青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)⑨

現在の青森県田子町の

釜渕家出身の高僧

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

は1657年頃に生まれ

元文4年(1739)82歳頃に

入寂したとされます。

 

千体仏作仏を三度成満し

それに加え数百体もの仏像を

彫られた“傑僧”です。

 

三度に渡る千体仏作仏は

以下のように整理されます。

 


 

第1期 地蔵菩薩

(1600年代末〜1700年代初頭)

(学秀 50歳頃)

飢饉物故者供養のため

 

第2期 観音菩薩

(正徳2年(1712)頃〜)

(学秀 60歳頃〜)

九戸戦争戦没者のため

 

第3期 観音菩薩

(享保7年(1722)〜元文4年(1739))

(学秀 70歳頃〜入寂)

生まれである釜渕家一族の供養のため

 


 

当山にも学秀御作の仏像が

お祀りされます。

 

本年2月に

確認された千手観音坐像と

学秀御作と見られる

不動明王像

大黒天像が祀られております。

 

そういったご縁で当ブログで

学秀に関して

ちょくちょく触れております。

 

今回は千手観音坐像について

重ねて記させて頂きます。

 

少し前に

千手観音坐像のお身拭いをしました。

https://fugenin643.com/blog/千手観音のお身拭い/

 

筆を用いて

細部に至るまで

積もり積もったホコリを

払い落としました。

 

この千手観音坐像は

両側面部分に穴が空いており

拙僧(副住職)が数えた所

穴は36あるように見えます。

 

これまでは

側面の腕は喪失したものと

考えておりましたが

そもそも腕は

無かったのではないかと

最近は考えております。

 

先のお身拭いは

詳細に仏像を観察する機会にも

なったのですが

仏像側面部分の穴は

腕を差し込むためのものとは

考えにくいような

穴の作り方になっています。

 

諸穴が腕を差し込むための

ほぞ穴だとすると

あまりにも仕掛けが“甘い”のです。

 

この作りでは

ほぞ穴としての役割を

果たせないように感じます。

 

機能的な視点に加え

学秀仏(学秀が彫った仏像の意)に

見られる特徴的な観点からも

考えてみたいと思います。

 

“装飾的意匠”が極力削がれた所に

学秀仏の大きな特徴があります。

 

そういった特徴を踏まえると

小さく細かな腕を多数こしらえて

一つ一つを差し込むような

作仏をしていたとは考えにくいのです。

 

ということで

拙僧(副住職)の見立てとして

正面の4本の腕以外には

当初から腕は無く

側面部の穴をもって

腕は表現されているのだと思います。

 

千手観音において

「千手」(複数の手)は

千手観音を千手観音たらしめる

重要な意味を持つものです。

 

重要な意味を帯びる

「千手」の存在を

しっかりと仏像に刻み

“無いもの”を表現したとすると

学秀仏の奥深さを

改めて感じさせられませんか?

 

千手観音のお身拭い

「青森の円空」とも呼ばれる

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

御作の千手観音像の

お身拭いを行い

安置方法を改めました。

 

何年分か不明ですが

相当量の汚れをまとっていたので

筆を用いて塵を落としました。

 

大量の塵が払われ

千手観音像の表情も

心なしか一層穏やかに感じられます。

 

こちらの仏像は本年初頭に

学秀仏(学秀が彫った仏像の意)

であることが判明したばかりです。

 

さらに当山では

本堂の建替を予定しているということもあり

この千手観音像を今後どのように

お祀りするかを様々に

検討しております。

 

学秀御作の千手観音の

安置場所や安置方法は

大方定まったので

細かな部分については

本堂建替事業の推進と共に

進めていければと思います。

 

現在は学秀千手観音を観音堂の

八体仏(十二支守護尊)が

お祀りされている

脇堂上段中央に

お祀りしております。

 

千手観音は蓮華王とも称される

とても尊い観音様なので

お参りの際は

是非祈りをお捧げ下さいませ。

青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)⑧

当山本堂内の観音堂には

「青森の円空」とも称される

田子町出身の高僧である

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

御作の仏像がお祀りされております。

 

本年2月には

千手観音坐像が確認されました。

 

その他にも

学秀御作と思われる

不動明王像と大黒天像が

お祀りされております。

 

そういったご縁があり

当ブログにおいて

学秀をテーマとした投稿を

重ねております。

 

今回は学秀の書と思われる

扁額について探ってみようと思います。

IMG_9097

 

当山観音堂縁側には

賽銭箱が置かれ

鰐口や鳴り物が設えられております。

 

その上方に

「観世音(かんぜおん)」と

記された扁額(へんがく)が

掲げられます。

IMG_9158 2

 

この扁額は

30年以上前に

塗り直されております。

 

文化財を保護するような

資格をお持ちの方に

修復して頂いたものではないので

扁額の刻字などの細部が

大雑把に塗料が付されており

やや読みにくくなっております。

 

この扁額は誰によって

いつ頃製作されたのか等

詳細は分かりませんでした。

 

当山では

文化8年(1811)以来の

本堂建替という歴史的大事業を

現在推進しております。

 

そのような歴史的な節目にあたり

当山の歴史や伝承等の整理や研究を

改めて進めているのですが

その一環として

扁額についても

調べております。

 

そんな中

観音堂縁側の扁額の

落款(らっかん)を解読したら

とても興味深いことが

浮かび上がってまいりました。

 

この扁額には3つの落款印が

されておりますが

そのうちの1つが以下の写真です。

IMG_9632

 

この落款を

友人や知人の協力を得ながら

解読してみた所

龜峯(きほう)」

という二文字であることが判明しました。

 

残り二箇所の落款印はそれぞれ

「主忠信」「不爾(二)」

であることも分かりました。

 

さらに

「龜峯」と「不爾」の2つの落款の上にも

刻字がなされており

ここにも「亀峯」の字が見られることが

分かりました。

IMG_9162

 

拙僧(副住職)は

「龜峯(きほう)」というのは

奇峯学秀のことではないかと

考えております。

 

「奇」ではなく「龜」という文字が

用いられた理由についても

思い当たる所があります。

 

以下の写真は

当山に掲げられる

「圓通閣(えんつうかく)」と

記された扁額です。

IMG_9107

 

観音菩薩には別称が色々あり

圓通大士(えんつうだいし)とも

呼ばれます。

 

圓通閣とは観音堂を意味します。

 

この扁額の書は

鶴洲(かくしゅう)という方が

75歳の時にしたためたものです。

 

現在は色あせておりますが

とても立派な仕立ての扁額です。

 

字の彫りの部分には

金箔が残っているのが確認できます。

 

鶴洲という方は

黄檗宗の禅僧です。

 

この扁額は

享保年間に奉納されたと思われます。

 

先程の扁額において

龜の字が用いられたのは

鶴洲の「鶴」の字を受けての

機知に富んだ決定であり

験を担いでのものなのではないかと

拙僧(副住職)は

考えております。

 

「鶴」と「龜」で

吉祥の意味を色濃くしたものとは

考えられないでしょうか。

 

この享保年間というのは

当山にとっては

中興された時期でもあります。

 

また度重なる凶作や飢饉により

地域全体が大変な状況であった

時代でもあります。

 

学秀は生涯において

三千数百体もの仏像を作仏し

祈りを捧げられた方です。

 

「龜峯」には学秀の祈りが

重ねられていると考えることは

それ程無理のない

仮説であるように思います。

青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)⑦

現在の青森県田子町の

釜渕家出身の高僧

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

は1657年頃に生まれ

元文4年(1739)82歳頃に

入寂したとされます。

 

学秀は千体仏作仏を三度成満し

その他にも数百体の仏像を

彫られたとされます。

 

三度に渡る千体仏作仏は

以下のようになります。

 


 

第1期 地蔵菩薩

(1600年代末〜1700年代初頭)

(学秀 50歳頃)

飢饉物故者供養のため

 

第2期 観音菩薩

(正徳2年(1712)頃〜)

(学秀 60歳頃〜)

九戸戦争戦没者のため

 

第3期 観音菩薩

(享保7年(1722)〜元文4年(1739))

(学秀 70歳頃〜入寂)

生まれである釜渕家一族の供養のため

 


 

本年2月に学秀御作の

千手観音が確認されたご縁で

当山の歴史や

仏道の視点を交えつつ

高僧学秀について

紐解かせて頂いております。

 

学秀御作の千手観音は

当山の千手観音堂に

祀られていたと考えられます。

 

また享保年間の

当山中興開山の時期に

請来された可能性があります。

 

さらに

確認され報告されている所の

学秀仏のラインナップから

曼荼羅の話に飛んだり

長谷寺の話に飛んだり

観音霊場の話に飛んだりと

振り返ってみると

様々に触れてまいりましたが

今回は当山に祀られる

学秀御作の千手観音像を

じっくり観察して

述べられることを

述べさせて頂きます。

 


【正面】

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正面には4手あり

一組は胸の前で合掌をし

もう一組はおへその辺りで

定印(じょういん)という

印を組んでおり

宝鉢(ほうはつ)をのせております。

 

合掌と定印が

正面にて組まれているお姿は

千手観音の一般的なお姿といえます。

 


【頭頂】

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多面(顔が複数あること)であることが

よく分かると思います。

 

本面(メインの顔)の上にあたる

頭部は三段になっており

確認出来る範囲で

一段目が11面

二段目が7面

三段目が3面です。

 

欠けた面もあるかもしれませんし

数え損ねている面も

あるかもしれませんが

本面をあわせて二十二面

となっております。

 

三段目は3面のうち

中央のお顔が大きくなっており

これは化仏(けぶつ)である

阿弥陀如来だと思われます。

 


【側面】

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左右側面には2列に複数の穴があり

これは千手観音の手が差し込まれていた

ほぞ穴だと思われます。

 

こういった細工は

他の学秀仏には見られないので

少し細かく検討しつつ

眺めてみたいと思います。

 

よく見ると

一列の穴の数はそれぞれ9つ

あるように見えます。

 

仮に1列9つの穴があるとして

左右2列ずつなので

合計36個の穴があり

両側面には合わせて

36手があったと考えられます。

 

それに正面の4手を加えると

合計40手の仏像ということになります。

 

とすると

これは手の数に

意味が通わされて作られたという

可能性が出てまいります。

 

補足ですが

千手観音の「千」とは

「はかりしれない慈悲」を

意味します。

 

千手観音の「化身」として

四十観音(しじゅうかんのん)

という“観音群”があり

千手観音の40手に応じた

お姿で描かれます。

 

四十観音は

『千光眼秘密法経』という

経典に説かれます。

 

専門的な話ですが

「五部五法(ごぶごほう)

それぞれに各8手があり

40の真言法になる」と

されております。

 

細かな説明は省きますが

五部五法というのは

①仏部(ぶつぶ)

息災法(そくさいほう)

②金剛部(こんごうぶ)

調伏法(ちょうぶくほう)

③宝部(ほうぶ)

増益法(そうやくほう)

④蓮華部(れんげぶ)

敬愛法(けいあいほう)

⑤羯磨部(かつまぶ)

鉤召法(こうしょうほう)

の「部」と「法」を指します。

 

それぞれに8手があるということは

「4組の手」があることになります。

 

言葉を替えると

五部五法それぞれに

4尊格(仏の意)がそなわっている

ことを意味しております。

 

かなり専門的な話になるので

これ以上の言及はさけますが

これは金剛界曼荼羅

そのものを意味しております。

 

ほぞ穴を多数こしらえて

多手を差し込む形の

学秀の作仏は

現時点では他に見られません。

 

「40手の意味」が

踏まえられての

お姿であるとすれば

当山を中興された

快傅上人がその旨お伝えし

作仏して頂いたのではないか

という推測が出来るように思います。

 


【背面】

IMG_1706

背面には

衣紋線が見られます。

 

これは背面は

学秀仏全般に見られる特徴と

同様なのだそうです。

 

「学秀美」を感じます。

 


 

今回は当山に祀られる

学秀仏・千手観音坐像を

観察いたしました。

 

一般的な千手観音の特徴も

確認出来ましたし

真言宗の事相的側面に

通じている可能性も

確認することが出来ました。

 

ここでいう事相的側面とは

換言すると

「真言宗において専門的なこと」

ということです。

 

この点から

当山を中興開山された快傅上人が

千手観音作仏に携わっていたと

考えることが出来るように思います。

 

【快傅上人の墓石】

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青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)⑥

青森県田子町の

釜渕家出身である高僧

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

は生没年代の詳細は不明ですが

1657年頃に生まれ

元文4年(1739)82歳頃に

入寂したとされます。

 

学秀は千体仏の作仏を

三度成し遂げられており

それらの時期は以下のように

第1期〜3期という形で

表現されているようです。

 


 

第1期 地蔵菩薩

(1600年代末〜1700年代初頭)

(学秀 50歳頃)

飢饉物故者供養のため

 

第2期 観音菩薩

(正徳2年(1712)頃〜)

(学秀 60歳頃〜)

九戸戦争戦没者のため

 

第3期 観音菩薩

(享保7年(1722)〜元文4年(1739))

(学秀 70歳頃〜入寂)

生まれである釜渕家一族の供養のため

 


 

話があちこち飛ぶかと思いますが

仏道における「三千」という数字や

「千」という数字について

触れてみたいと思います。

 

三世三千仏(さんぜさんぜんぶつ)

という言葉があります。

 

三世という言葉は

掘り下げられて様々な意味があり

さらには三毒(さんどく)といった

仏道の根本的なキーワードと絡め

説かれることが多いのですが

ここでは基本的な意味として

過去・現在・未来のことと

捉えて頂いて結構です。

 

三世三千仏とは

それぞれに千仏が

いらっしゃるという

意味だとお考え下さい。

 

ここでいう千とは

個数の数字ではなく

象徴的意味を帯びた聖数です。

 

この三千仏に祈りを捧げる法要を

仏名会(ぶつみょうえ)といい

日本では光仁天皇代の

宝亀5年(774)12月に

初めて行われております。

 

意図してのことか否かを

知るすべはありませんが

結果として

学秀の後半生におけるお歩みは

三世三千仏への尊い祈りを

作仏を以て遂げられたとも

捉えられるかと思います。

 

学秀は禅僧でもあるので

その観点から考えてみると

禅宗でもよく用いられる

陀羅尼(だらに、梵語のお経のこと)に

大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)

または大悲咒(だいひしゅ)

と通称される“お経”があります。

 

大悲心陀羅尼あるいは大悲咒は

千手観音の陀羅尼でもあります。

 

日本最古の観音霊場である

西国(さいごく)三十三観音霊場

のうち千手観音が本尊である

札所は33所のうち

実に15所(十一面千手1ケ寺も含む)

にのぼります。

 

西国三十三観音霊場の

札所本尊としては

如意輪観音が6ケ寺

十一面観音が6ケ寺

聖観音が3ケ寺

准胝観音が1ケ寺

不空羂索観音が1ケ寺

馬頭観音が1ケ寺です。

 

開創1300年とされる

西国三十三観音霊場において

千手観音を本尊とする札所が

最も多いことからも

古くから信仰されてきた

観音菩薩であることが

分かるかと思います。

 

日本最古の三十三観音霊場である

西国霊場の起源は

当山の本山である長谷寺を

開山された徳道(とくどう)上人が

関わっております。

 

養老2年(718)に

徳道(とくどう)上人が

病床において見られた夢で

閻魔大王より三十三の宝印を授かります。

 

そして衆生救済のために

観音霊場を作るよう

閻魔大王に告げられたため

宝印を納める三十三所を定められ

西国三十三観音霊場が開創された

と伝えられます。

 

しかし

徳道上人の時代には

機運が熟さなかったようで

授かった三十三の宝印を

現在の兵庫県にある

中山寺に納めることになります。

 

中山寺は真言宗中山寺派の本山で

聖徳太子創建とされ

勝鬘夫人(しょうまんぶにん)の

お姿をうつして造ったと伝えられる

十一面観音を本尊とします。

 

中山寺は西国第一番札所です。

 

徳道上人が

中山寺に三十三の宝印を納め

それから約270年経った後に

花山法皇により

西国三十三観音霊場は

復興されたとされます。

 

花山法皇は

播磨(現在の兵庫県)にある

書寫山(しょしゃざん)の

性空(しょうくう)上人とご縁がある方です。

 

書寫山というと

“最古の十和田湖伝説”が収録されている

『三国伝記』(さんごくでんき)では

難蔵(南祖坊(なんそのぼう)のこと)は

書寫山の法華持経者とされます。

 

南祖坊は十和田湖伝説に登場する僧侶で

当山にて修行したと伝えられ

全国練行の末に十和田湖に入定し

青龍大権現という龍神として

十和田湖の主になったと伝えられます。

 

西国三十三観音霊場に続いて

坂東(ばんどう)三十三観音

秩父三十三観音(のち三十四観音)の

霊場が成立しますが

それに続いて成立した地方的札所が

糠部三十三観音だそうです。

 

糠部三十三観音霊場は

永正9年(1512)9月に

観光上人により創始されました。

 

観光上人の札番(札所の番号)は

現行のものとは異なりまして

現在の札番は

八戸市の天聖寺(てんしょうじ)第8世

則誉守西(そくよしゅさい)上人が

寛保3年(1743)に定められたものです。

 

当山の七崎観音は第15番札所で

田子の釜渕観音は第27番札所になります。

 

この27番札所の釜渕観音堂にて

学秀は出身である釜渕家のご供養のため

最後の千体仏を完成させました。

 

西国三十三観音霊場のルーツである

当山の本山である奈良県桜井市の

長谷寺の創建は

朱鳥元(686)年に

修行法師の道明上人が

銅板法華説相図(ほっけせっそうず)

を安置して祀られ開創されます。

 

350px-Hokke_Sesso_Bronze_Plaque_Hasedera

 

この法華説草図には

法華経

見宝塔品(けんほうとうぼん)

の場面が描かれております。

 

平泉の中尊寺金堂は

この見宝塔品に基づいて

建立されたといわれます。

 

補足になりますが

江戸時代初期までは

中尊寺には真言寺院も構えられており

永福寺住職が中尊寺から

迎えられたこともあります。

 

見宝塔品について

以下の引用文を参考に

大意を見てみましょう。

 


 

釈迦牟尼(しゃかむに)が

霊鷲山(りょうじゅせん)で

大比丘尼衆一万二千

菩薩八万のために

法華経を説かれると

会座(えざ)に地中より

高さ五百由旬

縦横二百由旬の七宝塔が

湧出(ゆうしゅつ)し

空中に住在するところあり

時に宝塔中より

多宝仏(たほうぶつ)が大音声を発し

釈尊説くところの法華経を讃嘆し

それが真実なることを証する。

 

やがて釈尊

扉をひらいて

二仏宝塔中に

併座されるといふのが

この経文の大旨である。

 

(安田與重郎、昭和40年

『大和長谷寺』(淡交社)p.11。)

 


 

このような象徴的場面が

法華説相図には

施されております。

 

またこの法華説相図は

金銅千体仏とも

金銅釈迦仏一千体ともいわれ

「千体仏」が施されております。

 

他にも「千」や「三千」に

関連して述べられることは

沢山あるかと思いますが

様々な意味合いや伝統がある

ということが少しでも

伝えることは出来たでしょうか。

 

こういった観点から

学秀千体仏に

アプローチすることは

有意義なことと思われます。

 

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青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)⑤

青森県田子町の

釜渕家出身である高僧

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

は出生年の詳細は不明ですが

1657年頃に生まれ

元文4年(1739)82歳頃に

入寂したとされます。

 

名久井の名刹・法光寺に入門し

その後の足取りは不明ですが

宝永4年(1707)には

九戸の長興寺7世として

奉職していたことが

分かっております。

 

1657年に生まれたと仮定すると

宝永4年(1707)には

学秀は御年50歳ということになります。

 

法光寺入門後

50歳に至るまで

どのように過ごされたかについて

郷土史研究をされている方の

一説では永平寺に

行っていたのではないかと

いわれてきたようです。

 

たまたま見ていた

『新編八戸市史』(近世資料編Ⅲ)

所収の翻刻資料

「松館大慈寺歴代住職の書上」

(原本は天明8年(1788)の史料)

では学秀について

前総持

当寺六世奇峯学秀大和尚

元文四己未二月七日

と記されておりました。

 

「前総持」の部分は

住職になる以前に

(曹洞宗)本山である

横浜市鶴見の

総持寺(そうじじ)に

登嶺していたことを示すものです。

 

もう一方の本山である永平寺に

登嶺していたのであれば

「前永平」と記されます。

 

ということなので

学秀は総持寺へ

行っていたことになります。

 

総持寺に行っていたことは

間違いないようですが

当時の僧侶の修行や研鑽の動向や

学秀が彫られた仏像の

ラインナップを踏まえつつ

想像力を膨らませて

学秀の“足跡”を思い描いてみると

方々の学山で学ばれたり

霊場霊跡に赴かれたりしたと

考えても良いと思われます。

 

当時の僧侶の動向を探る一例として

当山の本山である

奈良県桜井市の長谷寺を

とりあげてみると長谷寺は

学山 豊山(がくさん ぶざん)といわれ

今で言う所の「宗派」の垣根を超えて

非常に多くの僧侶が学ばれた

“大学”のような御山でした。

 

そういった学山を

各所訪ねて研鑽を積むことが

明治時代になるまでは

“違和感のないこと”だったのです。

 

参考までにですが

学秀と同時代を生き

作仏も多くされた

港町の若松屋出身の僧侶である

津要玄梁(しんようげんりょう)は

松館大慈寺

盛岡の青龍山 祇陀寺(ぎだじ)

二戸浄法寺の天台寺で

修行された後に

階上町寺下を拠点にして

布教活動をされていらっしゃいます。

 

寺下の五重塔跡近くの

津要和尚墓誌には

延享ニ年(1745)乙丑

前永平(永平寺に登嶺していたの意)

祇陀先住(祇陀寺の僧侶であったの意)

石橋玄梁大和尚禅師

大閏十二月二十五日

と記されております。

 

学秀仏のラインナップを見てみると

聖観音(しょうかんのん)

十一面観音(じゅういちめんかんのん)

千手観音(せんじゅかんのん)

地蔵菩薩(じぞうぼさつ)

弥勒菩薩(みろくぼさつ)

勢至菩薩(せいしぼさつ)

五智如来(ごちにょらい)

大日如来(だいにちにょらい)

薬師如来(やくしにょらい)

阿弥陀如来(あみだにょらい)

釈迦如来(しゃかにょらい)

不動明王(ふどうみょうおう)

韋駄天(いだてん)

牛頭天王(ごずてんのう)

閻魔大王(えんまだいおう)

大黒天(だいこくてん)

恵比寿天(えびすてん)

十王(じゅうおう)

達磨大師(だるまだいし)

と実に幅広い尊格の

仏像と御像が

作仏されております。

 

尊格それぞれは

本質的には通じておりますが

各尊の司るみ教えやお諭しに

個性もあります。

 

尊格は主に

如来(にょらい)

明王(みょうおう)

菩薩(ぼさつ)

天(てん)

に分けられます。

 

これらは個別に

独立しているのでは

ありません。

 

例えば

弘法大師空海が請来した

曼荼羅を現図曼荼羅

といますが

曼荼羅中央に描かれる

大日如来という尊格について

見てみましょう。

 

現図曼荼羅は

金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)

胎蔵曼荼羅(たいぞうまんだら)

の一対になっており

金剛界は智慧

胎蔵界は慈悲

であるとも言われます。

 

学秀最古の仏像として

葛巻の宝積寺のために彫った

五智如来(ごちにょらい)

と称されている仏像が

八戸市の上野に

お祀りされております。

 

現在は1体ですが

もともとは5体であったと

考えられているそうです。

 

この五智如来とは

一般的に金剛界五仏といわれる

金剛界曼荼羅中央の

五尊を指します。

 

阿閦如来(あしゅくにょらい)

宝生如来(ほうしょうにょらい)

阿弥陀如来(あみだにょらい)

不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)

大日如来(だいにちにょらい)

の五仏を五智如来といいます。

 

五智(ごち)とは

五つの智慧のことで

先の金剛界五仏それぞれは

大円鏡智(だいえんきょうち)

平等性智(びょうどうしょうち)

妙観察智(みょうかんざっち)

成所作智(じょうそさち)

法界体性智(ほうかいたいしょうち)

の尊格です。

 

正確には五智のうち

前4つを四智(しち)

その総体を法界体性智といい

四智と法界体性智を合わせて

五智(ごち)といいます。

 

現在各流派の御詠歌(ごえいか)で

用いられている鈴(れい)の仕様は

もともとは

金剛流(こんごうりゅう)という

高野山の流派のものでして

この鈴(れい)の頭

(鈴頂(れいちょう))を

五智如来といいます。

 

▼御詠歌の鈴(れい)

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▼五智如来(ごちにょらい)

IMG_8760

 

鈴頂の五智如来は

蓮台(れんだい)の上に

五鈷(ごこ)という

五つの爪が載せられた形

となっており

これは先の金剛界五仏の

象徴でもあります。

 

蓮台の前に取り付けられている

梵字はバンという字で

(金剛界)大日如来を

表す種字(しゅじ)です。

 

金剛界五仏は

全ての尊格“各グループ”である

五部(ごぶ)を“代表”しており

金剛部(こんごうぶ)

宝生部(ほうしょうぶ)

蓮華部(れんげぶ)

羯磨部(かつまぶ)

仏部(ぶつぶ)

と各部のことをいいます。

 

これら五部の総体

(つまり全ての尊格の代表)

とされるのが大日如来です。

 

その大日如来の

教化(きょうけ)のお姿の1つが

不動明王とされます。

 

専門用語では

教令輪身(きょうりょうりんじん)

といいます。

 

要するに“本質的に”

大日如来と不動明王は

“同体”なのです。

 

以上のような諸尊の関係も

含めて「曼荼羅思想」と

ここでは言わせて頂くと

かつて曼荼羅思想は

僧侶や修験者

あるいは一般的に

現在より膾炙(かいしゃ)された

ものだったようです。

 

曼荼羅の考え方は

各尊格や仏像を捉える上で

必要不可欠な視点です。

 

学秀仏のラインナップを

ざっと見渡しても

「曼荼羅思想」に

大いに通じていると

いうことが出来るかと思います。

 

学秀は千体仏の作仏を

三度成し遂げた方です。

 

三度の作仏は大きく分けて

第1期〜3期という形で

表現されているそうです。


 

第1期 地蔵菩薩

(1600年代末〜1700年代初頭)

(学秀 50歳頃)

 

第2期 観音菩薩

(正徳2年(1712)頃〜)

(学秀 60歳頃〜)

 

第3期 観音菩薩

(享保7年(1722)〜元文4年(1739))

(学秀 70歳頃〜入寂)

 


第1期の千体仏は

飢饉で亡くなられた多くの方の

ご供養のために。

 

第2期の千体は

九戸の乱の戦没者供養のために。

 

第3期の千体は

隠居後に故郷である田子において

出身である釜渕家一族の供養のために。

 

単純計算してみると

観音菩薩を二千体以上

次いで地蔵菩薩を千体以上

作仏していることになります。

 

これらの仏像含め

学秀は三千数百体は作仏しただろうと

いわれているようです。

 

仏道において

「三千」という数は

伝統的な意味のあるもので

このことと関連付けて

学秀の三千仏を考察してみることは

有意義なことかと思います。

 

次回はこの点について

触れてみたいと思います。

 

▼五智如来が祀られるお堂(八戸市上野)

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▼金剛界曼荼羅

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▼胎蔵曼荼羅

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青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)④

現在の青森県田子町の

釜渕家出身の高僧

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

は千体仏作仏を三度成満し

その他にも数百体の仏像を

彫られたとされます。

 

その多くは喪失してしまい

現在確認されている

学秀仏(がくしゅうぶつ)は80体程

だそうです。

 

当山には学秀御作の

千手観音がお祀りされていることが

判明したことを受け

当山関連の歴史を踏まえながら

当ブログにて

学秀との関係について

投稿を重ねております。

 

前回は

学秀仏の千手観音が

祀られていたであろう

千手観音堂について触れ

さらに学秀仏が

当山に請来されることになった

キーパーソンが

当山中興開山である

快傅上人だと拙僧(副住職)は

推測していることを

お伝えいたしました。

 

この点について

今回はもう少し深めて

記させて頂きます。

 

快傅上人は

「当山寺屋敷共」に

新たに建立された方です。

 

当山所蔵の

享保18年(1733)と記された

棟札表中央には

再建立當寺屋敷共

新今慶建立

當寺長久安全如意

快傅末々之住寺共

萬民愛敬云々…

記されます。

 

またこの棟札にはその際

観音山(七崎山)に

杉を2000本余植えたと

記されますので

その前後で当地の雰囲気は

かなり厳かになったと思います。

 

七崎山とは

当山が別当をつとめた

旧観音堂があった

現在の七崎神社の地を指します。

 

さらに現在の当山の地にも

様々な木々を植えたようで

杉のほかにも

松、ヒバ、ツキ、エノミ

クリ、サイガチ、クルミ

ナシ、モモ、カキなどが

植えられたと記されます。

 

享保年間(1716〜1736)の

快傅上人による当山中興と

学秀活躍期は重なっております。

 

快傅上人が中興にあたり

学秀千手観音を

請来されたと推察することは

無理のないことと思われます。

 

少し視点を変えて

この時代を考えるに

貞享元年(1684 )には

弘法大師850年御遠忌(ごおんき)

というとても重要な法要が

各本山はじめ各地で厳修されております。

 

これより程なくして

貞享4年(1687)4月に

第29第藩主・南部重信公は

聖観音像を七崎観音堂に

奉納されております。

 

これが現在の

七崎観音です。

 

また元禄3年(1690)12月には

覚鑁(かくばん、1095〜1143)上人が

東山天皇より興教大師(こうぎょうだいし)

の諡号(しごう)を賜っております。

 

▼興教大師 覚鑁

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これは

覚鑁上人がご入滅されて

537年目のことでした。

 

(新義)真言宗において

興教大師覚鑁上人は

弘法大師空海上人と共に

両祖大師(りょうそだいし)とされる

とても尊い方です。

 

元禄5年(1692)は

興教大師550年御遠忌

にあたっております。

 

もう少しこのことについて

掘り下げさせて頂きます。

 

この時期の新義真言宗は

「宗派の繁栄」と表現される程に

格式が高くなり隆盛しております。

 

新義真言宗では

権僧正(ごんそうじょう)という

僧階(そうかい、僧侶の位)が

極官で小池坊(奈良の長谷寺本坊)と

京都の智積院(ちしゃくいん)の

両能化だけが権僧正でした。

 

それが元禄4年(1691)6月18日に

小池坊13世能化・卓玄(たくげん)が

智積院・信盛と

護持院・隆光とともに

正僧正(しょうそうじょう)という

それまでの極官よりも

高い僧階に任じられております。

 

この当時の徳川将軍・綱吉公は

「小池坊も智積院も

権現様(家康公)が取立た

寺院であるから

両能化とも正僧正にしよう」と

述べられたそうです。

 

この卓玄僧正は

八戸藩祈願所である

自在山 豊山寺(じざいさん ぶざんじ)

の(長谷寺式)十一面観音像を

貞享5年(1688)に

開眼(かいげん)されております。

 

この十一面観音は

豊山寺の廃寺に伴い

その末寺である

是川の福善寺に移されました。

 

またまた余談ですが

この豊山寺という寺院は

根城にあった八戸東善寺の後身で

再興にあたって

自在山 豊山寺と改められ

“豊山寺初代”として

花巻の愛宕山八幡寺より

惠廣上人が招かれております。

 

この八幡寺というお寺は

現在の花巻神社の地にあった

小池坊(長谷寺)の末寺ですが

永福寺支配のお寺でもありました。

 

とにかく

新義真言宗がそれまでに増して

“勢いづいていった”時代が

当山中興や学秀の時代でもあります。

 

当山と学秀の関係を考える

背景としてこういった事情は

外すことは出来ないことです。

 

他にも重要な背景は様々ですが

江戸期の南部藩領では

飢饉とよばれるもの以外にも

凶作が頻発していることは

踏まえなければならないことです。

 

ある資料によれば

江戸時代だけで

76回もの凶作が

発生しております。

 

おそらくはその時代の七崎も

度重なる凶作が引き金となり

かなり疲弊していたと思います。

 

時代が時代ゆえ

当山も快傅上人がいらっしゃった頃は

荒廃していたと思われます。

 

そのような中

中興されるにあたり

“現在の救済仏”である千手観音を

学秀和尚に作仏頂いたというのが

拙僧(副住職)の推測です。

 

田子は修験の

大法院(だいほういん)が

強い影響力を持っていたようなので

修験関連で千手観音に

触れみたいと思います。

 

現在の「修験本宗」の

総本山である奈良県吉野の

金峯山寺(きんぷせんじ)では

三体の蔵王権現(ざおうごんげん)が

本尊としてお祀りされ

それぞれが過去・現在・未来の

三世(さんぜ)の尊格とされます。

 

そしてそれぞれの

本地仏(ほんじぶつ)は

過去:釈迦如来

現在:千手観音

未来:弥勒菩薩(みろくぼさつ)

とされており

この“対応関係”は

当山中興にあたり請来された

学秀千手観音に託された願いを

紐解く上で

参考になるように思います。

 

禅宗で大切にされる陀羅尼で

大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)

という“尊いお経”があります。

 

この陀羅尼は

千手千眼観自在菩薩円満無礙大悲心陀羅尼

ともいいまして

千手観音の陀羅尼でもあります。

 

大悲心陀羅尼の意味を

踏まえることもまた

学秀千手観音に託さた願いを

紐解く上で

参考になろうかと思います。

 

かなり専門的な話題ばかりに

なってしまいましたが

当ブログは

「研究ノート」としても

投稿させて頂いておりますので

何卒ご容赦下さいませ。

 

【関連記事】

▼稀代の古刹 七崎観音④

https://fugenin643.com/blog/稀代の古刹七崎観音四/

 

▼稀代の古刹 七崎観音⑤

https://fugenin643.com/blog/稀代の古刹七崎観音五/

 

▼吉野金峯山寺について

https://fugenin643.com/blog/吉野金峯山寺/

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青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)③

『御領分社堂』という

宝暦13年(1763)の書物は

宝暦9年(1759)の幕府の御触(おふれ)

により開始された

藩領の社堂の調査を

まとめたものです。

 

七崎(豊崎の古称)について

同書に以下のように

記載されております。

 


寺院持社堂 五戸御代官所七崎

一 観音堂 四間四面萱葺(かやぶき)

古来縁起不相知

萬治元年(1658)重直公御再興被遊

貞享四年(1687)重信公御再興被遊候

何(いずれ)も棟札(むなふだ)有

 

一 大日堂

一 不動堂

一 愛染堂

一 大黒天社

一 毘沙門堂

一 薬師堂

一 虚空蔵堂

一 天神社

一 明神社

一 稲荷社

一 白山社

右十一社堂は観音堂御造営之節

依御立願何も御再興被遊候

小社之事故棟札も無之

只今大破社地斗に罷成候

一 月山堂 壱間四面板ふき

 

一 観音堂 右ニ同

右両社共に観音堂御造営之節

重直公御再興也

 

善行院(ぜんぎょういん)

当圓坊(とうえんぼう)

覚圓坊(かくえんぼう)

覚善坊(かくぜんぼう)

右四人之修験は本山派にて

拙寺(永福寺)知行所所附之者共御座候

古来より拙寺(永福寺)拝地之内

三石宛(ずつ)遣置

掃除法楽為致置候


 

現・田子町出身の奇峯学秀

(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

御作の千手観音が

当山観音堂にお祀りされていることが

つい先日判明いたしました。

 

学秀は

出生年代は不明ですが

元文4年(1739)に82歳頃に

入滅したとされます。

 

ですので

『御領分社堂』が伝えるのは

学秀が入滅して約20年後の

主なお堂の様子であるといえます。

 

先の引用箇所で

赤字にした箇所

学秀と関わると思われます。

 

当山で所蔵する棟札の

内容を踏まえると

この「観音堂」は

千手千眼(せんじゅせんげん)観音堂

(以下、千手観音堂)です。

 

現在の本堂を文化8年(1811)に

再建した当時の

当山先師である覚宥師の名が記される

千手観音堂再建の

棟札があることから

千手観音堂が以前から

あったことが分かるのです。

 

また当山には

散逸してはおりますが

千手観音の作法の次第である

千手観音法(せんじゅかんのんぼう)

が残されております。

 

先の引用文では

冒頭にもう1つ観音堂が

記されておりますが

これは現在の七崎神社の地にあった

寺号を七崎山徳楽寺とする観音堂で

現在の当山本堂にある

観音堂内殿中央に祀られる

七崎観音(聖観音)を

本尊としておりました。

 

観音堂ついででいえば

現在の八戸市白銀にある

清水観音(糠部第6番札所)も

当山が別当をつとめておりました。

 

さて千手観音堂に

話を戻しますが

重直公が観音堂を再興した際に

千手観音堂も再興されている

ということは

千手観音堂はさらに以前から

建立されていたことを意味します。

 

このお堂に学秀仏の

千手観音も請来されて

もとから祀られていた

千手観音と合祀された可能性は

大いにあると思います。

 

ここでもうお一方

当山と学秀を紐解く上で

キーパーソンとなる(と思われる)

当山先師・快傅(かいでん)上人

について触れたいと思います。

 

当山は

開創が圓鏡上人

(弘仁8年(817)5月15日入滅)

開山(開基)が行海上人

(承安元年(1171)5月に開山)

そして中興開山が快傅上人です。

 

快傅上人は

主に享保年間(1716〜1736)に

当山を中興された先師で

寛保元年(1741)11月2日に

御遷化されております。

 

過去帳によると

快傅上人は遠野の

ご出身だそうです。

 

脱線になりますが

遠野といえば

根城南部氏が移った地ですが

それに伴って祈願所である

師建山 東善寺(しけんざん とうぜんじ)

が八戸市根城から

本坊が寛永4年(1627)に

移された地でもあります。

 

東禅寺の山号である

師建山(しけんざん)は

南部師行公に由来し

行公が立された」

ことを意味します。

 

東善寺という寺号もまた

南部氏の「東氏」に由来するそうです。

 

遠野に本坊が移った後も

八戸根城の旧地は

八戸東禅寺として存続し

延宝年間(1673〜1681)に

自在山 豊山寺(じざいさん ぶざんじ)

として再興されます。

 

八戸東善寺が自在山豊山寺に

改称されたのは

延宝3年(1675)です。

 

豊山寺は延宝8年(1680)に

八戸城(現在の三八城公園)へ

移されました。

 

現在は廃寺となりましたが

この東禅寺(豊山寺)も

永福寺の傘下寺院でした。

 

豊山寺は八戸藩の内五ケ寺に

列ねられており

末寺には

是川の八鳩山 福善寺

田面木の延命山 善照院

楊柳山 永久寺(現在は廃寺)

豊山寺支配として

小田山 徳城寺(現・小田八幡宮)

霊現山 新源寺(現・斗賀霊(涼)現堂)

という本末関係がありました。

 

これら関係寺院についても

当山と学秀との関係を

考察する上で

重要な意味を持つと思われます。

 

快傅上人の出身地が遠野であることから

脱線として関連事項を

長々と記してしまいましたが

後々触れるべきことなので

これで良しとさせて頂きます。

 

快傅上人の当山中興と

学秀仏が当山に祀られたことは

深く関わっているのではないかと

拙僧(副住職)は推測しております。

 

このことについて

次回述べさせて頂きます。

 

【関連記事】

▼稀代の古刹 七崎観音③

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▼白銀清水観音

https://fugenin643.com/ふげんいん探訪/かんのんまいり-清水観音/

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青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)②

当山観音堂に

奇峯学秀(きほうがくしゅう)御作の

千手観音像が祀られていることが

先日確認されました。

 

ご確認頂いたのは

ごのへ郷土館館長の木村明彦館長と

奇峯学秀の末裔でもある釜渕嘉内氏の

お二人です。

 

2月22日に地元紙の

デーリー東北と東奥日報の各記者と

先のお二人に当山へおいで頂き

取材して頂いた際に

木村館長が奇峯学秀についての

資料を作成して下さいました。

 

奇峯学秀は田子町の

釜渕家出身の高僧で

名久井の法光寺に入門し

後に九戸の長興寺

八戸の大慈寺の住職を

務めた方です。

 

出生年代は不明ですが

元文4年(1739)に名久井の

顧養庵(こようあん)にて

82歳頃で入滅されたそうです。

 

行年が82歳として

没年の1732年から82を引くと

1657となります。

 

1657年は明暦3年です。

 

明暦前後の年号は明暦含め

承応(1652〜1655)

明暦(1655〜1658)

万治(1658〜1661)ですので

この辺りの生まれとなるようです。

 

この時期の

当山の歴史と学秀出生を

重ねてみると

当山では観音堂と末社十二宮が

再興されております。

 

落雷により観音堂が

焼失してしまったため

28代藩主・南部重直公により

御再興頂いております。

 

この観音堂は

現在の七崎神社の地に

建立されていたもので

七崎山 徳楽寺という

寺号が用いられておりましたが

明治になって廃寺となりました。

 

学秀の出生と同時期の

観音堂と末社十二宮の

再興棟札には

承応3年(1654)2月に事始

明暦元年(1655)9月に遷宮畢

と記されております。

 

当山の前身である永福寺は

南部盛岡藩が盛岡に

居城するにあたり

不来方城(盛岡城)の

鬼門の位置に

本坊が構えられます。

 

寛永2年(1625)12月には

27代藩主・南部利直公により

永福寺自坊でもある普賢院は

祈願所とされております。

 

寺院の本末関係や

藩領における統制が

整えられる中で

南部藩の祈願所である

七崎永福寺を“正式な形”で

(自坊という形ではありますが)

普賢院が引き継いだことになります。

 

当山を祈願所と定めた

南部利直公は十和田湖伝説に

登場する南祖坊(なんそのぼう)の

生まれ替わりであるとの

いわれがある藩主です。

 

南祖坊は

当山2世の月法律師に

弟子入りしたとされます。

 

また学秀が住職を務めた

大慈寺は最初

八戸の松館に建立されますが

利直公が開基されたお寺です。

 

この利直公も

学秀と同じく田子の出身です。

 

こういったことも

当山と学秀を結びつける

重要な要素といえるでしょう。

 

高僧・奇峯学秀の生きた時代を

当山の歴史や

仏道的視点を踏まえながら

「青森の円空 奇峯学秀」

と銘打ち何回か投稿したいと思います。

 

なぜ当山に学秀仏がお祀りされたのか

ということをテーマの1つとして

拙僧(副住職)なりの考察を交えつつ

試論として記してみたいと思います。

 

【関連記事】

▼糠部五郡小史に見る普賢院

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▼稀代の古刹 七崎観音③

https://fugenin643.com/ふげんいん探訪/十和田湖南祖坊について/稀代の古刹七崎観音参/

 

▼稀代の古刹 七崎観音⑦

https://fugenin643.com/ふげんいん探訪/十和田湖南祖坊について/稀代の古刹七崎観音七/

 

▼南祖坊伝説の諸相⑧

https://fugenin643.com/blog/南祖坊伝説の諸相⑧/

 

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学秀仏の千手観音像が記事で紹介されました

先日“発見”された

奇峯学秀(きほうがくしゅう)御作の

千手観音像について

地元紙である

デーリー東北と東奥日報で

紹介されました。

 

奇峯学秀は田子町の釜渕家出身とされ

八戸大慈寺の住職も務めた高僧です。

 

「東北の円空」

「青森の円空」とも呼ばれます。

 

当山と奇峯学秀の関係を考察すると

様々なことを指摘出来そうです。

 

この点については

少しづつ深めたいと思います。

 

“埋もれていた歴史”が

現在このタイミングで

再び掘り起こされるに至るまでには

様々なご縁の巡り合わせがありました。

 

そういった尊いご縁が

発見へと導いてくれた

学秀仏・千手観音。

 

伝えるべき「物語」が

また1つ当山に加えられたことを

心より光栄に思います。

 

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