研究者の方より論文を頂戴しました

盛岡にお住まいの

研究者である阿部幹男様より

ご丁寧なお手紙と

十和田湖伝説の論文を頂戴しました。

 

光栄なことに

十和田湖伝説について調べる中で

当山のブログもお読み下さり

参考にして下さったとのことです。

 

お手紙には

その御礼として

論文をお送り下さった旨が

したためられており

とても嬉しく感じております。

 

十和田湖伝説に散りばめらている

仏道的な部分や

神仏習合的な部分は

曼荼羅思想をはじめとして

密教的視点や手法が

とても有効です。

 

ですがこういった部分は

書籍などを読むだけでは

多くを汲むことは難しく

実際の修法や儀礼等に通じなければ

浮かび上がりにくいものです。

 

そういった背景もあり

仏道的な視点や

当山の伝えられる所の由緒などを

踏まえながら

これまでブログで

拙稿を気まぐれで

アップしてまいりました。

 

本当に小さな積み重ねなのですが

少しでもお役立て頂けたことを

とても嬉しく思います。

 

お送りいただいた論文を

ありがたく拝読させて頂き

さらなる研鑽に励ませて頂きます。

 

阿部様

お心遣い大変ありがとうございました。

 

機会がありましたら

是非当山へおいで下さいませ。

 

【阿部様へ追伸】

貴論文にも

触れられていましたが

拙僧(副住職)も以前より

八郎太郎と諏訪信仰との関係は

大切な視点であると感じております。

 

記紀神話にも連なる

諏訪明神の本地仏は

普賢菩薩とされ

深秘な意味が通わされています。

 

ちなみにですが

当山本尊脇仏として

祀られる普賢菩薩像は

一般的な像相ではなく

どこか神像の雰囲気を帯びたような

“異形仏”で何かしらの意味が

託されているようにも思われます。

 

また諏訪信仰と当地域近辺は

様々な関わりが見られ

諏訪という地名も見られます。

 

挙げると切りがありませんが

伝説を構成する

多くの要素の一つとしての諏訪信仰は

丁寧に紐解くべきものと考えます。

 

阿部様の今後益々の

御発展を衷心より祈念申し上げます。

 

合掌

 

熊野権現と十和田湖の十湾寺

青森市油川の熊野社と

十和田湖十湾寺(とうわんじ)について

先日ブログでとりあげましたが

今回はその十湾寺について

もう少しだけ触れたいと思います。

 

中道等氏の

『十和田村史』(上巻)

(青森県上北郡十和田村役場、昭和30年)

にはかつて十和田湖にあった

熊野山 十湾寺について触れらた

史料が紹介されておりますが

それを記した僧侶が

当山先師の廣宥(こうゆう)大和尚です。

 

十湾寺は史料によっては

十涯寺とも十瀧寺とも記されます。

 

当山は鎌倉期から江戸初期にかけ

永福寺の寺号が用いられておりましたが

盛岡に永福寺の本坊が

建立されて以後は

本坊永福寺に対し

旧地である七崎(現在の豊崎)の

永福寺を自坊 普賢院とし

同じく旧地である三戸の永福寺を

自坊 嶺松院(れいしょういん)としました。

 

当山と同じく自坊であった嶺松院は

寛文年間(1661〜1673)に焼失したと

『新撰陸奥国誌』には記されます。

 

廣宥大和尚が

本坊永福寺45世住職を担うわけですが

史料を見てみると

本坊永福寺44世良光大和尚が

元禄12年(1699)に下総の観福寺へ

行かれることになり

永福寺住職を辞められた後

45世の廣宥大和尚が就任される間

如常

堯意

堯誉

以伝

という方々が「住職」を

されております。

 

南部藩における冠寺であった

本坊盛岡永福寺の

正式な住職になるためには

様々な条件が必要だったことと

このとは関係しております。

 

廣宥大和尚は

法明院住持をつとめられ

後に当山本坊盛岡永福寺45世も

つとめられた方で

当山先師過去帳にも

当山歴代先師墓の墓誌にも

その名を連ねられていらっしゃいます。

 

法明院は永福寺末寺ですが

江戸後期に本末関係をめぐり

寺院でもあります。

 

さて

余談が過ぎてしまいましたが

以下に中道氏の書き下し文の

一部を引用いたします。

(カタカナ表記をひらがなに改めました)

 


陸奥南部糠部郡の奥瀬村に

十和田と号する沼あり

 

奇代の霊沼にして

塵俗を離る数百里

城下を去ること数千里

 

峩々(がが)たる高山は峰を並べ

黄々たる灌木は枝を連ね

萋萋(せいせい)たる

葛藟(かつるい)は道を塞ぐ

 

既にして

虫類禽獣たりといえども

輙(たやす)く上ることを得ず

 

清々たるの池に臨みて之を見れば

洪々たる海水は崎を敲(たた)き

潺緩(せんかん)たる波浪は砂を洗ふ

 

譬えば魍魎鬼神たりといえども

謾(みだ)りに池の辺(ほとり)に

近づく能わず

 

誠に和漢无雙(むそう)の霊沼なり

 

是の沼の来由を尋ねしむるに昔

人王七代の帝 孝霊天皇の

治世七十六年壬子の暦(とし)の六月

湧き出たりと云々

 

此沼の主に八郎太郎と云う大竜あり

 

諸(もろもろ)の眷属八竜王

前後左右を囲繞(いぎょう)し

渇仰(かつごう)して常に之を

守護すること歳久しかりき

 

其後

人王五十一代平城天皇の御宇

大同二年丁亥の年八月

南宗比丘(なんそびく)

新たに霊夢を蒙り

彼の八竜を追出して

則ち池の主とはなりぬ

 

斯の時

悉く隣里郷党奔(はし)り集まりて

七堂伽藍を建立し

熊野三所権現を勧請し奉りて

熊野山十涯寺と号したり


 

ここには僧侶ならではの

言い回しが見られます。

 

十湾寺についてのみならず

十和田湖伝説の“ダイジェスト”を

どのように捉えていたのかを

窺い知ることが出来るように思います。

 

▼自籠岩より見た十和田湖(西湖)

青森市油川の熊野社と十和田湖十湾寺

享保年間の『津軽一統志』は

外ヶ浜(青森市)油川の

熊野十二所権現社に

永禄2年(1559)の再興の棟札があり

その裏書には

十湾寺(とうわんじ)南蔵坊

於いて勧請(かんじょう)

と記されていると伝えております。

 

この十湾寺は永福寺の別院で

熊野山の山号を用いていたとされます。

 

史料によっては

十涯寺や十瀧寺とも記されます。

 

永禄2年の棟札に見られる

南蔵坊というのは

十湾寺に所属する坊と見られます。

 

当山付近にも

南宗坊という地名があり

かつて当山に所属する坊が

あったと言われております。

 

南蔵坊も南宗坊も

十和田湖伝説の南祖坊(なんそのぼう)に

連なるものと考えて

差し支えないかと思います。

 

十和田湖伝説に関係なくとも

「南蔵」や「南宗」の文言は

寺院に用いられることがあるのですが

今回見ているものについては

関係性が十分にあるものなので

南祖坊伝説の「ナンソ」が

踏まえられていると捉えて良いと思います。

 

南祖坊伝説において

熊野信仰は重要な要素の一つといえます。

 

現存するか否かは分かりませんが

『津軽一統志』が伝える永禄2年の棟札は

十湾寺の名が見られる

とても貴重なものといえます。

 

十湾寺については

またの機会に

こちらで紹介させて頂きます。

 

▼油川の熊野宮

▼油川の熊野神社(十三森熊野宮)

祭りのあと

7月末より8月上旬にかけ

青森では多くのお祭りが

開催されます。

 

八戸では三社大祭

青森ではねぶた

弘前ではねぷた

五所川原では立佞武多。

 

全てがこの時季

というわけではありませんが

これら同様の山車祭りは

青森県内各地に沢山あり

季節の風物詩として

大切にされています。

 

今年の青森ねぶたでは

十和田湖南祖坊(なんそのぼう)伝説の

山車があったそうです。

 

南祖坊は

当山第2世の月法律師(がっぽうりっし)の

弟子となり学ばれ

全国の霊山霊跡を巡った果てに

十和田湖に結縁入定され

青龍大権現(せいりゅうだいごんげん)

という十和田湖の龍神になった

とされる僧侶です。

 

調べてみると

青森ねぶたでは以前にも幾度か

南祖坊が山車の題材として

採り上げられています。

 

八戸三社大祭でも

南祖坊はちょくちょく

題材として採用されています。

 

南祖坊伝説が

今もなお郷土に根付き

生き続けていることは

とても尊いことだと思います。

 

夏祭りの終わりは

「夏の終り」に近い感覚が

あるように思います。

 

暦の上でも立秋を迎え

当地ではお盆を迎えます。

 

一年に一度

ご先祖様が帰郷するとされるお盆。

 

一年に一度のお帰りを

“気持ちよく”お過ごし頂けるよう

“おもてなし”することが

お盆のご供養とされます。

 

お供えをすること

お参りをすることなど

お盆の“おもてなし”には

様々ありますが

「お盆のお経をあげること」も

尊い“おもてなし”とされます。

 

当山では毎年

新盆のお宅と

一部お盆のお参りを

ご希望されるお宅に

伺わせて頂いております。

 

お盆のお経参りのことを

棚経(たなぎょう)といいます。

 

“里帰り”された有縁の皆様に

謹んで向き合わせて頂きたいと思います。

 

吉田初三郎の鳥瞰図

新幹線で読むことができる

フリーマガジン『トランヴェール』。

 

2019年7月号では

“大正の広重”ともいわれた

吉田初三郎の特集が組まれていました。

 

吉田初三郎は八戸とゆかりのある方で

多くの鳥瞰図(ちょうかんず)を

手がけられました。

 

吉田初三郎の

『十和田湖鳥瞰図』(昭和8年)には

大きな十和田湖が山頂に描かれ

県内各所が周囲に配置されています。

 

デフォルメされ

印象的なタッチで描かれる

吉田初三郎の鳥瞰図。

 

その中に当山も描かれています。

 

このことについては

以前にもブログで触れておりますので

そちらもご参照頂ければと思います↓

https://fugenin643.com/ふげんいん探訪/十和田湖南祖坊について/稀代の古刹七崎観音十二/

 

『十和田湖鳥瞰図』には

当山は「永福寺」の名で

記載されています。

 

「永福寺」の隣に

「七崎神社」と記され

鳥瞰図にバッチリ登場しております。

 

七崎神社は

明治時代まで観音堂で

徳楽寺の寺号が用いられております。

 

徳楽寺の名が記された

木札が当山には残っております。

 

そのような歴史や

十和田湖伝説なども

この鳥瞰図には

落とし込まれているように思います。

 

お不動様お迎え道中覚書②八甲田

八甲田(はっこうだ)という名は

全国的に知られているかと思います。

 

八甲田とは1つの山の名ではなく

山々の総称です。

 

よく通り過ぎることはあっても

じっくりと向き合うことは

これまで全く無かったので

八甲田山頂公園に

立ち寄らせて頂きました。

 

ロープウェイでお話しして下さった

ガイドの方によれば

八甲田の山々は

標高は1,500メートル級ですが

高緯度のため

標高3,000メートル並の環境と

同様になるんだそうです。

 

青森県で一番高い山は

津軽富士ともいわれる岩木山で

標高1,625メートルです。

 

八甲田の主峰は

大岳が1,585メートル

井戸岳が1,550メートル

赤倉岳が1,548メートルで

3つの主峰は並立し

独特の山頂フォルムをしており

遠方であっても

各所から望むことが出来ます。

 

八戸からも雄大な八甲田の山々を

望むことが出来

当山近辺からも望むことが出来ます。

 

ここでちょっと

南祖坊(なんそのぼう)についても

触れてみたいと思います。

 

『来歴集』(らいれきしゅう)という

元禄期に盛岡藩の学者である

藤根吉品が編じた書物があります。

 

この藤根吉品という人物は

南部重信(しげのぶ)公

南部行信(ゆきのぶ)公

南部信恩(のぶおき)公の

三代に右筆として仕えた方です。

 

『来歴集』では

十和田湖伝説について触れられており

難蔵坊(南祖坊)は

額田嶽熊野山十瀧寺住職

という伝が紹介されております。

 

額田(こうだ)は

八甲田とするのが

これまでの「定説」です。

 

八甲田のちょうど南に

十和田湖は位置します。

 

『来歴集』の少し後

享保期に刊行された

『津軽一統志』という書物では

津軽と糠部の堺

糠檀(こうだ)ノ嶽に

湖水あり

十灣ノ沼(とわだのぬま)と云うなり

と記されています。

 

糠檀ノ嶽を

現在の八甲田として捉え

十灣ノ沼を

現在の十和田湖として捉えると

八甲田に十和田湖がある

と読み直すことが出来ます。

 

色々調べていて感じるのですが

少なくとも

拙僧(副住職)の感覚として

八甲田と十和田湖の

関係性が今と昔とでは

異なるように思います。

 

熊野山という山号

十瀧寺という寺号も

南祖坊の伝説を紐解くにあたり

大切な要素かと思います。

 

これらについて述べ始めると

かなり分量が多くなるので

十瀧寺について少しだけ触れます。

 

十瀧寺の読み方について

「とうたきじ」と読まれている方が

多いようですが

拙僧(副住職)の一見解として

「とうろうじ」

あるいは

「とうりゅうじ」

「とうりょうじ」とした方が

適切ではないかと考えております。

 

熊野那智には

那智大滝という有名な滝があり

その滝の龍神を

飛瀧権現といいます。

 

飛瀧は

「ひろう」「ひりょう」「ひりゅう」と

いくつか読み方がありますが

これらに準じて

十瀧寺を読んだ方が良いと感じます。

 

話を八甲田に戻しまして

八甲田周辺には

酸ヶ湯温泉

猿倉温泉

谷地温泉

蔦温泉などなど

有名な温泉が各所にあります。

 

湿原が多いため

貴重な植生を観察できますが

“湿原あるある”で

夏場は虫が無数に飛び交っています。

 

八甲田で有名なエピソードの1つとして

明治35年(1902)の

八甲田雪中行軍遭難事件が

挙げられるかと思います。

 

これは

ロシアとの戦争に向けて

日本陸軍第8師団歩兵第5連隊が

雪中行軍演習を実施した所

猛烈な寒波による吹雪に見舞われ

八甲田で遭難した事件です。

 

日本人死没者の慰霊のため

来月末にサハリン(旧樺太)へ

渡ることになっている

拙僧(副住職)としては

この八甲田雪中行軍のことが

とても大きなテーマを宿したものに

感じられました。

 

八甲田ロープウェイ山頂駅は

田茂萢(たもやち)岳にあり

掲示案内によると

標高1,314メートルの場所にあるそうです。

 

視野の広い壮大な景観は

見応え充分です。

 

▼南八甲田連峰方面

▼北方面(おそらく)

▼岩木山頂上が神々しく覗いています

▼白神山地方面

お不動様お迎え道中覚書①十和田湖御鼻部山展望台

弘前の仏師さんに

修復をお願いしていた

不動明王像のお迎えに行った際の

道中について

覚書として何回か投稿します。

 

往路は十和田湖経由で行き

復路は八甲田経由で戻りました。

 

道中は

とても素敵な場所や

個人的に深い学びを得られた場所が

多々ありましたので

ブログに記させて頂きます。

 

まずは

当山とも深く関わる

十和田湖についてです。

 

その「関わり」とは

十和田湖伝説のことですが

当山第2世・月法律師(がっぽうりっし)の

弟子である南祖坊(なんそのぼう)は

全国の霊山霊跡を巡った果てに

十和田湖に結縁入定し

十和田湖の龍神である

青龍権現(せいりゅうごんげん)に

なったと伝えられます。

 

十和田湖を望むことが出来る

御鼻部山(おはなべやま)展望台。

 

御鼻部山(おはなべやま)は

標高1,000メートルちょっとの山で

十和田湖の北側に位置します。

▼御鼻部山展望台

 

十和田湖北側に位置する

展望台からは

御倉半島と中山半島を

望むことが出来ます。

 

十和田湖の

全体的なフォルムを見渡せる

素晴らしい展望台です。

 

6/8は雲の流れが速かったので

景色の変化がとても豊かで

とても神秘的に感じました。

津軽の南祖坊伝説

十和田湖伝説の南祖坊(なんそのぼう)。

 

十和田湖の龍神である

青龍大権現(せいりゅうだいごんげん)

の本地とされる僧侶で

当山2世の月法律師(がっぽうりっし)に

弟子入りしたと伝えられます。

 

南祖坊の伝説には

とても多くのバリエーションがあり

弘前の乳井(にゅうい)で

生まれたとの伝えもあります。

 

南祖坊が出生したとの

伝えがある乳井では

その昔

福王寺(ふくおうじ)という寺院が

権威を振るっており

乳井氏が別当を勤めていたそうです。

 

福王寺は

信濃戸隠修験の修験者により

創建されたとされ

乳井氏はその修験者の

末裔とされるようです。

 

乳井神社の社殿裏手の丘には

古い五輪塔ほか石塔や板碑等が

沢山並べられており

歴史が感じられる場所です。

 

「十和田信仰」は

県内においても各所で違いが見られます。

 

その違いを考える上で

関連寺院や修験者の

法流(ほうりゅう)が

1つの手がかりとなるように感じます。

 

伝説とつながる南祖祭(なんそさい)

当山には

十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)の御像である

南祖法師尊像(なんそほっしそんぞう)

がお祀りされます。

 

南祖坊(なんそのぼう)は

当山第2世の月法律師(がっぽうりっし)

の弟子として修行修学に

励まれたと伝えられます。

 

そういったご縁で

南祖坊の祭事と

伝説にまつわるお話を聞く

南祖祭(なんそさい)を

開催いたしました。

 

祭事では

開式にあたり

“お遍路ニスト”として

全国各地を巡られている

中野太陽さんに法螺貝を

吹いて頂いてお清め頂き

法要の中では巫女さんの

おときたさちこさんに

祝詞をあげて頂きました。

 

祭事の後は

ゲストスピーカーとして

髙山正道さんに

太陽信仰の観点から

南祖坊伝説について

お話頂きました。

 

髙山さんのお話は

実に興味深いもので

本当に素晴らしい内容でした。

 

様々なご縁のおかげで

短い時間でしたが

とても濃密な南祖祭となりました。

 

十和田湖の聖地覚書③ 占場(うらないば)

十和田湖屈指の聖地とされる

占場(うらないば)。

 

そこは

南祖坊(なんそのぼう)が

入定(にゅうじょう)し

青龍権現(せいりゅうごんげん)という

十和田湖の龍神と

化したとされる場所です。

 

占場へは

断崖絶壁にかけられている

とても長い鉄ハシゴで下るのですが

現在は通行禁止となっております。

 

今回は十和田湖自然ガイドクラブの

皆様が諸々を手配して下さり

占場へ赴くことが出来ました。

 

占場の水辺から水中を覗いてみると

断崖のようになっており

1〜2メートル先から

いきなり深くなっていました。

 

占場は

中山半島の東側位置し

中湖に面しております。

 

中湖は十和田湖の中で

最も水深があります。

 

視線の先には

御倉半島が見えます。

 

御倉半島は半島そのものが

神聖な場所とされています。

 

御倉半島が龍の頭で

中山半島が龍の尾にあたる

との言われもあるそうです。

 

占場(うらないば)という

名前が示す如く

こちらは卜占(ぼくせん)等が

行われていた場所です。

 

占場はオサゴ場とも呼ばれ

そちらで占いをすることは

「オサング打ち」

「サング打ち」等とも

呼ばれるそうです。

 

おより紙(御依紙)を湖水に放ち

その沈み具合により

“神意のおうかがい”が

なされたりしたようです。

 

占場は地形的に

風の影響があまりない

場所でもあるようです。

 

「サング」を漢字表記すると

おそらく「散供」という字が

あてはまるかと思います。

 

散供とは

神仏に“お供えを捧げる”ことで

修法の作法でもあります。

 

「打つ」というのは

“祈りを捧げる”といった意味合いです。

 

観音霊場を巡礼して祈りを捧げることを

「札を打つ」とか「札打ち」

と言うことがありますが

「サング打ち」の「打つ」も

同様の意味合いがあると思います。

 

占場の湖底からは

多くの古銭が引き揚げられており

多くの人により

祈りが捧げられていたことが分かります。

 

南祖坊は

当山第2世の月法律師(がっぽうりっし)の

弟子として当山で修行され

その後に全国を巡礼巡行した果てに

十和田湖に入定し

青龍権現となったとされます。

 

その伝説の

象徴的スポットの1つが占場ですし

南祖坊の“入水入定”は

とても重要な諸要素やテーマを

宿しているといえます。

 

この点については

また改めて伝えさせて頂きたいと思います。