稀代の古刹 七崎観音⑭

このタイトルでの投稿は

気がつけば一年以上ぶりです。

 

殊に本年に入ってからは

現本堂解体に向けた準備にも

追われていまして

相変わらずバタバタと

過ごしております。

 

本堂解体に向けた準備作業には

仏具や所蔵品の整理も含まれており

作業を進めていると

次々と貴重なものが出てきたり

新たな視座を得たりということもあり

良い功徳を頂戴しながら

歴史的大事業を進めさせて頂いております。

 

当山は

菩提寺という性格に加え

これまで祈願寺という性格が

色濃いお寺でもあったので

古い祈祷の御札や版木が

所蔵されています。

 

今回は

当山の歴史について

興味深い文言が刻されてた

正(聖)観音の古い版木を

ご紹介いたします。

 

まずは写真をご覧ください。

 

▼正(聖)観音の版木・全体像

 

▼同版木・下部

写真だと見にくいですが

七嵜山 普賢院」と刻されています。

※「嵜」は「崎」の異体字。

※以下、「崎」で記させて頂きます。

 

当山は

平安初期(弘仁初期頃)に

圓鏡(えんきょう)上人が開創され

承安元年(1171)に

行海(ぎょうかい)上人が開基され

享保年間(1716〜1736)に

快傅(かいでん)上人が中興されました。

 

鎌倉時代〜江戸時代初期は

永福寺(えいふくじ)の寺号(じごう)が

用いられております。

 

現在の観音堂の中尊として

祀られる聖観音(しょうかんのん)は

七崎観音(ならさきかんのん)と

通称されており

その起源もまた平安時代に

遡るとされます。

 

当山は

永福寺時代も含め

現在に至るまで

七崎観音の別当を勤めております。

 

現在の七崎観音の仏像は

南部29代・重信公が

貞享4年(1687)に

奉納されたものです。

 

七崎観音は

明治時代に至るまでは

現在の七崎神社の地に建立されていた

観音堂に祀られていました。

 

その観音堂は

七崎観音堂(ならさきかんのんどう)と

呼ばれており

徳楽寺(とくらくじ)という

寺号(じごう)が用いられていました。

 

明治になり発令された

神仏分離令により

徳楽寺は廃寺となり

跡地には七崎神社が建立されました。

 

徳楽寺の廃寺に伴い

七崎観音は現在の場所に

遷座(せんざ)されました。

 

徳楽寺は

七崎山(ならさきさん)という

山号(さんごう)が用いられ

七崎山徳楽寺という寺院名が

まかり通っていたというのが

一応の「定説」でした。

 

しかし

今回紹介させて頂いている

古い版木が示している

「七崎山普賢院」という

山号と院号は

「定説」以外の可能性を

宿したものとも捉えられますし

当ブログで重ねてきた考察や仮説に

幾つかの具体的イメージを

与えうるものでもあると感じます。

 

現在において

必ずしもそうではありませんが

寺院名は山号・院号・寺号で

ワンセットなので

単に

七崎山普賢院徳楽寺という形で

徳楽寺の院号として

普賢院の御名が

用いられていた

とも考えられます。

 

あるいは

江戸初期に

幕政・藩政における

本末関係の組織化が

図られるにあたり

本坊永福寺自坊として

改めて「編成」される際

山号が七崎山から

仏道的な意味合いも濃い

宝照山になったという

推測もありえるかと感じます。

 

今回ご紹介した古い版木は

七崎山という山号をめぐり

沢山の可能性を示唆するものとして

とても興味深いものといえるでしょう。

おこもりの様子を動画にしました

昨日の護摩法要の様子を

短い動画に編集しました。

 

よろしければ

ご覧下さいませ。

 

振り返ってみると

当日はとても寒かったものの

雪が降ることもなく

天候には恵まれたことに

感謝しております。

 

現在の本堂が解体された後は

ふれあい豊山館の1階広間を

仮本堂にする予定です。

 

仮観音堂は2階位牌堂に用意し

行事の際のみ

仮本堂に観音像を

お連れする考えでおります。

 

少し先の話ですが

仮本堂では護摩を行えないので

来年のおこもりは

ご開帳された七崎観音ご宝前にて

大般若(だいはんにゃ)という

法要を行うつもりでおります。

 

▼七崎観音おこもり護摩法要の様子

https://www.youtube.com/watch?v=QDI1HjZ81I0

 

七崎観音の護摩法要にいらっしゃいませんか?

当山本堂にお祀りされる

聖(正)観音(しょうかんのん)は

七崎観音(ならさきかんのん)と

呼ばれており

古くから親しまれてきました。

 

現在の七崎観音は

29代藩主・南部重信公が

貞享4年(1687)に

納められた聖観音(秘仏)で

年に1度だけ

旧暦1月17日のみ御開帳され

その御宝前にて

護摩法要(ごまほうよう)が

厳修されます。

 

年に一度の

とても厳かな法要です。

 

夜の本堂での護摩は

格別のものがあります。

 

どなた様でも

ご参加頂けますので

多くの方にご参加頂ければと思います。

 

現在の本堂は

早ければ本年秋頃に解体予定なので

現在の本堂での

最後の七崎観音ご開帳となります。

 

皆様のご参列

心よりお待ちしております。

 

※詳細については

下記PDFをご参照下さいませ。

R2おこもり広告(正)

 

現本堂最後のご開帳〜2/10おこもり護摩法要〜

当山観音堂本尊である

七崎観音(ならさきかんのん)は

毎年旧暦1月17日にご開帳され

そのご宝前で

護摩法要が厳修されます。

 

本年は2/10が

旧暦1月17日にあたります。

 

現在の本堂で行われる

最後のご開帳となります。

 

現本堂で最後という

“歴史的な”おこもり護摩法要を

ご一緒しませんか?

 

どなた様でも

ご参加頂けますので

是非多くの方に

おいで頂ければと思います。

 

一時は存続の危機に

直面した行事でしたが

有縁の皆様のおかげで

ここ数年は沢山の方に

おいで頂けるようになりました。

 

本年も多くの方と

年に一度の尊い時間を

ご一緒させて頂ければと

願っておりますので

よろしければご一緒下さいませ。

 

皆様のご参列

心よりお待ちしております。

 

※詳細は

パンフレットに掲載してあるので

下記をご参照下さい。

 

▼詳細はコチラ

R2おこもり広告(正)

 

▼2019年の様子(youtube)

https://www.youtube.com/watch?v=MRrJStgPkPM

 

充実感と解放感

大掃除3日目。

 

本日は早朝より

位牌堂正面の中央祭壇の

清掃を行いました。

 

中央祭壇には

厨子に納められた

地蔵菩薩

十三仏

十一面観音を中心に

当山歴代先師のお位牌が

祀られます。

 

取り出せるものは

取り出して

ひとつひとつを拭き清め

配置を若干変更して

尊格を祀る高さの調整を行いました。

 

ここ十数年は

丁寧にお手入れ出来なかった

場所だったので

以前よりも

輝かしくなったように感じられます。

 

祀られている尊格は同じでも

配置等の祀り方が異なると

雰囲気が一変するので

不思議なものです。

 

来年以降

当山の本堂建替が本格化しますが

本堂建替中の仮観音堂は

位牌堂に設けようと

考えております。

 

具体的なイメージを

膨らませつつ

大掃除を行っておりました。

 

当初は

ふれあい豊山館1階広間の

祭壇横の押し入れを改造して

観音堂と地蔵堂を

設けるつもりでしたが

拙僧(副住職)の中で

それは現実的ではないとの

判断に至りました。

 

広間に観音堂を設けると

法事や葬儀や行事の最中には

観音参りが出来ませんし

スペースも限界があります。

 

位牌堂正面の脇祭壇は

スペースも広く

高さもあるので

現在の観音堂に祀られる

仏像を丁寧に

お祀りすることが

出来ると思われます。

 

仮の観音堂とはいえ

由緒ある尊格ばかりですし

糠部三十三観音の札所でもあるので

粗末なものには出来ません。

 

話が少しそれますが

仮本堂や仮観音堂について

かなり思い悩んでおりました。

 

建設委員会では

それらの件について

拙僧(副住職)に判断が

委ねられております。

 

幾通りもの方法があるのですが

どうすれば良いものか

中々答えを出せないでおりました。

 

ですが大掃除を行いながら

色々と具体的に考える中で

ようやく“結論めいたもの”を

出すことが出来ました。

 

大掃除の充実感に加え

思い悩んでいたことからの“解放感”を

得ることが出来た

令和元年のクリスマスでした。

 

史跡・九戸城跡を訪ねる

史跡・九戸城跡(くのへじょうあと)。

 

豊臣秀吉の天下統一の

最後の戦いとなった

九戸政実(まさざね)の乱

舞台となった所です。

 

時は天正19年(1591)。

 

豊臣秀次を総大将とし

名だたる武将で編成された

豊臣方の軍勢は6万5千ともいわれます。

 

九戸方の軍勢は5000で

対峙したとされます。

 

九戸城のすぐ近くには

糠部観音28番札所の

岩谷観音(いわやかんのん)が祀られます。

 

▼岩谷観音(以前のブログ記事)

https://fugenin643.com/blog/かんのんまいり%E3%80%80岩谷観音/

 

現在の岩谷観音堂のすぐそばには

千補陀堂(せんほだどう)建立碑

という碑があります。

 

千補陀堂の「補陀」は

観音菩薩の浄土を意味する

補陀落(ふだらく)という語から

来ていると思われます。

 

この千補陀というのは

千体の観音像を指しており

田子町出身の高僧である

奇峯学秀(きほうがくしゅう)が

九戸政実の乱の戦没者慰霊のため

ご奉納された千体の観音像を意味します。

 

千補陀堂は天保6年(1835)の

白髭水と呼ばれる大洪水で

仏像もろとも流されてしまいました。

 

奇峯学秀は生涯において

三千数百体の仏像を作仏しますが

現存確認されているのは80体程で

当山にも千手観音坐像が

お祀りされております。

 

また岩谷観音堂は

お堂の修復にあたって

当山先師である清珊(せいさん)が

祈祷したことが記される棟札があるそうです。

 

延宝8年(1680)に

盛岡にあった当時の本坊が

大火災により焼尽しますが

これは九戸政実の怨霊によるものとの

伝えもございます。

 

南部藩祈願所という

寺格であったということもあり

時を経て九戸政実のエピソードが

語られたものと思いますが

それだけ後世においても

インパクトが大きかったといえます。

 

九戸城に赴いた当日は

九戸城まつりが開催されており

九戸政実にちなんだイベントなど

様々に行われていました。

 

郷土の歴史を伝えるだけでなく

感じて頂こうというお心が

伝わってくる素敵な催しでした。

 

糠部三十三観音霊場における寛保3年の意義

以前にもブログで紹介しましたが

当山観音堂には

寛保3年(1743)12月に

納められた賽銭箱がございます。

 

※以前のブログはコチラです▼

https://fugenin643.com/blog/寛保3年の賽銭箱/

 

寛保3年(1743)は

現在の糠部三十三観音にとって

とても大切な年でもあります。

 

天聖寺第8世の則誉守西上人が

永正9年(1512)の観光上人による

糠部三十三観音を元に

新たに巡礼したのが寛保3年6月であり

その札所が現在の糠部霊場となっております。

 

現在の三十三観音札所が

新たに“定められた”年でもある

寛保3年(1743)。

 

そのメモリアルイヤーに

納められた賽銭箱。

 

詳細は分かりませんが

糠部霊場における

「寛保3年」の意義を

今に伝えているように感じます。

 

大発見かもしれません〜早稲田観音と普賢院聖観音〜

滝尻善英氏の

『奥州南部糠部三十三カ所霊場めぐり』

(デーリー東北社、平成15年)に

掲載される第23番札所・早稲田観音の

十一面観音像の写真。

 

下から見上げるなアングルで

全体像が写真に納められ

仏像の特徴が捉えられています。

 

こちらがその写真です。

 

調べ物をしていて

それとなしに早稲田観音の

お姿を確認しようと思い

前掲の書籍を見たところ

早稲田十一面観音と

当山の聖観音(しょうかんのん)が

とても似ていることに気が付きました。

 

今話題にあがっている

当山の聖観音は観音堂内陣内殿の

七崎観音の脇仏として

向かって右側に祀られる観音像です。

 

古くから当山に祀られているようですが

その詳細は不明でした。

 

当山では本堂建替を控えており

来年春までには現在の本堂を

解体しなければならないため

本年の七崎観音御開帳の際に

内殿の観音像を細かく観察して

その特徴を確認しております。

 

そういった経緯があっての

今回の「気づき」です。

 

早稲田観音は

当山ととても関わりのある観音様で

かつて早稲田観音の別当を勤めていた

嶺松院(れいしょういん)は当山同様

江戸期に盛岡永福寺を本坊とする

関連寺院でした(現在は廃寺)。

 

普賢院と嶺松院は

いずれも永福寺の旧地ということで

自坊という形で庇護されました。

 

そういった歴史的関係性が

大いにある2所なので

同じ仏師が作仏された仏像が

祀られていたとしても

何ら不思議はありません。

 

それでは実際に

2体の観音像の類似点を

見ていきたいと思います。

 


【蓮台】

▼早稲田観音

▼普賢院聖観音

蓮台後方の“魚のヒレ”のようなものが

左右に施されており

これは早稲田観音の写真でも

この特徴的な部分が

当山同様左右両方に

施されていることが

はっきりと分かります。

 

また蓮台下の敷茄子(しきなす)と

呼ばれる箇所の作りや

その下にある蓮台もまた

作風がとても似ています。

 

【仏頭と上半身】

▼早稲田観音

▼普賢院聖観音

共通する点として

大きな耳たぶ

左手の形

左手に持たれている蓮の作風

装身具がない如来形

などが挙げられます。


 

前掲書より

以下を引用させて頂きます。

 

万治2年(1659)の

棟札(むなふだ)によると

二十年程前の寛永17年(1640)3月

門前の焚き火が飛び火して焼失し

宥鏡(ゆうきょう)法印の代に再興し

ご本尊の観音像も修復したと

記されています。(前掲書、p.92。)

 

寛永17年(1640)に

早稲田観音は火災に見舞われたことが

棟札に記されているとありますが

別の史料では

寛文年間(1661〜1673)にも

嶺松院が火災に見舞われていることが

記されております。

 

余談ですが

この宥鏡という方は

当山の先師でもありますが

その晩年の延宝8年(1680)に

本坊・盛岡永福寺も大火災に

見舞われております。

 

前掲書にも記されておりますが

早稲田観音の観音像は

棟札に記される万治2年(1659)

以前からある仏像ということになります。

 

当山の聖観音像もまた

同時期のものであれば

少なくとも三百数十年

当山にお祀りされていたことになります。

 

“真実”は

早稲田観音と当山の聖観音のみ知るわけですが

新たな仮説として

決して無理のないものかと思います。

 

さて

こういったことはどなたに

相談や問い合わせすれば

良いのでしょうか?

寛保3年の賽銭箱

本堂内にある観音堂の

八体仏(十二支守護尊)が

祀られる脇堂前の賽銭箱の裏には

以下のように筆書されています。

 

寛保三癸亥歳(1743年)十二月吉日敬白

 

18世紀は

様々な天変地異があった時代でもあり

切実な祈りが込められ

奉納された賽銭箱なのかもしれません。

 

古いものゆえ

この賽銭箱自体も傷んでおりますが

今もなおその役割を果たしていることに

歴史を感じます。

 

御朱印いろいろ

糠部観音霊場札所の御朱印以外にも

寺子屋ワークショップに

ご参加された方への

寺子屋御朱印や

諸尊の御朱印など

当山では様々な御朱印を

したためております。

 

以前より

御朱印に応じて朱印(ハンコ)を

幾つか新調したいと思い

今春より知人と相談を

重ねておりましたが

おかげさまで完成しました。

 

令和元年にあたり

新たな御朱印を

お届けしたいと思います。

 

当山にお参りの際や

ワークショップ等の催事に

参加された際などに

より一層ご縁を深めて頂ければ幸いです。

 

なお

御朱印は拙僧(副住職)が

したためさせて頂いておりますが

不在の場合が多いので

その際にも対応出来るよう

あらかじめ墨書したものを

用意いたします。

 

御朱印入用の方は

お気軽にお声がけ下さいませ。

 

▼普賢院グローバル御朱印帳について

https://fugenin643.com/blog/御朱印帳で国際協力しませんか?/