伝説とつながる南祖祭(なんそさい)

当山には

十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)の御像である

南祖法師尊像(なんそほっしそんぞう)

がお祀りされます。

 

南祖坊(なんそのぼう)は

当山第2世の月法律師(がっぽうりっし)

の弟子として修行修学に

励まれたと伝えられます。

 

そういったご縁で

南祖坊の祭事と

伝説にまつわるお話を聞く

南祖祭(なんそさい)を

開催いたしました。

 

祭事では

開式にあたり

“お遍路ニスト”として

全国各地を巡られている

中野太陽さんに法螺貝を

吹いて頂いてお清め頂き

法要の中では巫女さんの

おときたさちこさんに

祝詞をあげて頂きました。

 

祭事の後は

ゲストスピーカーとして

髙山正道さんに

太陽信仰の観点から

南祖坊伝説について

お話頂きました。

 

髙山さんのお話は

実に興味深いもので

本当に素晴らしい内容でした。

 

様々なご縁のおかげで

短い時間でしたが

とても濃密な南祖祭となりました。

 

十和田湖の聖地覚書③ 占場(うらないば)

十和田湖屈指の聖地とされる

占場(うらないば)。

 

そこは

南祖坊(なんそのぼう)が

入定(にゅうじょう)し

青龍権現(せいりゅうごんげん)という

十和田湖の龍神と

化したとされる場所です。

 

占場へは

断崖絶壁にかけられている

とても長い鉄ハシゴで下るのですが

現在は通行禁止となっております。

 

今回は十和田湖自然ガイドクラブの

皆様が諸々を手配して下さり

占場へ赴くことが出来ました。

 

占場の水辺から水中を覗いてみると

断崖のようになっており

1〜2メートル先から

いきなり深くなっていました。

 

占場は

中山半島の東側位置し

中湖に面しております。

 

中湖は十和田湖の中で

最も水深があります。

 

視線の先には

御倉半島が見えます。

 

御倉半島は半島そのものが

神聖な場所とされています。

 

御倉半島が龍の頭で

中山半島が龍の尾にあたる

との言われもあるそうです。

 

占場(うらないば)という

名前が示す如く

こちらは卜占(ぼくせん)等が

行われていた場所です。

 

占場はオサゴ場とも呼ばれ

そちらで占いをすることは

「オサング打ち」

「サング打ち」等とも

呼ばれるそうです。

 

おより紙(御依紙)を湖水に放ち

その沈み具合により

“神意のおうかがい”が

なされたりしたようです。

 

占場は地形的に

風の影響があまりない

場所でもあるようです。

 

「サング」を漢字表記すると

おそらく「散供」という字が

あてはまるかと思います。

 

散供とは

神仏に“お供えを捧げる”ことで

修法の作法でもあります。

 

「打つ」というのは

“祈りを捧げる”といった意味合いです。

 

観音霊場を巡礼して祈りを捧げることを

「札を打つ」とか「札打ち」

と言うことがありますが

「サング打ち」の「打つ」も

同様の意味合いがあると思います。

 

占場の湖底からは

多くの古銭が引き揚げられており

多くの人により

祈りが捧げられていたことが分かります。

 

南祖坊は

当山第2世の月法律師(がっぽうりっし)の

弟子として当山で修行され

その後に全国を巡礼巡行した果てに

十和田湖に入定し

青龍権現となったとされます。

 

その伝説の

象徴的スポットの1つが占場ですし

南祖坊の“入水入定”は

とても重要な諸要素やテーマを

宿しているといえます。

 

この点については

また改めて伝えさせて頂きたいと思います。

 

十和田湖の聖地覚書② 自籠岩(じごもりいわ)

南祖坊(なんそのぼう)が

座って修行したとの伝えがある

自籠岩(じごもりいわ)。

 

十和田湖の聖地の1つとして

神聖視されているそうです。

 

自籠岩へ行くべく

西湖側からボートで

中山半島へ上陸しました。

 

ボートをつけて頂いた所には

「正福龍神大神」と記された

鳥居があり

その奥には祠がありました。

 

『十和田湖歴史散策マップ』によると

ここには夫婦の龍神が

お祀りされているとのいわれが

あるそうです。

 

この祠から

険しい“道なき道“を進み

岩石に取り付けられた

鉄のハシゴをのぼり

ようやく目的地に

たどり着くことが出来ました。

 

自籠岩は

地元の地勢を熟知している

十和田湖自然ガイドクラブの

皆様のご案内がなければ

たどり着くことが

出来ないような

難易度の高い場所にあります。

 

ただ自籠岩への道程は

山岳修行を“体感”して頂けるような

“充実感”があるように思いました。

 

多くの修験者が山岳修行に

励んでいたとされる十和田湖。

 

自籠岩への道のりは

かつての修験者が

辿ったであろう道

眺めたであろう光景などに

触れることを通じて

“歴史を感じる”ことが出来る

尊い道のりだと感じました。

 

 

▼天高(狗)森岩

自籠は地高森とも記されていたようです。

 

自籠岩の岩上から東を眺めると

一層高い岩山がそびえ

天高森あるいは天狗森と呼ばれるそうです。

 

▼自籠岩岩上からみた十和田湖(西湖)

十和田湖の聖地覚書① 奥の院(御室)

当山は

十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)が

修行したと伝えられるお寺です。

 

6/26は南祖坊の祭事を行います。

 

「祭」は伝承や伝説などの“物語”と

向き合う場であり

“つながる”場です。

 

十和田湖伝説と向き合うひとときを

ご一緒してみませんか?

▼6/26南祖祭のご案内

https://fugenin643.com/blog/626南祖祭を開催します/

 

十和田湖とその周辺には

南祖坊伝説を今に伝える場所や

十和田信仰の祈りの痕跡や

山岳修行の行場と思われる場所が

多く存在します。

 

6/19に十和田湖自然ガイドクラブの

皆様に“十和田湖三大聖地”を

ご案内頂きました。

 

その際の記録を

覚書という形で

簡単にお伝えいたします。

 

まずは御倉半島にある

奥の院についてです。

 

奥の院は

御室(おむろ)とも呼ばれています。

 

その場所には

ボートで向かいました。

 

▼奥の院入口

奥の院入口には

ハシゴが架けられています。

 

ちょっと前(2〜30年前?)までは

例祭の前夜祭の時に

ボートに数名でこちらへ

参詣されていたそうです。

 

その際は

奥の院に“上陸”するために

ボートにハシゴを積んでいたそうです。

 

▼奥の院の中

 

▼木札には「熊野」の文字

 

▼入って正面に広がる同心円状紋

同心円状紋は「龍の眼」とも

捉えられているそうです。

 

とても神秘的です。

 

この空間は手掘りで

作られたようで

修験窟としても使われていたと

考えられているそうです。

 

▼祠に向かって右奥の窟

▼祠に向かって左奥の窟

いずれも一説によると

20間(約36メートル)の深さがあるそうです。

 

コウモリが棲んでいるようで

私達が奥の院に入った時

奥に飛んでいくのが見えました。

 

“龍の棲家”とのいわれもあるとか。

 

ついでですが

当山にも写本が残る

『十和田山神教記』(とわださんじんきょうき)

という十和田湖伝説が記された書物冒頭で

廿尋(約36メートル)余りの青龍

忽然と顕れる場面があります。

 

この場面に登場する

具体的なスケールは

“奥の院の龍穴(りゅうけつ)”を

踏まえての描写である可能性が

あるかもしれません。

 

▼内側より見た奥の院入口

西を向いているため

午後は日が差し込み

日没も拝めるとのこと。

 

奥の院から西には

十和田湖の中湖が広がり

その先には十和田神社のある

中山半島が位置します。

 

各所の

「位置」や「方向」についても

沢山触れたいことがあるのですが

またの機会にしたいと思います。

 

この奥の院の空間は

室戸岬における弘法大師の

明けの明星伝説を思わせるような

空間だと感じました。

 

弘法大師空海上人は

真言宗の宗祖で

全国各地に伝説が残ります。

 

十和田湖伝説を伝える際に

南祖坊は十和田湖に

入定(にゅうじょう)した

という言い回しがよくされますが

この入定信仰(にゅうじょうしんこう)

は十和田湖伝説を

紐解く重要なキーワードといえます。

 

この点についても

記し始めると

終わらなくなってしまうので

またの機会に触れさせて頂きます。

 

奥の院は

御室(おむろ)とも呼ばれますが

この名称は真言宗と

とても関わりのあるものです。

 

具体的には

京都の仁和寺と関わる名称です。

 

仁和寺は

真言宗御室派の本山でもあります。

 

当山の前身である永福寺では

仁和寺の皆明院から

住職が迎えられることもありました。

 

専門用語で

院家兼帯(いんげけんたい)という形で

永福寺と仁和寺皆明院は

深く関わっております。

 

こういった歴史的背景が

十和田湖に見られる御室

という名称の根拠となっている

可能性が考えられます。

 

御室のみならず

十和田湖に関係する用語には

真言宗ゆかりのものが

チラホラ見られます。

 

その点についても

折に触れて紹介させて頂きます。

 

まとまりに欠けますが

こんな感じで「6/19の覚書」を

“気まぐれに”

数回に分けて投稿したいと思います。

十和田湖三大聖地をゆく

当山は十和田湖伝説ゆかりのお寺です。

 

南祖坊(なんそのぼう)という僧侶が

当山2世の月法律師に弟子入りし

当山にて修行したと伝えられます。

 

南祖坊は

十和田山を開祖した

上人といわれます。

 

伝説によれば南祖坊は

全国の霊山霊跡を巡った果てに

十和田湖の龍神である

青龍大権現(せいりゅうだいごんげん)

となったとされます。

 

十和田湖の休屋(やすみや)

という地域には

当山がまだ永福寺の寺号を

用いていた頃に

別院として十湾寺(とうわんじ)

というお寺がありました。

 

挙げれば切りがありませんが

十和田湖はとてもご縁の深い所です。

 

そのような十和田湖で

多くの方に十和田湖の

魅力を伝えていらっしゃる

十和田湖自然ガイドクラブの

皆さんのご厚意により

“十和田湖三大聖地”を

ご案内頂きました。

 

ここでいう三大聖地とは

奥の院(おくのいん)

自籠岩(じごもりいわ)

占場(うらないば)

の3所のことだそうです。

 

ボートで移動して

道なき道を歩き

岩を登り

ハシゴを登りなどなど

十和田湖の聖地を

“登拝(とうはい)”させて頂きました。

 

現地を熟知されていらっしゃる

ガイドクラブの皆様のおかげで

素晴らしい時間を

過ごさせて頂いたと感じております。

 

現地や現場からでなければ

見えてこないことが

沢山あるのが世の常です。

 

現地に足を運ばせて頂くことで

“腹落ち”したことや

新たに気がついたことや

新たに着想を得たことが

沢山ありました。

 

それらついては機会を改めて

拙僧(副住職)の

一僧侶としての視点や経験も踏まえ

“気まぐれに”お伝えさせて

頂きたいと思います。

 

本日は

十和田神社の宮司さんにも

色々な相談に乗って頂き

さらにはご丁寧にご対応頂きました。

 

様々な尊いご縁により

未来へつながるような

本当に素晴らしい1日となりました。

 

お世話下さった

ガイドクラブの皆様

十和田神社の宮司さんご夫妻に

心より御礼申し上げます。

 

▼奥の院(おくのいん)

 

▼自籠岩(じごもりいわ)

 

▼占場(うらないば)

 

▼十和田神社にて

ご案内頂いた自然ガイドクラブの皆さんと

十和田神社宮司さんにご一緒頂き

写真を撮りました。

 

▼美しき十和田湖ブルー

6/26南祖祭(なんそさい)を開催します

当山には

南祖法師尊像(なんそほっしそんぞう)

という御像がお祀りされております。

 

南祖法師とは

十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)のことです。

 

南祖坊は

当山にて修行したとされ

十和田山の開祖であり

十和田湖青龍大権現という

龍神になったとされる

伝説の僧侶です。

 

6/26午前10時より

当山本堂にて

南祖坊とご縁をお結び頂く

南祖祭(なんそさい)

〜祭事と「龍の特別授業」〜

という行事を行います。

 

祭事では

巫女さんにもお手伝い頂き

まさに神仏習合の法要を

執り行わせて頂きます。

 

祭事に加え

伝説についてのお話をさせて頂き

さらにゲストスピーカーとして

八戸の太陽信仰について

調べていらっしゃる

髙山正道さんをお招きして

伝説にまつわるお話を

して頂きます。

 

「祭」は祈りを捧げる

ひとときであると同時に

神話や伝説と

“つながる”ひとときであり

“向き合う”ひとときです。

 

伝説とつながるひとときを

是非ご一緒下さいませ。

 

日程:令和元年6月26日(水)

時間:午前10時〜正午頃

会場:普賢院本堂

会費:お一人2000円

※会費の一部は、国内の震災復興を

含めた国際協力活動への寄附に

あてさせて頂きます。

稀代の古刹 七崎観音⑬

当山本堂内の観音堂の

内殿中央に祀られる

聖観音(しょうかんのん)は

七崎観音(ならさきかんのん)と呼ばれ

その起源は平安時代にまで

さかのぼるとされます。

 

当山は古くから

七崎観音の別当をつとめております。

 

七崎観音は明治時代になるまでは

本堂の位置から南方に位置する

現在の七崎神社の地に建立されていた

観音堂にお祀りされておりました。

 

その観音堂は七崎山徳楽寺

という寺号が用いられ

諸堂も整備されておりましたが

明治の神仏分離政策のため

廃寺となり七崎神社として

改められました。

 

七崎観音へ捧げられた祈りの痕跡として

今回は観音堂へ奉納された

吊り灯篭を紹介させて頂きます。

 

現在観音堂には吊り灯籠が

6つ吊るされております。

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そのうち2つの吊り灯篭について

紹介させて頂きます。

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その①【寛文10年(1670)吊り灯篭】

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まず1つ目の吊り灯篭ですが

六面の各面に

以下のように刻字がされております。

 

金燈籠所願成就所

奉懸奥州南部三戸郡之内

七﨑村観音御宝前

願主 槻茂左衛門尉 藤原清継

寛文十庚戊(1670年)月日

 

この吊り灯篭は

平成31年・令和元年(2019)から

349年も前に奉納されたものです。

 

この時期は

永福寺41世・宥鏡(ゆうきょう)上人の

時代にあたります。

 

当山先師である宥鏡上人は

奈良県の長谷寺から

永福寺住職として

お迎えされました。

 

慶安4年(1651)

三代将軍家光公がご逝去された際には

日光東照宮でのご供養のため

召し出されております。

 

さらに宥鏡上人は

盛岡城の時鐘の銘文を

仰せ付けられたり

二戸の天台寺の

桂泉観音堂と末社の棟札も

記されていらっしゃいます。

 

宥鏡上人の晩年である

延宝8年(1680)に

盛岡永福寺は火災にあっており

その後焼けて損じてしまった

仏像や経典などを

東の岡の地中に納め

歓喜天供養塚を建立し

同所を41世以後の住職はじめ

末寺住職や所化などの境内墓地とし

さらには十和田山青龍権現を

勧請して祀られました。

 

宥鏡上人と七崎観音堂の関係でいうと

当山所蔵の明暦2年(1656)の棟札には

宥鏡上人の名が見られます。

 

この棟札は

観音堂と末社十二宮を再興した時のものです。

 

南部第28藩主・重直公が

病気の際に七崎観音に祈願した所

霊験があったとして

再興が成されました。

 

同時期には

三戸の早稲田観音堂も再興されております。

 

早稲田観音堂がある

三戸の沖田面は

三戸永福寺があった場所で

本坊が盛岡に建立された後は

自坊・宝珠山 嶺松院(れいしょういん)

が旧地を引き継ぎました。

 

宥鏡上人の後に永福寺住職となられたのが

清珊(せいさん)上人です。

 

清珊上人と南部29第藩主・重信公が

なされた連歌が

盛岡の地名の由来といわれます。

 

清珊上人の代になり

七崎永福寺は普賢院に

「改められた」とされます。

 


その②【天保8年(1837)吊り灯篭】

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2つ目の吊り灯篭は

天保8年(1837)正月に

永福寺57世・宥威(ゆうい)上人により

奉納されたものです。

 

こちらの吊り灯篭には

以下のように刻字されております。

 

奉納七﨑山観世音菩薩

諸願成就 皆令満足

永福寺権僧正 宥威 敬白

天保八歳次丁酉(1837年)

春正月摩訶吉祥日

 

宥威上人は

権僧正(ごんそうじょう)という

とても高い僧階(そうかい、僧侶の位)

にあられた住職です。

 

宥威上人は

天保10年(1839)に御遷化(ごせんげ)

されていらっしゃるので

観音堂の吊り灯篭は

亡くなられる2年前に

奉納されたことになります。

 

当山の『先師過去帳』には

先師として盛岡の

当山本坊である永福寺住職も

記されてまいりましたが

永福寺57世・宥威上人が

本坊の住職として記される

最後の住職となります。

 

▼宥威権僧正

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今回は

2つの吊り灯篭を

紹介させて頂きました。

 

お寺に祀られる仏像や

設えられるもののことを

宝物(ほうもつ)といいます。

 

宝物に通わされる

個々の物語は

どれも尊いものです。

七崎山龍神堂

当山所蔵の木札の中に

「分龍守護神」と記された

木札があります。

 

中央には宝珠が彫られ

両脇には海上安全と大漁満足の

願目(がんもく)が記されます。

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この木札の浦には

大正4年(1915)の年号があり

七嵜山龍神堂分と記載されます。

 

当山において

龍神へ捧げられた祈りの

一端を伝えるものといえます。

 

当地はかつて

七崎(ならさき)と呼ばれました。

 

この七崎には

いつくか龍神伝説が伝えられます。

 

十和田湖の青龍大権現という

龍神となった南祖坊(なんそのぼう)

の伝説が有名ですが

その他にも行海伝説と七崎姫伝説が

伝えられております。

 

七崎姫伝説は

八戸市八太郎にある

蓮沼神社と関連があり

当地より蓮沼まで赴く行事が

行われておりました。

※関連記事↓

https://fugenin643.com/blog/稀代の古刹七崎観音六/

 

嘉永年間(1848〜1855)に

三峰館寛兆(さんぽうかんかんちょう)

が描いた『八戸浦之図』には

白銀の清水観音(糠部第6番札所)の

別当は永福寺(現在の普賢院)であると

記されております。

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これらのことからも分かるように

当山は海の地域とも

古くから関わりがあります。

 

また

この清水観音に祀られる

十一面観音は

港町出身の禅僧

津要玄梁(しんようげんりょう)が

晩年に作仏されたものです。

 

当山には

南祖坊の御像である

南祖法師尊像(なんそほっしそんぞう)

が観音堂にお祀りされますが

この御像は津要玄梁の晩年作の

ものではないかと

拙僧(副住職)は考えており

調査を進めております。

※関連記事↓

https://fugenin643.com/blog/8272/

 

余談ですが

津要玄梁の足跡をたどると

「青龍」ととてもご縁のある方です。

 

この点については

別稿にてお伝えさせて頂きます。

 

今回は

龍神の木札について

紹介させて頂きました。

稀代の古刹 七崎観音⑫

当山本堂内の観音堂

内殿中央にお祀りされる

聖観音(しょうかんのん)は

七崎観音と通称され

古くから親しまれております。

 

七崎観音は明治時代になるまでは

現在の七崎神社の地にあった

観音堂にお祀りされておりましたが

神仏分離政策のため

旧観音堂は“廃寺”となり

七崎神社に改められました。

 

“大正の広重”とも称された

鳥瞰図(ちょうかんず)絵師である

吉田初三郎(よしだはつさぶろう)

(明治7年(1884)〜昭和30年(1955))

の「十和田湖鳥瞰図」には

当山も描かれております。

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「十和田湖鳥瞰図」には

永福寺と七崎神社の名称が

記されております。

 

ここに記される永福寺とは

現在の普賢院です。

 

当山は江戸時代初期頃まで

永福寺の寺号が

主に用いられており

永福寺42世住職である

清珊(せいさん)の代に

普賢院になったと伝えられております。

 

永福寺という寺号は

鎌倉時代からのもので

南部氏との関わりがあるものですが

普賢院そのものは

弘仁初期頃(810頃)に

開創されたと伝えられます。

 

当山は十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)が

修行したと伝えられるお寺です。

 

南祖坊は

七崎永福寺(現在の普賢院)の

月法和尚(当山2世)に弟子入りしたと

伝えられております。

 

吉田初三郎氏がこの伝説を

踏まえていたのか否かは

分かりませんが

「永福寺」と七崎の名が付され

明治以後に神社に改められた

「七崎神社」の名称が

鳥瞰図に記載されていることは

十和田湖と当地の関わりの深さを

反映してのことであると

言えるかもしれません。

 

現在の観音堂は

多くの荘厳具が設えられており

現在に歴史を伝えるものが多くあります。

 

以下の写真は

観音堂内陣の扁額です。

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この扁額は

文化13年(1816)4月に

菊池氏により奉納されたものです。

 

扁額の書は

三井親孝によるものです。

 

三井親孝は

江戸中期に活躍した書家である

三井親和(しんな)の子です。

 

この扁額には

「正観世音(しょうかんぜおん)」

の文字が“芸術的”に

記されております。

 

つい先日

他の扁額の落款を解読するために

様々な字典にあたったのですが

その際に文字の奥深さを

感じました。

 

白川静氏によると

「文字」は祭祀儀礼のために

生まれたそうです。

 

口という漢字の字源は

「祝詞を納める箱」だそうです。

 

話を扁額に戻すと

三井親孝の「正観世音」の

「正」の一画目の一の部分が

“原初的な漢字の口”

(「さい」といいます)に

なっており

字自体に祭祀的意味合いを

見て取ることが出来ます。

 

扁額を通じてご縁のある

三井親和・親孝については

文化的に功績のある

方なので今後改めて

その足跡を追わせて頂き

学びを深めさせて頂こうと思います。

 

さて

今回は三井親孝書の扁額を

紹介させて頂きました。

 

観音堂には多くの仏像や

宝物(ほうもつ)がありますので

次回からはそれらについて

紹介させて頂きたいと思います。

南祖法師尊像の来た道を探る 是川福善寺の虚空蔵菩薩像

江戸時代中期に活躍された

津要玄梁(しんようげんりょう)

という禅僧がいらっしゃいます。

 

当山には十和田湖伝説の

南祖坊(なんそのぼう)の御像である

南祖法師尊像(なんそほっしそんぞう)が

観音堂にお祀りされますが

この御像は津要和尚が

手がけられたものではないかと

拙僧(副住職)は考えております。

 

その可能性に

初めて気がついたのは

白銀の清水観音(糠部第6番札所)

について調べていた時でした。

 

こちらの清水観音堂は

かつて当山が別当をつとめたお堂で

本尊の十一面観音像は

津要(しんよう)和尚が

作仏されたものです。

 

この十一面観音の写真が

滝尻善英氏の著作に

掲載されており

その御尊容に

当山に祀られる南祖法師尊像の

御尊容と類似する点が

多く見られたため

南祖法師尊像は

津要仏(津要が作仏された仏像の意)

ではないかと考えるように至ったのです。

 

それ以来

津要仏について

個人的に調査をしております。

 

【これまでの“仏像調査”の記事】

https://fugenin643.com/blog/ふらりと港町へ仏像調査/

https://fugenin643.com/blog/8044/

 

津要(しんよう)和尚は

延宝8年(1680)に

八戸市港町で生まれます。

 

松館大慈寺

盛岡の青龍山 祇陀寺(ぎだじ)

二戸浄法寺の天台寺で

修行された後に

階上町寺下を拠点にして

布教活動をされたそうです。

 

津要和尚は晩年

右手が不自由になり

彫刻等を左手でなされております。

 

色々と踏まえると

当山に祀られる南祖法師尊像は

津要和尚が右手を不自由にされた後に

彫られた御像である可能性が

高いように思います。

 

天聖寺8世の

則誉守西(そくよしゅさい)上人の

『奥州南部糠部順礼次第』(寛保3年(1743))

では第6番札所である清水観音について

内御堂二正観音安置

と記されており

現在祀られる十一面観音ではなく

正(聖)観音が

祀られていたことが分かります。

 

この正(聖)観音像は

盗まれたそうです。

 

そこで津要和尚が

十一面観音を造立し

観音堂を再興したのだそうです。

 

則誉守西上人の「順礼」が行われた

寛保3年(1743)は

津要和尚が亡くなられる2年前で

まさに晩年にあたります。

 

ですので

十一面観音像は

津要和尚晩年の御像といえます。

 

滝尻善英氏の著作に掲載される

この十一面観音像の写真は

拝見する限り

当山の南祖法師尊像の尊容と

通じているように思います。

 

また

津要和尚の御像について

調べていくと

津要仏に見られる独特の特徴が

南祖法師尊像にも見られますし

さらにそれらが左手で

彫られたものだとすると

かなり説得力を持つような

特徴を指摘することが出来ます。

 

前置きが長くなりましたが

津要仏である

虚空蔵菩薩像が祀られる

是川の福善寺を訪ねました。

 

福善寺は当山と同宗であり

いつも大変お世話になっている

御寺院様です。

 

ご住職にご案内頂き

仏像を拝見させて頂きました。

 

▼津要御作・虚空蔵菩薩(福善寺)

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津要和尚御作の御像のお顔は

鼻や眼

鼻と眉のラインのとり方が

とても特徴的です。

 

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写真では分かりにくいですが

津要和尚独特の彫目(ほりめ)が

全体に見られます。

 

彫刻されている文字ですが

中央には

南無能満諸願虚空蔵菩薩

その右方に階上山

それとは対に青龍寺

と刻まれております。

 

彫目について

これだけでは

分かりにくいと思いますので

すこし前に伺わせて頂いた

港町の十王院にお祀りされる

地蔵菩薩立像の写真を

以下に添付いたします▼

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独特の彫目が

ある程度分かると思います。

 

こういった彫目が

福善寺に祀られる

虚空蔵菩薩像にも見られました。

 

比較対象として紹介させて頂いた

十王院の津要仏・地蔵菩薩立像の

全体像はこちらです

(高さは2メートル近くあります)▼

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当山に祀られる

南祖法師尊像がコチラです▼

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背面に見られる

彫目が分かるでしょうか?

 

津要仏に見られる特徴である

彫目が全身に見られます。

 

彫目がやや大きいのは

左手で彫られたものだと考えると

納得出来るように思います。

 

顔に見られる特徴も

津要仏の特徴を

指摘出来るかと思います。

 

今回は

津要和尚の

仏像に見られる特徴から

南祖法師尊像の来た道の

可能性について検討してみました。

 

他の視点からの検討も

有意義かと思いますので

また改めて投稿させて頂きます。