稀代の古刹 七崎観音⑬

当山本堂内の観音堂の

内殿中央に祀られる

聖観音(しょうかんのん)は

七崎観音(ならさきかんのん)と呼ばれ

その起源は平安時代にまで

さかのぼるとされます。

 

当山は古くから

七崎観音の別当をつとめております。

 

七崎観音は明治時代になるまでは

本堂の位置から南方に位置する

現在の七崎神社の地に建立されていた

観音堂にお祀りされておりました。

 

その観音堂は七崎山徳楽寺

という寺号が用いられ

諸堂も整備されておりましたが

明治の神仏分離政策のため

廃寺となり七崎神社として

改められました。

 

七崎観音へ捧げられた祈りの痕跡として

今回は観音堂へ奉納された

吊り灯篭を紹介させて頂きます。

 

現在観音堂には吊り灯籠が

6つ吊るされております。

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そのうち2つの吊り灯篭について

紹介させて頂きます。

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その①【寛文10年(1670)吊り灯篭】

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まず1つ目の吊り灯篭ですが

六面の各面に

以下のように刻字がされております。

 

金燈籠所願成就所

奉懸奥州南部三戸郡之内

七﨑村観音御宝前

願主 槻茂左衛門尉 藤原清継

寛文十庚戊(1670年)月日

 

この吊り灯篭は

平成31年・令和元年(2019)から

349年も前に奉納されたものです。

 

この時期は

永福寺41世・宥鏡(ゆうきょう)上人の

時代にあたります。

 

当山先師である宥鏡上人は

奈良県の長谷寺から

永福寺住職として

お迎えされました。

 

慶安4年(1651)

三代将軍家光公がご逝去された際には

日光東照宮でのご供養のため

召し出されております。

 

さらに宥鏡上人は

盛岡城の時鐘の銘文を

仰せ付けられたり

二戸の天台寺の

桂泉観音堂と末社の棟札も

記されていらっしゃいます。

 

宥鏡上人の晩年である

延宝8年(1680)に

盛岡永福寺は火災にあっており

その後焼けて損じてしまった

仏像や経典などを

東の岡の地中に納め

歓喜天供養塚を建立し

同所を41世以後の住職はじめ

末寺住職や所化などの境内墓地とし

さらには十和田山青龍権現を

勧請して祀られました。

 

宥鏡上人と七崎観音堂の関係でいうと

当山所蔵の明暦2年(1656)の棟札には

宥鏡上人の名が見られます。

 

この棟札は

観音堂と末社十二宮を再興した時のものです。

 

南部第28藩主・重直公が

病気の際に七崎観音に祈願した所

霊験があったとして

再興が成されました。

 

同時期には

三戸の早稲田観音堂も再興されております。

 

早稲田観音堂がある

三戸の沖田面は

三戸永福寺があった場所で

本坊が盛岡に建立された後は

自坊・宝珠山 嶺松院(れいしょういん)

が旧地を引き継ぎました。

 

宥鏡上人の後に永福寺住職となられたのが

清珊(せいさん)上人です。

 

清珊上人と南部29第藩主・重信公が

なされた連歌が

盛岡の地名の由来といわれます。

 

清珊上人の代になり

七崎永福寺は普賢院に

「改められた」とされます。

 


その②【天保8年(1837)吊り灯篭】

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2つ目の吊り灯篭は

天保8年(1837)正月に

永福寺57世・宥威(ゆうい)上人により

奉納されたものです。

 

こちらの吊り灯篭には

以下のように刻字されております。

 

奉納七﨑山観世音菩薩

諸願成就 皆令満足

永福寺権僧正 宥威 敬白

天保八歳次丁酉(1837年)

春正月摩訶吉祥日

 

宥威上人は

権僧正(ごんそうじょう)という

とても高い僧階(そうかい、僧侶の位)

にあられた住職です。

 

宥威上人は

天保10年(1839)に御遷化(ごせんげ)

されていらっしゃるので

観音堂の吊り灯篭は

亡くなられる2年前に

奉納されたことになります。

 

当山の『先師過去帳』には

先師として盛岡の

当山本坊である永福寺住職も

記されてまいりましたが

永福寺57世・宥威上人が

本坊の住職として記される

最後の住職となります。

 

▼宥威権僧正

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今回は

2つの吊り灯篭を

紹介させて頂きました。

 

お寺に祀られる仏像や

設えられるもののことを

宝物(ほうもつ)といいます。

 

宝物に通わされる

個々の物語は

どれも尊いものです。

稀代の古刹 七崎観音⑫

当山本堂内の観音堂

内殿中央にお祀りされる

聖観音(しょうかんのん)は

七崎観音と通称され

古くから親しまれております。

 

七崎観音は明治時代になるまでは

現在の七崎神社の地にあった

観音堂にお祀りされておりましたが

神仏分離政策のため

旧観音堂は“廃寺”となり

七崎神社に改められました。

 

“大正の広重”とも称された

鳥瞰図(ちょうかんず)絵師である

吉田初三郎(よしだはつさぶろう)

(明治7年(1884)〜昭和30年(1955))

の「十和田湖鳥瞰図」には

当山も描かれております。

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「十和田湖鳥瞰図」には

永福寺と七崎神社の名称が

記されております。

 

ここに記される永福寺とは

現在の普賢院です。

 

当山は江戸時代初期頃まで

永福寺の寺号が

主に用いられており

永福寺42世住職である

清珊(せいさん)の代に

普賢院になったと伝えられております。

 

永福寺という寺号は

鎌倉時代からのもので

南部氏との関わりがあるものですが

普賢院そのものは

弘仁初期頃(810頃)に

開創されたと伝えられます。

 

当山は十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)が

修行したと伝えられるお寺です。

 

南祖坊は

七崎永福寺(現在の普賢院)の

月法和尚(当山2世)に弟子入りしたと

伝えられております。

 

吉田初三郎氏がこの伝説を

踏まえていたのか否かは

分かりませんが

「永福寺」と七崎の名が付され

明治以後に神社に改められた

「七崎神社」の名称が

鳥瞰図に記載されていることは

十和田湖と当地の関わりの深さを

反映してのことであると

言えるかもしれません。

 

現在の観音堂は

多くの荘厳具が設えられており

現在に歴史を伝えるものが多くあります。

 

以下の写真は

観音堂内陣の扁額です。

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この扁額は

文化13年(1816)4月に

菊池氏により奉納されたものです。

 

扁額の書は

三井親孝によるものです。

 

三井親孝は

江戸中期に活躍した書家である

三井親和(しんな)の子です。

 

この扁額には

「正観世音(しょうかんぜおん)」

の文字が“芸術的”に

記されております。

 

つい先日

他の扁額の落款を解読するために

様々な字典にあたったのですが

その際に文字の奥深さを

感じました。

 

白川静氏によると

「文字」は祭祀儀礼のために

生まれたそうです。

 

口という漢字の字源は

「祝詞を納める箱」だそうです。

 

話を扁額に戻すと

三井親孝の「正観世音」の

「正」の一画目の一の部分が

“原初的な漢字の口”

(「さい」といいます)に

なっており

字自体に祭祀的意味合いを

見て取ることが出来ます。

 

扁額を通じてご縁のある

三井親和・親孝については

文化的に功績のある

方なので今後改めて

その足跡を追わせて頂き

学びを深めさせて頂こうと思います。

 

さて

今回は三井親孝書の扁額を

紹介させて頂きました。

 

観音堂には多くの仏像や

宝物(ほうもつ)がありますので

次回からはそれらについて

紹介させて頂きたいと思います。

稀代の古刹 七崎観音⑪

当地はかつて

七崎(ならさき)と

呼ばれておりました。

 

この七崎には

かつて当山の前身である

永福寺がありました。

 

当山は永福寺時代より

七崎観音の別当でもあります。

 

「永福寺」と一言でいっても

その実態は中々複雑かつ複合的でして

現在の当山ような形態とは異なります。

 

昭和期の永福寺住職である

熊谷精海(せいかい)師は

永福寺は江戸時代になり

本坊が盛岡に構えられ

42世住職・清珊(せいさん)の代に

七崎永福寺は普賢院になった

とお話されていたそうで

その伝を当山では踏まえております。

 

今回は

「永福寺」というお寺の名前である

寺号(じごう)について

見ていきたいと思います。

 

当地の住所にも残る

「永福寺」という寺号は

甲州南部郷より遷座され

三戸沖田面に建立された

新羅堂の供養を

鎌倉の二階堂永福寺の僧侶

宥玄(ゆうげん)が勤めたことに

由来するとされます。

 

鎌倉では

永福寺を「ようふくじ」と

読んでおります。

 

鎌倉時代の歴史書(とされる)

『吾妻鑑』(あずまかがみ)

宝治2年(1248)2月5日条には

文治5年(1189)12月9日

永福寺事始あり

とあります。

 

鎌倉といえば長谷寺を

連想される方が多いと思いますし

東北においてですと

長谷寺と聞くと

鎌倉を連想される方は

とても多いかと思います。

 

奈良と鎌倉の長谷寺は

“姉妹”と言わることがある程

切っても切れぬ

深いご縁で結ばれたお寺です。

 

鎌倉の永福寺に触れる前に

長谷寺について

触れさせて頂きます。

 

奈良の長谷寺は正式には

豊山 神楽院 長谷寺といい

朱鳥元(686)年に

修行法師である道明上人が

銅板法華説相図(ほっけせっそうず)

を安置して祀られ

開創されました。

 

その後約40年後に

徳道上人が主導されて

十一面観音像

神亀6年(729)に完成し

行基(ぎょうき)を導師として

天平5年(733)に開眼されます。

 

この徳道上人が

長谷寺を開山されました。

 

さて

鎌倉との関係ですが

この十一面観音が

2つの長谷寺をつなぐ

キーポイントになります。

 

奈良の長谷寺の十一面観音像を

彫ったものと同じクスノキ

(十一面観音像との説もあります)

を海に解き放ち

流れついた地に

衆生済度の願いを託して

十一面観音を本尊としたお寺を

造立しようとしたそうです。

 

海に解き放たれた

クスノキ(あるいは十一面観音像)が

流れ着いた先が鎌倉で

そこに長谷寺が建立され

行基により開眼された

というのが奈良と鎌倉の

2つの長谷寺をつなぐ伝説です。

 

鎌倉に話を移しまして

鎌倉の永福寺は源頼朝が

奥州での戦没者供養も兼ね

平泉の大長寿院(二階大堂)を模して

建立されたとされますが

現在は廃寺となっております。

 

『たけたからくり』(文政6年(1823))

によると鎌倉の永福寺の僧侶である

宥玄が新羅堂供養を勤めた

「供養料」として

沖田面村に一宇お堂が建立され

宥玄をそのお堂の住職として

永福寺と号したそうです。

 

また宥玄は

三戸沖田面村と

五戸七崎村を賜ったと

記されております。

 

同史料では

七崎(ならさき)には

往古より観音堂があり

宗旨も不定で寺号もなく

こちらの「住職」ともなった

宥玄が永福寺の

僧侶であったことから

「時の人挙げて」永福寺と

呼ぶようになったとも

記されております。

 

この『たけたからくり』は

江戸後期(文政6年(1823))の

史料なので

その当時において

永福寺縁起がどのように

整えられ編まれていたのかが

よく伺えるように思います。

 

史料の伝える時期を踏まえると

この二階堂永福寺・宥玄の時期は

行海上人開基の少し後となります。

 

郷土史研究などでは永福寺は

「七崎から三戸に移った」と

よく説明されますが

『たけたからくり』や

当山の過去帳を踏まえると

「移った」という表現は

当てはまらないように思います。

 

また

同史料でいうところの

観音堂はおそらく七崎観音の

ことを指していると思いますが

永福寺縁起が七崎観音と

強く結び付けられていることも

伺えるかと思います。

 

それだけ

七崎観音は重要な

尊格であったということを

意味するといえます。

 

今見てきたように永福寺は

「永福寺」という寺号が

用いられる以前に遡及して

その由緒や縁起が

編まれていくことになります。

 

「永福寺縁起」として

総本山長谷寺とゆかりのある

坂上田村麻呂将軍が

十一面観音を本尊として

七崎にお寺を建立したという

縁起も伝えられております。

 

この縁起は

『長谷寺験記』(はせでらげんき)

(建保7年(1219)頃までに成立)

という鎌倉期の霊験記の

上巻第5話として収録される

田村将軍が奥州一国に

十一面観音を本尊として

6ケ所にお寺を建立した話が

根拠となっていると考えられます。

 

永福寺の縁起や創建伝説は

なかなか豊富でして

七崎観音は

実際には聖観音(しょうかんのん)

という観音様なのですが

「七崎観音は田村将軍の十一面観音」

との縁起もあったりします。

 

念のために触れると

縁起といわれるものは

歴史とは似て非なるもので

様々な意味合いがあることを

しっかりと踏まえて

紐解くべきものです。

 

当山開基の行海上人は廻国僧で

当地の大蛇を改心させたことで

地域の住民から当地に留まるよう

懇願されたため草庵が結ばれ

普賢院を開基したと伝えられます。

 

行海上人は

現在の七崎神社の地に

七つ星(北斗七星)になぞらえ

杉を植えた上人でもあります。

 

十和田湖伝説の

南祖坊(なんそのぼう)は

行海上人の弟子であるとも

伝えられております。

 

当山開基の時代を

さらにさかのぼり

弘仁初期頃(810頃)

圓鏡上人により

当山は開創されたとされます。

 

「弘仁初期頃」というのは

『先師過去帳』に

当山開創 圓鏡上人が

弘仁7年(817)5月15日に御遷化

されていることに由来します。

 

こういった

“永福寺以前”の由緒も

永福寺の由緒として編入され

七崎は永福寺発祥の地となり

とても重要な意味を帯びたわけです。

 

永福寺は江戸時代前期に

平泉の中尊寺から住職が

おいでになられたことがあります。

 

中尊寺は今でこそ天台宗ですが

昔は真言寺院も多くあり

今とは異なる“宗派感覚”や

“宗派交流”があったのです。

 

そういったことも踏まえると

これまで以上にスケールの大きな

歴史が七崎の地を起点としながら

お伝えできるように感じます。

 

当地や周辺の遺跡からも

この地域には縄文時代から

集落があったことや

何かしらの儀礼に用いられたであろう

9世紀〜10世紀頃の古い

祭具(錫杖(しゃくじょう)状鉄製品)が

発掘されております。

 

平泉や鎌倉とも絡めることが出来ますし

古い信仰の歴史を持つ諸観音

地域の諸伝承

十和田湖南祖坊伝説

さらには大日坊との関係や

会津斗南藩(となみはん)のこと

などなど後世に伝えるべきことは

とても多いように感じております。

 

それらの探求を続けることや

後世に託すために形にすることに

情熱を以て取り組みたいとの思いを

常々持っております。

 

 

稀代の古刹と銘打ち

七崎観音を主役として

当山の歴史について

これまで触れてまいりました。

 

当ブログは拙僧(副住職)の

「研究メモ」も兼ねて

投稿することがあるので

読みにくい部分が多かったかと思いますが

少しでもお伝え出来たものが

あったのであれば幸いです。

 

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【観音堂内陣内殿】

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手前の大きな浄鏡の右側の

観音菩薩立像は

とても古い仏像だそうで

観音堂ではなく

本堂に古くからお祀りされるそうです。

 

反対側の端正なお姿をした観音菩薩立像は

地元の篤信者である中村元吉氏より

ご奉納頂いたものです。

 

中央奥の厨子(ずし)は

三重になっており

七崎観音(聖観音)が

お祀りされております。

 


【七崎観音(聖観音)】

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第29代藩主

南部重信公により

貞享4年(1687)4月に

奉納されたものです。

 

身の丈約20センチの

金銅仏(こんどうぶつ)で

とても美しいお姿の御仏像です。

 

ご奉納された当時は

御前立(おまえだち)

としてお祀りされていたそうです。

稀代の古刹 七崎観音⑩

当山観音堂に祀られる

七崎観音(ならさきかんのん)の

起源は平安初期にまで

さかのぼります。

 

七崎観音は普段は秘仏ですが

年に一度旧暦1月17日にのみ

御開帳され

その御宝前にて

護摩法要が厳修されます。

 

この行事は「おこもり」と

通称され本年は

2月21日に行われます。

※▼詳細はコチラ

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平安時代より現在に至るまで

戦乱の世があり

幾多の災害があり

あまたの困難がありました。

 

長い歴史があるということは

それらとしっかり向き合い

時代時代において

対応してきたことを

意味するといえます。

 

当山は前身である永福寺時代より

七崎観音の別当をつとめておりますが

歴代先師のご尽力は

切なるものがあります。

 

災害でいうと江戸期はまさに

“災害の時代”でもあります。

 

江戸期に限らず

日本は昔から“災害大国”といえる程

深刻な事態の連続でした。

 

七崎観音は

明治になるまでは

現在の七崎神社の地にあった

旧・観音堂にお祀りされておりました。

 

『寺社記録』という

南部藩史料の

安永年間の記録には

旧・観音堂の災禍について

伺える記述があります。

 

以下に

安永8年(1779)

9月の記録を

少しだけ引用してみます。

 

※カッコは拙僧(副住職)の補足です。


 

(安永8年(1779))

九月十二日

 

一 永福寺

預五戸七崎村観音堂並二王門

共ニ先代住(永福寺52世・宥恕)

宝暦十三年(1763)

委細之申上

萱葺(かやぶき)修繕等仕候所

其後両度大地震ニて

本堂二王門共ニ

屋根以外之他損

猶又取繕仕置候得共

次第内通えも朽入

別て二王門等

夏中大雨之節

屋根一向相潰(あいつぶれ)

両所ともニ最速

其侭(そのまま)に

可致置様無之躰ニ御座候間

当年より来春迄

如何様ニも修復仕度念願御座候

 


 

次に安永9年(1780)

2月の記述を

見てみましょう。

 


 

(安永9年(1780))

二月三日

 

一 永福寺

五戸御代官所

七崎村観音堂並二王門

慶安四年(1651)

山城守様(南部重直)御建立

其の後元禄年中(1688-1704)

当寺先住 清珊(永福寺36世)代

再興修理等仕

宝暦十三年(1763)

先住宥恕(永福寺52世)委細之儀申上

萱葺(かやぶき)修復

末社迄再興仕候処

右本堂並仁王門

明和年中(1764-1772)大地震之節

殊之外まかり出来

屋根共相損

段々取繕候得共

弥増大大破罷(まかる)成

 


 

これらの引用中で

地震に触れられていますが

明和5年(1768)9月8日と

明和6年(1769)7月12日に

八戸は大地震に見舞われております。

 

明和年間には

津軽でも雪の時季に

大地震があり

甚大な被害を被ったそうです。

 

先の引用文は

大地震により

お堂がかなり傷んだことを

伝えております。

 

明治34年の文書で

『興隆講規則』というものが

残されております。

 

興隆講(こうりゅうこう)とは

明治初頭の神仏分離ならびに

廃仏毀釈の風潮の中で

“荒廃”した七崎観音を

復興させるべく

当時の当山住職はじめ

当山総代や旧社人

さらに賛助人として

神社宮司(旧・善行院)が

設立した講(組織)です。

 

当山と

七崎(現在の豊崎)の方々が

手を携えて七崎観音を

復興させようとしたものと

いうことが出来るかと思います。

 

『興隆講規則』には

「七崎山観音祭り日」として

初祭 正月七日

春祭 四月七日、八日

秋祭 八月十七日

御年越 十二月十七日

と記されております。

 

その他にも

六斎日や功徳日

さらに護摩の日程や

会日(講の開催日)についても

記されており

『興隆講規則』自体が

七崎観音の手引きの役割も

担っております。

 

「興隆講規則設置趣意書」

という箇所があるのですが

ここは僧侶が唱える

表白(ひょうびゃく)という

尊い文言の仕様になっており

当山や七崎観音の

由緒について触れながら

興隆講設立への経緯が

恭しく述べられております。

 

以下に趣意書を

引用させて頂きます。

 


 

恭しく按ずるに

我邦人皇三十四代推古天皇

篤く三宝を敬い

其往昔大聖仏世尊輪王の

宝位を脱履し

世間出世間の大医王となり給い

諸の国王の為に

仁王般若仏母明王不空羂索経等を

説き給い

七難を摧破して四時を調和し

国家を守護して

自他を安ずるの大法

ひとつも欠漏あることなし。

 

降て

天長年間(824-834)に至り

当七崎山蘭若においても

金剛頂経大日経等

最上乗甚深の秘法を行えり。

 

爾来

円鏡(当山開創(弘仁初期(810)頃))

月法(当山二世、南祖坊の師)

行法

行海(当山開山(承安元年(1171)))

宥鏡

快傅(当山中興開山(江戸中期))

達円

快翁

宥敞

宥青等

凡そ八拾有ニ世の間

領主の祈願道場たり。

 

殊には南部二十八代

源朝臣重直公

深く正観世音を信仰し

かたじけなくも

御高五百五石五斗三合の

知行を喜捨せられ

加うるに十二社人を置き

毎月神楽を奏し奉りしは

ひろく世人の知る所なり。

 

然るに維新に際し

封建の制を廃せられ

版籍悉く返上の結果

遂に之が保続の資を失い

従って神楽も絶亡すること

ここに三十三年を経ぬ。

 

嗚呼、世の移り行くは

人力の得て止むべからざるもの

とはいいながら

かく伝来の霊位を

寺院の一隅に奉置し

絶えて法楽の道を

欠きしこと畏くも亦憂たてけれ。

 

ここを以て

郷人の愁歎限りなく

涙を止むるに由なし。

 

先師宥浄

しばしばこれを忌歎し

再興を企つといえもの

時機未だ熟せず

わずかに院内に小堂を営み

霊位を安置せしのみにて

遂に去る戊戌(明治31年(1898))

卯月九日を以て遷化す。

 

月を越えて小童

過て重任をこうむり

庚子(明治33年(1900))

臘月に至り若干の法器を整い

檀徒総代と謀りて旧社人を集め

之が再興の方法を議し

講を設けて興隆講と称し

明る辛丑(明治34年(1901))

正月二十八日を初会とし

神楽に替うるに

本尊護摩を修し奉り

宝祚無疆

玉体安穏

十善徳化

四海静謐

風雨順時

五穀豊穣

疫病退散

正法興隆を

精祈せんと欲す。

 

伏してこう

十方善男女諸氏

この機に乗じて

生等の徴志を賛し

三宝を帰依し

入講の栄を賜い

益々本尊の威光を増揚し

一指まちまちなる信仰を列ね

五指堅固にして遮那覚王の

金挙に擬し

以て彼の迷邪を破壊し

正法に導き

貴賤を問わず

男女を論ぜず

同体大悲を旨として

大徹悟入の床に遊び

ともに補陀落の浄刹に至り

一切の功徳を具足し

二世の勝益祈られんことを。

 

明治三十四年(1901)陰暦正月

金剛仏子 隆真

敬白

 


 

僧侶であれば

馴染みのある文言ですが

多くの方には

かなり読みにくいかと思います。

 

ですが何となく

大まかな内容は

捉えられるかと思います。

 

七崎観音の復興を切願して

講が設立されたことが

伝わってまいります。

 

少し話は変わりますが

ここでは当山開創である

円(圓)鏡上人から

数名の先師があげられた後

八拾有ニ世の間」と

書かれております。

 

現在の当山住職は

「第64世」として歴代住職に

列ねられておりますが

現在の数え方は

大正5年に亡くなられた

宥精師が自身を60世として

以後代を重ねるよう

方針を定められたので

それに則り現在は数えております。

 

ですが『興隆講規則』が作られた

明治時代までは

現行のものとは別の数え上げが

なされていることが分かります。

 

明治までの数え上げを

現在に適応して

当山先師の墓誌をなぞると

現住職の泰永僧正は

第91世」になります。

 

現行の数え上げは

当山開山の行海上人からのもので

明治までの数え上げは

当山開創の圓鏡上人からのもの

かもしれません。

 

歴代先師の中には

「第〜世」と数え上げられない方も

いらっしゃるので

その方々を数えるか否かという

ことなのかもしれませんし

行ったり来たりということも

あったようなのでそのことが

関係しているのかもしれません。

 

その真相を判明させる術は

ありませんが

要するに歴代住職の数え上げは

一通りではないということです。

 

時代時代で

様々なことがあったでしょうが

七崎観音は

とても長い間

歴代先師はもちろんのこと

有縁の方の手により

守り伝えられてまいりました。

 

今回取り上げた史料からは

その一端を垣間見ることが

出来たかと思います。

 

今を生きる者として

歴史をしっかりと受け継ぎ

未来へ繋いでいきたいと思います。

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稀代の古刹 七崎観音⑨

当山本堂内の観音堂に

本尊としてお祀りされる

聖観音(しょうかんのん)は

七崎観音(ならさきかんのん)

と呼ばれその起源は

平安初期にまでさかのぼるとされます。

 

これまで「稀代の古刹」と銘打ち

七崎観音について

紹介を続けておりますが

今回は明治以後を焦点に

お伝えさせて頂きます。

 

七崎観音は

明治になるまでは

現在の七崎神社(ならさきじんじゃ)

の地に建立されていた

観音堂(以下、旧・観音堂)に

お祀りされており

当山が永福寺時代より

別当をつとめております。

 

旧・観音堂には

七崎山 徳楽寺(ならさきさん とくらくじ)

という寺号(じごう、お寺の名前)が

ありましたが明治の神仏分離により

廃寺となり郷社 七崎神社として

改められました。

 

神仏分離の際に

旧・観音堂に祀られていた

仏像や仏具は

当山に移されることになります。

 

その際の

『目録』(明治36年(1900))と

青森県令・山田秀典氏へあてた

『伺』(明治6年(1873))が

残っております。

 

明治36年の『目録』より

旧・観音堂より当山へ

遷座(せんざ)された仏像の

記述を以下に引用してみます。

 


 

仏像ノ部

一 正観世音大士木像 一躯

一 仁王木像 ニ躯

一 禅林地蔵大士木像 一躯

一 無二地蔵大士木像 一躯

一 護讃地蔵大士木像 一躯

一 延命地蔵大士木像 一躯

 ※1寸8分の仏像

一 弘法大師木像 一躯

一 木像 一躯 十二童子ノ一

 ※5寸の小さな仏像

一 十一面観音金像 一躯

 ※現在行方不明。

【以下、八体仏(はったいぶつ)を指します。

十二支守護尊とも呼ばれます。】

一 普賢菩薩木像

一 大日如来 仝(木像)

一 不動明王 仝(木像)

一 文殊菩薩 仝(木像)

一 千手観世音 仝(木像)

一 勢至菩薩 仝(木像)

一 阿弥陀如来 仝(木像)

一 虚空蔵菩薩 仝(木像)

 


 

以上の仏像が

旧・観音堂から当山へ移されました。

 

現在の観音堂は

七崎観音を中心として

実に多くの尊格が

お祀りされておりますが

その約半数は

引用箇所に記される

旧・観音堂より遷座された仏像です。

 

逆にいえば

上記以外の現・観音堂の仏像は

もともと当山にお祀りされていたものや

各所にあったお堂の仏像です。

 

宝暦13年(1763)の

『御領分社堂』によれば

七崎(現在の豊崎)には

大日堂、不動堂、愛染堂

大黒天社、毘沙門堂、薬師堂

虚空蔵堂、天神社、明神社

稲荷社、白山社

の「小社」があり

さらに一間四面の

月山堂、(千手千眼)観音堂

があったそうです。

 

現在の当山観音堂は

とても荘厳な設えとなっておりますが

これは明治の七崎観音御遷座以後の

歴代先師と有縁の方々の

絶大なるご尽力によるものです。

 

明治19年(1886)に

本堂に内御堂の観音堂が

用意された際の

棟札が残っております。

 

昭和6年(1931)には

観音堂と仁王門(堂)が

改築されました。

 

仁王像は現在の場所ではなく

本堂の観音堂正面の所に

門が作られております。

 

この時の経過等が

『七崎観世音道場普請報告書』という

文書にまとめられております。

 

落慶の日は正午より

新観音堂にて法要が行われ

その後は祝宴が午後5時まで行われ

さらに外では午後5時より

青年分団の方による相撲大会が開催され

1500人もの観衆がいらっしゃり

加えて鶏舞(けいまい、けいばい)も

行われてかなりの盛会だったようです。

 

『七崎観世音道場普請報告書』の

序文には当時の住職である

長峻(ちょうしゅん)大和尚の

表白(ひょうびゃく)という文言が

添えられており

改築に至るまでの

先師方の“七崎観音復興”への

強い思いに触れられております。

 

その表白の一部を

以下に引用してみます。

 


 

明治初年神仏分離の結果

今の神社に奉安されし観世音は

当然の帰結として当普賢院道場へ

付属三宝物と共に

遷座されるに至れり。

 

爾来六十有余年の間

当道場の一隅に安置して

先師宥浄をはじめ宥精師等は

往時の隆盛を偲んで

之が復興を念願たりしが

嗚呼悲哉

機縁未だ熟せずして涙を呑みて

世を去られたり。

 

其後

小衲不思議の縁を以て

大正六年の春

任に当院に就きたりしが

思えば同じ大悲観音

法儀復興にてありき。

 


 

「七崎観音の復興」は

明治以後の先師方の

“大悲願”であったことが伺えます。

 

長峻大和尚は

当山61世住職のみならず

南部町の恵光院住職と

山形県の湯殿山大日坊住職をも

兼任された方で

“激務”に追われる中で病となり

60歳で御遷化(ごせんげ)されました。

 

後を継いだ62世住職の

晃雄(こうゆう)大和尚と

その弟である高明(こうめい)大和尚は

若くしてフィリピンにて戦死しており

その間は2人の妹が

有縁の方のお力添えを頂きながら

お寺を守りました。

 

戦争の時期は

尽きない困難があったそうです。

 

戦争が終わり

新たな住職として

裕教(ゆうきょう)大和尚が迎えられ

当山は復興されてゆきます。

 

本堂は昭和58年に

大改修が成し遂げられます。

 

また現住職を中心に

当山伽藍は一層整えられます。

 

観音堂内陣は

格天井に改装され

その中央には法曼荼羅が刻まれ

吊り灯籠や荘厳具

護摩壇(ごまだん)や

法具(ほうぐ)類が整えられ

現在のお堂となりました。

 

そして現在

当山では本堂建替にあたり

七崎観音の新たな歴史が

紡がれようとしております。

 

内陣の内殿には

七崎観音が納められる

厨子(ずし)以外にも

大きな観音像をはじめ

小さな観音像や

宝剣はじめ奉納物など

多くのものが納められており

歴史を感じると共に

いかに多くの願いが

捧げられてきたのかが

伝わってまいります。

 

託されてきたもの

捧げられてきたもの

守られてきたもの。

 

七崎観音は

無量のおもいにより

今に伝えられていることを

心にしっかりと刻み込み

新たな歴史を有縁の方と共に

紡いでまいりたいと思います。

 

▼本堂建替事業について

https://fugenin643.com/blog/新たな歴史を紡ぐ/

 

▼長峻師と愛娘達

※本堂前にて大正初期に撮られたものです

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▼高明師 送別会の写真

※写真の裏には以下のように書かれます

 昭和拾九年六月十四日

 高明 応召出発前日

 送別会ノ日 写ス

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▼昭和26年 本堂修築記念

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▼昭和30年代の本堂

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▼昭和の本堂大改修(昭和51年8月落慶)

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▼現在の観音参拝所

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▼現在の観音堂内陣

観音堂

▼現在の普賢院

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稀代の古刹 七崎観音⑧

七崎(ならさき)とは

現在の八戸市豊崎町の古称です。

 

当山は現在でも

「七崎のお寺さん」と

呼ばれることが多くありますし

「永福寺さん」とも呼ばれます。

 

この七崎の地には

かつて永福寺(当山の前身)があり

多くのお堂を管理する

別当でもありました。

 

当山本堂内の観音堂に

祀られる聖観音は七崎観音と呼ばれ

古くから多くの方に

ご参詣頂いた観音様で

明治以前は現在の七崎神社の地にあった

観音堂(以下、旧・観音堂)に

お祀りされていたものです。

 

この観音堂をはじめ

多くのお堂の別当寺を

当山が永福寺時代より担ったようです。

 

現在の八戸市白銀にある

清水観音堂(糠部第6番札所)は

当山が別当寺をつとめたお堂であり

古くから海の方面とも

関わりがあったことが分かります。

 

海に関連する御祈祷の一例として

「舩(船)祈祷」というものがあります。

 

時代が違えども

海に限らず船は

とても重要なものです。

 

当山には舩祈祷の

次第(聖教(しょうぎょう))や

それに関係する文書が幾つか

所蔵されております。

 

船祈祷の聖教(古文書)には

「慶長20年(1615)授与」と

記されたものもあれば

安永5年(1776)の浄写されたものを

寛政6年(1794)に書写されたと

奥書されたものもありますし

実際に用いられた

船祈祷の祈祷札の文言を写した

宝暦13(1763)と寛政4年(1792)との

年代が記された文書も所蔵しております。

 

文政10年の聖教(古文書)もあり

これら船祈祷のものは

いずれも当山61世である

長峻(ちょうしゅん)大和尚が

新潟よりお持ちになられたものです。

 

長峻大和尚は新潟県出身で

ご縁があって当山61世となり

さらには南部町の恵光院(長谷寺)を

第29世(99世ともされます)として兼任され

晩年は山形県鶴岡の湯殿山大日坊も

第88世住職 慈念海上人 忍光道人として

兼任された方です。

 

恵光院の由緒はとても古く

平安期の十一面観音像が祀られ

これは青森県最古のもので

糠部観音第22番札所です。

 

山形県鶴岡の

湯殿山 大日坊(ゆどのさん だいにちぼう)

には即身仏(そくしんぶつ)の

真如海上人(しんにょかいしょうにん)が

お祀りされます。

 

即身仏とは

平たくいえば“僧侶のミイラ”です。

 

拙僧(副住職)の法名は

泰峻(たいしゅん)といいますが

現住職の「泰」の字と

長峻大和尚の「峻」の字を

頂いております。

 

長峻大和尚は

船祈祷の聖教のみならず

非常に多くのものを

当山に請来されております。

 

ほぼ全てが江戸期のものですが

御祈祷はもちろんのこと

どのような作法や次第が

継承され施されていたのかが

垣間見られる貴重なものだと感じます。

 

先に南部町の古刹である恵光院

についても少し触れましたが

恵光院も当山も

糠部(ぬかべ)三十三観音霊場の札所です。

 

糠部は

「ぬかのぶ、ぬかのべ、ぬかぶ」とも

読みますがここでは

「ぬかべ」として読ませて頂きます。

 

糠部三十三観音霊場

第15番札所は七崎観音です。

 

三十三は「無限」を意味し

尽きることがない

無量の慈悲を表しております。

 

全国各地に「三十三観音」と名のつく

霊場は沢山あるかと思いますが

最古の霊場は西国三十三観音で

その起源は当山の本山である

奈良県桜井市の長谷寺にあります。

 

養老2年(718)に

長谷寺の徳道(とくどう)上人が

病床にみた夢で

閻魔大王より三十三の宝印を授かり

衆生救済のため観音霊場を作るよう

告げられたとの開創伝説が伝えられます。

 

徳道上人は三十三所を定めたものの

機運が熟さなかったため

宝印を中山寺に納め

それから約270年経った後に

花山法皇により復興されたとされます。

 

花山法皇は

播磨(現在の兵庫県)にある

書寫山(しょしゃざん)の

性空(しょうくう)上人とご縁がある方です。

 

書寫山ついででいうと

“最古の十和田湖伝説”が収録されている

『三国伝記』(さんごくでんき)では

難蔵(南祖坊(なんそのぼう)のこと)は

書寫山の法華持経者とされます。

 

南祖坊は十和田湖伝説に登場する僧侶で

当山にて修行したと伝えられ

全国練行の末に十和田湖に入定し

青龍大権現という龍神として

十和田湖の主になったと伝えられます。

 

西国三十三観音霊場に続いて

坂東(ばんどう)三十三観音

秩父三十三観音(のち三十四観音)の

霊場が成立します。

 

それに続いて成立した地方的札所が

糠部三十三観音だそうです

(山崎武雄1980

「糠部三十三所観音巡礼(一)」

『天台寺研究』pp.60-117。)。

 

永正9年(1512)9月

観光上人によって成立した霊場です。

 

観光上人御選定の札所番数は

現行の番数とは異なっており

その詳細は一部しか

分からないようですが

1番札所が天台寺(現在は33番)で

33番札所が恵光院(現在は22番)です。

 

観光上人の「観光」という

言葉についても

少し触れさせて頂きます。

 

観光といえば各所に赴く

旅行や行楽といったニュアンスがある

言葉として定着しておりますが

一説によると

音のを頂きに行くこと」

の意味で観光という言葉が

使われたそうです。

 

糠部霊場の創始に携わるとされる

観光上人について

詳細は不明とのことですが

一観音霊場創始者の法名が

観音菩薩と縁深きものである点は

深秘であると思いますし

その当時の時代背景を踏まえながら

全国的にも古い霊場である

糠部三十三所の魅力を後世に伝える意味で

新たな“草創譚”を編むことが

出来るようにも感じます。

 

観音霊場の札所ともなった七崎観音は

観光巡礼が流行した時代を迎え

それまで以上の多くの方が

参詣されたことと思います。

 

▼船祈祷の聖教

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▼長峻大和尚

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▼恵光院(南部町)

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稀代の古刹 七崎観音⑦

当山本堂内の観音堂本尊として

祀られる聖観音は

七崎観音(ならさきかんのん)と呼ばれ

その起源は平安初期にまで

さかのぼるとされます。

 

七崎観音は普段は秘仏ですが

年に一度旧暦1月17日に御開帳し

御宝前にて護摩法要が厳修されます。

 

本年は2月21日が御開帳となります。

▼護摩法要の詳細はコチラ

https://fugenin643.com/blog/wp-content/uploads/2019/01/H31おこもり広告.pdf

 

七崎観音は明治になるまで

現在の七崎神社の地にあった

観音堂(以下、旧・観音堂)に

お祀りされておりました。

 

旧・観音堂には

七崎山 徳楽寺(ならさきさん とくらくじ)

という寺号(じごう)がありました。

 

補足ですが

諸尊格のお堂に寺号(じごう)が

用いられる例は他所にも見られます。

 

「毛馬内 三大日」といわれた

毛馬内の三つの大日堂は

それぞれ寺号が用いられており

小豆沢村大日堂は養老山 喜徳寺

長牛村大日堂は長牛山 仁両寺

毛馬内村大日堂は福生山 中台寺

という寺号が用いられております。

 

毛馬内でいえば

不動院が別当をつとめた

舘神宮は玉崎山 金光寺の寺号が

用いられております。

 

田子でも観音堂に

蟹沢山 宣王寺の寺号が

用いられておりますし

こういった例は他にも多く見られます。

 

当山は古くから

七崎観音の別当をになっております。

 

当山を開創した

圓鏡(えんきょう)大和尚は

弘仁8年(817)5月15日に

御遷化(ごせんげ、高僧の逝去の意)

と過去帳に記されますので

かなり古い時代から当山と七崎観音は

深く関わっているのだと思います。

 

当地である豊崎町は

かつて七崎(ならさき)と呼ばれました。

 

現在でも「永福寺」と「七崎」の

地名が残っており

地域とともに歴史が紡がれてきたことを

今に伝えているように感じます。

 

地名でいうと

「南宗(祖)坊」(なんそのぼう)

という地名も豊崎には

残っております。

 

南祖坊とは

十和田湖伝説に登場する僧侶で

当山に弟子入りして

全国を巡った末に

十和田湖に入定(にゅうじょう)し

青龍大権現(せいりゅうだいごんげん)

という龍神になったとされる方です。

 

「南宗(祖)坊」には

南祖坊という坊舎(お寺)が

あったのではないかとも

いわれております。

 

「南宗(祖)坊」は

当山と滝谷(たきや)地区の

ほぼ中間に位置する場所です。

 

滝谷には天満宮がありますが

かつては十和田山参詣の際には

滝谷の天満様に立ち寄ってから

十和田山へ向かったそうです。

 

豊崎町は現在の町名が示す如くに

「豊かな土のふるさと」

(豊崎小学校校歌の一節でもあります)

であると共に伝承・伝説に彩られた

とても由緒ある素晴らしい

地域であると拙僧(副住職)は

誇りに思っております。

 

全国各所に赴かせて頂くことが

多い拙僧(副住職)からしても

当地はどこにも引けを取らない

魅力にあふれていると

胸を張って言うことが出来ます。

 

さて今回は近世の史料を一助とし

旧・観音堂(七崎観音)を含めた

かつての七崎について

見ていきたいと思います。

 

宝暦13年(1763)のもので

盛岡南部藩領の社堂についての

調査書である

『御領分社堂』という書物があります。

 

『御領分社堂』は

宝暦9年(1759)の幕府の御触(おふれ)

により開始された調査が

広範囲にわたり丁寧に

なされたということが

伝わってくるような書物です。

 

七崎についても

当時の主な社堂が

旧・観音堂(現・七崎神社)を含め

同書に以下のように

記載されております。

 


寺院持社堂 五戸御代官所七崎

一 観音堂 四間四面萱葺(かやぶき)

古来縁起不相知

萬治元年(1658)重直公御再興被遊

貞享四年(1687)重信公御再興被遊候

何(いずれ)も棟札(むなふだ)有

 

一 大日堂

一 不動堂

一 愛染堂

一 大黒天社

一 毘沙門堂

一 薬師堂

一 虚空蔵堂

一 天神社

一 明神社

一 稲荷社

一 白山社

右十一社堂は観音堂御造営之節

依御立願何も御再興被遊候

小社之事故棟札も無之

只今大破社地斗に罷成候

一 月山堂 壱間四面板ふき

 

一 観音堂 右ニ同

右両社共に観音堂御造営之節

重直公御再興也

 

善行院(ぜんぎょういん)

当圓坊(とうえんぼう)

覚圓坊(かくえんぼう)

覚善坊(かくぜんぼう)

右四人之修験は本山派にて

拙寺(永福寺)知行所所附之者共御座候

古来より拙寺(永福寺)拝地之内

三石宛(ずつ)遣置

掃除法楽為致置候


 

とても多く神仏が

お祀りされていたことが

分かると思います。

 

大日如来と

不動・愛染の両明王が

お祀りされる小社(お堂)が

あったと記されますが

拙僧(副住職)からすると

この部分には深秘(じんぴ)な

意味を感じます。

 

『御領分社堂』では

七崎の観音堂が

2つ紹介されております。

 

1つは旧・観音堂のことですが

もう1つは当山所蔵の

棟札等を踏まえると

千手千眼観音観堂(以下、千手観音堂)

のことだと思われます。

 

史料によれば

一間四方のお堂だったようです。

 

現在の当山本堂は

文化8年(1811)に再建されており

その当時は覚宥(かくゆう)大和尚が

普賢院を担っておりました。

 

当山に残る

千手観音堂再興の棟札(むなふだ)には

この覚宥大和尚の名が記されているので

江戸期までは千手観音堂が

再建を繰り返しながら

維持されていたことが分かります。

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千手観音堂にどの仏像が

納められていたかは分かりませんが

当山に祀られる千手観音の1体を

紹介させて頂きます。

 

以下がその写真となります。

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ご覧の通り

とても古い仏像で

お顔の上にも多くのお顔があり

仏像両側面には

千手観音の腕が

差し込まれていたと考えられる

無数の穴があります。

 

この千手観音は

田子出身の高僧である

奇峯学秀(きほうがくしゅう)

彫ったものであることが

つい先日判明いたしました。

 

千手観音に加え

不動明王像の中にも

奇峯学秀作のものがあることが

判明いたしました▼

https://fugenin643.com/blog/奇峯学秀(きほうがくしゅう)の仏像が発見/

 

ついでになりますが

当山観音堂には

八体仏(はったいぶつ)という

十二支の守護尊がお祀りされ

その中にも千手観音が

入っておりまして

この八体仏は

弘化年間(1844〜1848)に

作られております。

 

先の引用文には

修験についても紹介されているので

最後にこのことにも触れたいと思います。

 

『御領分社堂』では

四人の修験者が記され

「本山派」であるとされます。

 

『七崎神社誌』では

七崎の修験は「真言宗なり」とあり

記述に矛盾を感じられる方が

いらっしゃるかと思いますが

ここに現代とは異なる

かつての“宗派性”を

読み解くことが出来ると思います。

 

修験者としての認可を

本山派(天台系修験)で授かり

作法などは当山派(真言系修験)の

伝授が出来る寺院

あるいは阿闍梨に授かるといったことは

決して珍しいことではありません。

 

参考までにですが

当山の本山である

奈良県の長谷寺は

学山(がくさん)として非常に栄え

宗派を問わず多くの学僧が

各地より集ったお山でした。

 

七崎(現在の豊崎)も

垣根をこえて

様々な方が各所より集われた

魅力ある地域だったと思います。

 

▼当山より南方方向

 ※当山と七崎山のその先には

   名久井岳が位置します。

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▼観音橋上空から見た南方

※当山と七崎山の奥に見える

   大きな山が名久井岳です。

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▼当山より真東方向

 ※その先には海が広がり

  蕪島(かぶしま)が位置します。

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▼当山より西方

 ※ずっと先には戸来(へらい)岳や

   十和田湖があります。

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▼当山より北方

 ※ずっと先には小川原湖があります。

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稀代の古刹 七崎観音⑥

当山本堂にお祀りされる

聖(正)観音(しょうかんのん)は

七崎観音(ならさきかんのん)と

通称され親しまれてきました。

 

当山は前身である永福寺時代より

七崎観音の別当をつとめております。

 

七崎観音は秘仏で一年に一度

旧暦1月17日にのみ

御開帳され御宝前にて

護摩法要(ごまほうよう)が

厳修されます。

 

その行事は「おこもり」と呼ばれ

平成31年は2月21日に行われます。

※詳細はコチラです▼

https://fugenin643.com/blog/wp-content/uploads/2019/01/H31おこもり広告.pdf

 

今回は

七崎姫(ならさきひめ)伝説

について紹介いたします。

 

当山の仁王門の裏手に

北沼観音(きたぬまかんのん)

と呼ばれる観音様が

お祀りされております。

 

こちらの観音様は元々

八戸市八太郎(はったろう)の

蓮沼(はすぬま)という所に

お祀りされていたものです。

 

この石殿中央に

埋め込まれている黄色の石が

蓮沼から発見され

現在の様な形に

設えられたそうです。

 

石殿の台座には

以下のように記されます。

 


 

昭和二年八月十一日発見につき建設

発起人

小田 山道留之助

 

七崎

品田長峻 中村巳之松 小泉善太

田中長一 中村甚エ門 嶋森丑松

久保杉卯之 小泉長太 田中弘戒

永田竹松 田村次郎 中村弥吉

坂本徳松 中村金松 夏堀市太郎

夏堀福次郎 田中石松 小泉大八

 

昭和四年末旧八月十七日 建立

 

細工人 小田 仲道千之助

手伝人

日斗 早狩操

小田 川村清次郎 

 


 

品田長峻(ちょうしゅん)は

当山の第61世住職で

南部町の恵光院住職と

山形県の湯殿山大日坊住職も

兼任された方で

拙僧(副住職)の曽祖父にあたります。

 

蓮沼は現在

地名のみが残り

沼は埋められ

八太郎海岸には

工場が建てられております。

 

その工事の際に北沼観音は

当山へ遷座(せんざ)されました。

 

七崎姫伝説によれば

この八太郎の沼には

大蛇が住んでいたと伝えられます。

 

毎年少女を一人

人身御供(ひとみごくう)として

大蛇へ捧げなければならず

ある年に七崎(現・豊崎)の

長者の娘がご指名を受けます。

 

都から七崎に来ていた

公卿の娘である七崎姫は

この話を聞いて

自身が身代わりとなることを決めます。

 

七崎姫は御輿(みこし)に乗り

八太郎の沼へ送られます。

 

七崎姫は法華経を携えており

沼の大蛇が現れると

観音経(かんのんぎょう、法華経の普門品)

を唱えます。

 

すると経文の一文字一文字が

剣となって大蛇に突き刺さります。

 

補足ですが仏道において

剣は智恵(ちえ)の象徴で

こういった“象徴物”を

三昧耶形(さまやぎょう)といいます。

 

観音経(かんのんぎょう)の

功力(くりき)の助けを得て

七崎姫は大蛇を“改心”させます。

 

伝説ですので

諸説ありまして

七崎姫は命を落としたため

村人が七崎姫菩提(ぼだい)のために

七崎観音として祀ったというお話や

七崎姫は七崎観音の加護により

八太郎大蛇を解脱へと

導くことが出来たというお話など

バリエーションは様々です。

 

明治以前は

七崎から八太郎へ

行列を組み御輿を担いで

北沼観音へ赴く“お浜入り”(御浜出)が

行われておりました。

※七崎観音の祭事についての詳細はコチラ▼

https://fugenin643.com/ふげんいん探訪/十和田湖南祖坊について/稀代の古刹七崎観音弐/

 

この祭事は

ある説によると七崎姫が

蓮沼の大蛇が再び悪さをしていないか

確認するためだとのお話が

添えられております。

 

八太郎は十和田湖伝説の

八郎(八郎太郎、八の太郎)伝説が

伝わる地域でもあります。

 

十和田湖伝説とは

十和田湖の主である龍神の物語で

南祖坊(なんそのぼう)という僧侶と

八郎(はちろう)というマタギが

登場します。

 

南祖坊は当山2世の月法律師の

弟子として修行されたとされ

全国を練行した後に

十和田湖に結縁し入定され

青龍大権現という龍神となった

というのが伝説の大筋です。

 

南祖坊が十和田湖にたどり着く以前に

“十和田湖の主”であったのが

八郎であると伝えられます。

 

これも伝説なので

様々なバリエーションがありますが

 

七崎はとても深く関わっております。

 

蓮沼への御輿(みこし)のお浜入りは

明治になって行われなくなりましたが

先にも触れたように

蓮沼で「聖観音の石」が発見され

新たな形で観音祭事が

行われることになりました。

 

拙僧(副住職)の祖父にあたる

当山63世の裕教(ゆうきょう)大和尚が

若かりし頃の

北沼観音祭事の写真が

当山に残っております。

 

「海方面」といえば

当山は八戸市の白銀にも

別当をつとめた観音堂がありました。

 

白銀の清水観音は

当山が別当をつとめた観音様で

七崎観音とのご縁は

とても深いものがあります。

※清水観音についてはコチラ▼

https://fugenin643.com/ふげんいん探訪/かんのんまいり-清水観音/

 

今回は七崎姫の伝説をメインに

七崎観音について見てきましたが

“海ともつながる七崎観音”を

感じて頂けたでしょうか。

 

▼現在の北沼観音(普賢院)

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▼中央に「聖観音」と刻まれております

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▼蓮沼(八太郎)時代の様子

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▼現在の蓮沼神社

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▼蓮沼神社前から見た海岸方面

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▼白銀の清水観音堂

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稀代の古刹 七崎観音⑤

当山本堂内の観音堂に

本尊としてお祀りされる聖観音は

七崎観音(ならさきかんのん)として

古くから大切にされてきました。

 

当山は前身である永福寺の時代より

七崎観音の別当をつとめております。

 

現在の七崎観音の仏像は

(盛岡)南部藩第29代藩主・重信公

により奉納されたもので

年に一度だけ御開帳されます。

 

毎年旧暦1月17日にのみ

御開帳され御宝前にて

護摩(ごま)法要が厳修されます。

 

本年は2月21日が御開帳です。

※詳細はコチラです▼

https://fugenin643.com/blog/wp-content/uploads/2019/01/H31おこもり広告.pdf

 

当山の開創は

圓鏡(えんきょう)という方です。

 

圓鏡大和尚は

弘仁8年(817)5月15日に

御遷化(ごせんげ、高僧の逝去の意)

されております。

 

七崎観音の由緒も

圓鏡大和尚の時代と

時をほぼ同じくした形で

伝承されております。

 

七崎観音は江戸時代までは

現在の七崎神社の地にあった

観音堂にお祀りされておりました。

 

七崎神社は明治の神仏分離政策の下

郷社(ごうしゃ)という格式高い

神社に改められました。

 

現在の七崎神社の御祭神は

伊奘冉尊(いざなみのみこと)

つまり天照大御神(アマテラス)の

母にあたる神です。

 

明治時代までは七崎観音を祀った

観音堂であったという歴史を

踏まえて伊奘冉尊を

御祭神としたのではないかと

拙僧(副住職)は考えております。

 

七崎神社の地は

七崎山(ならさきやま)

あるいは観音山(かんのんやま)

と呼ばれていたそうです。

 

七崎山は

霊験あらたかな聖地であり

かつては殺生禁断の地と

されてきました。

 

当山を承安元年(1171)に開基した

行海(ぎょうかい)大和尚は

全国を廻国していた際に

当地においでになられ

七崎山に杉を

北斗七星の形に植えたとされます。

 

そのうち残った3本が

市の天然記念物に指定されている

大杉だといわれます。

 

この行海大和尚は

村人を困らせていた大蛇を

改心させた所

地域の方に当地にとどまるよう

懇願されて草庵が結ばれたと伝えられます。

 

当山は十和田湖伝説ゆかりのお寺です。

 

藤原氏の出自である

南祖坊(なんそのぼう)は

当山(かつての永福寺)に弟子入りをし

全国の霊跡霊場を巡った果てに

十和田湖に入定(にゅうじょう)され

青龍大権現(せいりゅうだいごんげん)

という龍神となったというのが

十和田湖伝説の筋書きです。

 

その南祖坊は当山2世の

月法律師(天長8年(831)御遷化)の

弟子といわれますが

当山開基である行海大和尚の

弟子であるとの伝えもあります。

 

※行海大和尚についてはコチラもご参照下さい。

https://fugenin643.com/blog/糠部五郡小史に見る普賢院/

 

当山で所蔵する棟札に

享保18年(1733)のものがあります。

 

棟札表中央には

再建立當寺屋敷共

新今慶建立

當寺長久安全如意

快傅末々之住寺共

萬民愛敬云々…と

記されます。

 

快傅(かいでん)大和尚は

当山を中興(ちゅうこう)開山

された先師です。

 

ここでいう屋敷とは

庫裏(くり)のことを指すようで

棟札裏面には

快傅が当山で初めて

庫裏を建立したと記されております。

 

この時の詳細は不明ですが

棟札に「共」とあるので

快傅大和尚が本堂と庫裏を

建立されたのかもしれません。

 

この棟札によると

當寺屋敷を建立した際に

観音山(七崎山)に

杉を2000本余植えたそうです。

 

さらに現在の当山の地にも

様々な木々を植えたようで

杉のほかにも

松、ヒバ、ツキ、エノミ

クリ、サイガチ、クルミ

ナシ、モモ、カキなどが

植えられたと記されます。

 

七崎山(観音山)には

杉が2000本も植えられたのですから

その前後で旧・観音堂の地(現・七崎神社)

の雰囲気はかなり

変わったことでしょう。

 

どれが該当する杉であるかは不明ですが

樹齢800年以上の大杉とともに

現在から286年も昔に植えられた木々もまた

七崎山にそびえ立ち

霊験あらたかな雰囲気が

現在もなお保たれております。

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稀代の古刹 七崎観音④

現在当山本堂内の

観音堂に祀られる

七崎観音(聖観音)の仏像は

第29代藩主

南部重信公により

貞享4年(1687)4月に

奉納されたものです。

 

重信公がご奉納された

聖観音像は金銅仏(こんどうぶつ)で

当時は七崎観音の御前立(おまえだち)

としてお祀りされていたそうです。

 

かつて七崎観音は

御正体(みしょうたい)が本尊として

お祀りされていたといわれますが

詳細は不明です。

 

この重信公が納められた

聖観音像が金銅仏であることには

当時の当山の本坊である

盛岡永福寺の聖天(しょうてん)

との関わりが考えられ

事相(作法)的な意味・意図が

踏まえられてのものと思われます。

 

重信公は南部藩が

「盛岡藩」と「八戸藩」に

分かれた当時の「盛岡藩」主です。

 

重信公が聖観音像を納められたのは

貞享4年(1687)年4月ですが

同じ年の11月28日に

永福寺41世住職である

宥鏡大和尚は御遷化(ご逝去)

されております。

 

宥鏡大和尚の不調も

観音像を奉納された

一要因である可能性もあります。

 

宥鏡大和尚の晩年

延宝8年(1680)1月に

盛岡永福寺は火災により

伽藍が「焼亡」しております。

 

一説にこの火災は

歓喜天(かんぎてん)という尊格の

天罰であると宥鏡大和尚は

捉えられたと伝えられ

そのため再建にあたっては

本尊壇とは別に

歓喜天の修法壇である

聖天壇(しょうてんだん)を

本堂に構えるなどされたそうです。

 

永福寺の本尊は十一面観音で

現在も内々陣に祀られますが

修法本尊としては

歓喜天が祀られております。

 

延宝8年の火災の後

諸堂の再建が図られ

元禄7年(1694)には

境内三万坪にも及ぶ一大伽藍が

整えられることになりますが

この時の藩主が

29代南部重信公です。

 

この重信公と永福寺42世住職である

清珊(せいさん)大和尚が

元禄4年(1691)年になされた

連歌(れんが)により

盛岡という地名が

定められたといわれます。

 

清珊大和尚は

江戸の知足院(ちそくいん)から

永福寺においでになられた方で

「筑波の僧正」とも呼ばれました。

 

盛岡永福寺は

歓喜天(かんぎてん)

という尊格をとても重要視しました。

 

歓喜天は聖天(しょうて(で)ん)

とも呼ばれます。

 

聖天の本地仏(ほんじぶつ)は

十一面観音とされ

南部藩の祈願所として

鬼門鎮護・領民豊楽の御祈祷では

歓喜天の秘法も

修法されたそうです。

 

歓喜天に関係する経典には

歓喜天の造像の重要性について

触れられており

そこでは具体的な素材も述べられ

その中に金銅も含まれております。

 

懸仏(かけぼとけ)や

小さな金銅仏を

寺社仏閣や霊場に納めることは

よくあることですが

重信公は歓喜天を大切にされた方で

かつ観音像を七崎の観音堂に

奉納した当時の住職である

宥鏡大和尚が晩年殊に

歓喜天を大切にされたことを踏まえると

歓喜天造像の作法になぞらえた形で

聖観音像も造像されたのではないか

と考えられるように思います。

 

また重信公の兄でもある

28代藩主の南部重直公も

七崎観音を篤く大切にされた方で

病気平癒の報賽(ほうさい)もあわせ

落雷により焼失した旧・観音堂を

再建された上に

末社十二宮を建立し

さらには多くの御寄進を

されております。

 

その際に用意された

明暦2年(1656 )の棟札を

当山で所蔵しております。

 

重信公は

貞享4年(1687)4月に聖観音像を

奉納されますが

大正期の神社の資料では

同年の5月20日に

重信公が「本社を再営」した

とあります。

 

貞享4年の棟札は

当山にはありませんが

それが事実であるとして

「本社」が観音堂を意味するとすれば

明暦2年(1656)年の再建から

31年後の再々建ということになるので

何かしらの災禍に

見舞われたのかもしれません。

 

南部氏と七崎観音を考える上で

旧・観音堂が

新羅堂でもあったことは

重要なことかと思います。

 

旧・観音堂は

南部氏代々の御守護として

新羅三郎義光公が合祀された

新羅堂(しんらどう)でもありました。

 

櫃(ひつ)に納められた

甲(かぶと)が祀られていたそうです。

 

さらには元服の御髪も

納められていたようです。

 

七崎観音が大切にされたのは

藩領安穏・領民豊楽などの

諸願成就への祈願に加え

南部氏の祖先崇拝に

深く関わるということも

大きな要因であったと

いえるでしょう。

 

重信公の父は

27代藩主の利直公です。

 

利直公は

十和田湖伝説に登場する

南祖坊(なんそのぼう)の

生まれ替わりであるという

言い伝えがある藩主です。

 

南祖坊とは

当山2世の月法律師の

弟子として永福寺にて修行して

全国練行の果てに

十和田湖に入定(にゅうじょう)し

青龍大権現という龍神になったと

伝えられます。

※詳しくはコチラ↓

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相⑧/

 

現在の七崎観音は

重信公が貞享4年(1687)に

納められた聖観音(秘仏)で

年に1度だけ

旧暦1月17日のみ御開帳され

その御宝前にて護摩法要が

厳修されます。

※護摩法要の詳細はコチラ↓

https://fugenin643.com/blog/wp-content/uploads/2019/01/H31おこもり広告.pdf

 

現在の本堂は建替のため

近い将来取り壊される予定なので

現在の本堂での御開帳は

本年が最後になろうかと思います。

 

今回は重信公の観音像を中心に

(話題が何度もそれながら)

七崎観音について見てまいりました。

 

七崎観音の歴史は

実に奥深いものがあります。

 

ここ最近は

七崎観音の行事が近いこともあり

数回に分けて紹介させて頂いておりますが

後世に託すべき尊いものなので

拙僧(副住職)としても

出来る形でバトンを

未来へ繋げていきたいと思います。

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観音様

観音堂

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