稀代の古刹 七崎観音⑬

当山本堂内の観音堂の

内殿中央に祀られる

聖観音(しょうかんのん)は

七崎観音(ならさきかんのん)と呼ばれ

その起源は平安時代にまで

さかのぼるとされます。

 

当山は古くから

七崎観音の別当をつとめております。

 

七崎観音は明治時代になるまでは

本堂の位置から南方に位置する

現在の七崎神社の地に建立されていた

観音堂にお祀りされておりました。

 

その観音堂は七崎山徳楽寺

という寺号が用いられ

諸堂も整備されておりましたが

明治の神仏分離政策のため

廃寺となり七崎神社として

改められました。

 

七崎観音へ捧げられた祈りの痕跡として

今回は観音堂へ奉納された

吊り灯篭を紹介させて頂きます。

 

現在観音堂には吊り灯籠が

6つ吊るされております。

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そのうち2つの吊り灯篭について

紹介させて頂きます。

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その①【寛文10年(1670)吊り灯篭】

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まず1つ目の吊り灯篭ですが

六面の各面に

以下のように刻字がされております。

 

金燈籠所願成就所

奉懸奥州南部三戸郡之内

七﨑村観音御宝前

願主 槻茂左衛門尉 藤原清継

寛文十庚戊(1670年)月日

 

この吊り灯篭は

平成31年・令和元年(2019)から

349年も前に奉納されたものです。

 

この時期は

永福寺41世・宥鏡(ゆうきょう)上人の

時代にあたります。

 

当山先師である宥鏡上人は

奈良県の長谷寺から

永福寺住職として

お迎えされました。

 

慶安4年(1651)

三代将軍家光公がご逝去された際には

日光東照宮でのご供養のため

召し出されております。

 

さらに宥鏡上人は

盛岡城の時鐘の銘文を

仰せ付けられたり

二戸の天台寺の

桂泉観音堂と末社の棟札も

記されていらっしゃいます。

 

宥鏡上人の晩年である

延宝8年(1680)に

盛岡永福寺は火災にあっており

その後焼けて損じてしまった

仏像や経典などを

東の岡の地中に納め

歓喜天供養塚を建立し

同所を41世以後の住職はじめ

末寺住職や所化などの境内墓地とし

さらには十和田山青龍権現を

勧請して祀られました。

 

宥鏡上人と七崎観音堂の関係でいうと

当山所蔵の明暦2年(1656)の棟札には

宥鏡上人の名が見られます。

 

この棟札は

観音堂と末社十二宮を再興した時のものです。

 

南部第28藩主・重直公が

病気の際に七崎観音に祈願した所

霊験があったとして

再興が成されました。

 

同時期には

三戸の早稲田観音堂も再興されております。

 

早稲田観音堂がある

三戸の沖田面は

三戸永福寺があった場所で

本坊が盛岡に建立された後は

自坊・宝珠山 嶺松院(れいしょういん)

が旧地を引き継ぎました。

 

宥鏡上人の後に永福寺住職となられたのが

清珊(せいさん)上人です。

 

清珊上人と南部29第藩主・重信公が

なされた連歌が

盛岡の地名の由来といわれます。

 

清珊上人の代になり

七崎永福寺は普賢院に

「改められた」とされます。

 


その②【天保8年(1837)吊り灯篭】

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2つ目の吊り灯篭は

天保8年(1837)正月に

永福寺57世・宥威(ゆうい)上人により

奉納されたものです。

 

こちらの吊り灯篭には

以下のように刻字されております。

 

奉納七﨑山観世音菩薩

諸願成就 皆令満足

永福寺権僧正 宥威 敬白

天保八歳次丁酉(1837年)

春正月摩訶吉祥日

 

宥威上人は

権僧正(ごんそうじょう)という

とても高い僧階(そうかい、僧侶の位)

にあられた住職です。

 

宥威上人は

天保10年(1839)に御遷化(ごせんげ)

されていらっしゃるので

観音堂の吊り灯篭は

亡くなられる2年前に

奉納されたことになります。

 

当山の『先師過去帳』には

先師として盛岡の

当山本坊である永福寺住職も

記されてまいりましたが

永福寺57世・宥威上人が

本坊の住職として記される

最後の住職となります。

 

▼宥威権僧正

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今回は

2つの吊り灯篭を

紹介させて頂きました。

 

お寺に祀られる仏像や

設えられるもののことを

宝物(ほうもつ)といいます。

 

宝物に通わされる

個々の物語は

どれも尊いものです。

七崎山龍神堂

当山所蔵の木札の中に

「分龍守護神」と記された

木札があります。

 

中央には宝珠が彫られ

両脇には海上安全と大漁満足の

願目(がんもく)が記されます。

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この木札の浦には

大正4年(1915)の年号があり

七嵜山龍神堂分と記載されます。

 

当山において

龍神へ捧げられた祈りの

一端を伝えるものといえます。

 

当地はかつて

七崎(ならさき)と呼ばれました。

 

この七崎には

いつくか龍神伝説が伝えられます。

 

十和田湖の青龍大権現という

龍神となった南祖坊(なんそのぼう)

の伝説が有名ですが

その他にも行海伝説と七崎姫伝説が

伝えられております。

 

七崎姫伝説は

八戸市八太郎にある

蓮沼神社と関連があり

当地より蓮沼まで赴く行事が

行われておりました。

※関連記事↓

https://fugenin643.com/blog/稀代の古刹七崎観音六/

 

嘉永年間(1848〜1855)に

三峰館寛兆(さんぽうかんかんちょう)

が描いた『八戸浦之図』には

白銀の清水観音(糠部第6番札所)の

別当は永福寺(現在の普賢院)であると

記されております。

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これらのことからも分かるように

当山は海の地域とも

古くから関わりがあります。

 

また

この清水観音に祀られる

十一面観音は

港町出身の禅僧

津要玄梁(しんようげんりょう)が

晩年に作仏されたものです。

 

当山には

南祖坊の御像である

南祖法師尊像(なんそほっしそんぞう)

が観音堂にお祀りされますが

この御像は津要玄梁の晩年作の

ものではないかと

拙僧(副住職)は考えており

調査を進めております。

※関連記事↓

https://fugenin643.com/blog/8272/

 

余談ですが

津要玄梁の足跡をたどると

「青龍」ととてもご縁のある方です。

 

この点については

別稿にてお伝えさせて頂きます。

 

今回は

龍神の木札について

紹介させて頂きました。

稀代の古刹 七崎観音⑫

当山本堂内の観音堂

内殿中央にお祀りされる

聖観音(しょうかんのん)は

七崎観音と通称され

古くから親しまれております。

 

七崎観音は明治時代になるまでは

現在の七崎神社の地にあった

観音堂にお祀りされておりましたが

神仏分離政策のため

旧観音堂は“廃寺”となり

七崎神社に改められました。

 

“大正の広重”とも称された

鳥瞰図(ちょうかんず)絵師である

吉田初三郎(よしだはつさぶろう)

(明治7年(1884)〜昭和30年(1955))

の「十和田湖鳥瞰図」には

当山も描かれております。

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「十和田湖鳥瞰図」には

永福寺と七崎神社の名称が

記されております。

 

ここに記される永福寺とは

現在の普賢院です。

 

当山は江戸時代初期頃まで

永福寺の寺号が

主に用いられており

永福寺42世住職である

清珊(せいさん)の代に

普賢院になったと伝えられております。

 

永福寺という寺号は

鎌倉時代からのもので

南部氏との関わりがあるものですが

普賢院そのものは

弘仁初期頃(810頃)に

開創されたと伝えられます。

 

当山は十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)が

修行したと伝えられるお寺です。

 

南祖坊は

七崎永福寺(現在の普賢院)の

月法和尚(当山2世)に弟子入りしたと

伝えられております。

 

吉田初三郎氏がこの伝説を

踏まえていたのか否かは

分かりませんが

「永福寺」と七崎の名が付され

明治以後に神社に改められた

「七崎神社」の名称が

鳥瞰図に記載されていることは

十和田湖と当地の関わりの深さを

反映してのことであると

言えるかもしれません。

 

現在の観音堂は

多くの荘厳具が設えられており

現在に歴史を伝えるものが多くあります。

 

以下の写真は

観音堂内陣の扁額です。

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この扁額は

文化13年(1816)4月に

菊池氏により奉納されたものです。

 

扁額の書は

三井親孝によるものです。

 

三井親孝は

江戸中期に活躍した書家である

三井親和(しんな)の子です。

 

この扁額には

「正観世音(しょうかんぜおん)」

の文字が“芸術的”に

記されております。

 

つい先日

他の扁額の落款を解読するために

様々な字典にあたったのですが

その際に文字の奥深さを

感じました。

 

白川静氏によると

「文字」は祭祀儀礼のために

生まれたそうです。

 

口という漢字の字源は

「祝詞を納める箱」だそうです。

 

話を扁額に戻すと

三井親孝の「正観世音」の

「正」の一画目の一の部分が

“原初的な漢字の口”

(「さい」といいます)に

なっており

字自体に祭祀的意味合いを

見て取ることが出来ます。

 

扁額を通じてご縁のある

三井親和・親孝については

文化的に功績のある

方なので今後改めて

その足跡を追わせて頂き

学びを深めさせて頂こうと思います。

 

さて

今回は三井親孝書の扁額を

紹介させて頂きました。

 

観音堂には多くの仏像や

宝物(ほうもつ)がありますので

次回からはそれらについて

紹介させて頂きたいと思います。

南祖法師尊像の来た道を探る 是川福善寺の虚空蔵菩薩像

江戸時代中期に活躍された

津要玄梁(しんようげんりょう)

という禅僧がいらっしゃいます。

 

当山には十和田湖伝説の

南祖坊(なんそのぼう)の御像である

南祖法師尊像(なんそほっしそんぞう)が

観音堂にお祀りされますが

この御像は津要和尚が

手がけられたものではないかと

拙僧(副住職)は考えております。

 

その可能性に

初めて気がついたのは

白銀の清水観音(糠部第6番札所)

について調べていた時でした。

 

こちらの清水観音堂は

かつて当山が別当をつとめたお堂で

本尊の十一面観音像は

津要(しんよう)和尚が

作仏されたものです。

 

この十一面観音の写真が

滝尻善英氏の著作に

掲載されており

その御尊容に

当山に祀られる南祖法師尊像の

御尊容と類似する点が

多く見られたため

南祖法師尊像は

津要仏(津要が作仏された仏像の意)

ではないかと考えるように至ったのです。

 

それ以来

津要仏について

個人的に調査をしております。

 

【これまでの“仏像調査”の記事】

https://fugenin643.com/blog/ふらりと港町へ仏像調査/

https://fugenin643.com/blog/8044/

 

津要(しんよう)和尚は

延宝8年(1680)に

八戸市港町で生まれます。

 

松館大慈寺

盛岡の青龍山 祇陀寺(ぎだじ)

二戸浄法寺の天台寺で

修行された後に

階上町寺下を拠点にして

布教活動をされたそうです。

 

津要和尚は晩年

右手が不自由になり

彫刻等を左手でなされております。

 

色々と踏まえると

当山に祀られる南祖法師尊像は

津要和尚が右手を不自由にされた後に

彫られた御像である可能性が

高いように思います。

 

天聖寺8世の

則誉守西(そくよしゅさい)上人の

『奥州南部糠部順礼次第』(寛保3年(1743))

では第6番札所である清水観音について

内御堂二正観音安置

と記されており

現在祀られる十一面観音ではなく

正(聖)観音が

祀られていたことが分かります。

 

この正(聖)観音像は

盗まれたそうです。

 

そこで津要和尚が

十一面観音を造立し

観音堂を再興したのだそうです。

 

則誉守西上人の「順礼」が行われた

寛保3年(1743)は

津要和尚が亡くなられる2年前で

まさに晩年にあたります。

 

ですので

十一面観音像は

津要和尚晩年の御像といえます。

 

滝尻善英氏の著作に掲載される

この十一面観音像の写真は

拝見する限り

当山の南祖法師尊像の尊容と

通じているように思います。

 

また

津要和尚の御像について

調べていくと

津要仏に見られる独特の特徴が

南祖法師尊像にも見られますし

さらにそれらが左手で

彫られたものだとすると

かなり説得力を持つような

特徴を指摘することが出来ます。

 

前置きが長くなりましたが

津要仏である

虚空蔵菩薩像が祀られる

是川の福善寺を訪ねました。

 

福善寺は当山と同宗であり

いつも大変お世話になっている

御寺院様です。

 

ご住職にご案内頂き

仏像を拝見させて頂きました。

 

▼津要御作・虚空蔵菩薩(福善寺)

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津要和尚御作の御像のお顔は

鼻や眼

鼻と眉のラインのとり方が

とても特徴的です。

 

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写真では分かりにくいですが

津要和尚独特の彫目(ほりめ)が

全体に見られます。

 

彫刻されている文字ですが

中央には

南無能満諸願虚空蔵菩薩

その右方に階上山

それとは対に青龍寺

と刻まれております。

 

彫目について

これだけでは

分かりにくいと思いますので

すこし前に伺わせて頂いた

港町の十王院にお祀りされる

地蔵菩薩立像の写真を

以下に添付いたします▼

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独特の彫目が

ある程度分かると思います。

 

こういった彫目が

福善寺に祀られる

虚空蔵菩薩像にも見られました。

 

比較対象として紹介させて頂いた

十王院の津要仏・地蔵菩薩立像の

全体像はこちらです

(高さは2メートル近くあります)▼

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当山に祀られる

南祖法師尊像がコチラです▼

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背面に見られる

彫目が分かるでしょうか?

 

津要仏に見られる特徴である

彫目が全身に見られます。

 

彫目がやや大きいのは

左手で彫られたものだと考えると

納得出来るように思います。

 

顔に見られる特徴も

津要仏の特徴を

指摘出来るかと思います。

 

今回は

津要和尚の

仏像に見られる特徴から

南祖法師尊像の来た道の

可能性について検討してみました。

 

他の視点からの検討も

有意義かと思いますので

また改めて投稿させて頂きます。

青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)⑥

青森県田子町の

釜渕家出身である高僧

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

は生没年代の詳細は不明ですが

1657年頃に生まれ

元文4年(1739)82歳頃に

入寂したとされます。

 

学秀は千体仏の作仏を

三度成し遂げられており

それらの時期は以下のように

第1期〜3期という形で

表現されているようです。

 


 

第1期 地蔵菩薩

(1600年代末〜1700年代初頭)

(学秀 50歳頃)

飢饉物故者供養のため

 

第2期 観音菩薩

(正徳2年(1712)頃〜)

(学秀 60歳頃〜)

九戸戦争戦没者のため

 

第3期 観音菩薩

(享保7年(1722)〜元文4年(1739))

(学秀 70歳頃〜入寂)

生まれである釜渕家一族の供養のため

 


 

話があちこち飛ぶかと思いますが

仏道における「三千」という数字や

「千」という数字について

触れてみたいと思います。

 

三世三千仏(さんぜさんぜんぶつ)

という言葉があります。

 

三世という言葉は

掘り下げられて様々な意味があり

さらには三毒(さんどく)といった

仏道の根本的なキーワードと絡め

説かれることが多いのですが

ここでは基本的な意味として

過去・現在・未来のことと

捉えて頂いて結構です。

 

三世三千仏とは

それぞれに千仏が

いらっしゃるという

意味だとお考え下さい。

 

ここでいう千とは

個数の数字ではなく

象徴的意味を帯びた聖数です。

 

この三千仏に祈りを捧げる法要を

仏名会(ぶつみょうえ)といい

日本では光仁天皇代の

宝亀5年(774)12月に

初めて行われております。

 

意図してのことか否かを

知るすべはありませんが

結果として

学秀の後半生におけるお歩みは

三世三千仏への尊い祈りを

作仏を以て遂げられたとも

捉えられるかと思います。

 

学秀は禅僧でもあるので

その観点から考えてみると

禅宗でもよく用いられる

陀羅尼(だらに、梵語のお経のこと)に

大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)

または大悲咒(だいひしゅ)

と通称される“お経”があります。

 

大悲心陀羅尼あるいは大悲咒は

千手観音の陀羅尼でもあります。

 

日本最古の観音霊場である

西国(さいごく)三十三観音霊場

のうち千手観音が本尊である

札所は33所のうち

実に15所(十一面千手1ケ寺も含む)

にのぼります。

 

西国三十三観音霊場の

札所本尊としては

如意輪観音が6ケ寺

十一面観音が6ケ寺

聖観音が3ケ寺

准胝観音が1ケ寺

不空羂索観音が1ケ寺

馬頭観音が1ケ寺です。

 

開創1300年とされる

西国三十三観音霊場において

千手観音を本尊とする札所が

最も多いことからも

古くから信仰されてきた

観音菩薩であることが

分かるかと思います。

 

日本最古の三十三観音霊場である

西国霊場の起源は

当山の本山である長谷寺を

開山された徳道(とくどう)上人が

関わっております。

 

養老2年(718)に

徳道(とくどう)上人が

病床において見られた夢で

閻魔大王より三十三の宝印を授かります。

 

そして衆生救済のために

観音霊場を作るよう

閻魔大王に告げられたため

宝印を納める三十三所を定められ

西国三十三観音霊場が開創された

と伝えられます。

 

しかし

徳道上人の時代には

機運が熟さなかったようで

授かった三十三の宝印を

現在の兵庫県にある

中山寺に納めることになります。

 

中山寺は真言宗中山寺派の本山で

聖徳太子創建とされ

勝鬘夫人(しょうまんぶにん)の

お姿をうつして造ったと伝えられる

十一面観音を本尊とします。

 

中山寺は西国第一番札所です。

 

徳道上人が

中山寺に三十三の宝印を納め

それから約270年経った後に

花山法皇により

西国三十三観音霊場は

復興されたとされます。

 

花山法皇は

播磨(現在の兵庫県)にある

書寫山(しょしゃざん)の

性空(しょうくう)上人とご縁がある方です。

 

書寫山というと

“最古の十和田湖伝説”が収録されている

『三国伝記』(さんごくでんき)では

難蔵(南祖坊(なんそのぼう)のこと)は

書寫山の法華持経者とされます。

 

南祖坊は十和田湖伝説に登場する僧侶で

当山にて修行したと伝えられ

全国練行の末に十和田湖に入定し

青龍大権現という龍神として

十和田湖の主になったと伝えられます。

 

西国三十三観音霊場に続いて

坂東(ばんどう)三十三観音

秩父三十三観音(のち三十四観音)の

霊場が成立しますが

それに続いて成立した地方的札所が

糠部三十三観音だそうです。

 

糠部三十三観音霊場は

永正9年(1512)9月に

観光上人により創始されました。

 

観光上人の札番(札所の番号)は

現行のものとは異なりまして

現在の札番は

八戸市の天聖寺(てんしょうじ)第8世

則誉守西(そくよしゅさい)上人が

寛保3年(1743)に定められたものです。

 

当山の七崎観音は第15番札所で

田子の釜渕観音は第27番札所になります。

 

この27番札所の釜渕観音堂にて

学秀は出身である釜渕家のご供養のため

最後の千体仏を完成させました。

 

西国三十三観音霊場のルーツである

当山の本山である奈良県桜井市の

長谷寺の創建は

朱鳥元(686)年に

修行法師の道明上人が

銅板法華説相図(ほっけせっそうず)

を安置して祀られ開創されます。

 

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この法華説草図には

法華経

見宝塔品(けんほうとうぼん)

の場面が描かれております。

 

平泉の中尊寺金堂は

この見宝塔品に基づいて

建立されたといわれます。

 

補足になりますが

江戸時代初期までは

中尊寺には真言寺院も構えられており

永福寺住職が中尊寺から

迎えられたこともあります。

 

見宝塔品について

以下の引用文を参考に

大意を見てみましょう。

 


 

釈迦牟尼(しゃかむに)が

霊鷲山(りょうじゅせん)で

大比丘尼衆一万二千

菩薩八万のために

法華経を説かれると

会座(えざ)に地中より

高さ五百由旬

縦横二百由旬の七宝塔が

湧出(ゆうしゅつ)し

空中に住在するところあり

時に宝塔中より

多宝仏(たほうぶつ)が大音声を発し

釈尊説くところの法華経を讃嘆し

それが真実なることを証する。

 

やがて釈尊

扉をひらいて

二仏宝塔中に

併座されるといふのが

この経文の大旨である。

 

(安田與重郎、昭和40年

『大和長谷寺』(淡交社)p.11。)

 


 

このような象徴的場面が

法華説相図には

施されております。

 

またこの法華説相図は

金銅千体仏とも

金銅釈迦仏一千体ともいわれ

「千体仏」が施されております。

 

他にも「千」や「三千」に

関連して述べられることは

沢山あるかと思いますが

様々な意味合いや伝統がある

ということが少しでも

伝えることは出来たでしょうか。

 

こういった観点から

学秀千体仏に

アプローチすることは

有意義なことと思われます。

 

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彼岸と南祖坊

春彼岸(はるひがん)を

迎えようとしております。

 

当山は

十和田湖南祖坊(なんそのぼう)伝説

ゆかりの寺院ですが

春と秋の彼岸の時季に

南祖坊が来臨するという

いわれがございます。

 

江戸期になると

当山本坊の盛岡永福寺は

盛岡に建立されますが

盛岡においても

彼岸に南祖坊が来臨するという

慣習は引き継がれていたことが

近世の史料から

読み取ることが出来ます。

 

※関連記事↓

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相⑨/

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相⑩/

 

行事や儀式というものは

そこに通わされている「意味合い」や

「物語」ともいえるような筋書きが

現在において「体現」「再現」される

とても大切なものといえます。

 

当山は古い歴史のみならず

様々な伝承に彩られた古刹なので

それらを後世に伝える意味においても

様々な「意味合い」「物語」に

触れて頂けるよう

つとめることが必要だと

最近は感じております。

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古代の祈りの痕跡とお寺の起源

錫杖(しゃくじょう)状鉄製品

といわれる遺物が

当地の上七崎での

遺跡調査(平成6年(1994)実施)で

発掘されております。

 

八戸市の

遺跡台帳番号03268

上七崎遺跡

『新編八戸市史』によると

平安以前のものとされますが

出土遺物は概ね

10世紀後半のものとしております。

 

錫杖(しゃくじょう)は

現在でも修法や儀式で用いられる

法具(ほうぐ)です。

 

同資料によれば

宗教儀礼等に用いられていたと

考えられる錫杖状鉄製品は

北東北を中心に

発見されていたものの

用途は不明だったようで

上七崎遺跡出土の錫杖状鉄製品が

完存品で発見されたことにより

現在用いられている錫杖のように

用いることで音が発せられることが

初めて明らかになったそうです。

 

9世紀頃〜10世紀には

七崎の地において法具が

用いられ祈りが捧げられていた

ことを伝えているといえるでしょう。

 

また当地の滝谷(たきや)地区の

蛇ケ沢(じゃがさわ)遺跡では

9世紀後半から10世紀初頭の

竪穴式住居跡3棟が見つかっており

そこでカマドにまつわる

宗教儀礼があったものと

想定されているそうです。

 

また同遺跡では

鋤(すき)・鍬(くわ)先が

3枚重なった状態で納められており

「当時貴重品であったと思われる

鉄製品をどのような理由で

納めたのか

この集落を考える上で

注目される事例」だそうです。

 

※遺跡関係の記述は

全て『新編八戸市史 』の

考古学資料編と地誌編を

参考にしております。

 

それぞれの遺跡は

古代の祈りの痕跡を伝えます。

 

当山は

開創は圓鏡上人

(弘仁初期(810頃))

開基(開山)は行海上人

(承安元年(1171))

中興開山は快傅上人

(享保年間(1716〜1736))

とされまして

ルーツは平安初期にさかのぼります。

 

当地の住所にも残る

「永福寺」という寺号は

甲州南部郷より遷座され

三戸沖田面に建立された

新羅堂の供養を

鎌倉の二階堂永福寺の僧侶

宥玄(ゆうげん)が勤めたことに

由来するとされます。

 

鎌倉では

永福寺を「ようふくじ」と

読んでおります。

 

鎌倉時代の歴史書(とされる)

『吾妻鑑』(あずまかがみ)

宝治2年(1248)2月5日条には

文治5年(1189)12月9日

永福寺事始あり

とあります。

 

ついでですが

鎌倉は中世において

密教の一大拠点でした。

 

さらに

鎌倉ついででいえば

鎌倉の長谷寺は

当山本山である

奈良の長谷寺と

深く関わるお寺です。

 

鶴岡八幡宮寺

勝長寿院

二階堂永福寺

の三学山は鎌倉の密教を

考える上で重要な寺院といえます。

 

二階堂永福寺は

平泉の大長寿院を模して

建立されたとされますが

現在は廃寺となっております。

 

諸説ありますが

“鎌倉三学山”の1つである

二階堂永福寺の僧侶である

宥玄が新羅堂供養を勤めた

「供養料」として

沖田面村に一宇お堂が建立され

宥玄をそのお堂の住職として

永福寺と号したそうです。

 

また

三戸沖田面村と五戸七崎村を賜ったと

近世の史料は伝えております。

 

この近世の史料とは

『たけたからくり』(文政6年(1823))

という文書でして

幅広く貴重な情報を今に伝えるものです。

 

同史料では

七崎(ならさき)に古くから

観音堂があったことにも

触れております。

 

また観音堂は

宗旨も不定で寺号もなく

こちらの「住職」ともなった

宥玄が永福寺の

僧侶であったことから

「時の人挙げて」永福寺と

呼ぶようになったとも

記されております。

 

史料の伝える時期を踏まえると

この二階堂永福寺・宥玄の時期は

行海上人開基の少し後となります。

 

この行海上人は

現在の七崎神社の地に

七つ星(北斗七星または七曜)

の形になぞらえて

杉を植えたとされます。

 

現在の七崎神社にそびえる

3本の大杉(樹齢800〜1000年)は

その時のものだといわれ

行海上人の時代の頃と重なります。

 

当地には

時の天皇の怒りに触れ

平安初期に

当地へおいでになられた

藤原諸江(もろえ)卿が

9本の杉を植えたとの伝説もあり

現在の七崎神社の地の

大杉はその時のものという

いわれもあります。

 

当地に見られる

久保杉(くぼすぎ)という名字は

「9本の杉」から来ており

藤原氏の流れをひいていると

伝えられております。

 

郷土史研究などでは永福寺は

「七崎から三戸に移った」と

よく説明されますが

「移った」という表現は

当てはまらないように思いますし

かなり違和感を覚えます。

 

古い時代の有力寺社は

所領を当地以外にも

持つ場合が多く見られるので

そういったことも

踏まえる必要があるかと思います。

 

永福寺は

「永福寺」という寺号が

用いられる以前に遡及して

その縁起が編まれてゆきます。

 

「永福寺縁起」として

総本山長谷寺とゆかりのある

坂上田村麻呂将軍が

十一面観音を本尊として

奥州「田村の里」七崎に

お寺を建立したという

縁起も伝えられております。

 

『長谷寺験記』(はせでらげんき)

(建保7年(1219)頃までに成立)

という鎌倉期の霊験記の

田村将軍が奥州一国に

十一面観音を本尊として

6ケ所にお寺を建立した話が

同書上巻第5話に収録されており

これが田村将軍創建伝説の

根拠となっているかもしれません。

 

今回とりあげた

『たけたからくり』は

文政6年(1823)に書かれた

近世の史料なので

当時の盛岡における

永福寺縁起がどのように

語られていたのかが

垣間見られるものですし

七崎の地が観音様と

強く結び付けられて

意識されていたであろうことが

よく伝わってまいります。

 

当山開基の行海上人は廻国僧で

当地の大蛇を改心させたことで

地域の住民から

当地に留まるよう

懇願されたため

草庵が結ばれ

普賢院が開基されたと

伝えられます。

 

十和田湖伝説の

南祖坊(なんそのぼう)は

行海上人の弟子であるとも

伝えられております。

 

当山開基の時代を

さらにさかのぼり

弘仁初期頃(810頃)

圓鏡上人により

当山は開創されたとされます。

 

「弘仁初期頃」となっているのは

拙僧(副住職)の見解では

『先師過去帳』に

当山開創 圓鏡上人が

弘仁7年(817)5月15日に御遷化

されていることに

由来していると思います。

 

弘仁年間は810〜824年なので

『先師過去帳』に記される

開創上人の没年を踏まえて

「弘仁初期頃」としているのだと

考えられます。

 

開創や開基の時代には

当地において

「祈り」が捧げられていた

可能性が高いことを伝える

上七崎遺跡と蛇ケ沢遺跡。

 

他の遺跡でいえば

夏間木地区の遺跡は

浅水川流域の数少ない

奈良時代の集落であることが

確認されておりますし

喉平(のどひら)遺跡には

縄文時代後期の小規模集落が

あったと見られており

当地にはその時代には

集落があったことが伺えますし

祭祀に用いられたと見られる

土偶も出土しております。

 

当山草創期に思いをはせるにあたり

当地の各遺跡が伝えることに

耳をしっかりと傾けたいと思います。

 

【関連記事】

▼南祖坊伝説の諸相⑤

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相⑤%E3%80%80長谷寺と南祖坊%E3%80%80その参/

 

▼錫杖状鉄製品

(『新編八戸市史 地誌編』p.576。)

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青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)②

当山観音堂に

奇峯学秀(きほうがくしゅう)御作の

千手観音像が祀られていることが

先日確認されました。

 

ご確認頂いたのは

ごのへ郷土館館長の木村明彦館長と

奇峯学秀の末裔でもある釜渕嘉内氏の

お二人です。

 

2月22日に地元紙の

デーリー東北と東奥日報の各記者と

先のお二人に当山へおいで頂き

取材して頂いた際に

木村館長が奇峯学秀についての

資料を作成して下さいました。

 

奇峯学秀は田子町の

釜渕家出身の高僧で

名久井の法光寺に入門し

後に九戸の長興寺

八戸の大慈寺の住職を

務めた方です。

 

出生年代は不明ですが

元文4年(1739)に名久井の

顧養庵(こようあん)にて

82歳頃で入滅されたそうです。

 

行年が82歳として

没年の1732年から82を引くと

1657となります。

 

1657年は明暦3年です。

 

明暦前後の年号は明暦含め

承応(1652〜1655)

明暦(1655〜1658)

万治(1658〜1661)ですので

この辺りの生まれとなるようです。

 

この時期の

当山の歴史と学秀出生を

重ねてみると

当山では観音堂と末社十二宮が

再興されております。

 

落雷により観音堂が

焼失してしまったため

28代藩主・南部重直公により

御再興頂いております。

 

この観音堂は

現在の七崎神社の地に

建立されていたもので

七崎山 徳楽寺という

寺号が用いられておりましたが

明治になって廃寺となりました。

 

学秀の出生と同時期の

観音堂と末社十二宮の

再興棟札には

承応3年(1654)2月に事始

明暦元年(1655)9月に遷宮畢

と記されております。

 

当山の前身である永福寺は

南部盛岡藩が盛岡に

居城するにあたり

不来方城(盛岡城)の

鬼門の位置に

本坊が構えられます。

 

寛永2年(1625)12月には

27代藩主・南部利直公により

永福寺自坊でもある普賢院は

祈願所とされております。

 

寺院の本末関係や

藩領における統制が

整えられる中で

南部藩の祈願所である

七崎永福寺を“正式な形”で

(自坊という形ではありますが)

普賢院が引き継いだことになります。

 

当山を祈願所と定めた

南部利直公は十和田湖伝説に

登場する南祖坊(なんそのぼう)の

生まれ替わりであるとの

いわれがある藩主です。

 

南祖坊は

当山2世の月法律師に

弟子入りしたとされます。

 

また学秀が住職を務めた

大慈寺は最初

八戸の松館に建立されますが

利直公が開基されたお寺です。

 

この利直公も

学秀と同じく田子の出身です。

 

こういったことも

当山と学秀を結びつける

重要な要素といえるでしょう。

 

高僧・奇峯学秀の生きた時代を

当山の歴史や

仏道的視点を踏まえながら

「青森の円空 奇峯学秀」

と銘打ち何回か投稿したいと思います。

 

なぜ当山に学秀仏がお祀りされたのか

ということをテーマの1つとして

拙僧(副住職)なりの考察を交えつつ

試論として記してみたいと思います。

 

【関連記事】

▼糠部五郡小史に見る普賢院

https://fugenin643.com/blog/糠部五郡小史に見る普賢院/

 

▼稀代の古刹 七崎観音③

https://fugenin643.com/ふげんいん探訪/十和田湖南祖坊について/稀代の古刹七崎観音参/

 

▼稀代の古刹 七崎観音⑦

https://fugenin643.com/ふげんいん探訪/十和田湖南祖坊について/稀代の古刹七崎観音七/

 

▼南祖坊伝説の諸相⑧

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相⑧/

 

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稀代の古刹 七崎観音⑩

当山観音堂に祀られる

七崎観音(ならさきかんのん)の

起源は平安初期にまで

さかのぼります。

 

七崎観音は普段は秘仏ですが

年に一度旧暦1月17日にのみ

御開帳され

その御宝前にて

護摩法要が厳修されます。

 

この行事は「おこもり」と

通称され本年は

2月21日に行われます。

※▼詳細はコチラ

https://fugenin643.com/blog/wp-content/uploads/2019/01/H31おこもり広告.pdf

 

平安時代より現在に至るまで

戦乱の世があり

幾多の災害があり

あまたの困難がありました。

 

長い歴史があるということは

それらとしっかり向き合い

時代時代において

対応してきたことを

意味するといえます。

 

当山は前身である永福寺時代より

七崎観音の別当をつとめておりますが

歴代先師のご尽力は

切なるものがあります。

 

災害でいうと江戸期はまさに

“災害の時代”でもあります。

 

江戸期に限らず

日本は昔から“災害大国”といえる程

深刻な事態の連続でした。

 

七崎観音は

明治になるまでは

現在の七崎神社の地にあった

旧・観音堂にお祀りされておりました。

 

『寺社記録』という

南部藩史料の

安永年間の記録には

旧・観音堂の災禍について

伺える記述があります。

 

以下に

安永8年(1779)

9月の記録を

少しだけ引用してみます。

 

※カッコは拙僧(副住職)の補足です。


 

(安永8年(1779))

九月十二日

 

一 永福寺

預五戸七崎村観音堂並二王門

共ニ先代住(永福寺52世・宥恕)

宝暦十三年(1763)

委細之申上

萱葺(かやぶき)修繕等仕候所

其後両度大地震ニて

本堂二王門共ニ

屋根以外之他損

猶又取繕仕置候得共

次第内通えも朽入

別て二王門等

夏中大雨之節

屋根一向相潰(あいつぶれ)

両所ともニ最速

其侭(そのまま)に

可致置様無之躰ニ御座候間

当年より来春迄

如何様ニも修復仕度念願御座候

 


 

次に安永9年(1780)

2月の記述を

見てみましょう。

 


 

(安永9年(1780))

二月三日

 

一 永福寺

五戸御代官所

七崎村観音堂並二王門

慶安四年(1651)

山城守様(南部重直)御建立

其の後元禄年中(1688-1704)

当寺先住 清珊(永福寺36世)代

再興修理等仕

宝暦十三年(1763)

先住宥恕(永福寺52世)委細之儀申上

萱葺(かやぶき)修復

末社迄再興仕候処

右本堂並仁王門

明和年中(1764-1772)大地震之節

殊之外まかり出来

屋根共相損

段々取繕候得共

弥増大大破罷(まかる)成

 


 

これらの引用中で

地震に触れられていますが

明和5年(1768)9月8日と

明和6年(1769)7月12日に

八戸は大地震に見舞われております。

 

明和年間には

津軽でも雪の時季に

大地震があり

甚大な被害を被ったそうです。

 

先の引用文は

大地震により

お堂がかなり傷んだことを

伝えております。

 

明治34年の文書で

『興隆講規則』というものが

残されております。

 

興隆講(こうりゅうこう)とは

明治初頭の神仏分離ならびに

廃仏毀釈の風潮の中で

“荒廃”した七崎観音を

復興させるべく

当時の当山住職はじめ

当山総代や旧社人

さらに賛助人として

神社宮司(旧・善行院)が

設立した講(組織)です。

 

当山と

七崎(現在の豊崎)の方々が

手を携えて七崎観音を

復興させようとしたものと

いうことが出来るかと思います。

 

『興隆講規則』には

「七崎山観音祭り日」として

初祭 正月七日

春祭 四月七日、八日

秋祭 八月十七日

御年越 十二月十七日

と記されております。

 

その他にも

六斎日や功徳日

さらに護摩の日程や

会日(講の開催日)についても

記されており

『興隆講規則』自体が

七崎観音の手引きの役割も

担っております。

 

「興隆講規則設置趣意書」

という箇所があるのですが

ここは僧侶が唱える

表白(ひょうびゃく)という

尊い文言の仕様になっており

当山や七崎観音の

由緒について触れながら

興隆講設立への経緯が

恭しく述べられております。

 

以下に趣意書を

引用させて頂きます。

 


 

恭しく按ずるに

我邦人皇三十四代推古天皇

篤く三宝を敬い

其往昔大聖仏世尊輪王の

宝位を脱履し

世間出世間の大医王となり給い

諸の国王の為に

仁王般若仏母明王不空羂索経等を

説き給い

七難を摧破して四時を調和し

国家を守護して

自他を安ずるの大法

ひとつも欠漏あることなし。

 

降て

天長年間(824-834)に至り

当七崎山蘭若においても

金剛頂経大日経等

最上乗甚深の秘法を行えり。

 

爾来

円鏡(当山開創(弘仁初期(810)頃))

月法(当山二世、南祖坊の師)

行法

行海(当山開山(承安元年(1171)))

宥鏡

快傅(当山中興開山(江戸中期))

達円

快翁

宥敞

宥青等

凡そ八拾有ニ世の間

領主の祈願道場たり。

 

殊には南部二十八代

源朝臣重直公

深く正観世音を信仰し

かたじけなくも

御高五百五石五斗三合の

知行を喜捨せられ

加うるに十二社人を置き

毎月神楽を奏し奉りしは

ひろく世人の知る所なり。

 

然るに維新に際し

封建の制を廃せられ

版籍悉く返上の結果

遂に之が保続の資を失い

従って神楽も絶亡すること

ここに三十三年を経ぬ。

 

嗚呼、世の移り行くは

人力の得て止むべからざるもの

とはいいながら

かく伝来の霊位を

寺院の一隅に奉置し

絶えて法楽の道を

欠きしこと畏くも亦憂たてけれ。

 

ここを以て

郷人の愁歎限りなく

涙を止むるに由なし。

 

先師宥浄

しばしばこれを忌歎し

再興を企つといえもの

時機未だ塾せず

わずかに院内に小堂を営み

霊位を安置せしのみにて

遂に去る戊戌(明治31年(1898))

卯月九日を以て遷化す。

 

月を越えて小童

過て重任をこうむり

庚子(明治33年(1900))

臘月に至り若干の法器を整い

檀徒総代と謀りて旧社人を集め

之が再興の方法を議し

講を設けて興隆講と称し

明る辛丑(明治34年(1901))

正月二十八日を初会とし

神楽に替うるに

本尊護摩を修し奉り

宝祚無疆

玉体安穏

十善徳化

四海静謐

風雨順時

五穀豊穣

疫病退散

正法興隆を

精祈せんと欲す。

 

伏してこう

十方善男女諸氏

この機に乗じて

生等の徴志を賛し

三宝を帰依し

入講の栄を賜い

益々本尊の威光を増揚し

一指まちまちなる信仰を列ね

五指堅固にして遮那覚王の

金挙に擬し

以て彼の迷邪を破壊し

正法に導き

貴賤を問わず

男女を論ぜず

同体大悲を旨として

大徹悟入の床に遊び

ともに補陀落の浄刹に至り

一切の功徳を具足し

二世の勝益祈られんことを。

 

明治三十四年(1901)陰暦正月

金剛仏子 隆真

敬白

 


 

僧侶であれば

馴染みのある文言ですが

多くの方には

かなり読みにくいかと思います。

 

ですが何となく

大まかな内容は

捉えられるかと思います。

 

七崎観音の復興を切願して

講が設立されたことが

伝わってまいります。

 

少し話は変わりますが

ここでは当山開創である

円(圓)鏡上人から

数名の先師があげられた後

八拾有ニ世の間」と

書かれております。

 

現在の当山住職は

「第64世」として歴代住職に

列ねられておりますが

現在の数え方は

大正5年に亡くなられた

宥精師が自身を60世として

以後代を重ねるよう

方針を定められたので

それに則り現在は数えております。

 

ですが『興隆講規則』が作られた

明治時代までは

現行のものとは別の数え上げが

なされていることが分かります。

 

明治までの数え上げを

現在に適応して

当山先師の墓誌をなぞると

現住職の泰永僧正は

第91世」になります。

 

現行の数え上げは

当山開山の行海上人からのもので

明治までの数え上げは

当山開創の圓鏡上人からのもの

かもしれません。

 

歴代先師の中には

「第〜世」と数え上げられない方も

いらっしゃるので

その方々を数えるか否かという

ことなのかもしれませんし

行ったり来たりということも

あったようなのでそのことが

関係しているのかもしれません。

 

その真相を判明させる術は

ありませんが

要するに歴代住職の数え上げは

一通りではないということです。

 

時代時代で

様々なことがあったでしょうが

七崎観音は

とても長い間

歴代先師はもちろんのこと

有縁の方の手により

守り伝えられてまいりました。

 

今回取り上げた史料からは

その一端を垣間見ることが

出来たかと思います。

 

今を生きる者として

歴史をしっかりと受け継ぎ

未来へ繋いでいきたいと思います。

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稀代の古刹 七崎観音⑨

当山本堂内の観音堂に

本尊としてお祀りされる

聖観音(しょうかんのん)は

七崎観音(ならさきかんのん)

と呼ばれその起源は

平安初期にまでさかのぼるとされます。

 

これまで「稀代の古刹」と銘打ち

七崎観音について

紹介を続けておりますが

今回は明治以後を焦点に

お伝えさせて頂きます。

 

七崎観音は

明治になるまでは

現在の七崎神社(ならさきじんじゃ)

の地に建立されていた

観音堂(以下、旧・観音堂)に

お祀りされており

当山が永福寺時代より

別当をつとめております。

 

旧・観音堂には

七崎山 徳楽寺(ならさきさん とくらくじ)

という寺号(じごう、お寺の名前)が

ありましたが明治の神仏分離により

廃寺となり郷社 七崎神社として

改められました。

 

神仏分離の際に

旧・観音堂に祀られていた

仏像や仏具は

当山に移されることになります。

 

その際の

『目録』(明治36年(1900))と

青森県令・山田秀典氏へあてた

『伺』(明治6年(1873))が

残っております。

 

明治36年の『目録』より

旧・観音堂より当山へ

遷座(せんざ)された仏像の

記述を以下に引用してみます。

 


 

仏像ノ部

一 正観世音大士木像 一躯

一 仁王木像 ニ躯

一 禅林地蔵大士木像 一躯

一 無二地蔵大士木像 一躯

一 護讃地蔵大士木像 一躯

一 延命地蔵大士木像 一躯

 ※1寸8分の仏像

一 弘法大師木像 一躯

一 木像 一躯 十二童子ノ一

 ※5寸の小さな仏像

一 十一面観音金像 一躯

 ※現在行方不明。

【以下、八体仏(はったいぶつ)を指します。

十二支守護尊とも呼ばれます。】

一 普賢菩薩木像

一 大日如来 仝(木像)

一 不動明王 仝(木像)

一 文殊菩薩 仝(木像)

一 千手観世音 仝(木像)

一 勢至菩薩 仝(木像)

一 阿弥陀如来 仝(木像)

一 虚空蔵菩薩 仝(木像)

 


 

以上の仏像が

旧・観音堂から当山へ移されました。

 

現在の観音堂は

七崎観音を中心として

実に多くの尊格が

お祀りされておりますが

その約半数は

引用箇所に記される

旧・観音堂より遷座された仏像です。

 

逆にいえば

上記以外の現・観音堂の仏像は

もともと当山にお祀りされていたものや

各所にあったお堂の仏像です。

 

宝暦13年(1763)の

『御領分社堂』によれば

七崎(現在の豊崎)には

大日堂、不動堂、愛染堂

大黒天社、毘沙門堂、薬師堂

虚空蔵堂、天神社、明神社

稲荷社、白山社

の「小社」があり

さらに一間四面の

月山堂、(千手千眼)観音堂

があったそうです。

 

現在の当山観音堂は

とても荘厳な設えとなっておりますが

これは明治の七崎観音御遷座以後の

歴代先師と有縁の方々の

絶大なるご尽力によるものです。

 

明治19年(1886)に

本堂に内御堂の観音堂が

用意された際の

棟札が残っております。

 

昭和6年(1931)には

観音堂と仁王門(堂)が

改築されました。

 

仁王像は現在の場所ではなく

本堂の観音堂正面の所に

門が作られております。

 

この時の経過等が

『七崎観世音道場普請報告書』という

文書にまとめられております。

 

落慶の日は正午より

新観音堂にて法要が行われ

その後は祝宴が午後5時まで行われ

さらに外では午後5時より

青年分団の方による相撲大会が開催され

1500人もの観衆がいらっしゃり

加えて鶏舞(けいまい、けいばい)も

行われてかなりの盛会だったようです。

 

『七崎観世音道場普請報告書』の

序文には当時の住職である

長峻(ちょうしゅん)大和尚の

表白(ひょうびゃく)という文言が

添えられており

改築に至るまでの

先師方の“七崎観音復興”への

強い思いに触れられております。

 

その表白の一部を

以下に引用してみます。

 


 

明治初年神仏分離の結果

今の神社に奉安されし観世音は

当然の帰結として当普賢院道場へ

付属三宝物と共に

遷座されるに至れり。

 

爾来六十有余年の間

当道場の一隅に安置して

先師宥浄をはじめ宥精師等は

往時の隆盛を偲んで

之が復興を念願たりしが

嗚呼悲哉

機縁未だ熟せずして涙を呑みて

世を去られたり。

 

其後

小衲不思議の縁を以て

大正六年の春

任に当院に就きたりしが

思えば同じ大悲観音

法儀復興にてありき。

 


 

「七崎観音の復興」は

明治以後の先師方の

“大悲願”であったことが伺えます。

 

長峻大和尚は

当山61世住職のみならず

南部町の恵光院住職と

山形県の湯殿山大日坊住職をも

兼任された方で

“激務”に追われる中で病となり

60歳で御遷化(ごせんげ)されました。

 

後を継いだ62世住職の

晃雄(こうゆう)大和尚と

その弟である高明(こうめい)大和尚は

若くしてフィリピンにて戦死しており

その間は2人の妹が

有縁の方のお力添えを頂きながら

お寺を守りました。

 

戦争の時期は

尽きない困難があったそうです。

 

戦争が終わり

新たな住職として

裕教(ゆうきょう)大和尚が迎えられ

当山は復興されてゆきます。

 

本堂は昭和58年に

大改修が成し遂げられます。

 

また現住職を中心に

当山伽藍は一層整えられます。

 

観音堂内陣は

格天井に改装され

その中央には法曼荼羅が刻まれ

吊り灯籠や荘厳具

護摩壇(ごまだん)や

法具(ほうぐ)類が整えられ

現在のお堂となりました。

 

そして現在

当山では本堂建替にあたり

七崎観音の新たな歴史が

紡がれようとしております。

 

内陣の内殿には

七崎観音が納められる

厨子(ずし)以外にも

大きな観音像をはじめ

小さな観音像や

宝剣はじめ奉納物など

多くのものが納められており

歴史を感じると共に

いかに多くの願いが

捧げられてきたのかが

伝わってまいります。

 

託されてきたもの

捧げられてきたもの

守られてきたもの。

 

七崎観音は

無量のおもいにより

今に伝えられていることを

心にしっかりと刻み込み

新たな歴史を有縁の方と共に

紡いでまいりたいと思います。

 

▼本堂建替事業について

https://fugenin643.com/blog/新たな歴史を紡ぐ/

 

▼長峻師と愛娘達

※本堂前にて大正初期に撮られたものです

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▼高明師 送別会の写真

※写真の裏には以下のように書かれます

 昭和拾九年六月十四日

 高明 応召出発前日

 送別会ノ日 写ス

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▼昭和26年 本堂修築記念

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▼昭和30年代の本堂

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▼昭和の本堂大改修(昭和51年8月落慶)

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▼現在の観音参拝所

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▼現在の観音堂内陣

観音堂

▼現在の普賢院

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