もうすぐ秘仏ご開帳です

令和4年2月17日は

旧暦1月17日大安にあたります。

 

この日は

秘仏・七崎観音(ならさきかんのん)を

ご開帳して法要を厳修します。

 

この行事は

「おこもり」とよばれます。

 

令和2年までは

午後8時より護摩を行っていましたが

仮本堂では消防法の関係で

護摩を修法できないため

昨年同様

別形式でご祈祷の法要を

行います。

 

当日の流れは次のようになります。

 

どなた様でも

ご参列いただけるので

年に1度の行事を

ぜひご一緒下さい。

 

おこもりの流れ

◆仮本堂にて受付(午後7時〜)

お布施、加持物(かじもつ)をお預かりします。

  • 法要中、祈願者名を読み上げますので、読み上げてほしいお名前はお布施の袋にお書きいただくか、別紙ご持参下さい(読みがなを振っていただけると有り難いです)。
  • 読み上げの名簿を作成する都合上、時間にゆとりをもって来ていただけると助かります。また、前日までに受付を済ませて頂いても構いません。メールでも受付いたします。
  • 護摩の時は、加持物(かじもつ)を護摩の煙にあててお加持していましたが、今回はご宝前に設えてお加持いたします。加持物ですが、例えば愛用の服、メガネ、ノート、シャーペンなど、皆様ゆかりの物を風呂敷に包むか、カバンに入れてお持ち下さい。

◆法要(午後8時〜)

法要の中で、祈願者名を読み上げます。ご自身のお名前、あるいは有縁の方のお名前が読み上げられた際は、心願成就を願い、柏手(かしわで)を2度お打ちください(2拍手)。

◆ウイルス対策のため、本年も後席はありません。

◆数に限りがありますが、御護符(おごふ)として落雁(らくがん)をお渡しします。

◆法要後、授与品(お守、お札など)をお授けする授与所を用意するので、入用の方は、そちらでお求め下さい。

 

皆様のご参加

心よりお待ちしております。

 

 

▼令和3年の様子(仮本堂にて厳修)

 

▼令和2年の様子(旧本堂にて厳修)

 

▼平成31年の様子

 

▼平成30年の様子

 

▼七崎観音についての動画

 

七崎観音の近現代

2月17日は

秘仏・七崎観音(ならさきかんのん)の

ご開帳日です。

 

この日は

午後8時よりご宝前にて

法要を執り行います。

 

この行事は「おこもり」と

通称されます。

令和4年おこもりのご案内

 

明治時代になり七崎観音は

行ったり来たりを繰り返した

ということは

これまでも触れてきましたが

そのことをいまに伝える

明治10年(1877)『伺』(うかがい)

という県令への文書があります。

 

以下に引用するのは

その翻刻です。

 

往来がわかる部分は

色を付しています。

 

赤は1回目

青は2回目

紫は3回目の遷座の記述です。

 

なお

原文のくずし字を

拙僧泰峻が翻刻したのですが

何文字か解読困難な箇所があり

文脈から字をあてていることを

あらかじめお断りしておきます。

 

 

当七崎村郷社七崎神社

曩日仏体正観音混一七崎山観音社号二付

衆庶参拝罷在昔時

文化六年當時第九大區三小區

新井田村盛元太郎曽祖父半兵衛代

梵鐘壱鳴寄附有之候処

御維新来各社寺

一般神佛混淆不相成旨

御達二付

過ル明治二己巳年

右正観音佛体外附属之什器

并梵鐘共該社ヨリ

當村真言宗普賢院へ

一旦移置候処

従来近郷人民信仰之霊佛二付

衆庶旧慣ヲ不脱

猶受持旧神宦ヲ訪来

空殿ヲ参拝スルノ族モ

間々有之二付

更二永続方法ノ目途相立可成

丈ケハ小堂ナリトモ建立仕度義

村方一同志願二付

其際旧神宦神殿江移転

人民信仰二任セ

参拝為致居候

昨九年十二月

教部省第三拾七号御達之趣モ有之

素ヨリ佛体二候得共

当院へ再ビ移転

什器共悉皆可引渡ハ勿論二候所

前顕梵鐘寄附人私有之訳ヲ以

今般取戻之義掛合有之

殆ド困迫之次第

尤廃社等二至テハ寄附什器

本人随意取戻之義可有之候得共

既二神佛区分右佛体

現今普賢院二存在候上ハ

概シテ廃社寺与

同視スベカラザル様有之

且本人情願二依リ寄附候者

今更無用ノ贄物抔申唱候義

如何与存候得共

元ヨリ私共二於テ

其可否討論可致ノ権理無之二付

無余儀次第与思考仕候得共

従来正観音江寄附之鏡故当院へ

備置仕度

且つ当院境内之義ハ村中中央土地髙壟

鐘堂建築適当之地二付

自今報時鐘二仕候得共

昼夜旦暮之時報ヲ耳二シ

各自農民臥起之教戒ハ勿論

臨時之為成丈ケ

取戻等無之様

再三先方ヘ示談二及び候得共

兎角承諾無之

依之右等共一般寄附人二付

自侭二取戻之権理可有之哉

且つ弥取戻候節ハ

右梵鐘寄附之際

村方人夫二付

鮫村より運搬仕候二付

其入費并右二関諸入費

悉皆本人より償却為到候義

如何可有之哉

此段共奉伺候条何分之御指令

奉希望候

以上

 

明治十年六月七日

第八大区三小区七崎村

旧社人惣代 嶋森亀之助 印

同旧神宦 白石守 印

同普賢院住職 佐藤法隆 印

同総代 久保杉嘉藤治 印

同村用係 橋本岩松 印

 

青森県令 山田秀典殿

 

以上が『伺』の翻刻となります。

 

どのような

伺いがたてられているかというと

江戸期に梵鐘を奉納した方の

孫にあたる方が

奉納した梵鐘の返還を

強く求めていることに対する

対応について

当地の代表者方が

当時の県令に問うているわけです。

 

この文書中に

明治初期の当地における

神仏分離の対応を

読み取ることが出来ます。

 

これまでの慣習も尊重しつつ

新たな時代に対応しようと

努められている様子が

伝わってくるように思います。

 

昨日の投稿では

当山61世の長峻和尚について

少しばかり紹介いたしました。

 

名僧というべき長峻和尚は

住職在位中の約20年にわたり

普賢院を復興され

さらには兼務寺院興隆にも

ご尽力されました。

 

長峻和尚は研究者肌だったようで

晩年に到るまで時間があれば

ひとり研究に励まれていたそうです。

 

1901年(明治34)に

普賢院では興隆講という

講が発足しています。

 

興隆講については

以前にブログで触れているので

よろしければそちらも

ご参照下さい。

稀代の古刹 七崎観音⑩

 

興隆講は

七崎観音堂の再興事業とでも

いうべき取り組みです。

 

定期的に集まり

護摩祈祷を行ったり

法話を聞いたりなど

積極的な活動が

なされていたようです。

 

長峻和尚の祈祷や護摩には

多くの人が集まったそうです。

 

カリスマ的な住職だったと

いえるかと思います。

 

東北屈指の霊場である

山形県鶴岡の

湯殿山大日坊の住職を

最晩年は務めるわけですが

多忙が過ぎたこともあり

病魔におかされ

行年60でご遷化されました。

 

それからしばらくの間

当山は困難な時期となります。

 

62世晃雄和尚が住職になるのは

長峻和尚亡きあと

しばらくたってからとなるのですが

その晃雄和尚の晋山式は

同時に出征送別のひとときでもありました。

 

戦争期において

七崎観音へは

身内が出征した方が

多く参詣されるようになったそうです。

 

明治から昭和まで

話が飛んでしまった感がありますが

明治以後の激動期については

可能な限りの記述を試みたいと思います。

 

今回は

明治初期における神仏分離への対応を

今に伝える文書『伺』の紹介と

“巨星”長峻和尚とその後について

多少触れさせていただきました。

 

 

 

 

普賢院近現代の「巨星」長峻大和尚

東北を代表する霊山である

山形県鶴岡の大日坊の住職を

八戸(当時は五戸)のお寺の住職が

兼任していたことを

ご存じの方は少ないと思います。

 

普賢院第61世にあたる

品田長峻(1877〜1936)は

俊秀な僧侶で

その手腕は内外に

高く評価されていた方で

三戸郡南部町の恵光院を兼務され

最晩年は大日坊の

第88世住職を務めた名僧です。

 

現住職である拙僧泰峻の僧名は

先代泰永の「泰」と

長峻和尚の「峻」の字を

いただいております。

 

長峻和尚は拙僧泰峻の

曽祖父にあたります。

 

江戸時代までは

当山住職は選抜された方が

就任されていたのですが

明治になると事情が大きく変わり

在地の者が住職として

お寺を守ったようです。

 

秀でた僧侶の赴任が途絶えたため

在地の方が住職になるために

取り急いで出家して僧侶となり

住職をつとめた方がいたり

同宗派寺院住職に

代務者を務めていただきながら

何とか体裁と整えていた時期も見られます。

 

実際に僧侶として

あるいは住職を務める者として

思うのですが

修行と修学の両輪を

必要最低限納め

さらに様々な法要や儀式や

慣習を経験しながら

道を深めていくには

長い年月が必要なので

突発的に出家して

住職を務めるというのは

相当大変だったと思います。

 

そのような状況で

この長峻和尚が

当山住職に抜擢され

当地に赴任されて以後

普賢院は大いに復興され

併せて七崎観音堂も

再興を遂げていくこととなります。

 

長峻和尚の葬儀にて

大導師により読まれた

歎徳文(たんどくもん)や

僧侶としての履歴書ほか

過去帳を手がかりに

関連する事柄を

時系列に並べると以下のようになります。

 

  • 明治10年(1877)10月4日生(出生地は新潟県刈羽郡/五男/俗名 弥平太)
  • 明治22年(1889)12月11日 千光院(大崎)住職・鬼山長慶師の室に入る(弟子となる)
  • 明治24年(1891)12月11日 檀林所円満寺において学頭(権田雷斧師に従い全科卒業)
  • 明治25年(1892)1月27日 得度(千光院において/戒師阿闍梨 文澄師)
  • 明治25年(1892)四度加行(2月12日[開白]〜11月21日[結願]/千光院において/履歴には「報恩院流憲深方二依り」と記載)
  • 明治26年(1893)4月21日 灌頂(新潟の善照寺において/長慶阿闍梨に従い入壇)
  • 明治26年(1893)7月10日 改名(戸籍名も長峻とする/この年月日に「安田正秀殿聞届」と履歴に記載あり)
  • 明治28年(1895)12月12日 度牒(真言宗長者 権大僧正 鼎龍暁師より拝受)
  • 明治29年(1896)一流伝授(7月10日[開白]〜20日[結願]/高善寺において/穂波快念阿闍梨による小島流伝授)
  • 時期詳細不明 新義真言宗中学林(長野県で3年間/葬儀の際の歎徳文に記載)
  • 時期詳細不明 正則英語学校(東京で5年間/葬儀の際の歎徳文に記載)
  • 時期詳細不明 管長猊下の命により北海道開教に従事(2ヶ所に寺院を新設/葬儀の際の歎徳文に記載)
  • 大正4年(1917)10月17日 『重要神誓文』(亡母の命日に、結婚にあたって自身の誓文をしたためている)
  • 大正5年(1916)7月20日 先妻せつ子逝去
  • 大正5年(1916)10月 普賢院61世住職就任
  • 大正7年(1918)8月8日 長女 道子誕生
  • 大正8年(1919)6月 恵光院(三戸郡南部町)住職兼任
  • 大正10年(1921)8月10日 長男 晃雄誕生
  • 大正12年(1923)6月5日 次男 高明誕生
  • 大正15年(1926)8月18日 次女 豐誕生
  • 昭和2年(1927)八太郎の蓮沼で「聖観音」と刻された石が発見される
  • 昭和4年(1929)旧8月17日に蓮沼に「北沼観音」のお社を建立
  • 昭和6年(1931)観音堂(内御堂)と仁王門を改築
  • 昭和6年(1931)子安地蔵堂建立
  • 昭和9年(1934)本堂と庫裏を修繕(当時、累年の凶作で経済的に大変な時代)
  • 昭和9年(1934)8月 弘法大師1100年御遠忌を厳修
  • 昭和10年(1935)5月 山形県湯殿山の大日坊88世住職兼任(大日坊での住職名は慈念海上人忍光上人)
  • 昭和11年(1936)3月3日(旧2月10日)ご遷化(行年60)
  • 昭和17年(1942)3月28日 晃雄和尚四度加行成満(阿闍梨 神林隆淨僧正/慈光山道場にて)
  • 昭和17年(1942)10月12日 晃雄和尚灌頂(東京の護国寺にて)
  • 昭和18年(1943)晃雄和尚の割切袈裟一領(年月と晃雄と墨書きあり)
  • 昭和19年(1944)晃雄和尚晋山・出征(2月28日頃出発、3月1日弘前野砲隊へ入隊)
  • 昭和19年(1944)6月5日 後妻ツネ逝去(行年61/明治17年(1884)9月15日生まれ/出身地は現在の岩手県沼宮内の柴田家/60世宥精師[大正5年(1916)5月24日 行年35でご遷化]の妻で、長峻師とは再婚)
  • 昭和19年(1944)6月15日 高明氏出征(前日に送別会が行われ、その時の写真が残っている)
  • 昭和20年(1945)4月8日 高明氏戦死(フィリピンルソン島マウテル州バキオ付近にて/陸軍伍長/命日は過去帳による)
  • 昭和20年(1945)7月30日 晃雄和尚戦死(フィリピンルソン島ダラカン州にて戦死/陸軍伍長/命日は過去帳による)
  • 昭和22年(1947)本堂屋根葺替の木札に当時の様子が記述され、その中に「晃雄住職の生死不明」とある。

 

正則英語学校で学んでいたため

英語には通じていたようで

亡くなった祖母の話ですと

通訳をお願いされたり

英語の教えを請われる程だったそうです。

 

長峻和尚は幼少の頃から

修行と修学に励まれていたことが分かります。

 

長峻和尚の

観音堂でのご祈祷には

大勢の方がご参列され

その法話に耳を傾けたそうです。

 

3つもの古刹の

再興に情熱をもって粉骨砕身した

長峻和尚ですが多忙が過ぎ

行年60でご遷化されています。

 

2022年である今から

100年さかのぼる1922年は

大正11年にあたり

長峻和尚は当時45歳にあたります。

 

その頃は当山住職に

就任されて6年という時です。

 

ここ最近は

七崎観音の近現代について

主にブログで取り上げておりますが

長峻和尚が書かれた表白などの文書に

それまでの状況であったり

観音堂の修繕の様子が

細やかに述べられているので

それらについて

改めて見ていきたいと思います。

 

さらに

長峻和尚ご遷化の後

当山は戦争の影響で

かなり困難な状況を迎えます。

 

戦争期については

何かしらの形で

書きとどめておくべきものと思いますので

祖母から生前に聞いた話のメモを

手がかりにその当時の様子について

紹介したいと思います。

 

▼長峻和尚

 

▼湯殿山大日坊での一枚

 

▼愛娘たちとの一枚

 

 

 

 

 

2体の七崎観音についてショートムービーを作りました

当山に祀られる

七崎観音(ならさきかんのん)は

明治時代を迎えるまでは

現在の七崎神社の地にあった

七崎観音堂に祀られていました。

 

神仏分離政策への対応のため

七崎観音堂は廃止され

堂内の諸尊・諸法具は

別当寺である普賢院へ移されました。

 

七崎観音堂は

「稀代の古刹」と称されるほど

多くの方に崇敬され

代々の藩主にも庇護されてきましたが

明治に廃止され

突貫工事的に普賢院本堂内に用意された

観音堂に遷座されることになります。

 

普賢院本堂の一隅に用意された

観音堂のスペースは

とても簡素なもので

盛時の面影は

全くなかったそうです。

 

しかし

明治以後の住職方のご尽力により

七崎観音堂は

普賢院本堂の内御堂(うちみどう)として

再興されていくことになります。

 

明治、大正、昭和、平成を通じ

観音堂は素晴らしい空間に

整備されてまいります。

 

歴代住職方が繋がれてきた

尊い「思い」を令和においても

しっかりと引き継ぎたいと思います。

 

そのようなことに触れながら

七崎観音についての動画を

用意したので

ご覧いただけると幸いです。

 

明治以後の七崎観音の祀られ方の変遷

当山に祀られる

七崎観音(ならさきかんのん)と

称される聖観音は秘仏で

毎年旧暦1月17日にのみご開帳され

そのご宝前にて法要が行われます。

 

現在、七崎観音として

認知されている仏像は

1687年に藩主・南部重信公が

「御前立ち」として奉納されたものです。

 

「御前立ち」というのは

本体の仏像の前に安置される仏像

という意味です。

 

七崎観音のご本体にあたる仏像は

これまでよく分からなかったのですが

本堂建替という歴史的な節目において

所蔵する仏像・仏具・史料・資料などを

総整理しつつ調査も進めていた所

どの仏像が七崎観音のご本体かが

判明いたしました。

 

本体にあたる七崎観音の仏像は

1655年に藩主・南部重直公が

奉納されたものになります。

 

重直公と重信公は兄弟です。

 

消えかけていた歴史を

後世に留めることが出来たことに

奇縁を感じさせられます。

 

当山ではご本体の七崎観音を

本(もと)七崎観音と呼び

現在七崎観音として祀られている御前立ち仏を

現(げん)七崎観音と呼び分けています。

 

これまでも

七崎観音について

色々と紹介してまいりましたが

今回は明治以後に

どのように安置方法が

変化していったのかについて

取り上げたいと思います。

 

安置方法の変化をたどると

その時々における七崎観音の認識が

いかなるものであったかですとか

認識の変化と思われるものを

汲み取ることが出来ます。

 

安置方法についていうと

お祀りするスペースの関係もあったことは

忘れてはならないことです。

 

限りあるスペースでは

出来る形でしか采配することが出来ません。

 

本七崎観音の仏像は大きいもので

昭和後期までは大きな厨子に

納められていました。

 

そうすると

高さも奥行きも必要となるわけで

スペースに限りがあるならば

本来のなすべき形ではなく

変則的な形で祭祀せざるをえないわけです。

 

そういった経緯ですとか

時の住職のお考えは

記録に残りにくいものですし

明治以後となると

頻繁に住職が交代し

記録に残っていない方も

いらっしゃる状態なので

十分な引き継ぎがなされていたとは

考えられません。

 

明治になると

もともとの観音堂は廃止され

観音堂内の仏像・仏具などは

別当寺である普賢院に

移されることになります。

 

明治になり

七崎観音は当山に遷座されたのですが

空の旧観音堂へ観音参りに

訪れる方が耐えなかったため

七崎観音は再度旧観音堂に遷座され

そしてまた当山に

遷座されたという経緯があります。

 

拙僧泰峻の推測ですが

当山から旧観音堂へ遷座する際は

全てを移動させるのではなく

当時の背景や慣例等を踏まえるに

現七崎観音のみを

移したものと思われます。

 

神仏の遷座には

当然のことながら作法が伴うわけで

その意味を踏まえて考えると

本体である本七崎観音も

再度旧地にお連れするということは

しないと思います。

 

御前立ちであれば

いわば「分身」なので

再び旧地に一時的に移すというのは

無理のない判断だったと思います。

 

戦争のインパクトも大きいもので

62世住職・晃雄大和尚と

その弟である高明大和尚が

出征・戦死したため

当時の住職の妹が

お寺を守った期間もあります。

 

歴史の大きなうねりの中で

様々な要素が関連して

七崎観音にまつわる歴史が

徐々に忘れかけていったと

言うことが出来るでしょう。

 

以下に

画像資料を掲載するので

どのように祀られ方が

変わっていったのかを

ご確認いただけると幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

《ご開帳のご案内》

令和4年おこもりのご案内

 

《本年の七崎観音に関する記事》

かつての七崎観音堂のイメージ図

浮かび上がる江戸期の七崎観音の祀られ方

 

かつての七崎観音堂のイメージ図

本年2月17日は

七崎観音(ならさきかんのん)

おこもり法要

が行われます。

 

七崎とは現在の豊崎町の旧称です。

 

七崎観音は

聖観音(しょうかんのん)という観音様です。

 

七崎観音おこもり法要という行事は

秘仏の七崎観音をご開帳して

行われる法要です。

 

例年ですと

護摩を行うのですが

仮本堂では消防法の関係で

護摩を修法できないため

昨年同様に形式を変えて

ご祈祷の法要を行ないます。

 

以下に

本年の法要のご案内と

これまでの

アーカイブ(動画)の

リンクを貼っておきます。

令和4年おこもりのご案内

 

旧暦1月17日に行われるこの行事は

「おこもり」と通称されます。

 

一時は

存続の危機にあったのですが

試行錯誤を重ねまして

この10年で少しづつ

参列者も盛り返し

多くの方にご縁を

お結びいただけるようになりました。

 

当山HPは2016年に開設して

同時に「おてらブログ」も

開始したのですが

おこもりの時季となると

お寺の歴史であったり

七崎観音の由緒であったり

おこもりについての投稿を

重ねております。

 

過去の記事を見てみると

よくこれだけ多くのものを

調べてまとめたものだと

自身でも驚く程です。

 

ただ

記事のボリュームがあるうえ

投稿数も結構あるため

自身でもいつ何をまとめたのか

調べるのが大変なため

最近は画像資料として

整理したり

過去の記事を添付するなどして

あらためて当山と

向き合わせていただいております。

 

本年もおこもりの日が

近づいてきたので

七崎観音に関連する投稿を

重ねたいと思います。

 

少し前に

江戸期における

七崎観音の祀られ方について

紹介いたしました。

 

それがこちらの記事になります⬇

浮かび上がる江戸期の七崎観音の祀られ方

 

今回は前回の続きとして

もう少し具体的に

かつての七崎観音が

どのような所にどのような形で

祀られていたのかについて

拙僧泰峻が法流(お作法や法式などの流れ等)

を踏まえて出来るだけ具体的に

紐解いてみたいと思います。

 

諸史料・資料で

当時の要素を整理したうえで

法流を踏まえて

旧七崎観音堂が

どのようなものであったかを

考察するに

以下に用意した画像資料の

ようになろうかと思います。

 

まずは

旧七崎観音堂内ですが

七崎観音ご宝前には

護摩壇ほか法具が

荘厳されていたはずです。

 

▼江戸期の観音堂内部

 

次に観音堂のお堂についてですが

『新撰陸奥国誌』掲載の

俯瞰図(スケッチ)により

方形(ほうぎょう)であったことがわかります。

 

方形とは

正方形のお堂で

観音堂として採用とされることが

とても多かった様式です。

 

江戸期の棟札や史料により

七崎観音堂の大きさも分かっています。

 

七崎観音堂のイメージ図も含め

以下に画像資料を掲載します。

 

 

以上、今回は

旧七崎観音堂について

より具体的に紹介いたしました。

 

七崎観音とご縁を

お深めいただけると幸いです。

意味や意義を備えるひとときを模索しています

旧本堂が解体されて以後

全ての法務(葬儀、法事、ご祈祷など)や

行事・催事は仮本堂で行っております。

 

新本堂が今秋完成するので

新本堂での新体制に向け

ここ数年は諸事見直しや手直しを

行っています。

 

さらにいえば

昨年住職が代替わりしたため

見直し手直し検討に

一層力が入っています。

 

なかでもご祈祷については

熟考を重ねています。

 

普賢院は

檀家寺という側面のみならず

祈祷寺という側面もあるお寺で

様々なご縁の形があるといえます。

 

祈祷寺でいうと当山は

南部藩祈願所でもあったので

由緒に大きく関わる要素です。

 

ご祈祷の際のみの話ではありませんが

法務をご一緒させていただくということは

儀式の意味やお寺の背景などにも

触れていただくことと考えています。

 

そういった意味や意義を

十分に備えることが

出来るようにするために

どのようにすればよいかを模索しながら

さらに熟考していきたいと思います。

 

浮かび上がる江戸期の七崎観音の祀られ方

普賢院に祀られる

七崎観音(ならさきかんのん)の

ご開帳が近づいてまいりました。

 

本年は2月17日となります。

 

ご開帳された観音様のご宝前で

午後8時から法要が

執り行われます。

 

詳細は下記リンクを

ご参照下さい▼

令和4年おこもりのご案内

 

当山では

文化8年(1811)以来の

本堂建替を行っており

それに伴い

仏像仏具等の再整理・調査も

行ないました。

 

そのおかげで

判明したことや確認されたことなどが

沢山ありました。

 

七崎観音についても

色々と浮かび上がったことがあります。

 

以前もお伝えしたように

現在普賢院には

「2体の七崎観音」が

祀られています。

 

区別するために拙僧泰峻は

現 七崎観音(げんならさきかんのん)

本 七崎観音(もとならさきかんのん)

と呼び分けております。

 

昭和51年に

旧本堂の大改修が

行われるまでは

本七崎観音は大きな春日型厨子に

納められていました。

 

また

現七崎観音と本七崎観音は

並列(横並び)に

安置されていたそうです。

 

本七崎観音の厨子は

かなり傷みが激しかったようで

かなり前に処分されています。

 

本七崎観音像は

蓮弁に激しい鼠害が見られました。

 

また

本七崎観音が奉納された際の

観音堂並末社十二宮再興棟札も

古い鼠害が見られるため

恐らく観音像の後ろに

棟札が祀られていたと思われます。

 

そういったことを

図像資料にしてみたので

ご覧いただいて

七崎観音とのご縁を

深めていただけると幸いです。

 

 

令和4年最初の写経カフェ

本日は寺子屋ワークショップ

写経カフェが開催されました。

 

一昨年から引き続き

規模を縮小しての

実施となりました。

 

写経カフェの様子を

お伝えする動画を用意しました。

 

法話では

七崎観音(ならさきかんのん)

についても触れております。

 

七崎観音は秘仏で

年に1回

旧暦1月17日にご開帳されます。

 

本年は2月17日が

ご開帳となり

その日に法要が行われます。

 

ご開帳しての法要の詳細は

こちらをご参照下さい▼

おこもり法要のご案内

 

写経カフェで

納経された写経は

ご開帳して行われる法要にて

改めてご宝前に奉呈します。

 

そういった関わりもあり

写経カフェで

七崎観音についても

お話させていただきました。

 

ご覧いただけると幸いです。

 

観音さまのお経

観音様のお経は沢山ありますが

最も有名なものといえるのが

「普門品(ふもんぼん)」です。

 

正式には

妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五

といい

観音経(かんのんぎょう)と通称されます。

 

当山では

旧暦1月17日(令和4年は2月17日となります)

に観音様の行事があるので

最近は観音菩薩にまつわる記事を

投稿することが多くなっておりまして

今回は観音経について

紹介したいと思います。

 

観音経全文は次のようになります。

 

妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五

 

爾時無盡意菩薩即従座起偏袒右肩合掌

向佛而作是言世尊観世音菩薩

以何因縁名観世音

佛告無盡意菩薩

善男子若有無量百千萬億衆生受諸苦悩

聞是観世音菩薩一心稱名観世音菩薩

即時観其音聲皆得解脱

若有持是観世音菩薩名者設入大火

火不能燒由是菩薩威神力故

若為大水所漂稱其名號即得淺處

若有百千萬億衆生為求金銀瑠璃硨磲瑪瑙

珊瑚琥珀眞珠等寳入於大海假使黒風

吹其船舫飄堕羅刹鬼國其中

若有乃至一人稱観世音菩薩名者

是諸人等皆得解脱羅刹之難以是因縁名観世音

若復有人臨當被害稱観世音菩薩名者

彼所執刀杖尋段段壊而得解脱

若三千大千國土満中夜叉羅刹欲来悩人

聞其稱観世音菩薩名者

是諸悪鬼尚不能以悪眼視之況復加害

設復有人若有罪若無罪杻械枷鎖

検繋其身稱観世音菩薩名者皆悉断壊即得解脱

若三千大千國土満中怨賊有一商主将諸商人

齎持重寳経過険路其中一人作是唱言

諸善男子勿得恐怖

汝等應当一心稱観世音菩薩名號

是菩薩能以無畏施

於衆生汝等若稱名者於此怨賊當得解脱

衆商人聞倶發声言南無観世音菩薩

稱其名故即得解脱

無盡意観世音菩薩摩訶薩威神之力巍巍如是

若有衆生多於婬欲常念恭敬観世音菩薩便得離欲

若多瞋恚常念恭敬観世音菩薩便得離瞋

若多愚痴常念恭敬観世音菩薩便得離癡

無盡意観世音菩薩有如是等大威神力

多所饒益是故衆生常應心念

若有女人設欲求男禮拝供養観世音菩薩

便生福徳智慧之男

設欲求女便生端正有相之女宿植徳本衆人愛敬

無盡意観世音菩薩有如是力

若有衆生恭敬禮拝観世音菩薩福不唐捐

是故衆生皆應受持観世音菩薩名號

無盡意若有人受持六十二億恒河沙菩薩名字

復盡形供養飲食衣服臥具医薬於汝意

云何是善男子善女人功徳多不無盡意言甚多

世尊佛言若復有人受持観世音菩薩名號

乃至一時禮拝供養是二人福正等無異

於百千萬億劫不可窮盡

無盡意受持観世音菩薩名號

得如是無量無邊福徳之利

無盡意菩薩白佛言世尊観世音菩薩

云何遊此娑婆世界云何而為衆生

説法方便之力其事云何

佛告無盡意菩薩善男子若有國土衆生

應以佛身得度者観世音菩薩即現佛身而為説法

應以辟支佛身得度者即現辟支佛身而為説法

應以声聞身得度者即現声聞身而為説法

應以梵王身得度者即現梵王身而為説法

應以帝釈身得度者即現帝釈身而為説法

應以自在天身得度者即現自在天身而為説法

應以大自在天身得度者即現大自在天身而為説法

應以天大将軍身得度者即現天大将軍身而為説法

應以毘沙門身得度者即現毘沙門身而為説法

應以小王身得度者即現小王身而為説法

應以長者身得度者即現長者身而為説法

應以居士身得度者即現居士身而為説法

應以宰官身得度者即現宰官身而為説法

應以婆羅門身得度者即現婆羅門身而為説法

應以比丘比丘尼優婆塞優婆夷身得度者

即現比丘比丘尼優婆塞優婆夷身而為説法

應以長者居士宰官婆羅門婦女身得度者

即現長者居士宰官婆羅門婦女身而為説法

應以童男童女身得度者即現童男童女身而為説法

應以天龍夜叉乾闥婆阿修羅迦樓羅緊那羅

摩睺羅伽人非人等身得度者即皆現之而為説法

應以執金剛神得度者身得度者

即現執金剛神而為説法

無盡意是観世音菩薩成就如是功徳

以種種形遊諸國土度脱衆生

是故汝等應當一心供養観世音菩薩

是観世音菩薩摩訶薩

於怖畏急難之中能施無畏是故此娑婆世界

皆號之為施無畏者

無盡意菩薩白佛言世尊

我今當供養観世音菩薩

即解頸衆寳珠瓔珞價直千両金而以與之作

是言仁者受此法施珍寳瓔珞時

観世音菩薩不肯受之

無盡意復白観世音菩薩言

仁者愍我等故受此瓔珞

爾時佛告観世音菩薩當愍此

無盡意菩薩及四衆天龍夜叉

乾闥婆阿修羅迦樓羅緊那羅

摩睺羅伽人非人等故受是瓔珞

即時観世音菩薩愍諸四衆及於天龍

人非人等受其瓔珞分作二分

一分奉釈迦牟尼佛

一分奉多寳佛塔

無盡意観世音菩薩有如是自在神力遊於娑婆世界

爾時無盡意菩薩以偈問曰

世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁 名為観世音

具足妙相尊 偈答無盡意 汝聴観音行 善應諸方所

弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億佛 發大清浄願

我為汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦

假使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑變成池

或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼観音力 波浪不能没

或在須弥峰 為人所推堕 念彼観音力 如日虚空住

或被悪人逐 堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛

或値怨賊繞 各執刀加害 念彼観音力 咸即起慈心

或遭王難苦 臨刑欲壽終 念彼観音力 刀尋段段壊

或囚禁枷鎖 手足被杻械 念彼観音力 釋然得解脱

呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力 還著於本人

或遇悪羅刹 毒龍諸鬼等 念彼観音力 時悉不敢害

若悪獣圍繞 利牙爪可怖 念彼観音力 疾走無邊方

玩蛇及蝮蠍 気毒煙火燃 念彼観音力 尋聲自回去

雲雷鼓掣電 降雹澍大雨 念彼観音力 應時得消散

衆生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力 能救世間苦

具足神通力 廣修智方便 十方諸國土 無刹不現身

種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅

眞観清浄観 廣大智慧観 悲観及慈観 常願常瞻仰

無垢清浄光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間

悲體戒雷震 慈意妙大雲 澍甘露法雨 滅除煩悩焔

諍訟経官処 怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散

妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念

念念勿生疑 観世音浄聖 於苦悩死厄 能為作依怙

具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故應頂禮

爾時持地菩薩即従座起前白佛言世尊若有衆生

聞是観世音菩薩品自在之業普門示現神通力者

當知是人功徳不少佛説是普門品時衆中

八萬四千衆生皆発無等等

阿耨多羅三藐三菩提心

 

以上のようなお経になります。

 

観音菩薩の

変幻自在なる境地と

世を照らし心を照らす

智慧と慈悲のありようが

説かれたお経といえます。

 

細かな内容については

今後折に触れて

紹介いたします。

 

昨年の法要で

観音経(偈文)をお唱えした部分を

動画にしてありますので

ご覧いただき観音経と

ご縁を深めていただければと思います。

 

▼観音経(偈文)の動画

 

【おこもりのご案内】

旧暦1月17日にあたる

令和4年2月17日は

秘仏・七崎観音(ならさきかんのん)

をご開帳してご宝前にて

法要を執り行います。

 

この行事は「おこもり」と通称されます。

 

詳細は下記リンクをご参照ください。

おこもりのご案内

 

 

▼昨年のおこもりの様子