紐解き七崎観音⑬

前回触れた様に

「七崎山普賢院」と刻された

観音版木の“発見”により

七崎山普賢院徳楽寺が徳楽寺の

正式名称かもしれないことと

七崎観音別当・七崎山普賢院の号を

本坊永福寺自坊・宝照山普賢院の号と

併用していたかもしれないことを

新たな説として提示することが出来ました。

 

特に後者は

史料の記載内容を踏まえるに

可能性は高いと思われます。

 

当山観音堂に主尊として祀られる

聖観音は七崎観音と通称され

この呼び名は

「七崎(地名)+観音(尊格名)」

という構成となっています。

 

普賢院住職は歴代

七崎観音別当という

お役を受け継いでいるので

この七崎観音という

名称を手がかりに

仏道のみおしえに

触れていただけるような

紐解き方をご紹介できればと

かねてより考えていました。

 

地名としての七崎を

仏道的な解読方法で

アプローチすることは

普段あまりなじみがないであろう

文化に触れていただく

機会にもなると思うのです。

 

ということで

前回は七に関する用語に触れたり

na-ra-sa(ja)-kiの音による

字義釈を紹介してみました。

 

明治を迎えて

必要に迫られた

旧観音堂の神社化に関しても

当時の状況下において

旧来の慣習を極力温存しつつ

明治スタイルに適応した形に

落ち着かせるため

縁起の改変作業が行われたであろう

ことについても述べました。

 

また幕末における新政権の政策構想として

国学者の立場より奉呈された史料中にて

記紀神話の神々と

皇系につらなる方々や

国家に功績のあった方々を

国家的に祭祀するよう主張するものがあり

藤原氏は「皇系につらなる方々」でした。

 

この構想にそった形で

明治元年以降に

神社創建があいついぐわけですが

旧観音堂の神社化と藤原諸江譚への縁起改変は

軌を同じくした可能性もあることも

前回言及しました。

 

国づくりにおいて明治政府は

「日本神話」を必要としました。

 

近代化と王政復古という

論理上どこか

不思議な組み合わせな方針が

とても特徴的といえます。

 

「日本神話」を核とした

国づくりの徹底は

諸経緯を経ることになり

国家神道を国教化することは

ありませんでしたが

国家神道は宗教ではなく祭祀であるされ

各地の神社は「祭祀の場」となり

神社化推進は政治的意図によるものでした。

 

そういう時代背景において

旧来からの縁起を

“時代的なもの”に

改変せざるを得なかったわけです。

 

こういった経緯に

触れることすらも

憚られることもあったと思いますが

当地では旧来のことについても

忘れられることなく

むしろ留めようとしていたようにも

感じられるのです。

 

そう感じるのは

大正期に記念刊行された

旧修験家・小泉家の神官による

『神社誌』の記述において

旧観音堂時代のことが明記され

さらに

後世において改変が必要な場合は

改変するようにアドバイスしているとも

取れる記述が見られます。

 

そこに当地の“イズム”を

読み取ることが

出来るように思います。

 

明治に入って程なくの

『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])に

次のような報告があります。

 

当社は何の頃の草創にか

究て古代の御正体を祭りたり

旧より正観音と称し

観音堂と呼なして

近郷に陰れなき古刹なり

 

数丈なる杉樹

地疆に森立して空に聳ひ

青苔地に布て如何さま

物ふりたる所なり

 

去は里人の崇仰も大方ならす

 

四時の祭会は元より

南部旧藩尊敬も他の比にあらす

常に参詣も絶えす

廟堂の構界区の装置まて

昔を忍ふ種となる所なり

 

同書における七崎の報告では

当時の「新縁起」について

垣間見られる記述があり

その件については

以前触れているので

そちらもお読みいただければと思います。

 

「数丈なる杉樹」は

天にそびえる大きな杉の木々を指し

それらが「森立」し

青苔が広がる“苔むす”地であり

その空間は

物ふりたる所であると

報告者は記述しています。

 

この記述には

当地において旧来より

大切にされていた空間に対する

讃嘆の思い

「もののあはれ」の思いが

込められていると思います。

 

「物」は様々な意味があり

古事記・日本書紀でも

需要な語と言えると思いますが

「霊性」つまり「たま」

とも置き換えられます。

 

ものふりたる所

たまふりたる所とも

言い換えが出来ます。

 

そして旧七崎観音堂は

近郷に隠(陰)れなき古刹であり

並大抵ではなく(大方ならす)

信仰されてきたと評されており

南部藩領においても

比類ない程に常時参詣されていたと

往時について記載されています。

 

神社化が進められても

廟堂の構えや境内の作りが

往時(かつての様子)を

偲ばせるような場所だとも

記載されております。

 

「廟堂の構え」に関してですが

史料の記述に基づいて解釈するに

観音堂であったお堂の

仏像・仏具・荘厳具などが

撤去・搬出されて

同堂が廟堂として使用されています。

 

幕末の安政10年(1863)に

七崎観音堂は修繕されており

お堂自体はしっかりしていたため

そのまま使用したと思われます。

 

こういった神社化への対応においても

出来る限りにおいて

旧来からの慣習や祈りを温存して

行政的神仏分離の求めに応じたことが

想像されるのです。

 

以上のような内容にも触れながら

また七崎観音について

紐解いていきたいと思います。

 

つづく

紐解き七崎観音⑫

七崎(ならさき)は

「七つの岬」に由来するとされます。

 

「岬」は海や川や湖を連想させます。

 

地元の士族でもあった

とある旧家の方の伝えでは

かつて浅水川が相当に蛇行しており

「七つの岬」のように見えるその光景が

七崎の地名の由来だとも言われます。

 

七崎の「七」は

具体的な数とは限らず

多数を意味し

かつ聖数としての意味がある

とも考えられますし

仏教的な意味が込められているとすれば

七宝(しっぽう)からきた七

とも考えられそうです。

 

空海の『声字実相義』の

考え方を応用すれば

na-ra-sa-kiの音に分解して

各音(梵字)の字義という

観点から検討することも可能です。

 

この方法で

na-ra-sa-kiを解読すると

この響きの中に

「南無観自在菩薩(観音菩薩)」

という意味が含まれるのが

とても絶妙に思います。

 

na字は「帰命」(南無)につながり

sa字とka字(kiの母字)は

「観自在菩薩(観音菩薩)」につながります。

 

「ならさき」ではなく

「ならじゃき」と

読むこともあったので

na-ra-ja-kiで解読すると

ja字は「鉤召」の意に通じ

さらに当山本尊「愛染明王」

にも通じるものと

捉えることも出来ます。

 

旧観音堂の地を

七崎山または観音山

と読んでいたとされますが

これら山号(お山の名前)は

字義釈によって捉えると

通底したものといえます。

 

七崎山は

旧観音堂の寺号・徳楽寺の

山号として使用されていたと

考えられてきましたが

当山の本堂建替に伴う

古文書や史料や仏像や仏具の

総整理の際に

この通説を揺るがす発見がありました。

 

それが次の版木です。

 

七嵜山 普賢院」刻字の御影板木(年代不詳)

※「嵜」は「崎」の異体字。

※七崎山の山号は、徳楽寺(七崎観音堂の寺号)の山号であると考えられていたが、普賢院にも用いられていたことを示すとても貴重な史料。

 

「七崎山徳楽寺」

「七崎山普賢院」という

組み合わせの存在が判明したことは

これまでの通説を

場合によってはくつがえす程の

大きな意味を持ちます。

 

徳楽寺の院号が

普賢院だったとすれば

七崎山普賢院徳楽寺が

正式名称だった可能性もあります。

 

本坊宝珠盛岡山永福寺自坊・宝照山普賢院と

七崎観音別当・七崎山普賢院の

二つの院号を

併用していた可能性もあります。

 

これらの説は

先に紹介した版木の存在が

明らかになったゆえに

浮上したものです。

 

七崎山普賢院徳楽寺の名が

文字として残る史料はないので

検証することは難しく

可能性を示すに留まりますが

後者の説については

七崎(嵜)山普賢院と刻された

“観音版木”があり

近世文書に七崎観音の別当が

普賢院との記述があることから

新説として提示出来るものと考えます。

 

そんな新説については

また後日触れるとして

前回も扱った史料について

再びみてまいりましょう。

 

前回は

時代の要請による

旧観音堂の神社化について

里人・社人の伝えについて

『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])に

採録された箇所を参考に

考察を行いました。

 

同史料では

「七崎神社としての縁起」について

「全く後人の偽作なれとも」として

以下の2説を述べていました。

 

  1. 祭神はイザナミノミコト。むかし火事があり、縁起など焼失して無いため、詳細については分からない。
  2. 祭神イザナミノミコトの勧請について、天災で縁起を失っているため、詳細を知るのは難しいと前置きをし、藤原諸江卿が当地に勧請したという説を示す。四条中納言であった諸江卿は、勅令により白銀に居住しており、承和元年(834)1月7日の夢でイザナミノミコトの神告を受け、当地に勧請された。

 

藤原諸江という人物は

明治以後になると

七崎神社の縁起において

キーパーソンとなりますが

一方で

明治以前の文書や木札には

少なくとも当山が所蔵するものや

確認出来る文書(過去帳や表白など)には

いっさい見られないのです。

 

藤原諸江を祖とする

古い家々が

旧修験家など他

当地にはあります。

 

旧修験家の方が還俗し

神職となったのちの

旧観音堂の神社化の推進と

藤原諸江卿の「伝説」や

系譜観念が

相関しているのかもしれません。

 

藤原氏の方が

諸事情により

京より当地方に

おいでになった

という類の話は当地や近隣で

よく見らますが

個人名がどうというより

藤原氏であることに

深掘りポイントがあると

個人的には考えてきました。

 

藤原氏の

氏寺は興福寺

氏神は春日大明神。

 

そして春日大明神と同体とされる

難陀龍王(なんだりゅうおう)という

諸龍王を司る「龍神」と

その難陀龍王を脇侍とする

十一面観音(長谷寺式)。

 

その十一面観音は

アマテラスと同体とされる

雨宝童子も脇侍としており

長谷寺は古くから

観音信仰の中心地のひとつで

藤原氏にも庇護を受け

もともとは興福寺の末寺でした。

 

長谷寺の十一面観音信仰は

歴史があるもので

「長谷信仰」は

元祖観音霊場であり

屈指の古刹からなる

西国三十三観音霊場の発祥と

関わります。

 

当山創建当初の本尊も

十一面観音とされます。

 

余談が長くなりましたが

藤原氏と観音信仰には

深いつながりがある点を

明示しておきたかったのです。

 

それと

京の方にルーツを持つ方が

当地に来たことは

歴史的にある話だと思いますし

修験者などの宗教者が

当地に居を構えたことも

実際にあったと思います。

 

諸江卿について付言すると

先に示した1と2の

イザナミノミコト勧請について

2の報告には

杉の植樹の伝説には

触れられていません。

 

当山では

開基開山上人の行海大和尚が

旧観音堂の地に

七つ星になぞらえて杉を植えた

との伝えがあるのですが

別説として

藤原諸江卿が杉を植えた

という伝えもあります。

 

これらについても

前回触れた坂上田村麿将軍の説と同様

同じエピソードの主人公が

“仏教的人物”から

藤原諸江卿に代替されているようにも

思われるのです。

 

藤原諸江卿を祖神とする

旧修験家の方々が

古来より大切にされてきた

祈りの地を

当時の状況下において

求められた形態にて

受け継いだことの決意の現れ

としての縁起改変

のようにも感じられます。

 

さらには

幕末における

新政権の政策構想として

国学者の立場から

奉呈された史料中にて

記紀神話の神々と

皇系につらなる方々や

国家に功績のあった方々を

国家的に祭祀するよう

主張するものがあり

藤原氏は「皇系につらなる方々」

となります。

 

この構想にそった形で

明治元年以降に

神社創建があいついだことと

旧観音堂の神社化と

藤原諸江譚への縁起改変は

軌を同じくした可能性もあるでしょう。

 

以上見てきたような

改変パターンによる縁起の整理で

時代的背景もあって

全国的に強要された神仏分離と

当地における旧観音堂の神社化を

乗り越え

“破壊”を伴う様な状況ではなく

可能な限り歴史や伝統を温存しつつ

明治スタイルに適応させた形に

着地させることが出来た

と言えようかと思います。

 

明治以後

大正・昭和20年までの間は

教育においても

古事記など日本神話に基づいた理解は

必須のことであり

それが公的祭祀を裏付けるものであり

国としての思想的基盤とも

いえるものでした。

 

明治における

旧観音堂の神社化や

それに伴う縁起改変は

明治だけの話ではなく

その後に向けた“国づくり”

としての文脈で捉えると

見えてくるものがあると感じます。

 

紐解き七崎観音⑪

前回(紐解き七崎観音⑩)は

多様な語りの発生について

声による「口承」と

文字による「文書」による

伝達という観点から検討してみました。

 

現代に生きる私たちにとって

「文書」は黙読をもって

そこに保存された情報を

取り出そうとするアプローチが

ごく日常的ですが

時代が違えば事情も異なり

「文書」と「音読」をセットとして

捉えられていたそうです。

 

「文書」により保存され

伝達が目指された情報は

眼識(目による情報の認識)

だけでなく

耳識(耳による情報の認識)

にも関わりながら

情報受者に取得されていた

と一応表現できるでしょう。

 

私たちは

自身の感覚器官(六根)により

各器官が対象とするもの(六境)を

把握し認識(六識)します。

 

五蘊(色受想行識)

という考え方は

私たちの認識構造を把握するのに

大変参考になるものでして

私たちの内面から

物事との接触・認識までの流れを

識→行→想→受→色

と捉えます。

 

専門度が高いので

識をここでは便宜的に

「あらゆる経験が蓄積される深層的な心」とし

行については

「各自の思考のクセ」とします。

 

意識的無意識的とわず

私たちの様々な「経験」が

心のうちに種のように

ストックされており

諸条件によりその種が発現し

想起させる力が働いて

物事の認識や行動に関わるという

内的で深層的な心と外的環境とのあり方を

捉える考え方があるのです。

 

こういったものは

私たちの認識のあり方や

世の中のあり方を

観察(瞑想)するためという

側面のあるもので

観念論的な思考としてだけではなく

実践が伴ってこそ

本領が発揮されるものといえます。

 

これらの思想や実践は

「苦」と「識」が

深く関わっていると

仏道で捉えられていることの

明示でもあります。

 

観音菩薩は

観自在菩薩とも言いますが

観自在菩薩は

「観ること自在なる菩薩」です。

 

自在というのは

とわわれないことを意味します。

 

「観ること」(因)により

「自在なる」(果)となる。

 

その「観ること」を考える時

本稿で触れた諸項目が

解読の鍵となります。

 

観自在菩薩に

関連する経典は様々あり

法華経や華厳経や般若心経といった

超有名経典ほか

多くの経典に登場しており

曼荼羅においても重要な尊格です。

 

「観自在」について

若干の説明をするはずが

結構長くなってしまいました…

 

奇数月に開催している

『写経カフェ』では

こういった類のお話が主となるので

ご興味をお持ちの方は

そちらでお話に

耳を傾けていただければと思います。

 

前回も

幕末明治以降の七崎観音について

触れましたが

その流れで今回も

同史料を扱います。

 

令和7年は終戦80年

という節目ということで

他シリーズでも

幕末明治以降について

触れています。

 

太平洋戦争について

深ぼって考えるためには

幕末明治にさかのぼって

考える必要があるためです。

 

また

当地だけではなく

戦争期において観音菩薩は

様々な願いが捧げられた尊格であり

この点からも様々

述べられることがあると考えています。

 

七崎観音についていえば

旧観音堂が廃止され

旧地は神社化され

七崎観音は遷座された

のが明治時代で

ひとつ(無分別)のものが

ふたつ(分別)にされた

ともいえます。

 

明治〜昭和20年(1868〜1945)の

77年の間は

目まぐるしさがあり

寺社関係についても

明治冒頭から

大きな変化がいくつもあります。

 

それらのことにも

触れながら眺めることは

とても有意義と捉えています。

 

細かなことについては

徐々に触れるとして

前回扱った史料について

以下に再掲します。

 

『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])の当地についての箇所

全く後人の偽作なれとも

本条と俚老の口碑を

採抜せるものなるへけれは

風土の考知らん為に左に抄す

 

七崎神社

祭神

伊弉冉命[イザナミノミコト]

勧請之義は古昔天火に而

焼失仕縁起等

無御座候故

詳に相知不申候

 

異聞あり

ここに挙く祭神は伊弉冉尊にして

勧請の由来は天災に焼滅して

縁起を失ひ詳らかなることは

知かたけれとも

四条中納言 藤原諸江卿

勅勘を蒙り◻刑となり

八戸白銀村(九大区 三小区)の

海浜に居住し

時は承和元年正月七日の

神夢に依て浄地を見立の為

深山幽谷を経廻しかとも

宜しき所なし居せしに

同月七日の霄夢に

当村の申酉の方

七ノの崎あり

其の山の林樹の陰に

我を遷すへしと神告に依り

其告の所に尋来るに大沼あり

 

水色◻蒼

其浅深をしらす

寅卯の方は海上漫々と見渡され

風情清麗にして

いかにも殊絶の勝地なれは

ここに小祠を建立したり

 

則今の浄地なりと

里老の口碑に残り

右の沼は経年の久き

水涸て遺阯のみ僅に

小泉一学か彊域の裏に残れり

 

当村を七崎と云るは

七ツの岬あるか故と云う

 

又諸江卿の霊をは荒神と崇め

年々八月六日より十二日まて

七日の間 祭事を修し来たれりと

(以上 里人の伝る所

社人の上言に依る)

 

この語を見に初

伊弉冉尊霊を祭る趣なれとも

縁起記録等なく詳ならされとも

南部重直の再興ありし頃は

正観音を安置せり棟札あり

 

〈引用文献〉

青森県文化財保護協会

昭和41(1966)年

『新撰陸奥国誌』第五巻

 

史料では

「七崎神社としての縁起」について

「全く後人の偽作なれとも」として

以下の2説を述べています。

 

  1. 祭神はイザナミノミコト。むかし火事があり、縁起など焼失して無いため、詳細については分からない。
  2. 祭神イザナミノミコトの勧請について、天災で縁起を失っているため、詳細を知るのは難しいと前置きをし、藤原諸江卿が当地に勧請したという説を示す。四条中納言であった諸江卿は、勅令により白銀に居住しており、承和元年(834)1月7日の夢でイザナミノミコトの神告を受け、当地に勧請された。

 

大まかにいえば

上記の様になります。

 

藤原諸江卿という人物が

登場していますが

この伝説的人物を祖先とする

家々が当地にあります。

 

藤原諸江卿は

大同2年(807)1月3日に

没したとの説もありますが

大同2年という年は

北東北全体において

坂上田村麿将軍と結び付けられて

語られる年号でもあり

おそらく明治以後に

旧観音堂エリアの“神社化”に

必要な縁起類の編成作業において

藤原諸江卿と大同2年が

結び付けられて

語り直されたと思われます。

 

田村麿将軍は

「観音菩薩の権化」と言われるなど

観音信仰と深く関わる人物でもあるので

神社化作業においては

田村麿将軍と藤原諸江卿が

入れ替えられた形で

縁起が編まれたと言えそうです。

 

七崎観音の縁起についても

同じエピソードで

主人公が

田村麿将軍と藤原諸江卿という

違いのものがあるので

先述の様な改変作業が

必要あって為されたと

考えられるのです。

 

当地の神仏分離作業中

縁起改変において

「藤原諸江卿」という人物が

重要な役割を担ったといえます。

 

当山に残る

古文書や棟札や

各種表白において

藤原諸江卿について

全く記述がないことからも

明治以後における

縁起改変作業で

採用された人物であった可能性が

高いように思います。

 

引用した史料では

藤原諸江卿を荒神として

祀っていたとの報告もありますが

当山と旧修験家が所有していた

荒神像は三宝荒神と思われることから

諸江卿を荒神として祀っていた

という報告は

神社化の縁起改変に伴う内容である

可能性があるものの

「藤原諸江卿=荒神」と祀って

そのための行事があったとすると

怨霊信仰や祖霊信仰の観点から

様々に述べることが出来るので

この辺は別の機会に

深めてみたいと思います。

 

これまで見てきたような

縁起改変作業は

時代的要求があって

実行されたものであり

必要があった故のことで

「不敬なもの」ではありません。

 

すこぶる強烈な

政治的・時代的圧力が

長い歴史や伝統を

政治的・時代的要求に耐えうる

縁起に編み直さざるを得なかったのが

明治における神仏分離の頃だった

とまとめられるでしょう。

 

紐解き七崎観音⑩

当シリーズ

1年以上ぶりの投稿です。

 

最近の投稿にも本シリーズと

大いに関わるものがあるので

そちらもご参照ください。

 

▼草創期に関して

「開創当時を考える」シリーズ

 

▼近現代に関して

R7開山忌関連(草創期と近現代について触れています)

 

前回(紐解き七崎観音⑨)は

語りの一旦を担い

その拡散に貢献した方々を

広い意味でヒジリと

表現してみました。

 

諸聖

山伏

修験者

私度僧

などをヒジリと言っています。

 

七崎観音に関する

霊験譚や縁起譚は

もともと口承によります。

 

寺社縁起や諸尊縁起ほか

霊験譚で語られるものは

歴史とは似て非なるものであることは

ずっと以前より強調してきました。

 

ここでいう歴史とは

現代的意味においての歴史であり

現在より時間的に遡って

実際に発生したことの記録

といった意味でしょうか。

 

縁起・由緒譚といった類のうちにも

先にいった意味での歴史が

含まれていないという

意味ではありませんが

歴史と等価に捉えるのは

難しいといえます。

 

語りの一翼を担い

多くの方に広げた

ヒジリには

様々な方が想定され

口々に発される内容は

各人において

内在化されたもので

その理解を踏まえた

表現(言い回しや抑揚など)も

異なるでしょう。

 

語りは

それを聞くものにとっての効果だけでなく

それを語るものにとっての効果も

認められるものです。

 

自身の内に

内在化したものを

第三者に向けて

伝達するプロセスは

昨今の臨床場面で見られることのある

ナラティブ・アプローチと

類似すると思われます。

 

声による伝達は

話者の内面とつながり

そして語りが伝達されるためには

対象者がいることが必要です。

 

ヒジリ→対象者

に話が伝達されれば

そこからさらに対象者を通じて

新たな話者(対象者)において

内在化されたものが

別の対象者へ伝達されるという

連鎖によって広がっていきます。

 

対象者から別の対象者への伝達を

第二次伝達とすれば

それはカッチリしたものではなく

世間話のような形であることの方が

多かったでしょうし

むしろ世間話のような形の伝達が

大きな拡散力を持っていたとも

考えられます。

 

口承は「声の伝達」とすれば

文書など記述によるものは

「文字の伝達」です。

 

さらにこれら伝達には

保存の働きもあるので

「声の保存・伝達」

「文字の保存・伝達」

ともいえます。

 

その両者は

保存・伝達という

働きが同じであっても

口承によるものは

簡略明快な内容である

傾向にあるのに比べ

文字によるものは

固定化が目指される傾向にあり

心情や場面などの

情景描写が多い傾向にあるなど

大きく異なります。

 

口承は声によるため

その内容が人々の記憶に

留められるとはいえ

文字などに記録されなければ

史料としては残りませんが

文書は

その内容いかんに関わらず

史料としては残ります。

 

唐代の義浄三蔵が

『南海寄帰内法伝』で

口承でしか伝えられていない

経典があったため

文字にとどめたと

記されているように

口承を重んじて

継承されてきたものが

あったことは

とても興味深く思いますし

口承は奥深いものだと感じます。

 

真言宗においても

口伝といって

文字に起こすのではなく

阿闍梨が弟子に対して

儀式において伝授する伝統が

今なおあることもまた

口承文化の尊さに通じると思います。

 

文字による保存・伝達は

現代に生きる私たちにとっては

とても馴染みあるもので

今や大量の情報を扱うことが可能です。

 

とはいえ

文字による保存・伝達の

性格は今も昔も共通しており

文字による情報の保存には

限界があるのは間違いなく

そのことに私たちの多くは

気がついているように思います。

 

たまたま残った文字が

当時からすれば

デタラメなものだった

なんてことがないとは

いいきれないわけです。

 

「語り」には

①物語などの内容

②語るという行い

の二つの意味があり

①が同じであっても

②の方法or主体により

バリエーションが生まれるのは

自然なことといえるでしょう。

 

七崎観音にまつわるお話は

一様ではないことについて

「語り」のあり方に注目して

わずかながら述べてみました。

 

七崎観音に関して

口承されてきた内容は

明治の到来とともに

イザナミノミコトと

藤原諸江卿のお話への

変更が図られることになります。

 

これは時代的背景によるもので

政府の政策において

神仏分離による“神社化”が

国家神道において

重要な意味を持つためです。

 

明治・大正・昭和(終戦まで)

を通して神社に関わる政策に

幾度か変遷があるにせよ

宗教ではなく祭祀において

大きな意味が付与されていきます。

 

旧来の縁起類の

改変の様子を

以下の引用に

見ることが出来ます。

 

『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])の当地についての箇所

全く後人の偽作なれとも

本条と俚老の口碑を

採抜せるものなるへけれは

風土の考知らん為に左に抄す

 

七崎神社

祭神

伊弉冉命[イザナミノミコト]

勧請之義は古昔天火に而

焼失仕縁起等

無御座候故

詳に相知不申候

 

異聞あり

ここに挙く祭神は伊弉冉尊にして

勧請の由来は天災に焼滅して

縁起を失ひ詳らかなることは

知かたけれとも

四条中納言 藤原諸江卿

勅勘を蒙り◻刑となり

八戸白銀村(九大区 三小区)の

海浜に居住し

時は承和元年正月七日の

神夢に依て浄地を見立の為

深山幽谷を経廻しかとも

宜しき所なし居せしに

同月七日の霄夢に

当村の申酉の方

七ノの崎あり

其の山の林樹の陰に

我を遷すへしと神告に依り

其告の所に尋来るに大沼あり

 

水色◻蒼

其浅深をしらす

寅卯の方は海上漫々と見渡され

風情清麗にして

いかにも殊絶の勝地なれは

ここに小祠を建立したり

 

則今の浄地なりと

里老の口碑に残り

右の沼は経年の久き

水涸て遺阯のみ僅に

小泉一学か彊域の裏に残れり

 

当村を七崎と云るは

七ツの岬あるか故と云う

 

又諸江卿の霊をは荒神と崇め

年々八月六日より十二日まて

七日の間 祭事を修し来たれりと

(以上 里人の伝る所

社人の上言に依る)

 

この語を見に初

伊弉冉尊霊を祭る趣なれとも

縁起記録等なく詳ならされとも

南部重直の再興ありし頃は

正観音を安置せり棟札あり

 

〈引用文献〉

青森県文化財保護協会

昭和41(1966)年

『新撰陸奥国誌』第五巻

 

以上の部分に

社人と里人の説が記載されています。

 

この部分には

当地の先人方の

明治政府より求められた

「旧観音堂の神社化」への

苦心しての対応を

見てとることが出来ます。

 

「全く後人の偽作」

とありますが

当時求められた神社化において

旧来守られてきた伝統や

地域に誇る歴史といったものを

下敷きにして

イサナミノミコトを祭神とした

縁起が用意されたと考えられます。

 

真言神道や両部神道という

神道と仏教が融合した形があるのですが

女神であるイザナミノミコトを

蓮華部という曼荼羅のパートを司る

観自在菩薩と

関連づけて捉える理解の方法を

採用したのではないかと

拙僧泰峻は考えています。

 

要するに

イザナミノミコトを祭神としたのは

神仏習合・真言神道の考え方や

曼荼羅の思想が背景にあり

七崎観音と七崎観音堂時代との

つながりを内包することで

行政的に実行される断絶を

乗り越えようとした

と考えております。

 

神仏分離が図られた頃

地域によっては

廃仏毀釈という現象が多発しますが

当地ではその風潮が希薄であり

旧観音堂の「神社化」が

漸次進められているように見えます。

 

現在の七崎神社の境内に

「ほこ杉」と呼ばれる

巨大な杉がありますが

この名称は明らかに

古事記・日本書紀の

神話に由来しており

天沼矛(あめのぬほこ・古事記)

天之瓊矛(あめのぬほこ・日本書紀)

から来ています。

 

古事記・日本書紀が

仏教的な様相を帯びて

語られた時代があり

その内容は

中世神話と表現されることもあり

神道灌頂といった儀式が

真言宗でも行われていたので

明治における諸対応への

根拠たる思想を

そもそも持ち合わせていた

とも考えられます。

 

明治における

改変された縁起について

次回も触れてみたいと思います。

 

紐解き七崎観音⑨

さまざまな尊格について語り

お寺について語り

お寺の本尊の霊験や

巡礼や修行などの功徳など

アラカルトなものを

広く巧みに語った方々が

全国各地に存在しました。

 

時代により

その様相は異なりますが

仏教伝来以前にもまた

巫術に通じる方が

“聖なる言葉”を

述べていたらしいことが

古い史料は伝えています。

 

七崎観音についてもまた

「語り」を担った方が

いたということを

今回のテーマとして

述べてみたいと思います。

 

高野聖

念仏聖

勧進聖

修験者

行者

山伏

などといった言葉は

誰もが聞いたことがあると思います。

 

当地における資料を管見すると

山伏や修験者といった言葉が

好んで用いられているものの

無警戒かつ広義的に

使用されているような感が

あるように思います。

 

このことは

真言宗や天台宗といった

用語についても同様で

専門的な観点からすると

違和感ある宗派感覚で以て

片付けられてしまっている

印象があります。

 

現在でいうところの宗派は

実はかなり現代的なものであり

江戸期であっても

表の法流(行政上のもの)と

実際の中心的な法流が

異っているという場合もあるのです。

 

横のつながりや交流も盛んゆえ

諸宗諸派の交流を通じた研鑽・修行は

珍しくないわけで

在地の山伏や行者や聖といった方は

もっと習合的様相があったということが

出来るので

どのような意味を託して

用語を用いているのかについて

定義するなり含みを持たせる

一手間が必要だと思います。

 

僧侶と一言でいっても

正式な得度ではない形で

沙門となった私度僧という

あり方もありますし

私度僧を修験者や山伏に

含めて表現することもありますし

歴史があってバリエーションもある

用語の使用というものは

とてもデリケートなことだと感じます。

 

七崎観音ほか

当山には十和田湖南祖坊伝説など

いくつか語り継がれるものがありますが

それら諸縁起・伝承・伝説を

受容する社会側からの検討が大部分で

それを主導した仏教者側の

思想的背景や意図などに

焦点を当てた検討は

ほとんど見られません。

 

これは当シリーズでも

何度か触れている点ですが

日本的な仏教的文脈にて語られ

共有されてきたと思われるものゆえ

仏教学的アプローチは

とても有効的であると確信します。

 

そういう課題意識を

抱いていることを

明言させていただいたうえで

本シリーズでは先に触れた

諸聖や山伏や修験者や私度僧などを

ヒジリと表現させていただきます。

 

漢字の聖ですと

尊い僧侶を意味することもあるので

カタカナでヒジリと

表記させていただき

広義的意味で用いたいと思います。

 

当地では現在

修験者という言葉が

山伏という言葉と区別なく

用いられている印象がありますが

諸国を遊行する山林修行者のうち

特に祈祷に効験ありとされたものが

修験者と称され

人々に支持されたわけなので

行状の程度等を無視して

用いてしまうと

限定的理解を招きかねないと思うのです。

 

山林修行の歴史はかなり古いとされ

近年では古代仏教の研究の成果により

かなり重層的なあり方であったことが

解き明かされてきました。

 

奈良時代になると

日本では山林修行に励む

仏教者が顕著となり

それは大乗仏教的菩薩行の一環として

実践されており

修行者は自利利他の二利を志向した

幅広い活動を行い

それは広く社会に及んでいたとされます。

 

当山の開創開山は

1200年以上さかのぼる

延暦弘仁年間(782〜824)に

圓鏡上人によるとされ

七崎観音のご出現もまた同等に遡る

天長元年(824)とされ

当地遷座は承和元年(834)とされ

時代区分でいうと平安初期にあたります。

 

古代仏教についての

先学の膨大な研究成果の力も借りながら

当山の諸縁起について検討することは

有意義であることは言うまでもないですし

当山当地の次代の方々に

竪横な手法のあり方を

示唆することにもつながると思います。

 

話が専門的になりつつあるので本稿は

語りの一端を担い

その拡散に一役かったのは

ヒジリたちだったとして

結ばせていただきます。

 

紐解き七崎観音⑧

観音菩薩

地蔵菩薩

不動明王

という尊格は

宗派などの枠組みにとらわれず

庶民にて大切にされ

抜群の支持を得ていたと

いうことが出来ると思います。

 

専門的な仏師ではなく

在地にて作仏された仏像を

民間仏(みんかんぶつ)と

称することがあります。

 

民間仏は

儀軌や経典に提示される姿ではなく

素朴な祈りの心を種として

僧侶・山伏・信者その他の在地の人の手で

つくられたものです。

 

素朴な祈りの心は

教理仏教とか哲学といったものとは

全く無関係ではないでしょうが

違う次元のもので

自然に湧き起こるような

願いや思いのことを指しています。

 

日本への仏教伝来の時期には

伝統的に二説(538年と552年)ありますが

日本書紀の記述を見ますと

伝来間もない頃は

各仏像についても

没個性的で未分化した認識のようで

とにかく現世利益的に

祈ったらしいことが記されています。

 

日本書紀の記述内容は

歴史的史実でないにせよ

当時の認識を

窺い知ることができ

これも素朴な祈りのあり方だと

いえると思うのです。

 

浄土信仰といわれる

祈りのムーブメントがあるのですが

この信仰の日本的展開を捉えるには

弥勒菩薩と兜率往生

阿弥陀如来と極楽往生

観音菩薩と補陀落往生など

時代時代に主流が転じたことを

おさえる必要があります。

 

天平時代の終わり頃までは

弥勒菩薩の信仰が

阿弥陀如来の信仰を

はるかに凌いでいたことを

ご存知でしょうか?

 

また

阿弥陀信仰が

表立って支持された時代においても

弥勒信仰は並立していることが

伺われますし

観音信仰もまた対立するものではなく

支持され尊ばれていました。

 

普賢院には

十和田湖の龍神になったとされる

南祖法師の伝説が伝えられますが

その様々な筋書きには

いま見ているような

並立する諸要素を

汲み取ることが可能で

この伝説についても

本シリーズで試みているように

伝説を通じて多様なモノを

あれこれと伝えられ

さらには生きるうえの糧となるような

メッセージに重なるようなモノを

お伝え出来るような形を目指したいと

かねてより考えております。

 

十和田湖伝説は最近では

観音信仰と結びつけて

捉えられている感がありますが

それは一面であって

弥勒信仰が色濃く

反映されていることは

別シリーズで別の機会に

ご紹介いたします。

 

ここまでが前置きなのですが

七崎観音にまつわる諸事ついても

観音信仰としてのみ

捉えようとすることが難しい

ということをお伝えしたかったのです。

 

そこには様々な要素が

豊かに織り交ぜられていて

生きた祈りがあって

切実な願いがあって

さらには様々な事情が影響して

語り継がれてきたものとして

縁起などと向き合うことが

有意義な姿勢であると思います。

 

現在に伝わるものが

そのままの形で

古来から継承されているとは

思えませんが

時代時代の激動を遡って

いささか想像に挑むことは

ある程度可能かもと考えています。

 

それとは別に

ほかの観音譚や説話を頼りに

観音菩薩のエピソードをもとに

カスタマイズを行い

七崎観音霊験譚として

新たな形に創作してみるのも

よい方法のようにも感じています。

 

七崎観音の由緒云々については

考察や検討することで

何らかの最適解みたいなものが

導き出されるわけではありませんが

全国各所に伝わる観音霊験譚をもとにして

観音菩薩にまつわるエピソードを

伝統的な構成により創作してみるのは

オンリーワンの素敵な

プロジェクトになるように思います。

 

七崎観音についての

縁起や由緒について

これまでも何らかの機会に

時代的背景・価値観が

多分に反映された形で

文書として編集されてきたと

思われます。

 

弘法大師御遠忌といった

祖師方の節目や

塔堂建立・仏像造立などの節目に

寺院や諸仏の

縁起・由緒が見直されて

新たに共有されるということは

何度も繰り返されることです。

 

当山の各種記念誌や

講演史料や寺報などの刊行で

七崎観音について述べることが

幾度もありますが

七崎観音について

以前まとめられたものの一例として

大正6年(1917)に編集された

『郷社七崎神社誌』(小泉幸雄著)が

あげられます。

 

かつて七崎観音堂は

現在の当山より南方に位置する

七崎山または観音山と称される

山にありましたが

明治になり旧七崎観音堂は廃止となり

当山の境内地から切り離され

その地は七崎神社に改められました。

 

小泉幸雄(旧修験家の神宦)氏の

『郷社 七崎神社誌』は

明治元年(1868)から49年も経った

大正6年に完成したものなので

その内容を紐解くには

ピンポイントな

時代背景はもちろんのこと

明治への転換期のことも

注意深く踏まえる必要があります。

 

明治以後から昭和の戦中にかけ

神社の行政的位置づけが

段階的に変容するので

この点についても

把握しておく必要があると思います。

 

明治に改まって

それほど経過していないうちの

当地の記録として

紐解き七崎観音①資料1

『新撰陸奥国志』(明治9年[1876])

に記述があり

さらにここでは

明治仕様となった縁起について

語った地元の方に対する

筆記者の意見が垣間見られる箇所もあります。

 

行政的な神仏の線引きが図られた明治時代。

 

各種併存し習合していた

素朴な祈りの心が

「上からの改革」により

あるがままではなくなり

手直しされた新たな縁起を

用意することになりました。

 

明治になって

スイッチのオン・オフのように

神仏分離が図られたわけではなく

完全に神社として分離されるまでには

時間がかかったことが

史料からうかがえますし

当時の住職や旧修験家や総代はじめ

地元の方々が段階を設けて

重大な案件に向き合ったことが

うかがわれます。

 

今回は

素朴な祈りの心には

諸要素が豊かに含まれていることに

触れながら述べてみました。

 

素朴な祈りの心は

時代によって異なるとは思いますが

誰にでもある心だと思います。

 

七崎観音は

額部33観音霊場第15番札所の観音様ですが

この霊場が成立した背景や

巡礼が重ねられた背景にもまた

生きた祈りの心があり

さらに先達を務めたであろう

山伏や信者などの中には

切実な背景を背負った方も

多かったと想像されます。

 

次回は

七崎観音に仕えたうえ

教導にも関わった方々にも触れながら

あれこれと紹介してみたいと思います。

 

つづく

 

紐解き七崎観音⑦

七崎観音縁起ほか

当地に伝わるお話には

藤原諸江という人物が

しばしば登場します。

 

近世の文書では

この諸江卿は荒神として

祀られていたらしいことが

報告されています。

 

なお当山には

旧修験家に預けていて

返還されたと思われる

仏教的な荒神の鋳像が

数体残されているので

諸江卿としてだけでなく

荒神は三宝荒神としても

祀られていたものと

推測しています。

 

民間信仰や庶民信仰と

表現されるような

身近で日常的な祈りのあり方は

各種併修・併存したのであり

理論と実践

教義と実際は

別物であると考えます。

 

そうとはいっても

教相・事相(専門的な教義や作法など)を

軽んじるつもりはありませんし

むしろそれらを踏まえなければ

身近なものとして

捉えられていたであろうものを

浮かび上がらせることは難しいと

常々思っています。

 

荒神の話に戻りますが

民俗学のある説では

古いお墓であったり

地域の始祖が祀られたものを

荒神と呼ぶことがあり

きちんと崇め祀らなければ

荒ぶる神となり

災がもたされるという

古くからの観念が想定されています。

 

そういった観念は

荒神だけではなく

民衆的なものも含めて

多くの神仏に通じていたのです。

 

藤原の家筋を

祖先とするお家が

当地に今も残ります。

 

藤原家を出自とし

“大人の事情”により

都から当地に流罪に処されたという筋書きは

尊格縁起だけでなく

祖先縁起としても採用されていることは

注目すべきことと思います。

 

祖先縁起という点では

七崎観音を引き揚げたとされる一人

坂上田村麻呂公についても同様であり

公に由来するとされる家もまた

当地にもあります。

 

系譜は

今も重んじられていると思いますが

かつては今の比ではなく

重んじられたものです。

 

この点も踏まえて

七崎観音縁起を検討することは

語り継がれてきたものの

背後にあるであろうものへ

接近しうる方法といえるでしょう。

 

系譜は連なりです。

 

何の連なりであるかにより

名称も趣旨も異なると思いますが

仏道でも法流・血脈という

系譜が重要視されます。

 

法流は師子相承の流れであり

伝授の証として印信が授与されます。

血脈は葬儀の際の引導でも用いられるため

一般にも知られていると思いますが

引導作法における血脈は

「仏へ連なる法流の系譜」といえます。

 

ちょっと違った観点から

系譜の意義について考えてみましょう。

 

現代は

スマホやカメラで撮影することができ

気軽に記録を残すことが出来ます。

 

写真技術は幕末の日本に伝えられ

明治以降徐々に社会に受容され

今では身近なものとなりました。

 

今生では

会ったことのない

自身の血縁者の容姿を

写真で拝見することが出来ますし

動画記録があるならば

映像を通じて認知することが可能です。

 

目視可能な状態で

自身の血縁者の先人と向き合うことが出来

その方が生きた時代についても

多くの視聴資料に触れやすいので

ある程度具体的に思い描きやすいと思います。

 

このような状態であれば

自身の家の血縁の系譜についても

字面だけのものとしてではなく

実感をもって血縁を感じることが出来ます。

 

現代的な系譜の実感は

とても具体的なのです。

 

当山は真言宗豊山派なので

ついでに真言宗の血脈についても

紹介したいと思います。

 

現代的な系譜の実感は

とても具体的であることの話ついでですが

真言宗において系譜(法流)が

非常に重んじられていることは

本堂の荘厳から明らかです。

 

本堂には八祖図あるいは八祖像を

祀る習わしとなっています

(本山や本寺格では、十祖が祀られることが多い)。

 

ちなみに

荘厳具としての八祖と

作法における八祖は区別されており

前者を「伝持の八祖」

後者を「付法の八祖」といいます。

 

水が瓶から瓶へ

もれなく移し来たった如く

連綿と法が継承されてきたことを

八祖は意味します。

 

八祖にはインド、中国の高僧の名が連ねられ

第八祖に弘法大師が連なります。

 

八祖以後も連綿と法が継承され

師子相乗が重ねられ

今に至っていることを考えると

とてもスケールの大きいことだと感じます。

 

当山ではお弔いでの引導作法では

(付法の)八祖から始まり

以後の高僧方が代々継承され

現在の住職に至る法流に

故人を連ねた血脈をお授けして

棺内に納めさせていただいております。

 

現代的な系譜の時間は

テクノロジーにより支えられたものです。

 

テクノロジーにより

その時々の様子が写し取られ

記録されることが可能になりました。

 

それでは話を本筋に戻し

大テーマである七崎観音縁起について

先に触れた諸家の系譜云々の再考から

述べてみたいと思います。

 

日本に限らず系譜の祖に

血縁者ではなく「仮託された人物」が

据えられることは珍しくありません。

 

尊格であったり鬼であったりが

「祖先」と位置付けられる場合があります。

 

現代的系譜が

現実的共有に重きがあるとすれば

“テクノロジー以前”の系譜のあり方は

精神的共有に重きがあるといえます。

 

精神的というのは

現代でいうスピリチュアルも含むし

信仰ということも含みます。

 

とすれば

血縁の系譜は祈りに関わるものであり

誉であったり

心の安寧にも

つながりうるものといえます。

 

荒神はじめ

様々な祭祀の実施は

“荒ぶる神仏”を鎮めるとともに

恩恵を願うものだったといえます。

 

藤原の血統とされる

当地のお家には

かつて修験家であった

お家もあります。

 

当地の七崎修験は

七崎観音に仕える方々であったともいえ

それを踏まえると

当地のお話にチラホラ登場する

藤原諸江卿の意味が

うっすら見えてこないでしょうか?

 

流刑に処され

悲運をたどらされた

京都からの貴人のお話は

近隣地域でも聞かれます。

 

その意図するところは

幾通りにも考えられるでしょうが

系譜を尊び

氏神や祖先と位置付けられた

「先祖」を慈しみ敬い

天災・飢饉・疫病が招かれることを厭い

風雨順次・五穀豊穣・萬民豊楽が

願われていたことを

藤原諸江卿のお話や

その娘ともされる七崎姫のお話などは

垣間見せていると思います。

 

御霊会などと絡めながら

お浜入りの行事や

七崎観音縁起について

検討するつもりでしたが

予定とは少し別のお話と

なってしまいました。

 

全く関係ないお話ではないのですが

とても大切なことと思いますので

ご容赦いただければと思います。

 

つづく

 

紐解き七崎観音⑥

七崎観音の縁起・由来の諸譚について

死生観を背景とする供養習俗の事例や

蓄積されている先学の研究を手がかりに

再検討を重ねているわけですが

供養のために観音菩薩が造立された

というそもそもの部分が

見えてまいりました。

 

七崎観音が祀られるお堂を

七崎観音堂といいます。

 

七崎観音堂は現在

普賢院本堂の内御堂として

おそらく(いや間違いなく)

七崎観音堂史上

もっとも荘厳な空間となっています。

 

現在の七崎観音堂には

とても多くの仏像が祀られますが

特定の個人の供養が志向されて

造立・奉納されたものも見られます。

 

供養のため以外の

仏像造立契機としては

宗祖弘法大師御遠忌や

塔堂造立の節目にあたってであったり

天変地異などの際であったり

何かしらの願目が捧げされ

霊験ありとしての御礼としての実施などが

主にあげられます。

 

供養のための仏像の作仏について

当山にて祭祀される仏像のうち

千手観音坐像を一例として

もう少し紹介させていただきます。

 

現在の七崎観音堂

向かって右側の脇堂

最上段中央の厨子に納められている

千手観音坐像は

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下学秀)

という田子町出身の禅僧が

作仏されたものです。

 

学秀については当ブログにて

青森の円空 奇峯学秀

というシリーズで紹介してますし

折に触れて紹介しております。

 

記事カテゴリーとして

青森の円空 奇峯学秀

を設けているので

記事数が多いのですが

詳しくはそちらをご参照ください。

 

ここでは便宜的に

一部画像資料を以下に添付します。

 

資料①学秀と千手観音坐像について(2021/2/8ブログ掲載)

 

資料②千手観音坐像について(2021/2/8ブログ掲載)

 

資料③七崎観音と千手観音坐像(2021/2/8ブログ掲載)

※資料中、本七崎観音は修繕中とありますが、現在は修繕が終わり安置されています。

 

資料④千手観音坐像が奉納された時期の住職に関して(2021/2/8ブログ掲載)

 

円空が作仏した円空仏については

紐解き七崎観音④でも

若干触れましたが

死者供養のために作られ

菩提のため海に放たれたと

考えられる事例があります。

 

参考までにですが

広く事例にあたれば

水に関する供養のあり方は

海だけでなく川や湖などでも

行われていたことが確認されますし

流水灌頂という作法に

代表されるように

仏道における作法としても

今に伝えられるものがあります。

 

この点も

後々の考察において

関わってくるので

今の所は深入りせずに

次に進ませていただきます。

 

学秀の作った仏像も

素朴で簡素な作りをしており

円空仏を彷彿とさせることもあり

地元では学秀仏といわれます。

 

資料にもある通り

学秀は供養のための浄行として

かなり多くの作仏を実施しています。

 

飢饉や戦乱により

多くの命が失われたわけですが

その供養のために

無数の仏像が作仏されたわけです。

 

学秀に関する先行研究は

郷土史家の方や

それに準じる方によるものが中心で

管見する限り

仏教的観点からの本格的分析は

見られません。

 

ただ仏教的観点から

学秀の業績やその周辺について

紐解くのであれば

諸行に込められたであろう

意味合いや背景が

浮かび上がるように思います。

 

それは機会があれば

紐解きに臨んでみたいと思います。

 

供養のために

仏像が造立されることを

当山に祀られる千手観音坐像の

作者である学秀を例に

改めて確認してまいりました。

 

学秀は

飢饉や戦乱といった有事に

見舞われた時代を生きました。

 

世界的ベストセラーとなった

『サピエンス全史』の筆者で

イスラエルの軍事学者である

ユヴァル・ノア・ハラリは

人類が常に向き合ってきた

3つの困難として

疫病・戦争・飢饉

をあげています。

 

今でこそ日本において飢饉は

縁遠イメージがあると思いますが

東北は何度も飢饉に見舞われ

そのインパクトはとてつもなく大きいものでした。

 

飢饉の際は疫病を伴ったり

社会不安が人心を蝕んで

物騒な世の中になってしまったりと

生きた心地がしないような

日々を多くの方が送ったものと想像します。

 

壮絶なリアリティがあり

理不尽とも地獄そのものとも

思われる厳しい現実を

目の当たりにしたからこそ

多くの仏像を作仏するに

至ったものと考えます。

 

ハラリ氏が

三大困難にあげていないものでは

自然災害もまた先人方が

常に向き合ってきた大きな出来事です。

 

地震大国ですし

明確な四季のある日本自然の

時々の猛威などは

歴代無数に発生しています。

 

そのような背景も踏まえると

供養のため鎮魂のため

様々な方法により

祈りを捧げてきたことについて

いかに切実であったかが

見えてくると思います。

 

前回も今回も

供養という言葉だけでなく

鎮魂という言葉も用いていますが

庶民信仰としての行いを紐解くには

「鎮魂」という死生観(もっといえば霊魂観)

が意識された行いについて

検討する必要があると思うためです。

 

日本の多くの神事や祭事は

もともと鎮魂が目的ともいわれます。

 

七崎姫の物語をモチーフにした祭事である

お浜入りについて前回は触れましたが

八太郎の定期的監視という意味だけでなく

七崎姫の鎮魂という意味合いも

あったと思われると述べました。

 

4月7日に行われていたという

時季的なこともあわせてみると

七崎姫の鎮魂に代表せしめ

御霊会(ごりょうえ)に通じる

祈りが捧げられていたと考えます。

 

七崎姫については

短い物語でありながら

そこからアプローチが可能と思われる

要素がたくさんありますし

お浜入りに関しては

深掘りして考えるべきものと思うので

主流となっている縁起譚とともに

丁寧に見ていきたいと思います。

 

つづく

 

紐解き七崎観音⑤

前稿では

海から引き揚げられたとされる

七崎観音縁起の「前段階」についての

検討を試みました(前稿参照)。

 

結果として

死者の供養のために

作られた観音像が海に放たれ

それが白銀で引き揚げられて

当地に遷座されるに至った

という流れを提示いたしました。

 

八戸市白銀は当山と縁深い場所で

白銀の清水川観音(糠部霊場札所)は

かつて当山が管理していた観音堂です。

 

七崎観音の由来については

白銀の浜といういわれの他

八太郎とのいわれもあります。

 

白銀と八太郎は

浜づたいの地域であり

八太郎地区が開発工事される以前は

現在以上に隣接感があったでしょうから

白銀と八太郎あたりに

七崎観音の「出現」が

設定されているという感じで捉えています。

 

参考までにですが

藤原諸江卿が白銀に上陸して

浜をつたって八太郎に着き居を構えて

漁師として暮らしている中

天長元年(824)4月7日に

漁をしていると網に

聖観音がかかったので

祀ったという一説があります。

 

その説では

諸江卿が承和元年(834)1月7日に

夢告にて当地に

その聖観音を祀ったという

筋書きになっております。

 

明治元年(1868・戊辰)の後に

廃止されたお浜入り(御浜出)という祭事は

当地から八太郎の浜まで

御神輿を担ぎ行列をなして

赴くものでした。

 

そのことについては

これまで何度かブログで

紹介しているのですが

当シリーズに関連するものとして

稀代の古刹⑥のリンクを以下に

示しておくので

そちらをご参照ください。

 

稀代の古刹 七崎観音⑥(2019/2/1)

 

八太郎へのお浜入りについて

紐解き七崎観音①掲載の

資料1.『新撰陸奥国志』における

記述を註も含め以下に引用します。

 

四月七日の◻或は昔出現ありし所なりとて

八太郎(九大区一小区)に旅所あり

黒森浜に輿を移し

其時 別当 役々残らす扈従し

氏子百五十人余

その他遠近信仰の従相随ひ

八太郎浜は群参千余人

海上には小艇に乗して

囲繞すること夥し

旅所は黒森にありしか

戊辰後これを廃し

(※現在、本堂前に祀られる北沼観音に関する記述。現在普賢院に祭祀される北沼観音は、八太郎の蓮沼にあったが、昭和39年[1964]に当山に遷座された。北沼観音は七崎姫伝説という物語に関連。七崎姫伝説とは、藤原諸江[もろえ]の娘である七崎姫が、八戸市の八太郎の沼に住む大蛇を命と引き換えに改心させたという物語。その姫を観音様として祀ったのが、七崎観音であるという由緒譚も一説として伝えられる。)

 

明治まで行われていた

お浜入りは

七崎姫伝説の筋書きを

踏まえたものです。

 

七崎姫の出自については

藤原諸江卿の娘という説のほか

七崎の長者の娘という説もあります。

 

八太郎は

義経伝説も伝えられる地域です。

 

引用文より

八太郎が出現した場所であるとして

旅所があったとされていたことが分かります。

 

人々を苦しめていた

八太郎の沼の大蛇を鎮めるため

七崎姫なるお姫様が

人身御供として命を捧げる

“利他行”を実行し

その菩提を弔うために

七崎姫を七崎観音として

お祀りされたという物語が

七崎姫伝説といわれるものの内容です。

 

とても短いエピソードですが

様々に検討出来る要素が

散りばめられています。

 

扱うことが出来る要素を

あげれば切りがないので

後の機会にゆずりますが

供養として観音菩薩が

祀られた点が

何といっても大切だと思います。

 

「七崎姫を七崎観音として祀った」

という文章も深く考えてみると

七崎姫が供養のために

①七崎観音として祀られた

②観音像が七崎に造立・奉納・安置された

と一様でなく読むことが可能です。

 

ちなみにですが

七崎観音別当である当山に対しても

七崎観音の名が用いられるケースもあるので

七崎姫の供養のあり方についても

様々に検討の余地があります。

 

現在当山では

本堂前に鎮座する北沼観音を

七崎姫に有縁の“姫観音”として

お祀りしており

七崎観音として祀られる観音様とは

別の観音様として祀られています。

 

この法式は

以前からのものなので

お浜入りの祭事が行われていた頃も

主なる縁起がありながら

各様の縁起も尊重されていたのではと

想像いたします。

 

拙稿の無理矢理なまとめに

移らせていただきますが

七崎観音縁起とされるお話を

検討してみるに

「供養のために」という切なる動機が

あるらしいということが分かります。

 

お浜入りについて言及される際

七崎姫が身命を賭して

改心・解脱させた大蛇が

再び乱心せぬかを確認すべく

なされたものであるという

説明がされますが

それだけに留まるものではないと

拙僧は考えております。

 

具体的にいうと

七崎姫の供養・鎮魂という

意味合いもあったものと考えています。

 

そもそも祭事の大部分は

鎮魂が志向されるとされます。

 

次回以降

そのことに関連して

供養・鎮魂のための仏像の作仏の

一例を確認してみたいと思います。

 

つづく

 

紐解き七崎観音④

七崎観音が

大海より引き揚げられた

という縁起に着目しつつ

その背景にあると想定される

死生観についても思い巡らすことは

より俯瞰的な検討に

つながるはずです。

 

そんな課題意識を持ちながら

これまで当シリーズを

連載しております。

 

紐解き七崎観音①には

資料を多く掲載していますが

ここで紹介している

七崎観音縁起の類は一部であり

実際はかなりのバリエーションがあります。

 

このような豊かな語りについては

前稿(紐解き七崎観音③)にて

述べさせていただきましたが

行者などの語り部が

歴代多数存在したのであれば

極端な話

その数だけのバリエーションが

あってもおかしくありません。

 

普賢院は

十和田湖伝説の南祖坊として有名な

南祖法師が弟子として修行したと

伝えられますが

その物語についても同様で

興味深く「脚本」され

各地域にてカスタマイズされたものが

確認されます。

 

現代的感覚からすれば

荒唐無稽と思われるかもしれませんが

注意深く多種内容を吟味してみると

発信者の立場によって

重点が異なりますし

果たして同列に括って良いものかと

思わせられるものも見られます。

 

そういったことも含めて

検討してみると

各「語り」が意図しているものが

浮かび上がってくるものもあるのですが

それはまた機会があれば

記してみたいと思います。

 

前稿後半で

「大海から引き揚げられた」ということは

「大海に解き放たれた」ことにも

目を向けてみようみたいな

提案をしたかと思います。

 

観音菩薩と海は

ご縁が深いものとして

捉えられていたということは

既に述べました。

 

もっといえば

その観念というものは

仏教的思想のはるか以前から

あったと推定されるものが

関わっているとされるということも

既に述べております。

 

前稿では水葬について触れましたが

故人を海に放つ行為は

海のかなたの補陀落浄土へ送ることが

志向されております。

 

また生きた者が舟で大海へ出航し

命の限り補陀落浄土を目指すという

捨身行ともいえる行いは

行を通じて浄土へ往くことが

志向されています。

 

観音菩薩の浄土である

補陀落浄土が

海のかなたに想定されているという点は

これまで触れてきた

「海の信仰」を考える

重要な要素となります。

 

古代神話においては

常世(とこよ)と呼ばれるところは

死者が往くところであり

年をとることもなく

まさに幻想的な楽土だと

捉えられていたとされますが

今見てきた浄土の観念が

庶民信仰において常世の

仏教的翻訳として無意識に

受容されたといっても

多くの方が納得出来ると思います。

 

弔いについての話題に触れたので

もう少し同話題を

続けさせていただきます。

 

円空仏は有名かと思います。

 

一説によると

北海道の西海岸に見られる

円空仏のうち蓮華を持ったものは

高野山の二十五菩薩来迎図に着想があり

死者供養のために作られたとされます。

 

また

円空仏が多い同地方では

漂流している仏像を引き揚げ

豊漁を期して祀ったものが見られます。

 

漂流したものが

引き揚げられた例は

他所にも見られるのですが

仏像が死者供養のために流されたもので

それらが引き揚げられて

本尊や神体として

祀られることが多かったと

見られています。

 

死者供養というのは

主に海難者とされます。

 

なぜ

死者供養の仏像を祀るのかというと

豊漁になるという信仰が

あったからだそうです。

 

一部の海岸地域では

漂流する水死者と遭遇した場合

その死者を「エビスさま」と称し

故人を引き揚げることは

大変に縁起の良いことであり

豊漁が約束されるとの信仰がありました。

 

以上のような信仰が

漂流する仏像を引き揚げて

祀るという行いの動機として

ある程度共有されていたと

考えられるわけです。

 

また長くなってしまいましたが

これまで語られてきた

七崎観音縁起は

「海→引き揚げ→当地に遷座」

というものが別当寺としては

採用されております。

 

この大筋について

本稿で見てきた内容を参考に

ふくらませてみると

供養のために作仏した観音像が海に放たれ

それが白銀にて引き揚げられ

当地に遷座された

という流れを提示することが出来ます。

 

引き揚げられた地とされるのは

白銀だけでなく八太郎とのいわれもあり

八太郎に関するエピソードでは

七崎姫というお姫様の供養として

七崎観音が祀られたと伝えられます。

 

提示された「新説」と

七崎姫伝説に共通するのは

供養を契機とした

縁起であるという点です。

 

これまでですと

諸縁起のうち七崎姫伝説が

他説と異色のように

捉えられていたと思うのですが

本稿で見てきたように

死生観が窺える信仰のあり方を

ひとつの手がかりとして

主な縁起(海→引き揚げ→遷座)を

再検討して提示された

“供養のために海に放たれた説”により

七崎姫の供養のために祭祀されたという

七崎観音縁起が

実は他説と重なるものがあると

捉えられるようになったと思います。

 

そんな所で

本稿は終えさせていただきます。

 

つづく