青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)⑥

青森県田子町の

釜渕家出身である高僧

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

は生没年代の詳細は不明ですが

1657年頃に生まれ

元文4年(1739)82歳頃に

入寂したとされます。

 

学秀は千体仏の作仏を

三度成し遂げられており

それらの時期は以下のように

第1期〜3期という形で

表現されているようです。

 


 

第1期 地蔵菩薩

(1600年代末〜1700年代初頭)

(学秀 50歳頃)

飢饉物故者供養のため

 

第2期 観音菩薩

(正徳2年(1712)頃〜)

(学秀 60歳頃〜)

九戸戦争戦没者のため

 

第3期 観音菩薩

(享保7年(1722)〜元文4年(1739))

(学秀 70歳頃〜入寂)

生まれである釜渕家一族の供養のため

 


 

話があちこち飛ぶかと思いますが

仏道における「三千」という数字や

「千」という数字について

触れてみたいと思います。

 

三世三千仏(さんぜさんぜんぶつ)

という言葉があります。

 

三世という言葉は

掘り下げられて様々な意味があり

さらには三毒(さんどく)といった

仏道の根本的なキーワードと絡め

説かれることが多いのですが

ここでは基本的な意味として

過去・現在・未来のことと

捉えて頂いて結構です。

 

三世三千仏とは

それぞれに千仏が

いらっしゃるという

意味だとお考え下さい。

 

ここでいう千とは

個数の数字ではなく

象徴的意味を帯びた聖数です。

 

この三千仏に祈りを捧げる法要を

仏名会(ぶつみょうえ)といい

日本では光仁天皇代の

宝亀5年(774)12月に

初めて行われております。

 

意図してのことか否かを

知るすべはありませんが

結果として

学秀の後半生におけるお歩みは

三世三千仏への尊い祈りを

作仏を以て遂げられたとも

捉えられるかと思います。

 

学秀は禅僧でもあるので

その観点から考えてみると

禅宗でもよく用いられる

陀羅尼(だらに、梵語のお経のこと)に

大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)

または大悲咒(だいひしゅ)

と通称される“お経”があります。

 

大悲心陀羅尼あるいは大悲咒は

千手観音の陀羅尼でもあります。

 

日本最古の観音霊場である

西国(さいごく)三十三観音霊場

のうち千手観音が本尊である

札所は33所のうち

実に15所(十一面千手1ケ寺も含む)

にのぼります。

 

西国三十三観音霊場の

札所本尊としては

如意輪観音が6ケ寺

十一面観音が6ケ寺

聖観音が3ケ寺

准胝観音が1ケ寺

不空羂索観音が1ケ寺

馬頭観音が1ケ寺です。

 

開創1300年とされる

西国三十三観音霊場において

千手観音を本尊とする札所が

最も多いことからも

古くから信仰されてきた

観音菩薩であることが

分かるかと思います。

 

日本最古の三十三観音霊場である

西国霊場の起源は

当山の本山である長谷寺を

開山された徳道(とくどう)上人が

関わっております。

 

養老2年(718)に

徳道(とくどう)上人が

病床において見られた夢で

閻魔大王より三十三の宝印を授かります。

 

そして衆生救済のために

観音霊場を作るよう

閻魔大王に告げられたため

宝印を納める三十三所を定められ

西国三十三観音霊場が開創された

と伝えられます。

 

しかし

徳道上人の時代には

機運が熟さなかったようで

授かった三十三の宝印を

現在の兵庫県にある

中山寺に納めることになります。

 

中山寺は真言宗中山寺派の本山で

聖徳太子創建とされ

勝鬘夫人(しょうまんぶにん)の

お姿をうつして造ったと伝えられる

十一面観音を本尊とします。

 

中山寺は西国第一番札所です。

 

徳道上人が

中山寺に三十三の宝印を納め

それから約270年経った後に

花山法皇により

西国三十三観音霊場は

復興されたとされます。

 

花山法皇は

播磨(現在の兵庫県)にある

書寫山(しょしゃざん)の

性空(しょうくう)上人とご縁がある方です。

 

書寫山というと

“最古の十和田湖伝説”が収録されている

『三国伝記』(さんごくでんき)では

難蔵(南祖坊(なんそのぼう)のこと)は

書寫山の法華持経者とされます。

 

南祖坊は十和田湖伝説に登場する僧侶で

当山にて修行したと伝えられ

全国練行の末に十和田湖に入定し

青龍大権現という龍神として

十和田湖の主になったと伝えられます。

 

西国三十三観音霊場に続いて

坂東(ばんどう)三十三観音

秩父三十三観音(のち三十四観音)の

霊場が成立しますが

それに続いて成立した地方的札所が

糠部三十三観音だそうです。

 

糠部三十三観音霊場は

永正9年(1512)9月に

観光上人により創始されました。

 

観光上人の札番(札所の番号)は

現行のものとは異なりまして

現在の札番は

八戸市の天聖寺(てんしょうじ)第8世

則誉守西(そくよしゅさい)上人が

寛保3年(1743)に定められたものです。

 

当山の七崎観音は第15番札所で

田子の釜渕観音は第27番札所になります。

 

この27番札所の釜渕観音堂にて

学秀は出身である釜渕家のご供養のため

最後の千体仏を完成させました。

 

西国三十三観音霊場のルーツである

当山の本山である奈良県桜井市の

長谷寺の創建は

朱鳥元(686)年に

修行法師の道明上人が

銅板法華説相図(ほっけせっそうず)

を安置して祀られ開創されます。

 

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この法華説草図には

法華経

見宝塔品(けんほうとうぼん)

の場面が描かれております。

 

平泉の中尊寺金堂は

この見宝塔品に基づいて

建立されたといわれます。

 

補足になりますが

江戸時代初期までは

中尊寺には真言寺院も構えられており

永福寺住職が中尊寺から

迎えられたこともあります。

 

見宝塔品について

以下の引用文を参考に

大意を見てみましょう。

 


 

釈迦牟尼(しゃかむに)が

霊鷲山(りょうじゅせん)で

大比丘尼衆一万二千

菩薩八万のために

法華経を説かれると

会座(えざ)に地中より

高さ五百由旬

縦横二百由旬の七宝塔が

湧出(ゆうしゅつ)し

空中に住在するところあり

時に宝塔中より

多宝仏(たほうぶつ)が大音声を発し

釈尊説くところの法華経を讃嘆し

それが真実なることを証する。

 

やがて釈尊

扉をひらいて

二仏宝塔中に

併座されるといふのが

この経文の大旨である。

 

(安田與重郎、昭和40年

『大和長谷寺』(淡交社)p.11。)

 


 

このような象徴的場面が

法華説相図には

施されております。

 

またこの法華説相図は

金銅千体仏とも

金銅釈迦仏一千体ともいわれ

「千体仏」が施されております。

 

他にも「千」や「三千」に

関連して述べられることは

沢山あるかと思いますが

様々な意味合いや伝統がある

ということが少しでも

伝えることは出来たでしょうか。

 

こういった観点から

学秀千体仏に

アプローチすることは

有意義なことと思われます。

 

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稀代の古刹 七崎観音⑪

当地はかつて

七崎(ならさき)と

呼ばれておりました。

 

この七崎には

かつて当山の前身である

永福寺がありました。

 

当山は永福寺時代より

七崎観音の別当でもあります。

 

「永福寺」と一言でいっても

その実態は中々複雑かつ複合的でして

現在の当山ような形態とは異なります。

 

昭和期の永福寺住職である

熊谷精海(せいかい)師は

永福寺は江戸時代になり

本坊が盛岡に構えられ

42世住職・清珊(せいさん)の代に

七崎永福寺は普賢院になった

とお話されていたそうで

その伝を当山では踏まえております。

 

今回は

「永福寺」というお寺の名前である

寺号(じごう)について

見ていきたいと思います。

 

当地の住所にも残る

「永福寺」という寺号は

甲州南部郷より遷座され

三戸沖田面に建立された

新羅堂の供養を

鎌倉の二階堂永福寺の僧侶

宥玄(ゆうげん)が勤めたことに

由来するとされます。

 

鎌倉では

永福寺を「ようふくじ」と

読んでおります。

 

鎌倉時代の歴史書(とされる)

『吾妻鑑』(あずまかがみ)

宝治2年(1248)2月5日条には

文治5年(1189)12月9日

永福寺事始あり

とあります。

 

鎌倉といえば長谷寺を

連想される方が多いと思いますし

東北においてですと

長谷寺と聞くと

鎌倉を連想される方は

とても多いかと思います。

 

奈良と鎌倉の長谷寺は

“姉妹”と言わることがある程

切っても切れぬ

深いご縁で結ばれたお寺です。

 

鎌倉の永福寺に触れる前に

長谷寺について

触れさせて頂きます。

 

奈良の長谷寺は正式には

豊山 神楽院 長谷寺といい

朱鳥元(686)年に

修行法師である道明上人が

銅板法華説相図(ほっけせっそうず)

を安置して祀られ

開創されました。

 

その後約40年後に

徳道上人が主導されて

十一面観音像

神亀6年(729)に完成し

行基(ぎょうき)を導師として

天平5年(733)に開眼されます。

 

この徳道上人が

長谷寺を開山されました。

 

さて

鎌倉との関係ですが

この十一面観音が

2つの長谷寺をつなぐ

キーポイントになります。

 

奈良の長谷寺の十一面観音像を

彫ったものと同じクスノキ

(十一面観音像との説もあります)

を海に解き放ち

流れついた地に

衆生済度の願いを託して

十一面観音を本尊としたお寺を

造立しようとしたそうです。

 

海に解き放たれた

クスノキ(あるいは十一面観音像)が

流れ着いた先が鎌倉で

そこに長谷寺が建立され

行基により開眼された

というのが奈良と鎌倉の

2つの長谷寺をつなぐ伝説です。

 

鎌倉に話を移しまして

鎌倉の永福寺は源頼朝が

奥州での戦没者供養も兼ね

平泉の大長寿院(二階大堂)を模して

建立されたとされますが

現在は廃寺となっております。

 

『たけたからくり』(文政6年(1823))

によると鎌倉の永福寺の僧侶である

宥玄が新羅堂供養を勤めた

「供養料」として

沖田面村に一宇お堂が建立され

宥玄をそのお堂の住職として

永福寺と号したそうです。

 

また宥玄は

三戸沖田面村と

五戸七崎村を賜ったと

記されております。

 

同史料では

七崎(ならさき)には

往古より観音堂があり

宗旨も不定で寺号もなく

こちらの「住職」ともなった

宥玄が永福寺の

僧侶であったことから

「時の人挙げて」永福寺と

呼ぶようになったとも

記されております。

 

この『たけたからくり』は

江戸後期(文政6年(1823))の

史料なので

その当時において

永福寺縁起がどのように

整えられ編まれていたのかが

よく伺えるように思います。

 

史料の伝える時期を踏まえると

この二階堂永福寺・宥玄の時期は

行海上人開基の少し後となります。

 

郷土史研究などでは永福寺は

「七崎から三戸に移った」と

よく説明されますが

『たけたからくり』や

当山の過去帳を踏まえると

「移った」という表現は

当てはまらないように思います。

 

また

同史料でいうところの

観音堂はおそらく七崎観音の

ことを指していると思いますが

永福寺縁起が七崎観音と

強く結び付けられていることも

伺えるかと思います。

 

それだけ

七崎観音は重要な

尊格であったということを

意味するといえます。

 

今見てきたように永福寺は

「永福寺」という寺号が

用いられる以前に遡及して

その由緒や縁起が

編まれていくことになります。

 

「永福寺縁起」として

総本山長谷寺とゆかりのある

坂上田村麻呂将軍が

十一面観音を本尊として

七崎にお寺を建立したという

縁起も伝えられております。

 

この縁起は

『長谷寺験記』(はせでらげんき)

(建保7年(1219)頃までに成立)

という鎌倉期の霊験記の

上巻第5話として収録される

田村将軍が奥州一国に

十一面観音を本尊として

6ケ所にお寺を建立した話が

根拠となっていると考えられます。

 

永福寺の縁起や創建伝説は

なかなか豊富でして

七崎観音は

実際には聖観音(しょうかんのん)

という観音様なのですが

「七崎観音は田村将軍の十一面観音」

との縁起もあったりします。

 

念のために触れると

縁起といわれるものは

歴史とは似て非なるもので

様々な意味合いがあることを

しっかりと踏まえて

紐解くべきものです。

 

当山開基の行海上人は廻国僧で

当地の大蛇を改心させたことで

地域の住民から当地に留まるよう

懇願されたため草庵が結ばれ

普賢院を開基したと伝えられます。

 

行海上人は

現在の七崎神社の地に

七つ星(北斗七星)になぞらえ

杉を植えた上人でもあります。

 

十和田湖伝説の

南祖坊(なんそのぼう)は

行海上人の弟子であるとも

伝えられております。

 

当山開基の時代を

さらにさかのぼり

弘仁初期頃(810頃)

圓鏡上人により

当山は開創されたとされます。

 

「弘仁初期頃」というのは

『先師過去帳』に

当山開創 圓鏡上人が

弘仁7年(817)5月15日に御遷化

されていることに由来します。

 

こういった

“永福寺以前”の由緒も

永福寺の由緒として編入され

七崎は永福寺発祥の地となり

とても重要な意味を帯びたわけです。

 

永福寺は江戸時代前期に

平泉の中尊寺から住職が

おいでになられたことがあります。

 

中尊寺は今でこそ天台宗ですが

昔は真言寺院も多くあり

今とは異なる“宗派感覚”や

“宗派交流”があったのです。

 

そういったことも踏まえると

これまで以上にスケールの大きな

歴史が七崎の地を起点としながら

お伝えできるように感じます。

 

当地や周辺の遺跡からも

この地域には縄文時代から

集落があったことや

何かしらの儀礼に用いられたであろう

9世紀〜10世紀頃の古い

祭具(錫杖(しゃくじょう)状鉄製品)が

発掘されております。

 

平泉や鎌倉とも絡めることが出来ますし

古い信仰の歴史を持つ諸観音

地域の諸伝承

十和田湖南祖坊伝説

さらには大日坊との関係や

会津斗南藩(となみはん)のこと

などなど後世に伝えるべきことは

とても多いように感じております。

 

それらの探求を続けることや

後世に託すために形にすることに

情熱を以て取り組みたいとの思いを

常々持っております。

 

 

稀代の古刹と銘打ち

七崎観音を主役として

当山の歴史について

これまで触れてまいりました。

 

当ブログは拙僧(副住職)の

「研究メモ」も兼ねて

投稿することがあるので

読みにくい部分が多かったかと思いますが

少しでもお伝え出来たものが

あったのであれば幸いです。

 

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【観音堂内陣内殿】

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手前の大きな浄鏡の右側の

観音菩薩立像は

とても古い仏像だそうで

観音堂ではなく

本堂に古くからお祀りされるそうです。

 

反対側の端正なお姿をした観音菩薩立像は

地元の篤信者である中村元吉氏より

ご奉納頂いたものです。

 

中央奥の厨子(ずし)は

三重になっており

七崎観音(聖観音)が

お祀りされております。

 


【七崎観音(聖観音)】

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第29代藩主

南部重信公により

貞享4年(1687)4月に

奉納されたものです。

 

身の丈約20センチの

金銅仏(こんどうぶつ)で

とても美しいお姿の御仏像です。

 

ご奉納された当時は

御前立(おまえだち)

としてお祀りされていたそうです。

稀代の古刹 七崎観音⑧

七崎(ならさき)とは

現在の八戸市豊崎町の古称です。

 

当山は現在でも

「七崎のお寺さん」と

呼ばれることが多くありますし

「永福寺さん」とも呼ばれます。

 

この七崎の地には

かつて永福寺(当山の前身)があり

多くのお堂を管理する

別当でもありました。

 

当山本堂内の観音堂に

祀られる聖観音は七崎観音と呼ばれ

古くから多くの方に

ご参詣頂いた観音様で

明治以前は現在の七崎神社の地にあった

観音堂(以下、旧・観音堂)に

お祀りされていたものです。

 

この観音堂をはじめ

多くのお堂の別当寺を

当山が永福寺時代より担ったようです。

 

現在の八戸市白銀にある

清水観音堂(糠部第6番札所)は

当山が別当寺をつとめたお堂であり

古くから海の方面とも

関わりがあったことが分かります。

 

海に関連する御祈祷の一例として

「舩(船)祈祷」というものがあります。

 

時代が違えども

海に限らず船は

とても重要なものです。

 

当山には舩祈祷の

次第(聖教(しょうぎょう))や

それに関係する文書が幾つか

所蔵されております。

 

船祈祷の聖教(古文書)には

「慶長20年(1615)授与」と

記されたものもあれば

安永5年(1776)の浄写されたものを

寛政6年(1794)に書写されたと

奥書されたものもありますし

実際に用いられた

船祈祷の祈祷札の文言を写した

宝暦13(1763)と寛政4年(1792)との

年代が記された文書も所蔵しております。

 

文政10年の聖教(古文書)もあり

これら船祈祷のものは

いずれも当山61世である

長峻(ちょうしゅん)大和尚が

新潟よりお持ちになられたものです。

 

長峻大和尚は新潟県出身で

ご縁があって当山61世となり

さらには南部町の恵光院(長谷寺)を

第29世(99世ともされます)として兼任され

晩年は山形県鶴岡の湯殿山大日坊も

第88世住職 慈念海上人 忍光道人として

兼任された方です。

 

恵光院の由緒はとても古く

平安期の十一面観音像が祀られ

これは青森県最古のもので

糠部観音第22番札所です。

 

山形県鶴岡の

湯殿山 大日坊(ゆどのさん だいにちぼう)

には即身仏(そくしんぶつ)の

真如海上人(しんにょかいしょうにん)が

お祀りされます。

 

即身仏とは

平たくいえば“僧侶のミイラ”です。

 

拙僧(副住職)の法名は

泰峻(たいしゅん)といいますが

現住職の「泰」の字と

長峻大和尚の「峻」の字を

頂いております。

 

長峻大和尚は

船祈祷の聖教のみならず

非常に多くのものを

当山に請来されております。

 

ほぼ全てが江戸期のものですが

御祈祷はもちろんのこと

どのような作法や次第が

継承され施されていたのかが

垣間見られる貴重なものだと感じます。

 

先に南部町の古刹である恵光院

についても少し触れましたが

恵光院も当山も

糠部(ぬかべ)三十三観音霊場の札所です。

 

糠部は

「ぬかのぶ、ぬかのべ、ぬかぶ」とも

読みますがここでは

「ぬかべ」として読ませて頂きます。

 

糠部三十三観音霊場

第15番札所は七崎観音です。

 

三十三は「無限」を意味し

尽きることがない

無量の慈悲を表しております。

 

全国各地に「三十三観音」と名のつく

霊場は沢山あるかと思いますが

最古の霊場は西国三十三観音で

その起源は当山の本山である

奈良県桜井市の長谷寺にあります。

 

養老2年(718)に

長谷寺の徳道(とくどう)上人が

病床にみた夢で

閻魔大王より三十三の宝印を授かり

衆生救済のため観音霊場を作るよう

告げられたとの開創伝説が伝えられます。

 

徳道上人は三十三所を定めたものの

機運が熟さなかったため

宝印を中山寺に納め

それから約270年経った後に

花山法皇により復興されたとされます。

 

花山法皇は

播磨(現在の兵庫県)にある

書寫山(しょしゃざん)の

性空(しょうくう)上人とご縁がある方です。

 

書寫山ついででいうと

“最古の十和田湖伝説”が収録されている

『三国伝記』(さんごくでんき)では

難蔵(南祖坊(なんそのぼう)のこと)は

書寫山の法華持経者とされます。

 

南祖坊は十和田湖伝説に登場する僧侶で

当山にて修行したと伝えられ

全国練行の末に十和田湖に入定し

青龍大権現という龍神として

十和田湖の主になったと伝えられます。

 

西国三十三観音霊場に続いて

坂東(ばんどう)三十三観音

秩父三十三観音(のち三十四観音)の

霊場が成立します。

 

それに続いて成立した地方的札所が

糠部三十三観音だそうです

(山崎武雄1980

「糠部三十三所観音巡礼(一)」

『天台寺研究』pp.60-117。)。

 

永正9年(1512)9月

観光上人によって成立した霊場です。

 

観光上人御選定の札所番数は

現行の番数とは異なっており

その詳細は一部しか

分からないようですが

1番札所が天台寺(現在は33番)で

33番札所が恵光院(現在は22番)です。

 

観光上人の「観光」という

言葉についても

少し触れさせて頂きます。

 

観光といえば各所に赴く

旅行や行楽といったニュアンスがある

言葉として定着しておりますが

一説によると

音のを頂きに行くこと」

の意味で観光という言葉が

使われたそうです。

 

糠部霊場の創始に携わるとされる

観光上人について

詳細は不明とのことですが

一観音霊場創始者の法名が

観音菩薩と縁深きものである点は

深秘であると思いますし

その当時の時代背景を踏まえながら

全国的にも古い霊場である

糠部三十三所の魅力を後世に伝える意味で

新たな“草創譚”を編むことが

出来るようにも感じます。

 

観音霊場の札所ともなった七崎観音は

観光巡礼が流行した時代を迎え

それまで以上の多くの方が

参詣されたことと思います。

 

▼船祈祷の聖教

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▼長峻大和尚

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▼恵光院(南部町)

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花巻の清水寺

花巻にございます

音羽山 清水寺(おとわさん きよみずでら)。

 

花巻にて研修会があった際に

お参りさせて頂きました。

 

京都、播磨(はりま、現在の兵庫)と

こちらの清水寺を

日本三清水」というそうです。

 

清水寺といえば

坂上田村麻呂将軍です。

 

花巻の清水寺は

大同2年(807年)に

田村将軍により創建されたと

伝えられます。

 

また慈覚大師の伝説も

伝えられる古刹です。

 

境内には

本堂と庫裏(くり)

観音堂

山門

毘沙門堂

薬師堂など

多くのお堂が並びます。

 

とても立派な伽藍の

御寺院様です。

 

本堂の隣にある観音堂には

十一面観音が祀られます。

 

観音堂本尊の

十一面観音は秘仏ですが

お前立ちとして

大きな十一面観音が

お祀りされております。

 

田村将軍は

十一面観音と関わりのある方で

東北各地にその伝説が残っております。

 

当山の本山である

奈良県桜井市の長谷寺の

霊験譚を伝える

『長谷寺験記』(はせでらげんき)

という古い書物にも

田村将軍のエピソードが

掲載されております。

 

当山の前身である永福寺は

奥州六観音の1つとして

七崎田村の里に

田村将軍が十一面観音を

祀ったことで創建されたと

伝えられます。

 

当山は十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)という僧侶が

修行したとされますが

その伝説の最も古いものとされる

お話が掲載されている

室町期の『三国伝記』という書物は

京都の清水寺にて

インドと中国の日本の三者が

観音への法楽(ほうらく)として

輪番でお話をしていくという

筋書きのものです。

 

花巻には由緒ある

寺社仏閣が多くあります。

 

神仏が連なるものとして

お祀りされていた時代の

祈りの形が垣間見られる所が

多く残されているように思います。

 

当山の観音様(七崎観音)は

本堂内の観音堂に

お祀りされますが

かつては本堂とは別の

観音堂にお祀りされていたものです。

 

その観音堂は

七崎山 徳楽寺として

現在の七崎神社の地に

明治時代まであり

当山が別当をつとめておりました。

 

かつては観音堂であったり

何らかの尊格が祀られるお堂が

明治に神社になったり

統廃合されたりすることが

東北でも多く見られます。

 

当山でも

観音堂(七崎山 徳楽寺)が

七崎神社に改められ

七崎観音(聖観音)は本堂内に

お迎えされることになりました。

 

ですが

こちらの清水寺の伽藍は

古い時代の配置を

とどめている部分が多く

今に伝えるものが

多いように思います。

 

▼花巻 音羽山 清水寺HP

http://kiyomizudera.org

 

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南祖坊伝説の諸相⑤ 長谷寺と南祖坊 その参

当山には十和田湖

南祖坊(なんそのぼう)伝説が

伝えられます。

 

“最古の十和田湖伝説”とされるのは

室町期の『三国伝記』所収の

「釈難蔵得不生不滅事」の

エピソードです。

 

『三国伝記』という書物は

十一面観音をはじめ

長谷寺の影響が

色濃く見られます。

 

この点につきましては

これまでにもブログで

紹介させて頂いております。

 

南祖坊伝説(十和田湖伝説)は

南部藩領を中心に

広く親しまれ

信仰においても

少なからず影響を与えたことが

様々な文書や

各地に残る石碑や神社などから

うかがい知ることが出来ます。

 

この伝説の発信拠点となったのは

七崎(現在の豊崎町)とされます。

 

当山の前身である永福寺が

殊に深く関わっております。

 

この永福寺は

小池坊(長谷寺)の末寺です。

 

前々回と前回は

江戸期の紀行家である

菅江真澄(すがえますみ)の

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』

『十曲湖(とわだのうみ)』

という両著作の記述に触れながら

長谷寺との関係を

見てまいりました。

 

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』

は天明8年(1788)に北海道を

目指した際の紀行文で

ここでは先に触れた

『三国伝記』の「釈難蔵得不生不滅事」

を紹介しております。

 

『十曲湖(とわだのうみ)』は

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』

から約20年経った後の

文化4年(1807)年夏の紀行文で

こちらでは幾つかの

南祖坊伝説が紹介されます。

 

まず初めに『三国伝記』の

伝説が記述されるのですが

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』

での内容とは異なっております。

 

跡形もなく変化している

というわけではありませんが

“重要な舞台”が

熊野ではなく泊瀬(長谷)に

変化しているのです。

 

この変化の意味する所を

永福寺と長谷寺の

本末関係や歴史的背景を踏まえ

紐解こうと試みたのが

前々回と前回の投稿です。

 

長谷寺の本尊は

十一面観音という尊格です。

 

長谷寺の十一面観音は

右手に錫杖(しゃくじょう)

左手に瓶(びょう)を執り

大盤石(ばんじゃく)という

台座に立つ尊容で

長谷式・長谷型といわれます。

 

東国(関東)や東北においても

十一面観音は

古くから信仰されたようです。

 

当山の前身である永福寺も

本尊は十一面観音です。

 

東日本で長谷寺といえば

鎌倉の長谷寺が有名ですが

この鎌倉の長谷寺も

奈良の長谷寺と関わりがあり

この両長谷寺は「姉妹」とも

いわれます。

 

鎌倉の長谷寺の本尊は

奈良の長谷寺と同じ

長谷式の十一面観音です。

 

伝承によれば

奈良の長谷寺の本尊を

造立する際に用いた霊木(楠)と

同じものを海に解き放ち

それが流れ着いた場所に

同じ本尊を建立しようとしたそうです。

 

そして流れ着いた先が

鎌倉であったとされます。

 

また海に流したのは

霊木(楠)ではなく

奈良の長谷寺と同じく彫られた

十一面観音像であったともいわれます。

 

そういった伝承があるがゆえに

奈良と鎌倉の長谷寺は“姉妹”と

いわれるのです。

 

奈良の長谷寺に対して

鎌倉の長谷寺は新長谷寺ともいわれます。

 

東国(関東)において

鎌倉は密教の一大拠点の1つです。

 

鎌倉ついででいえば

鶴岡八幡宮寺

勝長寿院

二階堂永福寺の三学山は

鎌倉の密教を考える上で

重要な寺院となるようです。

 

青森県で最古の仏像は

三戸郡南部町にございます

蓮台山恵光院(けいこういん)の

観音堂にお祀りされる

十一面観音立像で

平安時代のものとされます。

 

恵光院は通称・長谷寺と呼ばれますが

かつては蓮台山長谷寺という

とても古くからある寺院で

盛岡永福寺の末寺として

盛岡に改められることとなり

その旧地を継承したお寺です。

 

かなり古くから

十一面観音や長谷の信仰が

伝わっていたことを

今に伝えているように思います。

 

長谷寺と名のつくお寺の大部分は

鎌倉の長谷寺もそうですが

奈良の長谷寺にその起源があります。

 

長谷寺をキーワードに

話がかなり膨らんできたので

今回はこの辺で

終わりにしたいと思います。

 

江戸期においては

永福寺が小池坊(長谷寺)末寺で

あることが文書に明記されるのですが

それ以前について詳細は分かりません。

 

ただ長谷信仰や十一面観音の信仰が

とても古くから関東にとどまらず

東北にも伝わっていたようなので

伝説や信仰を考える上で

興味深い要素かと思います。

 

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南祖坊伝説の諸相④ 長谷寺と南祖坊 その弐

前回の「南祖坊伝説の諸相③」では

紀行家である菅江真澄(すがえますみ)の

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』(1788年)

『十曲湖(とわだのうみ)』(1807年)

という著作に触れられる

南祖坊伝説の明らかな変化として

南祖坊と長谷寺が

関係づけられていることを見ました。

 

※前回はコチラです▼

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相③/

 

南祖坊と長谷寺が

関係づけられることは

永福寺が小池坊の末寺

つまり奈良県桜井市の

長谷寺の末寺であることと

深く関わるといえるでしょう。

 

伝説や伝承というものは

常に固定的なものではなく

時に見直され

時に教相(教学)や事相(法流や作法)

によって深められ

そして発信され

受容されるものかと思います。

 

江戸時代は

全国のお寺の本末関係が

確立されていく時代であり

その本末関係は全国各地の

人民統制など行政においても

意味を持つものでした。

 

盛岡城の鬼門に

改められた永福寺は

盛岡南部藩筆頭の寺院であり

祈願寺という立場であるのに加え

田舎本寺(いなかほんじ)という

お寺を統括する立場にもあったお寺です。

 

さらには檀林(だんりん)という

僧侶の大学のような場所でもありました。

 

広大な南部藩領における

以上のような

永福寺の様々な役割は

南祖坊伝説のあり方に

影響を与えている部分が

あろうことは容易に想像できます。

 

当山のある豊崎町(かつての七崎)は

永福寺発祥の地ですが

盛岡に永福寺が建立された後も

三戸の嶺松院(れいしょういん)と共に

支配や末寺扱いではなく

「旧地」「自坊」として

区別されて維持されました。

 

これは当山が

南祖坊が修行したとの

伝承があることと

関係があるように思います。

 

話が大分それましたが

長谷寺との関係に

話を戻します。

 

長谷寺は正式には

豊山 神楽院 長谷寺といいます。

 

長谷寺は始め東大寺の末寺で

正暦元年(990年)に

興福寺の末寺となります。

 

興福寺は藤原氏の氏神の

春日大社の別当でもあります。

 

長谷寺の本尊は十一面観音で

その脇士として

本尊に向かって右側に

難陀龍王(なんだりゅうおう)が

お祀りされますが

これは春日大明神の化身とされます。

 

藤原氏の関係でいえば

長谷寺の十一面観音造立には

藤原房前が関係しております。

 

ちなみにですが

南祖坊も藤原氏とされます。

 

長谷寺も荒廃した時期があり

それを再興したのが

根来寺の学頭であった

専誉(せんよ)僧正です。

 

専誉僧正は豊臣秀長に招かれ

天正15年(1587年)に長谷寺に

入られます。

 

専誉僧正の住坊を

小池坊中性院といいます。

 

専誉僧正入山以後

長谷寺は新義真言宗の

根本道場となります。

 

徳川時代には厚い庇護を受け

本堂や大講堂や登廊が

再建されます。

 

また専誉僧正が入山以来

“学山”としての性格が明確化され

“長谷学”の名は一世を風靡したそうです。

 

長谷寺は現在でも

真言宗豊山派の総本山で

当山の本山です。

 

江戸期には長谷寺は

様々な宗派の僧侶が集まり

1000人もの修行僧がいたそうです。

 

新義真言宗の

根本道場であることに加え

学山としても

長谷寺が隆盛したのです。

 

長谷寺は古くから

十一面観音の霊験で

有名なお山です。

 

当山の前身である

七崎永福寺の本尊は

十一面観音とされます。

 

盛岡の永福寺は修法本尊として

歓喜天(聖天)がお祀りされますが

内々陣にはその本地として

十一面観音がお祀りされます。

 

最古の十和田湖伝説が収録される

『三国伝記』という書物は

インドと中国と日本の

三者が観音法楽(かんのんほうらく)

つまり観音菩薩に捧げるべく

1人ずつ持ち回りで

お話をするという設定で

その話の中の一話が

最古の十和田湖伝説とされます。

 

『三国伝記』という書物は

長谷寺の影響が指摘されており

この点はとても重要かと思います。

 

十一面観音と南祖坊伝説との関係は

これまで述べられたことが

なかった視点なので

仏道の視点とあわせて

今後も深めていきたいと思います。

 

以上

関連する事柄を

あまり整理することなしに

記してきました。

 

詳細に記すと

膨大になってしまうので

大雑把に紹介させて頂きました。

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見守られて

当山の本山は

奈良県桜井市にございます

長谷寺(はせでら)です。

 

長谷寺には

長谷寺で亡くなられた

僧侶の墓石が多数あります。

 

たまたま資料を見ていた所

寛政期の当山住職の墓石を

発見いたしました。

 

そこには

法印宥慎

奥州南部五戸

普賢院住尭湛房

寛政12庚申年(西暦1800年)

10月24日

と記されております。

 

加行(けぎょう)という修行を

長谷寺で行った際に

ズラリと並ぶ法印墓所を

初めて目にした時

拙僧(副住職)は

仏道に“本気で”

勤しまなければならないと

強く感じました。

 

それ以来

拙僧(副住職)にとっては

ある意味特別な場所と

なっております。

 

その墓所に

当山の先師の墓石も

あったのは初めて知りました。

 

長谷寺にて亡くなられたことは

過去帳にも記されておりますが

墓石があることは知りませんでした。

 

無我夢中で励ませて頂いた修行を

そっと見守って下さっていたものと

捉えたいと思います。

 

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南祖坊伝説の諸相③ 長谷寺と南祖坊 その壱

十和田湖南祖坊伝説の

発信拠点は七崎(ならさき)

つまりは現在の豊崎とされます。

 

七崎には当山の前身として

永福寺というお寺がありました。

 

永福寺にしろ

普賢院にしろ

当山が別当をつとめた

七崎観音堂(現在の七崎神社)にしろ

焼失により詳細な由緒は

不明な所が多いのですが

受け継がれる『先師過去帳』や

語り継がれる所の口伝や伝承があり

それらを元として

縁起は大切に伝えられております。

 

今回からは近世の文書である

菅江真澄の紀行文を手がかりに

当山の本山である長谷寺(はせでら)

との関係を何回かに分けて

とりあげたいと思います。

 

江戸期の紀行家である

菅江真澄(すがえますみ、1754-1829)は

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』

『十曲湖(とわだのうみ)』で

南祖坊伝説について

触れております。

 

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』は

天明8年(1788)に北海道を

目指した際の紀行文です。

 

ここでは南祖坊伝説について

室町時代の書物である

『三国伝記(さんごくでんき)』所収の

“最古の十和田湖伝説”について

紹介しております。

 

『十曲湖(とわだのうみ)』は

文化4年(1807)年夏の紀行文で

こちらにおいても

南祖坊伝説に触れております。

 

そこでも同じ筋書きで

伝説を説明しているのですが

その中に南祖坊像の変化を

汲み取れる箇所があり

さらに「別伝」として

幾つかのバージョンが

紹介されております。

 

室町期の『三国伝記(さんごくでんき)』

に記される所の“最古の十和田湖伝説”が

菅江真澄の両紀行文において

伝説の“メインストーリー”として

紹介されているのですが

『十曲湖(とわだのうみ)』では

南祖坊が長谷寺と明確に

関係づけられております。

 

『三国伝記(さんごくでんき)』では

弥勒出生値遇のために

熊野山に山籠して

祈願祈請千日の夜に

白髪老翁が釈難蔵(南祖坊)に

お告げをするという

くだりがあり

『委波氐迺夜麼(いわてのやま)』で

この部分は紹介されております。

 

同部分について

『十曲湖(とわだのうみ)』では

南祖坊が泊瀬寺(長谷寺)に籠もり

ひたすらに法華経を読み

「お告げを頂く」という形で

紹介されております。

 

長谷寺の本尊である

十一面観音は

長谷観音(はせかんのん)と呼ばれ

古くから篤く信仰されました。

 

南祖坊は

「法華経の持経者」として

描かれますが

修行における法華経を

考える上で

「法華滅罪(ほっけめつざい)」

という言葉がキーワードとなります。

 

専門的な話になってしまうので

詳しくはお伝えしませんが

自身を清め(六根(ろっこん)清浄)

功徳を積み善へとつなげることと

お考え頂ければ結構かと思います。

 

長谷寺や長谷観音との関係を

踏まえながら南祖坊伝説と

それに関連する諸要素を見ることは

とても有効であると感じております。

 

“最古の十和田湖伝説”が収められる

『三国伝記』の研究でも

長谷寺との関係が指摘されております。

 

十和田湖伝説の研究でも

しばしばとりあげられる

池上洵一氏の著書

『修験の道 三国伝記の世界』

(以文社、1999年)において

長谷寺との関係が指摘されております。

 

また小林直樹氏は

長谷寺と『三国伝記』について

丁寧な研究をされており

その諸論文がまとめられ

『中世説話集とその基盤』

(和泉書院、2004年)に

「第二部 『三国伝記』とその背景」

として収められております。

 

これらのことは

また改めてお伝えしたいと思います。

 

長谷寺で法華経三昧に入った

南祖坊が「長谷観音のお告げ」により

十和田湖へ向かうこととなった

とも読めるような形となった

南祖坊伝説。

 

“神託”を頂く

伝説の重要な舞台が

熊野から長谷へ変化した

その背景を次回以降

もう少し追いたいと思います。

 

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▲長谷寺内 歓喜院の本尊

(長谷寺本尊と同じ三尊形式)

中央:十一面観音

左:雨宝童子(天照大神の化身)

右:難陀竜王(春日大明神の化身)

こもりくの長谷寺にて

10/31〜11/1の2日間

御詠歌の全国奉詠大会のために

奈良県桜井市の総本山長谷寺に

行ってまいりました。

 

2日間で全国各地より

約1000名もの方がご参加され

長谷寺全体に

御詠歌が響きわたりました。

 

全国各地でご活躍の

御詠歌の先生方とも

ご一緒させて頂き

御詠歌に限らず

沢山のことを学ばせて頂きました。

 

長谷寺のある地域一帯は

こもりくの地とよばれ

太古の昔より

神聖な地とされた場所です。

 

こちらの本尊である

十一面観音は

霊験あらたかであるとして

古くから全国各地で

篤く信仰されてきました。

 

東北も例外ではありません。

 

当山は十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)という僧侶が

修行したと伝えられますが

その伝説が記されている

最古の書物である『三国伝記』には

長谷寺との関係や

十一面観音との関係が

明らかにうかがわれます。

 

この点は『三国伝記』研究でも

指摘されていることなので

長谷寺についても触れながら

十和田湖南祖坊伝説を

探求したいと思います。

 

それにしても

長谷寺は素晴らしい所です。

 

いくたびも

まいるこころは

はつせでら

 

これは

何度赴いても

毎回新鮮な心持ちで

過ごすことが出来るという

意味をもつ和歌です。

 

その和歌を実感します。

 

朱鳥元(686)年に開創され

今に伝えられるお山にて

悠久の歴史を感じながら

多くの方と御詠歌の奏でを

ご一緒させて頂いた

素晴らしい大会となりました。

 

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