仮本堂に七崎観音をお遷ししました

28日に秘仏・七崎観音を

ご開帳して行われる行事に向け

本日は仮観音堂より主なお仏像を

仮本堂にお遷ししました。

 

準備をしていると

いつもお世話になっている

小泉電気店の小泉智英さんが

照明を持ってきて下さいました。

 

実際に照明を使ってテストすると

とても素晴らしい雰囲気となりました。

 

おかげさまで

幻想的な空間にて

法要を行うことが出来そうです。

 

▼28日の詳細はコチラをご参照下さい▼

七崎観音おこもり法要か〜年に一度のご開帳〜

 

基礎資料作り(続)

昨日紹介した寺史資料に

江戸以前についても

情報を追記してみました。

 

江戸以前については

詳細な記述がないため

当山の過去帳を典拠にして

開創以降の先師について

追記しました。

 

長い歴史の中で

お名前が分からない先師様が

多くいらっしゃいますが

わずかであっても

お名前が現代に留められていることは

とても凄いことだと感じます。

 

また

弘法大師空海

興教大師覚鑁(かくばん)を

両祖大師(りょうそだいし)に関する

行事についても

一部追記しました。

 

両祖大師に関係する行事にあわせ

記念事業を行う傾向もあるので

様々な考察に有意義なためです。

 

分かっていることや

所蔵しているものを

文字に起こしてみると

案外情報量が多いことに

気づかされます。

 

歴史や伝承は

唯一無二のものゆえ

大切にしたいと思います。

 


※『郷社七崎神社誌』(小泉幸雄、大正15年[1926])を典拠にしたものについては青字で記します。(※一部追記アリ。)

※伝説・伝承含め当山に関連する記述の見られる主な史料の年代等を緑字で記します。前回のものに追記したものがあります。

※弘法大師空海や興教大師覚鑁の両祖大師に関すること、寛永11年[1634]以降の御遠忌(ごおんき)を紫字で記します。

※近世以前(ここでは寛政12年[1625]以前)については、当山の過去帳を主な典拠として橙色で記します。(※一部追記アリ)

 

  • 開創・圓鏡上人(弘仁8年[817]5月15日ご遷化/過去帳に「當寺開創」と記載/ご遷化の年次から最近では「弘仁初期(810)頃開創」と紹介してきたが、明確なことは分からないため「延暦弘仁年間の開創」と説明されてきた)
  • 月法律師(当山2世/天長8年[831]10月16日ご遷化/南祖法師の師とされる)
  • 七崎観音の“おこり”(承和元年[834]1月7日、八太郎で漁師として暮らしていた京都の四条中納言・藤原諸江卿が観音夢告により、当地に観音様を遷して祀り、それが七崎観音の始まりという由緒譚アリ/坂上田村麻呂将軍[758〜811]が祀ったという話や、諸江卿の娘である七崎姫を七崎観音として祀ったという話が由緒譚としてあるが、実際の経緯については不明[南祖坊を諸江卿の子息とする伝えもある]/大正15年[1926]の『郷社七崎神社誌』では「坂上田村麻呂将軍が当地に来たことは史実」としているが、田村将軍の研究を踏まえると「史実」というのは難しい)
  • 空海ご入定(承和2年[835]3月21日/延喜21年[921]に大師号下賜)
  • 鏡宥上人(貞観10年[868]11月24日ご遷化)
  • 日照上人(仁和3年[887]7月23日ご遷化)
  • 空海に大師号「弘法大師」下賜(延喜21年[921]10月21日/醍醐天皇より)
  • 宥海上人(寛治5年[1091]5月25日ご遷化)
  • 覚鑁入寂(康治2年[1143]12月12日/49年の生涯/元禄3年[1690]に大師号下賜)
  • 開基・行海上人(承安元年[1171]5月に開基/過去帳に「當寺中興」と記載/位牌では表に「開山」、裏に「開基」と記載/全国行脚の後に当地に立ち寄り、村の沼の大蛇を解脱に導き、村人に懇願されて当地に留まられたと伝えられる/旧・観音堂[寺号・徳楽寺、現在の七崎神社の地にあった]の地に、七つ星になぞらえて杉を植えたとされる/建仁年間[1201〜1203]に99歳でご遷化)
  • 行惠上人(寛元2年[1244]1月26日ご遷化/修円房/当中5世)
  • 『三国伝記』(応永14年[1407]成立/沙弥玄棟/説話集/十和田湖伝説が収録/全360話中120話が日本の説話で、そのうち1割もが『長谷寺験記』関係という特徴がある)
  • 宥漸上人(応仁元年[1467]8月26日ご遷化/当山22世/秀満房)
  • 惠海上人(元和3年[1617]5月19日ご遷化/五輪塔が旧・三戸永福寺[嶺松院(明治に廃寺)]の地に現存/本坊盛岡永福寺30世)
  • 仁王門造営(寛永2[1625])
  • 弘法大師800年御遠忌(寛永11年[1634])
  • 興教大師500年御遠忌(寛永19年[1642])
  • 『雑書』(確認されているのは寛永21年[1644]3月14日〜天保11年[1840]末【欠落箇所アリ】)
  • 『寺社記録』(寛永21年[1644]〜天保8年[1837]【欠落箇所アリ】)
  • 本七崎観音(明暦元年[1655])
  • 観音堂並十二末社再興(観音堂3間四方/棟札は明暦2年[1656]に宥鏡上人が作成)
  • 吊灯籠(寛文10年[1670])
  • 弘法大師850年御遠忌(貞享元年[1684])
  • 興教大師550年御遠忌(元禄5年[1692])
  • 現七崎観音(貞享4年[1687]/4間四方の観音堂が再建[棟札が神社にアリ]
  • 覚鑁に大師号「興教大師」下賜(元禄3年[1690]12月26日/東山天皇より)
  • 観音堂並小宮葺替(元禄6年[1693])
  • 『系縁集』(元禄11年[1698]、編者・藤根吉品[重信・行信・信恩3代に右筆として仕える])
  • 『来歴集』(元禄12年[1699]、編者・藤根吉品[重信・行信・信恩3代に右筆として仕える])
  • 殺生禁断札設置(正徳2年[1712]/南部利幹公)
  • 仁王門改造(享保2年[1717])
  • 仁王像(享保3年[1718])
  • 前机(享保9年[1724])
  • 稲荷大明神造営(享保12[1727])
  • 快傳上人逆修建立の墓石(享保14年[1729]、施主信敬とある)
  • 『津軽一統志』(享保16年[1731])
  • 寺屋敷(庫裡)(享保18[1733]/この時に観音山[現在の七崎神社境内]に2000本余の杉を植樹と記載アリ)
  • 弘法大師900年御遠忌(享保19年[1734])
  • 興教大師600年御遠忌(寛保2年[1742])
  • 学秀仏・千手観音坐像(享保年間奉納と推定/学秀仏と思われる不動明王像と大黒天像アリ)
  • 龜峯扁額(享保頃の可能性/落款が「龜峯」「主忠信」「不爾」)
  • 南祖法師尊像(延享元年〜2年[1744〜45]と推定)
  • 賽銭箱(寛保3年[1743]12月)
  • 『奥州南部糠部巡礼次第』(寛保3年[1743]6月3日〜18日の15泊16日で則誉守西上人ら14名が巡礼)
  • 『祐清私記』(著者・伊藤祐清は寛保元年[1741]に諸士系図武器右筆等諸用掛りについており、この際に収集した諸資料や記録をもとに編集したと見られている)
  • 『寛延盛岡城下図』(寛延年間[1748〜51]/本坊・盛岡永福寺ほか関係寺院が記載されている)
  • 御輿再修覆(宝暦6年[1756]/神社誌にも記載されるが棟札は当山所蔵
  • 鳥居新築(宝暦10年[1760]春)
  • 『御領分社堂』(宝暦10年[1760]頃)
  • 愛染堂再興(宝暦13年[1763])
  • 不動堂再興(宝暦13年[1763])
  • 天照皇大神宮再興(宝暦13年[1763])
  • 大黒天堂造営(宝暦13年[1763])
  • 仁王門修造(宝暦13年[1763]3月)
  • 御輿新造(明和2年[1765]3月)
  • 『平泉雑記』(安永2年[1773]/南祖坊が植えた姥杉の伝説)
  • 夫婦地蔵(安永3年[1774])
  • 弘法大師950年御遠忌(天明4年[1784])
  • 『いわてのやま』(天明8年[1788]/菅江真澄の紀行文/十和田湖伝説関連)
  • 鈸(寛政2年[1790]/宥慎上人により奉納)
  • 興教大師650年御遠忌(寛政4年[1792])
  • 荒神堂再建(寛政5年[1793]8月6日)
  • 『邦内郷村志』(明和・寛政年間/大巻秀詮)
  • 地蔵菩薩(享和2年[1802]/現在、位牌堂本尊)
  • 『十曲湖』(文化7年[1807]/菅江真澄の紀行文/十和田湖伝説関連)
  • 『篤焉家訓』(文化・天保年間[1804〜44]/市原篤焉)
  • 鐘楼堂再建(文化5年[1808]/神社誌にも記載されるが棟札は当山所蔵
  • 愛染明王(文化7年[1810]/宥瑗上人により奉納)
  • 本堂再建(文化8年[1811])
  • 千手観音堂再建(本堂再建と同時期)
  • 香炉(本堂再建と同時期/宥瑗上人により奉納)
  • 圓通閣扁額(文化14年[1817]/三井親孝の書)
  • 『竹田加良久里』(文政6年[1823]/持仏堂主人)
  • 『当時十和田参詣道中八戸よりの大がひ』(文政年間のものと見られている/十和田湖参詣道について)
  • 『十和田記 全』(文政12年[1829]成立と見られている/「御縁起見る心得のケ条覺」に彼岸中日に青龍大権現[南祖坊]来臨のいわれに触れられている)
  • 秋葉権現堂再建(天保4年[1833])
  • 『盛岡砂子』(天保4年[1833]/星川正甫)
  • 弘法大師1000年御遠忌(天保5年[1834])
  • 吊灯篭(天保8[1837]/宥威上人により奉納)
  • 不動尊祈祷札(吊灯籠と同時期と推定/権僧正とあるため瑜伽者は晩年の宥威上人)
  • 鰐口(天保12[1841]/河内屋により奉納)
  • 興教大師700年御遠忌(天保13年[1842])
  • 八体仏(弘化年間[1845〜48])
  • 稲荷大明神(嘉永2年[1849]/普賢院宥青[当山先師]、善明院栄隆[修験“善行院”14代])
  • 『鹿角日誌』(嘉永2年[1849]7月16日〜8月3日の日誌/松浦武四郎)
  • 『八戸浦之図』(嘉永年間[1848〜1855])
  • 一王子再建(安政4年[1857]8月)
  • 『十和田山神教記』(万延元年[1860])
  • 観音堂再修(安政10年[1863])
  • 斗南藩縁故者墓石16基(主に明治4〜5年[1871〜72])
  • 旧神臣略系(明治7年[1874])
  • 『新撰陸奥国誌』(明治9年[1876])
  • 『奥々風土記』(江刺恒久が南部利剛の命により編纂)
  • 弘法大師1050年御遠忌(明治17年[1884])
  • 観音堂内御堂造立(明治19年[1886])
  • 興教大師750年御遠忌(明治25年[1892])
  • 興隆講規則(明治34年[1901]/観音講を組織化して再興)
  • 十三仏掛軸木箱の蓋(明治39年[1906])
  • 本堂屋根葺替(大正3年[1914]12月)
  • 七崎山龍神堂木札(大正4年[1915]5月)
  • 『郷社七崎神社誌』(大正6年[1917]/小泉幸雄)
  • 『糠部五郡小史 附 三戸名所旧蹟考 埋木の花 鄙の土』(大正11年[1922]/当地については小泉幸雄氏が記述している)
  • 地蔵菩薩(明治末〜大正期/一時当山の代務者をつとめた赤穂覚信師が作仏)
  • 北沼観音(昭和2年[1927]蓮沼にて発見、昭和4年[1929]旧8月17日建立)
  • 観音堂並仁王門改築(昭和6年[1931]/『七崎観世音道場普請報告書』に記載)
  • 子安地蔵堂(昭和6年[1931])
  • 『十和田湖鳥瞰図』(昭和8年[1933]/吉田初三郎/七崎観音と永福寺[普賢院]が描かれている)
  • 弘法大師1100年御遠忌(昭和9年[1934])
  • 本堂庫裡修繕(昭和9年[1934]/長峻和尚尊霊歎徳文に記載)
  • 大日坊大黒天(昭和10年[1935]頃と推定/61世長峻上人は昭和10年に大日坊88世住職にも就任)
  • 割切五條袈裟(昭和11年[1936]11月/長峻子息・晃雄師[後に出征し戦死])
  • 興教大師800年御遠忌(昭和17年[1942])
  • 戦勝祈願札3枚(戦争期)
  • 本堂屋根葺替(昭和22年[1947]12月/戦後の統制経済の様子を伝える記述がある)
  • 「北ノシノキ」と書かれた木板(昭和22年[1947]12月12日/3名の名が列記)
  • 『永福寺物語』(昭和22年[1947]/山岸郷友会編集部/江戸期まで本坊であった盛岡永福寺は明治になり廃寺。その後、昭和17年[1942]に再興が許可。本誌は再興永福寺の落慶記念。)
  • 本堂修築(昭和26年[1951]/写真アリ)
  • 戦没者慰霊碑(昭和37年[1962]11月)
  • 本堂改築並位牌堂新築(昭和51年[1975])
  • 観音堂宮殿塗装修復(昭和56年[1981])
  • 弘法大師1150年御遠忌(昭和59年[1984])
  • 子安地蔵厨子(昭和59年[1984])
  • 仁王門新造並山号札・観音札所札(昭和59年[1984])
  • 観音堂内陣格天井並中台八葉院法曼荼羅及新装照明(昭和60年[1985])
  • 子安地蔵内格天井(昭和60年[1985])
  • 観音堂内格子前扉(昭和61年[1986])
  • 鐘楼堂建立(平成2年[1990])
  • 興教大師850年御遠忌(平成4年[1992])
  • 本尊厨子(平成5年[1993])
  • 客殿並位牌堂新築(平成12年[2000])
  • 鐘楼堂修繕(平成25年[2013])
  • 長谷寺式十一面観音三尊造立(令和二年[2020]/仏師・小堀寛治氏)

棟札に耳を傾ける④

当山では本堂建替事業の

第5年目を迎え

本年より新本堂の建設が始まり

来年秋頃に完成する予定です。

 

この機会に

普賢院の寺史を

作成したいと考えています。

 

新本堂が完成すると

棟札や古い文書は

再び丁重にしまうことになるので

このタイミングでしか

行うことが出来ないので

当ブログの投稿も活かしつつ

まとめていこうと思います。

 

次第をはじめ文書については

除きますが

当山所蔵の棟札ほか

年代が判明している(一部推定)

江戸期以降の

主な仏像や灯籠などを

あげると以下のようになります。

※『郷社七崎神社誌』(小泉幸雄、大正15年[1926])に掲載される神社所蔵の棟札については青字で記します。

 

  • 仁王門造営(寛永2[1625])
  • 本七崎観音(明暦元年[1655])
  • 観音堂並十二末社再興(観音堂3間四方/棟札は明暦2年[1656]に宥鏡上人が作成)
  • 吊灯籠(寛文10年[1670])
  • 現七崎観音(貞享4年[1687]/4間四方の観音堂が再建[棟札が神社にアリ]
  • 観音堂並小宮葺替(元禄6年[1693])
  • 仁王門改造(享保2年[1717])
  • 仁王像(享保3年[1718])
  • 前机(享保9年[1724])
  • 稲荷大明神造営(享保12[1727])
  • 快傳上人逆修建立の墓石(享保14年[1729]、施主信敬とある)
  • 寺屋敷(庫裡)(享保18[1733]/この時に観音山[現在の七崎神社境内]に2000本余の杉を植樹と記載アリ)
  • 学秀仏・千手観音坐像(享保年間奉納と推定/学秀仏と思われる不動明王像と大黒天像アリ)
  • 龜峯扁額(享保頃の可能性/落款が「龜峯」「主忠信」「不爾」)
  • 南祖法師尊像(延享元年〜2年[1744〜45]と推定)
  • 賽銭箱(寛保3年[1743]12月)
  • 御輿再修覆(宝暦6年[1756]/神社誌にも記載されるが棟札は当山所蔵
  • 鳥居新築(宝暦10年[1760]春)
  • 愛染堂再興(宝暦13年[1763])
  • 不動堂再興(宝暦13年[1763])
  • 天照皇大神宮再興(宝暦13年[1763])
  • 大黒天堂造営(宝暦13年[1763])
  • 仁王門修造(宝暦13年[1763]3月)
  • 御輿新造(明和2年[1765]3月)
  • 夫婦地蔵(安永3年[1774])
  • 鈸(寛政2年[1790]/宥慎上人により奉納)
  • 荒神堂再建(寛政5年[1793]8月6日)
  • 地蔵菩薩(享和2年[1802]/現在、位牌堂本尊)
  • 鐘楼堂再建(文化5年[1808]/神社誌にも記載されるが棟札は当山所蔵
  • 愛染明王(文化7年[1810]/宥瑗上人により奉納)
  • 本堂再建(文化8年[1811])
  • 千手観音堂再建(本堂再建と同時期)
  • 香炉(本堂再建と同時期/宥瑗上人により奉納)
  • 圓通閣扁額(文化14年[1817]/三井親孝の書)
  • 秋葉権現堂再建(天保4年[1833])
  • 吊灯篭(天保8[1837]/宥威上人により奉納)
  • 不動尊祈祷札(吊灯籠と同時期と推定/権僧正とあるため瑜伽者は晩年の宥威上人)
  • 鰐口(天保12[1841]/河内屋により奉納)
  • 八体仏(弘化年間[1845〜48])
  • 稲荷大明神(嘉永2年[1849]/普賢院宥青[当山先師]、善明院栄隆[修験“善行院”14代])
  • 一王子再建(安政4年[1857]8月)
  • 観音堂再修(安政10年[1863])
  • 斗南藩縁故者墓石16基(主に明治4〜5年[1871〜72])
  • 旧神臣略系(明治7年[1874])
  • 観音堂内御堂造立(明治19年[1886])
  • 興隆講規則(明治34年[1901]/観音講を組織化して再興)
  • 十三仏掛軸木箱の蓋(明治39年[1906])
  • 本堂屋根葺替(大正3年[1914]12月)
  • 七崎山龍神堂木札(大正4年[1915]5月)
  • 地蔵菩薩(明治末〜大正期/一時当山の代務者をつとめた赤穂覚信師が作仏)
  • 北沼観音(昭和2年[1927]蓮沼にて発見、昭和4年[1929]旧8月17日建立)
  • 観音堂並仁王門改築(昭和6年[1931]/『七崎観世音道場普請報告書』に記載)
  • 子安地蔵堂(昭和6年[1931])
  • 本堂庫裡修繕(昭和9年[1934]/長峻和尚尊霊歎徳文に記載)
  • 大日坊大黒天(昭和10年[1935]頃と推定/61世長峻上人は昭和10年に大日坊88世住職にも就任)
  • 戦勝祈願札3枚(戦争期)
  • 本堂屋根葺替(昭和22年[1947]12月/戦後の統制経済の様子を伝える記述がある)
  • 「北ノシノキ」と書かれた木板(昭和22年[1947]12月12日/3名の名が列記)
  • 本堂修築(昭和26年[1951]/写真アリ)
  • 戦没者慰霊碑(昭和37年[1962]11月)
  • 本堂改築並位牌堂新築(昭和51年[1975])
  • 観音堂宮殿塗装修復(昭和56年[1981])
  • 子安地蔵厨子(昭和59年[1984])
  • 仁王門新造並山号札・観音札所札(昭和59年[1984])
  • 観音堂内陣格天井並中台八葉院法曼荼羅及新装照明(昭和60年[1985])
  • 子安地蔵内格天井(昭和60年[1985])
  • 観音堂内格子前扉(昭和61年[1986])
  • 鐘楼堂建立(平成2年[1990])
  • 本尊厨子(平成5年[1993])
  • 客殿並位牌堂新築(平成12年[2000])
  • 鐘楼堂修繕(平成25年[2013])
  • 長谷寺式十一面観音三尊造立(令和二年[2020]/仏師・小堀寛治氏)

 

先に少しだけ触れている

大正15年(1926)の

『郷社七崎神社誌』は

当時の社司・小泉幸雄氏が

編纂したもので

結びとして書かれた自序に

次のように記されてあります。

 

神社誌の編纂に志すこと多年。即ち明治37年より大正6年3月に至る14年を以て、漸く完成を見るに至れり。此間資料蒐集に務め、特に盛岡藩南部伯爵家及遠野南部男爵家の古文書の拝見を許され、之れに力を得て多大の成果を収めたり。御両家に対し甚深なる敬意と感謝の誠意を表するものなり。

本誌編纂に当り参考資料は、盛藩旧事記、南部男爵家の御邦内郷村誌、東北太平記、七崎観世音伝話記、其他棟札、不肖幸雄保存せる南部五世伝、南部地雷復、霊験縁起、小泉家系図、言ひ伝並に明治維新に至るまでの事績等の参酌に依るものなるを以て、地方の史実に関するものあるべきも、多少とも本社に関係あるものは或は重複の嫌あるも之を記載せり。

大正6年以降現在までの事績にして、将来記録すべきは之れを記載し且つ新事実の発見する毎に訂正したり。

本年は皇輝ある紀元2600年を迎え奉祝記念として、本誌を印刷に附し広く有志に分ち永久に伝え、以て御神徳発揚の資に供せんとす。

 

当山近くの七崎神社は

明治になるまでは

当山が管理していた

旧観音堂(寺号・徳楽寺)でした。

 

小泉家は

明治まで修験家でもあり

旧観音堂に深く関わりがありました。

 

参考資料にある

七崎観世音伝話記は

幸雄氏の曽祖父にあたる

大学院泰道などが

「古老の伝説」を文政年中に

編纂したものと説明されおり

参詣人の案内役をすることもあった

修験の方々が

一種の手引のような形で

七崎観音にまつわるお話を

まとめられていたことがうかがえます。

 

引用した自序をみると分かるように

神社誌は参考文献をもとにしつつ

神社所蔵の棟札や

当地での言い伝えを踏まえて編集された

力作といえます。

 

当時の状況を考えると

大変なご労力があったと思うのです。

 

この神社誌で

挙げられている棟札と

当山が所蔵する棟札や

一部仏像や仏具などについて

寛永2年(1625)以降のものを

先に列挙してみました。

 

青字で示したのが神社誌で

触れられているものですが

全体からすると

ごく一部のものですし

お寺の歴史を紐解くうえで

ある意味最も尊い古文書たる

過去帳にも触れられていないので

明治以前のことを述べるには

やはり限界があるように感じます。

 

当地の大先輩であり

旧観音堂に仕えていただいた

修験の流れを組むお家の

小泉幸雄氏の労作にて

語られるお寺の歴史を

さらに厚みのあるものに

したいと考えております。

 

また本山の長谷寺や仁和寺や

当時の本坊・盛岡永福寺や

その他多くの関係寺院との

関わりであったり

宗派における節目の行事などを

踏まえると

意義が浮かび上がるものもあるので

そういったことも押さえながら

後世に託すべく『寺史』を

作成したいと思います。

 

ここでようやく

棟札の本題に入らせていただきます。

 

ここに至るまでで

かなりの分量をさいたので

今回の棟札の紹介は

少しだけにします。

 

本堂建替事業まっただ中なので

旧本堂の棟札について見ています。

 

次の画像資料の通り

この棟札は結構大きく

形は剣形(けんがた)で

表裏に文言が見られます。

 

幅についてですが

底が21cmで

上に向かって多少

幅が広がっていまして

一番広い所が22cmです。

 

文言については次回以降

紐解いてまいります。

学秀仏・千手観音坐像

普賢院は

糠部三十三観音霊場

第十五番札所でもあります。

 

札所の観音様である

七崎観音(ならさきかんのん)は

旧暦1月17日にのみ

ご開帳されます。

 

本年は2月28日が

ご開帳にあたり

ご宝前にて法要が行われます。

 

本年は仮本堂で行う

はじめてのご開帳でして

次の写真のように

主な仏像を仮観音堂から

お遷しいたします。

 

 

現在、七崎観音として祀られている

聖観音像は貞享4年(1687)に

当時の藩主・南部重信公により

奉納されたもので

これは御前立(おまえだち)として

納められております。

 

七崎観音として祀られていたのは

明暦元年(1655)に

南部重直公ご奉納の

「金色の聖観音」(本七崎観音)ですが

江戸から明治に変わる際の

神仏分離への対応に追われた

“ゴタゴタ”の中で

もともとの秘仏(本七崎観音)と

御前立が入れ替わったと思われます。

 

本七崎観音については

史料的根拠の確認が出来たため

先日その由緒が判明しました。

 

本七崎観音は

現在修繕中でして

お戻りは来年の予定です。

 

本年のご開帳の際

現・七崎観音のほかに

仮本堂にお祀りする観音像のひとつは

千手観音坐像です。

 

この千手観音坐像は

田子町出身の高僧である

奇峯学秀(きほうがくしゅう)が

作仏されたもので

諸事踏まえるに

当山の中興期である

享保年間(1716〜1736)に請来され

千手観音堂に祀られたと思われます。

 

「青森の円空」といわれる

学秀和尚の仏像は

学秀仏(がくしゅうぶつ)と

いわれています。

 

本堂建替事業が開始される

少し前より着手していた

仏像・仏具・文書の調査を契機として

千手観音坐像が学秀仏であると

平成31年2月に確認されました。

 

凶作や飢饉が立て続いた

難しい時代において

切実な祈りが込められ

納められたものと思われます。

 

独特の雰囲気の

千手観音坐像がまとう

穏やかな雰囲気は

世の穏やかなることへの

願いが重ねられていると感じます。

史跡・九戸城跡を訪ねる

史跡・九戸城跡(くのへじょうあと)。

 

豊臣秀吉の天下統一の

最後の戦いとなった

九戸政実(まさざね)の乱

舞台となった所です。

 

時は天正19年(1591)。

 

豊臣秀次を総大将とし

名だたる武将で編成された

豊臣方の軍勢は6万5千ともいわれます。

 

九戸方の軍勢は5000で

対峙したとされます。

 

九戸城のすぐ近くには

糠部観音28番札所の

岩谷観音(いわやかんのん)が祀られます。

 

▼岩谷観音(以前のブログ記事)

https://fugenin643.com/blog/かんのんまいり%E3%80%80岩谷観音/

 

現在の岩谷観音堂のすぐそばには

千補陀堂(せんほだどう)建立碑

という碑があります。

 

千補陀堂の「補陀」は

観音菩薩の浄土を意味する

補陀落(ふだらく)という語から

来ていると思われます。

 

この千補陀というのは

千体の観音像を指しており

田子町出身の高僧である

奇峯学秀(きほうがくしゅう)が

九戸政実の乱の戦没者慰霊のため

ご奉納された千体の観音像を意味します。

 

千補陀堂は天保6年(1835)の

白髭水と呼ばれる大洪水で

仏像もろとも流されてしまいました。

 

奇峯学秀は生涯において

三千数百体の仏像を作仏しますが

現存確認されているのは80体程で

当山にも千手観音坐像が

お祀りされております。

 

また岩谷観音堂は

お堂の修復にあたって

当山先師である清珊(せいさん)が

祈祷したことが記される棟札があるそうです。

 

延宝8年(1680)に

盛岡にあった当時の本坊が

大火災により焼尽しますが

これは九戸政実の怨霊によるものとの

伝えもございます。

 

南部藩祈願所という

寺格であったということもあり

時を経て九戸政実のエピソードが

語られたものと思いますが

それだけ後世においても

インパクトが大きかったといえます。

 

九戸城に赴いた当日は

九戸城まつりが開催されており

九戸政実にちなんだイベントなど

様々に行われていました。

 

郷土の歴史を伝えるだけでなく

感じて頂こうというお心が

伝わってくる素敵な催しでした。

 

千手観音坐像の厨子を仕上げて頂きました

田子町出身の高僧である

奇峯学秀(きほうがくしゅう)御作の

千手観音坐像。

 

本年2月に

学秀仏(奇峯学秀作仏の仏像の意)であると

確認されてから

本格的に調べた所

この仏像は享保期の当山中興の頃に

当山に納められたと見ております。

 

学秀仏の千手観音は

現時点で他に作例が無いようです。

 

現在当山では

本堂建替事業を推進しており

その事業の中で

仏像仏具の修繕等にも

取り組むことにしております。

 

その一環として

学秀御作の千手観音坐像を安置する

厨子(ずし)の製作を

五戸木工の中野久男さんにお願いした所

とても立派な厨子に仕上げて頂きました。

 

感嘆させられるような

素晴らしい厨子を製作して頂き

心より感謝しております。

 

この千手観音坐像は

“美術的”にも歴史的にも

大変貴重な仏像といえます。

 

後世においても

祈り継ぎ

護り継い

語り継いで頂ければと思います。

 

青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)⑨

現在の青森県田子町の

釜渕家出身の高僧

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

は1657年頃に生まれ

元文4年(1739)82歳頃に

入寂したとされます。

 

千体仏作仏を三度成満し

それに加え数百体もの仏像を

彫られた“傑僧”です。

 

三度に渡る千体仏作仏は

以下のように整理されます。

 


 

第1期 地蔵菩薩

(1600年代末〜1700年代初頭)

(学秀 50歳頃)

飢饉物故者供養のため

 

第2期 観音菩薩

(正徳2年(1712)頃〜)

(学秀 60歳頃〜)

九戸戦争戦没者のため

 

第3期 観音菩薩

(享保7年(1722)〜元文4年(1739))

(学秀 70歳頃〜入寂)

生まれである釜渕家一族の供養のため

 


 

当山にも学秀御作の仏像が

お祀りされます。

 

本年2月に

確認された千手観音坐像と

学秀御作と見られる

不動明王像

大黒天像が祀られております。

 

そういったご縁で当ブログで

学秀に関して

ちょくちょく触れております。

 

今回は千手観音坐像について

重ねて記させて頂きます。

 

少し前に

千手観音坐像のお身拭いをしました。

https://fugenin643.com/blog/千手観音のお身拭い/

 

筆を用いて

細部に至るまで

積もり積もったホコリを

払い落としました。

 

この千手観音坐像は

両側面部分に穴が空いており

拙僧(副住職)が数えた所

穴は36あるように見えます。

 

これまでは

側面の腕は喪失したものと

考えておりましたが

そもそも腕は

無かったのではないかと

最近は考えております。

 

先のお身拭いは

詳細に仏像を観察する機会にも

なったのですが

仏像側面部分の穴は

腕を差し込むためのものとは

考えにくいような

穴の作り方になっています。

 

諸穴が腕を差し込むための

ほぞ穴だとすると

あまりにも仕掛けが“甘い”のです。

 

この作りでは

ほぞ穴としての役割を

果たせないように感じます。

 

機能的な視点に加え

学秀仏(学秀が彫った仏像の意)に

見られる特徴的な観点からも

考えてみたいと思います。

 

“装飾的意匠”が極力削がれた所に

学秀仏の大きな特徴があります。

 

そういった特徴を踏まえると

小さく細かな腕を多数こしらえて

一つ一つを差し込むような

作仏をしていたとは考えにくいのです。

 

ということで

拙僧(副住職)の見立てとして

正面の4本の腕以外には

当初から腕は無く

側面部の穴をもって

腕は表現されているのだと思います。

 

千手観音において

「千手」(複数の手)は

千手観音を千手観音たらしめる

重要な意味を持つものです。

 

重要な意味を帯びる

「千手」の存在を

しっかりと仏像に刻み

“無いもの”を表現したとすると

学秀仏の奥深さを

改めて感じさせられませんか?

 

千手観音のお身拭い

「青森の円空」とも呼ばれる

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

御作の千手観音像の

お身拭いを行い

安置方法を改めました。

 

何年分か不明ですが

相当量の汚れをまとっていたので

筆を用いて塵を落としました。

 

大量の塵が払われ

千手観音像の表情も

心なしか一層穏やかに感じられます。

 

こちらの仏像は本年初頭に

学秀仏(学秀が彫った仏像の意)

であることが判明したばかりです。

 

さらに当山では

本堂の建替を予定しているということもあり

この千手観音像を今後どのように

お祀りするかを様々に

検討しております。

 

学秀御作の千手観音の

安置場所や安置方法は

大方定まったので

細かな部分については

本堂建替事業の推進と共に

進めていければと思います。

 

現在は学秀千手観音を観音堂の

八体仏(十二支守護尊)が

お祀りされている

脇堂上段中央に

お祀りしております。

 

千手観音は蓮華王とも称される

とても尊い観音様なので

お参りの際は

是非祈りをお捧げ下さいませ。

青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)⑧

当山本堂内の観音堂には

「青森の円空」とも称される

田子町出身の高僧である

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

御作の仏像がお祀りされております。

 

本年2月には

千手観音坐像が確認されました。

 

その他にも

学秀御作と思われる

不動明王像と大黒天像が

お祀りされております。

 

そういったご縁があり

当ブログにおいて

学秀をテーマとした投稿を

重ねております。

 

今回は学秀の書と思われる

扁額について探ってみようと思います。

IMG_9097

 

当山観音堂縁側には

賽銭箱が置かれ

鰐口や鳴り物が設えられております。

 

その上方に

「観世音(かんぜおん)」と

記された扁額(へんがく)が

掲げられます。

IMG_9158 2

 

この扁額は

30年以上前に

塗り直されております。

 

文化財を保護するような

資格をお持ちの方に

修復して頂いたものではないので

扁額の刻字などの細部が

大雑把に塗料が付されており

やや読みにくくなっております。

 

この扁額は誰によって

いつ頃製作されたのか等

詳細は分かりませんでした。

 

当山では

文化8年(1811)以来の

本堂建替という歴史的大事業を

現在推進しております。

 

そのような歴史的な節目にあたり

当山の歴史や伝承等の整理や研究を

改めて進めているのですが

その一環として

扁額についても

調べております。

 

そんな中

観音堂縁側の扁額の

落款(らっかん)を解読したら

とても興味深いことが

浮かび上がってまいりました。

 

この扁額には3つの落款印が

されておりますが

そのうちの1つが以下の写真です。

IMG_9632

 

この落款を

友人や知人の協力を得ながら

解読してみた所

龜峯(きほう)」

という二文字であることが判明しました。

 

残り二箇所の落款印はそれぞれ

「主忠信」「不爾(二)」

であることも分かりました。

 

さらに

「龜峯」と「不爾」の2つの落款の上にも

刻字がなされており

ここにも「亀峯」の字が見られることが

分かりました。

IMG_9162

 

拙僧(副住職)は

「龜峯(きほう)」というのは

奇峯学秀のことではないかと

考えております。

 

「奇」ではなく「龜」という文字が

用いられた理由についても

思い当たる所があります。

 

以下の写真は

当山に掲げられる

「圓通閣(えんつうかく)」と

記された扁額です。

IMG_9107

 

観音菩薩には別称が色々あり

圓通大士(えんつうだいし)とも

呼ばれます。

 

圓通閣とは観音堂を意味します。

 

この扁額の書は

鶴洲(かくしゅう)という方が

75歳の時にしたためたものです。

 

現在は色あせておりますが

とても立派な仕立ての扁額です。

 

字の彫りの部分には

金箔が残っているのが確認できます。

 

この扁額は

享保年間に奉納されたと思われます。

 

先程の扁額において

龜の字が用いられたのは

鶴洲の「鶴」の字を受けての

機知に富んだ決定であり

験を担いでのものなのではないかと

拙僧(副住職)は

考えております。

 

「鶴」と「龜」で

吉祥の意味を色濃くしたものとは

考えられないでしょうか。

 

この享保年間というのは

当山にとっては

中興された時期でもあります。

 

また度重なる凶作や飢饉により

地域全体が大変な状況であった

時代でもあります。

 

学秀は生涯において

三千数百体もの仏像を作仏し

祈りを捧げられた方です。

 

「龜峯」には学秀の祈りが

重ねられていると考えることは

それ程無理のない

仮説であるように思います。

青森の円空 奇峯学秀(きほうがくしゅう)⑦

現在の青森県田子町の

釜渕家出身の高僧

奇峯学秀(きほうがくしゅう、以下「学秀」)

は1657年頃に生まれ

元文4年(1739)82歳頃に

入寂したとされます。

 

学秀は千体仏作仏を三度成満し

その他にも数百体の仏像を

彫られたとされます。

 

三度に渡る千体仏作仏は

以下のようになります。

 


 

第1期 地蔵菩薩

(1600年代末〜1700年代初頭)

(学秀 50歳頃)

飢饉物故者供養のため

 

第2期 観音菩薩

(正徳2年(1712)頃〜)

(学秀 60歳頃〜)

九戸戦争戦没者のため

 

第3期 観音菩薩

(享保7年(1722)〜元文4年(1739))

(学秀 70歳頃〜入寂)

生まれである釜渕家一族の供養のため

 


 

本年2月に学秀御作の

千手観音が確認されたご縁で

当山の歴史や

仏道の視点を交えつつ

高僧学秀について

紐解かせて頂いております。

 

学秀御作の千手観音は

当山の千手観音堂に

祀られていたと考えられます。

 

また享保年間の

当山中興開山の時期に

請来された可能性があります。

 

さらに

確認され報告されている所の

学秀仏のラインナップから

曼荼羅の話に飛んだり

長谷寺の話に飛んだり

観音霊場の話に飛んだりと

振り返ってみると

様々に触れてまいりましたが

今回は当山に祀られる

学秀御作の千手観音像を

じっくり観察して

述べられることを

述べさせて頂きます。

 


【正面】

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正面には4手あり

一組は胸の前で合掌をし

もう一組はおへその辺りで

定印(じょういん)という

印を組んでおり

宝鉢(ほうはつ)をのせております。

 

合掌と定印が

正面にて組まれているお姿は

千手観音の一般的なお姿といえます。

 


【頭頂】

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多面(顔が複数あること)であることが

よく分かると思います。

 

本面(メインの顔)の上にあたる

頭部は三段になっており

確認出来る範囲で

一段目が11面

二段目が7面

三段目が3面です。

 

欠けた面もあるかもしれませんし

数え損ねている面も

あるかもしれませんが

本面をあわせて二十二面

となっております。

 

三段目は3面のうち

中央のお顔が大きくなっており

これは化仏(けぶつ)である

阿弥陀如来だと思われます。

 


【側面】

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左右側面には2列に複数の穴があり

これは千手観音の手が差し込まれていた

ほぞ穴だと思われます。

 

こういった細工は

他の学秀仏には見られないので

少し細かく検討しつつ

眺めてみたいと思います。

 

よく見ると

一列の穴の数はそれぞれ9つ

あるように見えます。

 

仮に1列9つの穴があるとして

左右2列ずつなので

合計36個の穴があり

両側面には合わせて

36手があったと考えられます。

 

それに正面の4手を加えると

合計40手の仏像ということになります。

 

とすると

これは手の数に

意味が通わされて作られたという

可能性が出てまいります。

 

補足ですが

千手観音の「千」とは

「はかりしれない慈悲」を

意味します。

 

千手観音の「化身」として

四十観音(しじゅうかんのん)

という“観音群”があり

千手観音の40手に応じた

お姿で描かれます。

 

四十観音は

『千光眼秘密法経』という

経典に説かれます。

 

専門的な話ですが

「五部五法(ごぶごほう)

それぞれに各8手があり

40の真言法になる」と

されております。

 

細かな説明は省きますが

五部五法というのは

①仏部(ぶつぶ)

息災法(そくさいほう)

②金剛部(こんごうぶ)

調伏法(ちょうぶくほう)

③宝部(ほうぶ)

増益法(そうやくほう)

④蓮華部(れんげぶ)

敬愛法(けいあいほう)

⑤羯磨部(かつまぶ)

鉤召法(こうしょうほう)

の「部」と「法」を指します。

 

それぞれに8手があるということは

「4組の手」があることになります。

 

言葉を替えると

五部五法それぞれに

4尊格(仏の意)がそなわっている

ことを意味しております。

 

かなり専門的な話になるので

これ以上の言及はさけますが

これは金剛界曼荼羅

そのものを意味しております。

 

ほぞ穴を多数こしらえて

多手を差し込む形の

学秀の作仏は

現時点では他に見られません。

 

「40手の意味」が

踏まえられての

お姿であるとすれば

当山を中興された

快傅上人がその旨お伝えし

作仏して頂いたのではないか

という推測が出来るように思います。

 


【背面】

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背面には

衣紋線が見られます。

 

これは背面は

学秀仏全般に見られる特徴と

同様なのだそうです。

 

「学秀美」を感じます。

 


 

今回は当山に祀られる

学秀仏・千手観音坐像を

観察いたしました。

 

一般的な千手観音の特徴も

確認出来ましたし

真言宗の事相的側面に

通じている可能性も

確認することが出来ました。

 

ここでいう事相的側面とは

換言すると

「真言宗において専門的なこと」

ということです。

 

この点から

当山を中興開山された快傅上人が

千手観音作仏に携わっていたと

考えることが出来るように思います。

 

【快傅上人の墓石】

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