案内》

令和4年おこもりのご案内

 

《本年の七崎観音に関する記事》

かつての七崎観音堂のイメージ図

浮かび上がる江戸期の七崎観音の祀られ方

 

かつての七崎観音堂のイメージ図

本年2月17日は

七崎観音(ならさきかんのん)

おこもり法要

が行われます。

 

七崎とは現在の豊崎町の旧称です。

 

七崎観音は

聖観音(しょうかんのん)という観音様です。

 

七崎観音おこもり法要という行事は

秘仏の七崎観音をご開帳して

行われる法要です。

 

例年ですと

護摩を行うのですが

仮本堂では消防法の関係で

護摩を修法できないため

昨年同様に形式を変えて

ご祈祷の法要を行ないます。

 

以下に

本年の法要のご案内と

これまでの

アーカイブ(動画)の

リンクを貼っておきます。

令和4年おこもりのご案内

 

旧暦1月17日に行われるこの行事は

「おこもり」と通称されます。

 

一時は

存続の危機にあったのですが

試行錯誤を重ねまして

この10年で少しづつ

参列者も盛り返し

多くの方にご縁を

お結びいただけるようになりました。

 

当山HPは2016年に開設して

同時に「おてらブログ」も

開始したのですが

おこもりの時季となると

お寺の歴史であったり

七崎観音の由緒であったり

おこもりについての投稿を

重ねております。

 

過去の記事を見てみると

よくこれだけ多くのものを

調べてまとめたものだと

自身でも驚く程です。

 

ただ

記事のボリュームがあるうえ

投稿数も結構あるため

自身でもいつ何をまとめたのか

調べるのが大変なため

最近は画像資料として

整理したり

過去の記事を添付するなどして

あらためて当山と

向き合わせていただいております。

 

本年もおこもりの日が

近づいてきたので

七崎観音に関連する投稿を

重ねたいと思います。

 

少し前に

江戸期における

七崎観音の祀られ方について

紹介いたしました。

 

それがこちらの記事になります⬇

浮かび上がる江戸期の七崎観音の祀られ方

 

今回は前回の続きとして

もう少し具体的に

かつての七崎観音が

どのような所にどのような形で

祀られていたのかについて

拙僧泰峻が法流(お作法や法式などの流れ等)

を踏まえて出来るだけ具体的に

紐解いてみたいと思います。

 

諸史料・資料で

当時の要素を整理したうえで

法流を踏まえて

旧七崎観音堂が

どのようなものであったかを

考察するに

以下に用意した画像資料の

ようになろうかと思います。

 

まずは

旧七崎観音堂内ですが

七崎観音ご宝前には

護摩壇ほか法具が

荘厳されていたはずです。

 

▼江戸期の観音堂内部

 

次に観音堂のお堂についてですが

『新撰陸奥国誌』掲載の

俯瞰図(スケッチ)により

方形(ほうぎょう)であったことがわかります。

 

方形とは

正方形のお堂で

観音堂として採用とされることが

とても多かった様式です。

 

江戸期の棟札や史料により

七崎観音堂の大きさも分かっています。

 

七崎観音堂のイメージ図も含め

以下に画像資料を掲載します。

 

 

以上、今回は

旧七崎観音堂について

より具体的に紹介いたしました。

 

七崎観音とご縁を

お深めいただけると幸いです。