紐解き七崎観音⑨

さまざまな尊格について語り

お寺について語り

お寺の本尊の霊験や

巡礼や修行などの功徳など

アラカルトなものを

広く巧みに語った方々が

全国各地に存在しました。

 

時代により

その様相は異なりますが

仏教伝来以前にもまた

巫術に通じる方が

“聖なる言葉”を

述べていたらしいことが

古い史料は伝えています。

 

七崎観音についてもまた

「語り」を担った方が

いたということを

今回のテーマとして

述べてみたいと思います。

 

高野聖

念仏聖

勧進聖

修験者

行者

山伏

などといった言葉は

誰もが聞いたことがあると思います。

 

当地における資料を管見すると

山伏や修験者といった言葉が

好んで用いられているものの

無警戒かつ広義的に

使用されているような感が

あるように思います。

 

このことは

真言宗や天台宗といった

用語についても同様で

専門的な観点からすると

違和感ある宗派感覚で以て

片付けられてしまっている

印象があります。

 

現在でいうところの宗派は

実はかなり現代的なものであり

江戸期であっても

表の法流(行政上のもの)と

実際の中心的な法流が

異っているという場合もあるのです。

 

横のつながりや交流も盛んゆえ

諸宗諸派の交流を通じた研鑽・修行は

珍しくないわけで

在地の山伏や行者や聖といった方は

もっと習合的様相があったということが

出来るので

どのような意味を託して

用語を用いているのかについて

定義するなり含みを持たせる

一手間が必要だと思います。

 

僧侶と一言でいっても

正式な得度ではない形で

沙門となった私度僧という

あり方もありますし

私度僧を修験者や山伏に

含めて表現することもありますし

歴史があってバリエーションもある

用語の使用というものは

とてもデリケートなことだと感じます。

 

七崎観音ほか

当山には十和田湖南祖坊伝説など

いくつか語り継がれるものがありますが

それら諸縁起・伝承・伝説を

受容する社会側からの検討が大部分で

それを主導した仏教者側の

思想的背景や意図などに

焦点を当てた検討は

ほとんど見られません。

 

これは当シリーズでも

何度か触れている点ですが

日本的な仏教的文脈にて語られ

共有されてきたと思われるものゆえ

仏教学的アプローチは

とても有効的であると確信します。

 

そういう課題意識を

抱いていることを

明言させていただいたうえで

本シリーズでは先に触れた

諸聖や山伏や修験者や私度僧などを

ヒジリと表現させていただきます。

 

漢字の聖ですと

尊い僧侶を意味することもあるので

カタカナでヒジリと

表記させていただき

広義的意味で用いたいと思います。

 

当地では現在

修験者という言葉が

山伏という言葉と区別なく

用いられている印象がありますが

諸国を遊行する山林修行者のうち

特に祈祷に効験ありとされたものが

修験者と称され

人々に支持されたわけなので

行状の程度等を無視して

用いてしまうと

限定的理解を招きかねないと思うのです。

 

山林修行の歴史はかなり古いとされ

近年では古代仏教の研究の成果により

かなり重層的なあり方であったことが

解き明かされてきました。

 

奈良時代になると

日本では山林修行に励む

仏教者が顕著となり

それは大乗仏教的菩薩行の一環として

実践されており

修行者は自利利他の二利を志向した

幅広い活動を行い

それは広く社会に及んでいたとされます。

 

当山の開創開山は

1200年以上さかのぼる

延暦弘仁年間(782〜824)に

圓鏡上人によるとされ

七崎観音のご出現もまた同等に遡る

天長元年(824)とされ

当地遷座は承和元年(834)とされ

時代区分でいうと平安初期にあたります。

 

古代仏教についての

先学の膨大な研究成果の力も借りながら

当山の諸縁起について検討することは

有意義であることは言うまでもないですし

当山当地の次代の方々に

竪横な手法のあり方を

示唆することにもつながると思います。

 

話が専門的になりつつあるので本稿は

語りの一端を担い

その拡散に一役かったのは

ヒジリたちだったとして

結ばせていただきます。

 

おこもりの記事が新聞に掲載されました

2月26日に行われた

七崎観音おこもり護摩法要の記事が

本日のデーリー東北に掲載されました。

 

八戸は曹洞宗と浄土宗の寺院が多い地域で

八戸仏教会に所属する41ヶ寺のうち

真言宗は3ヶ寺だけ(いずれも豊山派)です。

 

そのためか

真言宗の法式や声明(節つきのお経)は

初見の方には印象深いようです。

 

他宗に比べて

真言宗の際立った特徴をあげるとすれば

三密行法(さんみつぎょうほう)だと思います。

 

独特の声明もさることながら

身・口・意(印・真言・観想)の

作法を重んじる三密行法は

とても奥深いものです。

 

というやや専門的なお話は

とめどなく続いてしまうので

今回はやめておきます。

 

デーリー東北を

とっていらっしゃる方は

ぜひご一読くださいませ。

 

紐解き七崎観音⑧

観音菩薩

地蔵菩薩

不動明王

という尊格は

宗派などの枠組みにとらわれず

庶民にて大切にされ

抜群の支持を得ていたと

いうことが出来ると思います。

 

専門的な仏師ではなく

在地にて作仏された仏像を

民間仏(みんかんぶつ)と

称することがあります。

 

民間仏は

儀軌や経典に提示される姿ではなく

素朴な祈りの心を種として

僧侶・山伏・信者その他の在地の人の手で

つくられたものです。

 

素朴な祈りの心は

教理仏教とか哲学といったものとは

全く無関係ではないでしょうが

違う次元のもので

自然に湧き起こるような

願いや思いのことを指しています。

 

日本への仏教伝来の時期には

伝統的に二説(538年と552年)ありますが

日本書紀の記述を見ますと

伝来間もない頃は

各仏像についても

没個性的で未分化した認識のようで

とにかく現世利益的に

祈ったらしいことが記されています。

 

日本書紀の記述内容は

歴史的史実でないにせよ

当時の認識を

窺い知ることができ

これも素朴な祈りのあり方だと

いえると思うのです。

 

浄土信仰といわれる

祈りのムーブメントがあるのですが

この信仰の日本的展開を捉えるには

弥勒菩薩と兜率往生

阿弥陀如来と極楽往生

観音菩薩と補陀落往生など

時代時代に主流が転じたことを

おさえる必要があります。

 

天平時代の終わり頃までは

弥勒菩薩の信仰が

阿弥陀如来の信仰を

はるかに凌いでいたことを

ご存知でしょうか?

 

また

阿弥陀信仰が

表立って支持された時代においても

弥勒信仰は並立していることが

伺われますし

観音信仰もまた対立するものではなく

支持され尊ばれていました。

 

普賢院には

十和田湖の龍神になったとされる

南祖法師の伝説が伝えられますが

その様々な筋書きには

いま見ているような

並立する諸要素を

汲み取ることが可能で

この伝説についても

本シリーズで試みているように

伝説を通じて多様なモノを

あれこれと伝えられ

さらには生きるうえの糧となるような

メッセージに重なるようなモノを

お伝え出来るような形を目指したいと

かねてより考えております。

 

十和田湖伝説は最近では

観音信仰と結びつけて

捉えられている感がありますが

それは一面であって

弥勒信仰が色濃く

反映されていることは

別シリーズで別の機会に

ご紹介いたします。

 

ここまでが前置きなのですが

七崎観音にまつわる諸事ついても

観音信仰としてのみ

捉えようとすることが難しい

ということをお伝えしたかったのです。

 

そこには様々な要素が

豊かに織り交ぜられていて

生きた祈りがあって

切実な願いがあって

さらには様々な事情が影響して

語り継がれてきたものとして

縁起などと向き合うことが

有意義な姿勢であると思います。

 

現在に伝わるものが

そのままの形で

古来から継承されているとは

思えませんが

時代時代の激動を遡って

いささか想像に挑むことは

ある程度可能かもと考えています。

 

それとは別に

ほかの観音譚や説話を頼りに

観音菩薩のエピソードをもとに

カスタマイズを行い

七崎観音霊験譚として

新たな形に創作してみるのも

よい方法のようにも感じています。

 

七崎観音の由緒云々については

考察や検討することで

何らかの最適解みたいなものが

導き出されるわけではありませんが

全国各所に伝わる観音霊験譚をもとにして

観音菩薩にまつわるエピソードを

伝統的な構成により創作してみるのは

オンリーワンの素敵な

プロジェクトになるように思います。

 

七崎観音についての

縁起や由緒について

これまでも何らかの機会に

時代的背景・価値観が

多分に反映された形で

文書として編集されてきたと

思われます。

 

弘法大師御遠忌といった

祖師方の節目や

塔堂建立・仏像造立などの節目に

寺院や諸仏の

縁起・由緒が見直されて

新たに共有されるということは

何度も繰り返されることです。

 

当山の各種記念誌や

講演史料や寺報などの刊行で

七崎観音について述べることが

幾度もありますが

七崎観音について

以前まとめられたものの一例として

大正6年(1917)に編集された

『郷社七崎神社誌』(小泉幸雄著)が

あげられます。

 

かつて七崎観音堂は

現在の当山より南方に位置する

七崎山または観音山と称される

山にありましたが

明治になり旧七崎観音堂は廃止となり

当山の境内地から切り離され

その地は七崎神社に改められました。

 

小泉幸雄(旧修験家の神宦)の

『郷社 七崎神社誌』は

明治元年(1868)から49年も経った

大正6年に完成したものなので

その内容を紐解くには

ピンポイントな

時代背景はもちろんのこと

明治への転換期のことも

注意深く踏まえる必要があります。

 

明治以後から昭和の戦中にかけ

神社の行政的位置づけが

段階的に変容するので

この点についても

把握しておく必要があると思います。

 

明治に改まって

それほど経過していないうちの

当地の記録として

紐解き七崎観音①資料1

『新撰陸奥国志』(明治9年[1876])

に記述があり

さらにここでは

明治仕様となった縁起について

語った地元の方に対する

筆記者の意見が垣間見られる箇所もあります。

 

行政的な神仏の線引きが図られた明治時代。

 

各種併存し習合していた

素朴な祈りの心が

「上からの改革」により

あるがままではなくなり

手直しされた新たな縁起を

用意することになりました。

 

明治になって

スイッチのオン・オフのように

神仏分離が図られたわけではなく

完全に神社として分離されるまでには

時間がかかったことが

史料からうかがえますし

当時の住職や旧修験家や総代はじめ

地元の方々が段階を設けて

重大な案件に向き合ったことが

うかがわれます。

 

今回は

素朴な祈りの心には

諸要素が豊かに含まれていることに

触れながら述べてみました。

 

素朴な祈りの心は

時代によって異なるとは思いますが

誰にでもある心だと思います。

 

七崎観音は

額部33観音霊場第15番札所の観音様ですが

この霊場が成立した背景や

巡礼が重ねられた背景にもまた

生きた祈りの心があり

さらに先達を務めたであろう

山伏や信者などの中には

切実な背景を背負った方も

多かったと想像されます。

 

次回は

七崎観音に仕えたうえ

教導にも関わった方々にも触れながら

あれこれと紹介してみたいと思います。

 

つづく

 

紐解き七崎観音⑦

七崎観音縁起ほか

当地に伝わるお話には

藤原諸江という人物が

しばしば登場します。

 

近世の文書では

この諸江卿は荒神として

祀られていたらしいことが

報告されています。

 

なお当山には

旧修験家に預けていて

返還されたと思われる

仏教的な荒神の鋳像が

数体残されているので

諸江卿としてだけでなく

荒神は三宝荒神としても

祀られていたものと

推測しています。

 

民間信仰や庶民信仰と

表現されるような

身近で日常的な祈りのあり方は

各種併修・併存したのであり

理論と実践

教義と実際は

別物であると考えます。

 

そうとはいっても

教相・事相(専門的な教義や作法など)を

軽んじるつもりはありませんし

むしろそれらを踏まえなければ

身近なものとして

捉えられていたであろうものを

浮かび上がらせることは難しいと

常々思っています。

 

荒神の話に戻りますが

民俗学のある説では

古いお墓であったり

地域の始祖が祀られたものを

荒神と呼ぶことがあり

きちんと崇め祀らなければ

荒ぶる神となり

災がもたされるという

古くからの観念が想定されています。

 

そういった観念は

荒神だけではなく

民衆的なものも含めて

多くの神仏に通じていたのです。

 

藤原の家筋を

祖先とするお家が

当地に今も残ります。

 

藤原家を出自とし

“大人の事情”により

都から当地に流罪に処されたという筋書きは

尊格縁起だけでなく

祖先縁起としても採用されていることは

注目すべきことと思います。

 

祖先縁起という点では

七崎観音を引き揚げたとされる一人

坂上田村麻呂公についても同様であり

公に由来するとされる家もまた

当地にもあります。

 

系譜は

今も重んじられていると思いますが

かつては今の比ではなく

重んじられたものです。

 

この点も踏まえて

七崎観音縁起を検討することは

語り継がれてきたものの

背後にあるであろうものへ

接近しうる方法といえるでしょう。

 

系譜は連なりです。

 

何の連なりであるかにより

名称も趣旨も異なると思いますが

仏道でも法流・血脈という

系譜が重要視されます。

 

法流は師子相承の流れであり

伝授の証として印信が授与されます。

血脈は葬儀の際の引導でも用いられるため

一般にも知られていると思いますが

引導作法における血脈は

「仏へ連なる法流の系譜」といえます。

 

ちょっと違った観点から

系譜の意義について考えてみましょう。

 

現代は

スマホやカメラで撮影することができ

気軽に記録を残すことが出来ます。

 

写真技術は幕末の日本に伝えられ

明治以降徐々に社会に受容され

今では身近なものとなりました。

 

今生では

会ったことのない

自身の血縁者の容姿を

写真で拝見することが出来ますし

動画記録があるならば

映像を通じて認知することが可能です。

 

目視可能な状態で

自身の血縁者の先人と向き合うことが出来

その方が生きた時代についても

多くの視聴資料に触れやすいので

ある程度具体的に思い描きやすいと思います。

 

このような状態であれば

自身の家の血縁の系譜についても

字面だけのものとしてではなく

実感をもって血縁を感じることが出来ます。

 

現代的な系譜の実感は

とても具体的なのです。

 

当山は真言宗豊山派なので

ついでに真言宗の血脈についても

紹介したいと思います。

 

現代的な系譜の実感は

とても具体的であることの話ついでですが

真言宗において系譜(法流)が

非常に重んじられていることは

本堂の荘厳から明らかです。

 

本堂には八祖図あるいは八祖像を

祀る習わしとなっています

(本山や本寺格では、十祖が祀られることが多い)。

 

ちなみに

荘厳具としての八祖と

作法における八祖は区別されており

前者を「伝持の八祖」

後者を「付法の八祖」といいます。

 

水が瓶から瓶へ

もれなく移し来たった如く

連綿と法が継承されてきたことを

八祖は意味します。

 

八祖にはインド、中国の高僧の名が連ねられ

第八祖に弘法大師が連なります。

 

八祖以後も連綿と法が継承され

師子相乗が重ねられ

今に至っていることを考えると

とてもスケールの大きいことだと感じます。

 

当山ではお弔いでの引導作法では

(付法の)八祖から始まり

以後の高僧方が代々継承され

現在の住職に至る法流に

故人を連ねた血脈をお授けして

棺内に納めさせていただいております。

 

現代的な系譜の時間は

テクノロジーにより支えられたものです。

 

テクノロジーにより

その時々の様子が写し取られ

記録されることが可能になりました。

 

それでは話を本筋に戻し

大テーマである七崎観音縁起について

先に触れた諸家の系譜云々の再考から

述べてみたいと思います。

 

日本に限らず系譜の祖に

血縁者ではなく「仮託された人物」が

据えられることは珍しくありません。

 

尊格であったり鬼であったりが

「祖先」と位置付けられる場合があります。

 

現代的系譜が

現実的共有に重きがあるとすれば

“テクノロジー以前”の系譜のあり方は

精神的共有に重きがあるといえます。

 

精神的というのは

現代でいうスピリチュアルも含むし

信仰ということも含みます。

 

とすれば

血縁の系譜は祈りに関わるものであり

誉であったり

心の安寧にも

つながりうるものといえます。

 

荒神はじめ

様々な祭祀の実施は

“荒ぶる神仏”を鎮めるとともに

恩恵を願うものだったといえます。

 

藤原の血統とされる

当地のお家には

かつて修験家であった

お家もあります。

 

当地の七崎修験は

七崎観音に仕える方々であったともいえ

それを踏まえると

当地のお話にチラホラ登場する

藤原諸江卿の意味が

うっすら見えてこないでしょうか?

 

流刑に処され

悲運をたどらされた

京都からの貴人のお話は

近隣地域でも聞かれます。

 

その意図するところは

幾通りにも考えられるでしょうが

系譜を尊び

氏神や祖先と位置付けられた

「先祖」を慈しみ敬い

天災・飢饉・疫病が招かれることを厭い

風雨順次・五穀豊穣・萬民豊楽が

願われていたことを

藤原諸江卿のお話や

その娘ともされる七崎姫のお話などは

垣間見せていると思います。

 

御霊会などと絡めながら

お浜入りの行事や

七崎観音縁起について

検討するつもりでしたが

予定とは少し別のお話と

なってしまいました。

 

全く関係ないお話ではないのですが

とても大切なことと思いますので

ご容赦いただければと思います。

 

つづく

 

紐解き七崎観音⑥

七崎観音の縁起・由来の諸譚について

死生観を背景とする供養習俗の事例や

蓄積されている先学の研究を手がかりに

再検討を重ねているわけですが

供養のために観音菩薩が造立された

というそもそもの部分が

見えてまいりました。

 

七崎観音が祀られるお堂を

七崎観音堂といいます。

 

七崎観音堂は現在

普賢院本堂の内御堂として

おそらく(いや間違いなく)

七崎観音堂史上

もっとも荘厳な空間となっています。

 

現在の七崎観音堂には

とても多くの仏像が祀られますが

特定の個人の供養が志向されて

造立・奉納されたものも見られます。

 

供養のため以外の

仏像造立契機としては

宗祖弘法大師御遠忌や

塔堂造立の節目にあたってであったり

天変地異などの際であったり

何かしらの願目が捧げされ

霊験ありとしての御礼としての実施などが

主にあげられます。

 

供養のための仏像の作仏について

当山にて祭祀される仏像のうち

千手観音坐像を一例として

もう少し紹介させていただきます。

 

現在の七崎観音堂

向かって右側の脇堂

最上段中央の厨子に納められている

千手観音坐像は

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下学秀)

という田子町出身の禅僧が

作仏されたものです。

 

学秀については当ブログにて

青森の円空 奇峯学秀

というシリーズで紹介してますし

折に触れて紹介しております。

 

記事カテゴリーとして

青森の円空 奇峯学秀

を設けているので

記事数が多いのですが

詳しくはそちらをご参照ください。

 

ここでは便宜的に

一部画像資料を以下に添付します。

 

資料①学秀と千手観音坐像について(2021/2/8ブログ掲載)

 

資料②千手観音坐像について(2021/2/8ブログ掲載)

 

資料③七崎観音と千手観音坐像(2021/2/8ブログ掲載)

※資料中、本七崎観音は修繕中とありますが、現在は修繕が終わり安置されています。

 

資料④千手観音坐像が奉納された時期の住職に関して(2021/2/8ブログ掲載)

 

円空が作仏した円空仏については

紐解き七崎観音④でも

若干触れましたが

死者供養のために作られ

菩提のため海に放たれたと

考えられる事例があります。

 

参考までにですが

広く事例にあたれば

水に関する供養のあり方は

海だけでなく川や湖などでも

行われていたことが確認されますし

流水灌頂という作法に

代表されるように

仏道における作法としても

今に伝えられるものがあります。

 

この点も

後々の考察において

関わってくるので

今の所は深入りせずに

次に進ませていただきます。

 

学秀の作った仏像も

素朴で簡素な作りをしており

円空仏を彷彿とさせることもあり

地元では学秀仏といわれます。

 

資料にもある通り

学秀は供養のための浄行として

かなり多くの作仏を実施しています。

 

飢饉や戦乱により

多くの命が失われたわけですが

その供養のために

無数の仏像が作仏されたわけです。

 

学秀に関する先行研究は

郷土史家の方や

それに準じる方によるものが中心で

管見する限り

仏教的観点からの本格的分析は

見られません。

 

ただ仏教的観点から

学秀の業績やその周辺について

紐解くのであれば

諸行に込められたであろう

意味合いや背景が

浮かび上がるように思います。

 

それは機会があれば

紐解きに臨んでみたいと思います。

 

供養のために

仏像が造立されることを

当山に祀られる千手観音坐像の

作者である学秀を例に

改めて確認してまいりました。

 

学秀は

飢饉や戦乱といった有事に

見舞われた時代を生きました。

 

世界的ベストセラーとなった

『サピエンス全史』の筆者で

イスラエルの軍事学者である

ユヴァル・ノア・ハラリは

人類が常に向き合ってきた

3つの困難として

疫病・戦争・飢饉

をあげています。

 

今でこそ日本において飢饉は

縁遠イメージがあると思いますが

東北は何度も飢饉に見舞われ

そのインパクトはとてつもなく大きいものでした。

 

飢饉の際は疫病を伴ったり

社会不安が人心を蝕んで

物騒な世の中になってしまったりと

生きた心地がしないような

日々を多くの方が送ったものと想像します。

 

壮絶なリアリティがあり

理不尽とも地獄そのものとも

思われる厳しい現実を

目の当たりにしたからこそ

多くの仏像を作仏するに

至ったものと考えます。

 

ハラリ氏が

三大困難にあげていないものでは

自然災害もまた先人方が

常に向き合ってきた大きな出来事です。

 

地震大国ですし

明確な四季のある日本自然の

時々の猛威などは

歴代無数に発生しています。

 

そのような背景も踏まえると

供養のため鎮魂のため

様々な方法により

祈りを捧げてきたことについて

いかに切実であったかが

見えてくると思います。

 

前回も今回も

供養という言葉だけでなく

鎮魂という言葉も用いていますが

庶民信仰としての行いを紐解くには

「鎮魂」という死生観(もっといえば霊魂観)

が意識された行いについて

検討する必要があると思うためです。

 

日本の多くの神事や祭事は

もともと鎮魂が目的ともいわれます。

 

七崎姫の物語をモチーフにした祭事である

お浜入りについて前回は触れましたが

八太郎の定期的監視という意味だけでなく

七崎姫の鎮魂という意味合いも

あったと思われると述べました。

 

4月7日に行われていたという

時季的なこともあわせてみると

七崎姫の鎮魂に代表せしめ

御霊会(ごりょうえ)に通じる

祈りが捧げられていたと考えます。

 

七崎姫については

短い物語でありながら

そこからアプローチが可能と思われる

要素がたくさんありますし

お浜入りに関しては

深掘りして考えるべきものと思うので

主流となっている縁起譚とともに

丁寧に見ていきたいと思います。

 

つづく

 

紐解き七崎観音⑤

前稿では

海から引き揚げられたとされる

七崎観音縁起の「前段階」についての

検討を試みました(前稿参照)。

 

結果として

死者の供養のために

作られた観音像が海に放たれ

それが白銀で引き揚げられて

当地に遷座されるに至った

という流れを提示いたしました。

 

八戸市白銀は当山と縁深い場所で

白銀の清水川観音(糠部霊場札所)は

かつて当山が管理していた観音堂です。

 

七崎観音の由来については

白銀の浜といういわれの他

八太郎とのいわれもあります。

 

白銀と八太郎は

浜づたいの地域であり

八太郎地区が開発工事される以前は

現在以上に隣接感があったでしょうから

白銀と八太郎あたりに

七崎観音の「出現」が

設定されているという感じで捉えています。

 

参考までにですが

藤原諸江卿が白銀に上陸して

浜をつたって八太郎に着き居を構えて

漁師として暮らしている中

天長元年(824)4月7日に

漁をしていると網に

聖観音がかかったので

祀ったという一説があります。

 

その説では

諸江卿が承和元年(834)1月7日に

夢告にて当地に

その聖観音を祀ったという

筋書きになっております。

 

明治元年(1868・戊辰)の後に

廃止されたお浜入り(御浜出)という祭事は

当地から八太郎の浜まで

御神輿を担ぎ行列をなして

赴くものでした。

 

そのことについては

これまで何度かブログで

紹介しているのですが

当シリーズに関連するものとして

稀代の古刹⑥のリンクを以下に

示しておくので

そちらをご参照ください。

 

稀代の古刹 七崎観音⑥(2019/2/1)

 

八太郎へのお浜入りについて

紐解き七崎観音①掲載の

資料1.『新撰陸奥国志』における

記述を註も含め以下に引用します。

 

四月七日の◻或は昔出現ありし所なりとて

八太郎(九大区一小区)に旅所あり

黒森浜に輿を移し

其時 別当 役々残らす扈従し

氏子百五十人余

その他遠近信仰の従相随ひ

八太郎浜は群参千余人

海上には小艇に乗して

囲繞すること夥し

旅所は黒森にありしか

戊辰後これを廃し

(※現在、本堂前に祀られる北沼観音に関する記述。現在普賢院に祭祀される北沼観音は、八太郎の蓮沼にあったが、昭和39年[1964]に当山に遷座された。北沼観音は七崎姫伝説という物語に関連。七崎姫伝説とは、藤原諸江[もろえ]の娘である七崎姫が、八戸市の八太郎の沼に住む大蛇を命と引き換えに改心させたという物語。その姫を観音様として祀ったのが、七崎観音であるという由緒譚も一説として伝えられる。)

 

明治まで行われていた

お浜入りは

七崎姫伝説の筋書きを

踏まえたものです。

 

七崎姫の出自については

藤原諸江卿の娘という説のほか

七崎の長者の娘という説もあります。

 

八太郎は

義経伝説も伝えられる地域です。

 

引用文より

八太郎が出現した場所であるとして

旅所があったとされていたことが分かります。

 

人々を苦しめていた

八太郎の沼の大蛇を鎮めるため

七崎姫なるお姫様が

人身御供として命を捧げる

“利他行”を実行し

その菩提を弔うために

七崎姫を七崎観音として

お祀りされたという物語が

七崎姫伝説といわれるものの内容です。

 

とても短いエピソードですが

様々に検討出来る要素が

散りばめられています。

 

扱うことが出来る要素を

あげれば切りがないので

後の機会にゆずりますが

供養として観音菩薩が

祀られた点が

何といっても大切だと思います。

 

「七崎姫を七崎観音として祀った」

という文章も深く考えてみると

七崎姫が供養のために

①七崎観音として祀られた

②観音像が七崎に造立・奉納・安置された

と一様でなく読むことが可能です。

 

ちなみにですが

七崎観音別当である当山に対しても

七崎観音の名が用いられるケースもあるので

七崎姫の供養のあり方についても

様々に検討の余地があります。

 

現在当山では

本堂前に鎮座する北沼観音を

七崎姫に有縁の“姫観音”として

お祀りしており

七崎観音として祀られる観音様とは

別の観音様として祀られています。

 

この法式は

以前からのものなので

お浜入りの祭事が行われていた頃も

主なる縁起がありながら

各様の縁起も尊重されていたのではと

想像いたします。

 

拙稿の無理矢理なまとめに

移らせていただきますが

七崎観音縁起とされるお話を

検討してみるに

「供養のために」という切なる動機が

あるらしいということが分かります。

 

お浜入りについて言及される際

七崎姫が身命を賭して

改心・解脱させた大蛇が

再び乱心せぬかを確認すべく

なされたものであるという

説明がされますが

それだけに留まるものではないと

拙僧は考えております。

 

具体的にいうと

七崎姫の供養・鎮魂という

意味合いもあったものと考えています。

 

そもそも祭事の大部分は

鎮魂が志向されるとされます。

 

次回以降

そのことに関連して

供養・鎮魂のための仏像の作仏の

一例を確認してみたいと思います。

 

つづく

 

紐解き七崎観音④

七崎観音が

大海より引き揚げられた

という縁起に着目しつつ

その背景にあると想定される

死生観についても思い巡らすことは

より俯瞰的な検討に

つながるはずです。

 

そんな課題意識を持ちながら

これまで当シリーズを

連載しております。

 

紐解き七崎観音①には

資料を多く掲載していますが

ここで紹介している

七崎観音縁起の類は一部であり

実際はかなりのバリエーションがあります。

 

このような豊かな語りについては

前稿(紐解き七崎観音③)にて

述べさせていただきましたが

行者などの語り部が

歴代多数存在したのであれば

極端な話

その数だけのバリエーションが

あってもおかしくありません。

 

普賢院は

十和田湖伝説の南祖坊として有名な

南祖法師が弟子として修行したと

伝えられますが

その物語についても同様で

興味深く「脚本」され

各地域にてカスタマイズされたものが

確認されます。

 

現代的感覚からすれば

荒唐無稽と思われるかもしれませんが

注意深く多種内容を吟味してみると

発信者の立場によって

重点が異なりますし

果たして同列に括って良いものかと

思わせられるものも見られます。

 

そういったことも含めて

検討してみると

各「語り」が意図しているものが

浮かび上がってくるものもあるのですが

それはまた機会があれば

記してみたいと思います。

 

前稿後半で

「大海から引き揚げられた」ということは

「大海に解き放たれた」ことにも

目を向けてみようみたいな

提案をしたかと思います。

 

観音菩薩と海は

ご縁が深いものとして

捉えられていたということは

既に述べました。

 

もっといえば

その観念というものは

仏教的思想のはるか以前から

あったと推定されるものが

関わっているとされるということも

既に述べております。

 

前稿では水葬について触れましたが

故人を海に放つ行為は

海のかなたの補陀落浄土へ送ることが

志向されております。

 

また生きた者が舟で大海へ出航し

命の限り補陀落浄土を目指すという

捨身行ともいえる行いは

行を通じて浄土へ往くことが

志向されています。

 

観音菩薩の浄土である

補陀落浄土が

海のかなたに想定されているという点は

これまで触れてきた

「海の信仰」を考える

重要な要素となります。

 

古代神話においては

常世(とこよ)と呼ばれるところは

死者が往くところであり

年をとることもなく

まさに幻想的な楽土だと

捉えられていたとされますが

今見てきた浄土の観念が

庶民信仰において常世の

仏教的翻訳として無意識に

受容されたといっても

多くの方が納得出来ると思います。

 

弔いについての話題に触れたので

もう少し同話題を

続けさせていただきます。

 

円空仏は有名かと思います。

 

一説によると

北海道の西海岸に見られる

円空仏のうち蓮華を持ったものは

高野山の二十五菩薩来迎図に着想があり

死者供養のために作られたとされます。

 

また

円空仏が多い同地方では

漂流している仏像を引き揚げ

豊漁を期して祀ったものが見られます。

 

漂流したものが

引き揚げられた例は

他所にも見られるのですが

仏像が死者供養のために流されたもので

それらが引き揚げられて

本尊や神体として

祀られることが多かったと

見られています。

 

死者供養というのは

主に海難者とされます。

 

なぜ

死者供養の仏像を祀るのかというと

豊漁になるという信仰が

あったからだそうです。

 

一部の海岸地域では

漂流する水死者と遭遇した場合

その死者を「エビスさま」と称し

故人を引き揚げることは

大変に縁起の良いことであり

豊漁が約束されるとの信仰がありました。

 

以上のような信仰が

漂流する仏像を引き揚げて

祀るという行いの動機として

ある程度共有されていたと

考えられるわけです。

 

また長くなってしまいましたが

これまで語られてきた

七崎観音縁起は

「海→引き揚げ→当地に遷座」

というものが別当寺としては

採用されております。

 

この大筋について

本稿で見てきた内容を参考に

ふくらませてみると

供養のために作仏した観音像が海に放たれ

それが白銀にて引き揚げられ

当地に遷座された

という流れを提示することが出来ます。

 

引き揚げられた地とされるのは

白銀だけでなく八太郎とのいわれもあり

八太郎に関するエピソードでは

七崎姫というお姫様の供養として

七崎観音が祀られたと伝えられます。

 

提示された「新説」と

七崎姫伝説に共通するのは

供養を契機とした

縁起であるという点です。

 

これまでですと

諸縁起のうち七崎姫伝説が

他説と異色のように

捉えられていたと思うのですが

本稿で見てきたように

死生観が窺える信仰のあり方を

ひとつの手がかりとして

主な縁起(海→引き揚げ→遷座)を

再検討して提示された

“供養のために海に放たれた説”により

七崎姫の供養のために祭祀されたという

七崎観音縁起が

実は他説と重なるものがあると

捉えられるようになったと思います。

 

そんな所で

本稿は終えさせていただきます。

 

つづく

 

紐解き七崎観音③

はるかかなたから

やってくる尊いものを「来訪神」と

表現することがあります。

 

来訪神が海の

はるかかなたの常世(とこよ)

からやって来るという観念が

古来よりあったと

考えられています。

 

中世以降に仏教が表舞台に

登場して以降は

古来からの観念と

仏教的思想が融和しはじめますが

もともとの観念そのものは

完全な形ではなくとも

留められていたと考えられています。

 

常世は

観音菩薩の浄土である

補陀落浄土などと重ねられ

来訪神としては

観音菩薩などの尊格が重ねられます。

 

このような観念と関連して

日本における供養習俗の記録が

多くのことを示唆します。

 

現代に比べ

生と死が接近していた時代の方が

圧倒的に長く続いていた中

抱かれていた死生観が

いかなるものであったかを探り

今取り上げている「海の信仰」に

再び注目したとき

七崎観音の海に関わるいわれは

より広がりをもって

共有されうる由緒譚となります。

 

現在の日本では火葬が一般的葬法ですが

葬法には様々なものがあり

水葬というものもあります。

 

水葬に定型はなく

さまざまな事例を指して

用いられる言葉でもありますが

さまざまな事例のうち

補陀落渡海(ふだらくとかい)

というものがあります。

 

亡き方を海に放つだけでなく

はるか南方を目指して

生きながらに舟で旅立ち

その生を全うするという行いが

記録として残されています。

 

細かな事例には

ここでは触れませんが

観音菩薩と海は

古くから関わりが深いものと

考えられています。

 

大雑把に

海と観音菩薩に関わる

古来的観念について

述べさせていただきましたが

以下に七崎観音の由緒について

改めて確認してみたいと思います。

 

なお七崎観音の由緒については

様々な語りがあり

どれが正しいとか間違いとか

そういった次元のものではない

ということを

お断りしておきます。

 

神仏や寺社の縁起は

学問的な歴史とは

似て非なるものです。

 

歴史としてではなく

当時の人々が求めた

安寧や利益に関する「霊験」を

説こうと腐心した

行者などの語り部が

歴代多数存在したのですから

自然とバリエーションは

増えるものと捉えた方が

実態に近いと思われます。

 

様々なバリエーションがあるうち

七崎観音別当寺である

当山にて現在用いている

表白という文言は次のように

縁起を述べております。

 

夫れ七崎聖観世音大菩薩者(といっぱ)、その縁起を尋ねみれば、一千百有余年の昔、大海より白銀の浜へ引き揚げられ、承和元年、当地に請来結縁するを端緒となす。

 

普賢院住職には

七崎観音別当という役職を

歴代兼ねることになっており

現住職も晋山式にて

当山法流を継承し

普賢院第65世住職の任を

拝命すると同時に

七崎観音別当の人も拝命しました。

 

また現住職である拙僧は

令和四年夏に便壇灌頂という

弘法大師伝来の儀式に臨ませていただき

恐れ多くも傳燈大阿闍梨

なる位に登らせていただきました。

 

阿闍梨位にあるということは

当山次世に法流を託すのはもちろん

縁起についても伝授する義務があるゆえ

生半可に縁起や由緒を

紐解いておくわけにはまいりません。

 

そういった強い思いを胸に

日々励ませていただいているのですが

表白には幾種類もあるものの

縁起のくだりについては

ローカルで豊かに語られる物語に

比重が置かれることはあまりなく

観音菩薩そのものについて

述べられることに重点が置かれています。

 

当然のことではありますが

来歴については

諸譚中から「海→引き揚げ→当地に遷座」

の縁起が採用されており

このことは具体的で地域的な物語を超えて

観音菩薩霊験譚の一種が

採用されているとも考えられます。

 

海にて引き揚げられたわけですが

引き揚げられるためには

海へ放たれている必要があります。

 

引き揚げられたとされる「観音」は

仏像に限りはしませんが

仮に仏像やそれに類するものならば

何かしらの形で

解き放たれたものということになります。

 

こういったことにも触れながら

次回もまた「海の信仰」に関して

述べてみたいと思います。

 

紐解き七崎観音②

死とどのように向き合い

生をどのように捉えるかという

死生観は時代によって

展開があったと指摘されます。

 

供養習俗に注目して

そこから死生観を読み解こうとする

アプローチは現在では

大分定着したように思いますし

各分野で先学による先行研究が

重ねられています。

 

神仏との向き合い方もまた

時代時代の死生観はもちろんのこと

社会背景を踏まえて検討することは

有意義なことだと思います。

 

当山には多くの仏像が祀られますが

奉納年や施主にのみ注目し記録するだけでは

その実態というか意味合いみたいなものが

なかなか見えにくいと思います。

 

同じ尊格が数体祀られているとしても

その造立・奉納の経緯や意図を

おしはかってみるならば

そこに唯一無二の

エピソードが浮かび上がってまいります。

 

言い方を変えると

当時の細やかな背景や事情や思いを

背負っているものが

当山には多く祀られ託されている

ということが出来るでしょう。

 

背景・事情・思いのうち

「思い」が死生観と最も関わりが

深いものかと思いますが

死生観には共時的な傾向と

捉えられるものだけでなく

地域的なものや個別的なものなど

本来は細やかに検討すべきものと思います。

 

そうすると個別無数の検討も要するので

死生観の検討は限界を抱えながらも

時代的特徴を把握するには有効な

方法であることを

確認させていただいたうえ

本シリーズでは死生観についても

着目したいと思います。

 

時代的死生観は

時代的価値観に含まれるものであり

「時代的」と冠する以上

時代背景を見る必要があります。

 

さて

前置きが長くなりましたが

今回は七崎観音の由緒について

時代的死生観にも若干触れながら

見てみたいと思います。

 

前回の紐解き七崎観音①では

七崎観音に関する主な資料を

ナンバリングして列記しました。

 

本堂建替に際する総整理にて

明らかになった情報を反映させ

補足を加えながら

史料の翻刻したものや

作成した図や

荘厳具の写真など

ボリューミーに紹介しております。

 

「塵も積もれば山となる」とは

本当だと感じさせられます。

 

これまで確認されている

藩による近世史料の記述は

貴重な情報を今に伝えている一方

誤植も見られるので

気がついた点については

註をつけております。

 

前稿に掲載した資料にも

何件か触れていますが

七崎観音は海にて引き揚げられた

と伝えられています。

 

引き揚げたのが

坂上田村麻呂公であったり

藤原諸江卿なる人物とされたり

という部分が注目されがちですが

研究職につかせていただく身としては

海から引き揚げられたという点こそ

注意深く捉えたい箇所です。

 

数奇な命運をたどった

七崎観音の由緒として整理しなければ

ならなかったタイミングが

幾度もある中で

勧請者(お迎えした人物)が

いかなる理由で設定されたかは

七崎観音の場合

ほぼほぼ推察可能で

死生観の文脈においても

述べられることはいくつかあります。

 

死生観の文脈で考えるなら

「海から引き揚げられた」点にこそ

より広く共有され暗に引き継がれていたと

思われるものに接近出来るといえます。

 

この「海の信仰」について

次回も取り上げてまいります。