大師像の来歴考〜もしかしたらなお話〜

 

先日

祈りつがせていただくこととなり

当山薬師堂(会館1階)に

ご安置された弘法大師像(以下、大師像)。

 

大師像以外にも

引き取ることとなったものや

お焚き上げをお願いされた

掛け軸や仏具もあり

その中に

昭和初期の写真がありました。

 

写真が入れられた木額の裏には

昭和六年(1931)四月二十一日

に奉納と墨書きされていました。

 

21日は

弘法大師のご縁日です。

 

当山での写真ではないので

写真を掲載できませんが

堂内の祭壇最上段中央に

逗子に納められた大師像が安置され

その祭壇前に

4名の方が正座して

撮影されたものです。

 

4名は2名女性・2名男性で

女性はいずれも着物姿で

そのうち1名は

紋付の黒い着物に

輪袈裟を着用されており

右手には中啓を立て持ち

左手には念珠を掛けて

片手合掌をされています。

 

男性は軽装で薄着ですし

女性のもう一方の方は

かなりお若い方で

薄手の着物に見えます。

 

供えられている花や野菜の

内容も踏まえるに

暖かな季節であることは

間違いありません。

 

写真そのものの裏には

「18.7」印字されています。

 

おそらく

1918年(大正7)7月

ということだと思います。

 

市内のとあるご自宅敷地内に

建立されていたお堂に

祀られていた大師像ですが

もともとは剣吉

つまり名久井の方に

あったものだそうです。

 

写真額の裏書などから

そのご自宅近隣の方が

額を奉納されているので

写真は名久井から

遷座されてからのものと

考えられます。

 

額の奉納は

昭和6年(1931)4月21日ですが

写真撮影がされたのが

1918年(大正7)7月とすると

遷座されてから

100年以上経過していることになります。

 

それ以前は名久井の方にあり

諸経緯あって

とあるお宅に

迎えられることになったわけです。

 

当山に大師像を託されたお宅によれば

その地に遷座される以前の歴史は不明で

大師像自体がどれ位古いものかは

全く分からないとのことでした。

 

そもそも

これだけ立派な大師像ですから

もともとお寺に

祀られていたと想像することは

違和感ないことと思います。

 

もともとは

名久井方面のお寺に

祀られていた大師像である

と大胆に仮定してみると

実に不思議なご縁が感じられる

ストーリーが浮かび上がります。

 

剣吉という地区に隣接する

諏訪平という地域には

明治に入って廃寺となった

当山の関係寺院

嶺松院(れいしょういん)がありました。

 

嶺松院が廃寺となり

同院が別当として管理していた

早稲田観音堂は現存しています。

 

嶺松院の檀家だったと思われる家の方が

当山の過去帳に記載されることから

嶺松院廃寺後は

当山で弔われたようです。

 

当山先師の中には

嶺松院住職も務めた方もいらっしゃいます。

 

嶺松院も普賢院と同様

本坊・盛岡宝珠山永福寺の

自坊であった寺院で

嶺松院は「三戸永福寺」

普賢院は「七崎永福寺」

という具合に

とても関わりが深いのです。

 

大師像はもともと

お寺に祀られていたのでは

という仮説を立てたとき

嶺松院(または関連するお堂)に

祀られていたという可能性を

指摘出来るのように思います。

 

先に触れた

嶺松院の元檀家と思われる家の

お弔いの記録は

明治20年代まで確認出来ます。

 

嶺松院廃寺後も

何らかの形で

仏像等が引き継がれており

その中の大師像が

八戸の方に遷座されて

さらに当山に至ったという仮説は

全くないとはいえないように思います。

 

あくまでも仮説ですが

もしそうだとすれば

三戸永福寺・嶺松院から

七崎永福寺・普賢院へと

渡り来られた大師像ということになり

まさに不思議なご縁により

お迎えされたことになります。

 

あくまでも一仮説です。

 

どのような経緯にせよ

宗祖の尊像ゆえ

謹んで守らせていただきます。

 

紐解き七崎観音⑬

前回触れた様に

「七崎山普賢院」と刻された

観音版木の“発見”により

七崎山普賢院徳楽寺が徳楽寺の

正式名称かもしれないことと

七崎観音別当・七崎山普賢院の号を

本坊永福寺自坊・宝照山普賢院の号と

併用していたかもしれないことを

新たな説として提示することが出来ました。

 

特に後者は

史料の記載内容を踏まえるに

可能性は高いと思われます。

 

当山観音堂に主尊として祀られる

聖観音は七崎観音と通称され

この呼び名は

「七崎(地名)+観音(尊格名)」

という構成となっています。

 

普賢院住職は歴代

七崎観音別当という

お役を受け継いでいるので

この七崎観音という

名称を手がかりに

仏道のみおしえに

触れていただけるような

紐解き方をご紹介できればと

かねてより考えていました。

 

地名としての七崎を

仏道的な解読方法で

アプローチすることは

普段あまりなじみがないであろう

文化に触れていただく

機会にもなると思うのです。

 

ということで

前回は七に関する用語に触れたり

na-ra-sa(ja)-kiの音による

字義釈を紹介してみました。

 

明治を迎えて

必要に迫られた

旧観音堂の神社化に関しても

当時の状況下において

旧来の慣習を極力温存しつつ

明治スタイルに適応した形に

落ち着かせるため

縁起の改変作業が行われたであろう

ことについても述べました。

 

また幕末における新政権の政策構想として

国学者の立場より奉呈された史料中にて

記紀神話の神々と

皇系につらなる方々や

国家に功績のあった方々を

国家的に祭祀するよう主張するものがあり

藤原氏は「皇系につらなる方々」でした。

 

この構想にそった形で

明治元年以降に

神社創建があいついぐわけですが

旧観音堂の神社化と藤原諸江譚への縁起改変は

軌を同じくした可能性もあることも

前回言及しました。

 

国づくりにおいて明治政府は

「日本神話」を必要としました。

 

近代化と王政復古という

論理上どこか

不思議な組み合わせな方針が

とても特徴的といえます。

 

「日本神話」を核とした

国づくりの徹底は

諸経緯を経ることになり

国家神道を国教化することは

ありませんでしたが

国家神道は宗教ではなく祭祀であるされ

各地の神社は「祭祀の場」となり

神社化推進は政治的意図によるものでした。

 

そういう時代背景において

旧来からの縁起を

“時代的なもの”に

改変せざるを得なかったわけです。

 

こういった経緯に

触れることすらも

憚られることもあったと思いますが

当地では旧来のことについても

忘れられることなく

むしろ留めようとしていたようにも

感じられるのです。

 

そう感じるのは

大正期に記念刊行された

旧修験家・小泉家の神官による

『神社誌』の記述において

旧観音堂時代のことが明記され

さらに

後世において改変が必要な場合は

改変するようにアドバイスしているとも

取れる記述が見られます。

 

そこに当地の“イズム”を

読み取ることが

出来るように思います。

 

明治に入って程なくの

『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])に

次のような報告があります。

 

当社は何の頃の草創にか

究て古代の御正体を祭りたり

旧より正観音と称し

観音堂と呼なして

近郷に陰れなき古刹なり

 

数丈なる杉樹

地疆に森立して空に聳ひ

青苔地に布て如何さま

物ふりたる所なり

 

去は里人の崇仰も大方ならす

 

四時の祭会は元より

南部旧藩尊敬も他の比にあらす

常に参詣も絶えす

廟堂の構界区の装置まて

昔を忍ふ種となる所なり

 

同書における七崎の報告では

当時の「新縁起」について

垣間見られる記述があり

その件については

以前触れているので

そちらもお読みいただければと思います。

 

「数丈なる杉樹」は

天にそびえる大きな杉の木々を指し

それらが「森立」し

青苔が広がる“苔むす”地であり

その空間は

物ふりたる所であると

報告者は記述しています。

 

この記述には

当地において旧来より

大切にされていた空間に対する

讃嘆の思い

「もののあはれ」の思いが

込められていると思います。

 

「物」は様々な意味があり

古事記・日本書紀でも

需要な語と言えると思いますが

「霊性」つまり「たま」

とも置き換えられます。

 

ものふりたる所

たまふりたる所とも

言い換えが出来ます。

 

そして旧七崎観音堂は

近郷に隠(陰)れなき古刹であり

並大抵ではなく(大方ならす)

信仰されてきたと評されており

南部藩領においても

比類ない程に常時参詣されていたと

往時について記載されています。

 

神社化が進められても

廟堂の構えや境内の作りが

往時(かつての様子)を

偲ばせるような場所だとも

記載されております。

 

「廟堂の構え」に関してですが

史料の記述に基づいて解釈するに

観音堂であったお堂の

仏像・仏具・荘厳具などが

撤去・搬出されて

同堂が廟堂として使用されています。

 

幕末の安政10年(1863)に

七崎観音堂は修繕されており

お堂自体はしっかりしていたため

そのまま使用したと思われます。

 

こういった神社化への対応においても

出来る限りにおいて

旧来からの慣習や祈りを温存して

行政的神仏分離の求めに応じたことが

想像されるのです。

 

以上のような内容にも触れながら

また七崎観音について

紐解いていきたいと思います。

 

つづく

紐解き七崎観音⑫

七崎(ならさき)は

「七つの岬」に由来するとされます。

 

「岬」は海や川や湖を連想させます。

 

地元の士族でもあった

とある旧家の方の伝えでは

かつて浅水川が相当に蛇行しており

「七つの岬」のように見えるその光景が

七崎の地名の由来だとも言われます。

 

七崎の「七」は

具体的な数とは限らず

多数を意味し

かつ聖数としての意味がある

とも考えられますし

仏教的な意味が込められているとすれば

七宝(しっぽう)からきた七

とも考えられそうです。

 

空海の『声字実相義』の

考え方を応用すれば

na-ra-sa-kiの音に分解して

各音(梵字)の字義という

観点から検討することも可能です。

 

この方法で

na-ra-sa-kiを解読すると

この響きの中に

「南無観自在菩薩(観音菩薩)」

という意味が含まれるのが

とても絶妙に思います。

 

na字は「帰命」(南無)につながり

sa字とka字(kiの母字)は

「観自在菩薩(観音菩薩)」につながります。

 

「ならさき」ではなく

「ならじゃき」と

読むこともあったので

na-ra-ja-kiで解読すると

ja字は「鉤召」の意に通じ

さらに当山本尊「愛染明王」

にも通じるものと

捉えることも出来ます。

 

旧観音堂の地を

七崎山または観音山

と読んでいたとされますが

これら山号(お山の名前)は

字義釈によって捉えると

通底したものといえます。

 

七崎山は

旧観音堂の寺号・徳楽寺の

山号として使用されていたと

考えられてきましたが

当山の本堂建替に伴う

古文書や史料や仏像や仏具の

総整理の際に

この通説を揺るがす発見がありました。

 

それが次の版木です。

 

七嵜山 普賢院」刻字の御影板木(年代不詳)

※「嵜」は「崎」の異体字。

※七崎山の山号は、徳楽寺(七崎観音堂の寺号)の山号であると考えられていたが、普賢院にも用いられていたことを示すとても貴重な史料。

 

「七崎山徳楽寺」

「七崎山普賢院」という

組み合わせの存在が判明したことは

これまでの通説を

場合によってはくつがえす程の

大きな意味を持ちます。

 

徳楽寺の院号が

普賢院だったとすれば

七崎山普賢院徳楽寺が

正式名称だった可能性もあります。

 

本坊宝珠盛岡山永福寺自坊・宝照山普賢院と

七崎観音別当・七崎山普賢院の

二つの院号を

併用していた可能性もあります。

 

これらの説は

先に紹介した版木の存在が

明らかになったゆえに

浮上したものです。

 

七崎山普賢院徳楽寺の名が

文字として残る史料はないので

検証することは難しく

可能性を示すに留まりますが

後者の説については

七崎(嵜)山普賢院と刻された

“観音版木”があり

近世文書に七崎観音の別当が

普賢院との記述があることから

新説として提示出来るものと考えます。

 

そんな新説については

また後日触れるとして

前回も扱った史料について

再びみてまいりましょう。

 

前回は

時代の要請による

旧観音堂の神社化について

里人・社人の伝えについて

『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])に

採録された箇所を参考に

考察を行いました。

 

同史料では

「七崎神社としての縁起」について

「全く後人の偽作なれとも」として

以下の2説を述べていました。

 

  1. 祭神はイザナミノミコト。むかし火事があり、縁起など焼失して無いため、詳細については分からない。
  2. 祭神イザナミノミコトの勧請について、天災で縁起を失っているため、詳細を知るのは難しいと前置きをし、藤原諸江卿が当地に勧請したという説を示す。四条中納言であった諸江卿は、勅令により白銀に居住しており、承和元年(834)1月7日の夢でイザナミノミコトの神告を受け、当地に勧請された。

 

藤原諸江という人物は

明治以後になると

七崎神社の縁起において

キーパーソンとなりますが

一方で

明治以前の文書や木札には

少なくとも当山が所蔵するものや

確認出来る文書(過去帳や表白など)には

いっさい見られないのです。

 

藤原諸江を祖とする

古い家々が

旧修験家など他

当地にはあります。

 

旧修験家の方が還俗し

神職となったのちの

旧観音堂の神社化の推進と

藤原諸江卿の「伝説」や

系譜観念が

相関しているのかもしれません。

 

藤原氏の方が

諸事情により

京より当地方に

おいでになった

という類の話は当地や近隣で

よく見らますが

個人名がどうというより

藤原氏であることに

深掘りポイントがあると

個人的には考えてきました。

 

藤原氏の

氏寺は興福寺

氏神は春日大明神。

 

そして春日大明神と同体とされる

難陀龍王(なんだりゅうおう)という

諸龍王を司る「龍神」と

その難陀龍王を脇侍とする

十一面観音(長谷寺式)。

 

その十一面観音は

アマテラスと同体とされる

雨宝童子も脇侍としており

長谷寺は古くから

観音信仰の中心地のひとつで

藤原氏にも庇護を受け

もともとは興福寺の末寺でした。

 

長谷寺の十一面観音信仰は

歴史があるもので

「長谷信仰」は

元祖観音霊場であり

屈指の古刹からなる

西国三十三観音霊場の発祥と

関わります。

 

当山創建当初の本尊も

十一面観音とされます。

 

余談が長くなりましたが

藤原氏と観音信仰には

深いつながりがある点を

明示しておきたかったのです。

 

それと

京の方にルーツを持つ方が

当地に来たことは

歴史的にある話だと思いますし

修験者などの宗教者が

当地に居を構えたことも

実際にあったと思います。

 

諸江卿について付言すると

先に示した1と2の

イザナミノミコト勧請について

2の報告には

杉の植樹の伝説には

触れられていません。

 

当山では

開基開山上人の行海大和尚が

旧観音堂の地に

七つ星になぞらえて杉を植えた

との伝えがあるのですが

別説として

藤原諸江卿が杉を植えた

という伝えもあります。

 

これらについても

前回触れた坂上田村麿将軍の説と同様

同じエピソードの主人公が

“仏教的人物”から

藤原諸江卿に代替されているようにも

思われるのです。

 

藤原諸江卿を祖神とする

旧修験家の方々が

古来より大切にされてきた

祈りの地を

当時の状況下において

求められた形態にて

受け継いだことの決意の現れ

としての縁起改変

のようにも感じられます。

 

さらには

幕末における

新政権の政策構想として

国学者の立場から

奉呈された史料中にて

記紀神話の神々と

皇系につらなる方々や

国家に功績のあった方々を

国家的に祭祀するよう

主張するものがあり

藤原氏は「皇系につらなる方々」

となります。

 

この構想にそった形で

明治元年以降に

神社創建があいついだことと

旧観音堂の神社化と

藤原諸江譚への縁起改変は

軌を同じくした可能性もあるでしょう。

 

以上見てきたような

改変パターンによる縁起の整理で

時代的背景もあって

全国的に強要された神仏分離と

当地における旧観音堂の神社化を

乗り越え

“破壊”を伴う様な状況ではなく

可能な限り歴史や伝統を温存しつつ

明治スタイルに適応させた形に

着地させることが出来た

と言えようかと思います。

 

明治以後

大正・昭和20年までの間は

教育においても

古事記など日本神話に基づいた理解は

必須のことであり

それが公的祭祀を裏付けるものであり

国としての思想的基盤とも

いえるものでした。

 

明治における

旧観音堂の神社化や

それに伴う縁起改変は

明治だけの話ではなく

その後に向けた“国づくり”

としての文脈で捉えると

見えてくるものがあると感じます。

 

紐解き七崎観音⑪

前回(紐解き七崎観音⑩)は

多様な語りの発生について

声による「口承」と

文字による「文書」による

伝達という観点から検討してみました。

 

現代に生きる私たちにとって

「文書」は黙読をもって

そこに保存された情報を

取り出そうとするアプローチが

ごく日常的ですが

時代が違えば事情も異なり

「文書」と「音読」をセットとして

捉えられていたそうです。

 

「文書」により保存され

伝達が目指された情報は

眼識(目による情報の認識)

だけでなく

耳識(耳による情報の認識)

にも関わりながら

情報受者に取得されていた

と一応表現できるでしょう。

 

私たちは

自身の感覚器官(六根)により

各器官が対象とするもの(六境)を

把握し認識(六識)します。

 

五蘊(色受想行識)

という考え方は

私たちの認識構造を把握するのに

大変参考になるものでして

私たちの内面から

物事との接触・認識までの流れを

識→行→想→受→色

と捉えます。

 

専門度が高いので

識をここでは便宜的に

「あらゆる経験が蓄積される深層的な心」とし

行については

「各自の思考のクセ」とします。

 

意識的無意識的とわず

私たちの様々な「経験」が

心のうちに種のように

ストックされており

諸条件によりその種が発現し

想起させる力が働いて

物事の認識や行動に関わるという

内的で深層的な心と外的環境とのあり方を

捉える考え方があるのです。

 

こういったものは

私たちの認識のあり方や

世の中のあり方を

観察(瞑想)するためという

側面のあるもので

観念論的な思考としてだけではなく

実践が伴ってこそ

本領が発揮されるものといえます。

 

これらの思想や実践は

「苦」と「識」が

深く関わっていると

仏道で捉えられていることの

明示でもあります。

 

観音菩薩は

観自在菩薩とも言いますが

観自在菩薩は

「観ること自在なる菩薩」です。

 

自在というのは

とわわれないことを意味します。

 

「観ること」(因)により

「自在なる」(果)となる。

 

その「観ること」を考える時

本稿で触れた諸項目が

解読の鍵となります。

 

観自在菩薩に

関連する経典は様々あり

法華経や華厳経や般若心経といった

超有名経典ほか

多くの経典に登場しており

曼荼羅においても重要な尊格です。

 

「観自在」について

若干の説明をするはずが

結構長くなってしまいました…

 

奇数月に開催している

『写経カフェ』では

こういった類のお話が主となるので

ご興味をお持ちの方は

そちらでお話に

耳を傾けていただければと思います。

 

前回も

幕末明治以降の七崎観音について

触れましたが

その流れで今回も

同史料を扱います。

 

令和7年は終戦80年

という節目ということで

他シリーズでも

幕末明治以降について

触れています。

 

太平洋戦争について

深ぼって考えるためには

幕末明治にさかのぼって

考える必要があるためです。

 

また

当地だけではなく

戦争期において観音菩薩は

様々な願いが捧げられた尊格であり

この点からも様々

述べられることがあると考えています。

 

七崎観音についていえば

旧観音堂が廃止され

旧地は神社化され

七崎観音は遷座された

のが明治時代で

ひとつ(無分別)のものが

ふたつ(分別)にされた

ともいえます。

 

明治〜昭和20年(1868〜1945)の

77年の間は

目まぐるしさがあり

寺社関係についても

明治冒頭から

大きな変化がいくつもあります。

 

それらのことにも

触れながら眺めることは

とても有意義と捉えています。

 

細かなことについては

徐々に触れるとして

前回扱った史料について

以下に再掲します。

 

『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])の当地についての箇所

全く後人の偽作なれとも

本条と俚老の口碑を

採抜せるものなるへけれは

風土の考知らん為に左に抄す

 

七崎神社

祭神

伊弉冉命[イザナミノミコト]

勧請之義は古昔天火に而

焼失仕縁起等

無御座候故

詳に相知不申候

 

異聞あり

ここに挙く祭神は伊弉冉尊にして

勧請の由来は天災に焼滅して

縁起を失ひ詳らかなることは

知かたけれとも

四条中納言 藤原諸江卿

勅勘を蒙り◻刑となり

八戸白銀村(九大区 三小区)の

海浜に居住し

時は承和元年正月七日の

神夢に依て浄地を見立の為

深山幽谷を経廻しかとも

宜しき所なし居せしに

同月七日の霄夢に

当村の申酉の方

七ノの崎あり

其の山の林樹の陰に

我を遷すへしと神告に依り

其告の所に尋来るに大沼あり

 

水色◻蒼

其浅深をしらす

寅卯の方は海上漫々と見渡され

風情清麗にして

いかにも殊絶の勝地なれは

ここに小祠を建立したり

 

則今の浄地なりと

里老の口碑に残り

右の沼は経年の久き

水涸て遺阯のみ僅に

小泉一学か彊域の裏に残れり

 

当村を七崎と云るは

七ツの岬あるか故と云う

 

又諸江卿の霊をは荒神と崇め

年々八月六日より十二日まて

七日の間 祭事を修し来たれりと

(以上 里人の伝る所

社人の上言に依る)

 

この語を見に初

伊弉冉尊霊を祭る趣なれとも

縁起記録等なく詳ならされとも

南部重直の再興ありし頃は

正観音を安置せり棟札あり

 

〈引用文献〉

青森県文化財保護協会

昭和41(1966)年

『新撰陸奥国誌』第五巻

 

史料では

「七崎神社としての縁起」について

「全く後人の偽作なれとも」として

以下の2説を述べています。

 

  1. 祭神はイザナミノミコト。むかし火事があり、縁起など焼失して無いため、詳細については分からない。
  2. 祭神イザナミノミコトの勧請について、天災で縁起を失っているため、詳細を知るのは難しいと前置きをし、藤原諸江卿が当地に勧請したという説を示す。四条中納言であった諸江卿は、勅令により白銀に居住しており、承和元年(834)1月7日の夢でイザナミノミコトの神告を受け、当地に勧請された。

 

大まかにいえば

上記の様になります。

 

藤原諸江卿という人物が

登場していますが

この伝説的人物を祖先とする

家々が当地にあります。

 

藤原諸江卿は

大同2年(807)1月3日に

没したとの説もありますが

大同2年という年は

北東北全体において

坂上田村麿将軍と結び付けられて

語られる年号でもあり

おそらく明治以後に

旧観音堂エリアの“神社化”に

必要な縁起類の編成作業において

藤原諸江卿と大同2年が

結び付けられて

語り直されたと思われます。

 

田村麿将軍は

「観音菩薩の権化」と言われるなど

観音信仰と深く関わる人物でもあるので

神社化作業においては

田村麿将軍と藤原諸江卿が

入れ替えられた形で

縁起が編まれたと言えそうです。

 

七崎観音の縁起についても

同じエピソードで

主人公が

田村麿将軍と藤原諸江卿という

違いのものがあるので

先述の様な改変作業が

必要あって為されたと

考えられるのです。

 

当地の神仏分離作業中

縁起改変において

「藤原諸江卿」という人物が

重要な役割を担ったといえます。

 

当山に残る

古文書や棟札や

各種表白において

藤原諸江卿について

全く記述がないことからも

明治以後における

縁起改変作業で

採用された人物であった可能性が

高いように思います。

 

引用した史料では

藤原諸江卿を荒神として

祀っていたとの報告もありますが

当山と旧修験家が所有していた

荒神像は三宝荒神と思われることから

諸江卿を荒神として祀っていた

という報告は

神社化の縁起改変に伴う内容である

可能性があるものの

「藤原諸江卿=荒神」と祀って

そのための行事があったとすると

怨霊信仰や祖霊信仰の観点から

様々に述べることが出来るので

この辺は別の機会に

深めてみたいと思います。

 

これまで見てきたような

縁起改変作業は

時代的要求があって

実行されたものであり

必要があった故のことで

「不敬なもの」ではありません。

 

すこぶる強烈な

政治的・時代的圧力が

長い歴史や伝統を

政治的・時代的要求に耐えうる

縁起に編み直さざるを得なかったのが

明治における神仏分離の頃だった

とまとめられるでしょう。

 

紐解き七崎観音⑩

当シリーズ

1年以上ぶりの投稿です。

 

最近の投稿にも本シリーズと

大いに関わるものがあるので

そちらもご参照ください。

 

▼草創期に関して

「開創当時を考える」シリーズ

 

▼近現代に関して

R7開山忌関連(草創期と近現代について触れています)

 

前回(紐解き七崎観音⑨)は

語りの一旦を担い

その拡散に貢献した方々を

広い意味でヒジリと

表現してみました。

 

諸聖

山伏

修験者

私度僧

などをヒジリと言っています。

 

七崎観音に関する

霊験譚や縁起譚は

もともと口承によります。

 

寺社縁起や諸尊縁起ほか

霊験譚で語られるものは

歴史とは似て非なるものであることは

ずっと以前より強調してきました。

 

ここでいう歴史とは

現代的意味においての歴史であり

現在より時間的に遡って

実際に発生したことの記録

といった意味でしょうか。

 

縁起・由緒譚といった類のうちにも

先にいった意味での歴史が

含まれていないという

意味ではありませんが

歴史と等価に捉えるのは

難しいといえます。

 

語りの一翼を担い

多くの方に広げた

ヒジリには

様々な方が想定され

口々に発される内容は

各人において

内在化されたもので

その理解を踏まえた

表現(言い回しや抑揚など)も

異なるでしょう。

 

語りは

それを聞くものにとっての効果だけでなく

それを語るものにとっての効果も

認められるものです。

 

自身の内に

内在化したものを

第三者に向けて

伝達するプロセスは

昨今の臨床場面で見られることのある

ナラティブ・アプローチと

類似すると思われます。

 

声による伝達は

話者の内面とつながり

そして語りが伝達されるためには

対象者がいることが必要です。

 

ヒジリ→対象者

に話が伝達されれば

そこからさらに対象者を通じて

新たな話者(対象者)において

内在化されたものが

別の対象者へ伝達されるという

連鎖によって広がっていきます。

 

対象者から別の対象者への伝達を

第二次伝達とすれば

それはカッチリしたものではなく

世間話のような形であることの方が

多かったでしょうし

むしろ世間話のような形の伝達が

大きな拡散力を持っていたとも

考えられます。

 

口承は「声の伝達」とすれば

文書など記述によるものは

「文字の伝達」です。

 

さらにこれら伝達には

保存の働きもあるので

「声の保存・伝達」

「文字の保存・伝達」

ともいえます。

 

その両者は

保存・伝達という

働きが同じであっても

口承によるものは

簡略明快な内容である

傾向にあるのに比べ

文字によるものは

固定化が目指される傾向にあり

心情や場面などの

情景描写が多い傾向にあるなど

大きく異なります。

 

口承は声によるため

その内容が人々の記憶に

留められるとはいえ

文字などに記録されなければ

史料としては残りませんが

文書は

その内容いかんに関わらず

史料としては残ります。

 

唐代の義浄三蔵が

『南海寄帰内法伝』で

口承でしか伝えられていない

経典があったため

文字にとどめたと

記されているように

口承を重んじて

継承されてきたものが

あったことは

とても興味深く思いますし

口承は奥深いものだと感じます。

 

真言宗においても

口伝といって

文字に起こすのではなく

阿闍梨が弟子に対して

儀式において伝授する伝統が

今なおあることもまた

口承文化の尊さに通じると思います。

 

文字による保存・伝達は

現代に生きる私たちにとっては

とても馴染みあるもので

今や大量の情報を扱うことが可能です。

 

とはいえ

文字による保存・伝達の

性格は今も昔も共通しており

文字による情報の保存には

限界があるのは間違いなく

そのことに私たちの多くは

気がついているように思います。

 

たまたま残った文字が

当時からすれば

デタラメなものだった

なんてことがないとは

いいきれないわけです。

 

「語り」には

①物語などの内容

②語るという行い

の二つの意味があり

①が同じであっても

②の方法or主体により

バリエーションが生まれるのは

自然なことといえるでしょう。

 

七崎観音にまつわるお話は

一様ではないことについて

「語り」のあり方に注目して

わずかながら述べてみました。

 

七崎観音に関して

口承されてきた内容は

明治の到来とともに

イザナミノミコトと

藤原諸江卿のお話への

変更が図られることになります。

 

これは時代的背景によるもので

政府の政策において

神仏分離による“神社化”が

国家神道において

重要な意味を持つためです。

 

明治・大正・昭和(終戦まで)

を通して神社に関わる政策に

幾度か変遷があるにせよ

宗教ではなく祭祀において

大きな意味が付与されていきます。

 

旧来の縁起類の

改変の様子を

以下の引用に

見ることが出来ます。

 

『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])の当地についての箇所

全く後人の偽作なれとも

本条と俚老の口碑を

採抜せるものなるへけれは

風土の考知らん為に左に抄す

 

七崎神社

祭神

伊弉冉命[イザナミノミコト]

勧請之義は古昔天火に而

焼失仕縁起等

無御座候故

詳に相知不申候

 

異聞あり

ここに挙く祭神は伊弉冉尊にして

勧請の由来は天災に焼滅して

縁起を失ひ詳らかなることは

知かたけれとも

四条中納言 藤原諸江卿

勅勘を蒙り◻刑となり

八戸白銀村(九大区 三小区)の

海浜に居住し

時は承和元年正月七日の

神夢に依て浄地を見立の為

深山幽谷を経廻しかとも

宜しき所なし居せしに

同月七日の霄夢に

当村の申酉の方

七ノの崎あり

其の山の林樹の陰に

我を遷すへしと神告に依り

其告の所に尋来るに大沼あり

 

水色◻蒼

其浅深をしらす

寅卯の方は海上漫々と見渡され

風情清麗にして

いかにも殊絶の勝地なれは

ここに小祠を建立したり

 

則今の浄地なりと

里老の口碑に残り

右の沼は経年の久き

水涸て遺阯のみ僅に

小泉一学か彊域の裏に残れり

 

当村を七崎と云るは

七ツの岬あるか故と云う

 

又諸江卿の霊をは荒神と崇め

年々八月六日より十二日まて

七日の間 祭事を修し来たれりと

(以上 里人の伝る所

社人の上言に依る)

 

この語を見に初

伊弉冉尊霊を祭る趣なれとも

縁起記録等なく詳ならされとも

南部重直の再興ありし頃は

正観音を安置せり棟札あり

 

〈引用文献〉

青森県文化財保護協会

昭和41(1966)年

『新撰陸奥国誌』第五巻

 

以上の部分に

社人と里人の説が記載されています。

 

この部分には

当地の先人方の

明治政府より求められた

「旧観音堂の神社化」への

苦心しての対応を

見てとることが出来ます。

 

「全く後人の偽作」

とありますが

当時求められた神社化において

旧来守られてきた伝統や

地域に誇る歴史といったものを

下敷きにして

イサナミノミコトを祭神とした

縁起が用意されたと考えられます。

 

真言神道や両部神道という

神道と仏教が融合した形があるのですが

女神であるイザナミノミコトを

蓮華部という曼荼羅のパートを司る

観自在菩薩と

関連づけて捉える理解の方法を

採用したのではないかと

拙僧泰峻は考えています。

 

要するに

イザナミノミコトを祭神としたのは

神仏習合・真言神道の考え方や

曼荼羅の思想が背景にあり

七崎観音と七崎観音堂時代との

つながりを内包することで

行政的に実行される断絶を

乗り越えようとした

と考えております。

 

神仏分離が図られた頃

地域によっては

廃仏毀釈という現象が多発しますが

当地ではその風潮が希薄であり

旧観音堂の「神社化」が

漸次進められているように見えます。

 

現在の七崎神社の境内に

「ほこ杉」と呼ばれる

巨大な杉がありますが

この名称は明らかに

古事記・日本書紀の

神話に由来しており

天沼矛(あめのぬほこ・古事記)

天之瓊矛(あめのぬほこ・日本書紀)

から来ています。

 

古事記・日本書紀が

仏教的な様相を帯びて

語られた時代があり

その内容は

中世神話と表現されることもあり

神道灌頂といった儀式が

真言宗でも行われていたので

明治における諸対応への

根拠たる思想を

そもそも持ち合わせていた

とも考えられます。

 

明治における

改変された縁起について

次回も触れてみたいと思います。

 

開山忌と供養祭のお話のつづき〜近現代史に触れながら〜

初代住職のご法事にあわせ

歴代先師のご供養を行う

開山忌(かいさんき)。

 

ならびに

会津斗南藩縁故者供養

戦没者供養

合葬墓供養を

5月10日に行います。

 

令和7年は

この行事にて

四大明王像の開眼も

執り行います。

 

本年の開山忌に関して

数日前にも書いたので

そちらもご参照ください▼

令和7年の開山忌について①

 

開山忌ならびに供養祭は

住職と弟子のみで

行なってきたものですが

参列はご自由にいただけるので

ご希望の方は

ご一緒いただき

お焼香していただければと思います。

 

本堂でお勤めをして

本堂裏手境内墓地にて

歴代住職墓

合葬墓

会津斗南藩縁故者供養所を

お参りして

最後に本堂前の

戦没者留魂碑を参拝します。

 

令和7年は

いわゆる太平洋戦争の

終戦80年という年です。

 

戦没者の慰霊追悼について

全国各地で難しさに

直面している昨今でして

豊崎地区においても

遺族会の維持継続は

困難であるとして

昨年の会合の時には

令和7年に何かしら

決断する必要があると

奥田卓司会長が

お話されていました。

 

奥田会長には

公私共に昔から

お世話になっており

都度都度に

戦争に関することや

慰霊追悼について

お話を伺わせていただき

切実な思いや願いも

お聞きしたことがあるので

当山として出来ることを

出来る形で精一杯

継続してまいりたいとの

思いを強く抱いています。

 

当山も当時の住職と

その弟が出征・戦死しています。

 

拙僧泰峻からみると

大叔父にあたるお二人です。

 

大叔父たちは

拙僧も一緒に暮らした

大叔母・道子の弟たち

祖母・豐の兄たちで

大叔父ら兄妹の過ごした時代は

幼少期から困難が伴いました。

 

というのも

その父である当山61世・長峻師は

行年60でご遷化されており

その時に次代を担う

長男・晃雄師は14歳で

その姉の道子は17歳

弟の高明は12歳

妹の豐は10歳という状況で

お寺の住職については

晃雄師が住職に就任する時まで

代務者を立てなければなりませんでした。

 

代務者としては

親戚でもあり

大学者でもあった神林隆淨大僧正などの

多大なご助力がありました。

 

神林大僧正の奥様が

長峻師と兄妹であったご縁で

神林家には

大変お世話になった経緯があります。

 

戦争期については

その前後のことも含めて

以前ブログで書いたことがあるので

いくつかリンクを貼っておきます。

 

▼過去の参考記事

「昭和の最困難期」

「普賢院近現代の「巨星」長峻大和尚」

「稀代の古刹 七崎観音⑨」

 

上記の記事を

読み返すと

実に大変な時期であったことを

再確認させられます。

 

こういったことが

あったということの中には

時代を超えた気づきや教訓が

多分に込められていると考えます。

 

明治以後から

戦時下における

参拝や祈りのあり方には

切実なものが感じられます。

 

あまり紹介する機会がなかったので

本稿で少しだけ述べますと

幕末明治の混乱期や

戦時下において

七崎観音への参拝のあり方は

実に切実なものがあります。

 

幕末から明治への移行は

戦乱を伴うものであり

それは明治になってからも

国内の戦火が静まるまでに

しばらくの時間を要しました。

 

政策面においても

例えば宗教政策については

当初打ち出されたものが

うまく機能しなかったために

方針を変更しながら

着地点が模索されています。

 

神仏分離と廃仏毀釈を

同じものと誤解される方も

いらっしゃると思いますが

神仏分離は政府として

トップダウンで試みられたもので

廃仏毀釈は現象として

発生したものといえます。

 

神仏分離への対応として

当山では旧観音堂のあった

境内地を切り離して

旧観音堂を廃止して

仏像・什器などは普賢院に移し

旧地・旧堂は七崎神社となりました。

 

明治2年(1869)に

七崎観音(本七崎観音[本体仏]と

現七崎観音[御前立])は

遷座されたにも関わらず

多くの方が旧地へ

観音参りに訪れたため

応急策として

小堂を用意してそこに

七崎観音(現七崎観音)を再遷座し

明治9年(1876)の再々遷座まで

小堂が維持されています。

 

神仏分離の行政的実行と

地域によっては顕著な

廃仏毀釈の風潮の中

旧来通りに参拝がなされていたことは

大いに注目すべきことで

地域として長きにわたり

「協創された」伝統の凄みを

個人的には感じるのです。

 

この点については

若干本稿で触れますが

後日深ぼって

ご紹介したいと思います。

 

ちなみに

当地においては

廃仏毀釈の痕跡は希薄で

漸次順応が図られています。

 

明治9年(1876)の

官撰地誌『新撰陸奥国誌』は

数年の調査により編集され

明治天皇御巡幸を前に

完成したものです。

 

北方における

天皇御巡幸という出来事は

当然のことながら

政治的にも

当時の宗教的にも

大きな影響力があることで

明治上旬の出来事を

検証するにあたり

見落としてはならないことです。

 

こういった件については

別の機会にするとし

話をもとに戻しまして

旧来通りに観音参りをされた方が

いかなる祈りを

捧げられたかについて

思いをはせたとき

ルンルンな気分での参拝というより

時勢に伴う祈りが多いのです。

 

七崎神社となった旧地に

七崎観音(現七崎観音)が

小堂にて祀られた明治2〜9年は

国内においてもですが

東北地方においても

心穏やかな時期ではなく

むしろ社会不安により覆われた

時期でした。

 

関連する話題として

取り潰された会津藩の方が

斗南藩として再興を許可され

五戸・むつへ向かう道中

当地に身を寄せられ

そして当山にて弔われた方が

いらっしゃいます。

 

当山で弔われた斗南藩縁故者は

明治4〜6年が没年であり

斗南藩の方にとって

とても厳しい時期にあたります。

 

会津斗南藩縁故者の墓石16基が

当山には現存しておりまして

本堂建替の機会に

供養所として供養碑を建立し

墓石も並列して

供養所を整えました。

 

その方々も

当山はもちろんですが

七崎観音堂旧地にも

お参りされて

祈りを捧げられたと思われます。

 

トップダウンで

新たな秩序への変更が

図られることは

当初において

旧来よりの秩序を保ってきた

方々からすれば

言葉にならない不安に

さいなまれたはずです。

 

幕末明治は

戦火により多くの方が殉死した

時期でもあり

そういったことに対する

祈りも切実に捧げられており

そのような祈りは

日清・日露・太平洋戦争

といった一連の戦時下でも同様です。

 

七崎観音が明治9年に

再々遷座されたことは

明治天皇御巡幸を前に

地域として

行政的要求に準じた

「神社」を整える必要が

あったと捉えるのが

自然だと思います。

 

環境における

行政的(表向き)な変化が

あったにせよ

それ以前からも

それ以後も

頼りとされた観音菩薩に

切実な祈りが捧げられ続けました。

 

戦時下において

出征者の家の方が

毎日のように観音参りをされた

エピソードは

当山だけではないでしょう。

 

当山では

地域で戦死者が出ると

本堂に遺影が掲げられ

供養がなされました。

 

現在境内にある

戦没者留魂碑は

昭和37年(1962)に

建立されたものです。

 

留魂碑には

地域の戦没者のお名前が

刻まれており

さらに当山では

当地だけでなく

当山有縁の戦没者の

過去帳と位牌が用意され

供養されてまいりました。

 

戦没者過去帳は

先代・泰永師が用意し

したためたものです。

 

開山忌にあわせて

会津斗南藩縁故者

戦没者供養を行うのは

これまでなされてきた供養に

託された様々な思いを

考えてのことでもあります。

 

あちこち話が飛びましたが

「開山忌ならびに供養祭」のうち

供養祭の内容に関して

会津斗南藩縁故者供養と

戦没者供養について

書かせていただきました。

 

開創当時を考える⑧

このシリーズ

思いの外

好評いただいておりまして

楽しみにしてますとか

勉強になりますとか

おっしゃっていただけるのは

お世辞とはいえ

とてもありがたいのですが

気ままに書いているので

かたじけなく思います。

 

当山の歴史は長いので

時代ごとに

紹介したいことや

関連事項のお話は

ものすごく沢山なのですが

ブログで触れられるのは

そのうちの一部だけなので

記事内容はあくまでも

参考程度にご覧ください。

 

さて

「開創当時を考える」ここ何回かは

月法律師について

深ぼってきました。

 

法名が月法ではなく

月躰とする場合もありますが

これは南祖坊伝説を

伝える写本の中に

南祖坊の師僧が

月躰と表記されるものがあるからです。

 

なので月躰という名は

写本ベースのもので

当山の場合は

過去帳に依っております。

 

当山過去帳には

第二世として月法律師の

法名が明記されているのです。

 

この点については

巷で共有出来る情報からでは

把握出来ないことだと思うので

一応言及しておきます。

 

月法師が

戒律に精通した律師である点は

かなり大きな意味を持つことは

以前に述べた所です。

 

日本では多くの場合

戒という一語に

戒(シーラ)と律(ヴィナーヤ)が

含まれて捉えられています。

 

仏道修行において

戒は三学(戒・定・慧)の筆頭であり

仏道入門または修行入門において

不可欠なものです。

 

「初道」において

戒とともに重要視されるのが

菩提心(ぼだいしん)という尊い心です。

 

菩提心には

①悟りを求める心

②そもそも備わる尊い心

という意味があり

いずれもが大切なものであり

この菩提心の感得が

修行では目指されるといえます。

 

そして菩提心は

戒体(戒の本質)であり

様々な戒律は戒相(戒のあり方)

であると捉えます。

 

戒と聞くと

ルールとか禁止事項のニュアンスを

感じる方が多いと思いますが

具足戒はともかくとして

特に大乗仏教では

善業の意味合いが強いものが

“戒の日々の実践”とされます。

 

とりあえずここでは

本質としての菩提心

具体的な形としての戒

ということを

押さえていただければ結構です。

 

それでは

このことを踏まえて

「月法」という法名について

深ぼってまいりましょう。

 

空海が重用した経典『菩提心論』の

経文をいくつか

書き下して引用します。

 

  1. まさに普賢大菩提心に住すべし。一切衆生は本有の薩埵なれども、貪瞋癡の煩悩のために縛せ所るが故に、諸仏の大悲善巧智を以て、この甚深秘密瑜伽を説いて、修行者をして内心の中に於いて日月輪を観ぜしめ、此の観を作すに由って本心を照見するに、湛然として清浄なること猶し満月の光の虚空に遍じて分別しり所無が如し
  2. 一切有情は悉く普賢之心を含せり。我れ自心を見るに形、月輪の如し
  3. 凡人の心は合蓮華の如く、仏心は満月の如し

 

1〜3には

観法修行の重要性と

自心の実際は菩提心であり

自心の形は月輪のごとくであり

仏心は満月(満月輪)のごとく

であることが述べられます。

 

これらは事相(修行)と

教相(教理教学など)が

伴って理解する必要がありますが

要するに

菩提心と月輪が

修行上でも教理上でも

不可分なものなのです。

 

月法律師の法名「月法」は

「月の法(みおしえ)」という意味なので

月輪と菩提心という

仏道修行の核に通じる意味を

読み取ることが出来ます。

 

写本に見られる異名「月躰」についても

躰は「本質」という意味なので

同様の意味を宿していると

捉えることが可能です。

 

空海の『声字実相義』や

『吽字義』に代表される

梵字の字相・字義による

法名の紐解きでは

さらに多様な意味に

接続出来るでしょうが

それにはここでは触れません。

 

月法律師の法名・律師の

意義を踏まえたうえで

南祖法師(坊)伝説を

再検討してみると

より仏教的&教導的なものが

浮かび上がってまいります。

 

寺院の縁起・由緒や伝説は

歴史とは似て非なるものであることは

当ブログを始めた当初から

何度も何度も記してきた所です。

 

拙僧泰峻は

仏道に本格的に入る以前

大学で人類学という学問を

専攻していました。

 

人類学にも様々な分野があり

中でも神話研究で有名な

“知の巨人”レヴィ=ストロースは

著書『構造人類学』(みすず書房、1972)で

次のように述べます。

 

むしろ、神話の研究はわれわれを矛盾した認識に導くのだということをみとめようではないか。神話の中では一切が起こりうる。見たところ、そこでは諸事件の継起はいかなる論理あるいは連続性の規則にも従わない。[同書:230]

 

レヴィ=ストロースは

いわゆる構造主義を

代表する人物として

有名な方ですが

ソシュールなどの流れをくむ

記号論を応用して

親族構造や神話の研究を

行なった方です。

 

構造主義は

ギリシャ哲学以来の

西洋哲学・思想に

挑戦した思想です。

 

レヴィ=ストロースは

ギリシャ以来の思想・哲学の

流れを汲んだ

実存主義の代表者サルトルと

同時代の学者で

構造主義の思想は

一世を風靡するものとして

注目されました。

 

西洋的価値観を基準に

あれこれ判断を下すことへの警鐘も

レヴィ=ストロースの

メッセージのひとつです。

 

レヴィ=ストロースの著書は

学生時代の拙僧には

あまりに難しすぎて

ほぼ理解不能だったのですが

おそらく人類学に触れた方に

共通した経験であろうと思います。

 

いま引用した文は

寺社縁起の類においても

重々踏まえるべきことだと

思います。

 

口承により保存・継承され

文字に起こされ保存・継承された

その「字面」と等置される意味だけでなく

「字面」へ保存作業する際に

働いた作用や法則や背景や

暗に込められたコードに

近づこうとすることが

一つの姿勢として

考えられるでしょう。

 

専門的になってきたので

この話題はこの辺で。

 

開創当時の社会状況を

考える一助として

何年か前に阿光坊遺跡を

訪れた際の動画を作成したので

以下に添付しておきます。

 

それに加え

圓鏡上人を含む

三開山上人についての

紹介動画も以前作成したので

以下に添付しておきます。

 

さらにさらに

昨年5月に行なった

開山忌(歴代先師のご法事)と

供養祭の動画も

関連動画として添付します。

 

以上

月法律師についての深掘りでした。

 

5月10日の開山忌で四大明王の開眼も行います

開山忌(かいさんき)は

当山初代住職のご法事にあわせ

歴代先師のご供養を行う行事です。

 

また開山忌にあわせ

会津斗南藩縁故者供養

戦没者供養

合葬墓供養も行います。

 

さらに本年は

新たにお迎えする

四大明王像の開眼も

行います。

 

様々な意味を託した

開山忌ならびに供養祭について

何回かに分けて

投稿したいと思います。

 

当山では

次の三師を

三開山上人としています。

 

三開山上人

  • 開創開山・圓鏡大和尚(延暦・弘仁年間[782~824]開創/弘仁8年[817]5月15日寂)
  • 開基開山・行海大和尚(承安元年[1171]5月開基[中興]/建仁年中[1201~1203]寂か)
  • 中興開山・快傳大和尚(享保年間[1716~1736]に中興)

 

圓鏡上人の頃について

諸研究によりながら

仏教学的あるいは僧侶観点で

投稿を重ねてみたので

ご興味をお持ちの方は

ご一読いただければと思います。

 

▼「開創当時を考える」シリーズ

https://x.gd/m2kzn

(やや専門的です)

 

平安後期から鎌倉初期の

行海大和尚についても

深ぼってご紹介すると

とてもドラマチックというか

波乱万丈であったろう

ご生涯が想像されます。

 

行海上人は

大往生を遂げた方でして

11世紀初頭から12世紀初頭までの

約一世紀を在世とされるので

興教大師の生きた

“激動の時代”を目の当たりに

していたと推定しています。

 

行海大和尚については

機会があれば

ブログでもシリーズで

紹介したいと思います。

 

江戸中期

飢饉等で多くの人が

心身ともに疲弊していた時代に

活躍されたのが

快傳大和尚です。

 

快傳大和尚の時代

多くのお堂の修繕がなり

仏像が造立され

伽藍整備も図られました。

 

快傳大和尚は

かつて境内にそびえていた

大イチョウを植えたと

される方でもあり

また

享保期の寺屋敷建立棟札には

当地に様々な木々を植え

さらに

観音山(七崎山)に2000本の杉を

植えたと記録があります。

 

当地へ植樹されたものは

諸仏諸尊への供物や

修行における自給生活に

資するようなものが多いです。

 

観音山の2000本の杉の植樹は

おそらく現當二世安楽のために

賢劫仏(けんごうぶつ)になぞらえ

観音山を曼荼羅に見立てた

浄行ではないかと考えます。

 

観音山は当山の旧境内地で

明治まで観音堂があった場所で

明治以降は観音堂は廃止され

境内地を切り離し

現在は七崎神社となっています。

 

棟札の記載は

記録としての史料なので

快傳大和尚以前の観音山には

2000本もの杉を

植えられるだけのスペースが

あったということでもあり

現在の景観とは

全く異なる景観だったことを

暗示します。

 

杉だけでなく

伽藍や諸堂の整備

仏像の造立・請来などを

総合的に踏まえると

「曼荼羅に見立てた浄行」を

意識された方であり

さらには修行における

環境を整える意図も

看取出来るといえるでしょう。

 

そんな快傳大和尚についても

機会があれば

ブログでも紹介したいと思います。

 

本年の開山忌では

新たにお迎えする

四大明王像の開眼も行います。

 

不動明王と四大明王を

あわせて五大明王と称します。

 

不動明王は

真言宗においても

日本の信仰史においても

篤く敬われてきた尊格で

修行においてとても重要な意味を

宿しています。

 

普賢院合葬墓は

不動明王を本尊としており

不動明王は当行事にも

大きく関わります。

 

ということで

今回はここまでとし

つづきはまた後日とします。

 

▼昨年の開山忌ならびに供養祭

開創当時を考える④

開創上人である

圓鏡(えんきょう)師の

法名は五智(ごち)のうち

大圓鏡智(だいえんきょうち)

という東方・阿閦如來(あしゅく)如来に

当てられる仏智に由来することに

以前触れました。

 

そして圓鏡師の行状について

諸史料が伝える当時の社会背景を

手がかりに考察を試み

そして当地を拠点に選定して

十一面観音を本尊として

開創に至ったことを

大まかに描いてみました。

 

十一面観音は

空海・最澄以前の“古密時代”から

日本でも信仰されていた尊格です。

 

さらっと仏智とか五智とか

書いていますが

これには思想的展開があって

現在に至るものなので

あたかも「昔からこうです」と

思われるような記述は

よろしくないと思うのですが

論文ではないので

さらっといかせていただきます。

 

思想的展開は仏教の歴史でもあり

その展開の中には

修行者自身による体験内容と

伝えられる所の理論内容が

異なることに気づいたグループが

自身の体験内容を

限界があると自覚しつつも

サンスクリット語による記述を

試みた経典がもととなるものがあります。

 

現代の寺院や僧侶の

一般的(と思われる)イメージと

(おそらく)違って

持戒しながら修行に打ち込むことは

必須のことであり

その行状はまさに

身命をとしたものであったのです。

 

すこぶる修行を重んじ励まれ

自身の行(自利行)のみならず

利他行も行いつつ

過ごしていたものと考えます。

 

弘法大師の伝記によると

弘法大師は

山野を中心に自然にわけいり

浮世離れした行に

打ち込んでいただけではなく

勉学にも励まれていたことが

分かっているので

圓鏡師も行だけではなく

「教」(勉学の意)にも

励まれたと考えます。

 

そもそも

行と教は両輪のようなもので

僧侶において

「教なき行」「行なき教」

というのは厳密には

成立しないようにも思います。

 

圓鏡師の出身地は不明ですが

授法の師匠がいらして

法友もいらして

弟子もいらいたことでしょうし

支持する優婆塞・優婆夷(在家者)も

いらしたことでしょう。

 

真東を向く当山は

必ず日の出を仰ぎ

日の入りを背に負います。

 

日輪観・月輪観といった

観法を修法したでしょうし

明星や北極製や七星などの

星々にまつわる観法も

修法したことでしょう。

 

月輪観(がちりんかん)という

行法は現在も重宝される

歴史あるもので

菩提心(ぼだいしん)という

とても尊い心を

満月の観想を以て

“感得”することを目指します。

 

重宝されるというか

修行必須の超重要な修行のひとつが

月輪観といえます。

 

初代住職・圓鏡師の次代を担った

第2世・月法律師(がっぽうりっし)の

法名「月法」は

「菩提心の象徴たる月の教(法)」という

深い意味に通じます。

 

月法律師は

十和田湖伝説に登場する

南祖法師(坊)の師とされる僧侶です。

 

「月法律師が南祖法師の師」

ということにも

意味が込められていると仮定して

仏教的背景を想定してみると

そこにまた

新たな筋書きが浮かび上がってきます。

 

つづく

開創当時を考える③

毎年気まぐれシリーズとして

連載することがあるのですが

昨年しばらく投稿した

「紐解き七崎観音」で掲載した

諸資料を稿末に添付しておきます。

 

言及するかどうかは別として

添付しておきたいと思います。

 

それらだけで17,000字程なので

“全のせ”は今回だけにして

本シリーズで触れるときには

該当資料のみ示すとか

資料番号を示す感じにしたいと思います。

 

我ながら

よくここまでまとめたものだと

感じます…

 

圓鏡の斗藪(とそう)と修禅考

前回少し触れたように

古代日本では

経典暗誦(法華経や最勝王経)と

“浄行”数年以上といった

要件が定められていました。

 

浄行としては

師僧について

寺院や山林で修行を重ね

八斎戒の保持

陀羅尼の唱咒などが

求められたのです。

 

浄行期間については

時期により異なりますが

天平6年(734)には3年以上

天平宝字2年(758)には10年以上

という感じです。

 

古代の山林修行は

律令により規定・禁制があり

例えば養老僧尼令「禅行条」では

山林での修行は申請によって認められ

そして他の修行地に勝手に行くことは

禁じられていますし

無許可で入山したり造庵することも

禁じられています。

 

「卜相吉凶条」では

呪術的な看病(治療)は禁止されていますが

仏教(仏咒)による看病は認められています。

 

北東北の地にまで

厳密な形で律令の網が

かかっていたとは思いませんが

当山開基上人である行海師が

廻国僧であったように

圓鏡師もまた他所より

いらした僧侶であったと考えて

間違いないと思います。

 

圓鏡師も師僧について

修行・修学され

縁あって当地を選んで

開創されたと考えられます。

 

当地が選ばれたのは

斗藪行の拠点として

修行・修学に適した環境に

あったからだと思います。

 

当地はかつて七崎(ならさき)

といいましたが

その所以は

「七つの岬のように見えたから」

との説があります。

 

当山の場所からだと

東の海まで視界に入るのですが

かつては海岸線が

かなり西側に食い込んでいたらしく

尻内からクジラの骨が

出土したことがあることからも

「七つの岬」説は

可能性あるものだと思います。

 

これまで山林修行とか斗藪という

用語を用いていたので

もっぱら「山」のイメージが

あるかもしれませんが

海も川も尊い修行地です。

 

海でいえば

空海は室戸岬の巌窟で

虚空蔵求聞持法という修法を行い

明星が飛び込んできたという

エピソードがあります。

 

満ちては引く海は

修禅における観法の対象たりえますし

当山は真東を向いているため

常に日昇と向き合う位置取りで

天体の運行もまた

恰好の観法の対象です。

 

また

当山を起点とすると

各方面への斗藪も

実践しやすかったと考えます。

 

さらには

人里との距離感も

修行において程よいものであり

利他行としての実践も行うことで

運営面においても

望ましかったのではないでしょうか。

 

あまりに

幽谷な場所で

人里と隔絶した環境ですと

現実問題として

「運営」が成り立たないはずです。

 

幽谷な地にお堂を構えるとしても

それは年中通じて常住するような

ものではなく

修行のためのものであったり

参拝するためのものであったり

その地の神仏を

お祀りするためのものだったり

常住を前提とした

ものではないと思います。

 

そういった現実的なことも踏まえ

当地が選定されたと考えます。

 

弟子はもちろんですが

優婆塞・優婆夷といった在家者がいたり

道俗相集(出家者も在家者も相集うの意)

するような場所だったかもしれません。

 

当地を選定するには

選定するための諸情報を

得る必要があると思います。

 

圓鏡師がご自身で

当地周辺を斗藪を通じて

熟知していたかもしれませんし

地元の者が当地を推薦するような

やり取りがあったのかもしれません。

 

伝えによれば当山本尊は最初

十一面観音だったとされます。

 

ご自身で造仏したものを

祀られたかもしれませんし

持仏として身につけられていたものを

祀られたかもしれませんし

その辺は不明ですが

信仰の歴史がとても古い

十一面観音を本尊として

当山は開創されたのです。

 

つづく


「基礎資料」(令和7年4月3日改訂版)

※『郷社七崎神社誌』(小泉幸雄、大正15年[1926])を典拠にしたものについては青字で記します。(※一部追記アリ。)

※伝説・伝承含め当山に関連する記述の見られる主な史料の年代等を緑字で記します。前回のものに追記したものがあります。

※弘法大師空海や興教大師覚鑁の両祖大師に関すること、寛永11年[1634]以降の御遠忌(ごおんき)を紫字で記します。空海、覚鑁は法名であり、幼名などは異なりますが、ここでは便宜上「空海」「覚鑁」と標記します。

※近世以前(ここでは寛政12年[1625]以前)については、当山の過去帳を主な典拠として橙色で記します。(※一部追記アリ)

  • 空海ご生誕(宝亀5年[774]6月15日)
  • 空海、阿刀大足に漢学を学び(一説に15歳)、大学に入学(一説に18歳)
  • 『精霊集』四「小僧都を辞する表」に「山藪を宅とし、禅黙を心とす」る道を「若干より知命におよぶ」とある。空海は、若い頃(一説に20歳)から知命(一説に50歳)まで、山野での禅定行を大切にしたという意。
  • 空海『三教指帰』(延暦16年[797]/“出家宣言の書”とも言われる)著す(著述後、私度僧として山林に分け入って修行したほか、学問の林所を究める修行に励んだとされる。)
  • 『太政官符』によれば、空海は延暦22年(803)に出家(得度)。ただし、年号は史料によって若干異なる。
  • 延暦23年(804)空海は難波津より遣唐使船に乗船。『日本後記』によれば「7月6日肥前出航・8月10日赤岩鎮漂着・11月3日長安に向け出発」している。
  • 延暦24年(805)空海は長安青竜寺の恵果阿闍梨に灌頂を受ける。同年12月15日、恵果阿闍梨は入滅、翌年1月17日埋葬。
  • 大同元年(806)空海帰国。太宰府に入って『御請来目録』を提出(10月22日付)。3年待機し、大同4年(809)7月16日付で入都許可され、高雄山寺に入る。
  • 弘仁2年(811)空海は乙訓寺別当を任ぜられる。乙訓寺で空海と最澄は直接対面を果たしている。
  • 弘仁5年(814)空海は勝道の依頼で『勝道碑文』撰述
  • 空海は真言典籍の書写の依頼状「勧縁ノ疏」を東国・西国に出している。弘仁6年(815)に下野・広智禅師、陸州(陸奥)の徳一へ出した。空海は、このような書写依頼の相手として、僧侶に限らず書状を出しており、真言密教流布に大いにつながったと考えられている。
  • 弘仁7年(816)最澄から泰範に比叡山へ帰山を促す書状出されるも、泰範は帰山せず空海のもとに残る。
  • 開創・圓鏡上人(弘仁8年[817]5月15日ご遷化/過去帳に「當寺開創」と記載/ご遷化の年次から最近では「弘仁初期(810)頃開創」と紹介してきたが、明確なことは分からないため「延暦弘仁年間の開創」と説明されてきた)
  • 天長元年(824)淳和天皇の命により空海が神泉苑で請雨祈祷・善女龍王御勧請(七崎観音が海で引き揚げられた年が天長元年[824]とされるが、これは弘法大師空海の善女龍王御勧請譚に着想を得て、近世以後に設定された年次と推定)
  • 天長7年(830)空海は淳和天皇の勅命にこたえ『秘密曼荼羅十住心論』『秘蔵宝鑰』を著す
  • 月法律師(当山2世/天長8年[831]10月16日ご遷化/南祖法師の師とされる/律師とは僧階または戒律に精通していた上人の意)
  • 七崎観音の“おこり”(承和元年[834]1月7日、八太郎で漁師として暮らしていた京都の四条中納言・藤原諸江卿が観音夢告により、当地に観音様を遷して祀り、それが七崎観音の始まりという由緒譚アリ/坂上田村麻呂将軍[758〜811]が祀ったという話や、諸江卿の娘である七崎姫を七崎観音として祀ったという話が由緒譚としてあるが、実際の経緯については不明[南祖坊を諸江卿の子息とする伝えもある]/大正15年[1926]の『郷社七崎神社誌』では「坂上田村麻呂将軍が当地に来たことは史実」としているが、田村将軍の研究を踏まえると「史実」というのは難しい)
  • 空海ご入定(承和2年[835]3月21日/延喜21年[921]に大師号下賜)
  • 鏡宥上人(貞観10年[868]11月24日ご遷化)
  • 日照上人(仁和3年[887]7月23日ご遷化)
  • 空海に大師号「弘法大師」下賜(延喜21年[921]10月21日/醍醐天皇より)
  • 宥海上人(寛治5年[1091]5月25日ご遷化)
  • 覚鑁誕生(嘉保2年[1095])
  • 覚鑁、13歳で仁和寺の慶照入寺に伴われ仁和寺成就院へ(嘉承2年[1108])
  • 覚鑁、14歳で興福寺に入り法相を学ぶ。(嘉承3年[1108])
  • 覚鑁、仁和寺成就院に戻り得度。寛助のもとで得度受戒(沙弥戒)。法名・正覚房覚鑁。16歳(天永元年[1110])
  • 覚鑁、具足戒を授かる。年末に高野山へ入る。(永久2年[1114])
  • 覚鑁、高野山から根来山に移る。(保延6年[1140])
  • 覚鑁入寂(康治2年[1143]12月12日/49年の生涯/元禄3年[1690]に大師号「興教大師」下賜)
  • 開基・行海上人(承安元年[1171]5月に開基/過去帳に「當寺中興」と記載/位牌では表に「開山」、裏に「開基」と記載/全国行脚の後に当地に立ち寄り、村の沼の大蛇を解脱に導き、村人に懇願されて当地に留まられたと伝えられる/旧・観音堂[寺号・徳楽寺、現在の七崎神社の地にあった]の地に、七つ星になぞらえて杉を植えたとされる/建仁年間[1201〜1203]に99歳でご遷化/ご遷化とされる年号を参考にすると長保4~6・寛弘元年[1002~1004]〜建仁年中[1201~1203]の方で、当山開基開山は67~69歳頃となる
  • 鎌倉二階堂永福寺(ようふくじ)の宥玄が、南部氏入部に尽力したため、恩賞として三戸に永福寺(えいふくじ)が建立され、同寺を賜る。さらに、七崎(現在の豊崎)の地も賜ることとなり、古くからある当山も管理することになる。永福寺の僧侶が司るお寺であることから、当山も次第に永福寺と称されることとなった。以後、江戸時代初期まで永福寺の寺号が主に用いられた。
  • 行惠上人(寛元2年[1244]1月26日ご遷化/修円房/当中5世)
  • 『三国伝記』(応永14年[1407]成立/沙弥玄棟/説話集/十和田湖伝説が収録/全360話中120話が日本の説話で、そのうち1割もが『長谷寺験記』関係という特徴がある)
  • 宥漸上人(応仁元年[1467]8月26日ご遷化/当山22世/秀満房)
  • 惠海上人(元和3年[1617]5月19日ご遷化/五輪塔が旧・三戸永福寺[嶺松院(明治に廃寺)]の地に現存/本坊盛岡永福寺30世)
  • 仁王門造営(寛永2[1625])
  • 弘法大師800年御遠忌(寛永11年[1634])
  • 興教大師500年御遠忌(寛永19年[1642])
  • 『雑書』(確認されているのは寛永21年[1644]3月14日〜天保11年[1840]末【欠落箇所アリ】)※江戸時代前期、中尊寺から本坊・永福寺に住職を迎えたことがある(『雑書』にも記述アリ)。現在は中尊寺といえば天台宗寺院の印象が強いと思われるが、かつては真言寺院も構えられており、現代とは異なる“宗派感覚”・“宗派交流”があったことを十二分に踏まえるべきである。近年になって県内や地元の書籍において永福寺や当山がかつて天台宗寺院であったと記述するものが突如見られるようになったが、推定するに中尊寺=天台宗という現代的宗派感覚による読み解きに依るものであろう。天台宗・修験・山伏などの用語について注意深い検討が不十分なまま、現代的宗派感覚で安易に用いられているように感じられる。現住職(65世)が平成23年(2011)に帰山する前後より、当山に学術調査の類は一度も要請されたことも実施されたこともないので、当山関係についてはかなり古い情報が基とされているため、郷土史や伝説の研究や探究には、諸事踏まえたうえで臨まれることを期待したい。【泰峻註】
  • 『寺社記録』(寛永21年[1644]〜天保8年[1837]【欠落箇所アリ】)
  • 本七崎観音(明暦元年[1655])
  • 観音堂並十二末社再興(観音堂3間四方/棟札は明暦2年[1656]に宥鏡上人が作成)
  • 吊灯籠(寛文10年[1670])
  • 弘法大師850年御遠忌(貞享元年[1684])
  • 興教大師550年御遠忌(元禄5年[1692])
  • 現七崎観音(貞享4年[1687]/4間四方の観音堂が再建[棟札が神社にアリ]
  • 覚鑁に大師号「興教大師」下賜(元禄3年[1690]12月26日/東山天皇より)
  • 観音堂並小宮葺替(元禄6年[1693])
  • 『系縁集』(元禄11年[1698]、編者・藤根吉品[重信・行信・信恩3代に右筆として仕える])
  • 『来歴集』(元禄12年[1699]、編者・藤根吉品[重信・行信・信恩3代に右筆として仕える])
  • 殺生禁断札設置(正徳2年[1712]/南部利幹公)
  • 仁王門改造(享保2年[1717])
  • 仁王像(享保3年[1718])
  • 前机(享保9年[1724])
  • 稲荷大明神造営(享保12[1727])
  • 快傳上人逆修建立の墓石(享保14年[1729]、施主信敬とある)
  • 『津軽一統志』(享保16年[1731])
  • 寺屋敷(庫裡)(享保18[1733]/この時に観音山[現在の七崎神社境内]に2000本余の杉を植樹と記載アリ)
  • 弘法大師900年御遠忌(享保19年[1734])
  • 興教大師600年御遠忌(寛保2年[1742])
  • 学秀仏・千手観音坐像(享保年間奉納と推定/学秀仏と思われる不動明王像と大黒天像アリ)
  • 龜峯扁額(享保頃の可能性/落款が「龜峯」「主忠信」「不爾」)
  • 南祖法師尊像(延享元年〜2年[1744〜45]と推定)
  • 賽銭箱(寛保3年[1743]12月)
  • 『奥州南部糠部巡礼次第』(寛保3年[1743]6月3日〜18日の15泊16日で則誉守西上人ら14名が巡礼)
  • 『祐清私記』(著者・伊藤祐清は寛保元年[1741]に諸士系図武器右筆等諸用掛りについており、この際に収集した諸資料や記録をもとに編集したと見られている)
  • 『寛延盛岡城下図』(寛延年間[1748〜51]/本坊・盛岡永福寺ほか関係寺院が記載されている)
  • 御輿再修覆(宝暦6年[1756]/神社誌にも記載されるが棟札は当山所蔵
  • 鳥居新築(宝暦10年[1760]春)
  • 『御領分社堂』(宝暦10年[1760]頃)
  • 愛染堂再興(宝暦13年[1763])
  • 不動堂再興(宝暦13年[1763])
  • 天照皇大神宮再興(宝暦13年[1763])
  • 大黒天堂造営(宝暦13年[1763])
  • 仁王門修造(宝暦13年[1763]3月)
  • 御輿新造(明和2年[1765]3月)
  • 『平泉雑記』(安永2年[1773]/南祖坊が植えた姥杉の伝説)
  • 夫婦地蔵(安永3年[1774])
  • 弘法大師950年御遠忌(天明4年[1784])
  • 『いわてのやま』(天明8年[1788]/菅江真澄の紀行文/十和田湖伝説関連)
  • “十和田の本地”(天明期[1781〜89]には南部藩領で語られた奥浄瑠璃/諸本多し)
  • 鈸(寛政2年[1790]/宥慎上人により奉納)
  • 興教大師650年御遠忌(寛政4年[1792])
  • 荒神堂再建(寛政5年[1793]8月6日)
  • 『邦内郷村志』(明和・寛政年間/大巻秀詮)
  • 地蔵菩薩(享和2年[1802]/現在、位牌堂本尊)
  • 『十曲湖』(文化7年[1807]/菅江真澄の紀行文/十和田湖伝説関連)
  • 『篤焉家訓』(文化・天保年間[1804〜44]/市原篤焉)
  • 鐘楼堂再建(文化5年[1808]/神社誌にも記載されるが棟札は当山所蔵
  • 愛染明王(文化7年[1810]/宥瑗上人により奉納)
  • 本堂再建(文化8年[1811])
  • 千手観音堂再建(本堂再建と同時期)
  • 香炉(本堂再建と同時期/宥瑗上人により奉納)
  • 観音堂扁額(文化14年[1817]/三井親孝の書)
  • 『竹田加良久里』(文政6年[1823]/持仏堂主人)
  • 『当時十和田参詣道中八戸よりの大がひ』(文政年間のものと見られている/十和田湖参詣道について)
  • 『十和田記 全』(文政12年[1829]成立と見られている/「御縁起見る心得のケ条覺」に彼岸中日に青龍大権現[南祖坊]来臨のいわれに触れられている)
  • 秋葉権現堂再建(天保4年[1833])
  • 『盛岡砂子』(天保4年[1833]/星川正甫)
  • 弘法大師1000年御遠忌(天保5年[1834])
  • 吊灯篭(天保8[1837]/宥威上人により奉納)
  • 不動尊祈祷札(吊灯籠と同時期と推定/権僧正とあるため瑜伽者は晩年の宥威上人)
  • 鰐口(天保12[1841]/河内屋により奉納)
  • 興教大師700年御遠忌(天保13年[1842])
  • 八体仏(弘化年間[1845〜48])
  • 稲荷大明神(嘉永2年[1849]/普賢院宥青[当山先師]、善明院栄隆[修験“善行院”14代])
  • 『鹿角日誌』(嘉永2年[1849]7月16日〜8月3日の日誌/松浦武四郎)
  • 『八戸浦之図』(嘉永年間[1848〜1855])
  • 一王子再建(安政4年[1857]8月)
  • 『十和田山神教記』(万延元年[1860])
  • 観音堂再修(安政10年[1863])
  • 七崎観音遷座(明治2年[1869]/旧観音堂より仏像・什器など一式が移される/しかし、旧地への参詣者が見られたため旧地へ小堂を作り旧神宦神殿へ再遷座[『伺』の記述内容と僧侶としての知見から、再遷座されたのは現七崎観音と思われる])
  • 斗南藩縁故者墓石16基(主に明治4〜5年[1871〜72])
  • 旧神臣略系(明治7年[1874])
  • 七崎観音遷座(明治9年[1876]12月/明治2年に旧地へ再遷座した七崎観音を普賢院へ再々遷座/移されたのはおそらく現七崎観音)
  • 『伺』(明治10年[1877]/青森県令 山田秀典にあてたもの/文化6年(1809)奉納された梵鐘に関する伺い/明治初期における七崎観音遷座の経緯について述べられている)
  • 『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])
  • 『奥々風土記』(江刺恒久が南部利剛の命により編纂)
  • 弘法大師1050年御遠忌(明治17年[1884])
  • 観音堂内御堂造立(明治19年[1886])
  • 興教大師750年御遠忌(明治25年[1892])
  • 興隆講規則(明治34年[1901]/観音講を組織化して再興)
  • 『目録』(明治36年[1903]/明治になり旧観音堂から移されたものをまとめたもの)
  • 十三仏掛軸木箱の蓋(明治39年[1906])
  • 本堂屋根葺替(大正3年[1914]12月)
  • 七崎山龍神堂木札(大正4年[1915]5月)
  • 『郷社七崎神社誌』(大正6年[1917]/小泉幸雄)
  • 『糠部五郡小史 附 三戸名所旧蹟考 埋木の花 鄙の土』(大正11年[1922]/当地については小泉幸雄氏が記述している)
  • 地蔵菩薩(明治末〜大正期/一時当山の代務者をつとめた赤穂覚信師が作仏)
  • 北沼観音(昭和2年[1927]蓮沼にて発見、昭和4年[1929]旧8月17日建立)
  • 観音堂並仁王門改築(昭和6年[1931]/『七崎観世音道場普請報告書』に記載)
  • 子安地蔵堂(昭和6年[1931])
  • 『十和田湖鳥瞰図』(昭和8年[1933]/吉田初三郎/七崎観音と永福寺[普賢院]が描かれている)
  • 弘法大師1100年御遠忌(昭和9年[1934])
  • 本堂庫裡修繕(昭和9年[1934]/長峻和尚尊霊歎徳文に記載)
  • 大日坊大黒天(昭和10年[1935]頃と推定/61世長峻上人は昭和10年に大日坊88世住職にも就任)
  • 興教大師800年御遠忌(昭和17年[1942])
  • 戦勝祈願札3枚(戦争期)
  • 割切五條袈裟(昭和18年[1943]11月/長峻子息・晃雄師[後に出征し戦死])
  • 本堂屋根葺替(昭和22年[1947]12月/戦後の統制経済の様子を伝える記述がある)
  • 「北ノシノキ」と書かれた木板(昭和22年[1947]12月12日/3名の名が列記)
  • 『永福寺物語』(昭和22年[1947]/山岸郷友会編集部/江戸期まで本坊であった盛岡永福寺は明治になり廃寺。その後、昭和17年[1942]に再興が許可。盛岡に再興された永福寺の場所は、東坊[普賢院]だった場所。本誌は再興永福寺の落慶記念。)
  • 本堂修築(昭和26年[1951]/写真アリ)
  • 戦没者留魂碑(昭和37年[1962]11月)
  • 北沼観音を八太郎から普賢院に遷座(昭和39年[1964])
  • 本堂改築並位牌堂新築(昭和51年[1975])
  • 観音堂宮殿塗装修復(昭和56年[1981])
  • 弘法大師1150年御遠忌(昭和59年[1984])
  • 子安地蔵厨子(昭和59年[1984])
  • 仁王門新造並山号札・観音札所札(昭和59年[1984])
  • 観音堂内陣格天井並中台八葉院法曼荼羅及新装照明(昭和60年[1985])
  • 聖観音像奉納(昭和60年[1985]1月24日/施主 中村元吉・ミチ夫妻/内殿に安置)
  • 子安地蔵内格天井(昭和60年[1985])
  • 観音堂内格子前扉(昭和61年[1986])
  • 鐘楼堂建立(平成2年[1990])
  • 興教大師850年御遠忌(平成4年[1992])
  • 本尊厨子(平成5年[1993])
  • 客殿並位牌堂新築(平成12年[2000])
  • 鐘楼堂修繕(平成25年[2013])
  • 十和田神社・普賢院合同祈祷(令和元年12月9日/南祖法師尊像出開帳/十和田湖占場にて取水し、浄水を合同祈祷にてお加持)
  • 長谷寺式十一面観音三尊造立(令和2年[2020]/仏師・小堀寛治氏)
  • 普賢院中興64世 泰永大和尚遷化(令和3年9月8日/生前中自身の手による仏具・仏画を多く残したうえ、修繕も多く行っている)
  • 絵本『龍になったおしょうさま』制作(かたり部によるプロジェクト/令和3年8月〜10月クラウドファンディング実施、12月完成)
  • 大般若経全600巻新調(令和3年/文化7年の火災により焼失したとされるため、本堂建替にあたり新調)
  • 本堂建替(令和2年10月解体、令和3年5月19日地鎮式、7〜9月基礎工事、同年11月建方開始、11月9日立柱式、令和4年3月6日上棟式、12月12日落慶式/施工・松本工務店)
  • 本尊・愛染明王像、仁王像、普賢菩薩像、本七崎観音像修繕、ほか仏具修繕(令和2年秋彼岸後に搬出/施工・阿部正助商店)
  • 須弥壇・密壇・護摩壇ほか修繕、観音堂賽銭箱ほか制作(施工・五戸木工)
  • 権現像・薬師如来像奉納(令和4年9月/施主・小坂明氏[コサカ技研会長]/いずれも関頑亭[1919-2020]による脱活乾漆像/開眼法要は関係者参列のもと令和5年10月21日に厳修/施主・小坂明氏は令和6年8月末にご逝去)
  • 龍王・龍女像制作・奉安(令和4年/造立願主・普賢院弟子太陽坊[勧進を呼びかけ、有志勧募により制作]/仏師・小堀寛治氏)
  • 十和田湖青龍大権現碑建立(令和4年/施主・根城番地石材店)
  • 会津斗南藩供養所整備(令和4年)
  • 合葬墓建立(令和4年)
  • 弘法大師御生誕1250年(令和5年/65世住職晋山・本堂落慶の記念もかね、有志で団参を6月6〜8日に実施[総本山長谷・岡寺・仁和寺・東寺ほか参拝])
  • 不動明王像引受(令和5年4月28日/不動護摩の砌、八戸市内の旧家[旧修験家]より引受)
  • 不動明王像修繕(令和5年5月:旧家より引き受けたものの破損状態が激しかったため仏師・小堀寛治氏に修繕を依頼/6月に修繕完了し奉安)
  • 幢幡を内陣に奉納(令和5年6月30日/施主・田中久一氏)
  • 会館・庫裡の屋根・外壁塗装(令和5年末〜令和6年3月末/施工者:八戸ペイント)
  • 位牌堂位牌合祀所の祭壇を制作(令和6年2月/施工者:五戸木工)
  • 二大童子像造立・安置(令和6年4月28日の不動護摩で開眼/仏像作者は小堀寛治氏)
  • 四大明王造立(令和7年5月10日の開山忌で開眼[予定]/仏像作者は小堀寛治氏/祭壇4台作者は五戸木工)

②『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])の当地についての箇所

※一部()で補足しています。

※色字は筆者によります。

※一部「」で注記・補足しています。

※長いですが、研究メモの兼ねているのでご容赦下さい。

 

七崎村

【中略】

当社は何の頃の草創にか

究て古代の御正体を祭りたり

旧より正観音と称し

観音堂と呼なして

近郷に陰れなき古刹なり

 

数丈なる杉樹

地疆に森立して空に聳ひ

青苔地に布て如何さま

物ふりたる所なり

 

去は里人の崇仰も大方ならす

 

四時の祭会は元より

南部旧藩尊敬も他の比にあらす

常に参詣も絶えす

廟堂の構界区の装置まて

昔を忍ふ種となる所なり

 

堂は悉皆国知の修営にして

山城守重直

(始三戸に居り后盛岡に移る)

殊に尊信し

五百五石五斗三升三合を寄附し

繁盛弥益し

盛[岡]の永福寺 別当し

当所には普賢院を置き

外に修験 善覚院 大覚院

社人十二人 神子一人

肝煎等の者まて悉く具り

普賢院に十五石

善覚院に五石

大覚院に五石三斗

社人 神子 肝煎 各五石を分与し

(※重直公は明暦元年[1655]に聖観音像を奉納。その観音像は現在、本七崎観音[もとならさきかんのん]として内殿に安置。早稲田観音[旧嶺松院]に祀られる十一面観音像の作風と酷似しているので、現在の早稲田観音は重直公が同時期に奉納したものと思われる。明暦直前、重直公は重病のため、領内の主な祈願所に祈祷を命じている。症状が回復したため、御礼の印を奉納した。明暦2年[1656]に作成された棟札(観音堂並十二末社再興)が現存。七崎観音堂への「御礼の印」として、重直公は観音像奉納と観音堂・十二末社再興を実施した。)

 

明治元年以前は

毎月十八日 湯立の祈禱あり

 

正月七日◻丑の刻 護摩祈禱あり

 

三月 鳴鏑(なりかぶら)の祈禱あり

ヤフサメと云う

 

四月七日の◻或は昔出現ありし所なりとて

八太郎(九大区一小区)に旅所ありて

黒森浜に輿を移し

其時 別当 役々残らす扈従し

氏子百五十人余

その他遠近信仰の従相随ひ

八太郎浜は群参千余人

海上には小艇に乗して

囲繞すること夥し

旅所は黒森にありしか

戊辰後これを廃し

(※現在、本堂前に祀られる北沼観音に関する記述。現在普賢院に祭祀される北沼観音は、八太郎の蓮沼にあったが、昭和39年[1964]に当山に遷座された。北沼観音は七崎姫伝説という物語に関連。七崎姫伝説とは、藤原諸江[もろえ]の娘である七崎姫が、八戸市の八太郎の沼に住む大蛇を命と引き換えに改心させたという物語。その姫を観音様として祀ったのが、七崎観音であるという由緒譚も一説として伝えられる。)

 

五月五日は四十八末社御山開と

唱える祈禱あり

(今末社は彊内に十二社を存す

当時は在々の山間等

数所にありと云う)

(※旧七崎観音堂[いわば本社にあたる]と四十八末社をあわせて四十九となる点は、兜率四十九院などの意味が重ねられていたと思われる。)

 

八月六日より十二日まで

荒神祭とて四条諸江郷の祭あり

 

同十三日中の祭と唱て

五月端午の祭と同式あり

 

同十七日 観音堂大法会あり

 

九月五日 御留(おとめ)の祭と云て

五月五日の祭と同じ祭あり

 

十二月十七日 年越しの祈禱あり

 

此の如く厳重の法会を

修行し来りたる

奇代の古刹なりしに

何故に廃除せしにや

 

明治三年 神仏混淆仕分の節は

三戸県管轄にて

県より廃せられたりしにて

元来観音を祭りし所なれは

神の儀に預るへき謂れなく

村民の昔より

崇め信せる観音なれは

旧貫を痛願なしけれとも

 

了に仏像は元宮と云て

壊輿祭器を納め置く所に

安置すへきに定れり

 

元宮は

往古草創せる旧阯にして

永福寺より南に当り一丁

(字を下永福寺と云う)

一間半四方の堂あり

(東に向ふ)

破壊に及ひしかは

修覆中は仮に

旧社人 白石守か家に安す

 

観音堂は元より

神社の結構に異なるを

廟殿の備もなく

仏像を除て其ままに

神を祭れはとて

神豈快く其の斎饌を

受へけんや

 

この廃除せる根源は思に

仏子の徒(ともがら)

僧衣を褫(とい)て

復飾せんと欲するに外ならす

 

左許(さばかり)の古刹を壊て

神の威徳を汚蔑すかの

小児輩(ちいさな子どもの意)

土偶人(土で作った人形の意)

を配置して戯弄するに異ならす

(※旧来のあり方から、明治以後のあり方への変化について、その過渡期を生きた記者による価値観が垣間見られる貴重な箇所と思われる。)

 

昔は仏子の度牒を受けて

律を壊る者は還俗せらるる

布令なりけれは

一たひ仏子たるもの

還俗するは

罪人と同く

仏子甚厭ひたりしと

◻◻の如く異なれり

 

社人の伝て

観音は正観音なと云伝れとも

形丸く径五寸厚二分の板銅にて

像は高出たるものにして

十一面観音の容に見ゆ

然れとも旧年の古物

形像定かに弁へからす

 

旧数枚ありし由なりしか

正保(1645〜1648)の

頃にや天火に焼し時

多消滅し全体なるもの

僅に一枚を存す

缺損たるものは数枚ありと云う

(※御正体[みしょうたい]についての言及。七崎観音堂では、十一面観音が設えられた懸仏[かけぼとけ]を本尊としていた時期もあるとの伝えがある。懸仏を本尊にする例は珍しくない。引用文によれば、懸仏が数枚あったことが分かる。)

 

言か如んは則

御正体と称する古代の物にて

神仏共に今世まま存す

社人其何物たるを知らす

神祭豈難からすや

 

然るに里人

又七崎神社由来と

云ことを口実とする

 

全く後人の偽作なれとも

本条と俚老の口碑を

採抜せるものなるへけれは

風土の考知らん為に左に抄す

 

七崎神社

祭神

伊弉冉命[イザナミノミコト]

勧請之義は古昔天火に而

焼失仕縁起等

無御座候故

詳に相知不申候

 

異聞あり

ここに挙く祭神は伊弉冉尊にして

勧請の由来は天災に焼滅して

縁起を失ひ詳らかなることは

知かたけれとも

四条中納言 藤原諸江卿

勅勘を蒙り◻刑となり

八戸白銀村(九大区 三小区)の

海浜に居住し

時は承和元年正月七日の

神夢に依て浄地を見立の為

深山幽谷を経廻しかとも

宜しき所なし居せしに

同月七日の霄夢に

当村の申酉の方

七ノの崎あり

其の山の林樹の陰に

我を遷すへしと神告に依り

其告の所に尋来るに大沼あり

 

水色◻蒼

其浅深をしらす

寅卯の方は海上漫々と見渡され

風情清麗にして

いかにも殊絶の勝地なれは

ここに小祠を建立したり

 

則今の浄地なりと

里老の口碑に残り

右の沼は経年の久き

水涸て遺阯のみ僅に

小泉一学か彊域の裏に残れり

 

当村を七崎と云るは

七ツの岬あるか故と云う

 

又諸江卿の霊をは荒神と崇め

年々八月六日より十二日まて

七日の間 祭事を修し来たれりと

(以上 里人の伝る所

社人の上言に依る)

(※中世以降、非業の死をとげた者を荒神として祀る慣習があった。庶民信仰において、鎮魂[たましずめ]は祭事の肝心とされる。当記録は、明治9年に『新撰陸奥国志』が成立する以前に取材されたものであることを十分に踏まえて読み解く必要がある。神仏分離への対応のため、旧七崎観音堂を境内から切り離して以後、数年間は縁起を編み直し、時代に合わせたものを採択する必要があった。当記録では、里人・社人は旧観音堂祭祀の荒神を、藤原諸江卿の御霊とする説を紹介しているが、当山に三宝荒神の同型の鋳像が複数残されており、これらは当地の旧修験家が別当寺である当山に返したものと思われる。このことからも、仏道における文脈における荒神への祈りの歴史があったことが窺われる。)

 

この語を見に初

伊弉冉尊霊を祭る趣なれとも

縁起記録等なく詳ならされとも

南部重直の再興ありし頃は

正観音を安置せり棟札あり

(※聖観音安置の記述は七崎神社所蔵の貞享4年[1687]の棟札)

(※重直公奉納の聖観音は令和2年秋に修繕に取り掛かり、令和4年9月に修繕終了・安置/現在は本七崎観音[もとなさらきかんのん・七崎観音ご本体の意]として祀られる)

 

其文に

【棟札(当山所蔵)の文言は省略します】

(※明暦元年[1655]の観音堂並十二末社再興棟札)

(※明暦元年再興の観音堂は三間四方)

とあれは証とすへし

 

又遙后の物なれとも

封 奉寄附七崎山聖観世音菩薩

右に安永四乙未年(1775)

左に四月七日

別当善行院と■付し灯籠あり

 

旧神官小泉重太夫か祖

初代 泉蔵坊と云るもの

元禄中(1688〜1704)

別当職となり

大学院 正学院 正室院等あり

 

十一代大学院

明治四年正月復飾し神職となり

小泉一学と改め

子 重大夫嗣

同六年免す

 

同 白石守か祖

初代 明正院 承応中(1652〜1655)

別当となり后

行学院 善正院 善光院 善行院

善覚院 善教院 善道院 善明院等あり

 

十五代の裔

善行院 明治四年正月

神職に転じて白石守と改め

同六年免せらる

 

祠官兼勤五戸村稲荷神社新田登

 

寺院

普賢院

支村永福寺の西端にありて

旧観音堂の別当なり

 

大和国

式上郡長門寺小池坊末寺真言宗

宝照山と号す

 

建仁中(1201〜1203)の

建立の由伝れとも

往年火災に罹て記録を失し

詳悉ならす

寛保元年(1741)辛酉十一月

快伝と云る僧の中興なりと云り

※寛保元年十一月は快伝(傳)上人の没年月。

※普賢院開基は承安元年(1171)。

※ここでいう「開基」は再興や復興の意味。

※建仁中は開基・行海上人の没年と思われる。

※江戸期の過去帳には行海上人は中興開山とされている。

※当山開創の圓鏡上人は弘仁8年(817)5月15日に示寂。

※火災は文化7年(1811)。

 

本堂

東西六間南北七間

本尊は愛染明王 東向

※実際は東西六間南北八間(文化8年[1811]建立)

※文化7年(1810)以前は八間×七間

 

廊下

一間半に一間

本堂に続く

 

庫裡

東西五間半

南北三間半

本堂北にあり

※享保18年(1733)快傳上人が建立。

※快傳上人は庫裡建立の際、観音山(旧観音堂[現在の七崎神社]のある山)に2000本余り杉を植えたと棟札に記載。

 

【以下、省略】

 

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※上の俯瞰図をもとにした再現イメージ

〈引用文献〉

青森県文化財保護協会

昭和41(1966)年

『新撰陸奥国誌』第五巻

(みちのく双書第19集)

pp.22-30。


③「七嵜山 普賢院」刻字の御影板木(年代不詳)

※「嵜」は「崎」の異体字。

※七崎山の山号は、徳楽寺(七崎観音堂の寺号)の山号であると考えられていたが、普賢院にも用いられていたことを示すとても貴重な史料。


④ 寛文10年(1670)の吊り灯籠

以下の刻字あり。

金燈籠所願成就所

奉懸奥州南部三戸郡之内

七﨑村観音御宝前

願主 槻茂左衛門尉 藤原清継

寛文十庚戊(1670年)月日

※本坊・永福寺住職が宥鏡上人の時期。宥鏡上人は奈良の総本山長谷寺より住職に迎えられた。盛岡城の時鐘の銘文を仰せ付けられたり、二戸の天台寺の桂泉観音堂と末社の棟札も記した住職。当山所蔵のものでは明暦2年(1656)の観音堂並十二末社再興棟札(南部重直公が大旦那/重直公は明暦元年[1655]に本七崎観音像[この呼称は現在秘仏として祀られる七崎観音像と区別するために用いているもの]を奉納)を作成。宥鏡上人は慶安4年(1651)三代将軍家光公逝去の際、日光東照宮での供養に召し出された。普賢院と同じく、江戸期に自坊とされた旧地のひとつ嶺松院(現在は廃寺/三戸の早稲田観音は札所として継続)は寛永17年(1640)3月に火災に見舞われたが、宥鏡上人が再興。火災つながりでいうと、宥鏡上人の晩年である延宝8年(1680)、本坊・永福寺が焼尽。それをうけ、仏像や仏典を東の岡の地中に埋めて歓喜天を建立し、同所を住職ほか有縁住職・所化の境内墓地とし、さらに十和田湖世龍大権現を勧請して祀った。なお、過去帳には宥鏡上人が「當南部八木橋茂彌出産」と記載されている。

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⑤天保8年(1837)の吊り灯篭

以下の刻字あり。

奉納七﨑山観世音菩薩

諸願成就 皆令満足

永福寺権僧正 宥威 敬白

天保八歳次丁酉(1837年)

春正月摩訶吉祥日

※永福寺57世・宥威上人が亡くなる2年前に奉納したもの。当山過去帳には本坊住職、関係寺院住職も記されるが、宥威上人は本坊住職として記された最後の住職。権僧正は僧階(僧侶の位の意)。

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▼宥威僧正

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⑥吉田初三郎「十和田湖鳥瞰図」

※永福寺(現在の普賢院)と七崎神社名称がある。

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⑦ 『寺社記録』の記事より

※一部筆者による註あり。

《安永8年(1779)》

九月十二日

一 永福寺

預五戸七崎村観音堂並二王門

共ニ先代住(永福寺52世・宥恕)

宝暦十三年(1763)

委細之申上

萱葺(かやぶき)修繕等仕候所

其後両度大地震ニて

本堂二王門共ニ

屋根以外之他損

猶又取繕仕置候得共

次第内通えも朽入

別て二王門等

夏中大雨之節

屋根一向相潰(あいつぶれ)

両所ともニ最速

其侭(そのまま)に

可致置様無之躰ニ御座候間

当年より来春迄

如何様ニも修復仕度念願御座候

※両度大地震:明和5年(1768)9月8日と明和6年(1769)7月12日に八戸は大地震に見舞われている。明和年間には津軽でも雪の時季に大地震があり、甚大な被害を被っている。

 

《安永9年(1780)》

二月三日

一 永福寺

五戸御代官所

七崎村観音堂並二王門

慶安四年(1651)

山城守様(南部重直)御建立

其の後元禄年中(1688-1704)

当寺先住 清珊(永福寺36世)代

再興修理等仕

宝暦十三年(1763)

先住宥恕(永福寺52世)委細之儀申上

萱葺(かやぶき)修復

末社迄再興仕候処

右本堂並仁王門

明和年中(1764-1772)大地震之節

殊之外まかり出来

屋根共相損

段々取繕候得共

弥増大大破罷(まかる)成

※明和年中大地震:明和5年(1768)9月8日と明和6年(1769)7月12日のことと思われる。


⑧『御領分社堂』(宝暦13年[1763])

寺院持社堂 五戸御代官所七崎

一 観音堂 四間四面萱葺(かやぶき)

古来縁起不相知

萬治元年(1658)重直公御再興被遊

貞享四年(1687)重信公御再興被遊候

何(いずれ)も棟札(むなふだ)有

 

一 大日堂

一 不動堂

一 愛染堂

一 大黒天社

一 毘沙門堂

一 薬師堂

一 虚空蔵堂

一 天神社

一 明神社

一 稲荷社

一 白山社

右十一社堂は観音堂御造営之節

依御立願何も御再興被遊候

小社之事故棟札も無之

只今大破社地斗に罷成候

一 月山堂 壱間四面板ふき

 

一 観音堂 右ニ同

右両社共に観音堂御造営之節

重直公御再興也

 

善行院(ぜんぎょういん)

当圓坊(とうえんぼう)

覚圓坊(かくえんぼう)

覚善坊(かくぜんぼう)

右四人之修験は本山派にて

拙寺(永福寺)知行所所附之者共御座候

古来より拙寺(永福寺)拝地之内

三石宛(ずつ)遣置

掃除法楽為致置候

※本山派は天台系修験を指す。真言系修験を当山派というが、本山派に比して「免許皆伝」の敷居が高い。当地の七崎修験者は、門戸が広い本山派にて資格を得てはいるものの、当地では七崎観音別当寺たる当山住職に伝授を受けている。各種修法について伝授を行い、次第を授与していたことが、当山所蔵の次第類より窺われる。

※掃除法楽為致置候:七崎修験者は日常的に掃除・お供え・朝暮勤行など、環境維持に奉仕していた世話人でもあった。

 


⑨『目録』(明治36年[1900])より

仏像ノ部

一 正観世音大士木像 一躯

一 仁王木像 ニ躯

一 禅林地蔵大士木像 一躯

一 無二地蔵大士木像 一躯

一 護讃地蔵大士木像 一躯

一 延命地蔵大士木像 一躯

※1寸8分の仏像

一 弘法大師木像 一躯

一 木像 一躯 十二童子ノ一

※5寸の小さな仏像

一 十一面観音金像 一躯

※現在行方不明。

【以下、八体仏(はったいぶつ)を指します。

十二支守護尊とも呼ばれます。】

一 普賢菩薩木像

一 大日如来 仝(木像)

一 不動明王 仝(木像)

一 文殊菩薩 仝(木像)

一 千手観世音 仝(木像)

一 勢至菩薩 仝(木像)

一 阿弥陀如来 仝(木像)

一 虚空蔵菩薩 仝(木像)

※当史料は、旧七崎観音堂(明治に七崎神社に改められた)から普賢院に移された仏像について記している。

 


⑩『伺』(明治10年[1877])

当七崎村郷社七崎神社

曩日仏体正観音混一七崎山観音社号二付

衆庶参拝罷在昔時

文化六年當時第九大區三小區

新井田村盛元太郎曽祖父半兵衛代

梵鐘壱鳴寄附有之候処

御維新来各社寺

一般神佛混淆不相成旨

御達二付

過ル明治二己巳年

右正観音佛体外附属之什器

并梵鐘共該社ヨリ

當村真言宗普賢院へ

一旦移置候処

従来近郷人民信仰之霊佛二付

衆庶旧慣ヲ不脱

猶受持旧神宦ヲ訪来

空殿ヲ参拝スルノ族モ

間々有之二付

更二永続方法ノ目途相立可成

丈ケハ小堂ナリトモ建立仕度義

村方一同志願二付

其際旧神宦神殿江移転

人民信仰二任セ

参拝為致居候処

昨九年十二月

教部省第三拾七号御達之趣モ有之

素ヨリ佛体二候得共

当院へ再ビ移転

什器共悉皆可引渡ハ勿論二候所

前顕梵鐘寄附人私有之訳ヲ以

今般取戻之義掛合有之

殆ド困迫之次第

尤廃社等二至テハ寄附什器

本人随意取戻之義可有之候得共

既二神佛区分右佛体

現今普賢院二存在候上ハ

概シテ廃社寺与

同視スベカラザル様有之

且本人情願二依リ寄附候者

今更無用ノ贄物抔申唱候義

如何与存候得共

元ヨリ私共二於テ

其可否討論可致ノ権理無之二付

無余儀次第与思考仕候得共

従来正観音江寄附之鏡故当院へ

備置仕度

且つ当院境内之義ハ村中中央土地髙壟

鐘堂建築適当之地二付

自今報時鐘二仕候得共

昼夜旦暮之時報ヲ耳二シ

各自農民臥起之教戒ハ勿論

臨時之為成丈ケ

取戻等無之様

再三先方ヘ示談二及び候得共

兎角承諾無之

依之右等共一般寄附人二付

自侭二取戻之権理可有之哉

且つ弥取戻候節ハ

右梵鐘寄附之際

村方人夫二付

鮫村より運搬仕候二付

其入費并右二関諸入費

悉皆本人より償却為到候義

如何可有之哉

此段共奉伺候条何分之御指令

奉希望候

以上

 

明治十年六月七日

第八大区三小区七崎村

旧社人惣代 嶋森亀之助 印

同旧神宦 白石守 印

同普賢院住職 佐藤法隆 印

同総代 久保杉嘉藤治 印

同村用係 橋本岩松 印

 

青森県令 山田秀典殿


⑪明治以降に関する画像資料など

▼遷座について

▼明治以降の七崎観音堂再興

▼普賢院の困難期

▼旧七崎観音堂の本・現両七崎観音の配置

▼明治〜昭和後期の配置

▼本・現両七崎観音について(動画)


⑫『興隆講』趣意書(明治34年[1902])

恭しく按ずるに

我邦人皇三十四代推古天皇

篤く三宝を敬い

其往昔大聖仏世尊輪王の

宝位を脱履し

世間出世間の大医王となり給い

諸の国王の為に

仁王般若仏母明王不空羂索経等を

説き給い

七難を摧破して四時を調和し

国家を守護して

自他を安ずるの大法

ひとつも欠漏あることなし。

 

降て

天長年間(824-834)に至り

当七崎山蘭若においても

金剛頂経大日経等

最上乗甚深の秘法を行えり。

※七崎観音堂の起源について①「基礎資料」の説明を引用:承和元年[834]1月7日、八太郎で漁師として暮らしていた京都の四条中納言・藤原諸江卿が観音夢告により、当地に観音様を遷して祀り、それが七崎観音の始まりという由緒譚アリ/坂上田村麻呂将軍[758〜811]が祀ったという話や、諸江卿の娘である七崎姫を七崎観音として祀ったという話が由緒譚としてあるが、実際の経緯については不明[南祖坊を諸江卿の子息とする伝えもある]/大正15年[1926]の『郷社七崎神社誌』では「坂上田村麻呂将軍が当地に来たことは史実」としているが、田村将軍の研究を踏まえると「史実」というのは難しい。

 

爾来

円鏡(当山開創開山(弘仁初期[810]頃))

月法(当山二世、南祖坊の師)

行法

行海(当山開基開山(承安元年[1171])

宥鏡

快傅(当山中興開山[江戸中期])

達円

快翁

宥敞

宥青等

凡そ八拾有ニ世の間

領主の祈願道場たり。

 

殊には南部二十八代

源朝臣重直公

深く正観世音を信仰し

かたじけなくも

御高五百五石五斗三合の

知行を喜捨せられ

加うるに十二社人を置き

毎月神楽を奏し奉りしは

ひろく世人の知る所なり。

 

然るに維新に際し

封建の制を廃せられ

版籍悉く返上の結果

遂に之が保続の資を失い

従って神楽も絶亡すること

ここに三十三年を経ぬ。

 

嗚呼、世の移り行くは

人力の得て止むべからざるもの

とはいいながら

かく伝来の霊位を

寺院の一隅に奉置し

絶えて法楽の道を

欠きしこと畏くも亦憂たてけれ。

 

ここを以て

郷人の愁歎限りなく

涙を止むるに由なし。

 

先師宥浄

しばしばこれを忌歎し

再興を企つといえもの

時機未だ熟せず

わずかに院内に小堂を営み

霊位を安置せしのみにて

遂に去る戊戌(明治31年[1898])

卯月九日を以て遷化す。

 

月を越えて小童

過て重任をこうむり

庚子(明治33年[1900])

臘月に至り若干の法器を整い

檀徒総代と謀りて旧社人を集め

之が再興の方法を議し

講を設けて興隆講と称し

明る辛丑(明治34年[1901])

正月二十八日を初会とし

神楽に替うるに

本尊護摩を修し奉り

宝祚無疆

玉体安穏

十善徳化

四海静謐

風雨順時

五穀豊穣

疫病退散

正法興隆を

精祈せんと欲す。

 

伏してこう

十方善男女諸氏

この機に乗じて

生等の徴志を賛し

三宝を帰依し

入講の栄を賜い

益々本尊の威光を増揚し

一指まちまちなる信仰を列ね

五指堅固にして遮那覚王の

金挙に擬し

以て彼の迷邪を破壊し

正法に導き

貴賤を問わず

男女を論ぜず

同体大悲を旨として

大徹悟入の床に遊び

ともに補陀落の浄刹に至り

一切の功徳を具足し

二世の勝益祈られんことを。

 

明治三十四年(1901)陰暦正月

金剛仏子 隆真

敬白

※凡そ八拾有ニ世の間:現在の住職代数と異なる数え方。現在の方式では泰峻住職は65代だが、旧来の方式だと92代となる。伝え聞く所によれば(現行代数)60世にあたる宥精師が自身を60世とするとの方針を示されたため、変更されたという。しかし、宥精師は時代的背景により地元からの擁立を余儀なくされた中で白羽の矢が立てられた方ゆえ、このような決断を本当に下すことが出来たのか疑問である。宥精師自身による判断というより、本山や関係寺院、あるいは有識者のアドバイスを踏まえてのことと考えるか、あるいは後代の傑僧である長峻師による判断によるものと考えた方が現実的であると思われる。


⑬『七崎観世音道場普請報告書』序文(表白)より一部抜粋

明治初年神仏分離の結果

今の神社に奉安されし観世音は

当然の帰結として当普賢院道場へ

付属三宝物と共に

遷座されるに至れり。

 

爾来六十有余年の間

当道場の一隅に安置して

先師宥浄をはじめ宥精師等は

往時の隆盛を偲んで

之が復興を念願たりしが

嗚呼悲哉

機縁未だ熟せずして涙を呑みて

世を去られたり。

 

其後

小衲不思議の縁を以て

大正六年の春

任に当院に就きたりしが

思えば同じ大悲観音

法儀復興にてありき。


⑭北沼観音台座の記述

昭和二年八月十一日発見につき建設

発起人

小田 山道留之助

 

七崎

品田長峻 中村巳之松 小泉善太

田中長一 中村甚エ門 嶋森丑松

久保杉卯之 小泉長太 田中弘戒

永田竹松 田村次郎 中村弥吉

坂本徳松 中村金松 夏堀市太郎

夏堀福次郎 田中石松 小泉大八

 

昭和四年末旧八月十七日 建立

 

細工人 小田 仲道千之助

手伝人

日斗 早狩操

小田 川村清次郎

▼北沼観音に関する動画