祈りの引き継ぎ

家によっては

敷地内に持仏堂やお社があり

そこで神仏を丁重に

お祀りされている場合があります。

 

諸事情あって

そういったお堂を

整理しなければならず

そちらでの閉眼供養や

仏像・神像などの

祭祀の引き継ぎを

お願いされることが

しばしばあります。

 

後々は

墓じまいや仏壇じまいを伴う場合も多く

こういったことは

現代的特徴といえるかもしれません。

 

祈り込まれていたものゆえ

引き継がせていただくものについては

丁重に守らせていただきたいと思います。

 

春の不動護摩のご案内

春の不動護摩のご案内です!

 


不動護摩

  • 開催日:毎月28日
  • 受付は午後6時30分から
  • 法要は午後7時から
  • まず、受付所で受付をしてください。そこでお布施をお納めください。会費等は設けませんが、お布施としてお気持ちの程お納めいただきますようお願いいたします。
  • 受付所で受付用紙をお渡しするので、そちらにご記入し、ご提出ください。
  • 授与所で授与品を用意するので、入用の方はお求めください。授与品は護摩木(1本500円)、供養護摩木(1本1,000円/供養護摩木用の申込用紙にご記入・ご提出してください)、お守り(一体1,000円)、不動経写経セット(2,000円)があります。
  • 参加される方には、お経を記載した法要次第をお渡しします。よろしければご一緒にお唱えください。もちろん、お心静かにご参列いただいても構いません。法要次第はお持ち帰りいただいて結構です。

 

昨年より

供養のための護摩木である

供養護摩木を用意しています。

 

供養護摩木は

思いを捧げたい方の

お名前や戒名を

供養護摩木申し込み用紙に

お書きいただきまして

それを住職が護摩木に

したためます。

 

不動経写経セットも

昨年末から用意したので

ぜひお求めいただき

写経していただければと思います。

 

お納めいただいた浄財は

四大明王像の制作に

あてさせていただきます。

 

新年度最初の不動護摩です。

 

春を感じながら

護摩の時間を

ご一緒しませんか?

 

どなた様でも

ご参加いただけますので

ご興味をお持ちの方

ご都合よろしい方は

お気軽にお運びくださいませ。

 

 

今年度初出張

東京は桜がほぼ葉桜になっており

とても暖かな日和でした。

 

とても良い刺激をいただいた

今年度最初の登庁でした。

 

研究機関は新体制となり

とても良い刺激をいただいた

今年度初回の

東京出張となりました。

 

いざ新学期

住職の長男は

4月7日が

中学校の入学式でした。

 

長女は小学5年生で

新学期スタートをきりました。

 

生活スタイルも

ガラッと変わり

子ども達もどこか

活力に満ちているようです。

 

法務のために

長男の入学式も

出席できませんでしたが

制服を着た姿に

元気をもらいました。

 

拙僧泰峻も

明日は今年度最初の

東京出張です。

 

今年度も

頑張りたいと思います。

 

紐解き七崎観音⑩

当シリーズ

1年以上ぶりの投稿です。

 

最近の投稿にも本シリーズと

大いに関わるものがあるので

そちらもご参照ください。

 

▼草創期に関して

「開創当時を考える」シリーズ

 

▼近現代に関して

R7開山忌関連(草創期と近現代について触れています)

 

前回(紐解き七崎観音⑨)は

語りの一旦を担い

その拡散に貢献した方々を

広い意味でヒジリと

表現してみました。

 

諸聖

山伏

修験者

私度僧

などをヒジリと言っています。

 

七崎観音に関する

霊験譚や縁起譚は

もともと口承によります。

 

寺社縁起や諸尊縁起ほか

霊験譚で語られるものは

歴史とは似て非なるものであることは

ずっと以前より強調してきました。

 

ここでいう歴史とは

現代的意味においての歴史であり

現在より時間的に遡って

実際に発生したことの記録

といった意味でしょうか。

 

縁起・由緒譚といった類のうちにも

先にいった意味での歴史が

含まれていないという

意味ではありませんが

歴史と等価に捉えるのは

難しいといえます。

 

語りの一翼を担い

多くの方に広げた

ヒジリには

様々な方が想定され

口々に発される内容は

各人において

内在化されたもので

その理解を踏まえた

表現(言い回しや抑揚など)も

異なるでしょう。

 

語りは

それを聞くものにとっての効果だけでなく

それを語るものにとっての効果も

認められるものです。

 

自身の内に

内在化したものを

第三者に向けて

伝達するプロセスは

昨今の臨床場面で見られることのある

ナラティブ・アプローチと

類似すると思われます。

 

声による伝達は

話者の内面とつながり

そして語りが伝達されるためには

対象者がいることが必要です。

 

ヒジリ→対象者

に話が伝達されれば

そこからさらに対象者を通じて

新たな話者(対象者)において

内在化されたものが

別の対象者へ伝達されるという

連鎖によって広がっていきます。

 

対象者から別の対象者への伝達を

第二次伝達とすれば

それはカッチリしたものではなく

世間話のような形であることの方が

多かったでしょうし

むしろ世間話のような形の伝達が

大きな拡散力を持っていたとも

考えられます。

 

口承は「声の伝達」とすれば

文書など記述によるものは

「文字の伝達」です。

 

さらにこれら伝達には

保存の働きもあるので

「声の保存・伝達」

「文字の保存・伝達」

ともいえます。

 

その両者は

保存・伝達という

働きが同じであっても

口承によるものは

簡略明快な内容である

傾向にあるのに比べ

文字によるものは

固定化が目指される傾向にあり

心情や場面などの

情景描写が多い傾向にあるなど

大きく異なります。

 

口承は声によるため

その内容が人々の記憶に

留められるとはいえ

文字などに記録されなければ

史料としては残りませんが

文書は

その内容いかんに関わらず

史料としては残ります。

 

唐代の義浄三蔵が

『南海寄帰内法伝』で

口承でしか伝えられていない

経典があったため

文字にとどめたと

記されているように

口承を重んじて

継承されてきたものが

あったことは

とても興味深く思いますし

口承は奥深いものだと感じます。

 

真言宗においても

口伝といって

文字に起こすのではなく

阿闍梨が弟子に対して

儀式において伝授する伝統が

今なおあることもまた

口承文化の尊さに通じると思います。

 

文字による保存・伝達は

現代に生きる私たちにとっては

とても馴染みあるもので

今や大量の情報を扱うことが可能です。

 

とはいえ

文字による保存・伝達の

性格は今も昔も共通しており

文字による情報の保存には

限界があるのは間違いなく

そのことに私たちの多くは

気がついているように思います。

 

たまたま残った文字が

当時からすれば

デタラメなものだった

なんてことがないとは

いいきれないわけです。

 

「語り」には

①物語などの内容

②語るという行い

の二つの意味があり

①が同じであっても

②の方法or主体により

バリエーションが生まれるのは

自然なことといえるでしょう。

 

七崎観音にまつわるお話は

一様ではないことについて

「語り」のあり方に注目して

わずかながら述べてみました。

 

七崎観音に関して

口承されてきた内容は

明治の到来とともに

イザナミノミコトと

藤原諸江卿のお話への

変更が図られることになります。

 

これは時代的背景によるもので

政府の政策において

神仏分離による“神社化”が

国家神道において

重要な意味を持つためです。

 

明治・大正・昭和(終戦まで)

を通して神社に関わる政策に

幾度か変遷があるにせよ

宗教ではなく祭祀において

大きな意味が付与されていきます。

 

旧来の縁起類の

改変の様子を

以下の引用に

見ることが出来ます。

 

『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])の当地についての箇所

全く後人の偽作なれとも

本条と俚老の口碑を

採抜せるものなるへけれは

風土の考知らん為に左に抄す

 

七崎神社

祭神

伊弉冉命[イザナミノミコト]

勧請之義は古昔天火に而

焼失仕縁起等

無御座候故

詳に相知不申候

 

異聞あり

ここに挙く祭神は伊弉冉尊にして

勧請の由来は天災に焼滅して

縁起を失ひ詳らかなることは

知かたけれとも

四条中納言 藤原諸江卿

勅勘を蒙り◻刑となり

八戸白銀村(九大区 三小区)の

海浜に居住し

時は承和元年正月七日の

神夢に依て浄地を見立の為

深山幽谷を経廻しかとも

宜しき所なし居せしに

同月七日の霄夢に

当村の申酉の方

七ノの崎あり

其の山の林樹の陰に

我を遷すへしと神告に依り

其告の所に尋来るに大沼あり

 

水色◻蒼

其浅深をしらす

寅卯の方は海上漫々と見渡され

風情清麗にして

いかにも殊絶の勝地なれは

ここに小祠を建立したり

 

則今の浄地なりと

里老の口碑に残り

右の沼は経年の久き

水涸て遺阯のみ僅に

小泉一学か彊域の裏に残れり

 

当村を七崎と云るは

七ツの岬あるか故と云う

 

又諸江卿の霊をは荒神と崇め

年々八月六日より十二日まて

七日の間 祭事を修し来たれりと

(以上 里人の伝る所

社人の上言に依る)

 

この語を見に初

伊弉冉尊霊を祭る趣なれとも

縁起記録等なく詳ならされとも

南部重直の再興ありし頃は

正観音を安置せり棟札あり

 

〈引用文献〉

青森県文化財保護協会

昭和41(1966)年

『新撰陸奥国誌』第五巻

 

以上の部分に

社人と里人の説が記載されています。

 

この部分には

当地の先人方の

明治政府より求められた

「旧観音堂の神社化」への

苦心しての対応を

見てとることが出来ます。

 

「全く後人の偽作」

とありますが

当時求められた神社化において

旧来守られてきた伝統や

地域に誇る歴史といったものを

下敷きにして

イサナミノミコトを祭神とした

縁起が用意されたと考えられます。

 

真言神道や両部神道という

神道と仏教が融合した形があるのですが

女神であるイザナミノミコトを

蓮華部という曼荼羅のパートを司る

観自在菩薩と

関連づけて捉える理解の方法を

採用したのではないかと

拙僧泰峻は考えています。

 

要するに

イザナミノミコトを祭神としたのは

神仏習合・真言神道の考え方や

曼荼羅の思想が背景にあり

七崎観音と七崎観音堂時代との

つながりを内包することで

行政的に実行される断絶を

乗り越えようとした

と考えております。

 

神仏分離が図られた頃

地域によっては

廃仏毀釈という現象が多発しますが

当地ではその風潮が希薄であり

旧観音堂の「神社化」が

漸次進められているように見えます。

 

現在の七崎神社の境内に

「ほこ杉」と呼ばれる

巨大な杉がありますが

この名称は明らかに

古事記・日本書紀の

神話に由来しており

天沼矛(あめのぬほこ・古事記)

天之瓊矛(あめのぬほこ・日本書紀)

から来ています。

 

古事記・日本書紀が

仏教的な様相を帯びて

語られた時代があり

その内容は

中世神話と表現されることもあり

神道灌頂といった儀式が

真言宗でも行われていたので

明治における諸対応への

根拠たる思想を

そもそも持ち合わせていた

とも考えられます。

 

明治における

改変された縁起について

次回も触れてみたいと思います。

 

開山忌と供養祭のお話のつづき〜近現代史に触れながら〜

初代住職のご法事にあわせ

歴代先師のご供養を行う

開山忌(かいさんき)。

 

ならびに

会津斗南藩縁故者供養

戦没者供養

合葬墓供養を

5月10日に行います。

 

令和7年は

この行事にて

四大明王像の開眼も

執り行います。

 

本年の開山忌に関して

数日前にも書いたので

そちらもご参照ください▼

令和7年の開山忌について①

 

開山忌ならびに供養祭は

住職と弟子のみで

行なってきたものですが

参列はご自由にいただけるので

ご希望の方は

ご一緒いただき

お焼香していただければと思います。

 

本堂でお勤めをして

本堂裏手境内墓地にて

歴代住職墓

合葬墓

会津斗南藩縁故者供養所を

お参りして

最後に本堂前の

戦没者留魂碑を参拝します。

 

令和7年は

いわゆる太平洋戦争の

終戦80年という年です。

 

戦没者の慰霊追悼について

全国各地で難しさに

直面している昨今でして

豊崎地区においても

遺族会の維持継続は

困難であるとして

昨年の会合の時には

令和7年に何かしら

決断する必要があると

奥田卓司会長が

お話されていました。

 

奥田会長には

公私共に昔から

お世話になっており

都度都度に

戦争に関することや

慰霊追悼について

お話を伺わせていただき

切実な思いや願いも

お聞きしたことがあるので

当山として出来ることを

出来る形で精一杯

継続してまいりたいとの

思いを強く抱いています。

 

当山も当時の住職と

その弟が出征・戦死しています。

 

拙僧泰峻からみると

大叔父にあたるお二人です。

 

大叔父たちは

拙僧も一緒に暮らした

大叔母・道子の弟たち

祖母・豐の兄たちで

大叔父ら兄妹の過ごした時代は

幼少期から困難が伴いました。

 

というのも

その父である当山61世・長峻師は

行年60でご遷化されており

その時に次代を担う

長男・晃雄師は14歳で

その姉の道子は17歳

弟の高明は12歳

妹の豐は10歳という状況で

お寺の住職については

晃雄師が住職に就任する時まで

代務者を立てなければなりませんでした。

 

代務者としては

親戚でもあり

大学者でもあった神林隆淨大僧正などの

多大なご助力がありました。

 

神林大僧正の奥様が

長峻師と兄妹であったご縁で

神林家には

大変お世話になった経緯があります。

 

戦争期については

その前後のことも含めて

以前ブログで書いたことがあるので

いくつかリンクを貼っておきます。

 

▼過去の参考記事

「昭和の最困難期」

「普賢院近現代の「巨星」長峻大和尚」

「稀代の古刹 七崎観音⑨」

 

上記の記事を

読み返すと

実に大変な時期であったことを

再確認させられます。

 

こういったことが

あったということの中には

時代を超えた気づきや教訓が

多分に込められていると考えます。

 

明治以後から

戦時下における

参拝や祈りのあり方には

切実なものが感じられます。

 

あまり紹介する機会がなかったので

本稿で少しだけ述べますと

幕末明治の混乱期や

戦時下において

七崎観音への参拝のあり方は

実に切実なものがあります。

 

幕末から明治への移行は

戦乱を伴うものであり

それは明治になってからも

国内の戦火が静まるまでに

しばらくの時間を要しました。

 

政策面においても

例えば宗教政策については

当初打ち出されたものが

うまく機能しなかったために

方針を変更しながら

着地点が模索されています。

 

神仏分離と廃仏毀釈を

同じものと誤解される方も

いらっしゃると思いますが

神仏分離は政府として

トップダウンで試みられたもので

廃仏毀釈は現象として

発生したものといえます。

 

神仏分離への対応として

当山では旧観音堂のあった

境内地を切り離して

旧観音堂を廃止して

仏像・什器などは普賢院に移し

旧地・旧堂は七崎神社となりました。

 

明治2年(1869)に

七崎観音(本七崎観音[本体仏]と

現七崎観音[御前立])は

遷座されたにも関わらず

多くの方が旧地へ

観音参りに訪れたため

応急策として

小堂を用意してそこに

七崎観音(現七崎観音)を再遷座し

明治9年(1876)の再々遷座まで

小堂が維持されています。

 

神仏分離の行政的実行と

地域によっては顕著な

廃仏毀釈の風潮の中

旧来通りに参拝がなされていたことは

大いに注目すべきことで

地域として長きにわたり

「協創された」伝統の凄みを

個人的には感じるのです。

 

この点については

若干本稿で触れますが

後日深ぼって

ご紹介したいと思います。

 

ちなみに

当地においては

廃仏毀釈の痕跡は希薄で

漸次順応が図られています。

 

明治9年(1876)の

官撰地誌『新撰陸奥国誌』は

数年の調査により編集され

明治天皇御巡幸を前に

完成したものです。

 

北方における

天皇御巡幸という出来事は

当然のことながら

政治的にも

当時の宗教的にも

大きな影響力があることで

明治上旬の出来事を

検証するにあたり

見落としてはならないことです。

 

こういった件については

別の機会にするとし

話をもとに戻しまして

旧来通りに観音参りをされた方が

いかなる祈りを

捧げられたかについて

思いをはせたとき

ルンルンな気分での参拝というより

時勢に伴う祈りが多いのです。

 

七崎神社となった旧地に

七崎観音(現七崎観音)が

小堂にて祀られた明治2〜9年は

国内においてもですが

東北地方においても

心穏やかな時期ではなく

むしろ社会不安により覆われた

時期でした。

 

関連する話題として

取り潰された会津藩の方が

斗南藩として再興を許可され

五戸・むつへ向かう道中

当地に身を寄せられ

そして当山にて弔われた方が

いらっしゃいます。

 

当山で弔われた斗南藩縁故者は

明治4〜6年が没年であり

斗南藩の方にとって

とても厳しい時期にあたります。

 

会津斗南藩縁故者の墓石16基が

当山には現存しておりまして

本堂建替の機会に

供養所として供養碑を建立し

墓石も並列して

供養所を整えました。

 

その方々も

当山はもちろんですが

七崎観音堂旧地にも

お参りされて

祈りを捧げられたと思われます。

 

トップダウンで

新たな秩序への変更が

図られることは

当初において

旧来よりの秩序を保ってきた

方々からすれば

言葉にならない不安に

さいなまれたはずです。

 

幕末明治は

戦火により多くの方が殉死した

時期でもあり

そういったことに対する

祈りも切実に捧げられており

そのような祈りは

日清・日露・太平洋戦争

といった一連の戦時下でも同様です。

 

七崎観音が明治9年に

再々遷座されたことは

明治天皇御巡幸を前に

地域として

行政的要求に準じた

「神社」を整える必要が

あったと捉えるのが

自然だと思います。

 

環境における

行政的(表向き)な変化が

あったにせよ

それ以前からも

それ以後も

頼りとされた観音菩薩に

切実な祈りが捧げられ続けました。

 

戦時下において

出征者の家の方が

毎日のように観音参りをされた

エピソードは

当山だけではないでしょう。

 

当山では

地域で戦死者が出ると

本堂に遺影が掲げられ

供養がなされました。

 

現在境内にある

戦没者留魂碑は

昭和37年(1962)に

建立されたものです。

 

留魂碑には

地域の戦没者のお名前が

刻まれており

さらに当山では

当地だけでなく

当山有縁の戦没者の

過去帳と位牌が用意され

供養されてまいりました。

 

戦没者過去帳は

先代・泰永師が用意し

したためたものです。

 

開山忌にあわせて

会津斗南藩縁故者

戦没者供養を行うのは

これまでなされてきた供養に

託された様々な思いを

考えてのことでもあります。

 

あちこち話が飛びましたが

「開山忌ならびに供養祭」のうち

供養祭の内容に関して

会津斗南藩縁故者供養と

戦没者供養について

書かせていただきました。

 

新年度最初のお寺ヨガのご案内

偶数月に開催している

お寺ヨガのご案内です。

 

お寺の空間で

心身を整えてはいかがでしょう。

 

ヨガは呼吸を整え、心を整え、体を整える古代よりの行法です。仏道とも深く関わっております。お寺の静寂な空間にて心と体を解きほぐしていただければと思います。
当日は法話、ヨガ、倍音浴(ばいおんよく)瞑想を行います。法話は住職、ヨガ講師は春日知子さん、倍音浴瞑想講師はAROMA KAYOさんが担当します。
どなた様でも参加できますので、興味のある方はご連絡下さい。
参加される方はお申し込み下さいますようお願い致します。お申し込みはメッセージ、メールにて受付致します!
〈メール〉
fugenin643@gmail.com
参加費の一部はアーユス仏教国際協力ネットワーク(http://ngo-ayus.jp)に寄付させて頂きます。
ご不明な点等はお気軽にお問い合わせ下さい。
皆様のご参加、心よりお待ちしております!
  • 日時:4月19日(土)19:00〜20:30頃
  • 会場:ふれあい豊山館(八戸市豊崎町上永福寺20-2)
  • 服装:動きやすい服装
  • 持物:ヨガマット、飲み物(倍音浴瞑想の際、毛布があると一層心地よくお過ごし頂けます)
  • 参加費:2000円(当日会場にてお納め下さい)
  • 定員:15名

 

春の終活カフェは4/17の開催です

本年の

春の終活カフェは

4月17日(木)午後1時から

ふれあい豊山館で

開催します。

 

参加費は無料です。

 

午後1時から住職が

昨今の葬送事情

の演題でお話します。

 

合葬墓や永代供養についても

お話しますので

これからのご供養についてや

これからのお葬式について

何かしら考えてみたい方や

興味をお持ちの方は

ぜひご一緒ください。

 

午後1時から1時間程

住職がお話しまして

休憩をはさんで

弟子・中野太陽さんにも

少しお話いただきます(20分程)。

 

皆様のご参加

お待ちしております。

 

5月10日の開山忌で四大明王の開眼も行います

開山忌(かいさんき)は

当山初代住職のご法事にあわせ

歴代先師のご供養を行う行事です。

 

また開山忌にあわせ

会津斗南藩縁故者供養

戦没者供養

合葬墓供養も行います。

 

さらに本年は

新たにお迎えする

四大明王像の開眼も

行います。

 

様々な意味を託した

開山忌ならびに供養祭について

何回かに分けて

投稿したいと思います。

 

当山では

次の三師を

三開山上人としています。

 

三開山上人

  • 開創開山・圓鏡大和尚(延暦・弘仁年間[782~824]開創/弘仁8年[817]5月15日寂)
  • 開基開山・行海大和尚(承安元年[1171]5月開基[中興]/建仁年中[1201~1203]寂か)
  • 中興開山・快傳大和尚(享保年間[1716~1736]に中興)

 

圓鏡上人の頃について

諸研究によりながら

仏教学的あるいは僧侶観点で

投稿を重ねてみたので

ご興味をお持ちの方は

ご一読いただければと思います。

 

▼「開創当時を考える」シリーズ

https://x.gd/m2kzn

(やや専門的です)

 

平安後期から鎌倉初期の

行海大和尚についても

深ぼってご紹介すると

とてもドラマチックというか

波乱万丈であったろう

ご生涯が想像されます。

 

行海上人は

大往生を遂げた方でして

11世紀初頭から12世紀初頭までの

約一世紀を在世とされるので

興教大師の生きた

“激動の時代”を目の当たりに

していたと推定しています。

 

行海大和尚については

機会があれば

ブログでもシリーズで

紹介したいと思います。

 

江戸中期

飢饉等で多くの人が

心身ともに疲弊していた時代に

活躍されたのが

快傳大和尚です。

 

快傳大和尚の時代

多くのお堂の修繕がなり

仏像が造立され

伽藍整備も図られました。

 

快傳大和尚は

かつて境内にそびえていた

大イチョウを植えたと

される方でもあり

また

享保期の寺屋敷建立棟札には

当地に様々な木々を植え

さらに

観音山(七崎山)に2000本の杉を

植えたと記録があります。

 

当地へ植樹されたものは

諸仏諸尊への供物や

修行における自給生活に

資するようなものが多いです。

 

観音山の2000本の杉の植樹は

おそらく現當二世安楽のために

賢劫仏(けんごうぶつ)になぞらえ

観音山を曼荼羅に見立てた

浄行ではないかと考えます。

 

観音山は当山の旧境内地で

明治まで観音堂があった場所で

明治以降は観音堂は廃止され

境内地を切り離し

現在は七崎神社となっています。

 

棟札の記載は

記録としての史料なので

快傳大和尚以前の観音山には

2000本もの杉を

植えられるだけのスペースが

あったということでもあり

現在の景観とは

全く異なる景観だったことを

暗示します。

 

杉だけでなく

伽藍や諸堂の整備

仏像の造立・請来などを

総合的に踏まえると

「曼荼羅に見立てた浄行」を

意識された方であり

さらには修行における

環境を整える意図も

看取出来るといえるでしょう。

 

そんな快傳大和尚についても

機会があれば

ブログでも紹介したいと思います。

 

本年の開山忌では

新たにお迎えする

四大明王像の開眼も行います。

 

不動明王と四大明王を

あわせて五大明王と称します。

 

不動明王は

真言宗においても

日本の信仰史においても

篤く敬われてきた尊格で

修行においてとても重要な意味を

宿しています。

 

普賢院合葬墓は

不動明王を本尊としており

不動明王は当行事にも

大きく関わります。

 

ということで

今回はここまでとし

つづきはまた後日とします。

 

▼昨年の開山忌ならびに供養祭

丸つけ三昧

新年度を迎える

子ども達の宿題の

丸つけを一気に。

 

何気に勉強になります。

 

大変ですが…

 

長男は7日が入学式で

長女は3日から新学期。

 

準備は

まだまだ終わりません…