前回触れた様に
「七崎山普賢院」と刻された
観音版木の“発見”により
七崎山普賢院徳楽寺が徳楽寺の
正式名称かもしれないことと
七崎観音別当・七崎山普賢院の号を
本坊永福寺自坊・宝照山普賢院の号と
併用していたかもしれないことを
新たな説として提示することが出来ました。
特に後者は
史料の記載内容を踏まえるに
可能性は高いと思われます。
当山観音堂に主尊として祀られる
聖観音は七崎観音と通称され
この呼び名は
「七崎(地名)+観音(尊格名)」
という構成となっています。
普賢院住職は歴代
七崎観音別当という
お役を受け継いでいるので
この七崎観音という
名称を手がかりに
仏道のみおしえに
触れていただけるような
紐解き方をご紹介できればと
かねてより考えていました。
地名としての七崎を
仏道的な解読方法で
アプローチすることは
普段あまりなじみがないであろう
文化に触れていただく
機会にもなると思うのです。
ということで
前回は七に関する用語に触れたり
na-ra-sa(ja)-kiの音による
字義釈を紹介してみました。
明治を迎えて
必要に迫られた
旧観音堂の神社化に関しても
当時の状況下において
旧来の慣習を極力温存しつつ
明治スタイルに適応した形に
落ち着かせるため
縁起の改変作業が行われたであろう
ことについても述べました。
また幕末における新政権の政策構想として
国学者の立場より奉呈された史料中にて
記紀神話の神々と
皇系につらなる方々や
国家に功績のあった方々を
国家的に祭祀するよう主張するものがあり
藤原氏は「皇系につらなる方々」でした。
この構想にそった形で
明治元年以降に
神社創建があいついぐわけですが
旧観音堂の神社化と藤原諸江譚への縁起改変は
軌を同じくした可能性もあることも
前回言及しました。
国づくりにおいて明治政府は
「日本神話」を必要としました。
近代化と王政復古という
論理上どこか
不思議な組み合わせな方針が
とても特徴的といえます。
「日本神話」を核とした
国づくりの徹底は
諸経緯を経ることになり
国家神道を国教化することは
ありませんでしたが
国家神道は宗教ではなく祭祀であるされ
各地の神社は「祭祀の場」となり
神社化推進は政治的意図によるものでした。
そういう時代背景において
旧来からの縁起を
“時代的なもの”に
改変せざるを得なかったわけです。
こういった経緯に
触れることすらも
憚られることもあったと思いますが
当地では旧来のことについても
忘れられることなく
むしろ留めようとしていたようにも
感じられるのです。
そう感じるのは
大正期に記念刊行された
旧修験家・小泉家の神官による
『神社誌』の記述において
旧観音堂時代のことが明記され
さらに
後世において改変が必要な場合は
改変するようにアドバイスしているとも
取れる記述が見られます。
そこに当地の“イズム”を
読み取ることが
出来るように思います。
明治に入って程なくの
『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])に
次のような報告があります。
当社は何の頃の草創にか
究て古代の御正体を祭りたり
旧より正観音と称し
観音堂と呼なして
近郷に陰れなき古刹なり
数丈なる杉樹
地疆に森立して空に聳ひ
青苔地に布て如何さま
物ふりたる所なり
去は里人の崇仰も大方ならす
四時の祭会は元より
南部旧藩尊敬も他の比にあらす
常に参詣も絶えす
廟堂の構界区の装置まて
昔を忍ふ種となる所なり
同書における七崎の報告では
当時の「新縁起」について
垣間見られる記述があり
その件については
以前触れているので
そちらもお読みいただければと思います。
「数丈なる杉樹」は
天にそびえる大きな杉の木々を指し
それらが「森立」し
青苔が広がる“苔むす”地であり
その空間は
物ふりたる所であると
報告者は記述しています。
この記述には
当地において旧来より
大切にされていた空間に対する
讃嘆の思い
「もののあはれ」の思いが
込められていると思います。
「物」は様々な意味があり
古事記・日本書紀でも
需要な語と言えると思いますが
「霊性」つまり「たま」
とも置き換えられます。
ものふりたる所は
たまふりたる所とも
言い換えが出来ます。
そして旧七崎観音堂は
近郷に隠(陰)れなき古刹であり
並大抵ではなく(大方ならす)
信仰されてきたと評されており
南部藩領においても
比類ない程に常時参詣されていたと
往時について記載されています。
神社化が進められても
廟堂の構えや境内の作りが
往時(かつての様子)を
偲ばせるような場所だとも
記載されております。
「廟堂の構え」に関してですが
史料の記述に基づいて解釈するに
観音堂であったお堂の
仏像・仏具・荘厳具などが
撤去・搬出されて
同堂が廟堂として使用されています。
幕末の安政10年(1863)に
七崎観音堂は修繕されており
お堂自体はしっかりしていたため
そのまま使用したと思われます。
こういった神社化への対応においても
出来る限りにおいて
旧来からの慣習や祈りを温存して
行政的神仏分離の求めに応じたことが
想像されるのです。
以上のような内容にも触れながら
また七崎観音について
紐解いていきたいと思います。
つづく